「エキサイト公式プラチナブロガー」スタート!
2010年 09月 22日

フルマ -トルコ在住ウイグル人からの返信-

S.T.様

お久しぶりです。ご連絡をありがとうございます。

Nさんに預けたのはアラビア語で「フルマ Hurma」と言い、トルコ語でもフルマ、ウイグル語ではホルマといいます。
アラーが人間のために地球上で創って頂いた食べ物の中で、栄養成分が揃っている完璧な栄養です。74種類の栄養があり、水とそれがあれば、健康で一生生きていける。その効果も、お体の栄養の調整を自動的に行い、様々な病気に効くようです。
フルマは中国語で言うと「蜜なつめ」ですが、サウジアラビアの各地で種類が取れる。あなたに送ったのはメディナ産で、水分が少なく、もっとも甘い種類です。サウジのフルマの中で上流。フルマは副作用がありませんので、安心して召し上がってください。赤ちゃんから150歳までOK。

近かったら、もっと送りたかったけど、預けようとしても税関が怖いとか、麻薬が怖いとか言って、持っていってもらえないことがよくあるのですが、Nさんだけにちょっと預けることができました。
これからもチャンスを狙って送ります。

食べ方ですが、そのまま食べるのが一般的ですが、ほかの料理の中に入れて食べても良い。熱い料理などに入れるとお粥みたいに解けてしまい、味も解けるので、ほかの食べ物と口の中で混ぜて食べたほうが良いと思います。そのままでももちろん良いし。

メッカにはザムザム(Zamzam,もしくは Zemzem)というメッカの特別な、ばい菌のない水があり、世界でそこしか取れない。その水も色々な病気に効きます。ほかのところで取れない水、アラーが使者に与えた水で、巡礼に行く人々はお土産にザムザムとフルマを持って世界各地に帰る。

ラマダンも一昨日で終わり、昨日からお祭りに入っております。東トルキスタン人の皆さんの家に訪ねあい、昨日一日中歩き回りました。今日はあなたが知っていらっしゃるゼイティンブルヌに行き、そちらに住んでいる皆さんの訪問をしてまいります。団体で。

お体に気をつけてください。
ご健康とご多幸を心よりお祈りしております。

では、また。

E   2010年9月10日


[補足]
(1) フルマ(hurma):トルコではナツメヤシの木や実をフルマというが、柿の木や実もフルマという。
 ○ hurma
 ○ -フルマ hurma-
 ○ “hurma”の画像検索結果

(2) 蜜なつめ:ナツメヤシ(ヤシ科)とナツメ(クロウメモドキ科)は別種の植物。日本や中国で入手できる「蜜なつめ」はナツメの一種またはその加工品で、フルマとは別物ではないか?
 ○ なつめやしとなつめ 
 ○ 蜜なつめ 
 ○ ”蜜棗”の画像検索結果 

(3) ザムザムの泉:サウジアラビアにある聖地マッカ(メッカ)のマスジド・ハラームにある泉
 ○ ザムザムの泉 
 ○ ザムザムの泉 -イブラヒームの試練-
[PR]

# by satotak | 2010-09-22 19:52 | トルコ
2010年 03月 31日

海蘭察(ハイランチャ)資料集

清朝乾隆期に活躍した鄂溫克(エベンキ)族の英雄・海蘭察(ハイランチャ)…

この将軍の基本史料はまず「清史稿」であろう。

漢籍電子文献
二十五史 / 新校本清史稿 / 列傳/卷三百三十一 列傳一百十八 / 海蘭察子安祿
この節は
  「海蘭察,多拉爾氏,滿洲鑲黃旗人,世居黑龍江.乾隆二十年,以索倫馬甲從征準噶爾.輝特台吉巴雅爾既降,復從阿睦爾撒納叛,師索之急,遁入塔爾巴哈台山中,海蘭察力追及之,射墜馬,生獲以歸,功,賜號額爾克巴圖魯.累擢頭等
侍,予騎都尉兼雲騎尉世職,圖形紫光閣.三十二年,以記名副都統從征緬甸,師出虎踞關,海蘭察率輕騎先驅,至罕塔,遇賊,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;設伏,殲賊四百,賊自猛密出襲我師,援擊之.三十三年,再出師,度萬仞關,敗賊戛鳩江,燬江岸賊居,授鑲黃旗蒙古副都統.師薄老官屯,攻賊於錫箔,毀其木柵,賊來攻,急擊之,追戮其強半,縛二人以歸.既還師,命留軍防邊.移鑲白旗蒙古副都統.」で始まり、

  「五十八年三月,卒,諡武壯.復圖形紫光閣,甫成,上製贊嗟惜,諭曰:「海蘭察以病卒,例不入昭忠祠.念其在軍奮勉,嘗受多傷,加恩入祀.」
  子安祿,襲公爵,授頭等侍.嘉慶四年,佐經略勒保征四川教匪,戰屢有功.賊渠苟文明等窺開縣,安祿與總兵朱射斗合軍逐剿,賊不敢東竄.十一月,與射斗逐賊枯草坪,乘雨登汪家山殺賊,賊多墜崖死.安祿望見數十賊匿山溝,率數騎逐之,賊潰散,獨策馬從
其後,數賊自林中出,安祿倉卒中矛死.諡壯毅,賜白金千治喪,加騎都尉世職,合前賜騎都尉為三等輕車騎尉.是時奎林子惠倫亦戰沒.上以二人皆名將子,與烏合亂民戰,沒於行陣,深致惜焉.」で終る。

「清史稿」で海蘭察について記しているのはこの節だけではない。「漢籍電子文献」で「新校本清史稿」の中を「海蘭察」をキーワードにして検索すれば、その全ての記述を順に辿ることができる。

このサイトは台湾のサイトで、繁体字で書かれているが、簡体字のサイトもある。

国学網站— 原典宝庫
二十五史系列:清史稿 列传一百十八 海兰察子安禄…
「海兰察,多拉尔氏,满洲镶黄旗人,世居黑龙江。乾隆二十年,以索伦马甲从征准噶尔。辉特台吉巴雅尔既降,复从阿睦尔撒纳叛,师索之急,遁入塔尔巴哈台山中,海兰察力追及之,射坠马,生获以归,叙功,赐号额尔克巴图鲁。累擢头等侍卫,予骑都尉兼云骑尉世职,图形紫光阁。三十二年,以记名副都统从征缅甸,师出虎踞关,海兰察率轻骑先驱,至罕塔,遇贼,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;设伏,歼贼四百,贼自猛密出袭我师,援击却之。三十三年,再出师,度万仞关,败贼戛鸠江,毁江岸贼居,授镶黄旗蒙古副都统。师薄老官屯,攻贼於锡箔,毁其木栅,贼来攻,急击之,追戮其强半,缚二人以归。既还师,命留军防边。移镶白旗蒙古副都统。…」


「清史稿」からの日本語訳としては、
○《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察) 
この前書きに…
「ミンリャン、エリントと並んでアゲイの督戦下で活躍した人です。ジュンガル、ビルマ、金川、サラル囘部の乱、台湾・林爽文の乱、クルハの乱などを平定、もしくは平定に貢献した人物で、途中からアゲイではなくフカンガの副将みたいになりました。林爽文の乱なんかはこの人がほとんど独力で平定してのけたもので、諸将が相互に連携しあう…この時期に珍しいっちゃ珍しいです。あと、とにかくやたら勇敢な人で、ツェリン以来の『超勇公』の称号を授かってますね。お気に召したら訳文どうぞ。ただし非常に長いです。」

簡潔にまとめたものに、
ハイランチャ(海蘭察)〈上〉
ハイランチャ(海蘭察)〈下〉

しかし海蘭察は「清史稿」だけではない。
こんな資料も日本で入手できる。

清宫珍藏海蘭察满漢文奏摺匯編
「本書は、清代の宮廷に収蔵された清乾隆時期の名将海蘭察の奏折や奏片285件(満文88件、漢文198件)を収録する。これらの奏摺の年代は、乾隆37年(1772年)5月19日から乾隆58年(1793年)3月29日の20年間にわたり、内容は、海蘭察が金川・甘粛・台湾・チベットなどへ出征した際の事跡及び乾隆帝が海蘭察に賜った官職や爵位などさまざまである。いずれも初公刊の一次資料であるため、海蘭察研究及び清代の多くの歴史事件や民族関係の研究にとって、史料的価値が極めて高い。」
しかし値段といい、内容といい、素人には手が出ないが…

○《乾隆朝武臣之冠——海蘭察》出版
乾隆朝武臣之冠——海蘭察 
こちらは1,860円で入手可能。

ところで、現代中国で海蘭察はどう評価されているのだろうか?

「BaiDu百度百科」には、
海蘭察

呼倫貝爾(フルンボイル)市人民政府の公式サイトの中に
清代鄂温克族“武壮”海兰察

一方、呼倫貝爾市阿栄旗のサイトには
海蘭察
阿栄旗は呼倫貝爾市の東南部にあると記されている。

中国人が描く海蘭察のイメージは…
海蘭察 – 図片

海蘭察はテレビドラマ(?)にもなったようだ。
大型歴史ドラマ《索倫名将——海蘭察》主题歌:草原の鹰

[PR]

# by satotak | 2010-03-31 18:23 | 女真・満州・内蒙古
2010年 01月 28日

18世紀のジュンガルで結婚したスウェーデン人夫婦の物語

ハズルンド著 内藤岩雄訳「蒙古の旅 上巻」(岩波新書 1942)より:

…ポルタヴァ(注1)における敗戦の後、ロシアの捕虜となったスウェーデン人の中に、レナトという若者があった。
レナトはドイツから来たユダヤ人移民の家族に属していたが、彼は他のユダヤ人と共に1681年9月29日、ストックホルムのドイツ教会で洗礼を受けた。父のモーゼス・ヤコブはスウェーデン人となり、かつグスタフ・ミカエル・レナトゥスという名でキリスト教徒となった。そして移住したために貧困になったこの家族は、市庁と政府に対して根気よく請願したお陰で、次第にストックホルムで相当に繁栄するようになった。
息子のヨハン・グスタフ・レナトは18歳の時砲兵に応募し、ナルヴァ、ディーナ及びポルタヴァで転戦した。そして他の捕虜と共に1711年に、トボルスク(注2)に収容せられた。

ポルタヴァの捕虜の中に、後にレナトと同様の残酷な運命を分かつことになった、一人の若いスウェーデン婦人がいた。しかし、それより以前にも彼女の生活は、暴風雨の海のようであった。
彼女は前述のストックホルムのドイツ教会においてユダヤ洗礼が行われた後3年たった時、はじめて陽の光を見たが、『キリストが大きな犠牲を払って得た信者の組合』に加わることを許された際、ブリギッタ・クリスティアナ・シュルツェンフェルドなる名を与えられた。彼女の両親、すなわち『騎兵連隊副官にして、高名且つ家柄よきクヌート・シュルツンフェルド氏及び彼女の親愛なる母フルー・ブリギッタ・トラナンデル』は、彼女が未だ幼児の時逝去したが、しかし母方の伯母と『数名の高名な親族』は彼女を注意深く養育した。

15歳の時この若い婦人は結婚したが、数年後大戦争の結果寡婦になった。フルー・ブリギッタは夫の側に居りたいためリガ(注3)に移住していたが、そこで彼女はその後スウェーデン兵と再婚し、軍隊がロシアに進軍した時、彼女も伴われて行った。そしてポルタヴァ戦闘後、彼女は捕虜として夫と共にモスクワに収容せられ、1711年彼女は再び寡婦となった。
当時27歳で未だ美しかったフルー・ブリギッタは、他のスウェーデン捕虜メクレンブルク人(注4)、ミカエル・シムスと三度目の結婚をした。その後間もなく、彼女は彼と共にトボルスクのスウェーデン捕虜部落に移された。

ピーター大帝(注5)は砂金の豊富な河のあるトルキスタン方面に彼の境界を拡張する計画を有しており、その目的で陸軍中佐ヨハン・ブックホルツはジュンガル部人の草原の領土に遠征隊を準備するよう命ぜられた。このロシアの遠征隊に砲術と築城法に経験のあるトボルスクの多数のスウェーデン捕虜が参加したが、1715年この遠征隊はイルティッシュ河を遡りジャムィシェフに送られ、ブックホルツはそこに堡塁を築いた。参加したスウェーデン人の中にミカエル・シムスとヨハン・グスタフ・レナトがいた。
環境が平穏に見えたので遠征隊の数人の士官は彼らの妻を呼びよせた。しかし、かれらの到着する前に、『ジャムィシェフの城砦はカルムック人(注6)によって取囲まれ、付近の村は到るところ包囲軍によって荒された。彼らは又これらの旅行者をも襲撃した。・・・シムス大尉は殺害せられた。・・・婦人たちは・・・ひどい悲惨な奴隷生活に入った。』

ジュンガル部人の捕虜の中にフルー・ブリギッタとレナトが居た。そして殺された者の中にフルー・ブリギッタの夫シムスがいた。
スウェーデン人を捕らえたジュンガル部人はホイト族であったが、ブックホルツ遠征隊を全滅し、ロシアの計画を挫折させた後、彼らはエビノール(注7)湖畔の領地に退却した。
30年の間フルー・ブルギッタは多くの災厄を受けてきた。しかし、1716年の秋、彼女は一生涯の中で最も恐ろしい受難を経験したのである。彼女はジュンガル部人の手に奴隷となっていた。それらの野蛮人は、当時の著述家によれば、『荒し廻る野犬のように』スウェーデン軍の周囲に群がったアユク汗(注8)のトルグート軍の仲間であった。アジアの野蛮人たちは彼女に無慈悲極まる虐待をなし、『彼女のすべての着物をはぎ取ったばかりでなく、彼女の死ぬ日まで手足に縄目の痕が残ったほど厳しく長い間鉄鎖や強い縄で縛った。そして終に彼女がカルムック地方に連れて行かれた時、彼女は奴隷としてのさまざまのつらい不面目な仕事を強要せられた。そして文明国では稀な忍び難いとされるような粗末で、少量で且つ不潔な食物に満足しなければならなかった。』

ホイト族の族長は彼の白人捕虜を、ジュンガル部人の将軍ドゥカールに引渡し、後者は彼の主君すなわちジュンガル部人の豪勇な戦士であり、『カルムック人の最高主権者であって、彼の臣下及び彼らと同一人種の国民によって国王と呼ばれているが、周囲の国々からは王或いは太公と認められ、勇敢な高貴の英雄及び崇高なる王と言う意味でスルクトゥ・エルデニ・バドゥル・コンタイギーと称せられている』ツェワン・ラプタンの許へ彼らを連れて行った。

ツェワン・ラプタンはこのスウェーデン婦人を奴隷として、チベットのココノル地方(注9)から来たホシュート族の王女であった、彼の第一夫人に与えた。そして今はフルー・ブルギッタは『これまで丸裸体であった彼女を幾分か覆うため古い毛皮の着物を与えられたので』やや耐えられるような状態になった。
次第にスウェーデン婦人は王妃に愛されるようになった。というのは、彼女は行儀がよい上に女仕事、『特にクロシェ編物(注10)と織布』に熟練していたからである。そしてフルー・ブリギッタが宮廷で得た寵愛を、彼女は蒙古人私民の奴隷となっている、他のキリスト教徒の捕虜のためにうまく利用した。彼女が助けたり生命を救ってやった奴隷の中にレナトがいた。

ツェワン・ラプタンの掌中の玉は彼の若い娘セソンであった。彼女の母はヴォルガ・トルグートの有力な族長アユク汗の娘で、首領の第二夫人であった。セソンがクロシェ編物をしたいと特に望んだので、彼女はそのスウェーデン人の女奴隷を彼女の師匠に頼んだ。フルー・ブリギッタは小さな宮廷に移されたが、ここでもまた彼女は大寵愛を得ようと努めたので、間もなく彼女の欲求するものはどんなものでも得られるようになった。
若い王女セソンがアユク汗の孫ドンドゥク・オンボに婚約した時、フルー・ブリギッタは彼女の女主人に似合う嫁入衣装を調達する機密の使命を与えられ、この目的のために『小ブハリア』の『ゲルケン』(現今の東部トルキスタンのヤルケント(注11))で2年間過ごした。

元スウェーデン砲兵曹長レナトはフルー・ブリギッタの斡旋によって、首尾よく奴隷の身分を脱した上、ジュンガル宮廷で大いに寵愛された。彼自身、フレデリック王に提出した放免請願書の中に『大砲及び臼砲を備えた砲兵隊を創設し、200人のカルムック人に砲術を教えた』と述べている。彼はまた清朝人に対抗してジュンガル部人と共に実線に参加したと述べている。
レナトはついに彼をスウェーデン王に対する大使として派遣するようジュンガル部王を説服した。
しかし、その時勃発したコザックとの戦争が、この『使節団』の延期を余儀なくさせた。


『小ブハリア』から帰ると直ぐ、フルー・ブルギッタは王家の許しを得て、彼女の同国人レナトと結婚し、かくして侍女としての彼女の職務を解かれた。これが彼女を救う奇縁となった。というのは、1727年ツェワン・ラプタンは急死し、毒殺の疑いがあったので彼のトルグート人の第二夫人と彼女の娘セソンは拷問によって無理強いに自白させられ、彼らの全従者と共に死刑に処せられたからである。

ツェワン・ラプタンの晩年に、清朝皇帝はジュンガル部人の勢力を完全に打ち砕いた。そして前者の継承者ガルダン・ツェリンはかつては偉大で有力であった国民の粉砕された残った小部分の支配者となった。

この王にもスウェーデン人夫婦は大いなる寵遇を得て、間もなく彼らが釈放されるときが来た。王は不承不承『これらの二人の有用で気持ちのよい者』を解放したのであるが、彼自身の利益のために彼らの『快楽と希望』とを妨げたくなかったのである。1733年3月22日17年間『これらの野蛮人』の仲に逗留した後、レナト一家は彼らの恩人に別れを告げた。彼らの事をフルー・ブリギッタの伝記には『ある点においては確かに彼らは勝っているとは言えないが、正直、相互の愛情及びその他幾多の美徳は多くのキリスト教国民に匹敵する』。フルー・ブリギッタが出発するので、愛情の印として『王妃王女が彼女の出発を嘆いて流した涙の跡のある、数枚の手巾を順次に受取った』と書いてある。

このスウェーデン人夫婦は18人のスウェーデン人と134人のロシア人を、ジュンガル部の奴隷の身分から解放することに成功した。帰国旅行に夫婦は18人のスウェーデン人と、フルー・ブリギッタがキリスト教に改宗させるためスウェーデンに連れ帰ろうと思った20人の『綿花園の奴隷』をも同伴した。これらの中ある者は途中で斃れ、他のものはロシア人に抑留された。しかし、レナトとフリー・ブリギッダは1734年6月6日、残りの随行者と共にストックホルムに到着した。

帰国後わずか2年の1736年4月14日、フルー・ブリギッタは『彼女がこの世に51年9ヶ月生きた後』彼女の目を閉じ、その疲れた身体は当時の王立砲兵教会に埋葬せられた。
レナトは帰国すると直ぐストックホルムの砲兵中隊の中尉に任命せられ、次いでスウェーデン砲兵隊の大尉に昇進した。学会においては彼は大なる興味の的となった。彼が奴隷の境涯から故国に持ち帰った華麗な着物や、出来栄えから判断すればレナトでなくて蒙古人によって製図せられた、中央アジアの数葉の地図がユプサラ大学(注12)の所蔵に帰した。リンケピングの博学の僧正エリク・ベンゼリウスは地図の複写を手に入れ、リンネの後継者、オロフ・スルジゥス学長はジュンガル部より持ち帰った種子を手に入れ、ユプサラ大学の農園に播種した。

3年間フルー・ブリギッタの喪に服した後、レナトは絹織物業者イサック・フリッツの寡婦エリザベト・レンストレムと結婚し、1744年に彼が死ぬまで彼女と共に暮らした。…

(注1) ポルタヴァ→ポルタバ(ポルタワ):ウクライナにある工業都市。北方戦争で、1709年ロシアのピョートル一世がスウェーデン国王カール12世の軍を破った古戦場。
   北方戦争:1700-21年にわたり、バルト海域の覇権をめぐって行われたスウェーデンとロシアとの戦争。ポーランド、デンマークがロシアに加担。1704年スウェーデンはナルバの戦でロシア軍に大勝。敗れたロシアはピョートル一世の下で国内体制を建て直し、1709年ポルタワの戦いで大勝し戦局を逆転。1721年ニスタット条約を結んだ。この結果ロシアはバルト海に進出、国際的地位が高まった。

(注2) トボルスク→トボリスク:ロシア中部、西シベリアの都市。オビ川の上流、イルティシ川とトボル川との合流点付近にある。1587年、エルマークらにより創設。1708-1882年シベリア総督府が置かれ、行政の中心として栄えた。

(注3) リガ:ラトビア共和国の首都。リガ湾に臨む港湾都市。1201年創設。1710年ロシアが占領。

(注4) メクレンブルク:ドイツ北東部、バルト海に沿う旧地方名。民族大移動以後スラブ系民族が居住、12世紀からドイツの植民が行われた。三十年戦争(1618-1648年)後17世紀末までスウェーデンの支配下にあった。

(注5) ピーター大帝→ピョートル一世:ロシア皇帝(在位1682-1725年)。啓蒙専制君主の典型。自ら英国、オランダに留学して西欧の技術文化の輸入を図り、富国強兵に努めた。スウェーデンとの北方戦争の緒戦における敗北を契機に軍政改革に着手、また官営の製鉄所や織物工場を設置。1703年新都ペテルブルグを建設し、バルト海沿岸を制圧。

(注6) カルムック人→カルムイク[人]:西モンゴル諸族の一つで、広義にはオイラト(オイロト)の別称、狭義にはヴォルガ川下流に住みついたオイラトの支族であるトルグート族などのことをいう。
   ジュンガル:17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族部族連合。オイラト遊牧民は14世紀半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれ、この言葉がロシア語に入ってカルムイクとなった。現在ヴォルガ河畔に住むカルムイクは、1630年にこの地方に移住してきたオイラト部族連合の一部である。

(注7) エビノール[湖]:漢字で艾比湖。中国新疆ウイグル自治区北西部、ジュンガリアの盆地南西部にある塩湖。カザフスタンとの国境に近く、湖岸で塩が採取される。

(注8) アユク汗→アユーキ・ハーン:ヴォルガ河畔に移住したトルグート部の族長(在位1670-1724年)。アユーキの時代がトルグートの最盛期。ロシアのピョートル大帝がヴォルガ河畔にアユーキを訪問し、条約を締結した。トルグートはロシアのためにしばしば出兵し、1707年にはスウェーデン王チャールス12世と戦い、スウェーデン軍を苦しめた。

(注9) ココノール→青海湖:中国青海省北東部にある中国最大の塩水湖。

(注10) クロシェ:鉤(かぎ)針編み

(注11) ヤルケント→ヤルカンド:中国新疆ウイグル自治区タリム盆地西部にあるオアシス都市。毛織物を産する。漢代の莎車(さしゃ)国の地とされる。

(注12) ユプサラ→ウプサラ:スウェーデン、ストックホルムの北64kmにある学園都市。北欧最古の大学であるウプサラ大学がある。
[PR]

# by satotak | 2010-01-28 11:40 | モンゴル
2009年 11月 13日

漢民族とは何か

橋本萬太郎編「民族の世界史5 漢民族と中国社会」(1983 山川出版)より(筆者:橋本萬太郎・岡田英弘):

中国文化圏における「民族」
国家とは、要するに一種の契約から成り立っているものであるにすぎないが、民族とは各人自身の社会的・文化的な規定にかかっている――ということがはっきりしていないと、どうしても漢民族というのが理解でぎない。いや、漢民族だけでなくて、実は、世界の民族もわからないのであるが、幸か不幸か、われわれの日常生活のなかでは、そういったことにたいする認識を迫られることが、ほとんどない。各人自身の社会的・文化的な規定にかかっているから、一民族の成員は、自分自身がその民族に属すると思わなくなったら、ほかにどんなに条件がそろっていても、民族でなくなるという側面がある。

漢民族とは、一番わかりやすくいったら、「漢字を識(し)っている人びとの集団である」ということになろうか。いや実際には、漢字を完全に習得するためには、たいへんな資力を必要としたから、かつての中国社会では、右のことばは、「漢字を識っている人びと、および漢字を識ろうと願っていた〔けれども、実際にはそれがかなわなかった〕人びとの集団」とでも、いいかえなければならない。…

この定義は、もちろん極端に簡略化していったものである。漢字を識っているとは、実はそれによってになわれた文化、文物、制度、その他これにかかわる社会的・文化的産物のいっさいを背景にもっている人びとである、ということである。もっとも、そうすると、日本人も、朝鮮人も、それからフランスの入りこむ前のベトナム人も、漢民族であったということになりかねない。これは、今では忘れられがちであるが、日本も、明治になるまでは、公用語は、少なくとも書き物のうえでは漢文であった。しかしそれだからこそ、これらの国々では、民族国家成立の文化的努力は、まず日本語、朝鮮語、ベトナム語といった民族語〔とそれにもとづく書きことば〕の確立、という形をとったのである。いわば、ルーテルがドイツ語で聖書を訳し、ダンテがイタリア語で詩作をしてはじめて、近代的民族としてのドイツ人イタリア人が成立したようなものである。それまでは、ヨーロッパでは、書き物はみなラテン語でなされていて、その間は、われわれの今日理解するような意味とレベルでの近代的な民族意識というものは、存在しなかった。

漢民族とはそういうものであるから、そのなりたち、あり方を論じようとすると、中国大陸、もっと広くいえば東アジア大陸における少数民族の問題と、きりはなしては考えられない。

漢民族のなりたち
…漢民族は、いま確実に知られているかぎりでは、西暦前10世紀ごろ、おそらく西北方の中央アジアから、下図に示すように、「中原地方」といわれる、大陸の中心部に入ってきた(しゅう)という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程のなかで、できあがってきたものである。「中原」とは、べつにここからここまでと決まった地域のことではないが、黄河の中下流域で、古代から漢民族の政治的・文化的中心舞台となった地方をいう。…黄河を中心とする、華北のもっとも肥沃な平原地帯である。この中原地方には、それ以前に(か)といい、(しょう)(のちに(いん))といった人びとの国があったという伝説があり、その存在は今日では疑いないものとして、考古学的にもたしかめられつつあるが、それらの人びとが、われわれの今日にいうような意味での漢民族であったかどうかは、まだ、あまりはっきりしていない。…
…東アジア大陸における状況は、…大局的にみると、構造上の驚くべき連続体をなしている。もって、漢民族の言語とその文化圏が、中原地方を中心とした、何千年にもわたる、周辺民族のいかにゆるやかな同化をはかりつつ成立したものであるかということが、うかがえるであろう。漢民族が、東に夷(い)、西に戎(じゅう)、南に蛮(ばん)、北に狄(てき)という「未開人」を配し、中心に開花した中華の民をすえるという、伝統的な世界像をつくりあげたのも、ゆえなしとしない。しかも、その文化圏は、異常な早熟さを示しているのである。

それには、漢民族の文化がもっともみごとに花を開いた、大唐の世をおもいおこせばよい。その時代(7-9世紀)には、イギリスは、やっと歴史に登場したばかりだし(アルフレッド大王の即位が871年)、わが国では、『古事記』(712)や『日本書紀』(720)が編さんされているところであった。

いわゆる華夷の思想はこうして生まれた。何がその華(漢民族)と夷(周囲の未開人)をわけているかといったら、要するに漢字を受けいれ、その背後にあるいわゆる「中国風」の生活をしているかどうか、「中国風」の農耕経済をいとなんでいるかどうかである。

西北方から中原地方に入ってきた周の人口など、今日からみれば、たかがしれた数であったろう。だから極端にいえば、漢民族とは、そのかなりの数が、このように同化された諸民族であるといってよい。われわれの今日いうような意味の国家などとはケタのちがったスケールで、民族としてのまとまりを考えてきた。相互にことばが通じるとか通じないとかといった問題は、二の次であった。しかしまた、同化民族であったからこそ、逆にその文化的なまとまりは、驚くほど整合的であった。その点だけについていえば、今日のアメリカ合衆国に似ているところがある。一方でアイリッシュ系とかイタリア系とかいった背景をきちんと保持しながら、たちまちに「アメリカン・ライフスタイル」にくみこまれ、そのことばに象徴される文化的な自己規定をしてしまうところは、漢民族のまとまり方によく似ている。…

周辺民族圏
これらの少数民族が、漢民族をかこむ第一次外輪圏をなしているとすると、東アジア世界には、さらにその外をかこむ第二次民族圏があった。東の朝鮮日本や南のベトナムなどが、それである。

歴史的にみると、第一次民族圏にも、その後歴史の舞台から消えてしまったが、西北の高昌(こうしょう)、西夏(せいか)、それから今日にも尾をひく西方のチベット、西南の南詔(なんしょう)(ぺー族)のような、前近代的な意味での国家をつくるうごきがあったが、漢民族的なまとまりをマイクロコズムにした近代国家をつくるのに成功したのは、この第二次外輪圏の諸民族である。

文化的に、ことに制度的に、漢文化を高度に受けいれながら、その文化圏から独立しようとしたために、これらの民族は偶然にも、近代にいたって、「単一民族単一国家」という形をとることになった。しかしそれだけに、漢民族の文化にたいして、つねに愛憎共存するアンビバレンスを保持する特徴がある。前述のように、これらの国々においては、つい近代にいたるまで、漢民族の言語が公用の書きことばであった事実が、今では、ややもすれば忘れられがちなのも、そのためである。

しかし、この公用の書きことばが漢民族の言語であったという事実は、漢民族のまとまり方を理解する上で、かぎりなく重要である。それは、漢民族の文化圏で民族をまとめるコミュニケーション・ネットワークのあり方を、今でもそのまま反映しているからである。…

漢民族のあいだには、バイブルにみられるような、できあいの文句[「はじめにことばありき」]こそないが、「はじめに文字ありき」ということが、強固な、抜きがたい伝統になっている。漢民族にとっては、それはあまりにもあたりまえのことなので、かえって、できあいの文句がないのであろう。

この、書きことばと各地の人びとの実際に話すことばとの乖離(かいり)は、あまりにも長いあいだ支配的であったので、漢民族のあいだですら、漢字によって書かれた言語のほうが、自分たちの口にする言語より本物であった。北京人と上海人、上海人と広東人のあいだにことばが通じなかったということは、そのために、漢民族としてのまとまりに、歴史のうえでは少しも障害にならなかった。

しかし、池になげた小石のえがく輪状波紋形としてとらえられる漢字文化圏のまとまりだけで漢民族をとらえると、われわれは、ことの一面しかみていない危険におちいる.
われわれは、第一次、第二次外輪圏にあらわれた諸民族のうち、北方にあらわれた諸民族の存在を、今まで故意にふせておいた。

漢民族の政治史は、極端にいうと、古代以来北方民族の不断の侵略の.歴史である。第一、周(しゅう)そのものが、西北からの侵入者であり、それ以後でも、4-5世紀に中原に入って北方を蹂躙(じゅうりん)した五胡、5-6世紀の北朝、10世紀の五代、12世紀の遼、12-13世紀の金、13-14世紀の元、17-20世紀の清(しん)と、歴史の主要な変動は、すべて北方からの侵入者によってひきおこされている。一つの例外もない。

北方以外からの侵入は、わずかに西方から8世紀に吐蕃(とばん)(チベット)の長安(今日の西安)侵入があったが、これはほんの一時的なもので、漢民族の形成・発展には、大きなかげをおとしていない。万里の長城が、華南や華西にないのも、ゆえなしとしない。

漢民族の形成をたどる、もう一つの重要な軸――南北の軸――は、こうした淵源をもつ。…なぜそうした側面が生じたかという問題を、ここで考えておこう。その問題にうつると、われわれは、この地球上における人間集団のあり方を、数千年という単位で大きく規定している気象変動と、それによってもたらされる自然環境の変化というものを考えざるをえなくなってくる。…

民族の成立と中国の歴史
…現在の中国、すなわち中華人民共和国の国民の大多数は「漢族」と分類されていて、その他のいわゆる少数民族、チワン族、回族、ウイグル族、イ族、チベット族、ミャオ族、満(満洲)族、モンゴル族などと区別されている。
これでみると、いかにも漢族という名の単一種族が存在しているようにみえるが、それは少数民族との対照の上でそうみえるだけである。漢族がすべて神話の最初の帝王、黄帝(こうてい)の血をひく子孫であるという観念、「黄帝の子孫」としての中華民族という観念が発生したのは、1895年、日清戦争で清朝の中国が日本に敗れ、近代化、西欧化に踏み切ってからのことであって、それまでは、現在「漢族」と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティのかわりに存在したのは、漢字という表意文字の体系を利用するコミュニケーションであって、それが通用する範囲が中国文化圏であり、それに参加する人びとが中国人であった。…

中国人の誕生
…前221年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。

中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。

…中国の都市の特徴は城壁で囲まれていることで、これは1911年の辛亥革命まで、あらゆる中国の都市に共通であり、城郭都市こそが都市であった。「」の本来の意味は城郭都市のことであり、その音は「郭」と共通であって、「中国」とは、もともと首都の城壁の内側のことである。のちに意味が拡張されて、「中国」は首都の直轄下の地域、つまり畿内のこととなり、最後に皇帝の支配権のおよぶ範囲をすべて「中国」と呼ぶようになったが、これは本来の用法ではない。だから「中国」とは、よく誤解されているように、「世界の中心の国」という意味ではない。

城壁の形は、地形にしたがっていろいろであるが、もっとも基本的な形は四面が東西南北にそれぞれ面した正方形で、土をねって築きあげる。四面にそれぞれ門を開くが、正門は南門で、門にはそれぞれ丈夫な扉をつけ、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。城壁の内側は、縦横に走る大通りによって多くの方形の区画に区切られ、もっとも中心の区画は王宮である。…

こうした城門、木戸の夜間閉鎖と、夜間外出の取り締まりは、1921年に清朝が倒れるまで続いた制度であった。首都の城内に住む権利があるのは、役人、兵士、それから商工業者であって、すべて塀に囲まれた坊里のなかの、長屋風の集団住宅に住んで共同生活をしていた。これは兵営都市という印象をあたえるが、実際城壁は「中国」の空間を、外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別する、もっとも重要な境界だったのである。つまり、いかなる民族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人、「華夏」の人だったのであって、中国人という人種はなかった。その意味で、中国人は文化上の観念だというのである。…

中国語の起源
中国語(漢語)と普通、呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽(おお)いかぶさっているにすぎない。…

漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ベトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する福建語、広東語の基層はタイ系の言語である。つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。

ところで漢字は表意文字であって、表音文字ではない。現在、知られている漢字は約5万字であるが、…いずれにせよ、一字一音、しかも一音節が原則となった。ところがいかにタイ系の言語といえど、あらゆる語が一音節からなるということはありえない。そのため、漢字の音は、意味というより、その字の名前という性格のものになってしまう。

こうなると、漢字のもっとも効果的な使用法は、実際に人びとが話す言語の構造とは関係なく、ある簡単な原則にしたがって排列することになる。そうすると、表意文字の体系であるから、言語を異にする人びとのあいだの通信手段として使えることになる。そしてそのように排列された漢字を、それぞれにわりあてた一音節の音で読むと、まったく新しい、人工的な符号ができあがる。こうしてつくりだされた人工的な言語は、日常の言語とはまったく違う、文字通信専用の「言語」となる。これが「雅言(がげん)」である。こうして漢字は、それをつくりだした民族の日常言語から遊離することによって、彼らにとってかわった殷人や周人、また秦人や楚人にとっても有用な通信手段、記録手段になりえたのである。

ところでこうした漢字で綴られた漢文の特徴としてきわだつことは、そこには名詞や動詞の形式上の区別もなく、接頭辞も接尾辞も書きあらわされていない、ということである。この結果、漢字の組み合わせを順次に読み下すことによって成立する、いわゆる「雅言」は、性・数・格も時称もない、ピジン風の言語の様相を呈するが、これは夏人の言語をベースにして、多くの言語、狄や戎のアルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語、マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる。…

中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組みこまれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生みだした言語なのである。
[PR]

# by satotak | 2009-11-13 20:49 | 民族・国家
2009年 10月 27日

賢治の里に満洲ツングース族!?

今月初旬に帰郷した折、96歳の父親との会話:-
  父「お前が中学の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
  私「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。ところで何故?」
  父「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったよ。」
  私「終戦後の満洲開拓団の引揚げのことかな?」
  父「いや違う。ずっと昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
  私「…そんなことは書いてないなあ。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ばされたとき、その一族の一人が幸田に落ちのびて来たとあるから、それと混同したのでは。この冊子によれば、満洲の原住民というのはツングース系民族のことで、飛鳥時代より前に日本に渡来したという説があるらしい。幸田ではなく、胡四王山の方の話だね。」…
  父「越国...新潟の方が本拠だったのか。どうりで田中角栄はどこか普通の日本人とは違って、大陸的だったなあ。」

「ふるさとの由来」(「季刊タウンやさわ第29号」 矢沢観光開発協議会 2009)より(筆者:内舘勝人):

…花巻市矢沢地区は、北上川の左岸にある地域で、三郎堤、胡四王山、大森山があり、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、花巻市博物館、東北新幹線新花巻駅などの建物もあり、文化観光の拠点地域となっている。…

古志族とは
花巻市史に古志族について次のような記述がある。
「藤原相之助氏は「古四王神考」(東亜古俗考)に於て、我々の祖先は祖神を祭ってそれを中心として集落をつくり都邑を形成していくものであるということを前提として、古四族-満州附近に住んでいたツングース系民族-の祖神たる高志(越)王神であるとし、この神社のあるところ古志族の分布した名残の場所と考えた。(古四王神社は岩手、宮城、秋田、山形、新潟などにわたって約40位あるようである。)」

また、古志族についての文献がホームページにあったので紹介する。
「(略)日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。

この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえずれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。

「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。」
(出典:「満洲族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁 」の「渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄」)

(参考 1) 「胡四王山
 ...と、ここまでなら、坂上田村麻呂伝説に始まり、神仏習合→神仏分離という経過をたどったという、東北地方に数多くある社寺の一例のように思えます。
 しかし、「胡四王」という名前には、もっと古い歴史が秘められているという説もあるのです。

 じつは、「コシオウ」という名前の表記には、「古四王」や、「越王」、「巨四王」、「高志王」、「腰王」、「小四王」、「小姓」など様々な種類があって、その名を冠した神社は、新潟、山形、秋田に多く見られるのです。(例えば、秋田市の古四王神社、秋田県大曲の古四王神社、秋田県横手市の古四王神社、新潟県新発田市の古四王神社など。)...

 そして、北陸地方が古来より「越(こし)の国」と呼ばれていることを踏まえて、これは日本海側に住んでいた人々によって古くから信仰されていた神であるとする説が、かなり有力と考えられています。
 その「神」とは、ある説では、阿倍比羅夫が秋田地方に遠征したことと関連して、阿倍氏の祖神と蝦夷(エミシ)の土着の神が習合したものが「コシオウ」神であるとします。
 また別の説は、『花巻市史』にも紹介されているものですが、沿海州から日本海を越えて渡ってきたツングース系渡来人が、高志(越)族だったとするものです。『花巻市史』では、藤原相之助氏の「奥羽越の先住民族ツングースの研究」を参照しつつ、次のように説明されています。...

(参考 2) 「東北民俗学からアジア民俗学へ:藤原相之助論(1)
…藤原相之助の民俗学方面の主著は『日本先住民族史』(1916)と『東亜古俗考』(1943)である。前著は大正二、三年頃、河北新報上に掲載したものを修訂した随筆であると相之助は謙遜し…。後者もまた、『旅と伝説』などの雑誌に寄稿した論文で一書が編まれている。刊行年から見ると順が逆になるが、まず、テーマも多岐に渡り、藤原相之助の問題関心が広く窺える『東亜古俗考』を取り上げる。…
[PR]

# by satotak | 2009-10-27 21:04 | 女真・満州・内蒙古
2009年 10月 13日

近況報告 - ハイランチャ、そしてマンション管理

月に1編は載せようと思っているのですが、ナカナカ...
8月は果たせず、9月はピンチヒッターで過ごし、グズグズしているうちに10月も半ばを過ぎようとしています。
8月には、ハイランチャ(海蘭察)について載せようと、ネットで資料を集めたりしたんですが、まとまりませんでした。

そして別にこんなサイトを始めました。
  「マンション管理 内観外望
WORDとFTPだけで作る地味なサイトです。
そんなこともあって、ハイランチャは全然進んでいません。

ハイランチャ...清朝乾隆期のエベンキ族出身の将軍。ホロンバイルから一兵卒として出て、ジュンガル、ビルマ国境、ネパール国境、四川、台湾と各地を転戦するうちに昇進を重ね、数々の栄誉に輝いた。
そして最期は都の畳の上(?)で逝ったのですが、帝のはからいで戦場で死した勇士の礼をもって弔われたとか。
しかし、一方でエベンキ族は度重なる遠征に駆り出され、人口が急減したといいます。
少数民族の栄光と悲惨...ハイランチャは何を想って逝ったのか!

エベンキ族がハイラルの方にまで南下し、清朝で大活躍した将軍を出したことを、今年6月の東内蒙古旅行まで知りませんでした。
それまでの私の知識では、エベンキ族はシベリア先住少数民族の一つで、中国側に居るとしても北縁の黒竜江流域ぐらいと思っていましたので。もしかすると「黒竜江」の認識が問題なのかもしれません。ハイラルも黒竜江地域?清朝の黒竜江将軍が管轄したのはどの範囲?
[PR]

# by satotak | 2009-10-13 19:49 | 女真・満州・内蒙古
2009年 09月 20日

中国ホロンボイルのモンゴル族

田中克彦著「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」(岩波新書 2009)より:
ソ満国境と満モ国境とのちがい
1932(昭和7)年、満洲国が出現したために、日本は、…それまで一度も経験したことのない不慣れな国境問題を抱え込まなければならなかった。国境は一部はソ連との間に、また一部はモンゴル人民共和国との間にあった。
ソ連軍と対峙することとなった4000キロメートルにわたる国境線は、ウスリー河-アムール河(黒龍江)-アルグン河がつくる天然の境界を主軸としているために、まだ比較的明快だったと言えよう。

それに対して、満洲国とモンゴル人民共和国との国境線は、日本がかつて経験したことのない特異な、類のないものだった。日本人的な感覚から、国境近くに流れるハルハ河を国境にするのを当然としていたが、実際には国境線には川もなく、起伏の少ない地域だった。わずかに、「ノモンハー二ー・ブルド・オボー」と呼ばれる塚(オボー)が目印になっていた。それは、満洲国がもつエスニックな混質性に由来する。このことが、隣接するモンゴル人民共和国との国境線での単なる小競り合いから、ノモンハン戦争という一大戦争に発展する原因になったのである。…

問題はモンゴル人民共和国との国境
ソ・満国境と比べてみると、モンゴル人民共和国と満洲国との国境は、20世紀に入って生じた全く新しいもので、この国境はこの国の輪郭が作られた1912年に発生したと言ってもよく、あるいはより実体を伴ったものとしては、モンゴル人民共和国が宣言された1924年と言ってもいい。それはこの国が、もと清朝の領土であった外モンゴルを土台にして創られたからである。このモンゴル人民共和国は、少なくとも形式上は、ソ連とも中国とも異なる、新たに出現した独立国のはずであるが、…1928年ごろから、ソ連が完全にコントロールし、外国人の立ち入りを許さず、ソ連が意のままに支配した閉鎖されたマリオネット(傀儡(かいらい))国家であって、ラティモアは、その状態をソ連の「衛星国」であると名づけた。…

満洲国がかかえた国境問題は、ソ・満国境よりも、この、モンゴル人民共和国との国境のほうにあった。それはかっての露・清の国境を引き継いだソ・満国境とは異なり、まったく性質のちがった国境問題をかかえ込むことになったのである。
問題はどこにあるのか。それは国境をへだてた両側に、エスニックには同じモンゴル人が住んでいたし、今も住んでいるということにある。方言的差異を無視すれば、かれらは何よりも同じ言語を話し、同じ文化をもち、宗教をも共有する同族である。

族境が国境になる
いわゆるソ・満国境は、自然の境界がそのまま国家の境界に対応しているから、両国の勢力はここでむき出しに、いわば明快に対峙しているのに対し、満洲国とモンゴル人民共和国との間に発生した国境は、部族の境界を国境に代えて民族を分断する結果をもたらした。近代国家の形成に遅れた民族(エスニック)集団の常として、その中の部族的、種族的相異は温存され、どこか外からの勢力が必要とすれば、いつでもそれを際立たせて一大抗争に発展させうる可能性を宿している。

さて、すでに述べたようにモンゴル人民共和国側の住民はハルハ族であり、満洲国側のモンゴル人はバルガ族と呼ばれる。
バルガ族は、自分たちはハルハ・モンゴル族とは親縁であるけれども、独自な存在だと考える面がある。だから、バルガ族とハルハ族の間に微妙な差異があるこの差異は、矛盾として存在しつづけ、無視はできないけれども、しかしたとえば漢族のような強大な異族が侵入し、その支配を受ける危機を感じると、バルガ族とハルハ族との隔たりはほとんどゼロに近くなり、完全に同一の民族であるとの自覚が現れる。何よりも、この自覚を補強するのが「モンゴル」という歴史的民族名である。

このハルハ族とバルガ族との部族的境界(民族的境界ではないという意味で)が、まずはモンゴル人民共和国の、次いで満洲国の出現によって国家の境界に変貌したのである。言い換えれば、族境が国境へと転化し、分断された民族の間に生じた衝突がノモンハン戦争であり、ノモンハン戦争の舞台はそのような場所であったことを理解しておくことが重要である。
そこで以下に、バルガ族とは何か、また、かれらの居住地ホロンボイルとはどんなところかについて見ていこう。

バルガ族とホロンボイルの特徴 (ホロンバイル、フルンボイル)
モンゴル諸族の居住地帯は切れ目なく連続した一つの巨大な複合体をなしている。そこは、それぞれが、異なるさまざまな異民族、異文化に接しあいながら、いくぶん異なる色あいを含む文化空間であるが、モンゴル文語という書きことばと、チベット仏教(ラマ教)を共有することによって統一(感)が保証されている。

かれらの生活の基盤を最も強く脅かすのは、その固有の生活形態-牧地と家畜からなる遊牧生活空間に対する漢族の農耕文化である。
この観点から見ると、長城に接する内モンゴルが最も早くから漢族によって農耕化され、ハルハ、すなわち外モンゴルは比較的、農耕の弊害から守られている。さらに、ロシアの支配下に入ったブリヤートは牧畜のほかに狩猟、漁労と仏教侵入以前のシャマニズムが濃厚に維持されている地域である。こうした生活基盤の特徴と方言的相異によって、モンゴル諸族はハルハ(外モンゴル)、内モンゴル、ブリヤートと地域名をあげて示すことができるが、ここで忘れてはならないのはバルガ族である。

バルガ族の居住空間は、その西に接するモンゴル国に寄った二つの大湖、ホロン湖とボイル湖に特徴づけられる。北のホロン湖はまたダライ湖(ノール)とも呼ばれ、湖水面積2339平方キロメートル、すなわち琵琶湖の三倍以上もある、中国全体から見ても第五位の大湖である。南にあるのはボイル湖で、その全体はモンゴル国領内にあり、670平方キロの琵琶湖に比べて、615平方キロとやや小さめである。

この二つの湖の名を併せた、地理的な呼称がホロンボイルである。日本ではしばしば、「ホロンバイル」と呼ばれるのは、ボイルが漢語で貝爾と書かれるからで、この「貝」の字は日本語では「バイ」と読まれるから、バイルとなる。中国語で読めばベイ(bei)だから、中国ではベイルと呼ぶが、モンゴル語ではbuir(ボイル)でなければならない。
ホロンボイルという地名に対して、ハルハのモンゴル人、さらにロシア人はここをバルガと呼ぶことが多い。この呼び名は、そこに住むバルガ・モンゴル人、すなわちバルグートの名にちなんでいるだけに、その歴史的、エスニック的な背景をよりはっきりと示している。

バラーノフの『バルガ』
…1912年にやはりハルビンで、国境警備隊ザアムール軍管区が出版した、その名も『バルガ』と題した一冊があるのを見出した。著者はA・バラーノフと言い、明らかに辛亥革命とそれに続いて生じたバルガの独立運動後の状況を意識して書かれたものであるが、…

このバラーノフはじめ、他の多くの研究書によると、バルガ族はもともとバイカル湖のブリヤートから移住してきたブリヤート人である。私はその原郷はバイカル湖の北東岸のバルグジン地方であって、バルガとは、それにちなむ名称であると考えている。ちなみに、バイカル湖の東岸に沿って北から南へ走るバルグジン山脈は、かつて、ライプツィヒの毛皮市場で注目を浴びた、高価な毛皮を産する黒テンの棲息する原始の保護林地帯であり、日本でも愛唱される「聖なる湖バイカル」でも「エイ! バルグジンの風よ吹け!」と歌われているほどのなじみの地なのである。

さて、今日中国で言う陳巴爾虎とは、モンゴル語でホーチン・バルガ、すなわち古いバルガで、シン・バルガ[新巴爾虎]とは、新しいバルガという意味である。なぜ旧と新なのか、前者はすでに1732年ごろまでに移住をすませて清朝の臣下となり、後者は、ハルハ・モンゴルを経てバルガに入り、1734年に清朝に服属したものである。
バラーノフは、バルガとは、ハルハ・モンゴル人から見ると、仏教を受け入れず、未だに文明のとどかない、遅れた異族という響きをもつ呼称だという。…

ホーチン・バルガに対してシン・バルガのほうは、ロシアから逃亡してまずハルハ・モンゴルに入ったために、そこですでに、シャマニズムを捨てて仏教徒となっている。…

独立運動の拠点-バルガ・ホロンボイル (ホロンバイル、フルンボイル)
バルガ族は、このように異族の中にあって独立を失わぬ長い歴史的背景をもっていて、清朝の配慮によって漢族の流入を防ぎ、最も遊牧生活がよく守られた地域であった。20世紀に入っても、いかに独立不羈(ふき)の気風の強い土地であったか、その盛んな独立運動の歴史が示している。

清朝が倒れた1911年、ハイラルにあった、たった一つの漢族の学校を改編して、八つの学校を設け、ここで漢語の授業が始められた。バルガ族の王公たちは、これを漢化政策のはじまりとして警戒し、9月には王公会議を開いた。
かれらは清の雍正帝が、バルガ族に牧地をあてがう際の約束、すなわち漢族による開墾と農耕化を防ぐという約束が破られることに抗議した。かれらの要求は、漢人官吏を追放し、これまで通り、バルガ族の手に行政をまかせること、漢族の植民を禁ずること、関税収入をバルガ族に与えることなどであった。
これらの要求が拒否されると、翌年1月には、独立宣言を発して蜂起し、ハイラル、ルービンフ(臚浜府)[後の満洲里]など主要な町を占拠した。

前記『バルガ』によれば、王公会議はまた、こうした反漢蜂起の中で、黒龍江省からバルガが分離し、独立することをめざしてロシアの保護を求めたという。しかし当時のロシアは、そのような火中の栗を拾うことで中国との間に問題をかかえ込むことを避けたかった。むしろ、中国の新体制の中で新しい方途を見出すようバルガ族に対して答えたという。

バルガは辛亥革命を好機とするモンゴル諸族独立運動の中でも指導的な役割を果たした。すなわち「1912年はじめ、独立宣言を発するとともに、ハルハの活仏政府への帰属を宣言した。南(内)モンゴルの旗(ホショー)の大部分がそれに続いた。しかしこれらモンゴルの土地の住民の愛国の気運は阻止された。北京政府がそこに軍隊をさし向けたからである」(チミトドルジーエフ)。

ホロンボイルの独立意識はその後もずっと維持され、そのことをラティモアは「現在〔満洲国の一部となった〕興安省に組み込まれているバルガ地方は、歴史的には一つの独立したモンゴル地域で、いまだかつて内、外いずれのモンゴルとも完全に融合したことはない」と、バルガの独自・独立性を強調している。
ここでラティモアが強調しているように、バルガ族は自らを、ハルハ(外モンゴル)にも、また内モンゴルにも、ましてやロシアのブリヤートにも属さぬ独自のモンゴル族だと考え、また同時に、他のどのモンゴル族とも関係のある一族だと考えていた。

さらに、ホロンボイルには先住のダグール、エヴェンキ(もとはソロンと言った)などの諸族が住み、このことがバルガの独自性をさらに強調していたと考えられる。このよう背景を考えると、1911年に辛亥革命で清朝が崩壊したときに、ハルハ(外モンゴル)でも内モンゴルでも、それぞれ独立運動が発生したが、バルガもまた、それとは別に焦点の一つになったのには十分すぎるほどの理由があったのである。

「ホロンボイルは中国に非ず」
ホロンボイルに入ったバルガ族は雍正帝のもとで勅令によって高度な自治を与えられた。清朝としてはそのようにして自治を与えなければ、せっかく帰順したバルガ族がまたロシアに逃げ帰ってしまうのではないかというおそれがあったからである。
バルガは清朝八旗制に従って、清朝の行政組織に組み入れられたのであるが、それが辛亥革命後に「中国=漢族」の行政組織になってしまったのを、かれらが得た自治権の侵害と受け取るのは自然なことであった。

自分たちは清朝=満洲(マンジュ)族に服属したのであって、漢族の支配を受け入れたのではないというこの考え方は、チベットにも共有されていた。しかしそれがモンゴル族、とりわけバルガのもとで大きな政治運動となって高揚した背景には、ロシアというもう一つの強力な後ろ盾が、バルガの独立意識をいっそう高めたという事情がある。「バルガはいつでも中国(キタイ)とはかかわりがなく、かかわりがあるのは満洲(マンジュ)族=清朝だけである」(バラーノフ)という主張を理解するのでなければ、当時のバルガ族の運動を理解したことにはならないのである。

遊牧モンコル族と農耕漢族の対立
ホロンボイルはなぜこのように過激に独立の気風に燃えたったのであろうか。それはモンゴル人の遊牧生活のための草原が比較的よく保たれているうえに、農耕漢族が押し寄せてくる最前線だったというのが一つの理由であろう。…

遊牧民から見た農耕の漢族に対する、ほとんどトラウマに近い恐怖心は数百年にわたってつちかわれた民族的な伝統になっている。そこから、多発したモンゴル人の反漢暴動をラティモアは次のように説明している。

「漢族によるモンゴル植民はモンゴル人の絶滅を意味するものであった。1891年から1930年にかけて起った、数えきれないほどのモンゴル人の蜂起はまずこのことによって説明できる。蜂起の目的は地域自治であったり、満洲帝国の復興であったり、内外モンゴルの統一など、指導者はいろいろと宣言したが、いずれも漢族の入植がもたらす重圧、漢族の横暴がますます増大する一方で、モンゴル人の絶望感がますます深まることで不可避となったものであり、家畜のように死ぬくらいなら、いっそ戦って死んだ方がましだという悲痛な思いとなって爆発したものである。」

マンジュ族の清朝政府は漢族が遊牧地帯に無制限に侵入し、牧草地を耕地に変えて、遊牧民の生活を不可能にしてしまうこの重大な弊害を防ぐための方策をとっていた。しかし17世紀になると、農耕地帯における人口増のために、耕地を求めてモンゴル人の伝統的な牧地に侵入する農耕民の波はおさえがたいものになっていた。しかも、ねらわれるのは、最も草の成育のいい、遊牧民にとってもかけがえのない牧草地であった。

かたや農耕と比較して、遊牧は生産性においておよぶべくもなく、さらに農耕は勤勉、計画性、労働作業の綿密さなど、人間生活におけるさまざまな徳性をはぐくむものになっている。しかも、この食料の生産性の高さは人間そのものの生産性と深く結びついている。

遊牧は死滅すべきか
…独立運動に失敗して、若いときに内モンゴルから脱出して諸国の大学で教えているというハルトードさん…かれが、故郷から離れてすいぶん時間がたった今でも、どうしても見てしまうという悪夢をこんなふうに話してくれた。

「ある朝、目がさめてみると、地平線の彼方から漢族の女たちが、手に手に赤ん坊をかかえて押し寄せてくる。その列は地平線にびっしり並んでますます近づいてくる。恐怖心に押しひしがれて息が詰まりそうになって目がさめる。」

そして、ハルトードさんは私によく言った。「...漢族は武器も何もなくてもモンゴル人を滅ぼすことができます。牧草地を耕地に変えて、そこでどんどん子供を産む。私たちはどこで生きていけますか。解決方法は、モンゴル人民共和国のように、自分の独立国をもつしかないのです」と。

この悪夢は、残念なことに21世紀に入った今日、現実になってしまった。今日、中国の内モンゴルではいたるところで、遊牧生活の断末魔が演じられており、そのことを描き出した、痛切な映画が作られ、私たちの前に送りとどけられている。
私たちは、そのことを、支配する農耕民による遊牧民の排除、抑圧という図式だけではなく、遊牧は死滅すべきかという文明の根本的な問題として、またさらにすすんで、民族の独立の意味という点からも考えなければならない。

現在のホロンボイル・呼倫貝爾市
[拡大図] [詳細図]
(ホロンバイル、フルンボイル)
[PR]

# by satotak | 2009-09-20 20:27 | 女真・満州・内蒙古
2009年 07月 16日

中国エヴェンキの歴史と現在

末成道男・曽士才編「講座 世界の先住民族 01 東アジア」(明石書房 2005)より(筆者:思沁夫(スチンフ)):

Ⅰ はじめに
かつて、エヴェンキはシベリアのほぼ全域とアムール川の流域に分布していた。エヴェンキは広大なタイガの森で繰り返し行われる移動、また他の民族との交流を通じて、さまざまな自然環境に適応した狩猟、漁猟、トナカイ放牧など多様な生業を確立し、洗練させ、それを経済基盤に氏族組織、シャマニズム、独自な文化、言語や習慣などを維持してきた。

エヴェンキは国家(あるいは王朝)という政治組織を持たず、基本的には外婚制の氏族組織を中心に社会生活が秩序付けられていた。氏族内部での結婚が禁止されていたため、他の氏族と何らかの関係を結ぶ必要があった。また、エヴェンキはつねに周辺民族の影響を受けていたが、彼らもまた他の先住民に影響を与えていた。エヴェンキは獲物や家畜の餌を求めて自由な移動生活を好み、また移動は彼らにとって、さまざまな支配から自分の生活スタイルを守る最も有力な武器でもあった。

16世紀以降、シベリアのエヴェンキはロシアの支配下に置かれ、ヤサーク(毛皮税)の徴収対象となり、アムール川流域のエヴェンキは他の先住民(中国語の文献では、“索倫(ソロン)部”として登場するが、“索倫部”にはエヴェンキ、ダフール、オロチョンなどが含まれる)と一緒に、清朝によって嫩江(のんこう)流域へ強制移住させられ、清朝の政治組織(八旗)に組み込まれた。20世紀になって、中国とロシアは過去に支配していた領土を引き継ぎ、新しい国家として再出発する。それによって、エヴェンキはそれぞれ新たな国家統合を経験することになる。本章では、中国側のエヴェンキについて述べることにとどまる。
Ⅱ エヴエンキの人口、分布、言語
(1)エヴエンキの人口と分布
中国は56の民族(正式に認められたのが56で、まだ識別されていない民族もいる)から構成される多民族国家である。一般的に、人口構成上、漢民族が圧倒的に多い(中国総人口の9割以上を占める)ため、漢民族以外の民族を「少数民族」と呼んでいる。エヴェンキは少数民族というカテゴリーに入るが、その中でも人口が非常に少ない民族である。

2000年の中国政府の人口統計データによれば、エヴェンキの総人口は3万505人である。そのうち2万6578人が内モンゴル自治区・ホロンバイル市(2001年までホロバイル盟)に分布している。それ以外のエヴェンキは黒龍江省、遼寧省、北京、山東省、河北省、新疆ウイグル自治区、広東省などの地に分散している。

ホロンバイル市は内モンゴル自治区の東部に位置し、市の西部にホロンバイル草原が広がり、東北から西南にかけて大興安嶺が走っている。また、ホロンバイル市はモンゴルを始め、エヴェンキ、ダフール、オロチョン、漢など多民族が共存する場所でもある。ここではエヴェンキは一つの自治旗(エヴェンキ族自治旗)と八つの民族郷を持っており、大多数のエヴェンキはこれらの「自治地方」で生活している。

しかし、1950年代から始まった社会主義建設(開発)、1980年以降の改革・開放政策の実施に伴い、ホロンバイル市に周辺地域や全国各地から人口が絶えず移住するようになった(移住者のほとんどは漢民族だが、中にモンゴル、ダフールなどの少数民族の人口も含む)ため、ほとんどすべての自治地方で、人口構成上エヴェンキは少数者となっている。例えば、エヴェンキ族自治旗の総人口は14万3324人、そのうちエヴェンキは1万151人、総人口の7.08%に過ぎない(ちなみに漢民族は8万6943人、総人口の約61%を占める)。また、生活環境の著しい漢化、あるいは多民族化は、エヴェンキの婚姻関係、家庭にも大きな影響を与えている。1950年代までは7割ぐらいの家庭は民族内部の結婚(地域によって差はあるが)によるものであったが、現在(21世紀)では5割以上の家庭は漢、ダフールやモンゴルなどの民族出身者との結婚から成り立っている。

また、長い間、エヴェンキは牧畜、狩猟、林業、農業によって、生活を維持し、またほとんどの人口がそれらの生業に従事していた。しかし地域社会の都市化や進学などを通じて都市への移住者が急増するなど、従来の生業に従事する人口が年々減っている。2003年の時点で、定住化が実現し、約6-7割の人口は都市、町(鎮)で暮らしている。また4-5割の人口は生業経済ではなく、公務員、会社員や自営業などによって生活を営んでいる。

(2) エヴエンキ語
エヴェンキ語はアルタイ諸語―ツングース語派に属する。エヴェンキ語は共通な起源を持っているとはいえ、広大な地域に分散し、異なる環境下で生活していたため、方言の差が見られる。…エヴェンキ語は自然現象、特に大興安嶺の地名、動物や植物などに関して大変豊な語彙を持っているだけではなく、人間を動物、植物と同等に扱い、自然利用において、つねに批判的な目で人間の行動を看るなど、エヴェンキの中で代々伝わってきた考え方(世界観)を直接表現できる唯一の手段でもある。

エヴェンキは文字を持たない。そのため、口頭伝承は歴史、文化、民族のさまざまな出来事や個人の経験などを後世に伝える最も重要な手段となっている。エヴェンキは伝説、神話、物語、シャマンの詩などさまざまな形で、歴史を後世に伝えてきたが、その中でシャマンは大変重要な役割を担ってきた。

…独自な表現やことばによって唱えられる「シャマンの詩」は、エヴェンキの言語―文化の結晶の一つであり、エヴェンキの視点から捉えた「歴史の記憶」でもある。…例えば、その中に16世紀後半、ロシア(コサック)の侵入を逃れ、大興安嶺の森に移住した経過をこのように伝えている「……われわれはシルカ川から出発し/生茂るタイガ(森)の影に沿って/アムール川を渡る。……われわれの根はシベリアのチューム(テント)にあり、われわれの運命は祖先の霊によって導かれる……」。…

1950年代からはじまった政治運動、特に文化大革命によって、シャマニズムは迷信として批判され、シャマンたちのすべての活動が禁止された。1980年代後半からシャマンは復活しつつあるとはいえ、シャマンの独自なことばに精通したシャマンがほとんどこの世を去り、…復活には多くの困難が伴うことは容易に想像できる。

Ⅲ 16世紀以降、清朝によるエヴエンキの移住と新たな生活環境への適応と変化
エヴェンキは17世紀、19世紀初め、そして20世紀初頭という大きく三つの時期に、アムール川流域、レナ川上流流域とトランス・バイカル地方から中国東北地域に移住させられ、または移住してきた。…

(1)清朝によるソロン・エヴェンキの嫩江流域への移住とホロンバイル草原への派遣
17世紀初めまで、中国文献で「索倫」(ソロン)と呼ばれるエヴェンキは、西はシルカ川から、東はアムール川中流、ゼヤ川まで、北は外興安嶺までの地域で、狩猟や牧畜などによって生活を営んでいた。単独で、あるいはダフールと一緒に「部族連盟」を形成し、この地域においては最も影響力を持つ部族社会(集団)を維持していた。

1619年満洲のリーダー、ヌルハチ(清の太祖)は、自分たちの本拠地の安全を確保するために、アムール川流域に住む先住民、エヴェンキ、ダフール、オロチョン(索倫部)を自分たちの支配下に治めようとした。エヴェンキのリーダー、ボンブグル(博穆博果爾)が率いる部落がそれに抵抗したため、彼は軍隊を派遣し先住民たちの抵抗を武力によって治めた。清朝は1639年12月―1640年5月まで、1640年12月、そして1643年5月、全部で三回に渡って征服戦争を行い、それによって、先住民側は多くの死傷者を出し、成人男性は清朝の軍隊に編入され、女性と子供は、征服戦争で功を立てた清朝の将士に奴隷として与えられた。

17世紀40年代からネルチンスク条約が結ばれる(1689年)までの約40年間、コサック(ロシア人)はアムール川に侵入し、すでに清朝の影響下にあった先住民に対し、略奪とクロテンなどの毛皮の強制徴収を繰り返し行った。清朝はコサックが先住民から食糧を調達できなくするために、1649年―1652年にかけて、アムール川中流域やゼヤ川流域のほとんどの先住民を嫩江流域へ移住させた。…さらに、1731年布特哈地域のエヴェンキ、ダフールとオロチョンは「布特哈八旗」として、清朝の政治組織に組み込まれた。

1732年清朝は「移民実辺」、つまり国境地帯地域の防衛のために、すでに布特哈地域に落ち着いたエヴェンキ、ダフール、オロチョンとバラグ・モンゴル、合計3000人(そのうちエヴェンキ人1636人)を、この地域に住むモンゴルが南下したため、ほとんど無人地帯化したホロンバイル草原に派遣した。…また、ホロンバイル草原では「八旗」(全部で一六旗からなる)を編成し、いまのハイラル市のところで「副都統衙門聡管」を設けて、彼らを統轄し、また11万8528頭の牛、羊や馬などの家畜を与え、牧畜業に従事させた。…

満洲族の発祥地である東北地方は、清朝の特別な政策に守られ、漢民族の流入を制限していた。しかし、19世紀に入ってから、清朝勢力の衰退や中原地域で人口増加によって耕地が不足するなどが主な原因で、東北地域への漢民族の流入は急速に増加した。…また、19世紀末東清鉄道の敷設によって、鉄道が通る大興安嶺の部分で生活していたエヴェンキなどは、猟場を失う、生活空間を失うなど大きな被害にあった。

レナ川上流流域あたりに狩猟とトナカイ放牧によって生活を立てていたエヴェンキは、19世紀の初めに、ロシア、ヤクートの圧力を感じて、大興安嶺の北西部森に猟場とトナカイ放牧地を求めて移住した。移住する前に彼らはすでにロシア人の影響を受けており、移住後から日本軍の統治を受ける1930年代までも、ロシア側の徴税官に税金…を払い、主にロシアの住民と物々交換を行っていた。…

(2) 清朝支配下のエヴエンキの生活と周辺民族との関係
見てきたように、17世紀半ば―20世紀初頭まで、エヴェンキは清朝の支配下にあった。この200年以上に上る清朝支配の歴史は、エヴェンキにとって、従来の生活形態が大きく変化させられた過程であるが、同時に、変化の中で自分の生活、文化、言語などを維持し、積極的に新しい環境に対応し、ダフール、モンゴル、オロチョンなどと共存関係を形成してきた過程でもある。

清朝は黒龍江将軍、その下の布特哈副都統、呼倫貝爾副都統、さらにその下の旗を通じて、先住民を管理すると同時に、エヴェンキなどに「納貢」(税のようなもの)、「軍務」を課した。15才以上の住民は全員貢納の義務があり、納貢の対象はテンの毛皮のみが認められていた。テンの狩猟は大変難しい(毛皮が少しでも傷ついたら価値が下がるので、傷つかないようにするには大変な工夫が必要)上、大量捕獲によって数が激減したため、貢納は先住民にとって、ますます大きな負担となった。18世紀後半以降、テンは獲れなくなったため、先住民は納貢するため、商人から、高い値段でテンの毛皮を買わなければならなかった。また、先住民は官人の腐敗にも悩まされていた。しかし、貢納制度は先住民の反発、抵抗にもかかわらず、1908年まで続いた。

八旗に編入された先住民の人口は、領土確保、内部反乱の鎮圧を始め、数知れない戦争に参加させられ、また各地に駐屯を強いられたことによって、減少したといわれている。その中でエヴェンキはその勇敢さゆえに最も大きな犠牲を払った先住民である。1769年南方で起こったある反乱を鎮圧するため、エヴェンキ、ダフールから1700名を兵士として徴集されたが、生き残ったのは300人であった。(注1)

すでに述べたように、エヴェンキは嫩江に移住される前からダフール、オロチョンと混住していた。移住後も密接な関係は維持されていた。…

また、ホロンバイル草原に派遣されたエヴェンキとモンゴルも、草原の利用、交換関係など多方面にわたる関係を維持していた。エヴェンキとモンゴルは基本的に別々の旗によって統治されていたが、日常生活では、旗の境界を越えて、牧草地を利用し合っていた。…さらに、一部分のエヴェンキはモンゴル語、満洲語を通じて、読み書き能力を身につけていた。

Ⅳ エヴエンキの現在(1990年代以降を中心に)
20世紀に入って、ホロンバイル地域は国民党勢力の浸透、モンゴル民族による「地方自治」、さらに日本軍による統治を経て、1947年中国共産党勢力によって中国社会主義体制下に組み込まれた。社会主義体制下に置かれてから今日(2003年)に至るまでに、エヴェンキは1950年代から1970年代にかけて、上地改革、人民公社化(集団化)、文化大革命などの激しい政治運動の時期を経験し、1980年代以降、中国全体が急速に市場経済化する中、新たな選択や対応に迫られている。…

(1) エヴエンキの生業の変化
エヴェンキは自然環境に応じて、さまざまな生業経済を行ってきた。例えば、動植物が豊富な大興安嶺の奥地や北西部などでは、狩猟とトナカイ放牧を行い、ホロンバイル草原では、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜を飼い、季節的に移動する生活を送り、気候が相対的に温暖な大興安嶺の東南部などでは、農業、狩猟、林業と牧畜を組み合わせて生計を立てることが主流であった。しかし、これらの生業経済は土地、家畜などの集団化、また生業経済を直接政府各部門の管理の下で行われる「生産活動」へと統合することによって、特に、1980年代後半以降、市場経済に吸収され、あるいは市場経済の影響を受けることによって、大きな変貌を見せている。

もちろん、生業経済は自然環境に大きく依存しているため、開発や人口増加などによって、自然環境の変化、破壊にも左右されることは言うまでもない。実際、ホロンバイル地域の人口増加、大興安嶺の森の伐採と農地化、草原での大規模な農地の開拓、また大規模な石炭工場の建設などによって、エヴエンキの生業経済は大きな被害を受けており、それによって生業経済が完全に崩壊してしまった例も出ている。…1950年代から本格化した大興安嶺の森林の大規模な伐採(1950年代から大興安嶺は中国で最大の木材供給地となっている)によって、…森の生態系が破壊されただけでなく、この地域に生息していたヘラジカ、アカシカ、オオヤマネコ、テンなど多くの動物が絶滅、あるいは激減し、生業経済としての狩猟は21世紀を見ることなく、この地域から姿を消した。…

ホロンバイル草原で遊牧生活を営むエヴェンキにとって、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜は財産であり、食料の源でありさらに現金を得る手段でもある。自然に入って草を家畜の餌とし、移動を繰り返し行うことで草原を再利用することを図ってきた遊牧民エヴェンキにとって、草原の面積と草の質量は家畜の生存に関わる問題である。このような自然にほとんど手を加えずに利用する放牧は、広大な面積の草原を必要とする。しかし、1950年代から本格化し今日まで続く農地開墾、大規模な石炭の発掘、工業用地としての利用、さらに町と道路の建設などによって、放牧可能な牧草地は大きく縮小され、また以上のことも原因となり、草地の乾燥化や砂漠化が急速に進むなど、遊牧エヴェンキも大きな環境問題に直面し、生活に深刻な影響が出ている。例えば、エヴェンキ族自治旗・バインチャガン・ソム(村)のエヴェンキの3割の牧民が家畜の冬を越すために充分な草が取れないため、生活を維持できる数の家畜を飼うことができず、貧困化現象が生じている。…

(2) 言語の変化
エヴェンキ語はオロチョン語と同様最も急速に消滅しつつある言語の一つといわれている。…

1996年以来、私はエヴェンキ族自治旗を始め、ホロンバイル市におけるエヴェンキが集中して住んでいるところの大半を見てきた。…これらの地域への旅で、エヴェンキの中で漢語化現象が急速に広がっていることを感じ取った。
それではなぜこのような事態が生じたのか。漢語化はエヴェンキが自ら選択した結果であり、誰かによって強制されたものではないことは明らかである。では、なぜ彼らはそのような選択をするのか、その要因には遊牧エヴェンキの「脱モンゴル語化」現象が挙げられる。

エヴェンキは文字を持っていないため、進学時に学校教育用語として漢語とモンゴル語のどちらかを選択しなければならないという現状がある。長い間遊牧エヴェンキはモンゴルと混住し、またほとんどの人がモンゴル語を話せるという事情から、モンゴル語で学校教育を受けてきた。しかし、1990年代に入ってから、漢語を選ぶ人が急速に増えている。脱モンゴル語化現象と漢語化現象の背景には、共通している部分が多い。学歴社会へ進む中国の現状を考えると、将来大学や専門学校などに進学する時、教育用語を漢語にした学生は、モンゴル語を選んだ学生より選択肢は圧倒的に多い。また、ほとんどの地域で通信設備が整備され、漢語による大量の情報が流れている。特に各家庭におけるテレビの普及は、子供たちの言語環境を大きく変えている。調査で世話になったほとんどの家庭の子供たちは漢語放送の番組を見ていた。モンゴル語の放送も少しはあるものの面白くないと彼ら、彼女らは言う。さらに、地域社会の都市化、城鎮化(町化)も要因の一つと考えられる。

Ⅴ おわりに
エヴェンキは東北アジアの先住民として、中国北魏時代(日本の古墳時代の前期に当たる)の文献にすでに登場し、また日本、中国やロシアの研究成果から、紀元前2千年前から、シベリアから中国の東北地域にかけての広大な空間を舞台に活動し、独自な生活形態を確立したと同時に、その地域の歴史、文化の形成にも大きな影響を与えたことが判明されつつある。

本章で紹介してきたように、17世紀以降、特に20世紀に入ってからエヴェンキの従来の生活形態は大きく変わり、近年「民族文化」の継承も危機的な状況にあると考えられる。しかし、1980年代以降、エヴェンキの各自治地域において、さまざまな形で「民族文化」を復活させようという動きが見られる。…例えば、元エヴェンキ研究会の理事だったウインダライは、『エヴェンキ族の起源』という本の中で、エヴェンキを主体的に捉え、国から出版された歴史教科書や漢民族出身の学者と異なるエヴェンキ民族の起源、形成過程を論証している。…さらに、近年ロシア側のエヴェンキとの文化交流活動も軌道に乗り始め、国境を越えてのエヴェンキ同士の交流が広がりつつある。

(注1) エヴェンキ族自治旗にあるエヴェンキ博物館の前庭には、清朝乾隆期に活躍したエヴェンキ族出身の将軍海蘭察(ハイランチャ)の像があり、その銘には次のように記されている。

海  蘭  察
  海蘭察(公元1740年――1793年)額格都・杜拉爾氏,呼倫貝爾索倫左翼?黄旗鄂温克人。乾隆二十年(1755年)従軍,征戦南北。海蘭察武勇過人,身先士卒,由索倫馬甲,晋昇頭等侍衛、一等超勇公、侍衛大臣、内大臣、都統,参賛大臣等大清国要職。
  為維護大清版図之完整,海蘭察之戦騎踏大小金川,西蔵台湾等地,其戦功赫赫,青史留名。乾隆五十八年,海蘭察病逝于京都,以神威之帥入昭忠祀,画像列紫光閣四次。

(参考) 《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察)
[PR]

# by satotak | 2009-07-16 10:38 | 女真・満州・内蒙古
2009年 06月 25日

言語の変遷に見る中国東北部の民族

三上次男・神田信夫編「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:池上二良):

小興安嶺、嫩(のん)江地方、大興安嶺、呼倫貝爾(ホロンバイル)地方にはエウェンキー(エヴェンキ)語が分布し、またそれに親縁関係の近いソロン語があり、東の松花江およびウスリ川の下流沿岸、両川間のアムール川沿岸の地方にはナーナイ語が分布していて、言語の分布上それぞれ北の東シベリア、アムール川下流地域からのつづきといえる。しかし、中国東北部には、ほかにダグール語などのモンゴル語があり、満洲語がおこなわれ、さらに古くは女真語がおこなわれた。中国東北部は、言語分布上この点が、上の二地方と大きく異なる。
なおキルギズ語の話し手である柯爾克孜(キルギズ)人は乾隆年間に新疆方面から移動させられたものという。

ホロンバイルの諸言語に関しては、清の『世宗実録』の雍正10年(1732)の条に、索倫(ソロン)・打虎児(ダグール)・巴爾虎(バラグ)・鄂倫春(オロチョン)の兵3000を選び、呼倫貝爾(ホロン湖・バイル湖)付近の済拉嘛泰(ジラマタイ)河口の地に遷移し、彼らを編成して八旗となし、左翼は自ら城処を修めてロシアの交界に至る地で遊牧し、右翼は喀爾喀(ハルハ)河に在って遊牧するものとすることが記されている。ホロンバイル南部における今日の索倫、達斡爾(ダグール)、陳巴爾虎蒙古の諸族の分布、したがってまたその言語の分布は、この東方からの移動がおこなわれたこのころ以降のこととみられている。その後、新巴爾虎蒙古族が外蒙古桑貝子一帯から、布利亜特(ブリャト)蒙古族、通古斯(ツングース)族はさらにのちソ連領から十月革命当時にホロンバイルに移動したものという。

これよりさき、17世紀中ごろ、清はロシア人の寇奪から避難させるため、索倫・達呼爾の部族を北の黒龍江上流地方から嫩江地方へ移している。17世紀においてもそれ以前は、…ダウル人はアムール川上流、ゼーヤ川下流にいた。またビラル[バラグ]人は当時北のゼーヤ川の支流セレムジャ川の上流やウダ川の上流にいた。マネギル人は北のゼーヤ川支流のギリュイ川などの地方にいたようである。その後ビラル人やマネギル人も、ダウル人の移動のあと分布を南へ拡大したとみられる。
また達斡爾・索倫族からは、その後新疆の伊犁地方へ兵士が派遣され、家族とともに移住した。
この地方の民族・言語の分布は複雑な移動の歴史をもち、その結果によるものである。

満洲語については、少くとも満洲語口語は、もと明末清初の建州女直が話していた言語であったものとみるのが自然であろう。なおまた『満洲実録』巻二に満洲国への葉赫(イエヘ)国からの使者のことばとして「一つことばを話す国に烏拉(ウラ)、恰達(ハダ)、葉赫、輝発(ホイファ)、満洲の五人の汗もが生きる道理ありや」と記されている。…この記述からみて、海西女直の呼倫(フルン)国の烏拉、輝発、恰達、葉赫も、満洲語と同じ言語か、ないしそれと方言的違いしかないような言語を使っていたろうと思われる。ただし、同書巻一によれば、葉赫部の始祖は蒙古国の人であったという。すると、葉赫部はもと使っていたモンゴル語をとりかえたのであろう。なお、満洲の汗ヌルハチの根拠地の興京老城は蘇子河岸であり、この地方は松花江との分水界の南側に位置するが、鳥拉は松花江上流、輝発はさらにその上流支流揮発河地方を占めていたとみられる。さらに古く元明時代には、『遼東志』によれば、建州は松花江上流沿岸に位置した。したがって、満洲語は北の地方から南へ分布をひろげたとみられる。

さらに、『満文老档(まんぶんろうとう)』天命四年(1619)の条に「漢人の国から東へ、日あがる方の海の水に至るまで、朝鮮国から北へ、蒙古国から南へ、女真ことばの国を討ち従え、その年終わった。」とある。これは、建州・海西の女直ばかりでなく、この地域の野人女直(少なくともその主な諸部族)に、女真ことばとして一つによべるような言語が広くおこなわれていたことを示しているといえよう。上に建州女直の言語を満洲語とよび、海西女直の言語も満洲語としたが、満洲語もここにいう女真ことばに入るものである。この女真の言語は全体としては地方地方の方言的差異をふくむであろうが、満洲語の言語名を広義につかってその総体をまた満洲語とよぶことも許されよう。なお『満洲実録』巻六の相当箇所には「東海から西へ大明国の遼東の辺界に至るまで、北は蒙古国の科爾沁(コルチン)の住んでいたはての嫩江から南の朝鮮国の辺界に接するまで、一つの満洲ことばの国をみな討ち従わしめ、統一し終わった」とある。『満洲実録』では上掲の「女真ことば」のかわりに「一つの満洲ことば」の表現を使って記している。また、時代的に先行する後述の女真語もこの女真ことばにつながるものであろう。

また、上にみたように、17世紀中ごろ、少なくともアムール川の小興安嶺断崖部から川下のおそらくサラプリスコエ村あたりまでのアムール川沿岸、松花江下流・ウスリ川沿岸には、デュチェル人が分布していた。このデュチェル人とはなにか。阿南惟敬は、…デュチェル人は居住地域が清初の野人女直の一つの東海虎爾恰部と一致するとしながらも、その部族が女直であったか、ゴルディ(ナーナイ)であったか、問題であるとし、実はゴルディではなかったかという考えを捨てきれないと述べている。しかし、ステパーノフらロシア人が1656年その地に再来したとき、デュチェル人はおらず、彼らは、デュチェル人が清の皇帝の命によりすでにここを避難退去して虎爾吟(フルハ)河(牡丹江)地方へ移動したことを、その土地に残っていたわずかな人びとからきいている。一方、1709年にこの地方を踏査したイエズス会士の見聞にもとづくアルドの『中国誌』(1735)は、清の皇帝からフルハ川・松花江沿いの寧古塔(ニングタ)付近の土地をあたえられてそこに住む農耕民のイラン・ハラ(三つの氏族の意)とよばばれる住民についてふれているが、これは移動後のデュチェル人ではないか、ないしはこれをふくむものではないかと思われる。同書に、これは以前は魚皮韃子(ユビタズ)と混住していたが、真の満洲人であるとあり、この点が注目される。デュチェル人は、おそらく野人女直の一派といえるものではなかったろうか。そしてその言語は、広義の満洲語の一方言ではなかったろうか。なお、魚皮韃子は、デュチェル人がいた地域に混住していた、またはその隣接地に居住していたナーナイ人のことであろう。今日のこの地方のナーナイ人の少くとも一部はその子孫であり、また、彼らのナーナイ語方言は魚皮韃子のナーナイ語に由来するものであろう。

満洲人は、17世紀以後着々と勢力を拡大し、清を建国し、中国本土に進出した。これに応じて、満洲語の話し手が北京はじめ広く中国の諸都市など各地に居住するようになり、満洲語の分布は拡大した。しかし、満洲人は漢人にくらべれば人口もきわめて少なく、文化的に漢人に化し、言語も中国語を話すようになって満洲語をしだいに使わなくなった。満洲語は、清代中葉の隆盛期にすでに衰微のきざしをみせていた。
今日では、満洲語は、東北地方では西部の少数の村、愛琿県大五家子満族自治郷や富裕県三家子屯などでしか使われていない。なおそこの満洲人は、康煕年間に大五家子のほうは寧古塔から、三家子屯のほうは吉林長白山麓地方から、当時辺要の地であったそれらの地方へ移住したものであるという。

ただし、満洲語を話す錫伯(シボ)族の兵が、乾隆中期に遠く西方の伊犁(イリ)地方の国境警備のために派遣され、乾隆29年(1764)家族とともに盛京(瀋陽)をたち、翌年に同地に到着、移駐した。家族をふくめての総数は、公式には約4300、実際にはふえて5000であった。
この錫伯族は、今日新疆ウイグル自治区察布査爾(チャプチャル)錫伯(シベ)自治県、そのほか伊寧、霍城、鞏留、塔城、烏魯木斉(ウルムチ)などに居住し、いまもなお満洲語を口頭語として使っている。これを錫伯語ともよぶ。新疆の錫伯人の人口は1982年に約2万7000であるが、錫伯語の話し手の数はそれより少ない。しかし、ツングース・満洲諸語のなかではおそらくエウェンキー語とならんで話し手が一番多い有力な言語であろう。なお東北地方に残る錫伯族はすでに満洲語を話さない。
錫伯族が本来どんな民族で、どんな言語を話していたかは、なお問題である。モンゴル人の一派か、もしくは満洲族とは別のツングース族の一つであった可能性もなお否定できないとみられ、自分の固有の言語を満洲語にとりかえたこともありえよう。嘉慶八年(1803)の年記のある瀋陽の太平寺の錫伯碑には錫伯が元来ハイラルの東南の河川の流域に住んでいたと記されていることも指摘されている。

さらに時代をさかのぼると、女真(女直)族の女真語が中国東北部の地域におこなわれていた。女真語は、碑文や文献に残るが、ツングース・満洲語の一つで、なかでも満洲語に非常に近い親縁関係にある言語である。女真族が12世紀に金を建国し、中国本土北部に進出したのにともない、女真語の分布も拡大した。しかし、13世紀には金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代までおこなわれた。その後、女真語は衰滅したともみられようが、女真語は、満洲語と姉妹語関係にあったというより、むしろ方言的関係にあって、上述したその後の広義の満洲語の方言としてそのなかに没したものであろう。

以上にみたように、東シベリアの地域におけるエウェンキー語・エゥェン語の分布拡大、アムール川下流地域におけるナーナイ語・オルチャ語・ウイルタ語の進出とともに、また中国東北部の地域から女真語が南の中国本土北部に、さらに満洲語が中国版図に広く分布を拡大した。その後は消滅したが、ただし、上述のように、はるか中国西辺には今日も錫伯語が残存している。これらの分布拡張が、今日のツングース・満洲語の分布を生じ、ひいてはさらに今日の東北アジアの言語分布を生じた大きな要因となっているといえよう。なおさらに、つぎにみるように、高句麗や濊(わい)などの言語がツングース・満洲語に属するものならば、ツングース・満洲語はもっと古くには朝鮮半島北部へも分布を拡大したことになる。

古代の言語分布
近隣地方を広くふくめて上述の地方のさらに古い時代の言語の分布を知るためには、中国正史の東夷伝・北狄伝に当時のアジア東北部・北部の諸民族について記述があり、その言語についてもごく大略的ではあるが、ふれられていて貴重である。ここでは、朝鮮半島西北部などもふくめて上述の地方の諸民族の言語についてみる。

晋の陳寿(297年没)撰の『三国志』の「魏書」には…
南朝宋の范曄(はんよう)(445年没)の『後漢書』には…
言語の異同についてこれらの記事によってみると、少なくとも三世紀の三国時代における同地方の言語はつぎの三類に大別されよう。
Ⅰ 鮮卑、烏桓(鳥丸)の言語
Ⅱ 夫餘、高句麗、濊、東沃沮の言語
Ⅲ 挹婁の言語
今日の東北アジアの言語とその分布から推すと、Ⅰの言語はモンゴル語の一派かと思われるが、チュルク語とみる見方もある。…Ⅱの言語はツングース・満洲語の一派か、またはそれに近い言語とも思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しくしらべてみなければならない。Ⅲの言語は、近隣の言語と非常に異なる言語で、今日ならば古アジア語に一括されるような言語であったとみるのが一番自然ではないだろうか。なお今日この地方にもっとも近く分布する古アジア語はニヴフ語であり、それはこれがさかのぼるような言語であったかもしれないが、あるいはほかに今日すでに絶滅してしまった古アジア語も過去にあったかもしれない。

それより時代がくだると、北斉の魏収の『魏書』には、… 同様に唐の李延寿の『北史』にも、…
これらの記事によれば、五、六世紀の南北朝時代のこの地方の上記の言語はつぎの二群に分かれよう。なお、当時の高句麗については、これらの史書のその条にその言語に関する記事が見出されない。
Ⅰ 室韋(失韋、しつい)、庫莫奚、契丹、豆莫婁(豆婁)の言語
Ⅱ 勿吉(もつきつ)の言語
Ⅰの契丹の言語はモンゴル語の一つとみられている。Ⅰの他の言語もモンゴル語に属するものであろう。Ⅱの勿吉の言語についての上掲記述は、勿吉の少なくともある主な部族の言語が、近隣のツングース語系やモンゴル語系の言語にくらべて異なることを述べているのではないだろうか。なお、のちの『新唐書』は黒水靺鞨(まつかつ)について「黒水靺鞨は粛慎の地におり、また挹婁ともいい、元魏の時には勿吉ともいう」とあり、あるいは勿吉のその言語は挹婁の言語にさかのぼるものかもしれない。
[PR]

# by satotak | 2009-06-25 14:30 | 女真・満州・内蒙古
2009年 05月 28日

満洲族のモビリティ -大清に向かって-

三宅理一著「ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷」(ランダムハウス講談社 2009)より:

太祖ヌルハチの登場
女真族(じょしんぞく)すなわち満洲族は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)などと同根のツングース語系民族であると同時に、日本との共通性もきわめて高く、数の数え方を始めとして日本語の中に満洲語の片鱗を見出すのもそう難しくない。この女真族が中国史の中で大きな位置を占めるようになるのは12世紀から13世紀にかけてであり、遼から分かれて東北部に金(1115-1234)を建国し、その後、宋を倒して中国の北半分を支配したことで知られている。金朝はモンゴル高原から南下した元によって滅ぼされ、主を失った遺民は関外の地に四散して部族ごとに小集団を構えることになる。三百年にわたる沈黙期間の後、この女真族を再び糾合し中原の覇者をめざして攻め上ったのがヌルハチ(1559-1626)である。…

明朝期における女真族の実態はそう簡単なものではなく、少数民族ゆえにわからない部分も多く、周囲を囲む明朝、李朝、モンゴル等のはざまにあって小集団が相互の合従と抗争を繰り返していたようだ。女真族全体としては大きく三系統に分かれて、現在の東北三省からロシア沿海州にかけて分散して生活圏を築いていた。東北部、撫順(ぶじゅん)の東の山間部に広がる「建州」、その北にあり、今日のハルビンの一帯までを治める「海西」、はるか東に位置し、豆満江(とまんこう)の河口から沿海州にかけて陣取る「野人」の三統である。そのうちヌルハチが属しているのは遼東平野に隣りあう建州女真であった。建州の地域は、明との国境(現在の撫順市の東側)の東に広がる山岳丘陵地帯で、南北では瀋陽を横切って流れる渾河(こんが)の南岸から朝鮮との国境地帯に到るエリアが彼らの居留地である。森林に恵まれ、狩猟、採集、牧畜、農耕を生業とする民であり、草原の遊牧民たるモンゴル人とは生活形態が大きく異なって定住を常としていた。山間の地に数十戸単位の集落を構え、危急の時には馬を駆って首長のもとに馳せ参じ、戦闘に参加した。彼らは、モンゴルには若干劣るものの、騎馬民族としての資質を有し、成人男子はすべて武の道に秀でており、いつでも戦闘集団として戦える体制になっていた。この仕組みが後の八旗制度に発展する。

ヌルハチは、1559年に撫順の東、蘇子(そし)河の流域で生まれた。この場所は、今日の新濱(しんぴん)満族自治県に相当し、瀋陽から150キロほど東に進んだところである。一円に清朝の始祖たちを合葬した陵墓(永陵(えいりょう))や当時の都城(フェアラやヘトアラ)など、満洲人の歴史を語るには絶対に見逃すことのできない貴重な遺構が散見される。その当時、明との国境をかたちづくっていたのは撫順の東側で、そこに築かれた撫順城がその東の建州との境であった。万里の長城とまではいかないが、周辺民族の侵入を妨げるために土塁(辺牆(へんしょう))が築かれていた。明の支配が及ぶのは平坦な遼東平野の東端のこの地までで、そこから東の森林に覆われた山間の地が、満洲人の前身女真族(女直)の跳梁跋扈する土地であった。…

[清朝建国直前の満洲]

[満洲の地勢]

建州の統一
13世紀初めに元によって金が滅ぼされ、東北の故地に散った女真族(じょしんぞく)は、森林地帯で狩猟と採集の細々とした生活に甘んじることになる。西に明、南に朝鮮との国境を抱え、女真族が少しでも反旗を翻せば両者から手痛い仕返しを受けていた。しかし、北方のモンゴルを最大の敵とみなす明朝は、女真族を一種の外人部隊に仕立てて対モンゴル戦に活用しようと考え、国境から近いところに居住する建州や海西の女真族に対し懐柔策を打ち出すことになった。胡(こ)に対しては胡でもってという中国古来の辺境民族対策で、その先兵に利用されたということである。その策として女真の有力家系に一定の官位を授けて朝貢の形態をとる国境貿易の利権を提供する。女真族の経済は、広大な後背地を抱える明に対して馬や毛皮、人参などの特産品を売って得た利益でなりたっており、この利権を得るために各部族がしのぎを削っていた。このアメを巧みにばら撒くことで明朝は彼らの間接支配を行うことに成功する。東北一帯に「衛所(えいしょ)」と呼ばれる辺境部の末端行政組織をつくり、そこでの官職に各部族の長をつけ、明との関係をオーソライズするわけである。その先鞭をきるのは建州女真族で、15世紀の前半には建州三衛(建州衛・建州右衛・建州左衛)と呼ばれる衛所に組み込まれていった。部族の有力者には、都督(ととく)、都指揮(としき)、鎮撫(ちんぶ)といった官職が授けられ、それを錦の御旗に朝貢貿易の利権を部族内で分配する。建州の北側に散らばる海西の女真族においても、同じ頃に兀者(ウェジ)衛以下、多くの衛所が組織され、遼東一帯に女真族の手を借りた明の支配の体系が成立していく。…

彼らのかたちづくっていた部族社会は15世紀後半に入ってそれなりの成長を示し、生産力も軍事力も高まってきた。明の側からいえば建州三衛やその他の衛所を介して明に帰属したということになるが、女真族の立場からすれば、明の衛所を足がかりとして彼らの国家をつくることが大きな目的であった。16世紀に入ると彼らは部族ごとにまとまって独立した国家を形成するようになる。ヌルハチの時代には建州五部と呼ばれる五つの部族国家が成立していた。…ヌルハチ自身はスクスフ部に属していた。ちなみに、建州以外の女真族も同様に部族国家化し、海西女真で四部、野人女真で四部の、女真すべてを合わせて十三の国家が成立していたのである。とりわけ、海西のハダ(哈達)部やイェヘ(葉赫)部は建州をしのぐ力を有して、部族国家間でしばしば衝突を起こしていた。我国の戦国時代の群雄割拠の状態を頭に浮かべれば理解できるだろう。

ヌルハチの家系は、代々渾河(こんが)支流の蘇子(そし)河(スクスフ河)の流域に住み、明朝から都督や都指揮使等の官位を授かるとともに、部族の長としてスクスフ部をまとめる立場にあった。歴史上、この一門で最初に名前が出てくるのが14世紀後半のメンゲティムル(孟哥帖木児)で、その七代後がヌルハチとされる。メンゲティムルは、建文帝(けんぶんてい)の時代に当時の首都南京に朝貢し建州衛都指揮使の位を授かり、次の永楽帝(えいらくてい)の時代には帝に従ってモンゴルヘの遠征にも参加している。当初、朝鮮の国境地帯に居住していたが、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子河の流域に移住して、その地で建州左衛のトップたる指揮使の職を与えられた。

1598年になってヌルハチは自身の祖先を祀るため蘇子河と二道(にどう)河の合流点の近くに大掛かりな陵墓をつくり、マンジュ・グルン(満洲国)建国に到る以前の父祖の霊を祀った。この陵墓は、後の順治帝(じゅんちてい)の時代に大きく改装されて今日のかたちになり、名称も「永陵(えいりょう)」と改められる。…

「マンジュ国」の成立
ヌルハチをトップに仰ぐマンジュ(満洲)国は16世紀末に成立した。辺境であった東北地方に、強大な軍事力を有した国家が出現したということであり、ヌルハチ自身も一介の部族長からのしあがって、統一されたひとつの国家の長に就くのである。…
建州統一の過程でヌルハチはマンジュ国に対して国家としての機能とデザインを整えるべく、さまざまな事業に乗り出していた。後述するように、1587年になって新たな都を構えるべくフェアラ(佛阿拉)城の造営に取り掛かり、法律を整備し、さらに行政制度としても大臣をトップとする国家機構を整え、国事を処理すべく衙門(がもん))役所)を設立した。

かくして、1590年を境にヌルハチは、全女真族の覇権を握るべく海西女真の平定に乗り出していく。ここで知っておかなければならないのが、ヌルハチにおける女真の統一事業が、彼にとって抵抗勢力となる他部を討って征服することではなく、同一言語を有し血族関係もある女真諸部の勢力をそのまま自身のもとに再編成することを目的としていたということである。その点は、平定した地域の住民に対する移住政策をみれば明らかだろう。帰順した他部のベイレや領民をマンジュの地に移住させ、新たな殖民を行って農業生産を上げるとともに、機動性に富んだ兵団を確保する。領民を屯田兵化することが目標だったのである。

女真族は山間の民である。寒冷の地で少ない人口を養いつつ強力な国家をかたちづくるにあたって、生産の基盤となる領民をどう配置していくかは為政者にとって大きな課題であり、中原のように膨大な数の農民の上に少数の支配者が立ち富を吸い上げる体制を敷くわけにはいかない。同一の部族集団からなる支配者も領民もいわば運命共同体の中にあり、部族抗争の中で滅亡するか、あるいは巨大な中華文明の中に吸収されていくか、当時の女真族はそのような選択肢の中にあった。

そもそも女真族自体の人口はいわゆる漢民族に対して極端に少なく、15世紀半ばの時点では建州女真はわずかに一万三千人にすぎないという人口推計が出ているくらいだから、その数がいくら多くなったとしても数万人から十数万人の規摸である。広い東北地方に分散して住んでいる女真の民を、できるだけ多く蘇子(そし)河流域のマンジュ国に移住させ、強力な戦闘集団となして明に対峙させることがみずからの生存を保証する最大の手段であった。ヌルハチはその意味で稀有のリーダーであり、戦略家であったようだ。…

八旗の村
…マンジュの軍団編制と居住環境との関係は、いわゆる定住型の農耕民とは一線を画しているようにもみえる。漢人であれば、長子相続型の形態をとり、代々家作を相続し、その地に住み続けるのが普通であるが、女真族(じょしんぞく)つまり満洲人は、長子は必ず家を出て、別に家作を構えることになっていた。居住地を次から次へと変えるのは、彼らにとっては日常のことであり、何か切羽詰まった理由で移動を開始するのではなさそうだ。元の支配がなくなり、明朝の支配が及んでくると、各地に分散していた女真族は続々と移動を始める。たとえば、ヌルハチの先祖にあたるメンゲティムル(孟哥帖木児)一族は他の女真族の圧力で今日のハルビン一帯から朝鮮国境地帯に「家を挈(けつ)きて流移」し、その後、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子(そし)河の流域に移り住んだことが朝鮮側の史料に記されている。女真族の集落はせいぜい数十戸が単位で、それ以上の町となると、ハダやウラのように部族国家を成立させて、その「城下」に数百戸を集住させるようになってからであった。つまり、彼らは自然条件や部族間の関係によって居住地を転々と変えており、マンジュの軍門に下った後に、マンジュの国内に集団で移住したとしても、それは彼らにとってそう特別なことではなかったはずだ。「野人(女真)は散処し、或いは五、六戸或いは十余戸、或いは十五余戸、屯居常ならず。各酋長有りて、酋長留まらんと欲すれば、即ち其の下焉(いずく)にか往かん。去らんと欲すれば、即ち其の下亦之に従う」というのが実態であった。重要なのは、「家を挈きて流移」と記されるように、住宅を解体し、必要に応じてどこにでもそれを運搬して「移築」をはかるという文化を有していた点である。明末の彼らの住まいは『満洲実録』の図版から窺い知ることができるが、木造と煉瓦造を組み合わせ茅葺(かやぶき)、土塗りが一般的であった。基本は木造の軸組みからなっていて、それを解体・異動させることができれば、高度の建築経験がなくとも建築が可能なのである。

モンゴルに代表される遊牧系の国家では、移動型の生活自体はとりたてて不思議なことではなく、むしろ季節に応じて居留地を変えることが必要であった。遊牧民は夏季の間に家畜とともに移動し、冬季は冬営地でじっとしている。女真族は遊牧民ではなく、狩猟や漁労にいそしんでいた伝統をもつ。狩猟のために「タタン」と呼ばれる小屋を建てて必要な期間、そこに移り住むことは普通であった。明朝時代の建州女真族の居住実態については、成人男子二名程度を含む小単位であることが報告されている。つまり、彼らは大家族ではなく、小家族の単位で転居を繰り返していたのである。ヌルハチが、蘇子河流域の開墾を促進させマンジュ国の国力増進に努めるために多くの帰順女真一族をその地に移住させた背景には、このような文化が横たわっていた。八旗(当初は四旗)を単位として軍団的に兵丁を組織し一定の土地に定住させた後も、ヌルハチの西進政策のために多くの八旗兵が居留地から抜け、新たな土地に向けて移動していくことになる。…
[PR]

# by satotak | 2009-05-28 12:46 | 女真・満州・内蒙古