2009年 03月 13日

ロシア人の進出とシベリア原住民の移動

三上次男・神田信夫編著「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:加藤九祚):

ロシアによるシベリア併合の意義
シベリアがロシアに併合されたことは、ロシアおよび現地住民にとってどのような歴史的意義をもつものであろうか。

この問題をはじめてとりあげた学者は、18世紀中ごろ以後に活躍したドイツ生まれのシベリア史家ミュラーであった。彼の見解は、シベリアはロシアの武器によって征服(ザウオエワニエ)された、というものであった。この見解はロシア史家の間で定着し、征服の主導者がツァーリ政府、企業家ストロガノフ家、エルマクを首領とするカザク(コサック)のいずれであるか、あるいはこの三者の組み合わせがどうであったかをめぐっての論議があるだけであった。…

ソ連時代になってから、研究者たちは多くの資料を細かく検討した結果、一部の原住民が自由意志でロシア国家に編入された事実が判明し、征服ということばは不適当であるとして「併合(プリソエジネニエ)」という表現を用いはじめた(たとえばシュンコフ)。これは征服、自由意志による編入、平和的進出などの意味をこめたものである。

シベリアの原住民にとって、ロシア併合はいかなる意味をもったか、ミュラーによると、ツァーリ政府は原住民を大切にあつかい、その結果、原住民に対してもロシア国家にとっても利益をもたらしたのである。この見解は帝政ロシア時代を通じて支配的であった。ソ連時代になってからも、一部の学者はこの立場であった。
これに対し、18世紀末のラジシチェフはまったく否定的な見解をとった。彼によればシベリアにおけるツァーリ政府の役人、商人、高利貸、ロシア正教の聖職者たちはすべて強慾で、原住民から毛皮などを仮借なく収奪し、原住民を貧困のどん底におとしいれたとするものである。この見解は19世紀中ごろ以後のシベリア出身のロシア人学者たちにひきつがれた。ただしこの場合、シベリアのロシア人農民や手工業者たちはシベリア原住民によい影響をあたえたことを指摘している。…

ロシア人のシベリア進出にともなう原住民の移動
現在、シベリアの総人口は約3000万、うち原住民は約100万人にすぎないが、最初ロシア人は、ロシア人のまったくいない地域へ侵入したのである。しかし原住民は侵入してくるロシア人に対して本格的な抵抗をすることはできなかった。シベリアの土地はあまりにも広大で、住民の数はあまりにも少なく(総数約30万)、また組織化されていなかった。またロシア人は政治・経済・軍事などの面で、原住民よりも圧倒的に優勢であった。原住民は稀れに反抗することもあったが、しかしそれは散発的・局地的なものにすぎず、すぐに鎮圧されてしまった。原住民は、進出してくるロシア人の圧迫から逃れるために、むしろその住地を変えることを選んだ。つまり消極的抵抗しかできなかった。そして、その後は毛皮税(ヤサク)の納入者として、移動すらも不可能となったのである。

ロシア人のシベリア進出直前の民族移動
〔ブリャト〕
ブリャト(ブリヤート)はモンゴル語を話す民族であるが、その形成地は現在と同じバイカル湖沿岸であった。バイカル湖沿岸の住民のなかへ、モンゴル高原からのモンゴル人がくわわって、現在のブリャトが形成されたものである。
ブリャトはロシア人の進出直前、バイカル湖岸から西方へ移動する傾向にあった。彼らはコソゴル湖付近およびエニセイ川上流部においてトゥワ(都播)やキルギズなどの民族と接するようになった。ブリャトの西方移動は、ロシア人の進出する17世紀までつづいた。

ロシア人がブリャトとはじめて接触したのはカン川であった。毛皮税の台帳によれば、1686年ロシア人のつくったバラガンスク砦付近に多くのブリャトが住んでいた。チュナ川、ウダ川の岸辺にもブリャトの住地があった。
ロシア人の進出以前におけるブリャトの住地の拡大は、ヤクートが北方のレナ川中流部へ移動した原因の一つと考えられている。
ロシア人がバイカル湖沿岸地方へ進出する前に、東部のブリャトはすでに、プリミティヴながら農耕を知っていた。…

〔ヤクートと北東シベリアの他の諸民族〕
ヤクートがバイカル湖沿岸地方から北方のレナ川中流域に移住したことは、多くの言語学的・考古学的資料によって証明されている。またヤクートの伝承によっても明らかにされている。しかしこのことは、ヤクートがすでに形成を終わった民族としてレナ川中流域に移動したことを意味するものでも、移動が一度だけおこなわれたものでもない。…
その時期について一部の歴史家は、最初の波は紀元初頭で、つぎが7-9世紀、最後がチンギス・ハン時代のモンゴルの移動にともなうものと考えている。考古学者オクラドニコフによれば、最後の波が15世紀末から16世紀初頭であるという。

ヤクート族は南から移住したチュルク系要素とブリャト・モンゴルの要素が原住民と混じって形成された。民族学者トカレフは書いている。
《ヤクートは、原地住民と移住民のいくつかのグループによって形成された。南方起源の要素はそのなかの一部にすぎない。原住民の言語はツングース系であったと考えられる。移住民のうち、一部はモンゴル語を話し、別のグループはチュルク語を話した。これらの言語が混じりあって新たな共通語が形成されたが、この言語の基本構造はチュルク語であった。》

ヤクートの形成において、南方からの移住民が重要な役割を果たしたのは、言語だけでなく、南方からもちこまれた牧畜という生業である。ヤクートは明らかに「騎馬民族」であった。乳のしぼり方をはじめ牧畜技術のすべてが南方のチュルク・モンゴル系諸民族と同じであった。牛もまた南方からもちこまれた。トカレフは書いている。
《牧畜はいうまでもなく、ヤクート地方にすぐに根づいたものではなかった。草原の家畜にとって不慣れなきびしい気候のために、もちこまれた家畜の多くは死んだ。新しい移住民がくりかえし家畜をもちこんで、気候条件に合わせて飼いならしたにちがいない。》
北方での牛の飼育は馬よりもなお困難であった。ヤクートの牛の品種は明らかにバイカル湖沿岸とのむすびつきを示している。

ヤクート地方は広大な面積を占め、しかもそこに住んでいた原住民ツングース(エヴェンキ)の人口は稀薄であったが、しかしそれでも、南方からのヤクートの移動はツングースに影響をあたえ、彼らを移動させた。ただし、当時ツングースは、それまでの徒歩移動から乗用トナカイを利用した移動に変わりつつあったから、ヤクートの移動はそれに拍車をかけたにすぎないともいえる。当時、シベリア北東端のチュクチにおいても、海岸の定住海獣漁撈と、内陸部のトナカイ飼育民の間の相違がひろがりつつあった。…

〔北西シベリアの諸民族〕
北西シベリアでは、チンギス・ハンの孫バトゥの遠征と金帳汗国(キプチャク・ハン国)の形成の結果、オビ川イルティシ川の中流部に「シベリア・タタール」が進出した。この結果、原住民ハンティ(旧称オスチャク)とマンシ(旧称ヴォグール)の間では氏族制の解体がはやまり、封建制の発生が促された。両民族とも、南方の遊牧民から牛馬の飼育を借用したが、東方のヤクートにおけるような発達をみなかった。この原因は、彼らの場合、家畜としてのトナカイ飼育が早くからおこなわれていたからと考えられる。

マンシは、ロシア人のシベリア進出よりも約200年前、ウラル山脈の西方に住んでいたことが知られている。彼らが東方のオビ川流域に移動したのはコミ(旧称ズィリャン、ペルミャク)の増加によるものと考えられる。他方、ウラル北部でのノヴゴロド住民による毛皮税(ヤサク)の徴収はペチョラ川流域における毛皮獣資源の悪化とともにますますきびしくなり、マンシを東方へ駆りたてた。…16-17世紀の北方諸民族にかんする記述にが、唯一の橇曳用家畜としてしばしば書かれていたが、それがしだいにトナカイにかわっていった。…トナカイ飼育の発展とともに、シベリア北西部の住民はしだいにトナカイ遊牧の様相をつよめた。
17-18世紀における北東シベリア諸民族の移動
この時期の原住民の移動は、直接間接にロシア人の進出結果によるものである。北東シベリアの場合、この時期でもっとも大きく移動したのはヤクートとユカギルであった。
ロシア人の進出当時、毛皮税の台帳によれば、ヤクートの住地はその百年以後にくらべてはるかにせまかった。マイノフによると、南西方におけるその密集地はレナ川沿いに、東部はアムガ川に限られていた。それが18世紀になると、はるかにひろがっている。反対に、17世紀に広大な地域を占めていたユカギルの住地は著しくせまくなっている。ヤクートの拡張について、19世紀の著名なヤクート研究家セロシェフスキーは書いている。
《これは実際、奇跡的ともいえる変化であった。わずか50-60年間にばく大な人口(もちろん当時の規模での話であるが)と広い面積を占めるにいたったのである。》
マイノフは、ヤクート住地の拡張は、ヤクートの人口の急激な増加によると説明している。しかしそれにしてもあまりにも急激な変化であるために、研究者のなかには、ロシア人の進出当時ヤクートの住地がせまかったことをみとめようとしない人もある。つまり毛皮税の台帳に誤りがあるのではないかとみている。

しかしこれは少数意見にすぎない。地理学者ポクシシェフスキーは書いている。
《われわれは知っている。われわれの祖先であるシベリア踏破者たちがどれほど正確に、彼らの出会った“異民族“グループの所属を明らかにしたか、また代官所においてどんなに注意深くそのデータを総括したかを知っている。その資料は“異民族“統治と毛皮税の課税額算定の基礎となったものである。》…

こうしてカザクの毛皮台帳を疑うことは困難である。地理学者ポクシシェフスキーは、ヤクートの人口と住地の増加・拡大をつぎのような二つの理由で説明している。すなわち、ヤクートはロシア人征服者にしたがってツングースの住地に入り、ロシア人が一時的に去った後にも、その地にとどまった。また多くのヤクートがロシア人カザクに従って行動し、褒賞として牧地や狩猟用地を特権的に分与された。…
第二は、以上とはまったく逆の理由である。一部のヤクートはロシア人の徴税からのがれて、オレニョク川、ヤナ川、インディギルカ川、コリマ川、一部はヴィリュイ川、さらにはオリョクマ川の流域まで入りこんだ。…

ヤクートの進出によって、ツングース系諸民族はさらに遠くへ散っていった。たとえばジガンスク砦付近のツングースはエニセイ川の西側まで移動した。ドルガーンも西方へ移動した。レナ川の東側でも、ツングースの住地が縮小した。

ユカギルの人口と住地も急速に縮小したが、これについては後に述べることにして、さらに北東方のチュクチについて一言しよう。チュクチ族の研究者ヴドヴィンは、18世紀中ごろ以後、チュクチがアナディル川の南方へ、チャウナ川の西方および南西方へ移動をはじめたことを指摘している。また少し後代になると、チュクチはコリマ川流域まで進出し、ロシア人と衝突するようになった。
コリマ地方の「トナカイ」チュクチは、ツングースからトナカイを借用し、これを乗用に利用し、場所によってトナカイの新品種をつくりだした。19世紀になると、一部の富裕なチュクチは5000頭からのトナカイ群を所有した。

ユカギルの謎
北東シベリアの諸民族のうち、ユカギルは不思議な民族の一つである。この民族はかつてレナ川下流部からアナディル川流域までの広大な地域を占めていた。ソ連の民族学者ドルギフが17世紀の毛皮税台帳によって調査したところ、17世紀中ごろで約4350人を数えた。…それ以前はさらに広大な地域に分布していた。これはユカギル語の分析によって明らかにされている。オクラドニコフとレーヴィンは、ユカギルの先祖こそはシベリア北東部(今のヤクート自治共和国)の最古の住民であったと考えている。近年ユカギルとサモディ(サモエド)語との関連が指摘された。これは、ユカギルとサモディ系民族とがかつて隣接していたことを示している。しかし現在のユカギルとサモディ系民族とは遠く離れており、両者の間にはツングース系の民族がくさびのように入っている。これは比較的新しい時代のできごととされている。

ユカギルの生業は、徒歩による野生トナカイ狩りであった。冬は橇を利用し、秋はおとりを用い、夏は湖岸や川岸でトナカイを待ちうけ、それを渡るトナカイを小舟に乗って仕とめた。また、秋にはプリミティヴな網で魚をとった。住居は竪穴を利用した円錐形のものが多かった。17世紀当時、ユカギルの物質文化はヤクートやツングースにくらべてはるかにプリミティヴであった。

ユカギルの人口はその後急速に減り、1859年にはわずか639人、1897年に351人となった。実に17世紀当時の十分の一以下である。1894-97年、ヨヘルソンの調査によれば、ユカギルはほとんどが、ヤクート、エヴェン、ロシアなどの人びとの住地のなかにまじって住んでおり、ユカギル語を話す家族は自称ユカギルの約三分の一にすぎず、あとはロシア語やエヴェン語、ヤクート語を話した。

ユカギルの人口減少は、ロシア人はもちろん、ヤクートやエヴェンにくらべても生業形態がプリミティヴであり、そのうえ飢餓、貧困、伝染病、ロシア人など支配者によるきびしい収奪、近隣諸族との融合が原因とされている。現在、自らの言語を知り、民族意識をもち、若干の文化的特徴を残すユカギルは150人ほどで、それもロシア革命後のソ連の少数民族保護政策の結果であるとされている。

アムール川流域諸民族の移動
ロシア人がアムール川中流部に進出した当時(1640-50)、その地域に住んだダウル、ゴグル、デュチェルらの民族が農耕を営んでいた。…ゴグルとデュチェルは同族であった。この繁栄が急激に衰退するが、その原因については、ロシア人の進出前後におこなわれた清の遠征によるといわれている。

ロシア人がはじめてアムール地方に進出したのは、1644年ゼーヤ川からアムール川に入ったポヤルコフの一行であった。ついで1649年には、ハバロフの一行がヤクーツクからアムール川へ進出した。ロシア人はアムール川を下りながら住民に毛皮税を課したが、そのときの台帳によると、17世紀なかばのギリャク(今のニヴフ)の住地は、最近までの住地とほぼ同じであることが判明した。

の太祖(ヌルハチ)と太宗は、ワルカ部征討(1634、1635、1637)をおこない、主としてウスリー江流域のフルハ(デュチェル)人を服属させ、多くの若者を八旗にくわえた。
1653年、カザクの一人ステパノフがハバロフにかわってアムール地区ロシア人の隊長となり、55年には中流・上流部の原住民から毛皮税を集めた。その翌年、ステパノフが再度この地を訪れたときには、デュチェル、ダウルは姿を消していた。
《これは清朝がデュチェル人の住居を強制的に焼きはらったり、こわしたりして、松花江の支流フルカ河方面にかれらを移住させたためであった。》(吉田金一による)

ステパノフの指揮するロシアのカザク兵と清軍との間でしぼしば軍事的衝突がおこり、1654年と58年の戦闘では、清国の要請によって朝鮮の鉄砲隊(150名)が派遣されたことが知られている。吉田金一の研究によれば、1658年の戦闘ではステパノフ以下220名が戦死、朝鮮の兵も8名戦死、25名が負傷した。…
ステパノフの敗北によって、ロシア人はいったんアムール川から姿を消すが、1660年代後半以後、ザバイカル方面から多くのロシア人がアルバジン地区に移住しはじめた。1680年代の初めには、アルバジンを中心とするアムール川の沿岸320キロメートルにわたって農地1000ヘクタール以上が開かれ、そこに営農部落20があった。

ロシアのアムール川進出は1689年8月29日に調印されたネルチンスク条約によって頓坐し、シベリア経略の方向はカムチャツカ北アメリカの方面へ転じたのである。…

(参考) シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-
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by satotak | 2009-03-13 21:34 | シベリア


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