テュルク&モンゴル

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2009年 05月 28日

満洲族のモビリティ -大清に向かって-

三宅理一著「ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷」(ランダムハウス講談社 2009)より:

太祖ヌルハチの登場
女真族(じょしんぞく)すなわち満洲族は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)などと同根のツングース語系民族であると同時に、日本との共通性もきわめて高く、数の数え方を始めとして日本語の中に満洲語の片鱗を見出すのもそう難しくない。この女真族が中国史の中で大きな位置を占めるようになるのは12世紀から13世紀にかけてであり、遼から分かれて東北部に金(1115-1234)を建国し、その後、宋を倒して中国の北半分を支配したことで知られている。金朝はモンゴル高原から南下した元によって滅ぼされ、主を失った遺民は関外の地に四散して部族ごとに小集団を構えることになる。三百年にわたる沈黙期間の後、この女真族を再び糾合し中原の覇者をめざして攻め上ったのがヌルハチ(1559-1626)である。…

明朝期における女真族の実態はそう簡単なものではなく、少数民族ゆえにわからない部分も多く、周囲を囲む明朝、李朝、モンゴル等のはざまにあって小集団が相互の合従と抗争を繰り返していたようだ。女真族全体としては大きく三系統に分かれて、現在の東北三省からロシア沿海州にかけて分散して生活圏を築いていた。東北部、撫順(ぶじゅん)の東の山間部に広がる「建州」、その北にあり、今日のハルビンの一帯までを治める「海西」、はるか東に位置し、豆満江(とまんこう)の河口から沿海州にかけて陣取る「野人」の三統である。そのうちヌルハチが属しているのは遼東平野に隣りあう建州女真であった。建州の地域は、明との国境(現在の撫順市の東側)の東に広がる山岳丘陵地帯で、南北では瀋陽を横切って流れる渾河(こんが)の南岸から朝鮮との国境地帯に到るエリアが彼らの居留地である。森林に恵まれ、狩猟、採集、牧畜、農耕を生業とする民であり、草原の遊牧民たるモンゴル人とは生活形態が大きく異なって定住を常としていた。山間の地に数十戸単位の集落を構え、危急の時には馬を駆って首長のもとに馳せ参じ、戦闘に参加した。彼らは、モンゴルには若干劣るものの、騎馬民族としての資質を有し、成人男子はすべて武の道に秀でており、いつでも戦闘集団として戦える体制になっていた。この仕組みが後の八旗制度に発展する。

ヌルハチは、1559年に撫順の東、蘇子(そし)河の流域で生まれた。この場所は、今日の新濱(しんぴん)満族自治県に相当し、瀋陽から150キロほど東に進んだところである。一円に清朝の始祖たちを合葬した陵墓(永陵(えいりょう))や当時の都城(フェアラやヘトアラ)など、満洲人の歴史を語るには絶対に見逃すことのできない貴重な遺構が散見される。その当時、明との国境をかたちづくっていたのは撫順の東側で、そこに築かれた撫順城がその東の建州との境であった。万里の長城とまではいかないが、周辺民族の侵入を妨げるために土塁(辺牆(へんしょう))が築かれていた。明の支配が及ぶのは平坦な遼東平野の東端のこの地までで、そこから東の森林に覆われた山間の地が、満洲人の前身女真族(女直)の跳梁跋扈する土地であった。…

[清朝建国直前の満洲]

[満洲の地勢]

建州の統一
13世紀初めに元によって金が滅ぼされ、東北の故地に散った女真族(じょしんぞく)は、森林地帯で狩猟と採集の細々とした生活に甘んじることになる。西に明、南に朝鮮との国境を抱え、女真族が少しでも反旗を翻せば両者から手痛い仕返しを受けていた。しかし、北方のモンゴルを最大の敵とみなす明朝は、女真族を一種の外人部隊に仕立てて対モンゴル戦に活用しようと考え、国境から近いところに居住する建州や海西の女真族に対し懐柔策を打ち出すことになった。胡(こ)に対しては胡でもってという中国古来の辺境民族対策で、その先兵に利用されたということである。その策として女真の有力家系に一定の官位を授けて朝貢の形態をとる国境貿易の利権を提供する。女真族の経済は、広大な後背地を抱える明に対して馬や毛皮、人参などの特産品を売って得た利益でなりたっており、この利権を得るために各部族がしのぎを削っていた。このアメを巧みにばら撒くことで明朝は彼らの間接支配を行うことに成功する。東北一帯に「衛所(えいしょ)」と呼ばれる辺境部の末端行政組織をつくり、そこでの官職に各部族の長をつけ、明との関係をオーソライズするわけである。その先鞭をきるのは建州女真族で、15世紀の前半には建州三衛(建州衛・建州右衛・建州左衛)と呼ばれる衛所に組み込まれていった。部族の有力者には、都督(ととく)、都指揮(としき)、鎮撫(ちんぶ)といった官職が授けられ、それを錦の御旗に朝貢貿易の利権を部族内で分配する。建州の北側に散らばる海西の女真族においても、同じ頃に兀者(ウェジ)衛以下、多くの衛所が組織され、遼東一帯に女真族の手を借りた明の支配の体系が成立していく。…

彼らのかたちづくっていた部族社会は15世紀後半に入ってそれなりの成長を示し、生産力も軍事力も高まってきた。明の側からいえば建州三衛やその他の衛所を介して明に帰属したということになるが、女真族の立場からすれば、明の衛所を足がかりとして彼らの国家をつくることが大きな目的であった。16世紀に入ると彼らは部族ごとにまとまって独立した国家を形成するようになる。ヌルハチの時代には建州五部と呼ばれる五つの部族国家が成立していた。…ヌルハチ自身はスクスフ部に属していた。ちなみに、建州以外の女真族も同様に部族国家化し、海西女真で四部、野人女真で四部の、女真すべてを合わせて十三の国家が成立していたのである。とりわけ、海西のハダ(哈達)部やイェヘ(葉赫)部は建州をしのぐ力を有して、部族国家間でしばしば衝突を起こしていた。我国の戦国時代の群雄割拠の状態を頭に浮かべれば理解できるだろう。

ヌルハチの家系は、代々渾河(こんが)支流の蘇子(そし)河(スクスフ河)の流域に住み、明朝から都督や都指揮使等の官位を授かるとともに、部族の長としてスクスフ部をまとめる立場にあった。歴史上、この一門で最初に名前が出てくるのが14世紀後半のメンゲティムル(孟哥帖木児)で、その七代後がヌルハチとされる。メンゲティムルは、建文帝(けんぶんてい)の時代に当時の首都南京に朝貢し建州衛都指揮使の位を授かり、次の永楽帝(えいらくてい)の時代には帝に従ってモンゴルヘの遠征にも参加している。当初、朝鮮の国境地帯に居住していたが、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子河の流域に移住して、その地で建州左衛のトップたる指揮使の職を与えられた。

1598年になってヌルハチは自身の祖先を祀るため蘇子河と二道(にどう)河の合流点の近くに大掛かりな陵墓をつくり、マンジュ・グルン(満洲国)建国に到る以前の父祖の霊を祀った。この陵墓は、後の順治帝(じゅんちてい)の時代に大きく改装されて今日のかたちになり、名称も「永陵(えいりょう)」と改められる。…

「マンジュ国」の成立
ヌルハチをトップに仰ぐマンジュ(満洲)国は16世紀末に成立した。辺境であった東北地方に、強大な軍事力を有した国家が出現したということであり、ヌルハチ自身も一介の部族長からのしあがって、統一されたひとつの国家の長に就くのである。…
建州統一の過程でヌルハチはマンジュ国に対して国家としての機能とデザインを整えるべく、さまざまな事業に乗り出していた。後述するように、1587年になって新たな都を構えるべくフェアラ(佛阿拉)城の造営に取り掛かり、法律を整備し、さらに行政制度としても大臣をトップとする国家機構を整え、国事を処理すべく衙門(がもん))役所)を設立した。

かくして、1590年を境にヌルハチは、全女真族の覇権を握るべく海西女真の平定に乗り出していく。ここで知っておかなければならないのが、ヌルハチにおける女真の統一事業が、彼にとって抵抗勢力となる他部を討って征服することではなく、同一言語を有し血族関係もある女真諸部の勢力をそのまま自身のもとに再編成することを目的としていたということである。その点は、平定した地域の住民に対する移住政策をみれば明らかだろう。帰順した他部のベイレや領民をマンジュの地に移住させ、新たな殖民を行って農業生産を上げるとともに、機動性に富んだ兵団を確保する。領民を屯田兵化することが目標だったのである。

女真族は山間の民である。寒冷の地で少ない人口を養いつつ強力な国家をかたちづくるにあたって、生産の基盤となる領民をどう配置していくかは為政者にとって大きな課題であり、中原のように膨大な数の農民の上に少数の支配者が立ち富を吸い上げる体制を敷くわけにはいかない。同一の部族集団からなる支配者も領民もいわば運命共同体の中にあり、部族抗争の中で滅亡するか、あるいは巨大な中華文明の中に吸収されていくか、当時の女真族はそのような選択肢の中にあった。

そもそも女真族自体の人口はいわゆる漢民族に対して極端に少なく、15世紀半ばの時点では建州女真はわずかに一万三千人にすぎないという人口推計が出ているくらいだから、その数がいくら多くなったとしても数万人から十数万人の規摸である。広い東北地方に分散して住んでいる女真の民を、できるだけ多く蘇子(そし)河流域のマンジュ国に移住させ、強力な戦闘集団となして明に対峙させることがみずからの生存を保証する最大の手段であった。ヌルハチはその意味で稀有のリーダーであり、戦略家であったようだ。…

八旗の村
…マンジュの軍団編制と居住環境との関係は、いわゆる定住型の農耕民とは一線を画しているようにもみえる。漢人であれば、長子相続型の形態をとり、代々家作を相続し、その地に住み続けるのが普通であるが、女真族(じょしんぞく)つまり満洲人は、長子は必ず家を出て、別に家作を構えることになっていた。居住地を次から次へと変えるのは、彼らにとっては日常のことであり、何か切羽詰まった理由で移動を開始するのではなさそうだ。元の支配がなくなり、明朝の支配が及んでくると、各地に分散していた女真族は続々と移動を始める。たとえば、ヌルハチの先祖にあたるメンゲティムル(孟哥帖木児)一族は他の女真族の圧力で今日のハルビン一帯から朝鮮国境地帯に「家を挈(けつ)きて流移」し、その後、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子(そし)河の流域に移り住んだことが朝鮮側の史料に記されている。女真族の集落はせいぜい数十戸が単位で、それ以上の町となると、ハダやウラのように部族国家を成立させて、その「城下」に数百戸を集住させるようになってからであった。つまり、彼らは自然条件や部族間の関係によって居住地を転々と変えており、マンジュの軍門に下った後に、マンジュの国内に集団で移住したとしても、それは彼らにとってそう特別なことではなかったはずだ。「野人(女真)は散処し、或いは五、六戸或いは十余戸、或いは十五余戸、屯居常ならず。各酋長有りて、酋長留まらんと欲すれば、即ち其の下焉(いずく)にか往かん。去らんと欲すれば、即ち其の下亦之に従う」というのが実態であった。重要なのは、「家を挈きて流移」と記されるように、住宅を解体し、必要に応じてどこにでもそれを運搬して「移築」をはかるという文化を有していた点である。明末の彼らの住まいは『満洲実録』の図版から窺い知ることができるが、木造と煉瓦造を組み合わせ茅葺(かやぶき)、土塗りが一般的であった。基本は木造の軸組みからなっていて、それを解体・異動させることができれば、高度の建築経験がなくとも建築が可能なのである。

モンゴルに代表される遊牧系の国家では、移動型の生活自体はとりたてて不思議なことではなく、むしろ季節に応じて居留地を変えることが必要であった。遊牧民は夏季の間に家畜とともに移動し、冬季は冬営地でじっとしている。女真族は遊牧民ではなく、狩猟や漁労にいそしんでいた伝統をもつ。狩猟のために「タタン」と呼ばれる小屋を建てて必要な期間、そこに移り住むことは普通であった。明朝時代の建州女真族の居住実態については、成人男子二名程度を含む小単位であることが報告されている。つまり、彼らは大家族ではなく、小家族の単位で転居を繰り返していたのである。ヌルハチが、蘇子河流域の開墾を促進させマンジュ国の国力増進に努めるために多くの帰順女真一族をその地に移住させた背景には、このような文化が横たわっていた。八旗(当初は四旗)を単位として軍団的に兵丁を組織し一定の土地に定住させた後も、ヌルハチの西進政策のために多くの八旗兵が居留地から抜け、新たな土地に向けて移動していくことになる。…
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by satotak | 2009-05-28 12:46 | 女真・満州・内蒙古


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