テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

テュルク化とイスラム化

「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫):

…漢人植民王国・高昌を別にすると、中央アジアはすべてインド-ヨーロッパ人種の住地であった。そして、このような中央アジアの人種構成を押し崩していったのが、…トルコ系ウイグル国人の西方移住であり、それはまず、甘州ウイグル王国、西ウイグル(天山ウイグル)王国の成立としてあらわれた。

これ以前、モンゴル高原の遊牧国家中国諸王朝とは、東西両文明世界を結ぶ交通・交易の国際幹線ルートをめぐって争いを繰り返してきた。そして、漢代や唐代のように中国の国力がビークに達し、匈奴や突厥の国家が分裂・弱化したときには、中国は遊牧勢力をはねのけて中央アジアを支配したし、また逆に、中国が内乱などで苦しむと、遊牧勢力は強化されて中央アジアを制圧した。しかし、中国諸王朝はもちろん、遊牧国家でさえ、それらの本拠が中央アジアへ移ったわけではなく、その中央アジア統治はあくまで間接的であった。これにたいして、ウイグル国人は、その「文明化」の果て、まず、中央アジアの東端 -河西地域と東部天山山脈南北麓- へ移住して二つの王国をたてた。これによって、インド-ヨーロッパ系人種の土地、中央アジアがトルコ化されてゆく第一歩が踏みだされた。

それに止まらない。トルコ系のカルルクは、セミレチエ方面へ向かったウイグル国人を合わせてカラハン王国を建て、カシュガルを始めタリム盆地西部のオアシス都市に進出して定着し、「完全にオアシス都市の住民となりきった」…。これは、中央アジアのトルコ化の第二歩であった。
これらの結果、インド-ヨーロッパ系の原住民は、少なくとも言語を標識とする民族的な意味をしだいに失ってゆく。

トルコ族の動きは、パミールの西でも活発化する。アッバース朝は、9世紀の中ごろ以後、シルダリア北方の草原地域に遊牧したトルコ人を傭い入れて軍隊を編成したが、やがて、これらは軍閥化して、中央・地方を問わず勢力を振うにいたった。こうした形勢に乗じて、ソグディアナ地方にブハーラーを首都とするイラン人国家サーマーン王国(874~999年)が成立したが、そののち、これに仕えていた一トルコ人総督がアフガニスタンに独立してガズナ王国(962~1186年)を建て、…カラハン王国がサーマーン王国を滅ぼし(999年)、ソグディアナ地方を制圧した。これによって、トルコ族は、その西進基地を確保されることになった。

ウイグル、カルルクの西方移動は、このように、東からするトルコ族の西方への発展を推進しただけでなく、西からするイスラムの東方への流伝に大きく寄与した。いうまでもなく、…カラハン王国のサトゥク-ボグラ-ハンの改宗・帰依によって、イスラムがはじめてシルダリアを越え、トルコ族の本拠にまで広がってきたからである。

カラハン王国がトルコ人の建てたイスラム国家であった以上、そこで、トルコ文化とイスラム文化との結びつきが見られたのは当然であった。
クダトゥク-ビリク(「幸福にする知慧」)』と称される書物は、このことを示す一例である。これは、バラサグン生まれのユースフがカシュガルで著わし(1069年)、その主君に献呈したものである。この書はトルコ語韻文で書かれ、…突厥碑文に次ぐトルコ文学作品と評し得る。その内容は、一般に、イスラム道徳にもとづいて人間の踏むべき道を説いたものだといわれているが、最近の研究によると、そこには仏教的思想もまたにじみ出ており、…「それを貫いているのは、正統的なイスラム道徳思想である」とは、簡単に言い切れぬもののようである。(注1) はじめアラビア文字でしるされたが、ウイグル文字による写本も伝わっている。…この書物は、著者自身の言のごとく王者のために書かれたのではあるが、その内容は万民にも通じ、彼らにも説き聴かすべきものだったのである。(注2) …そこには、「サーマーン朝で発達したペルシア的先進文明と、草原から新しくやってきた遊牧民の詩情との結合、すなわち書かれる文学の伝統と、口でうたわれる詩のそれとのからみあい」が見られるという。…トルコ遊牧民の詩情…それが、トルコ遊牧民のあいだに絶えることなく継承され、イラン的イスラム文学という肥料・花粉を得て、ここにみごとに開花・結実したとも言えようか。

これとほぼ時を同じくして、カシュガルで生まれたマフムードは、『トルコ語総覧』 とも訳すべき最古のトルコ語-アラビア語辞典 -というよりむしろ、トルコ諸族の方言・歴史・民俗・民謡、居住地域の地理その他についての一種のトルコ族百科事典- をバクダードで著わした(1074年)。彼の父はイッシク-クル湖近辺の出身だったが、彼は、成長するにおよんで、トルコ諸族の住地をくまなく遍歴してトルコ語諸方言に通じ、それらを、トルコ族に関する万般の事項を挙げつつ、アラビア語で説明したのである。(注3) こうした書物の出現それ自体、いまや、トルコ語およびトルコ族にたいする知識が、当時のイスラム世界の中心バグダード、いやさらに広くはイスラム世界全域において要求されていたこと、つまり、イスラム世界でのトルコ族の役割がきわめて重視されるにいたっていたことを物語る。(注4)

西進したトルコ族は、こうして、東にむかって拡大してきたイスラム世界に包みこまれてトルコ-イスラム文化の花を咲かせ、中央アジアのトルコ化、イスラムの東方伝播に貢献したのである。

(注1) 別書には、「…現世に対する諦念を主張する議論が多くみられ、これを仏教からの影響とする説もあるが、むしろイスラーム神秘主義思想の忠実な反映と考えるほうが自然…」とある。

(注2) 「クダトゥク-ビリク」について、ウイグル人が書いた解説がこちらにある。

(注3) 「トルコ語総覧」について、ウイグル人が書いた解説がこちらにある。

(注4) セルジューク-トルコのトゥグリル-ベクが、1055年にアッバース朝のカリフの要請でバグダードに入り、スンナ派のスルタンとして正式に認知された。
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by satotak | 2006-06-30 03:04 | テュルク


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