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テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

セルジュークの出自 -オグズ-

「中央アジアを知る事典」(平凡社 2005)より:

オグス (筆者:井谷鋼造)
[オグズは]中央ユーラシア西部に居住したテュルク系の遊牧民族.その存在は,6世紀の突厥(とっけつ)時代から知られる.[突厥の滅亡とともに、その構成員の一つであったオグズの人びとは西方へと移動を始めた。]

アラル海北方の東西に分布し,シャマニズムやゾロアスター教を信仰し,ヤブグと称する支配者を戴いていたが,10世紀の半ばから,住地を南下させ,マー・ワラー・アンナフルの文化との接触の結果,イスラームヘの改宗を始めた.イスラーム化したオグズは,イスラーム史料の中でトルクマーンとも呼ばれるようになる.一方で,イスラーム化しなかったオグズは,そのままオグズの名で呼ばれ続けた.

11世紀に書かれたカーシュガリーの《テュルク諸語集成》によれば,オグズは22の支族に分かれていたとされる.この22支族の筆頭に挙げられる,クヌク氏族の出身とされるセルジューク朝が,11世紀にホラーサーンから西アジアへ進出すると,オグズ・トルクマーン集団は,セルジューク朝の軍事力の中核として,イラン,イラク,シリア,アゼルバイジャン,アナトリアへ移住した.これらの集団は,独立心の強いベグと呼ばれる,それぞれの首領を中心にまとまった氏族からなり,遊牧をおもな生業とし,交易や農耕に従事する者もあった.戦時には,ガーズィー(聖戦の戦士)として兵役につき,アゼルバイジャンアナトリア住民のイスラーム化,テュルク化に寄与した.オグズは,12世紀にセルジューク朝の統治者(スルタン)サンジャルに対して,ホラーサーンで大規模な反乱を起こし,セルジューク朝の体制を揺るがした集団の名前として知られるが,13世紀以後,民族名としては使われなくなる.

一方,14世紀の初めにペルシア語で書かれたラシードゥッディーンの世界史《集史》には〈オグズ・ハン〉の名が現れ,〈オグズ・ハン〉はテュルク・モンゴル系諸部族の伝説上の先祖とされている.また,オグズ・ハンの6人の息子たちから,それぞれ4人の子供が生まれ,オグズの氏族数24は,これら24人の孫に由来するとされる.これら24の氏族名には,カーシュガリーの記録する22氏族名がすべて含まれるが,列挙の順はまったく異なっている.

また15世紀の半ば頃に東部アナトリアで書かれたと思われる,叙事詩《デデ・コルクトの書》…は〈オグズの言葉〉で書かれたとされる.これらの例は,オグズの語が14世紀以後,実在した民族の名前を離れて,伝説や虚構の中で用いられるようになったことを示している.

セルジューク朝 (筆者:井谷鋼造)
オグズ・トルクマーン系のセルジューク家がイラン,イラク,シリア,アナトリアに建てた諸国家の総称.伝説によれば,オグズ22氏族の筆頭に挙げられる,クヌク氏族に属したセルジューク家は,10世紀後半にスンナ派のイスラームを受容し,アラル海東方のジャンド付近で遊牧生活を送っていた.その後,オグズの王(ヤブグ)と不和になり,マー・ワラー・アンナフルへ南下し,サーマーン朝,カラハン朝,ガズナ朝などと,ときには戦い,ときには同盟するという状況を経験しながら,トルクマーンの代表者としての地位を築いていった.

1038年,ホラーサーンのニーシャーブールを占領した初代スルタンのトゥグリル・ベグは,40年ダンダーナカーンの戦いでガズナ朝のマスウード軍を破り,以後西進の勢いを強めた.55年にはアッバース朝カリフの要請でバグダードに入り,スンナ派のスルタン(統治者)として正式に認知された.第2代スルタンのアルプ・アルスラン時代の71年には,東アナトリアのマラズギルトで皇帝ロマヌス4世ディオゲネス率いるビザンツ帝国軍を破り,アナトリアヘイスラーム教徒トルクマーンが浸透して,イラン文化の影響を強く受けたテュルク・イスラーム文化が流入する契機となった. …

by satotak | 2006-06-30 03:08 | テュルク


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