テュルク&モンゴル

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2010年 01月 28日

18世紀のジュンガルで結婚したスウェーデン人夫婦の物語

ハズルンド著 内藤岩雄訳「蒙古の旅 上巻」(岩波新書 1942)より:

…ポルタヴァ(注1)における敗戦の後、ロシアの捕虜となったスウェーデン人の中に、レナトという若者があった。
レナトはドイツから来たユダヤ人移民の家族に属していたが、彼は他のユダヤ人と共に1681年9月29日、ストックホルムのドイツ教会で洗礼を受けた。父のモーゼス・ヤコブはスウェーデン人となり、かつグスタフ・ミカエル・レナトゥスという名でキリスト教徒となった。そして移住したために貧困になったこの家族は、市庁と政府に対して根気よく請願したお陰で、次第にストックホルムで相当に繁栄するようになった。
息子のヨハン・グスタフ・レナトは18歳の時砲兵に応募し、ナルヴァ、ディーナ及びポルタヴァで転戦した。そして他の捕虜と共に1711年に、トボルスク(注2)に収容せられた。

ポルタヴァの捕虜の中に、後にレナトと同様の残酷な運命を分かつことになった、一人の若いスウェーデン婦人がいた。しかし、それより以前にも彼女の生活は、暴風雨の海のようであった。
彼女は前述のストックホルムのドイツ教会においてユダヤ洗礼が行われた後3年たった時、はじめて陽の光を見たが、『キリストが大きな犠牲を払って得た信者の組合』に加わることを許された際、ブリギッタ・クリスティアナ・シュルツェンフェルドなる名を与えられた。彼女の両親、すなわち『騎兵連隊副官にして、高名且つ家柄よきクヌート・シュルツンフェルド氏及び彼女の親愛なる母フルー・ブリギッタ・トラナンデル』は、彼女が未だ幼児の時逝去したが、しかし母方の伯母と『数名の高名な親族』は彼女を注意深く養育した。

15歳の時この若い婦人は結婚したが、数年後大戦争の結果寡婦になった。フルー・ブリギッタは夫の側に居りたいためリガ(注3)に移住していたが、そこで彼女はその後スウェーデン兵と再婚し、軍隊がロシアに進軍した時、彼女も伴われて行った。そしてポルタヴァ戦闘後、彼女は捕虜として夫と共にモスクワに収容せられ、1711年彼女は再び寡婦となった。
当時27歳で未だ美しかったフルー・ブリギッタは、他のスウェーデン捕虜メクレンブルク人(注4)、ミカエル・シムスと三度目の結婚をした。その後間もなく、彼女は彼と共にトボルスクのスウェーデン捕虜部落に移された。

ピーター大帝(注5)は砂金の豊富な河のあるトルキスタン方面に彼の境界を拡張する計画を有しており、その目的で陸軍中佐ヨハン・ブックホルツはジュンガル部人の草原の領土に遠征隊を準備するよう命ぜられた。このロシアの遠征隊に砲術と築城法に経験のあるトボルスクの多数のスウェーデン捕虜が参加したが、1715年この遠征隊はイルティッシュ河を遡りジャムィシェフに送られ、ブックホルツはそこに堡塁を築いた。参加したスウェーデン人の中にミカエル・シムスとヨハン・グスタフ・レナトがいた。
環境が平穏に見えたので遠征隊の数人の士官は彼らの妻を呼びよせた。しかし、かれらの到着する前に、『ジャムィシェフの城砦はカルムック人(注6)によって取囲まれ、付近の村は到るところ包囲軍によって荒された。彼らは又これらの旅行者をも襲撃した。・・・シムス大尉は殺害せられた。・・・婦人たちは・・・ひどい悲惨な奴隷生活に入った。』

ジュンガル部人の捕虜の中にフルー・ブリギッタとレナトが居た。そして殺された者の中にフルー・ブリギッタの夫シムスがいた。
スウェーデン人を捕らえたジュンガル部人はホイト族であったが、ブックホルツ遠征隊を全滅し、ロシアの計画を挫折させた後、彼らはエビノール(注7)湖畔の領地に退却した。
30年の間フルー・ブルギッタは多くの災厄を受けてきた。しかし、1716年の秋、彼女は一生涯の中で最も恐ろしい受難を経験したのである。彼女はジュンガル部人の手に奴隷となっていた。それらの野蛮人は、当時の著述家によれば、『荒し廻る野犬のように』スウェーデン軍の周囲に群がったアユク汗(注8)のトルグート軍の仲間であった。アジアの野蛮人たちは彼女に無慈悲極まる虐待をなし、『彼女のすべての着物をはぎ取ったばかりでなく、彼女の死ぬ日まで手足に縄目の痕が残ったほど厳しく長い間鉄鎖や強い縄で縛った。そして終に彼女がカルムック地方に連れて行かれた時、彼女は奴隷としてのさまざまのつらい不面目な仕事を強要せられた。そして文明国では稀な忍び難いとされるような粗末で、少量で且つ不潔な食物に満足しなければならなかった。』

ホイト族の族長は彼の白人捕虜を、ジュンガル部人の将軍ドゥカールに引渡し、後者は彼の主君すなわちジュンガル部人の豪勇な戦士であり、『カルムック人の最高主権者であって、彼の臣下及び彼らと同一人種の国民によって国王と呼ばれているが、周囲の国々からは王或いは太公と認められ、勇敢な高貴の英雄及び崇高なる王と言う意味でスルクトゥ・エルデニ・バドゥル・コンタイギーと称せられている』ツェワン・ラプタンの許へ彼らを連れて行った。

ツェワン・ラプタンはこのスウェーデン婦人を奴隷として、チベットのココノル地方(注9)から来たホシュート族の王女であった、彼の第一夫人に与えた。そして今はフルー・ブルギッタは『これまで丸裸体であった彼女を幾分か覆うため古い毛皮の着物を与えられたので』やや耐えられるような状態になった。
次第にスウェーデン婦人は王妃に愛されるようになった。というのは、彼女は行儀がよい上に女仕事、『特にクロシェ編物(注10)と織布』に熟練していたからである。そしてフルー・ブリギッタが宮廷で得た寵愛を、彼女は蒙古人私民の奴隷となっている、他のキリスト教徒の捕虜のためにうまく利用した。彼女が助けたり生命を救ってやった奴隷の中にレナトがいた。

ツェワン・ラプタンの掌中の玉は彼の若い娘セソンであった。彼女の母はヴォルガ・トルグートの有力な族長アユク汗の娘で、首領の第二夫人であった。セソンがクロシェ編物をしたいと特に望んだので、彼女はそのスウェーデン人の女奴隷を彼女の師匠に頼んだ。フルー・ブリギッタは小さな宮廷に移されたが、ここでもまた彼女は大寵愛を得ようと努めたので、間もなく彼女の欲求するものはどんなものでも得られるようになった。
若い王女セソンがアユク汗の孫ドンドゥク・オンボに婚約した時、フルー・ブリギッタは彼女の女主人に似合う嫁入衣装を調達する機密の使命を与えられ、この目的のために『小ブハリア』の『ゲルケン』(現今の東部トルキスタンのヤルケント(注11))で2年間過ごした。

元スウェーデン砲兵曹長レナトはフルー・ブリギッタの斡旋によって、首尾よく奴隷の身分を脱した上、ジュンガル宮廷で大いに寵愛された。彼自身、フレデリック王に提出した放免請願書の中に『大砲及び臼砲を備えた砲兵隊を創設し、200人のカルムック人に砲術を教えた』と述べている。彼はまた清朝人に対抗してジュンガル部人と共に実線に参加したと述べている。
レナトはついに彼をスウェーデン王に対する大使として派遣するようジュンガル部王を説服した。
しかし、その時勃発したコザックとの戦争が、この『使節団』の延期を余儀なくさせた。


『小ブハリア』から帰ると直ぐ、フルー・ブルギッタは王家の許しを得て、彼女の同国人レナトと結婚し、かくして侍女としての彼女の職務を解かれた。これが彼女を救う奇縁となった。というのは、1727年ツェワン・ラプタンは急死し、毒殺の疑いがあったので彼のトルグート人の第二夫人と彼女の娘セソンは拷問によって無理強いに自白させられ、彼らの全従者と共に死刑に処せられたからである。

ツェワン・ラプタンの晩年に、清朝皇帝はジュンガル部人の勢力を完全に打ち砕いた。そして前者の継承者ガルダン・ツェリンはかつては偉大で有力であった国民の粉砕された残った小部分の支配者となった。

この王にもスウェーデン人夫婦は大いなる寵遇を得て、間もなく彼らが釈放されるときが来た。王は不承不承『これらの二人の有用で気持ちのよい者』を解放したのであるが、彼自身の利益のために彼らの『快楽と希望』とを妨げたくなかったのである。1733年3月22日17年間『これらの野蛮人』の仲に逗留した後、レナト一家は彼らの恩人に別れを告げた。彼らの事をフルー・ブリギッタの伝記には『ある点においては確かに彼らは勝っているとは言えないが、正直、相互の愛情及びその他幾多の美徳は多くのキリスト教国民に匹敵する』。フルー・ブリギッタが出発するので、愛情の印として『王妃王女が彼女の出発を嘆いて流した涙の跡のある、数枚の手巾を順次に受取った』と書いてある。

このスウェーデン人夫婦は18人のスウェーデン人と134人のロシア人を、ジュンガル部の奴隷の身分から解放することに成功した。帰国旅行に夫婦は18人のスウェーデン人と、フルー・ブリギッタがキリスト教に改宗させるためスウェーデンに連れ帰ろうと思った20人の『綿花園の奴隷』をも同伴した。これらの中ある者は途中で斃れ、他のものはロシア人に抑留された。しかし、レナトとフリー・ブリギッダは1734年6月6日、残りの随行者と共にストックホルムに到着した。

帰国後わずか2年の1736年4月14日、フルー・ブリギッタは『彼女がこの世に51年9ヶ月生きた後』彼女の目を閉じ、その疲れた身体は当時の王立砲兵教会に埋葬せられた。
レナトは帰国すると直ぐストックホルムの砲兵中隊の中尉に任命せられ、次いでスウェーデン砲兵隊の大尉に昇進した。学会においては彼は大なる興味の的となった。彼が奴隷の境涯から故国に持ち帰った華麗な着物や、出来栄えから判断すればレナトでなくて蒙古人によって製図せられた、中央アジアの数葉の地図がユプサラ大学(注12)の所蔵に帰した。リンケピングの博学の僧正エリク・ベンゼリウスは地図の複写を手に入れ、リンネの後継者、オロフ・スルジゥス学長はジュンガル部より持ち帰った種子を手に入れ、ユプサラ大学の農園に播種した。

3年間フルー・ブリギッタの喪に服した後、レナトは絹織物業者イサック・フリッツの寡婦エリザベト・レンストレムと結婚し、1744年に彼が死ぬまで彼女と共に暮らした。…

(注1) ポルタヴァ→ポルタバ(ポルタワ):ウクライナにある工業都市。北方戦争で、1709年ロシアのピョートル一世がスウェーデン国王カール12世の軍を破った古戦場。
   北方戦争:1700-21年にわたり、バルト海域の覇権をめぐって行われたスウェーデンとロシアとの戦争。ポーランド、デンマークがロシアに加担。1704年スウェーデンはナルバの戦でロシア軍に大勝。敗れたロシアはピョートル一世の下で国内体制を建て直し、1709年ポルタワの戦いで大勝し戦局を逆転。1721年ニスタット条約を結んだ。この結果ロシアはバルト海に進出、国際的地位が高まった。

(注2) トボルスク→トボリスク:ロシア中部、西シベリアの都市。オビ川の上流、イルティシ川とトボル川との合流点付近にある。1587年、エルマークらにより創設。1708-1882年シベリア総督府が置かれ、行政の中心として栄えた。

(注3) リガ:ラトビア共和国の首都。リガ湾に臨む港湾都市。1201年創設。1710年ロシアが占領。

(注4) メクレンブルク:ドイツ北東部、バルト海に沿う旧地方名。民族大移動以後スラブ系民族が居住、12世紀からドイツの植民が行われた。三十年戦争(1618-1648年)後17世紀末までスウェーデンの支配下にあった。

(注5) ピーター大帝→ピョートル一世:ロシア皇帝(在位1682-1725年)。啓蒙専制君主の典型。自ら英国、オランダに留学して西欧の技術文化の輸入を図り、富国強兵に努めた。スウェーデンとの北方戦争の緒戦における敗北を契機に軍政改革に着手、また官営の製鉄所や織物工場を設置。1703年新都ペテルブルグを建設し、バルト海沿岸を制圧。

(注6) カルムック人→カルムイク[人]:西モンゴル諸族の一つで、広義にはオイラト(オイロト)の別称、狭義にはヴォルガ川下流に住みついたオイラトの支族であるトルグート族などのことをいう。
   ジュンガル:17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族部族連合。オイラト遊牧民は14世紀半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれ、この言葉がロシア語に入ってカルムイクとなった。現在ヴォルガ河畔に住むカルムイクは、1630年にこの地方に移住してきたオイラト部族連合の一部である。

(注7) エビノール[湖]:漢字で艾比湖。中国新疆ウイグル自治区北西部、ジュンガリアの盆地南西部にある塩湖。カザフスタンとの国境に近く、湖岸で塩が採取される。

(注8) アユク汗→アユーキ・ハーン:ヴォルガ河畔に移住したトルグート部の族長(在位1670-1724年)。アユーキの時代がトルグートの最盛期。ロシアのピョートル大帝がヴォルガ河畔にアユーキを訪問し、条約を締結した。トルグートはロシアのためにしばしば出兵し、1707年にはスウェーデン王チャールス12世と戦い、スウェーデン軍を苦しめた。

(注9) ココノール→青海湖:中国青海省北東部にある中国最大の塩水湖。

(注10) クロシェ:鉤(かぎ)針編み

(注11) ヤルケント→ヤルカンド:中国新疆ウイグル自治区タリム盆地西部にあるオアシス都市。毛織物を産する。漢代の莎車(さしゃ)国の地とされる。

(注12) ユプサラ→ウプサラ:スウェーデン、ストックホルムの北64kmにある学園都市。北欧最古の大学であるウプサラ大学がある。
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by satotak | 2010-01-28 11:40 | モンゴル


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