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テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

テュルクとペルシア -セルジューク朝の内実-

「都市の文明イスラーム 新書イスラーム世界史①」(講談社 1993)より(筆者:清水宏祐):

「玉座の足」は移動する
どの教科書をみても、セルジューク朝の首都の所在地は書かれていない。
…セルジューク朝の場合、いくつかの地方に分家(注1)ができ、中心が次第にあいまいになったという面はたしかにある。しかし、それ以上に重要なことは、君主が移動を続け、ときおりある都市に腰をすえたという、歴史的な経緯があったことである。特に、初期の時代にこの傾向が強い。君主は、ニーシャープール、レイ、イスファハーンという具合に移動し、都市(あるいは、都市郊外の緑地)に滞在すればそこが中心地となった。文書庁、軍務庁など、文献に記録がある役所も、実際には建物はなく、それを担当するものがいるところが即、役所となったのである。ペルシア語では、「首都」を「玉座の足」という。…君主が座る玉座とは、かついで移動可能なものである。ある場所に玉座がすえられれば、たちまちそこが「首都」となったというわけだ。

重用された奴隷将軍
セルジューク朝時代にいかに奴隷軍人が重んじられていたかを、サーウ・ティギーンなるものを例にとってみてみよう。ティギーンとは、北アジアのトルコ系遊牧民の君長の近親者にあたえられた称号で、漢文史料では「特勤」としてあらわれる。西アジアでは、これが奴隷に特有な名前となっていた。…
サーウ・ティギーンは、ホラーサーンの村に生まれ、おそらく奴隷商人をとおしてセルジューク朝に購入されたのであろう。トゥグリル・ベクのもとで軍隊の隊長、つづいて司令官へと順調に昇進した。トゥグリル・ベクがカリフの娘と政略結婚したときには、その費用一万ディーナールを、イラン西部の町から徴収する役をはたした。
二代目アルプ・アルスラーンのもとでは、一族内部の反乱を鎮圧し、カフカス遠征軍の指揮をとった。マラーズギルトの合戦では、ディオゲネスヘの使節となった。…つぎに、カラ・ハーン朝の侵入をアム河のほとりで撃退、ダルバンド、アッラーンをイクターとしてあたえられ、メッカ巡礼の指導者となってカリフに面会するなど、まさに八面六臂の活躍だった。
彼がイスファハーンで世を去ったとき、200万ディーナール、馬5000頭、ラクダ1000頭、羊3万頭の財産を残したという。

ペルシア人の宰相
一方、セルジューク朝で行政の実務を担当したのは、ペルシア人の官僚たちだった。カリフと折衝するのも、地方王朝との外交交渉をおこなうのも、高度に発達した形式の文書によらなければ何事もうまく運ばなかった。トルコ人にとって、実務にたけた書記官僚を確保することは、イスラーム世界での主権をにぎるためには、軍事力以上に重要なものであったともいえる。
そのなかでも特に有名なのが、ニザーム・アルムルク(「国家の秩序」という意味の称号)である。彼はホラーサーンの、トゥース地方のある村で生まれた。…
彼はガズナ朝のホラーサーン総督につかえたのち、セルジューク朝に転じ、まずアルプ・アルスラーンアター・ベクとなった。アター・ベクとは、セルジューク朝にはじまった制度で、王族の子息の養育係のことである。一対一で教育にあたったため大きな影響力をもち、その子が君主になれば、後見役として大変な権力を握ることになった。…

1063年、トゥグリル・ベクがレイ近郊で、…謎の死をとげると、ニザーム・アルムルクは奴隷出身の将軍とともに、アルプ・アルスラーン擁立に立ちあがった。…この闘争に勝利をおさめたニザーム・アルムルクは、即位したアルプ・アルスラーンのもとで宰相となり、王朝の基礎を固めるために尽力した。…

次にスルタンとなるマリク・シャーも、アター・ベクとしてのニザーム・アルムルクの後見を受けた。マリク・シャーは、即位したとき18歳。実際の政治はすべてニザーム・アルムルクがおこない、スルタンの仕事はただ狩りをすることだけだったという。実権をにぎったニザーム・アルムルクは、思いのままに手腕をふるうことができたのである。

古代ペルシアの遺産
ペルシア人宰相ニザーム・アルムルクの業績のひとつは、マドラサ(学院)の創設である。それ以前にもマドラサはつくられていたが、国家支配のイデオロギー確立と、体制に協力する官僚の養成のために、国家によってつくられたのは、これが最初だった。…

…宮廷の公用語は、ペルシア語だった。君主もペルシア語は理解できたが、アラビア語の素養はなかったようで、アラビア語のコーランやハディースの引用のあとで、わざわざペルシア語の訳をつけた歴史書も残っている。軍隊もペルシア語で訓練がおこなわれていたらしい。
将軍たちがカリフに拝謁した際には、ニザーム・アルムルクが、逐一アラビア語からペルシア語への通訳をつとめていた。歴史書も、従来のアラビア語のものにまじって、ペルシア語で書かれたものが次第に増えてきた。

彼の功績で最も有名なのは、『スィヤーサト・ナーメ(統治の書)』の執筆である。マリク・シャーの要請により、君主の統治の心構えを述べた教訓文学で、わかりやすい逸話、実例をあげて、統治論を展開している。トルコ系の支配者のもとで、古代ペルシア以来の理想としての帝王の支配を実現しようとしたものと考えられる。文章も、ペルシア語散文の傑作といわれている。…

晩年には、ニザーム・アルムルクとマリク・シャーとの関係は極度に悪化していた。...1092年、イスファハーンからバグダードへ向かおうとした途中、彼はダイラム人の若者によって刺殺された。…当時の人々はむしろ、王妃と組んだペルシア人官僚タージュ・アルムルクの差し金によるものと考えていた。官僚どうしの権力争いの結果だというのである。

ニザーム・アルムルクの墓は、イスファハーンの旧市街の南部地区にある。廟は簡素なものであるが、剣を浮彫りにした立派な墓石がある。かたわらにマリク・シャーの墓もあるが、こちらはずっと小さくつくられている。君主よりも部下の宰相の墓を立派にするとは、トルコ人も死後ペルシア人にしてやられたという形だ。…

トルコ人のもとでペルシア文化がさかえる
…セルジューク朝のもとで、ペルシア語の散文・韻文文学が、ともに著しい発達をとげた。それまでイスラーム世界では、ほとんどの記録はアラビア語でなされていた。アッバース朝時代、官僚の大半はペルシア人であったが、彼らは家ではペルシア語で話をしていても、役所ではアラビア語で執務し、記録をしていたのである。
…ペルシア語の場合、アッバース朝時代にはまだ書き言葉が発達していなかった。アラブに征服されてササン朝時代のパフラヴィー語の記録が途絶えてから、アラビア文字で綴られた今日みるようなペルシア語の文献があらわれるまで、長い断絶の時期があった。イラン人は、これを「沈黙の二世紀」とよぶ。そして、「沈黙の二世紀」に終止符を打ったセルジューク朝時代に、多くの文人があらわれた。放浪の大詩人オマル・ハイヤームは、セルジューク朝時代の文人のなかでも特に有名である。
…多くの人々にとって文学とは、耳で聞き、記憶すべきものだった。民族叙事詩として有名な『シャー・ナーメ(王書)』も、語り手がいて、辻講釈のようにして物語ったものだ。…

グズの反乱
セルジューク朝の内部矛盾が最もよくあらわれたのが、[マリク・シャーの息子]サンジャル時代[(在位1119~57)]におこったグズ族の大反乱である。遊牧集団をどのように統制下におくかは、常に支配者の苦労するところだった。このグズ族も牧地や馬のかいばを要求してもめごとをおこし、ついにはサンジヤルみずからが彼らによって捕らえられるという失態を演じてしまった。…
セルジューク朝では、君主が死んだときの後継者選出のルールが確立していなかった。イスラーム的な慣習によれば、子どもが親のあとを継ぐことになる。しかし、遊牧社会では、一族中の最年長者が後継者となることがふつうだった。そのため、スルタンが死ぬと、息子と叔父とが対立することが多かったのである。しかも、奴隷や官僚を優遇する政策に不満をもつ遊牧集団がこの争いに介入し、騒動を大きくした。
一方、イクター政策によって、地方総督が独立し、中央への税収が低下し、スルタンの力を弱めるのに拍車をかけることになった。このようにセルジューク朝も、内部抗争のなか.て、徐々に弱体化していった。…

(注1) 本家セルジューク朝(1037~1157)、ケルマン=セルジューク朝(1041~1186、イラン中南部ケルマンを中心)、ルーム=セルジューク朝(1077~1307、アナトリアを中心)、シリア=セルジューク朝(1078~1117、シリアを中心)、イラク=セルジューク朝(1117~1194、イラクを中心)

by satotak | 2006-06-30 03:11 | テュルク


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