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テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

モンゴルはどこから -チンギス・ハーン以前-

宮脇淳子著「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生かモンゴル国まで」(刀水書房 2002)より:

モンゴルという名前の部族がはじめて歴史文献に登場するのは、7世紀のことである。その時代は、モンゴル高原を突厥(とっけつ、トルコ)が支配し、南の中国は、鮮卑族の建てた唐王朝が支配していた。…

室韋はすなわちタタル
7世紀にアルグン河渓谷にいたモンゴル部は、唐から見れば、室韋(しつい)と総称される種族の一部だったわけだが、もともと当時の北アジアは突厥帝国の支配下にあり、…室韋の諸部落もまた、突厥に付属していた。…

…三十姓という多数の部族からなるタタルが、ケルレン河中流下流流域、アルグン河、オノン河、シルカ河方面にいたということになる。この、古代トルコ語でタタルと呼ばれる多数の部族が、同時代の中国史料では室韋と総称された諸部族であったことは間違いない。
…「九姓タタル(トクズ・タタル)」がセレンゲ河下流近くにおり、突厥やウイグルと激戦したという。
三十姓タタル九姓タタルの関係について記したものはないが、九姓タタルの住地が突厥やウイグルに近く、かれらがタタル諸部の中では、文化的により開けた部族であったとはいえるだろう。

突厥を滅ぼしたウイグルは、100年ちかく漠北のモンゴル高原を支配したのち、840年に、西北方から侵入してきたキルギズ軍に本拠地を追われて四散した。しかし、キルギズの支配は長続きせず、860年代には、タタルがキルギズをアルタイ山脈の北方に撃退してしまった。
キルギズをおって漠北の中心地にあるオルホン河畔に入ったのは、九姓タタルであると考えられる。13世紀にモンゴル部が強大になるまでモンゴル高原の支配部族だったケレイト王家は、おそらくこの九姓タタルの後身だろう。一方、モンゴル部をふくむ残りの三十姓タタルは、九姓タタルがかつて住んでいたセレンゲ河上流域やケルレン河上流にまで住地を広げた。チンギス・ハーンの時代に大部族として有名であるモンゴル高原東部のタタル部族は、かつての三十姓タタルの一部族で、この集団にだけその名が残ったのである。…

モンゴル史料の出現
…7世紀の蒙兀室韋(もうごつしつい)あるいは8世紀の三十姓タタルが、モンゴル部族の遠い祖先らしいことは明らかになった。しかし、このあとチンギス・ハーンが誕生するまでの500年もの間、モンゴルについて記した史料はほとんどない。これから物語るチンギス・ハーンの祖先たちの話は、すべて、チンギス・ハーンの子孫の時代、13世紀末から14世紀になって、口頭で伝えられ伝承や当時のさまざまな言語の記録をもとにして、書き留められたものなのである。しかも当時の記録といっても、チンギス・ハーンが成人するまで、記録をつける習慣はモンゴル人にはなかった。

13世紀にチンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国し、モンゴル人が中央ユーラシアの支配者となったために、古くから文字があり記録の伝統を持つ人びとが、モンゴル人の家来になった。それからはじめて、君主の一族の由来や偉業が書かれるようになったのだ。
それらのモンゴル史料のなかで、書かれた年代が古く、もっとも信頼のおける歴史書が二つある。一つはペルシア語の『集史(しゅうし)』(注1)、もう一つは漢文の『元史(げんし)』(注2)である。
…今のモンゴル人にとって、もっとも大切な資料がこの『元朝秘史(注3)である。…いわば「歴史小説」のようなものであるから、史料として利用するには慎重を期さなければならない。…

モンゴルの始祖説話 (注4)
…しかし、わが日本国でもっとも有名なチンギス・ハーンの始祖説話は、例の「蒼き狼」の神話である。『元朝秘史』はこのように物語をはじめる。

「高き天の定命(さだめ)を受けて生まれたボルテ・チノがあった。その妻のホワイ・マラルがあった。海を渡って来た。オノン河の源のブルハン・ハルドン[山]に遊牧して、生まれたバタチハンがあった」。
モンゴル語でチノは「狼」、マラルは「牝鹿(めじか)」の意味で、狼と牝鹿の夫妻が渡ってモンゴル高原に来た海とは、バイカル湖のことである。妻のホワイ・マラルのホワは、モンゴル語で黄毛のことで、ホワイはその女性形であるから、「黄色い牝鹿」という名前である。
…那珂通世博士は、ボルテ・チノを「蒼き狼」と訳した。…しかし、残念ながら「蒼き狼」は誤訳で、しかもチンギス・ハーンはその子孫ではないのだ。
モンゴル語で「ボルテ」は「斑点のある」という意味である。…だから、ボルテ・チノは「斑(まだら)の狼」という名前なのである。

『元朝秘史』の話では、ボルテ・チノとホワイ・マラル夫妻の八代あとの子孫に、ドブン・メルゲンが生まれる。ドブン・メルゲンが死んだあと、その寡婦のアラン・ゴワが天窓から差し込んだ光に感じて産んだ男の子が、チンギス・ハーンの祖先である。チンギス・ハーンはボルテ・チノと血統でつながっていないから、「蒼き狼」の子孫ではないのだ。
祖先が狼であるという始祖説話は、突厥など、いわゆるトルコ系部族に共通の物語である。

…狼と鹿の夫妻が渡ってきた海、とあるバイカル湖の西方のイェニセイ河の流域は、トルコ系のキルギズ部族の古い住地だった。さらにバイカル湖の北方のシベリアのヤクート人はトルコ系の言語を話す。だから、…モンゴル部族にはシベリアのトルコ系住民の血も混じっているということを示しているのだろう。

また、狼の子孫ドブン・メルゲンの妻となったアラン・ゴワの父は、ホリ・トマトの氏族長、母はバルグジン・トクムの領主の娘と伝えられるが、どちらもバイカル湖周囲の遊牧部族で、いまのブリヤート・モンゴル人の祖先にあたる。そういうわけで、チンギス・ハーンの祖先の物語は、モンゴル高原を中心とした広い地域の、さまざまな遊牧民に伝わっていた口頭伝承を集めて整理したものである、ということができる。

チンギス・ハーンの祖先の物語 (注4)
…『集史』『元史』『元朝秘史』に共通な物語は、アラン・ゴワが天の光に感じて産んだボドンチャルが、ボルジギン氏族の祖になったというものであった。そのボドンチャルの孫の寡婦モナルンと息子たちは、キタイ軍に攻められてケルレン河から逃げてきたジャライル部族に襲撃されて、皆殺しになった。ただ一人だけ生き残ったハイドが、バイカル湖のほとりのバルグジン・トクムに移って成人し、兵を率いてジャライル部族を攻め、これを臣下とした、という話が続く。このハイドはチンギス・ハーンの六代前の祖先だが、かれがどうやら最初の歴史上の人物らしい。

先に述べたように、アラン・ゴワもバイカル湖畔の出身だったことを考えると、チンギス・ハーンの祖先の本当の発祥の地はバイカル湖畔で、そこから南下してオノン河の渓谷に移住し、そこでチンギス・ハーンが生まれたと考えるほうがよさそうだ。

ハイドには三人の息子があって、次男のチャラハイ・リングンの子孫が、のちにチンギス・ハーンと敵対するタイチウト氏族になった。長男のバイ・シンホルにはトンビナイという息子があった。トンビナイには多くの息子があって、それぞれ氏族の始祖となったが、六番目の息子ハブル・ハーンが、チンギス・ハーンの曾祖父である。
トンビナイの時代と思われる1084年、久しぶりに漢文史料に「モンゴル」が現れる。『遼史』によると、この年「萌古(もうこ)国」が契丹に使者を派遣している。このころようやくモンゴル部にも王権が生まれて、「国」と呼べるような集団になったらしい。

1125年に金帝国がキタイを滅ぼしたころのモンゴル部族の指導者は、チンギス・ハーンの曾祖父ハブル・ハーンだった。ハブル・ハーンは金の朝廷を訪問したこともあるらしい。バブル・ハーンの死後、かれの又従兄弟(またいとこ)のアンバガイが次のハーンになった。
ハブルとアンバガイ二人のハーンの時代、モンゴル部族は、金の長城沿いに遊牧していたタタル部族と抗争をくりかえした。アンバガイ・ハーンはついにはタタル部族に捕らえられて、金の皇帝のもとに送られて殺された。

アンバガイ・ハーンのあと、今度はハブル・ハーンの息子フトラがハーンになった。チンギス・ハーンの祖父バルタン・バートルは、フトラ・ハーンの兄弟である。バートルとはモンゴル語で「勇士」の意味だ。バルタン・バートルには四人の息子があり、その三番目がチンギス・ハーンの父イエスゲイ・バートルだった。つまり、チンギス・ハーンは、モンゴルのハーン一族の出身ではあったが、傍系だった。
『元朝秘史』には続いて、チンギス・ハーンの父イエスゲイがメルキト部の若者から新妻ホエルンを掠奪する話、九歳のチンギス・ハーンとボルテの婚約、イエスゲイがタタル部族に毒殺され、残されたホエルンが苦労して息子たちを育てる話などが物語られるが、いずれも史実かどうかは定かではない。

(注1) 『集史(しゅうし)』:正式の書名を『ジャーミア・ウッタワーリーフ』(歴史の集成)という。チンギス・ハーンの孫でイランにいわゆるイル・ハーン国を建てたフレグの曾孫、第七代ガザン・ハーンが、1302年にユダヤ人宰相ラシード・ウッディーンに命じて、「モンゴル史」の編纂がはじまった。「万国史」、「地理誌」を加え『集史』が完成したのは1311年。
モンゴル帝国が遠征軍を組織するときは、戦利品が各部族に公平に渡るように、それぞれの部族あるいは氏族が代表者を参加させた。このため、遠征軍がそのまま征服地に残留して国家をたてたこのイル・ハーン国のような場合には、モンゴルの故地から遠く離れたイランの地に、モンゴル高原のすべての部族や氏族の子孫が暮らしていた。だから、イランの地で、『集史』のような、あらゆる部族の伝承を記録したモンゴル史が書かれたのである。

(注2) 『元史(げんし)』:中国の正史の一つで、元朝を継承した明朝で編纂された歴史書。1370年完成。

(注3) 『元朝秘史』:今のモンゴル人にとってもっとも大切な資料。モンゴル語の題は『モンゴルン・ニウチャ・トブチャアン』(『モンゴル秘史』)というが、モンゴル文字の原本は見つかっていない。原文のモンゴル語を、日本語の万葉仮名のように、一音ずつ漢字で写し、その脇に中国語で一語ずつの直訳を付け、一節が終わる漢文で意訳を付けたテキストだけが現存している。
モンゴル国では、公式には1240年の庚子(こうし)の年に成立したという説を採用し、1990年に『モンゴル秘史』成立750周年記念大会が開催された。…

(注4) [モンゴルの系図]参照

by satotak | 2006-06-30 03:14 | モンゴル


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