テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

チンギスの西征

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社 1996)より:

西へ!
金国遠征から帰還したチンギスは、ただちに西方のホラズム・シャー王国への遠征準備にとりかかった。1216年にゴビの北に帰ると、翌年、ジャライル族出身の宿将ムカリに「大師・国王」の称号を授け、…左翼のうち24個の千戸と新編成した…20個の千戸を配属させて、中国方面を委任した。チンギス自身は、残る部隊を率いて西へ向かうこととした。モンゴルを二手に分けたのである。…

そして全モンゴル軍には、1216年より2年の休息が与えられた。次なる大遠征への準備が、牧民社会の至る所で進められた。西方へは、諜報・調略を目的とする通商団が送られた。西の目標は、「カラ・キタイ」、そしてホラズム・シャー朝であった。

ところが、その西遼国[(カラ・キタイ)]は、ほとんど自滅していた。…

東トルキスタンの全域は、自然のうちにモンゴル領となった。すでに天山ウイグル王国と天山カルルク王国は、モンゴルに臣従していた。特に天山ウイグル王国は、モンゴルと一体化した。オアシス通商国家に変身していたウイグルの人々の知恵と情報が、モンゴルとリンクした。キタン族とは違った意味で、ウイグルはモンゴルの頭脳となったのである。

オアシスの太陽ホラズム・シャー
シル河の下流、ホラズム地方を根拠地に1077年に成立したトルコ系の軍事政権ホラズム・シャー朝は、13世紀に入ってめざましい勢いで拡大しつつあった。君主は、アッラー・アッディーン・ムハンマド二世。彼は、チンギス率いるモンゴルの勃興にめぐり合う不運さえなければ、中央アジア史上ばかりでなく、イスラーム史上、さらにはひょっとして世界史上にも、大きな足跡を残すことになったかもしれない。

…「マー・ワラー・アンナフル」、すなわち…アム河とシル河のあいだの大オアシス地帯を制圧した。次いで、アフガニスタン方面にあった謎に満ちた政権、ゴール朝を押さえた。さらに、イラン方面へ勢力圏を拡大し、実権回復の兆しを見せつつあったバグダードのカリフ政権アッバース朝をも、うかがう構えを見せていた。ホラズム・シャー朝は、イスラーム世界の覇者にのし上がりつつあったと言ってよい。13世紀の初め、ユーラシアには、二つの太陽が昇りつつあったのである。東のモンゴル、西のホラズム・シャー朝。両者の激突は、不可避であった。

1219年秋、チンギス率いるモンゴル軍は、末弟オッチギンにモンゴル高原の留守を委ねて、西征へと旅立った。この遠征の理由については従来、前年の1218年、ホラズム・シャー国の東方国境線にあるオトラルの町でチンギス派遣の通商団が全員虐殺された事件のため、とするのが定説であった。報復の遠征だというのである。しかし、これは誤解である。すでに述べたように、チンギスは金国遠征から帰還した1216年から西征の準備を始めている。カラ・キタイ征討からホラズム・シャー朝への攻撃が一連の作戦行動であることは、ラシード『集史』が明言している。虐殺された通商団は敵情視察のスパイ集団であり、ホラズム側が殺害するのは当然であった。

モンゴルの攻撃は、実に統制されていた。あらかじめ決められた計画に従って、ホラズム側の国境線の都市・要塞を着実に包囲し陥落させていった。
対するスルターン・ムハンマドの基本戦略は、専守防衛であった。それも、各都市ごとに分散防衛する方針であった。これは従来、イスラーム史家たちの強い非難を浴びている。しかし、おそらくそれは仕方がなかった。…

モンゴル騎馬軍を導き入れて長期戦にもち込み、敵方が疲れて撤退するところを、一気に反撃・殲滅する -こうしたムハンマドの思惑は崩れた。モンゴルが攻城戦にも見事な対応能力を見せるのを見たムハンマドは、1220年4月、…首都としたばかりのサマルカンドより、みずから脱走した。アム河を越え、ひたすら西へ逃走した。…
モンゴルは、実戦開始後わずか1年半あまりで、マー・ワラー・アンナフルからホラズム権力を追い出したのである。

モンゴルは「破壊」しなかった?
戦場は、東部イランのホラーサーンアフガニスタン方面に移った。ところが、ここでのモンゴル軍の行動は、疑問符がつくものだった。一転して、行動に計画性がなくなり、無意味な戦闘や攻撃、殺害も目につくようになる。おそらく、下調査なしに、逃亡するホラズム兵に引きずられて、うかと踏みこんだためであろうか。チンギスのホラーサーン・アフガニスタン作戦は、泥沼となった。

この時、モンゴル軍による住民の大殺戮がおこなわれたとされる。それは、イスラーム史書が、百万単位での虐殺が各地でおこなわれたように記すからである。これが従来、鵜呑みにされ、モンゴルを「殺戮者」「文明の破壊者」とする元となった。
しかし、もともとそんな大人口はいなかった。イスラーム史書の数字表記は、一桁どころか二桁くらい多い。たぶんに気分である。モンゴル側でまとめられたイスラーム史書にも大変な数が記されるから、信用できるのだ、という主張もおかしい。当時の軍記物において「破壊」や「殺戮」は悪業ではなく、功業である。できるだけ誇大に言うのがあたりまえだ。ヒューマニズムは、近現代の産物である。

そもそも、モンゴル自身が、「大殺戮」「大破壊」を喧伝した。恐怖のイメージをまき散らして、戦わずに降伏させる。「恐怖の戦略」を意図して演出していた。もちろん、モンゴルは破壊も殺戮もした。ただ、従来いわれるほど極端なものではなかった。第一、破壊し殺戮し尽くしてしまったら、あとはどうするのだろう。廃墟と死骸を手に入れても、仕方がない。…

1222年夏、チンギスは、必ずしも成功ではなかったホラーサーン・アフガニスタン作戦に見切りをつけた。全軍に旋回を命じ、ゆっくりとモンゴル本土へ退いていった。本拠の大オルドに帰着したのは、1225年陰暦2月のことであった。…そして、当のスルターン・ムハンマドは、逃走の果てに1220年12月、わずかの供回りの者に看取られて、カスピ海の小島で寂しく他界していた。…

チンギスは何を求めたのか
「人類文化史 第4巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974)より(筆者:護 雅夫):

…この西方遠征のきっかけが、「金国への全面的攻撃に要する、厖大な軍需物資の需要をみたすため、チンギス-カンははじめこの軍需物資の供給をモンゴル国内に活躍していた西アジア方面の隊商団に求めたが、さらに彼らを通じて、彼らの祖国たる、西アジアのホラズム帝国との通商条約の締結を強く願うにいたった」点にあることだけを指摘しておきたい(村上正二氏)。松田寿男氏が、「欧米学者の遊牧民に無理解かつ理不尽な従来の解釈を捨てて、この経緯を判断してみると、はじめチンギス-ハァンはイスラム商圏の実力をよく知りとって、モンゴル商圏を平和のうちにそれに結びつけようと努力した。ところが事態の悪化によって、彼はイスラム商圏を自己の商圏にとりこむことを決意する。これは彼を泥沼にふみこませたに等しい。…モンゴル軍はけっして勝手な経路を血に荒れ狂いつつ駆ったわけではない。彼らは…重要な市場を抑えながら、重要な商業ルートを進んだのである」と言われるのも上の意味においてである。…
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by satotak | 2006-06-30 04:04 | モンゴル


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