テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

世界帝国 モンゴル

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社 1996)より:

中央と属領
[第2代皇帝オゴデイの時代]…この書記局兼財務庁を備えるカラ・コルム中央政府のもとに直接リンクする形で、華北・中央アジア・イランの三大属領に対して、それぞれ「総督府」が置かれた。…これら総督府の本来の目的は、あくまで徴税業務にあった。…徴税の際の強制執行力と、徴税対象となる所轄地域の反乱防止のため、それぞれの地域の各種軍隊のうえに軍政統轄本部)が置かれて、税務部門に対して、それ相応の軍事力の裏付けの役目を果たしたとも言える。

こうして、モンゴルの占領地政策は、本式にはオゴデイ時代に始まったと言える。そのやり方はおおむね、モンゴルとしてはあまり立派とは言いかねる程度の出自の人物を中心に、モンゴルに準じるウイグルやキタン族の有力者を幾人か、総督府の長官クラスに据える。それに中央派遣のイラン系ムスリム財務官僚を組み合わせたうえで、在地の有力者をピックアップして下部組織とした。純モンゴル自身は、行政.財務には直接関わらないのを誇りとした。彼らはあくまで、武人であろうとした。…

点と点をつないだものにすぎないとはいえ、中央と属領を貫く人間組織が、ともかくもつくられた。それは、のちの大元ウルス時代に比べれば、まだほんのささやかなものではあった。しかし、とはいえ、それはそれなりに、初めて統治機構めいたものが姿を現したのであった。

こののち、大カアンのオゴデイは、もはや帝都カラ・コルム一帯の野営地や行宮をめぐって暮らす他、カラ・コルム地区を離れることはなかった。ありていに言えば、遊興と狩猟、そして酒宴に明け暮れる日々となったのである。
それでも、帝国は維持できたし、発展した。それだけ、いったん組織化されてしまったあとのモンゴルの軍事力は、強力であった。モンゴル帝国は、戦争を自己目的に組織が勝手に拡大再生産してゆく、一種の自動装置のようになった。人間の輪と領域は、急速に広がっていった。

…新都カラ・コルムの造営が進められていた1235年、近郊の野営地ではモンゴル帝室・諸将によるクリルタイがおこなわれた。会議は、春から秋にかけて延々と続いた。場所も、カラ・コルム地区の郊外に広がる春営地、夏宮地、秋営地など、点々と変わった。
議題の一つは、金朝滅亡後の北中国の戦後処理であった。…

世界戦略
もう一つの大きな議題は、東西への大遠征であった。
…金朝を殲滅させたあとの状況のもとで企画されたこのたびの東西大遠征は、…壮大な規模でおこなわれた。
西方遠征は、…「キプチャク草原」と呼ばれる西北ユーラシアの大草原の完全制圧が、まず第一目標であった。そして、それが達成されたならば、さらに西方へどこまでも突き進むこととなった。
西北ユーラシアは、もともとチンギスの構想では長子ジョチに委ねられるはずであった。…しかしジョチは、ホラズム・シャー国への遠征の後半、兵をシル河以北の現カザフスタンの地に進め、予定された経略活動を展開していた最中にみまかった。

したがって、この西方遠征には、ジョチのやり残した事業を実現する意味が込められていた。遠征軍の総司令官には、ジョチの次子で、ジョチ一門の当主となっていたバトゥが任命された。ジョチの長子オルダは、病弱で父の故領イルティシュの本拠を守って、当主の地位は弟のバトゥに譲っていた。…

バトゥ率いるジョチ家の諸王の他、チャガタイ、オゴデイ、トルイの諸王家から、それぞれ長子か、それに準ずる王子が参加することとなった。のちにモンゴル皇帝となるオゴデイ家のグユク、トルイ家のモンケも、重要なメンバーであった。
そして、これらチンギス家のプリンスたちを補佐し、おそらくは実際上の主将の役目を果たしたと思われるのが、歴戦の将スベエデイであった。彼はチンギス西征の折、スルターン・ムハンマドを追跡する使命を受けて、部将のジェベと共に2万騎を率いてアゼルバイジャンからルースィ(ロシア)へ討ち入った。15年ほど前のことである。…

この西征は史上、「ロシア・東欧遠征」などと呼ばれて、たいへん有名である。それと一対となるもう一つの遠征が、南宋遠征であった。…
この東西二大遠征を企画した頃より、モンゴルは「世界戦略」とでも言えるようなものを、少しずつながら意識し始めるようになっていった。

モンゴル軍少年部隊
バトゥの西征をはじめ、こうした遠距離の長年月にわたる外征の場合、「民族移動」の方式が普通だったチンギス時代とは異なって、モンゴル高原にいるある一つの千戸が丸ごとそのまま参加する形は、むしろ少なかった。主力となる軍団は、たとえば広く高原の牧民たちに10戸ごとに2人の若い戦士を供出させて、編成した。

モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。モンゴル高原を出発する時は、10代の、それも前半の少年であることが多かった。彼らは長い遠征の過程で、さまざまな体験をし、実地の訓練を通して、次第にすぐれた大人の戦士になっていった。モンゴル遠征軍の各部隊の指揮官は、手練の古強者があてられたが、兵員そのものは年若く敏捷な者たちから成っていたので、軍事行動も迅速であった。素直で、指揮官の言うこともよく聞いた。たいていまだ妻子もいず、身軽な分だけ遠征先にも馴染みやすかった。壮年兵や老年兵よりも、困苦欠乏にもよく耐え、ひたすら戦闘の勝利へ邁進した。こうした少年兵にとって、遠征の出発は人生への旅立ちでもあった。

このやり方ならば、モンゴル本土の千戸群は、そのまま維持される。我々はつい、大遠征を幾度も繰り返せば、モンゴル高原から成年男子はいなくなってしまったのではないか、などと考えがちである。しかし、そんな心配は必要ない。

彼らは遠征先で、そのまま落ち着いてしまうことも、しばしばあった。その場合、今やすっかり大人となったかつての少年兵や、さらにその子孫たちも、やはり「モンゴル」であることには変わりがなかった。はるかなるモンゴル本土の高原には、兄弟姉妹、一族親類がいた。帰るべき心のふるさとは、みなモンゴル高原であった。そして、帝国の拡大に伴って諸方に散った「モンゴル」たちを、見えない糸でしっかりと結びつけているものは、高原に変わることなく続いている「モンゴル・ウルス」であった。…

ルースィの大地 - バトゥの西征
…ジョチ家の遊牧地は、すでにシル河の北、ウラル山脈の東南にまで延びていた。現在のカザフ・ステップの東半.てある。1236年、バトゥの西征軍は、ヤイク河、すなわち現在のウラル河を越えて、「キプチャク大草原」に入った。

キプチャクというのは、カスピ海・カフカズ・黒海の北部一帯、西はドナウ河口に至るこの広大な西北ユーラシア大草原に、古くから住むトルコ系遊牧諸集団の名である。…彼らは大小さまざまな部族集団に分かれ、それぞれに別の族長・首領をいただいていた。
モンゴル軍はまず、これを叩いた。キプチャク族のうち、抵抗したり、西方へ逃走・移動するものもいた。しかし、バトゥ西征軍は、キプチャク諸集団の多くを吸収して、一挙に巨大な軍団に成長した。それらはみな、遊牧民の騎馬軍団であった。しかも、モンゴルという統制のきいた軍事組織に配属・編成されることによって、ばらばらだったキプチャク遊牧民たちは、精強きわまる大軍団に変身した。遠征の第一目標は、達成された。

バトゥらは、この新たに編成なった巨大軍団をもって、1237年、当時「ルースィ」と呼ばれていたロシアに向かった。…
この頃のルースィは、数多くの諸公国に分かれ、分裂と反目のさなかにあった。ルースイは、モンゴルの侵入に対して結束できず、完敗を喫した。この時、ルースィ全土は廃墟となったと言われている。…「タタルのくびき」の開始である。

しかし、事実は訂正を必要とする。モンゴルは、ルースィを駆け抜けた。実は、多くのルースィ諸都市は、無傷であった。モンゴル大侵攻の被害を受けたのは、モンゴル軍の進攻ルートにあった都市のうち、開城勧告に応じなかった町だけであった。しかも、そうした町も戦後、急速に復旧された。1240年におこなわれたと言われるキエフの破壊と大虐殺も、…大袈裟に書いた…。むしろ、モンゴル側がみずから、実際に破壊されたいくつかの例についてわざと激しく、その恐怖を宣伝した。そうして、相手方がみずから開城・屈服するよう演出したふしがある。モンゴルの軍事拡大の時代、ほぼ一貫して見られる「恐怖の戦略」の一つであったのではないか。

…これが、その後。パターン化した。自己の保身とルースィの権力を握るため、ルースィ諸公は進んでモンゴルに媚びへつらった。その最後の成功者が、モスクワであった。モスクワはモンゴルが来るまでは、存在したかどうかさえわからない程度の町であった。ルースィの人々にとって、「タタルのくびき」は、実は「ルースィ諸公のくびき」でもあった。

東方からの嵐
モンゴル軍は、さらに二手に分かれ、主力はハンガリ、分隊はポーランドへ侵攻した。…
ところが、1242年3月、バトゥのもとにオゴデイ崩御の報と西征軍の帰還命令が届いた。しかし、バトゥはすぐには兵を引かず、ハンガリなどを蹂躙しつつ、ゆっくりと旋回した。西欧は、破滅の寸前で救われた、と言われる。

従来、この遠征を「ロシア・東欧遠征」と呼んでいるが、はたして適当な呼び名かどうか、疑問である。たとえば、北東と南西の二つのルースィ地方への侵攻の間、1238年から翌39年にかけては、モンゴル軍はカフカズ北麓一帯に向かい、キプチャクの残部を掃討するとともに、アス族(古代のアラン族。現代のオセット族)を平定・接収した。これにより、キプチャク草原は、完全にモンゴルのものとなった。キプチャク大草原とそこに展開するキプチャク族とアス族の吸収は、モンゴルにとっては、ルースィ・東欧作戦以上に重要であった。そうした現実から言えば、「キプチャク・カフカズ・ルースィ・東欧遠征」と言わなければならない。…

こうして結局のところ、西欧には直接の被害はなかった。西欧にとっては、モンゴルの来襲は、しょせん一過性の「東方からの嵐」でしかなかったのである。

巨大なジョチ・ウルス
オゴデイ逝去の報に、遠征軍を構成していたモンゴル諸王家の部隊は、次々と東方へ引き揚げていった。しかし、バトゥ率いるジョチ家の軍団は、モンゴル本土へ向かわなかった。バトゥは1243年頃、かねて自分の本営地として選んでいたヴォルガ下流の草原に戻った。彼らはその後、後継者選びで紛糾するモンゴル本土をはるかに見やりながら、どっかと腰を据えて動かなくなった。

バトゥを総帥とするジョチ一門は、大カアン不在の結果、この遠征の巨大な成果を、ほとんどそっくり頂戴する形となった。彼らは、キプチャク諸族が分布していた大草原を、そのまま自分たち独自の土地とした。…
チンギスからジョチに分与されていたモンゴル牧民は、わずかに四つの千戸であった。ジョチの遺児たちは、この牧民たちを分有して、それぞれの集団の基幹部隊とした。その下に、厖大なキプチャク牧民たちが属することとなったのである。

こうしてジョチ・ウルスは、モンゴル国家の一員とはいうものの、その実態はトルコ系のキプチャク族が大半を占める独特の構成となった。ジョチ・ウルスの人々は、言葉も容姿も急速にトルコ化した。バトゥの庶弟ベルケが当主となってからは、イスラーム化も進行する。現在、西北ユーラシアがトルコ系ムスリムの地となっている直接の契機は、モンゴルにある。事態をありのまま見れば、ジョチ家のモンゴルがキプチャク族の大波に吸収されたと言える。ジョチ・ウルスを「キプチャク・カン国」などと俗称するのは、こうした現実を背景としている。しかし、もともと人種・民族を超えた集団こそ、「モンゴル」の本質であった。

モンゴル到来後、西北ユーラシアの政治地図は、大きく様変わりした。雨は少ないけれども肥沃な南の大草原は、牧民世界。雨は多いけれども土地は痩せた北の森林地帯は、…ほそぼそとした零細農民の世界。その基本構図を引き継ぎながらも、草原の力を有効に組織化した新来者モンゴルによって、それまでは牧民・農民ともにばらばらで求心力がなかった状態が、ゆるやかに統合された。
これら全体が、一つのシステムを成した。その多重構造の連合体の頂点にいるのが、ヴォルガ河畔を南北に「オルド」を季節移動させるバトゥ家の当主であった。その巨大な天幕をロシア語で「ゾロタヤ・オルダ」、すなわち「黄金のオルド」と言った。…

史上初めて、巨大な西北ユーラシア世界が、一つの歴史世界として登場することになった。そして、ジョチ家のモンゴルを中心とするこの図式は、時とともに次第にゆるみ、崩れ、変形しながらも、ともかくもほぼ300年続いた。ロシア帝国も、その中から誕生する。こうした一連の事柄は、今まで西欧中心主義のため、ともすれば見失われがちであったが、世界史上のごく単純な事実なのである。
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by satotak | 2006-06-30 04:05 | モンゴル


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