テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

トプカプの『集史』

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社現代新書 1996)より:

トルコ共和国のイスタンブル。オスマン朝の故都である。…その旧市街のトプカプ宮殿は、オスマン朝の故宮である。たくさんの観光客でにぎわう一角に、石造りのごくささやかな図書館がある。ここだけは、訪れる人もなく、ひっそりとしている。オスマン朝の600年のあいだ蒐集されたさまざまな書籍・古写本が眠っている。モンゴル帝国の研究にとって、最も根本となる最古・最良の古写本が、ここにある。

ラシード・アッディーンの『集史』。ペルシア語で記されたこの歴史書は、人類史上、最大の歴史書と言ってよい。『.集史』は、イラン方面におけるモンゴル政権の「フレグ・ウルス」、俗称イル・カン国でつくられた。

西暦1295年、軍事クーデタで第七代目のフレグ・ウルス君主となったガザンは、イスラームに改宗し、国家の根本改造と行政改革に乗り出した。その改革を進めるヴァズィール、すなわち宰相として指名したのが、自分の侍医でもあったラシード・アッディーンである。西部イランのハマダーン出身のラシードは、実はユダヤ人であったとも言われる。ガザンとラシードの主従は、フレグ・ウルスの再興のため、力を合わせて邁進するかたわら、モンゴル帝国の歴史編纂にもとりかかった。

その目的は、いくつかあった。すでにチンギスの創業以来90年ほどの歳月が過ぎ去り、モンゴルはユーラシアの東西にまたがる文字どおりの世界帝国となっていた。しかし、そうしたモンゴルたち、とりわけフレグと共に「大西征」の軍隊として「イランの地」にやってきたモンゴルたちは、自分たちの由来や歴史について、次第にわからなくなり始めていた。
自分たちは、いったいどういう人間なのか。なぜ「イランの地」にいるのか。そして、東方の宗主国である「大元ウルス」をはじめ、その他のウルスにいるモンゴルたちと、どんなつながりや縁、あるいは血脈で結ばれているのか。

…「世界」に散らばる「モンゴル共同体」のすべての者たちに、広くモンゴルたることの自覚を呼び覚まそうとした。特に、自分の臣下であるイラン方面のモンゴルたちに対しては、現在の栄光と富貴のみなもとは、直接にはフレグとその血統を中心とする結束にこそあることを、訴えようとした。

ガザンがラシードに求めたのは、そうした「モンゴル史」の編纂なのであった。だから、そこにはかザンの政治上の立場と、彼自身の見解が、色濃く投影されている。ガザンは、単に編纂の命令者にとどまらない。半ば以上、ガザン自身が著者であり、編者であった。
編纂にあたっては、モンゴル帝室共有の『アルタン・デフテル』、すなわちモンゴル語で『金櫃(きんき)の秘冊』という秘密の史書も使われた。…数多くのさまざまな情報提供者も協力した。モンゴル各部族に伝わる「旧辞」や系譜なども、書伝と口伝とを問わず利用された。しかしそれにもまして、核心部分についてはモンゴルの諸事や秘事を熟知していたガザン自身の口述に基づくところが大きかったと、ラシードは記す。

編纂長官となったラシードは、スタッフに任せきりにすることなく、多忙をきわめる庶務のかたわら、みずからも夜明けとともに筆を執り、時には移動の際の馬の背でも構想を練るなどして、寸暇を惜しんで主人ガザンの期待に応えようと努力した。
しかし、ひとまずの完成を見る前に、1304四年、ガザンは激務の果てに、34歳の若さで他界した。しばらくして、ガザンの後継者となったその弟のオルジェイトゥに奉呈された史書は、『ガザンの歴史』もしくは『ガザンの幸いなる歴史』と名づけられる「モンゴル史」であった(…「幸いなる」と言うのは、すでに死去していたガザンヘの敬意を示す)。

実は、当時の情勢を冷静に眺めると、ガザンがこの「モンゴル史」…の編纂を思い立った時、フレグ・ウルスという遊牧民の連合体は、がたがたになっていた。国庫はほとんど空となり、遊牧騎士たちをつなぎとめるべき経済力も国家財政も枯渇に瀕していた。ウルスの創始者フレグが麾下の西征軍をもって1260年「イランの地」に事実上の政権を樹立して以来、これといった確かな国家機構を組み上げることなしに成り行きまかせにやってきたことのつけが、たび重なる内紛と相乗効果をなして、新君主ガザンの前に投げ出されていた。そうした国家と政権が伸(の)るか反(そ)るかという時に、かつての部族連合の「記憶」を呼び覚まさせるため、ガザンは「修史事業」に乗り出した。単なる「文化事業」では、とてもなかった。やむにやまれず、必要に迫られて、「モンゴル史」の編纂を企てた。むしろ、追いつめられていたからこその、歴史編纂であった。その意味で、かぎりなく政治色の濃密な「国家政策」であった。

しかも、そこにはもう一つ、ガザンの密かな思惑が秘められていた。ガザンの立場からすると、それまでのフレグ・ウルスの王位継承はあまりにも錯雑をきわめていた。ガザンの直接の祖父アバガ(第二代)、父アルグン(第四代)の歿後は、それぞれ弟に王統が移った。ガザン自身が「反乱」を起こして打倒した第六代のバイドゥは、まったくの庶流の人物であった。ガザンは、フレグ-アバガ-アルグン-ガザンと直系の長子による王統こそフレグ・ウルスの正統なのだと宣言したかった。そこで、その論理に拠って「フレグ・ウルス」の部分を編纂させたのである。もとよりガザン自身はクーデタによる不当な簒奪者ではなく、本来しかるべき正当な王位であり、「嫡統」ガザンのもとに今や推し進められようとしている国家改造こそ、フレグ・ウルスを再興せしめる聖なる勲(いさおし)だと主張しようとしたのである。

ところが、そのガザンが他界し、「モンゴル史」が出来上がろうとする間に、帝国と世界の情勢は大きく激しく変化していた。モンゴル帝国を揺るがした中央アジアの紛乱は、カイドウの死を境に、1303年から4年にかけて急速に鎮静化し、モンゴルの東西は完全に和合した。ユーラシア世界は、再び一つとなったモンゴルを中心に、ゆるやかな平和状態となった。人類史上かつてない巨大な地平が、そこに拓かれていた。

モンゴルの目からすれば、「世界」はモンゴルの手の中に握られているかのような状況となった。こうした帝国と世界情勢のいちじるしい変化をうけて、第八代フレグ・ウルス君主のオルジェイトゥは、さらにこの「モンゴル史」の他に、当時の「世界」の主な"種族"の歴史も追加編纂するよう、ラシード・アッディーンに依頼した。ガザン時代と変わることなく宰相の任を委ねられていたラシードは、当地の学者だけでなく、中国やカシュミールなどからの仏僧の他、キリスト教徒、ユダヤ人の学者などもスタッフに加えた。
人祖アダムに始まるヘブライの預言者たちと古代ユダヤの歴史、古代ペルシアの王朝史、
預言者(ペイガンパル)ムハンマドに始まるカリフたちの歴史、および、モンゴルが滅ぼしたホラズム・シャー朝やイスマーイール教団に至るまでのイスラーム諸王朝の歴史、伝説のオグズ・ハンに始まるトルコ族の歴史、やはり伝説の人祖「盤古」に始まり南宋最後の少帝に至る中国諸王朝の歴史、さらには、「フランク」という名のヨーロッパの歴史がつくられた。釈迦と仏教の歴史を含むインド史もつくられた。

ここに、ガザンの「モンゴル史」を中核に、さまざまな「世界」の諸地域の歴史をより集めた一大史書が、出現した。それは、モンゴルを中心とする「世界」をもはや当然の前提にし、そこに至る「世界の歴史」を、史上初めて体系化しようとするものであった。….西暦1310年ないし11年、オルジェイトゥに捧げられた拡大版の「新版」は、「諸史を集めたもの」の意味で、『ジャーミー・アッタヴァーリーフ』、すなわち『集史』と名づけられた。

『集史』は、時の権力者であるモンゴルが、ペルシア語でつくらせた巨大な「モンゴル正史」である。それとともに、14世紀初めに至るまでのユーラシア諸地域についての総合史ともなった。しかも見逃せないのは、その一方で、フレグ・ウルスとその再編事業に関して、ガザンとラシードという二人の当事者自身が語る、またとない完全同時代史という側面をも併せもつことである。ペルシア語の史書とはいうものの、実に数多くのモンゴル語、トルコ語の用語にあふれ、さらには漢語、ティベット語、サンスクリット、ラテン語などに由来する単語さえも使われている。

もし『集史』がなければ、モンゴル帝国史は語れない。そればかりか、中央ユーラシアに展開したトルコ・モンゴル系の遊牧民たちの歴史も、再構成が難しくなる。そしてイスラーム史・イラン史も、実は大きな史料源を失うことになる。『集史』は人類史上、空前の史書であった。そして、その後も、実はその規模と視野の広大さ、加えて何よりもそのデータのもつ根本性において、これに匹敵する歴史書はつくられていないと言って差し支えないのではなかろうか。まさに、モンゴルという未曾有の政権と時代であったからこそ出現した、未曾有の一大歴史編纂物であった。
それはまた、モンゴルが、「世界」というものを明確に意識していた紛れもない証拠となる。…
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by satotak | 2006-06-30 04:09 | モンゴル


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