テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

20世紀以前のモンゴル -モンゴル人の歴史認識-

Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より:

…遥か昔の話ではなく、最近までのひどくゆがめられた歴史を振り返ってみよう。…後に「世界の征服者」と呼ばれる有名なチンギス・ハーンが、13世紀にすべてのモンゴル民族を統一し、初めてモンゴル国家を成立させ、仏教を取り入れたことを知っているであろう。その子孫は、やがて朝鮮半島からハンガリーに至る広大な帝国を築きあげた。彼の孫フビライ・ハーンは中国に元王朝(1279-1364)を建国した。

しかし、モンゴル勢力の絶頂期はそれほど長くは続かなかった。14世紀の半ば頃に、この一大帝国は分裂を始め、モンゴル人は万里の長城の北方の故土へ撤退せざるを得なくなった。モンゴル人がたやすく撤退できた大きな理由の一つは、彼らすべてが乗馬に優れていたことによる。その上、彼らの広大な領土は、北からの脅威のないゴビの北にあり、まだ安全であったからである。しかし、17世紀も終わり頃になると、モンゴル人はロシアによる東方への勢力拡大に脅威を感じはじめ、間もなく彼らの移動の自由は大幅に制限されるようになる。

元王朝崩壊後、モンゴル人は暫らく故土に引き下がり、北元を建国した。その後、大きく二つの集団に分かれ、東部は東モンゴル(ハルハを含む)、西部はオイラト・モンゴルと呼ばれた。両者は自分たちこそがハーン王位の正当な後継者であると主張しあい、その紛争解決のために内戦が長引いた。東モンゴルの支配者ダヤン・ハーンの軍は1500年前後、オイラトを破り、暫くの間モンゴルを再統一した。敗れたオイラトは北西に移動し、アルタイ山脈の周辺で名高いジューンガル帝国を樹立した。

ダヤン・ハーンと彼の孫たちは伝統的な支配体制を引き継ぎ、東モンゴルの南部地帯からゴビの南部に神経を集中させた。ダヤン・ハーンが、人民と領地を息子たちに封土として分け与えたが、その多くは南モンゴルであった。ただ、末子のゲルセンゼだけにはゴビの北方にある遠隔地を与えた。そこは後に北モンゴル、あるいはハルハ・モンゴルとして知られるようになる。ハルハは南モンゴルに比べて弱体で後進的であった。だが、17世紀になると、満州族がモンゴルの東部で蜂起し、モンゴルを行政的に二分割することになった。満州族は中国に清王朝を樹立し、1636年、まず南モンゴルを従属させ、1691年までに北のハルハ・モンゴルを服従させたのであった。

ハルハ・モンゴルはトゥシェート、ザサクト、セツェンの三つのハーン領から成っていた。東部と西部との間で絶えず内紛が続き、弱体化していた。…満州皇帝はハルハとオイラトの争いを、いずれは併合しようとして関心を持っていた。…その戦闘(1688-1691)で[オイラトの]カルダン・ボショグトに敗れたハルハの統治者たちは、南モンゴルの国境周辺に逃れた。

なぜハルハの統治者たちがロシアでなく満州帝国[(清朝)]に同盟を求めたのかという伝統的な理由は、第一代ジェプツンダンバ・ホトクトの主張によると言われている。それは満州人が同じ信仰を持つラマ教徒であり、モンゴル人と似た衣服を着ていたのに対し、ロシア人は異なる信仰を持ち服装も異なっていたからである。その当時、ロシア人とモンゴル人とでは伝統、習慣、言語、宗教に大きな違いがあったことを理解されたい。一方、満州人はモンゴル語に近い言葉を話していたし、また、満州語のアルファベットはモンゴル文字を採用した。ハルハの統治者たちが、満州皇帝と同盟(1691年のドロンノールの条約)を結ぼうとしたのは、自分たち独自の遊牧文化、民族的特質と宗教が保持出来ると考えたのは明白である。

モンゴルが公式に、南部(ウブル・モンゴル)と北部(アル・モンゴ)とに分割されたのは17世紀末にモンゴルが満州人の清朝の一部になった時である。その結果満州の統治者は、この二つのモンゴル全土を別々に取り扱った。その基準は、満州人が最初に服従させた当初のモンゴル諸侯の協調の度合いによる。南部モンゴル諸侯の協調はより強かったために、満州の統治者は彼らを内区(内蒙古)として扱い、それを49の旗(ホショー)に分けて満州軍と同様の募兵組織とした。北部モンゴルの諸侯は長い間抵抗したので外区(外蒙古)として取り扱い、34の旗に組織した(ハルハは後に86の小さな旗に分割された)。

内モンゴルの49旗と外モンゴルの86旗は、満州当局から任命された世襲諸侯によって統治された。満州人は、内、外両モンゴルの行政を監督する最高機関として、北京に理藩院(満州国の少数民族管理機関)を創設した。…彼らの忠誠心を最も確実にする方法は、満州皇帝一族の女性と結婚させることであった。

南モンゴルのトゥメドのアルタン・ハーンがチベット仏教の黄帽派を取り入れ、この宗派をモンゴル人の共通の信仰として支援した16世紀末以来、仏教の教えや戒律は、モンゴル遊放民の習慣や社会、その他さまざまな活動に大きな影響を与えた。チベット仏教のモンゴル版はラマ教と呼ばれ、その僧侶はラマ僧として知られている。
満州皇室の寛大な政策のもと、モンゴルの教会組織は大きく成長し、国家の中の国家と言われるほどになった。ハルハだけについて見ると11人の上位ホトクト(高位のラマ僧)とおよそ50人の下位ホトクトがいた。ホトクトは、世俗の封建貴族と同様に封建制度の特権を享受し、自分の領地内で権力をふるった。その結果、高位のラマ僧たちは、封建貴族とともにモンゴル社会の二大中心勢力となった。この両者間の権力争いも、また、モンゴルの近代史における主流である。

ラマ教徒の管理は、少なくとも一部分は理藩院の管轄下に置かれた。新しく転生したホトクトの承認、その公式任命、地位、称号、寺院の僧侶の数、あらゆるラマ教大寺院の管轄権といったすべての事柄について、理藩院が権限をもっていた。著名な転生した高位ラマ僧は、すべて6年ごとに自ら北京へ出頭し、順序に従って皇帝に対し忠誠の宣誓をするよう命じられた。ラマ教庁が北京に設立され、理藩院の指導のもとにラマ教行政を監督した。

北部、即ちハルハ・モンゴルの最高のラマ僧はジェプツンダンバ・ホトクトであることは良く知られている。その第一代と第二代の転生者は、ハルハ・モンゴルの四人のハーンの中で最も影響力のあるトゥシェート・ハーン家に現われた。つまり彼らはチンギス・ハーンの子孫だということになる。彼らはモンゴル政界で高い威信を持ち、モンゴルの精神的な指導者であった。その結果、満州宮廷は彼らの指導力のもとでモンゴルが再統一されることを恐れた。このモンゴルの再統一を阻止するため、満州皇帝は不文律の規制を発布した。この規制で、ジェプツンダンバ・ホトクトの三代目とそれ以降の転生者は、モンゴルではなくチベットで求められることになった。

問題の鍵は、なぜモンゴル人が200年以上も満州族、漢族に支配されながら、中国化されなかったのかということにある。辺鄙な場所、過酷な気候といった地理的要因を除外しても、文化や宗教が重要な要因であることに注目すべきである。文化面では、モンゴル人は彼ら自身、チベット仏教界の一部をなすと常に考えてきた。その結果、モンゴル文化には中国の儒教との共通点が多くない。さらに満州人は、モンゴルと強力な同盟関係を維持しようと考えたので、様々な反漢的な法律を採択し、かつ実施した。それらの法律は20世紀初頭まで効力があった。満州人は中国人がモンゴルの国境を越えたり、モンゴルで耕作したり、モンゴル女性と結婚することを禁じた。

ロシア帝国満州帝国[(清朝)]は、18世紀と19世紀の間、アジア内陸部への勢力拡大を図った。両国は17世紀に征服した大モンゴルのそれぞれの地域に境界を定めることが得策であると考えた。そこで、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約でその実現を図った。後者はモンゴルを分割して、清朝の支配地域とロシア支配地域に国境を設定した。

1850年代後半は、中国商人や北方モンゴルに定住しはじめた中国人に対して、満州宮廷は、その厳しい政策を次第にゆるめていった。…中国商人は、ホブド、ウリヤスタイ、ウラーンゴム、イフ・フレー[大庫倫、今のウランバートル]に集中した。ある推定では、19世紀末の北部モンゴルには、およそ500軒の中国人商店があり、10万人の中国人定住者がいたと言われる。彼らはモンゴル全域で商売をし、彼らの金融業はモンゴル国家財政をも脅かすほどのものになった。中国人の通商組織は全モンゴルを支配し、貿易額は北方モンゴルで1905年には5000万ルーブルと見込まれた。これはロシアの対モンゴル貿易額の6倍に当たる。

19世紀後半には、ロシアの商業勢力が北方モンゴルの全土に及び、かってないほど強力になった。1860年11月、ロシアと清当局との間で締結された北京条約によって、1861年イフ・フレーにロシア領事館が設けられた。ロシアの貿易商はイフ・フレーや張家口は言うに及ばず、遥か北京に至る地域での通商権を手にした。…1881年のサンクト・ペテルブルグ協定により1905年、ロシアはモンゴル西部のホブドに領事館を開設した。ロシアの対モンゴル貿易額は飛躍的に増加し、中国貿易との競争は激化した。モンゴルとロシアの貿易額は1861年にわずか10万ルーブルだったのが、1885年には170万ルーブルに増加し、1900年には1690万ルーブルにもなった。
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by satotak | 2006-06-30 05:01 | モンゴル


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