テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

モンゴルの今

生駒雅則著「モンゴル民族の近現代史」(東洋書店 2004)より:

モンゴル民族の分布状況
古来、遊牧生活を送ってきたモンゴル民族は、ユーラシア大陸に広く分布している。現在の「モンゴル国」(旧モンゴル人民共和国、いわゆる外蒙古)には17部族250万人が居住し、総人口の70%余りを占めるハルハ族を除くと、大部分が西北部に住む。特にホブド地区には、カザフ族など非モンゴル系少数民族も居住する。モンゴル国以外では、ロシア領にカスピ海沿岸のカルムイク族(約20万人)やバイカル湖沿岸のブリヤート族(約50万人)が、中国領ではフルンブイル(呼倫貝爾、別名バルガ)を含む内モンゴル自治区(ダグール族約28万人、その他約400万人)や新彊ウイグル自治区(オイラート系諸族約16万人)、さらに雲南省やチベット自治区にも居住する(分布図参照)。
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モンゴル国は西高東低の高原の国で、標高平均約1,500メートル、気候は典型的な大陸性・高山性で降水量もわずかであるが、西部ホブド地区と北部フブスグル地区ではシベリアの湿気と高山の雪解け水で河川や湖沼が多く、比較的水量に恵まれ、森林や草原が発達している。東部と対照的に水と動植物に恵まれた西部モンゴルでは、「林の民」と呼ばれた人々が、遊牧だけでなく狩猟や農耕にも早くから従事してきた。一般にラマ教(チベット仏教)の影響で農耕はタブー視されてきたが、西部モンゴルのトルベート族などは農耕に従事する。自然環境や生活様式・習慣の相違は、モンゴル民族の間に東西の差異を生み出す原因の一つとなった。

東部モンゴル人は、ハルハ族を中心に、北部のブリヤート族、バルガ族や南部のトゥメト族、チャハル族などに分かれる。現在のモンゴル国は大部分が東部モンゴル人、特にハルハ族から構成されている。…

西部モンゴル人は自称「オイラート」で、…ロシア人やムスリムは「カルムイク」と呼ぶ。清朝初期にはホショト、ジュンガル、トルベート(デルベト)、トルグートで「ドルベン(四)・オイラート」を形成したが、1676年に「ジュンガル王国」が成立すると、その強大化と相次ぐ戦争を避けて、17世紀前半にトルグート部はヴォルガ沿岸へ、ホショト部は青海へ走った。一方、乾隆年間にホイト部とチョロス部がドルベン・オイラートに入った。ジュンガル王国滅亡(1757年)後にヴォルガ沿岸から「イリ帰牧」を遂げたのが「旧トルグート」で、ヴォルガに走らなかったものは「新トルグート」と呼ばれる。
ここに西部モンゴル諸族間の対立関係が見てとれる。ジュンガル王国の支配者ジュンガル部とそれに従ったトルベート、ホイト、チョロス各部に対して、ジュンガルの支配を拒んだトルグート、ホショトが対立した。また新旧トルグート間の対立は清朝の支配下において一層深まり、1907年の「ホブド・アルタイ分治」で固定化される。

1918年の「自治モンゴル」第1回国勢調査によれば、中国人100,000人とロシア人5,000人を除く総人口542,000人の内訳は、ハルハ492,000人(90.7%)、トルベート39,000人(7.2%)、ザハチン4,500人(0.8%)、エルート3,000人(0.6%)、ミンガト2,000人(0.4%)、ホトン(カザフなど回族)1,500人(0.3%)である。ハルハとホトン以外はいずれも西部モンゴル人であり、主として西部辺境ホブド地区に居住していた。

西部モンゴルの複雑な住民構成が清朝の支配に利用され、その分割統治によって強化・固定化された民族・部族聞の対立は、モンゴル人民共和国の形成に種々の問題をもたらすことになる。特にトルコ系ムスリムの存在は1924年のモンゴル人民共和国成立後も民族問題として残り、…1990年代に多数のカザフ族がカザフスタン共和国に移住した。...

民主化運動の高揚と「モンゴル国」再興
1952年から1984年まで30年あまりにわたって独裁体制を維持してきたツェデンバル政権時代が、ペレストロイカの流れの中でようやく終わり、1989年の米ソ冷戦終結とその後のソ連邦解体によって、モンゴル人民共和国でも民主化運動が進展し、民族意識も高揚し、ソ連離れが進む。

1989年12月にゾリックを長とする「モンゴル民主同盟」が「シネチレル(ペレストロイカ)」と民主化・人権尊重を要求して立ち上がり、初めて反政府デモを行った。民主同盟には学生、作家、芸術家など知識人が結集していた。「モンゴル民主化の星」といわれたゾリックは当時27歳の大学院生で、次期首相候補と期待されていたが1998年10月2日に何者かに虐殺され、未だに犯人が逮捕されていない。

1990年1月21日に当局の禁止令を無視して7,000人の市民がスフバートル広場に集まり、2月18日に初の野党「モンゴル民主党」が結成された。これを契機に「社会民主党」など新しく政党が続々と誕生する。1990年3月12日のモンゴル人民革命党中央委員会臨時総会でその全政治局員が辞職し、オチルバトら4人の新政治局員を選出した。21日の国民大会議で議長にオチルバトを選出し、一党独裁の放棄、複数政党制の新憲法を採択、新選挙法を承認した。

第1回総選挙が1990年7月に実施された結果、小選挙区制による国民大会議は、定数430に対して、人民革命党が357人(83%)を占めた。政党別の比例代表制による国民小会議は、定数50に対して、…野党が約4割の票を得た。
1990年9月の国民大会議で初の大統領選挙が行われ、人民革命党のオチルバト人民大会議幹部会議長が選ばれた。新首相ビャムバスレンは国営企業の民営化を手始めに市場経済化に着手した。…

1991年4月21日にツェデンバル元国民大会議幹部会議長・人民革命党書記長がソ連で死去した。ツェデンバルは1952年1月のチョイバルサン死去により、同年5月首相に就任し、1974年から国民大会議幹部会議長を務めた。国際派・親ソ連派として知られた彼は1958年に民族派・親中国派を追放し、1979年には国防会議議長も兼務して党・国家・軍を掌握したが、1984年8月に解任され、ソ連で暮らしていた。彼の死は、独裁から民主化へ向かう新生モンゴルを象徴するものであった。

1992年2月発効の新憲法で、マルクス・レーニン主義の放棄、「モンゴル国」への国名の変更、国旗・国章のデザイン変更、大統領の直接選挙制、一院制議会、私有財産・市場経済の保障などが規定された。国名の変更は1912年の「モンゴル国」再興を意味する。
新憲法に基づく1992年の総選挙では、定数76に対して人民革命党が71名を独占した。1993年の大統領選挙はオチルバトが60%の得票で再選されたが、今度は野党統一候補としてであった。
人民革命党が初めて野党に下ったことで、民主連合政府は急速な民主化を推進しようとしたが、少数与党のために改革は混乱続きであった。…政治の腐敗も次々と暴露され、改革の鈍化と経済の混乱は、国民大衆に、民主改革に対する情熱を薄れさせ、生活の安定を求めるようになった。

1996年の第2回総選挙では野党民主連合が国民大会議で多数派を占めたが、1997年の大統領選挙では人民革命党候補バガバンディが勝利した。さらに2000年の第3回総選挙では人民革命党が圧倒的多数を占め、2001年の大統領選挙で人民革命党候補バガバンディが再選されて、議会も大統領も人民革命党が権力を握ることになった。今や一時の民主化熱が一段落し、高いインフレに苦しむ国民が現実路線を選択した。

1997年7月制定の「1997~2000年の国有財産私有化プログラム」により1999年6月時点で864企業と286の不動産の私有化が実施されたが、人民革命党の抵抗で同年10月に「私有化保留国有財産リスト」が作成されるなど、民営化はあまり進んでいない。

粛清追悼記念館の創設
民主化のテンポは緩和されたが、もはや政治的民主化の波を押しとどめることはできない。…
モンゴルで大粛清が開始された1937年9月10日を記念して、9月10日を「政治粛清被害者追悼記念日」と制定し、1993年…「粛清追悼記念館」創設が決定された。…
粛清追悼記念館創設の目的は、共産主義独裁期に祖国を追われスパイの汚名を着せられて殺された…人々の無罪・名誉回復と歴史的真実の正しい理解、人権・自由尊重精神の育成にあるとされる。
展示の概要を紹介すると、①故ゲンデン首相の使用品と政治思想を示す文書などを展示する部屋、②粛清された約12,500人の名前を金文字で刻印するホール、…

人民革命党は、自らが粛清の被害者であり、ソ連の圧力で粛清が行われたとして責任逃れの発言を繰り返してきたが、2000年9月10日の粛清記念日にエンフバヤル人民革命党党首・首相が初めて正式に謝罪し、補償事業の継続を表明した。モンゴル最大の『日刊新聞』(2000年9月9日)は、1990年から10年間に30,000人の名誉が回復され、10,324人に総額86億2,400万トグルクの補償が支給されたと報じている。…
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by satotak | 2006-06-30 05:02 | モンゴル


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