テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2006年 06月 30日

ティムール -ウズベキスタンの象徴-

間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史⑧」(講談社現代新書 1977)より:

ティムールの出現
14世紀後半におけるティムールの出現と、彼による大帝国の建設は、中央アジア史上にかつて例を見ず、またその後にも例を持たぬ、文字通り稀有の出来事であった。中央アジアのオアシス地帯の住民は、ティムールの出現によって、そのながく苦しかった被支配民族としての立場から脱却して、広大な領域を持つティムール帝国の支配民族としての立場を獲得する。そして広大な帝国の中心地となったマー・ワラー・アンナフルには、世界の富と文化が集中し、そこにはモンゴルの侵入によってもたらされた怖るべき荒廃にかわる、未曾有の繁栄が見られた。…

ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュの近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の5代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガタイ・ハーンの輔佐役として、ハーン家内部の諸間題を取り扱った有力者であった。しかし、カラチャルの子のイジェル・ノヤンという者が、チャガタイ・ハーン国の領域を去ってイランのイル・ハーン国の領域に移住したりしたこともあって、この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。

ティムールが生まれた頃…ティムールの父タラガイも、わずかに三、四人の従者をもつのみの小身であり、その結果ティムールもはじめは手元に四、五人の従者しか持たぬ貧しい遊牧民であった。そのためティムールは、その青年時代を、もっぱら羊とか馬の略奪を事とする盗賊として過ごしていたが、その間に、もって生まれた指導者としての才能を発揮して、自分につき従う盗賊団の仲間の数を徐々に増やしていった。こうして、300人とか500人といわれる盗賊団の首領として、各地を略奪してまわっていた頃、モグーリスターンから、トゥグルク・ティムール・ハーンが軍をひきいてマー・ワラー・アンナフルに侵入し、分裂していたチャガタイ・ハーン国の一時的な統一に成功した。

ティムールはこの機会をとらえ、1360年(または61年)、トゥグルク・ティムールに帰順して、彼の属するバルラース部の領地であったケシュとその周辺地帯の支配権を獲得した。これがティムールの政治的活動への第一歩であった。しかし、それ以降、1370年にいたる
およそ10年間は、ティムールにとってもっとも苦しい時代であった。すなわちこの10年間には、いったん帰順したモグールと袂を分って、モグールに対する抵抗運動に従事する一方、バルフを本拠とした有力者アミール・フサインと、時に同盟し、時に敵対するなど、変転きわまりない日々を送った。そして1363年ごろには、イラン東部のシースターンで右腕と右脚に終世の傷を受けるなど、苦難の日々を体験せねばならなかった。

しかし、この苦難の日々にも盗賊時代以来の彼の部下たちは、彼につき従い、彼を見捨てることがなかった。そして、これらの仲間を中核とする彼の軍隊は、ついに1370年、バルフにアミール・フサインの軍隊を打破り、フサインを殺害して、ティムールをマー・ワラー・アンナフル唯一最高の実力者として承認した。
ただしティムールは、自らがチンギス・ハーン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミシュというチンギス・ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス・ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス・ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終世ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、あるいはアミール・サーヒブ・キラーンと呼ばれる…。

ティムール帝国の建設
1370年、マー・ワラー・アンナフルの統一に成功したティムールは、以後彼が死没する1405年までの35年間、絶え問のない遠征を敢行して、日の出の勢いのオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ、東は中国の辺境から西は小アジアまで、南はインド北部から北は南ロシアの草原地帯に至る広大な世界帝国を建設する。このあいつぐ遠征によって成立したティムールの国家の領域の概要は、直轄地としてのマー・ワラー・アンナフルを中心に、彼の一族が分封されて直接支配に当ったフェルガーナ、アフガニスターン、ホラーサーン(…)、アゼルバイジャーン(…)の四大直接支配地と、小アジア、エジプト、シリア、南ロシヤ、アルメニア、ジョルジア、シールワーン、北インド、モグーリスターンなどの広大な間接支配地域(ティムールの宗主権を認める地域)より成り立っていた。
f0046672_13215494.jpg

ティムールの遠征は、モンゴルの遠征に勝るとも劣らぬ破壊活動の連続であり、バグダードにおける9~10万人の虐殺、…諸例が示すように、ティムールに対する抵抗は、あくことを知らぬ残虐さをもって報いられた。…

もっとも、ティムールの遠征を、ただ破壊活動の連続とのみ見なすことは、ゆきすぎである。なぜなら、ティムールは抵抗を示さぬ都市に対しては、その市民たちから生命保証金(マーリ・アマーニー)をとりたてることによって満足し、それらの都市を破壊・略奪することはしなかった。…アフガニスタンのカーブル付近における灌漑設備の整備など、その遠征地においても少なからざる建設事業を行なっている。

しかし、ティムールがもっとも力をそそいだのは、首都サマルカンドを中心とするマー・ワラー・アンナフルの充実であった。彼はサマルカンドに、モンゴルの侵入以来失われていた堅固な城壁を築く一方、征服地から連行した当代一流の職人、芸術家たちを駆使して、各地に大規模な建造物を建設させた。征服地からは、また当時のイスラム文化の精華ともいうべき、すぐれた学者たちをサマルカンドに移住させ、サマルカンドを文化的にもイスラム世界の中心地とすることに努力をかたむけた。…

ティムールは、…イスラム世界が生んだ最大の思想家イブン・ハルドゥーンの目にも、彼は「すこぶる知的で、すこぶる明敏な」人物に見えた。…そして何人も、その「稀有の気性と深み」の底にあるものにふれることはできなかったといわれる。

なぜ世界帝国をつくりえたか
…ティムールの驚異的な成功は、遊牧民の軍事力と、定住民の経済力という、二つの基盤の上にきずかれたと見ることができる。しかもティムールの時代、この二つの基盤は、北方の草原地帯と南方の定住地帯という、隔絶した二つの地域からではなく、マー・ワラー・アンナフルという一つの地域の中から調達することができた。つまり、トルコ化・イスラム化しつつも、なお遊牧民としての特性を失ってはいなかったチャガタイ人が、マー・ワラー・アンナフルの定住トルコ人、イラン人と交錯して存在していたという、その時代のもった特異性が、ティムールの成功をみちびきだした最大の原因であった。
その意味において、ティムールは、中央アジア史上に常に見られた遊牧社会と定住社会の相互依存関係を最大限に利用して、その関係の中から最大のエネルギーをみちびきだすことができた人物であったといえよう。すなわちわれわれは、ティムールの成功の中に、中央アジアの遊牧文化とオアシス文化の類まれなる結合を見る。...

象徴としてのティムール 
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男))

ティムール朝の滅亡後も,英雄ティムールの記憶は中央アジアの年代記や民衆文学の中に鮮明にとどめられた.20世紀に入ってムスリム知識人の間に民族的な覚醒が始まると,ティムールはナショナリズムの象徴として現れるようになった.ロシア革命期にトルキスタン・ナショナリズムを鼓舞したフィトラトは,その作品でティムールのイメージを効果的に用いたが,こうした作品は1920年代末から〈過去の理想化〉や〈汎テュルク主義〉の実例としてプロレタリア文学派からの激しい批判にさらされた…..ソ連史学では,〈侵略者〉や〈人民の抑圧者〉とされ,〈偉大な学者〉ウルグ・ベクや〈ウズベク古典文学の父〉ナヴァーイーとは対照的に否定的な評価を受けたが,ソ連からの独立後ウズベク人の民族的な英雄となった.独立2周年にあたる93年9月,タシュケント中央の公園にはそれまでのマルクス像に代わってティムールの勇壮な騎馬像が建てられた.〈独立国家理念〉の普及を図る政府にとって,かつてウズベキスタンの地を基盤に強大な国家を建設したティムールは,この上ない象徴なのである。
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:04 | モンゴル


<< 蘇ったティムール -20世紀初...      モンゴル建国800年 -今、モ... >>