テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

オスマン帝国末期の悲劇 -アルメニア人虐殺の真実は?

私の読書日記 アルメニア人大虐殺、文化大革命の闇 フランス文学者 鹿島茂」(週刊文春 2006.3.16)より:

×月×日
…フランスにはアルメニア系の人が30万人くらいおり、宝飾業界とか骨董業界などでは強固なアルメニア人脈を築いているのだ。芸能人でいえばシャルル・アズナブール。…

これらアルメニア系移民の多くは、第一次世界大戦中にトルコのアナトリアで起こった大虐殺を逃れて各国に散った難民の子孫だが、この100万人から150万人規模(アナトリアのアルメニア人人口総数200万人)のジェノサイドの詳細については、日本はもちろんのこと、フランスでさえあまり知られることはなかった。

アントニア・アルスラン『ひばり館』(草皆伸子訳 早川書房2500円+税)は、からくも虐殺を逃れてイタリアに辿りついた親族の物語を、アルメニア移民を祖父に持つ孫娘が語るという小説だが、われわれも、これによって初めて生々しいかたちでこの20世紀初頭のジェノサイド事件の真相を知ることができる。

イタリアに移民して医者として成功したイェーワントは、豪華な自家用車に乗って故郷アナトリアの小さな町に錦を飾る日を夢みている。いっぽう、町では、これまた薬剤師として成功し、大きな薬局を経営する弟のセンパッドが兄の帰りを待ち侘びて、「ひばり館」と名付けた別荘の飾りつけに余念がない。センパッドは異母妹のヴェロンとアズニヴ、それに妻シュシャニグとの間にもうけた七人の子供と幸せにくらしていた。

アルメニア人はキリスト教徒である上に、欧米におけるユダヤ人のように金融や商業に長けていたことから、トルコ人民族主義者の反感を買い、19世末にも大量虐殺の被害にあっていた。第一次大戦が始まると、トルコ政府に勢力を築いた《青年トルコ党》の将校団は、これを奇貨として、同盟国ドイツの軍事顧問団の「少なからぬ協力」…のもと、秘密裏にジェノサイドを用意する。まず軍関係からアルメニア人将兵を外して武装解除した上で、1915年4月24日からアルメニア人男子全員の検挙・処刑を開始したのだ。美女アズニヴに恋したトルコ人将校ジェラルの救出努力も空しく、センパッド一家にもついに運命の日はやってくる。

「兵士たちの剣が閃光を放つや、叫び声が上がり、血飛沫が部屋じゅうに飛び散った。シュシャニグのスカートに花のような赤い染みができた。それは切り落とされ、彼女めがけて投げつけられた夫の首だった」

描写は小説だから誇張されているということはないようだ。実際には、ナチのユダヤ人虐殺に負けず劣らぬ酸鼻きわまりない光景がアナトリア全土で繰り広げられたようである。男たちはほぼ全員処刑、女と子供は「強制移住」という名目で食料も水も与えず街道を歩かされて疲労死した。途中で、少数民族のクルド人がトルコ人憲兵の許可を得た上で彼らから金品や馬車を略奪したこともある。

妻のシュシャニグはそれでも一家を引き連れ、ギリシャ人の泣き女やトルコ人の乞食の手助けを受けて義弟のいるアレッポの町に逃げて海路イタリアに脱出する。「民族浄化」という思想は、1990年代の旧ユーゴ紛争に始まったわけではないのである。…



第一次世界大戦とその後
パット・イエール他著「ロンリープラネットの自由旅行ガイド トルコ」(メディアファクトリー 2004)より:

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツとその同盟国に味方するという致命的な失敗を犯してしまう。この頃は、まだ皇帝が権力の座に就いていたものの、帝国は青年トルコ党(統一進歩委員会)の3人の幹部タラート、エンヴェル、ジェマルによって治められていた。彼らの権勢は強大だったが、その圧政と失政のため、すでに絶望的だった国情はさらに悪化していった。…

その頃、長年、相次ぐ戦闘に見舞われていたアルメニアは、ロシア軍の進軍を歓迎し、協力する姿勢を見せ始めていた。1915年4月20日、ヴァンのアルメニア人が反乱を起こし、地域のイスラム教徒を虐殺して要塞を陥落させると、ロシア軍が到着するまでそこを守り抜いた。反乱を起こしてから4日後の4月24日(現在、アルメニアの殉教者記念日)、トルコ政府はアルメニア人の住民の国外追放を始めた。この過程で数十万人のアルメニア人(ほとんどが男性.)が虐殺された。残された女性と子供はシリアまで徒歩での移動を強いられ、幾多の辛酸をなめた。

この出来事については、現在も激しい論争が続いている。アルメニア側は、1915~1923年に120万~150万人のアルメニア人が殺害されたと主張。しかし、トルコ政府は、その人数は誇張されており、実際に死亡したアルメニア人は“わずか”30万~50万人だと主張し、責任はないとしている。

ロシア軍が戦いに勝利すると、アナトリア北東部に、短命のアルメニア共和国が創立された、そして、戦勝国のアルメニアは地域のイスラム教徒に、自分たちがされたのと同様の虐殺という報復行為に出た。ところが、トルコの民族主義者ムスタファ・ケマル率いる軍勢の攻撃で、アンカラ政府はカルスKarsとアルダハンArdahanを奪回したのである。

1920年12月3日、アンカラ政府は、イェレヴァンYerevanのアルメニア(ソビエト)政府と和平協定を締結した。戦争が終結するまでに、アルメニア人の人口は特に都市部で激減し、生存者はわずかだった。

大戦は同盟国側の敗北に終わり、オスマン帝国は崩壊した。イスタンブールとアナトリアの一部はヨーロッパの列強に占領され、皇帝は戦勝国の手に落ちた。……連合国は、…戦勝国の要求を満足させるため、アナトリアの分割を決めた。こうして、よりすぐった土地はキリスト教徒に分け与えられ、イスラム教徒のトルコ人は不毛も同然の内陸の草原へと追いやられてしまった。

アルメニアの悲劇
1915年にトルコ東部で起きた大事件をめぐって、90年近くたっても.論争と非難の応酬が現在も続いている。大事件を生き延びたアルメニア人(と離散したその子孫たち)は、トルコ人の行為をジェノサイド(民族の大虐殺)と呼び、非難している。逆にトルコは、大虐殺に政治的意図はなかったとし、戦時中、多くのアルメニア人が反逆行為を行ったと主張している。また、トルコ側は、多くのアルメニア人が死亡した事実を否定してはいないが、これは組織的殺害のみならず、内戦や病気、困窮によるところが多いとしている。その上、共和政体になったトルコは、親や祖父母の世代で、彼らがオスマン帝国打倒のため戦った点を挙げ、オスマン時代の活動は自分たちとは無関係だとしている。

双方は非難の応酬を繰り返し、犠牲者の数や、犯罪性を立証する歴史的資料の信憑性、相手の動機などについて言い争っている。1970年代には、トルコの外交官たちや、その家族、そして周りにいた人たちが暗殺され、非難と憤懣はさらに深刻の度を増していった。

アルメニアはトルコに対し、悲劇的な事実の認定を訴え、領土の獲得を視野に入れた補償を求めている。トルコ側は、過去に起きた出来事の責任を現在のトルコ人は負えないとし、補償する必要はないと訴えている。事態は泥沼の様相を呈し、今後、何世代にもわたって続きそうな気配だ。

(参考)トルコ人が語るトルコ・イスラム講座」の「国際関係(1)」の後半で、トルコ人旅行ガイドNさんが、アルメニア問題について解説している。
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by satotak | 2006-06-30 05:07 | トルコ


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