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2006年 06月 30日

オスマン帝国を生んだ世界

林佳世子著「世界史リブレット⑲ オスマン帝国の時代」(山川出版社 1997)より

オスマン帝国史の課題
オスマン帝国は巨象のような国家であった。しかも、とても長命の。日本史でいえば、鎌倉時代に産声をあげたオスマン帝国が史上から姿を消したのは大正時代、第一次世界大戦のあとである。どの時点をとっても、バルカンから西アジア、北アフリカに広がる東地中海世界には、オスマン帝国の強烈な存在があった。

しかし、このオスマン帝国の実像は、あまりにその存在が.長期にわたったために、なかなかはっきりとはみえにくい。これまでの歴史記述では、短い特定の期間のオスマン帝国像をつないでいくことで全体が語られてきた。とくに、ヨーロッパにとってオスマン帝国が脅威であった十六世紀と、オスマン帝国の遺産をめぐる争いがヨーロッパ列強の政治問題となる十九世紀に関心が集中していた。そこにヨーロッパの視点が色濃く反映していたことは間違いない。

オスマン帝国史が、その重要性にもかかわらず十分に明らかにされてこなかったもう一つの理由は、その広大さと、その後に生まれた多くの「国民国家」のおかれてきた複雑な立場にある。オスマン帝国のかつての領土から生まれた現在の国家は、30力国をこえる。近代から現在にいたるまで、さまざまな政治状況におかれ、今日まさに紛争の絶えない中東・バルカン・黒海沿岸の国々である。

これらすべての国々の「国史」において、「オスマン帝国史」は近世から近代にかけての重要な一部をなすはずである。しかし、それぞれの「国民国家」が誕生した経緯がオスマン帝国からの独立史にほかならないという事情に影響され、近代以後の歴史学の発展のなかで、オスマン帝国史はあたかも「トルコ」という国の歴史のようにあつかわれてきた。…トルコ以外を対象とする歴史研究において、「オスマン帝国支配時代」はあたかも暗黒時代のようにあっかわれてきた。一方、トルコ史研究の側では、イスタンブルとアナトリア以外の土地への意識・目配りが希薄なままオスマン帝国史を語ってきた傾向が強い。こうした事情から生じた欠落がオスマン帝国の全体像をみえにくくしているといえよう。
このような欠陥の克服には、まだまだ時間がかかると思われる。…

…じつは、オスマン帝国は「16世紀を頂点とし、その後体制は変化せず、国力は衰退を続けた」わけではなく、16、17、18世紀をつうじて、国家体制のうえでも経済構造のうえでも、独自の変容をたどっているのである。16世紀興隆期の勇姿と19世紀の「東方の病人」イメージだけでオスマン帝国を語ることは克服される必要がある。

オスマン国家の誕生
14世紀に異常な早さでバルカン半島に拡大した新国家(のちのオスマン帝国)の勃興を、宗教心に突き動かされたイスラム勢力の台頭、あるいはトルコ人の侵略、とみる見方は依然根強い。イスラム教徒対キリスト教徒、トルコ(オスマン)対ヨーロッパ(ビザンツ)というあいいれない二つの勢力の対立の構図は、現在のわれわれだけでなく、当時間近で観察していたヨーロッパの人びとにもわかりやすいものであった。なぜなら、宗教戦争に明け暮れ、続いて絶対王政間の紛争に血を流し続けた同時代のヨーロッパの人びとにとって、人間は宗教と民族で識別され、それに従うならばオスマン帝国はトルコ人によるイスラムの国と考えるのが自然だったからである。それゆえ、彼らは「恐ろしい敵」はトルコ人であるとし、彼らの国をトルコ帝国と呼んだ。

しかし、近年の研究が明らかにしているオスマン帝国の姿はこうしたイメージとは大きく異なる。そこでは多宗教が共存し、多民族から支配層へ人材が供給された。「何々民族の国」という考え方も実態ももたない国家がオスマン帝国であった。たしかにイスラムは支配者の宗教でありその絶対的優越性は守られていたが、キリスト教徒やユダヤ教徒の存在は自明のことであった。

このような特徴は、オスマン帝国理解の常識になりつつある。しかし、こうした多宗教・多民族国家がどこから生まれ、だれによってつくられたのかという「起源」にかんしては、依然として誤解が残っているようだ。

のちのオスマン帝国は多宗教・多民族国家となるにしても、スタート地点において国をつくり出したのは、アナトリアの辺境の地に生き、キリスト教世界ヘの聖戦に燃えたトルコ人の騎士たちであるという説は、「キョプリュリュ=ヴィテック説」として永らく支持されてきた。トルコ系遊牧民出身のオスマンのもとにガーズィーと呼ばれた騎士や神秘主義教団の戦士などが参集し、ビザンツ領への侵入を繰り返し新国家を建設したというものである。

しかし、じつは、「キリスト教世界への聖戦」などという単純な構図は存在せず、事態はより混沌としたものであったことが近年強調されてきている。オスマン帝国を生んだ世界は、イスラム世界とキリスト教世界、トルコ世界とビザンツ世界、あるいは遊牧民の世界と定住民の世界、異端的信仰と正統派の信仰、忠誠と離反が複雑にまじり合う世界であった。支配的な価値観のない流動的な辺境の世界では、宗教も民族も排他的ではありえず、人びとはたがいの境界をこえて日常的に接触を繰り返していたと考えられるのである。

ビザンツ世界とトルコ・イスラム世界のはざまから
アナトリアの変容は11世紀に遡る。1071年のマラズギルトの戦いの勝利に端を発するトルコ系遊牧民のアナトリアヘの流入は、大規模な人口変容を引きおこし、ビザンツ帝国の旧領のうえにイスラム世界の最前線をつくりだした。12世紀中葉~13世紀前半にはイラン的な伝統を引くルーム・セルジューク朝がアナトリア高原のコンヤやシヴァスを中心に繁栄したが、1243年のモンゴルの侵入をへて、中央アナトリアはイル・ハン朝の宗主権下におかれた。13世紀後半には、…ベイリキ(侯国)と呼ばれる小国家が周辺部に自立し始める。政治的なカオスはとくに西部地域において顕著であったが、経済的にはむしろ活発な時代であったとみられる。

この時期にかんする客観的な史料は極めて乏しいが、混乱期のアナトリアに起きたできごとを題材とし、後代にまとめられた…英雄叙事詩や聖者伝説の類は、当時のアナトリアのさまざまな勢力の結びつきやカオスに生きた人びとのメンタリティを微かに浮かびあがらせている。これらの「物語」の主人公たちは、いともたやすく、トルコ・イスラム世界とビザンツ・キリスト教世界の境界を乗りこえて活躍する。主人公はガーズィーと呼ばれ、イスラムのための戦い(聖戦=ガザー)は物語の基調にあるが、決して異教徒を「異教徒であるが故に」殺したり改宗を強要することはない。トルコ人の騎士はキリスト教徒の勢力と同盟し、固い約束を交わし、しばしばその娘と恋に落ちる。あるいは、キリスト教徒の騎士が、宗教を守ったまま(あるいはいとも簡単に改宗し)イスラム教徒とともに戦う。イスラム勢力間の戦いも当然のモチーフである。

これらの物語に反映している「聖戦」のイメージは、イスラム教徒対キリスト教徒という対立の構図ではなく、騎士の名誉と戦利品の富を賭けての日常的な戦いであったと理解される。…

このような状況で台頭した勢力の一つがトルコ系遊牧部族出身のオスマンに率いられた一グループであった。彼らは13世紀後半以来北西アナトリアの一角に根拠地をおく遊牧部族であったとみられ、周辺のキリスト教徒の領主たちと良好な関係のなかに生きていた。

しかしオスマンのグループは1290年代から戦士集団として頭角をあらわしはじめる。いくつかの小都市を獲得、1301年ころに対ビザンツ戦ではじめての勝利をえて、多くの騎士や神秘主義教団員などがそのもとに集まるようになったとみられる。このころ以後、オスマン侯国と呼ばれるようになるが、小侯国にすぎなかった。やがて西アナトリアの都市ブルサの征服に成功する(1326年)。イスラム世界の最前線にうまれたオスマン、そして次代のオルハンの軍には、多数のキリスト教徒騎士が参加している。…

このように、宗教・民族の別が、彼我を分ける複数の差異の一つにすぎない社会のなかからオスマン帝国が生まれでたことは注目に値する。差異を乗りこえることは容易であり、むしろ評価された。だからこそ、のちのオスマン帝国はイェニチェリ軍という改宗者軍団を軍事力の中核にすえたのである。オスマン帝国の本質は、すでにその芽のなかにうめ込まれていたといえるだろう。
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by satotak | 2006-06-30 06:01 | テュルク


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