テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

モンゴルの人口

ザンバ・バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

人口の変動
…1990年代初頭、モンゴル自然環境省や大臣宛に自然保護に関する手紙が外国から、主にアメリカからよく届きました。その中には「モンゴル政府はユキヒョウの狩猟を外国人ハンターに許可しているが、世界的に稀少なこの美しい動物の狩猟は許されない、強く抗議する」という内容の手紙がたくさんありました。…

研究者によれば13世紀のモンゴル大帝国時代にモンゴル民族の人口は約200万人であったとされています。それ以降800年が経過した今日のモンゴルの領土に居住する人口は、200万を大きく超えることがありません。その間に世界の人口は数倍に増えているにもかかわらずです。国境を接する二つの超大国は大きく人口を増大させ、ロシアはモンゴルの約60倍、中国は約530倍の人口を養っています。日本の人口もモンゴルの53倍です。…

1920年代の史料によると、当時のモンゴルの地に生活していた人はたったの60万人、そのうち約10万人は妻を娶ることが許されない僧侶で、結婚していない成人女性が9万人以上いたそうです。そのため、20世紀初頭には、モンゴル人は絶滅への道にかなり近づきました。17~18世紀に強大な勢力を持ち漢民族やモンゴル・チベットを支配し、後に消え去ってしまった満洲民族の後を追う悲壮な運命が迫っていたのです。

このような時期にモンゴル民族の滅亡について、ユキヒョウと同じように心配してくれた人がいたでしょうか? 外国人はともかく、モンゴル人自身がこのことにどれだけ敏感であり、竈(かまど)の火と民族の未来を絶やさないためにどれほど闘ってきたでしょうか?

モンゴル人の歴史を、史実や社会現象の面からだけでなく、地理的な存立条件、環境・気候変動に関連づけて研究したロシアの研究者であるレフ・グミリョフは、国家や民族を人間と同様な寿命(生まれ、育ち、死ぬ)を持つとして、モンゴル人にはすでに500年の寿命しか残っていないという興味深い仮説を1980年代に発表しました。…

モンゴル民族をふり返れば
かつてモンゴルの地に居住していた人々は、原始共産制として数千年間を経た後、紀元前1000年代の末頃に階級制社会に移行し部族集団が形成されました。その社会生活は互いに同様ではなく、森の狩猟民、川の漁民、草原の遊牧民などでした。彼等がそれぞれの発展段階を経て13世紀を迎えます。1206六年にモンゴル統一国家が建てられたことにより、モンゴル人たちの間で戦争の危機が収まり、ばらばらであった状況が一転し、民族としての発展の道に入る可能性が開かれました。そのとき以降、ひとつの祖国とひとつの言語、共通の生活習慣を持つモンゴル民族となって確立していったとされます。しかし、その後、東西南北に分断し、その一部は遠くボルガ河(今日のロシア領)、青海(今日の中国領)付近を領土としました。独特の言語方言・生活習慣・知的文化を持つ多くの部族となり、それら全てをモンゴル系諸族と呼ぶようになります。

現在のモンゴル民族
現在のモンゴル国には20以上の部族を含むモンゴル民族が約240万人います。中国に400万人、ロシアに50万人、アフガニスタンに3万人、アメリカに2千人、フランスに千人など、世界中の国々に居住しているモンゴル民族の人口を合計しても650万人を超えません。
それでも、現在のモンゴル国の人口は、1920年代と比較すると4倍に増加し、今後も増加する傾向にあるので、モンゴル民族の寿命が500年で終わることはないと思われます。このことは天の神様に委ねることではなく、私たちモンゴル人自身に関わる問題です。「当人が努力すれば、運命も努力する」とモンゴルのことわざに言われるのは根拠のないことではありません。…

チンギス征西時には
...[チンギス・ハーンは]1218年には450名からなる大通商団をホラズムに派遣し、ムハンマド・シャーに「和議を結び、通商を拡大する」内容の申し入れをしました。しかし国境の町オトラルの長はムハンマド・シャーの命令により通商団の商品を没収し、通商団員を惨殺しました。450名のうちひとりだけが帰国してその事実をチンギス・ハーンに報告したため、チンギス・ハーンは怒りに震えましたが、殺害された団員を悼み、詳しい理由を知るために再びムハンマド・シャーにひとりのイスラム教信者と二人のモンゴル人からなる使節を派遣しました。ところがムハンマド・シャーは使節団長のイスラム教信者を殺害し、二人のモンゴル人の髪を剃って追い返したのです。…

1219年、チンギス・ハーンは大クリルタイを開きホラズム攻略を協議し、大軍を自身が率いることが適当であるとの決定を出しました。当時のモンゴルではひとりの考えによって全てが決定されていたのではなく、国家政策や精緻な行動体系が備わっていたことがわかります。人口200万に満たないモンゴル2千万の人口と40万の軍隊を持つホラズムを攻撃するとは、どんなに勇敢かつ知恵を必要としたことであったでしょう。この戦争に参加したモンゴル精鋭軍は8万、兵站任務にあたるなどの他民族の軍が6万、合計14万人でした。モンゴル軍はオトラルを廃墟にし、ブハラを占領し、職人以外の人々を殺害して寺院を破壊しました。さらにサマルカンドを征服し、多くの鍛冶職人を捕虜にしました。
これはその後の大遠征の序章でした。こうして人類史に「モンゴル時代」と名づけられる歴史のページが開かれ、戦争と抵抗、和平と破壊の時期が代わる代わる訪れることになります.この時代について書かれた本や芸術作品は無数にあります。…

仏教と人口
…元国の時代にフビライ・ハーンが国教と定め、16世紀にはモンゴルの中心的宗教になっていたチベット仏教は、モンゴルの運命にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。この問いにモンゴル人はさまざまな回答を与えています。

仏教の教えは、モンゴル人に激しさや荒々しさでなく(もともとそうであったわけではないでしょうが)、平安・寂静・忍辱(にんにく)など慈悲深い思想を備えさせるのに重要な役割を果たしました。もともと人口が少なく、生けるものが生存していくことが容易ではない厳しい自然や気候の中で生活している人々にとって真に適した哲学です。
しかし、貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴などの堪え忍ぶべき煩悩の中に、この世の成立する最も根源的原理である子孫を残す法則、男女の行為をも含めて、僧侶の妻帯を禁じたことは、モンゴルにとって良い結果をもたらしませんでした。

1921年の革命が始まった時期の外モンゴルの人口はわずか60万人で、そのうち10十万人が僧侶、9万人は成人独身女性であったというデータがあります。このような状況が長く続いていたなら、今日、モンゴルはいわんやモンゴル民族なるものが残っていたかどうか定かではなく、あるいは満洲族と同様の運命を辿っていたかもしれません。

いずれにしろ、私がモンゴル国を代表して日本に赴任し、読者諸氏と言葉を交わすような素晴らしい機会が得られたかどうかは疑問です。その意味で、「宗教はアヘンである」と言ったマルクスの言葉に従っただけでなく、モンゴル人へ及ぼした欠点も考慮して、1921年の革命後にモンゴルの党と政府は宗教に対して相当厳しい対応をしたのかもしれません。

しかし、反革命の温床として多くの僧侶を殺し700以上の寺院を破壊したことは、数百年間にわたるモンゴル民族の物質・精神文化の遺産を根こそぎ消し去りました。外国からの影響があったとはいえ、モンゴルの寺院はモンゴルの気候に適したモンゴルの資材を利用し、モンゴルの職人の知恵が詰まったモンゴル芸術建築でした。.寺院ではお経を読んで祈りを捧げるのみならず、写経・翻訳・出版、さらに文字の学習、薬の処方も行なわれていました。寺院は今日における学校・病院・コミュニティセンターの役割を果たし、人々が知的充電を行ない、心を清浄化する場所であったことは間違いありません。…
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by satotak | 2006-06-30 06:02 | モンゴル


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