テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

モンゴルと日本と海

ザンバ・.バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

遥か700年前に来日した初めてのモンゴル使節
…モンゴル人はいつ初めてこの地[日本]に渡来したのでしょうか。モンゴルという名の部族集団は13世紀に明らかになったので、それ以前にはモンゴル人の祖先が別な名前で日本に来ていたのかもしれません。…
しかし、モンゴルという名前で日本列島に渡来した資料の存在は、後の13世紀に下ります。鎌倉にモンゴル人の碑があると聞いていましたが、行ったことはありませんでした。…

神奈川県藤沢市の常立寺(注1)という小さなお寺にその立派な石碑は建っていました。フビライ・ハーンが遣わしたトーシジン(杜世忠)、ケウェネヌゥ(何文著)、ソ・チャン(徐賛)など5名の使者の記念碑で、彼らが斬首される前の辞世の詩も刻まれています。大きな記念碑の前にある小さな五つの石碑の中央にあるのが使節団長であったモンゴル人の碑であろうと推測できます。30歳を過ぎたばかりのモンゴル人、高麗人、漢人、ウイグル系の人で構成された使節団であり、団長のトーシジンは34歳の教養の高い勇敢な若者であったと研究者は記しています。使節団は、出発時には4人でしたが、1275年3月(注2)に高麗に到着すると、そこで日本語をよく解するソ・チャンが加わり、4月に長門の国の室津(山口県豊浦町)に到着しました。彼らが行き先を変更して室津に来たことに日本側は疑いを強め、3か月間の監視の後、8月に鎌倉に移送しました。そして北条時宗の命により、1275年9月7日、竜ノロで首を刎ねられたのです。

「モンゴルなどという国は聞いたことがない」
彼らはフビライ・ハーンが遣わした初めての使節ではありませんでした。フビライ・ハーンは、初めての全権使節を1266年11月に日本に送っています.しかし彼らは対馬の近くのコジェ(巨済)島で嵐に遭い、年が変わるまで待機していましたが、嵐がやまないので1267年1月にカンファ(江華)に戻りました.

日本の地に初めて足を踏み入れたのは二度目の使節で、1267年11月に対馬に到達し、守護代宗助国の案内で1268年7月に太宰府に着きました、彼らは1266年8月付のフビライ・ハーンから日本の天皇に宛てられた国書を携えていましたが、返書を得ることはできませんでした。日本側は友好関係締結を提案する背後に威嚇とも思える内容を含んでいるとし、国書も贈物も認めなかったのです。
フビライ・ハーンの国書は奈良の東大寺に保管されており、2000年2月にモンゴルのトムルオチル国会議長(当時)訪日の際、その写しが公式に手渡されました。

フビライ・ハーンの3回目の使節は1268年に遣わされました。当初8名で出立しましたが、高麗で4名が加わり、さらに十数名の従者を含めたこの使節団は1268年12月に高麗を出発し、翌年初めに対馬に着きました。この使節団の目的は日本の軍事力の偵察であったことを日本側は気づいたようで、さらなる移動を制限し、受け入れを拒否しました。彼らは対馬の塔二郎、弥二郎という二人の住民を連れて帰りました。当時の都であったハーンバルガス(現在の北京)で2人を迎えたフビライ・ハーンは「日本人とは化け物と聞いていたが、貴方たちは私たちと変わらない顔の、赤い皮膚をした人間ではないか」と述べたと言われています。その後、2人はハーンバルガスの街並みや宮殿を案内されました。思うに偉大なる皇帝であったフビライ・ハーンは、自分たちと変わらない顔つきの日本人を見て親近感を感じたのではなかったでしょうか。

この二人の日本人を含めた第四次使節団は1269年7月に高麗のカンファに来ました。その年の9月に対馬付近の小島に到着し、対馬の守護職がフビライ・ハーンの国書を鎌倉幕府に届けました。興味深いのは京都の朝廷がフビライ・ハーンの国書に返書を起草していたことです。返書には「我が国は天照皇大神から今上天皇まで神に護られ、国が造られてから外国の支配に屈したことはない(中略)。武器を持って闘うことを望まない。貴国はよく考慮されたし」と記され、また「かつて我が国は中国と友好関係にあったが、モンゴルの名前は聞いたことがない」と、一方で説得を試みながら、他方で一瞥もくれないような内容で起草されましたが、鎌倉幕府はこの返書を使節団に送ることを拒否しました。注意深かったのか、必要無いと思ったのかはわかりません。…

しかし、フビライ・ハーンはすでに侵攻を決めていたので、1271年12月に偵察のための第五次使節を遣わしました。この使節は女真族の官吏であったヂャオ・リャンビ(趙良弼)を団長として、以前に捕らえられた2人の日本人が通訳として加わっていました。この頃、日本国内は混乱しており、京都の朝廷は単独での問題解決能力をほぼ失い、鎌倉幕府の支配が一層強まっていました。幕府では全ての権力を、20歳を過ぎたばかりの若き執権、北条時宗が握っていました。著名で影響力の強かった僧侶日蓮が捕らえられたのもこの時期です。日蓮が捕らえられた理由は、モンゴルの襲来を予言したからでしたが、モンゴルと柔軟な政策で交流することを提言したことが怒りを買ったという人もいます。この度の使節も返書を受け取ることはできませんでしたが12名の日本人に案内をさせて帰途につきました。帰国した後に彼らは日本の使節団であると語ったそうです。使節団長ヂャオ・リャンビは、1273年5月にハーンバルガスでフビライ・ハーンに謁見し、「日本の領土は美しく、山には木や水が多くあり、土地は肥えており、人々は勤勉、食べ物は豊富」と報告しました。…

海上での戦闘の準備は、モンゴル人自身がしたわけではないだろうという理解が広くされています。しかし、戦争のための船の建造や、戦闘に参加するモンゴル兵の拠点づくり、その場所の選択などに、朝鮮の歴史ではフートン(忽敦)として有名なホタクト将軍が指揮していました。ホタクト将軍は、開かれたプサンではなく、有利な点が多い閉ざされたマサン(合浦)を選び、そこで3万人以上を働かせて、3か月の間に9百隻の船を造らせました。

海を持たない海洋民
…フビライ・ハーンは遊牧騎馬民族のモンゴルが手中に収めていた陸の道海の道に繋いで、広大な帝国全土に陸海の交通網を張り巡らせ、経済活動を活発にするという壮大な構想を抱いていました。モンゴル時代の史実を記した明代の歴史書『元史』には、国が交易のために船と資本を商人に貸し与えたとあります。これは、南宗までの歴代の中国王朝には無かった、まったく新しい発想でした、

フビライ・ハーンは遊牧農耕航海という、人類の活動の三つの大きな流れを総合しようとしましたが、これを象徴するのが大都の建設です。大都は、海まで150キロメートル近くもある内陸に建設された都市でありながら、市街の真ん中に港を持っていました。人工的に造られた運河と自然の川を組み合わせて水運を可能にしたのです。運河の開通によって、遠くアフリカ、中近東、インドなどから多くの物資が大都に運ばれました。

こうして内陸の遊牧民族モンゴルの皇帝フビライ・ハーンが、古代文明の中心のひとつであるアジアの中国を水路によって他の大陸と結ぶ道を開き、後にモンゴル遊牧民の子ボローが、ピョートル大帝の治世に勢力を強めたヨーロッパの大国ロシアの首都を内陸および外部世界と水で結ぶ道を開いたということは、たいへん興味深い史実ではないでしょうか。

モンゴル帝国は海軍を強化し、1292年から1293年には太平洋諸国、ジャワ・スマトラにまで到達しました。同時に海上交通・貿易を促進し、東アジアとインド洋の東半分、スリランカに至るまでの広大な地域の国々と友好関係を結びました。モンゴル帝国の庇護の下にアジアの大陸と海を含む巨大なシステム化された交易圏が作られたのです、

歴史家によれば、モンゴルはフビライ・ハーンの治世の後半から、はっきりと「海上帝国」の性格を持ちます。この大帝国の二段階にわたる成長は世界史上の驚異であり、今もその意義は色褪せていません。

ですから今日のモンゴルは海に出口がないと嘆くのではなく、頭を使い、賢明な政策で国際海洋条約その他の国際法規に基づいて海に進出し、海上輸送や海洋資源の利用のチャンスを活かすべきなのです

(注1) 「常立寺の伝元使塚」参照

(注2) 1275年は、元寇と言われる「文永の役」(1274)の翌年に当たり、二度目の元寇「弘安の役」は1281年であった。
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by satotak | 2006-06-30 06:03 | モンゴル


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