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テュルク&モンゴル

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2006年 12月 31日

ロシア連邦タタルスタン共和国

「大ロシア紀行 13/14」(産経新聞 2006.7.17/24)より:

タタルスタン共和国  ウラル山脈の西、ボルガ川中流域に位置し、面積6万8000平方㌔、人口約376万人。
10~14世紀にはボルガ・ブルガール国、15~16世紀には侵入したモンゴルによるカザン・ハン国が置かれた。1552年、ロシアのイワン雷帝がカザン・ハン国を占領し、ロシア帝国の支配下に入る。ソ連時代はタタール自治社会主義ソビエト共和国。
カザン・ハン国の遺民で、イスラム教スンニ派のトルコ系タタール人が人口の約53%、ロシア人が約40%を占める。2004年の1人当たり国内総生産(GDP)は10万9000ルーブル(約46万7000円)。1998年の5.8倍に増えた。
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運命を決める機会が訪れた -連邦へのアンチテーゼ-
…ロシア連邦を構成し、欧州部にあるタタルスタン共和国の首都、カザン。街のホールでは、「女性の美」コンテストの決勝戦が最高潮を迎えていた。
出場資格者は家庭を持つ職業女性で、美しさだけでなく、仕事や家庭に対する考え方、生き方も重要な評価対象という。コンテストの目的はずばり、「家族制度を強化し特に若い世代に女性の役割や社会的地位に関心を持ってもらうこと」(実行委員会)にあった。

これまで見た通り地方の深刻な経済低迷と全体的な人口急減に悩まされているロシアにあって、イスラム教徒が多いタタール人が人口の半数を占める同共和国は都市部の人口も増えており、ソ連崩壊後も比較的安定した経済成長を続けている。
人口維持への期待を込めたコンテストひとつにも、連邦を"反面教師"に独自路線を歩もうとの共和国の気概がにじむ。

カザンは、昨夏の建都1000年に合わせて地下鉄も開通、…活況を呈している。歴史的に有名なロマシュキノ油田を抱えているから、世界的な原油高で潤っているに違いない-。
てっきりそうだと思い込んでいたら、共和国の若き大統領補佐官、マラト・サフィウリン(35)
の答えは想定外だった。
「原油が高騰しても、また、技術的に可能だとしても、年間3000万トン以上は採掘しない」

共和国として力を注いできたのは、原油の生産・販売ではなく、合成ゴムやポリエチレンの製造といった石油化学工業の発展であり、そのために日本企業を含む外資の導入も進めてきたという。
さらにいえば、ソ連崩壊後の1990年代半ば以降、タタルスタン共和国は「原油価格に左右されずにいかに生きるべきか」(サフィウリン)を追求してきたのである。

「ロシア(連邦)は原油価格が高いという条件なくして自らの(国家)機能を果たせない。われわれは石油の利益がなくてもそれができる」という補佐官の連邦批判もそんな"共和国の哲学"に根差したものといえる。

ロシアが90年代、やみくもに推し進めた国有企業の民営化は、金融業者や入札情報に接し得た一握りが国家資産を破格の値段で買い占めることを許して、オリガルヒ(寡占資本家)の台頭を招き、…
対照的に、タタルスタンではこの時期に市場経済化を漸進的に進め、公共投資主導で産業基盤の復活を図ったことが、石油に依存しない体質づくりにつながっている。

そのタタルスタンもしかし、ソ連時代は、産油地帯であるにもかかわらず製油所を持つことすら認められてこなかった。…

好機到来とばかりに、タタルスタンはロシア製航空機の代表格、ツポレフを製造する「ゴルブノフ記念カザン航空機製造合同」に投資してきた。
今年2月にプーチン政権がボーイングやエアバスに対抗する国産機を開発しようと国内メーカーを新たな国営企業に統合する決定を下したとき、「侮辱的だ」(サフィウリン)との怨嗟の声が上がった…

タタルスタンがこうしてロシアヘの“アンチテーゼ"を果敢に繰り出してこられたのも、共和国内で深刻な民族対立がなく、政治的な安定があったからにほかならない。

2つの宗教が並び立っていた
–チェチェン化避けた知恵-
ちょうどイスラム教のイマーム(指導者)のラミリ・ユヌソフ(36)が礼拝を終えたときだった。ロシア正教の若いロシア人女性が「(正教だけでなくイスラム教の)あなたの考えも聞きたい」と駆け寄ってきたのを目にし、ハッとさせられた。
もっと意表を突かれたことに、ここロシア連邦タタルスタン共和国の首都、カザンのクレムリン(城壁)の中では、このメチェーチ(イスラム寺院)と、ロシア正教の教会が並んで建っていた。…

イスラム教徒のタタール人が半数余りを占める同共和国では、信仰に対するソ連共産党の封印が解かれた15年前から、多数のメチェーチやメドレセ(イスラム神学校)が建設されてきて、イスラムの復興が目覚ましい。
ユヌソフは「1917年の十月革命後、コーランなど宗教関連の本は焼かれ、メチェーチやメドレセは破壊された。民衆は70年間、無宗教状態に置かれたが、それでも、その心の中に宗教と信仰は生き残った」と話す。
そのうえでの宗教・民族の融和と協調である。「イスラム教とキリスト教が平和に共存している現状は世界の模範となり得るはずだ」と、ユヌソフは誇らしげだった。

そのタタルスタンにもソ連崩壊後の90年代前半には、“もうひとつのチェチェン"になると懸念された時期もあった。…
タタルスタンは90年に独立を宣言し、92年3月には、同様にイスラム教スンニ派が多数派のチェチェンとともに、連邦中央との権限区分条約への調印を拒否している。
チェチェンがその後、独立派と親露派の分裂状態に陥って、ロシアの軍事介入を招いていったのに対し、タタルスタンは2年越しの交渉で連邦との条約を締結し、一触即発の事態を回避できた。

…ロシア人とタタール人の「利益のバランス」(ハキモフ)を取る政策で乗り越えた。タタール、ロシア両語を"国語"とし、イスラム教とロシア正教を対等に扱うことがその柱である。

タタルスタンが、…比較的安定した経済発展を維持してこられたのも、民族・宗教の共生を背景にある程度独立した地位を得て、連邦もそれに一目置いてきたからにほかならない。
ハキモフは「タタルスタンのイスラム教自体にも共存を可能にしたカギはある。約200年前、(タタール知識人が中心に進めた)改革を経て穏健で寛容なイスラム教だからだ」とも指摘する。

ここにもしかし、イスラム原理主義の波はヒタヒタと押し寄せている。
ロシア・イスラム大学の総長、グスマン・イスハコフ(47)は「ソ連崩壊後、(宗教上の覚醒に伴い)多くの若者がサウジアラビアなど中東諸国で教育を受け、イスラムを異なった風に理解して戻ってきた」と嘆く。
98年の同大創設も、復古主義的立場でイスラム純化を目指すワッハービズムに海外でさらされることがないよう共和国内に若者をつなぎ止め、穏健イスラムの教育者を自前で養成する狙いからだ。

…一方で、同政権[プーチン政権]下で進む中央集権化の力学は“タタルスタン・モデル"の足を引っ張っている。
連邦憲法に抵触するとして共和国憲法の改定を余儀なくされ、タタール語の表記をキリル文字からラテン文字に変える方針も却下されて、「タタール文化を守るには(真の)連邦制が不可欠。この点ではどんな妥協もできない」(ハキモフ)との反発も生まれている。

13~15世紀にロシアを支配したモンゴルのキプチャック・ハン国の末裔であるタタール人は、モンゴル撃退後の帝政ロシアで“離散の民"となってロシア化政策の矢面に立たされている。「共存」の行方に鈍感ではいられないのも、そんな苦難の歴史ゆえかもしれない。…
(遠藤良介、…)

多民族国家  ロシア連邦は160余の民族を抱える世界有数の多民族国家。
帝政時代は領土拡張とともに「異民族」を版図に抱え込み、ロシア正教への改宗やロシア語教育といったロシア化政策を推し進め、「諸民族の牢獄」とまで呼ばれた。ソ連時代は、諸民族平等の建前の下で、自治共和国や自治州の形成を許された所もあったものの、ロシア人とロシア語優位は明らかだった。スターリンは第二次大戦期、対独協力のかどでカフカスやクリミア、ボルガ流域などの少数民族をそっくり中央アジアやシベリアに強制移住させ、自治共和国を抹殺する苛烈な弾圧策を敷いた。

by satotak | 2006-12-31 07:04 | 民族紛争


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