テュルク&モンゴル

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2006年 12月 31日

韃靼の志士 -日本で活躍したタタール人たち-

宇山智彦編「エリア・スタディーズ 中央アジアを知るための60章」(明石書店 2003)より:

ソ連の崩壊と冷戦構造の後退をうけて、日本は中央アジア諸国を支援するため積極的な「シルクロード外交」を唱えている。だが、日本がこのイスラーム圏へ関心を懐いたのは、これがはじめてではない。20世紀初頭の日露戦争に前後する時期から第二次大戦での敗北に至る半世紀に、この関心は、日本の大陸侵攻と関連し、対回教圏政策として展開した。この時期に、革命に揺れ内戦をへたロシアから日本にタタール人・バシキール人が流入し、「グレート・ゲーム」と第二次大戦に向かう国際情勢の急迫のなかで、彼ら在留ムスリム、そして大陸と東南アジアのムスリムに熱い視線が放たれた。この時期に来日し、政界や軍部、さらに民間の論客と関係をもち、ムスリムの組織化と日本の大陸政策に関わった人々がいる。アブドゥルラシド・イブラヒム(1857-1944)とガブドゥルハイ・クルバンガリー(1889-1972)であり、また、ガヤズ・イスハキ(1878-1954)である。
さて、彼らを輩出した帝政ロシアは、多様な民族・地域を支配し統合する帝国であったが、極東での日露関係の緊迫と開戦は、これら非ロシア系民族の日本への関心を引き起こした。帝国支配下のポーランドやフィンランドの活動家の来日、日本の特務機関との接触はつとに知られているが、帝国支配下のムスリムの来日と活動もこの時期に始まる。イブラヒムの来日は、このような状況でその先駆けをなした。イブラヒムは、1857年に西シベリア(トボリスク県)のタラという町に生まれた[タタール人だ]が、先祖は16-17世紀からシベリアの都市に住み着いたブハラ商人であった。中央アジアのイスラーム圏と結びつき、その知識人の通例として、彼はイスタンブル修学、メッカ巡礼を果たし、ヨーロッパとアジアを周遊し、ツァーリズム批判と汎イスラーム主義を唱えていた。1905-06年のロシアをとらえた革命のなかでは、全ロシア・ムスリム大会開催に指導的役割を果たしている。

このイブラヒムが、その後のストルィピン体制を逃れ、カザンからシベリア鉄道経由でウラジオストクに至り、1909(明治42)年の2月2日未明に敦賀に降り立った。6月半ばに東京を発つまでの日本滞在は、カザンの新聞をつうじロシアのムスリムにも伝えられ、後に『イスラーム世界』(2巻本、イスダンブル)にまとめられ、日本がイスラーム世界に広く紹介されることになった。彼は、この日本滞在で、徳富蘇峰らの文人、大隈重信、伊藤博文ら大物政治家にまみえ、軍部とも密かに接触している。また、スーダンのマフディー運動に参加したアフマド・ファズリー、新彊のトルグート王の息子バルタ・トゥラ、インドの独立を目指すバラカトッラーとも会っている。彼は、日露戦争後の日本の国際的威信の高まりに触れて日本人の自尊心を巧みにくすぐりながら、ヨーロッパ列強からのアジアの解放、キリスト教批判を唱えてまわった。彼は、日本でのイスラーム布教の可能性を確信しつつ、モスクの建設も視野にいれ、国際政治におけるイスラームの重要性を訴えて、日本の大アジア主義と大陸進出と呼応したのである。

第一次大戦が始まると、イブラヒムはドイツでロシア軍ムスリム捕虜の組織化にあたり、ロシア革命と帝政の崩壊のなかで中央アジアで活動した。彼が亡命をへてふたたび来日するのは、1933(昭和8)年の10月である。(注1)

他方で、この革命と内戦をへて、シベリアを東に逃れ満洲を経由し、タタール人・バシキール人を中心とするムスリムが大量に日本に到来する状況が生まれた。彼らはラシャの行商などで知られることになるが、この在留ムスリムの指導者としてクルバンガリーは積極的な活動を展開した。彼は、ウラルのチェリャビンスク地方のムッラーの家系に育ったバシキール人であるが、内戦でコルチャークの白軍に加わり、やがてセミョーノフ軍とともに満洲に逃れた。彼は、日本の大陸政策のなかで回教徒工作の重要性を訴え、日本の政界、軍部、右翼とも密接な連絡をとり、その支援を得つつ、東京回教団を組織した(1925年)。さらに、回教学校を開校し(1927年)、雑誌『ヤニ・ヤポン・ムフビリー(新口本事情)』をイスラーム圏に向けて発刊し(1933年)、東京の代々木上原に回教寺院の建立にこぎつけた。だが、その開堂式(1938年5月)を前に逮捕され、日本を強制退去させられ、彼は、活動の場を満洲に移すことになる。(注2)

クルバンガリーが追放された後、日本のムスリムをまとめたのはイブラヒムであった。彼は、その死に至るまでの10年を、井筒俊彦ら日本のイスラーム学者を育て、在日ムスリムの重鎮として過ごすことになる。

イブラヒムとともに、もう一人のタタール人指導者イスハキが来日しているのも見のがせない。イスハキは、カザン近くのタタール人村落でムッラーの家族に生まれ、タタール文芸で活躍し、ロシア革命のなかでもヴォルガ(イデル)=ウラル国家の実現をめざして闘ってきた。彼は、ヨーロッパを舞台に活動していたが、ポーランド軍参謀部の資金でイデル=ウラル運動を唱え、極東でのその展開に期待して来日した。やがて、ムスリム運動の方向をめぐりクルバンガリーと鋭く対立し、1934年2月11日に紀元節の祝賀に沸く「帝都」で、乱闘事件を起こすことになる。(注3)

1936年にイスハキが極東を離れ、1944年にイブラヒムが死去し、クルバンガリーは翌45年の夏に満洲でソ連軍特殊部隊に捕らえられた。彼らが活動の基盤とした日本、そして満洲、朝鮮をふくむ極東のムスリム社会は、戦後、新中国の成立、朝鮮戦争の勃発、冷戦構造の形成のなかで消失していった。ロシアの支配からの解放を求め北方からムスリムが来日し、彼らの組織化が計られ、その指導者が日本の政界、軍部、言論人と交流し接触した時代、日本の大陸政策とその一環としての対回教政策がこれらのムスリム組織と共鳴・反発しながら「グレート・ゲーム」のなかで展開した一時代は、終わりを告げた。(西山克典)

(注1) イブラヒム:アジアに広がるイスラームの戦略的重要性を認めた日本の招請を受け,33年再来日を果たした. 東京ではロシア革命後の亡命タタール人社会の長老として東京モスク(現,東京ジャーミィ)でイマーム職を務める一方,タタール語雑誌《新日本通報》にイスラーム世界と日本との連帯を呼びかける論説を書くなどして日本の対ムスリム政策に協力した. やがて来日するムーサー・ビギエフに先立ち,少壮のイスラーム学者井筒俊彦に個人教授を行ったことでも知られ,日本の敗色濃い44年8月東京に没した. 汎イスラーム主義の夢を追って,ロシア・ムスリムと日本とを結ぼうとした人物といえよう. (1857-1944)

(注2) クルバンガリー:33年秋にイスハキが来日すると,彼との対立を深めて乱闘事件を起こし,38年に東京モスク(現,東京ジャーミィ)の落成祝賀を前にして国外退去処分を受け,大陸に移った. 45年8月にソ連軍が満洲に進攻すると,セミョーノフとともに逮捕され,55年までヴラジーミル監獄に収容され,その後,ウファ,次いでチェリャビンスクに戻り,ムッラーとして活動した. (1889-1972)

(注3) イスハキ:一貫して反ボリシェヴィキの立場を堅持,ロシア内戦時にはコルチャークと行動をともにした. 19年から亡命,日本,満洲,ポーランド,ドイツ,トルコ等で民族解放運動を継続した. 作家としての代表的な作品には,自民族に警鐘を鳴らし覚醒を呼びかけた《200年後の絶滅》(1904),政府を批判したため1917年まで上演されなかった戯曲《ゾレイハ》,亡命期にタタール人の歴史を概観した《イデル・ウラル》(1933)などがある. トルコのアンカラで死去. (1878-1954)

(参考) 韃靼(だったん):本来,東北アジア内陸部の諸集団の総称と考えられるタタルtatarを,漢語で表記した名称. 突厥からの情報が漢地に入って音訳きれ,唐代より漢籍に現れる. 南宋・金代には,モンゴル高原東部のタタル部や北東部のモンゴル部を含む諸集団は黒韃靼,南部の諸集団は白韃靼と呼称された. モンゴル部のチンギス・カンによってタタル部が滅ぼされた後も韃靼の語はモンゴル高原の諸集団に対して用いられ,明・清代にも継承きれた. ただし,明代には漢語〈韃靼〉は狭義のモンゴルのみをさす用例もある. 清代には西トルキスタン等のムスリムも含めて,北アジア・中央アジアの諸集団は漢人に広く韃靼と称された.

一方,古ルーシではモンゴル帝国の継承諸政権を構成するテュルク系ムスリムをタタールと称したが,モスクワ・ロシアの拡大に伴い,南シベリアの非ムスリム諸集団までその名で呼ばれるようになった. このように,漢語の韃靼とロシア語の呼称タタールは概念の上でも重なり合うようになり,後者にも韃靼の字が充てられた. こうして日本でも,バシキール人のクルバンガリーやヴォルガ・タタール人のイスハキー,ブハラ系タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムらは〈韃靼の志士〉と呼ばれたのであった.
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by satotak | 2006-12-31 08:03 | タタール


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