2006年 12月 31日

ロシア帝国治世下のタタール -ディアスポラへの道-

山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史②>」(東京大学出版会 1986)より:

正教化と四つの時期区分
ロシア国家の中央ユーラシア方面への膨張は、ロシア正教会がムスリムやアニミストにおしつけたキリスト教化と渾然一体となって進められた。ロシア史を通して聖俗両権力の複雑な関係はたびたび変化したが、神の福音とツァーリの恩寵をあまねく「しろしめす」という目的においては、正教会の布教活動はロシア国家のイスラム地域にたいする統合政策とたがいに補完しあっていた。その布教活動はタタール人ムスリムのばあいに、ロシア国家の政策と関連して大まかに四つの時期に区分できる。

まず第一は、イワン四世の時代からリューリック朝モスクワ大公国が衰亡に向かった16世紀末にいたる時期である。この間の教権は相対的に俗権から自立しながらタタール人の強制的同化を狙った (1552-1600年)。第二は、ピョートル一世などロマノフ朝初期の俗権優位の時代である。この時期も強制的同化が進められたが、行政的措置を伴ったのが特徴である (1600-1762年)。第三の時期は、啓蒙専制君主エカチェリーナ二世がイスラム信仰とタタール人の商工業活動に寛容な姿勢を示した時代である。そして第四は、エカチェリーナの寛容政策によるイスラムの活性化を危惧した俗権が正教会に布教活動を再開させて、教育や言語を手段に文化的同化を企てた時期である。時代と性格を異にしながら、この四つの段階を貫く太い糸がある。それは、自らの信仰と独自の生活様式を捨てまいとするタタール人ムスリムの不屈の抵抗力であった。

クリャシェンの誕生
カザン陥落直後、文武両権をもつ「ヴォエヴォーダ」と並んでカザンの植民地経営にあたったのは、1555年にカザン大主教に叙任されたグーリーであった。かれの宗務行政権限は、カスピ海にいたるヴォルガ全流域、ウラル山脈をこえてシベリアにいたる東方全域に及んだ。グーリーは、「異族人」の農民層のあいだに入ってねばり強く布教し、時には村や地域をまるごと正教に改宗させる成果をあげた。これは、かれがタタール語など地元語をよく駆使した賜物だったろう。タタール人改宗者の一団は、修道院と教会のすぐ傍に独自の共同体をつくりだし、ロシア語で「洗礼をうけた人」を意味する「クレシチョヌィ」またはタタール語で「クレシェン」とよばれた。かれらはロシア史上、タタール語が訛った「クリャシェン」の俗称で有名である。…

ディアスポラのはじまり
グーリーとちがい布教活動にアメよりもムチを用いた最初の人物は、1589年にカザン大主教に叙階されたゲルモーゲンである。かれはその主君フョードルの意を体して、ムスリムに苛酷きわまる措置をとった。1593年の勅書はロシア領土内のモスク新設と修復を禁止したが、この措置は現存するモスクの一掃を狙っていた。…

フョードルとゲルモーゲンの正教化政策は、ヴォルガ中流域のイスラム共同体にかなりの打撃をあたえた。カザンばかりか他の由緒あるイスラム都市でも人手を欠いたモスクがさびれはて、信仰の活力源であるワクフ収入は途絶えてしまうか公収された。イスラム文明の知の泉だったメドレセとメクテブも次から次へと閉鎖された。ウラマーは、ムスリム貴族ともどもロシアの聖俗両権力の憎悪の的となり、一身に弾圧を受けた。この試煉を運よく生き延びた者は、農村に難を避けて身を隠すか、自由を求めてはるか東方の地に亡命した。ムスリムのヤサク農民もロシア人との同化を拒んで、信仰を堅持するために集団で東方に脱出した。こうしてタタール人のイスラムは、「都市の宗教」の特性を失い「農村の宗教」として子孫に伝えられた。これは、イスラム史ではまったく新しい経験であった。

しかし、農村へのウラマーとタタール商人の浸透は、フィン系アニミスト住民のイスラム化とタタール化を促進する契機ともなった。もっと重要なのは、タタール人の東方への亡命や移住が、ロシア人も手をまわしかねた辺境地帯のカザフやノガイなどの半遊牧民や遊牧民のイスラム化を促したことである。また、中央ユーラシア各地の通商交易に活躍したタタール商人は、シベリア、トルキスタン、北カフカースに居留地をつくり、地元のムスリム住民との混合結婚や文化的混淆のおかげで独特な離散状態のエスニック共同体をつくりあげた。こうして16世紀末に早くも、のちにタタール人の目立った特徴となる「商業民族としてのディアスポラ」が始まったのである。ディアスポラ(離散)の状態にありながら、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、イスラム信仰と、文明語として熟していたチュルク=タタール語への執着のためであった。それにタタール人の民族意識をたえず覚醒させた別の要素も忘れてはいけない。ロシア人征服者にたいする憎悪と怨恨という心理的な要素も。…

ピョートル大帝の対イスラム政策
大帝ピョートル一世の即位から女帝エカチェリーナ二世の登極までの一世紀は、タタールにとって一番長く感じられる苦難の時期であった。ピョートルは1721年にモスクワ総主教を廃したかわりに、「最も聖なる統治権を有する宗務院」をつくって改宗布教活動を国家政策の必要性に従属させた。また、ムスリム地主の社会的凋落に情容赦なく追いうちをかけたのは、1713年に出されたピョートル一世の勅令であった。これは、カザンとアゾフのムスリム地主にたいして6ヵ月の猶予期間内に正教に改宗するか、それとも土地と農奴を国庫へ返還するか、いずれか一つの選択を命じていた。…

こうして、勤務タタールの上層部にいたムスリム貴族は急速に姿を消した。…改宗者はロシアの貴族層に吸収されたが、信仰を堅持した者は異族人身分の納税階級に身を落した。…

啓蒙専制君主と「啓蒙宗教」
エカチェリーナ二世の治世は、あらゆる面で「抑圧された民族」だったタタール人にとって息つぎの時代となった。ドイツ貴族の娘エカチェリーナが、イスラムを「啓蒙宗教」として評価したヴォルテールの影響をうけたことはよく知られている。彼女は、ロシアの東方膨張にあたり、タタール人がカザフ人やバシキール人など遊牧民・半遊牧民を「文明化」する役割を期待した。たしかに多民族帝国としてロシアが発展するのに、ロシア正教のみに依拠して各民族固有の信仰や誇り、慣習をふみにじるのはあまり賢明とはいえなかった。クリャシェンのプガチョーフの乱参加にみられるように、強制的な同化政策の行きつく結果を、現実主義者の女帝は案じたのかもしれない。

また、「不信の徒」たるロシア人との交易に背を向けがちな、中央アジアに広がる無限の市場もロシア経済には魅力であった。タタール商人はムスリム同信者としていともたやすく、ユダヤ教徒やロシア正教徒の商人を寄せつけない未知の土地に出入りしていたのである。タタール人の商いの才能と経験を帝国の富の蓄積に貢献させないでおくという法があろうか。こうして女帝は政策の転換にふみきったのである。

エカチェリーナは、即位後まもなく1764年に悪評の高い取扱局を正式に廃止し、67年にカザンを親しく訪れてムスリムの市街地居住とモスク建立を許可した。73年になると彼女は、帝国の全ムスリムにたいしても信仰の自由を与えただけでなく、メクテブ・メドレセ・モスクの建造をも公認した。1776年には、タタール商人の通商活動に加えられていた規制も撤廃されている。エカチェリーナの下で1783年に征服されたクリム半島のムスリムは、既得権をあまり失わずに済んだ。ヴォルガ中流域では89年に正教会による布教・改宗活動が制限をうけるまでになった。また驚くべきことに、99年になると、正教会によるムスリムヘの改宗活動が公けに禁止されている。これらは、ロシア帝国のムスリムの歴史において画期的な事件であった。あるムスリムが彼女の治世をロシア・イスラムの「黄金時代」と呼ぶ所以である。また、エカチェリーナの寛容政策がクリャシェンのイスラム再改宗を促した点も注目に値する。

しかし、タタールの歴史で画期的な意味をもつのは、ムスリムの生活全般にわたって法学的な解釈と適用に責任を負うムフティー職の設置が1782年に認められたことであろう。しかもこのムフティーは、信者たちによって選出されるきまりになっていた。ムフティー職の設置は、ロシアのムスリムが精神生活の上では公権力から自立した、ひとまとまりのイスラム共同体つまりウンマに属している事実をロシア帝国がはじめて認知したことを意味している。また歴代のムフティーはほとんどタタール人だったが、これはタタール人のあいだにイスラムの一体性への自信を再び植えつけ、自分よりおくれてロシアの支配下に入った同信者を「長兄」として指導する自覚をよびさますことになった。…オレンブルクのムフティー職は1788年にムスリム宗務協議会に再編成され、その権限はヴォルガ中下流域のタタール人とバシキール人を中心とする内地ロシアの全ムスリム及んだ。…

タタールの再生
ロシア経済の拡大とともに、18世紀末になるとカザンは、往年の経済中心地としての地位をタタール人の居留する別の新興都市に譲った。オレンブルクと「セイトフのポサード」、オルスク、トローイツク、ウラルスク、アストラハン、セミパラチンスクを結ぶタタール人の商業交易の密にして漏らさない網が中央ユーラシアの全域にはりめぐらされた。さらにタタールの居留区は、シベリア、トルキスタン、カフカースだけでなく、アルタイ、マンチュリア、東トルキスタン(新彊)、中国内陸部はては中・西欧や合衆国の各都市にも開拓された。ニューヨークで毛皮販売を一手に引きうけたのはタタール人であった。このような「ディアスポラ」の活力は、タタール人のあいだにパン・トルコ感情やパン・イスラム的気運を生みだす素地をつくりだしたのである。…

カザフ人にウラマーなどの宗教者を供給したのもタタール人であった。のちにスルタンガリエフは、「宗教に大義名分をかりて信心ぶかい」カザフ人を「たやすく搾取する」ためにタタール人のなかでも「意志薄弱なくず」ばかりが送りこまれたと皮肉っている(「ムスリムにたいする反宗教宣伝の方法について」)。いずれにせよ、西部カザフスタンを中心にタタール人の慣習法やシャリーアが広く普及し、タタール人のウラマーがカザフ人の食物・言語・衣服にいともたやすくなじむのを、正教の宣教師はただただ拱手傍観する他なかった。…

ロシア人とタタール人の経済競争
1860年以降になると近代技術の粋を集めたロシア人産業大ブルジョワの製品にたいして、相変らず中世的な手工芸の段階で足踏みをしていたタタール人手工業者の製品は大刀打ちできなくなった。また、蒸気機関を疾走させるロシア人の産業資本家と、勤勉と信用だけを頼りに牛馬で廻るタタール商人では勝負が目にみえていた。タタール人たちは新市場の積極的開拓に走りまわるどころでなく、これまでの通商交易網を守って自らの優勢を保持するのに汲々とした。それでもタタール人商業資本家のなかには、ロシア人の近代技術や取引方法を模倣しながら新しい試煉に立ちむかって成功を収めた者も少なくない。…

それでも全体としては、1880-90年代のタタール人商業・産業の衰退はおおうべくもなかった。そのうえ、エカチェリーナ死後の帝国の行政官は中央・地方を問わず、しばしばロシア人に依怙贔屓してタタール人にたいする露骨な差別政策をとりはじめた。…

ガスプリンスキーの「新方式」
ナースィリーの「タタール主義」と対照的な「パン・トルコ主義」もタタールのイスラム改革思想の水脈に合流するモダニズムの産物であった。パン・トルコ主義は、…ロシアで誕生した当時はむしろ文化的な改革運動を支える穏健な思想にすぎなかった。

その創始者イスマイル・ベイ・ガスプラル(1851-1914)またはガスプリンスキーは、クリム・タタールのムスリム貴族の家系に生れた。クリム・タタールは、ロシア帝国のヨーロッパ領土のなかでヴォルガ中流域のタタール以上に孤立したチュルク系の小さな共同体であった。このためにかれは、帝国の他のチュルク諸民族と密着しなければ、近代世界において民族として存続するのもおぼつかないとクリム・タタールの未来を危惧したのである。ガスプリンスキーはパン・スラヴ主義にならって、パン・トルコ主義こそクリム・タタールひいては似たような境遇にある中央ユーラシアのイスラム化されたチュルク諸民族に有益だと信じたのである。…

かれは、イスラム改革思想のどの先駆者にもましてチュルク諸民族の再生のエネルギー源を教育の革新に求めた。とくにかれは、『コーラン』の章句や教授の講述の暗記に終始する伝統的なイスラム教育を批判して、音声の理解を重視した新体系や世俗の諸学問の合理的な教育方法を導入しながらメドレセやメクテブの改革を試みた。これは、古色蒼然とした古典的教育の「旧方式」(ウスーリ・カディーム)と対照して、「新方式」(ウスーリ・ジャディード)またはたんに革新と新規を意味する「ジャディード」とよばれる学校の創立につながった。…

パン・トルコ主義における「タタール・ヘゲモニー」
ガスプリンスキーのパン・トルコ主義思想は、帝国の各地に散在するタタール人をたがいに有機的に結びつける手がかりともなり、タタールの居留地があったカザフスタン、トルキスタン、西シベリアなどのチュルク諸民族を統一する有力な武器であった。また、それは、ユーラシア大陸にまたがってロシアの公権力に庇護されたロシア資本と競合するタタール人の商業ブルジョワジーの経済的利益を代弁する思想でもあった。ロシア人の産業・商業ブルジョワとの死活をかけた経済的な競争に生き残るための切り札は、イスラムにもとづく宗教的一体性と、タタール人はじめチュルク諸民族に共通する言語的統一性であった。これこそタタール人の商業ブルジョワがガスプリンスキーのパン・トルコ主義の宣伝に援助をおしまず、「新方式」などジャディーディズムによるイスラムと民族の復興を激励した理由なのであった。タタール人などムスリムのチュルク諸民族のばあい、パン・トルコ主義とパン・イスラム主義は決して矛盾せず、イスラム改革思想のなかで琴瑟(きんしつ)相和するように結びついていたのである。

しかし、20世紀に入るとバシキリアとカザフスタンでは、タタール商人の経済力や「新方式」によるタタール文化の普及に支えられた「タタール・ヘゲモニー」は、同じムスリムのあいだでも他の民族から警戒されたり反感をかうことも珍らしくなかった。「タタール・ヘゲモニー」は、遊牧民や半遊牧民のばあいには「文化的に進んだタタール人がバシキール人を圧迫」したとスルタンガリエフが述べるように、ロシア人のタタール人抑圧に似た圧迫の構造をムスリムの内部で生みだしかねなかったからである。ロシア人の抑圧に劣らずムスリム諸民族内部の対立も考慮に入れなければ、1917年以降のウンマの分裂原因をさぐることができないであろう。
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by satotak | 2006-12-31 09:02 | タタール


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