2006年 12月 31日

「民族」と「エスニック」は違う!?

青柳まちこ編・監訳「『エスニック』とは何か」(新泉社 1996)より:

「民族」のルーツ
民族という語は、中国語に里帰りした日本生まれの言葉である。しかしエスニシティはそうではない。明らかに外国生まれ、強いていえば、アメリカ生まれの用語である。民族という語は、日常の新聞やテレビのニュースでお馴染みの言葉であるから、何となくわかったような気分になるが、エスニシティやエスニック集団はそうではない。

民族の英訳を、辞書で引くとpeople, ethnic group, ethnicity, nationと出てくる。しかしpeopleは私たちの感覚では、もっとごくごく一般的な「人びと」という感じであるし、nationではUnitedNations(国際連合)のような使い道からいって、「国家」あるいは「国民」という印象が強い。ethnic group, ethnicityでは、民族とエスニック集団とは同じだということになってしまう。フランス語もほぼ英語に近い用法らしい。ドイツ語のVolkは日本語の民族にやや近いのであろうか。英語以外の言語に関してはよくわからないので、ひとまずおくとして、少なくとも英語に関していえば、日本語の「民族」に相当する語彙がないようである.

では、そもそも明治時代に、民族という用語はどのような内容を意味するものとして用いられたのであろうか。
安田浩によれば、今日の民族という概念に合致する用語の使用契機を作ったのは、!882年に発刊された雑誌『日本人』と新聞『日本』であるという。この『日本人』は国粋主義の立場から、明治政府の欧化主義を批判するものであった。『日本人』創刊号には、「這般の所謂国粋なる者は……大和民族の間に千古万古より遺伝し来たり化醇し来たり、終に当代に到るまで保存しつづけるもの」とある。つまり日本という国家の主体を担うものとして、古来の歴史、伝統、文化を実体化した「大和民族」という人間の集団を設定しようとしたものらしい。また加藤弘之は1887年、ドイツの民族国家論を「族民的の建国並びに族民主義」として翻訳した際に、族民、民種、種族、国民などとさまざまな用語を使いつつ、それらが国家を形成する主体であることを強調しようとしたという(尹健次「民族幻想の蹉跌」『思想』1993.12)。

なお川田によれば、これより早く福沢諭吉『文明論之概略』(1875)が「国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り……」として、種族を使用していたという(川田順造r民族」r世界民族問題事典』平凡社、1995)。

こうして日本語では、国家を担うものとしての、統一体である人間集団を指す初期のさまざまな用語の中から、「民族」と「国民」が生き延びたといってもよいであろう。ただ誕生時の民族の意味あいは、現在では国民という用語の方がふさわしいように思われる。明治から約100年を経て、国家と結びついた人間集団である国民から、民族は語義の上で袂を分かち、いまだにあいまいな部分を残してはいるものの、ほぼ定着した使用法ができたといえよう。

その定着してきた「民族」の使用法はどんなものであろうか。私たちがもっとも基礎的な知識を獲得する学校教育の場での使用法をみてみよう。

「民族とは、同じ宗教、生活様式、社会制度などを有し、同じ文化を共有するという帰属意識を持つ人類の集団である」(『高校生の世界 地理A』帝国書院)
「衣食住だけでなく、言語、宗教、生活習慣は文化の重要な要素である。文化を同じくする人びとは、互いに仲間であると感じやすい。このように文化を共有するという意識(共属意識)を持つ人類の集団は、民族とよばれる」(『新しい社会 地理』東京書籍)
「いっぱんに同じ言語を話し、同じ生活慣習や価値観・考え方を持つ人のグループを民族とよんでいる。世界の国々には、いくつかの民族が集まってひとつの国を作っているものが多い」(『中学校社会 地理』学校図書)

民族とエスニック集団の違い
ここで改めてエスニック集団と民族は同じものであろうかという疑問に立ち返らなければならない。
もし同じであるとするなら、何をいまさらエスニシティとかエスニック集団とか、新しい言葉を振りかざして議論する必要があるのかということにもなる。違うとするならば、どのような点が違うのかを明瞭にしなければならない。本書では、エスニック集団を民族集団、エスニシティを民族性と置き換えることはしなかった。それはエスニック集団と民族を異なる概念としてとらえた方が、より便利であると考えたからである。民族とエスニック集団は構成上似たようなものであるとしても、その差異は以下の点にあるだろう。

1. まず第一に、エスニック集団は他の類似集団とともに、それを包括する上位の社会に含まれているという点である。ここでいう上位の社会とは、近代国家である場合もあれば、近代以前の王国、都市国家、首長国あるいは植民地政府のような場合もあるであろう。本書に含まれた論文の大部分が、包括的社会の存在を概念規定に加えている。包括的社会の存在に触れていないものも、アメリカ合衆国の国内問題や、アフリカの都市状況をあつかうなかで、それを当然のことと考えている節がある。

一方、民族は、その上に包括的社会があることを必ずしも条件としていない。中学で学習した「ゲルマン民族の大移動」などという言葉は、今でも耳に残っているが、このような使用法に際しては、上位の社会はまったく関係がない。明治以来しだいに定着して使われるようになってきた民族という用語は、このような場面にそのまま残しておく方が、混乱がないのではないか。

2. エスニック集団と民族の属性についての差異は、すべて上記の点に由来するといえよう。単独で存在することも可能な民族(それは実際にはほとんどあり得ないかもしれないが)に比して、包括的社会の一分子であることを運命づけられているエスニック集団は、必然的に他者とのひんぱんな相互作用を持つようになる。本書には「みずからも同定し、他者からも同定される」というような説明がしばしば登場しているが、この同定作業は、相互に密接な関係がある他者との比較があって、はじめて問題となることである。

3. エスニック集団は原初的なものか、操作的なものかといったような議論もしばしば行なわれている。ごく大ざっぱないい方をするならば、民族という概念では成員性がより原初的であり、エスニック集団という概念では成員性の操作性はより高いと考えられるのではないか。エスニック集団であっても、まったく自由に自己の帰属を操作的に選択することは難しいであろう。しかし、ある範囲内で、他者との利害得失のなかで、自己の帰属集団を選択することは十分に考えられるからである。

4. エスニック理論のなかでもっとも注目を集めたバルトの境界論も、密接な相互作用があってはじめて生じる現象にかかわっている。担い手である人間が流動しても、なお境界は存続するという考え方は、静的な民族論からはなかなか出てこない。換言すれば、エスニック集団の方が民族より流動性が高いといえよう。エスニックを集団ではなく、範疇としてとらえようとする傾向も、その流動性にあると考えられる。

上述のような観点をもう一度整理してみよう。
国民:国家を構成する個々人、あるいはその全体を指す(『平凡社大百科事典』)。国民は国家があってはじめて成立する概念である。明治期の日本に国民(前述のように、当時は民族、国民、族民、民種、種族などさまざまな用語が模索されたようであるが)意識が叫ばれるようになったことは、この意味でうなずける。現代世界は地球上のあらゆる人間を国家に組み込んでしまったようにみえる。本来国家の枠内に入る意志のない人びと、あるいは国家やその政府が何であるかを知らない人びとさえも、国家の線引のなかに取り込まれてしまった。

民族:上述の中学・高校の教科書にみられた定義で十分であろう。民族は国家の枠組みとは別に広がっている。したがって国家すなわち国民を超えて民族が拡大している場合もあれば、一国家が一民族で構成されている場合もあるであろうし、一つの国家内に複数の民族が含まれる場合もあるであろう。最後の事例の場合が、ここで取り上げるエスニック集団である。換言すれば、民族はある条件のもとでエスニック集団となる。

エスニック集団:その内容については本書に収められた諸論文が、それぞれ述べているのでここでは触れない。ただし前二者との関係を明らかにするために、国家のような上位の社会のなかに複数の民族が共存する場合、その一つ一つはエスニック集団であるとのみ記しておこう。


[アニヤ・P・ロイス著「キリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく」(1982)より(森雅文訳)]
定義の本質
定義に問題のある概念は数多い。「エスニック・アイデンティティ」「エスニック集団」「エスニシティ」もそうであろう。私たちは整然とした輪郭を持つ完璧な定義を創り出し、隣接する概念との混乱を回避したいという誘惑に駆られている。…

むろん、曖昧な概念を定義することを、断念すべきであるといっているのではない。定義づけようとするものに近似した、融通性のあるおおまかな定義で、私たちは満足しなければならない。また、例外や矛盾を調整しようとして、自らの無力さにうろたえる必要もない。「エスニック・アイデンティティ」「エスニック集団」「エスニシティ」は、人間行動上のやりとりや、行為を方向づけること、それにもとづいて行動させられるということから、その形式と内容が作り上げられている概念である。そこには、人間行動に関してもみられるように、連続性や変化が存在する。

こうした観点から、次のような定義を示しておく。「エスニック集団」とは、――たんなる想定であるにせよ―― 顕在的な特徴と価値観にもとづいた共通の歴史様式を共有し、他者との相互行為の過程を通じて、この様式を共有していると自らを同定する人びとが引き合いに出す準拠集団である。「エスニック・アイデンティティ」とは、自らを他とは区別される一つの集団として同定する集団の、価値観、象徴、共通の歴史に関連した、その成員の感情の総和である。「エスニシティ」とは単純に、エスニックにもとづいた行為であるとする。これらの定義は、私たちが「エスニック」と呼ぶような範疇を区分するのに有効であり、それらが変化することをも射程に入れる柔軟性を備えている。エスニック・アイデンティティやそれに関連する現象についての従来の見解には、このような柔軟性に欠けるものもあった。従来の観点がもたらす、本章の表題に掲げたような「エスニック」の定義は、定義論争の吟味にあたり格好の出発点になるであろう。…
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by satotak | 2006-12-31 11:05 | 民族・国家


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