人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2007年 01月 15日

1930年代中国人にとっての新疆問題

王 柯著「20世紀中国の国家建設と「民族」」(東大出版会 2006)より:

新疆の政治的独立を巡る国民政府の動き
1928年7月7日のクーデターを鎮圧して新しい最高実力者になった金樹仁に対して、国民政府は10月末まで「新疆省政府主席」の任命(実は追認)を発表しなかった。楊増新時代には省長が兼任していた「新疆辺防督辦」の職に、1931年6月6日になってはじめて金樹仁を任命した。国民党長老…らが「回民」である広西省出身の軍閥白崇禧にあてた手紙から、蒋介石、汪精衛を含む何人かの南京国民政府要人には、この権力交代を機に、白崇禧が軍隊を率いて新疆に入り、新疆の政治的独立状況を打破しようとの動きがあったことが確認できる。
白崇禧の入新は結局実現しなかった。その理由は、金樹仁による懸命の反対と中国内戦の勃発とされている。しかし前述のように、新疆の政治的独立状況は単に一軍閥の権力欲から成立したものではなく、人為的な要因のほかに、当時の国民政府が新疆を支配するだけの実力をもっていなかったことや、交通の不備などの客観的要因もあった。…

当時は、ようやく北伐が終結し、全国が統一されたばかりの時期であった。国民政府は南京で正式に発足したものの、「しかし形の上では統一されたこの政権も、その内実は『革命軍将領』あるいは『国民政府委員・各省主席』の肩書をもつ新軍閥の不安定な連合にすぎなかった」。このような状況の下では、白崇禧が国民政府に要求していた新疆辺境防衛経費の支給なども、実現不可能なことは明らかであった。
このような状況におかれた中央政府は、新疆の支配権を地方軍閥から取り戻すとの望みを、新疆内部の状況変化にゆだねざるをえなくなった。1933年4月12日の新疆政変への国民政府の対応は、こうした態度に基づくものと言えよう。

当初、国民軍参謀本部は天山を境として新疆省を南北の2つの省に分けることを提案した。しかし、これは新疆問題の現実的な解決につながらないので否定された。そこで、1933年4月から7月にかけて、国民政府は、政変者側が選出した臨時省主席劉文龍と臨時督辦盛世才の追認を口にせず、多数の各方面の専門家を随員にし、参謀次長黄慕松を「国民政府宣慰使」として新疆へ派遣し、新疆政権を接収する構えを見せた。その思惑は盛世才の反撃 -「二次政変」- によって不調に終わったが、その後、7月10日に行政院長汪兆銘は行政院会議で発言し、なお次のように盛世才に厳しい注文をつけた。「中央の新疆政策は、第一に外交の中央政府との統一、第二に軍事の中央政府との統一、第三に民族の平等と宗教信仰の自由を認めるものである。……中央政府による新疆省の新しい人事任命もこれを条件に、それを執行する人間を任命する」。

新疆問題を巡る中国知識人の提言
こうした国民政府の動きにともない、中国の知識人は活発な言論活動を行なった。彼らは新疆問題の発生原因を逐一分析し、解決策についても率直に提言した。
1930年代初めの新疆の社会的動乱を促した要因については、人によって諸々の異なった見解がとられているが、そのほとんどは新疆政治の腐敗、新疆経済の破綻、少数民族と中国人移民との対立、外国勢力の介入、交通の不備による内地との断絶状態などに集中している。そこに見られる一つの共通点、つまり、四・一二政変が発生した契機は新疆の民族抗争であり、民族抗争は政治腐敗によるものであり、政治腐敗の原因は金樹仁の独裁であるというものである。この共通の認識に基づいて新疆の政治改造が当面の急務として訴えられ、新疆の政治独裁状態を終結させて、中央の指令に従う新しい新疆省政府を作らなければならないという意見が一般的であった。

新疆の政治的独立を打破するために中央政府がとるべき具体策についての中国知識人の議論は、要員派遣論と軍隊派遣論に二分される。中央政府要員による「宣撫」を基礎にして新しい新疆省政府を作るという要員派遣論に対し、軍隊派遣論者は、軍隊による新疆制圧を基礎にして新しい新疆省政府を作るべきであると主張した。さらに、民族問題の解決においても、要員派遣論と軍隊派遣論の論争が展開された。
つまり、要員派遣論は同時に少数民族に対する「宣撫」によって民族問題を沈静化させると主張したのに対し、軍隊派遣論は、外国勢力の介入を防ぐ目的もあるが、少数民族に対する弾圧によって民族問題を解決するとはっきり主張していた。たとえば、孔祥哲は「愚かな民は恩返しを知らず、法をもって管理するしかない」ので、民族反乱を鎮圧するために軍隊を各地に駐屯させるべきだと話していた。だが、どちらの論議も民族問題の徹底的な解決には民族同化が必要であると意識していた。

政治問題に対し、民族問題、経済問題、交通問題および外国勢力の介入の問題などは、いずれも二次的な問題とみなされていたが、新疆問題を徹底的に解決するためには、政治問題の解決の優先が訴えられると同時に、これらの問題に対する解決策も打ち出された。「民智不開」(民衆が啓蒙されず)のため、新疆における学校教育の整備が訴えられてもいる。しかしその狙いは少数民族に対する文化的同化であった。新亜細亜学会は「文化の融和」を訴え、趙鏡元はムスリム住民の子供に漢文化と民族文化を共に教え、「冶漢回於一炉」(漢回(文化)を一炉において陶冶すべき)と唱えたのである。

当時の国民政府農村復興委員会主席である緒民誼は「新疆問題」の解決について、詳細な計画を提出している。そのおもな内容は、中央政府内に「西北建設委員会」を設置することであった。委員会のなかに国道局・勧業局・採鉱局・墾殖局を設け、それぞれ中国内地から新疆への交通の整備、新疆の工業・商業・金融業の育成、新疆地下資源の採掘利用、中国内地住民の新疆入植に努めるというものであった。
交通整備の重要性も訴えられた。当時の国民政府の外交部長羅文幹はこれについて「一石四鳥」の方法を考案した。それによれば、服役者を駆使して内地から新疆への道路を築き、道路が開通してから服役者を現地に定住させる。交通の整備、農業の開墾の利が得られるほかに、内地における犯罪者の消滅と新疆住民の民族構成の変換をも図るものであった。中国内地の利益に基づいて新疆問題を考えたと言わざるをえない。

以上のように、新疆問題の解決策はいろいろ提案された。しかし、その性格が新疆の政治的、経済的、財政的、民族的独立を可能にするすべての要因をなくし、新疆と中国内地、少数民族と漢民族との政治的、経済的、財政的、また人的な絆を作り上げることを目的としていたことは明らかである。このことから、当時の中国人が認識していた新疆問題は、決して新疆地域社会内部での政治問題、民族問題、経済問題ではなく、新疆のトルコ系イスラーム住民をいかに政治的に統合し、文化的に同化させるか、新疆をいかにして永久に中国の領土内にとどめるか、という問題であったことがわかる。…

日本と新疆
…1932年から、新疆に対する日本の脅威に言及する論文が現れ、また次第に増えつづけたことである。日本勢力は実際はまだ新疆に及んでいなかったのに、こうした緊張感が現れたことはなにを意味するのであろうか。当時の中国人の考え方について二つの例を取り上げてみよう。ひとつは…

「日本が東4省(中国の東北地域-筆者)を侵略してから、国際情勢はそれによって一変し、英露の対日態度は直ちに悪化した。日本は英国(の軍事行動)に備え、対露作戦の準備にも着手し、また中ソの連合を防ぐために、イギリスとソ連の争奪の対象となっている新疆に対して、敏感に注意するようになった」。
この例に見られるように、日本が新疆に関して脅威になっているという当時の中国人の認識には、まず、満州事変を出発点とした新しい日中関係という背景が大いに意識されている。このような意識の裏づけとなるものは、1931年の満洲事変以降の中国社会における「抗日運動」の高揚であろう。

もうひとつの例は、…「日本の計画としては、満蒙の独占および華北をその勢力範囲に収めることである。それに成功するために、新疆を侵略して、イギリスとロシアとの間に鼎立する侵略関係を樹立しなければならなくなった」と、日本がいつかかならず新疆の脅威になると警告を発した。
ここにおいて、日本の「新疆侵略」という表現は、明らかに新疆に対する軍事侵略を指している。これは、イギリス、ソ連が新疆省の民衆あるいは政府への影響・浸透を通じて政治的・経済的侵略を図っているという多くの人々の指摘とは対照的である。すなわち、日本が新疆に一層大きな脅威をもたらしたことを語っているのである。

二重の中国
…1870年代清朝政府における「海防・塞防論争」にしろ、1930年代における新疆論争にしろ、もっぱぼら列強の新疆進出が「中国」にどの程度の脅威を与えるかとの線で展開したことは注目すべきである。
1930年以降の新疆問題を論ずる中国文献において、新疆、チベット、モンゴルなどの地域は、その中国に対する重要性がとくに強調される際、しばしば「屏藩」(藩屏)と呼ばれていた。そもそも、ここにおいて浮かび上がってくる問題は、1928年に国民政府のもとにはじめて統一した中国では、中国人が考えた統一中国の全体像のなかにおいて、少数民族および彼らが住む辺境地域がいかに位置づけられていたかということである。

少数民族が住む地域は、中国国土面積の7割を占めているため、「中国」という国の国体にとって欠かせない存在であり、そして中華民国は漢族・満洲族・モンゴル族・同族(イスラーム民族)とチベット族の「五族共和」を国体としているため、少数民族である満洲族、モンゴル族、チベット族およびイスラム民族がいなくなったら、もはや中華民国という「中国」ではなくなると一部の人は説いていた。
しかし、「屏藩」という言い方は、少数民族が住む地域が中国の国体・政体にとって欠かせぬ存在であると同時に、方位上、政治上、また国防上において、中国の内地と平等に扱えないことも意味している。国民政府の高官を含め、当時の中国人が想像した中国は、「二重の中国」であり、はっきりと区別された二つの部分 -漢族が住む内地部分と、少数民族が住む辺境部分- によって構成されていた。二つの部分の関係は、地理的には前者が中心にあって後者がその周辺にあり、文化的には前者が後者より優れ、政治的には後者は前者に従属し、国防的には、後者は前者の安全のための存在であるというものである(下図)。

このような中国人の辺境認識は、前文で述べた「多重型帝国構造」、そして中国の昔からの「五服説」という天下観に似た構造である。「五服説」とは、中国本土各地あるいはその外側にある諸外国に住んでいる人達が、中国の都から500里離れるごとに「甸服」・「侯服」・「綏服」・「要服」・「荒服」に分けられ、それぞれ経済的・政治的・軍事的に中国王朝に仕え、あるいは文化的に中国王朝の権威を認めるというものである。そのなかで「綏服」は中央権力がもっとも遠く届ける辺境地帯の民であり、王朝の安全のために辺境防衛を務める。
1930年代における「二重の中国」という意識は、ある意味で、帝政を倒し、三民主義を標榜しているにもかかわらず、中華民国南京国民政府が依然として非近代的国家政権の性格をもっていたことと、近代中国人の民族思想が依然として伝統的「華夷思想」から完全に脱出できていなかったことを証明している。
ただ1930年代に南京国民政府や学界と言論によって代表された中国人の辺境意識は、決して伝統的「華夷秩序」に基づく世界観とは一致していない。「五服説」は、「世界中が原則的に中国の支配に服している」という観念に基づき、中国中央王朝が「王道」をもって異民族と接し、それを「徳化」するために取るべき政策を説明するものであった。しかし当時の中国人の辺境認識が1930年代に、辺境の国防における重要性がもっとも強調されたことから、基本的にいかに辺境地域を利用して列強諸国の侵略から自国を守るかという目的に基づいて成立していたことがわかる。これは、また近代以来、伝統的「華夷秩序」が国際社会から大きな挑戦を受けたため、中国人の辺境認識の変容が、始まったことを物語る。…

by satotak | 2007-01-15 14:31 | 東トルキスタン


<< カシュガル概観      カシュガルの新方式学校 -ウイ... >>