テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

モンゴルとは集団の呼び名 - モンゴルの起源 -

「遊牧民から見た世界史」(杉山正明著、日本経済新聞社 1997)より:

モンゴル帝国について多くの人が感じるであろう疑問は、なぜあれほど急速に史上最大の版図をもつまでに拡大したのかという点だろう。…
軍事上におけるモンゴル軍の優位性をかぞえあげていけば、おそらくきりがなくなるだろう。…しかし、従来ややもすれば、もっとも肝心な点を見逃しがちだったのではなかろうか。それは、「モンゴル」ということばそのものにある。

結論を先取りするかたちになるが、「モンゴル」とは、きわめて融通性にとんだ集団概念であった。しかも、それは、版図の拡大につれておなじように膨脹した。きわめて弾力性のあることばであり、人間組織であった。
ひるがえって、ふつうに「モンゴル」というと、あたかもはじめからそうした人種民族が厳然として存在したかのように考えられている。しかし、それは誤解である。いや、錯覚といってもいい。

たしかに現在、外蒙のモンゴル国と、ゴビの南、中華人民共和国の内蒙古自治区という二種の地域を中心にして、モンゴルという人種・民族が存在しているから、それが過去にさかのぼって、ずっとそうだったと考えられるのも仕方がない面がある。それに、これらの人びとが、世界帝国時代の「大モンゴル国」のモンゴルたちの、すくなくとも子孫の一部分であることもたしかではあろう。

しかし、ここで肝心な点は、モンゴル帝国の形成に中核となった「モンゴル」とは、いったいどういう人びとだったのかである。そこに、超広域の世界帝国が出現した鍵が隠されている。
チンギス・カン、すなわちテムジンによる高原統合のまえ、大小、数多くの牧民集団が割拠し、入り乱れるように攻伐をくりかえしていた。大きな場合は「部族」単位で、小さなものは「氏族」単位で、運命共同体をつくって行動した。
もちろん、ここにいう「部族」も「氏族」も厳密な表現ではなく、おもに血縁もしくは仮構された疑似血縁でむすばれた小規模な集団をかりに「氏族」といい、そうした「氏族集団」が地縁や政治上の理由(その場合も、「血」に仮託された親疎関係が強調された)でいく個か寄りあつまったものを、やはりかりに「部族」というほどのことにすぎない。
当時の漢語文献において、「○○ 氏」、「○○ 部」と表記されるものに近い。…高原に割拠する諸勢力のうち、…ケレイト、ナイマンなどは、それなりの中央権力機構をそなえ、「王国」といってもよい状態にあったとされる。とはいえ、結束や組織化の度合いにちがいはあっても、いずれも「連合体」である点に、大きな違いはなかった。
モンゴルはそのなかであまり強力とはいえない「部族」集団であった。まして、テムジンが生まれたのは、モンゴル部のなかの、…小連合であるキャト氏…の、そのまたボルジギン氏という家柄であった。大小あまたある牧民集団の大海にあっては、まことに渺(びょう)たる存在にすぎなかった。…

歴史上、モンゴルという名称そのものは、すでに唐代の漢文献にあらわれている。「萌骨」蒙兀」などと表記された。いずれも、モンゴルに近い音をあらわす。
しかし、モンゴルと呼ばれる集団は、久しいあいだ、とりたてて目立つほどのこともない存在であったらしい。弱小集団のモンゴル部が記録の表面に浮上してくるのは、せいぜいが12世紀のことである。テムジン登場の前夜とさえいっていい。モンゴルは新興勢力であった。
12世紀すえ、テムジンは、そのモンゴル集団のリーダーへと浮上した。さらに、13世紀のはじめ、ほとんど一瞬にちかい好機をとらえて、ケレイト部のワン・カン…を奇襲攻撃で殪(たお)した。…ときに、1203年の秋であった。
一気に、高原の東部と中部の覇者にのしあがったテムジンは、1205年、西部の大勢力であるナイマン部族連合をも打倒・吸収する。テムジンの覇業は、わずか二年あまりでなしとげられた。

ここに、容貌も言語もまちまちな牧民たちが、テムジンという一個の権威者のもとに寄りあつまるかたちが生まれた。まさしく、政治連合体というほかはない。その牧民連合体の名として、指導者の出身集団の名をとって、「モンゴル」とされるのは自然のなりゆきであった。すなわち、いわゆる「モンゴル」とは、もともとささやかな集団の呼び名にもとづくのである。
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by satotak | 2006-06-30 01:08 | モンゴル


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