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2007年 05月 06日

クルマンジャン・ダトカ -クルグズの女傑-

クルマンジャン・ダトカ Kurmanjan Datka (クルグズ語: Курманжан Датка; Datka Kurmanjan Mamatbai kysy) 1811-1907

コーカンド・ハン国期およびロシア帝国期のクルグズ人部族指導者。「アライの女帝」または「南部の女王」としても知られる。

遊牧民オン・カナト(右翼)部族連合のムングシュ族の平民クルグズの娘として、クルグズスタン南部アライ地方グルチョに生まれる。18歳のときにそれまで会ったこともなかった男との結婚を強いられた。彼に会ったとき彼を好きになれなかった彼女は伝統と故郷を捨て、最初隣の中国に逃れたが、後に父親マンバトバイのもとで過ごすことを決意する。
1832年、当時コーカンド・ハン国によってアライ地方のダトカに任命されていた有力クルグズ、アルムベク・ダトカが若くて快活な彼女に惹かれ、彼女は彼と再婚した。

「アライ山の女王 クルマンジャン」
(ユリスタンベク・シガーエフ (注1))

なおダトカとは、コ一カンド・ハン国では要塞司令、ブハラ・アミール国ではアミールヘの請願を取りつぐ官職であり、クルグズ人の場合、この称号は部族長に与えられた。

アルムベクはハン国宮廷で大きな影響力を有していたが、クルマンジャンは夫が地元不在の際に聡明な部族指導者として頭角を現すようになった。62年、しだいに衰えつつあったハン国宮廷の内紛によりアルムベクが非業の死を遂げると、当時ハン国に干渉していたブハラ・アミールは彼女の影響力に注目し、アライの支配者としてダトカに任命した。彼女はコーカンド・ハン国、ブハラ・アミール国、カシュガル方面にも影響力を有していた。

コーカンド・ハン国の内乱に乗じてロシア軍が征服を開始すると、クルマンジャンは当初これに抵抗した。しかし76年スコベレフ将軍のアライ遠征に際して抵抗の無益を悟り、彼女の部族民にロシアの宗主権を受入れるよう説得した。

引き続く動揺とロシアの支配権を排除しようとする部族民の散発的な試みが続く中で、銃砲火薬類をはじめとする密輸は儲けの多い商売となった。そしてクルマンジャンの2人の息子と2人の孫が密輸と税関役人殺人の罪で告発された。彼女のお気に入りの息子に死刑が宣告されたとき、彼女の支持者達が彼の救出を熱心に求めたが、彼女は自分の個人的な希望や熱望で部族民を苦しめることを拒んだ。彼女は実際に息子の公開処刑に立ち会った。そして他の者達はシベリアに追放され、彼女は実質的に公式の場から引退した。

1906年、マンネルハイム将軍(後のフィンランド大統領)が彼女を訪れ、ロシアの勲章を授けるなど、ロシア帝国併合後も「アライの女帝」としてトルキスタンのロシア権力から丁重に扱われ、特権を得た。クルマンジャン・ダトカは90才過ぎまで生き長らえ、2人の息子、2人の娘、31人の孫、57人の曾孫と6人の玄孫を遺した。

1995年に創設された女性のための委員会の名称に彼女の名前が付けられた。その委員会は現在では「女性国民連合:エラユム “Erayim”」として知られている。

(出典) 「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005 筆者:秋山 徹)
     「Kurmanjan Datka」 (From Wikipedia, the free encyclopedia)

(注1) ユリスタンベク・シガーエフ: 1957年 旧ソ連邦キルギス共和国ビシケク生まれ。1984年 ペテルブルグの芸術アカデミー卒業。アジアン・アート・ビエンナーレ(1997年 ウズベク、1999年 バングラデシュ)、World Contemporary Art (ロス・アンゼルス) などにおいて受賞多数。2000年 キルギス国家賞受賞。キルギス国立建築大学美術学部教授。2006年9月 初来日。

(参考) 50ソム紙幣: クルマンジャン・ダトカの肖像が入ったクルグズスタン紙幣

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by satotak | 2007-05-06 20:07 | キルギス


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