2007年 08月 24日

中央アジアの国境 -ソ連の民族別国境画定-

岩下明裕編著「国境・誰がこの線を引いたのか ―日本とユーラシア」(北大出版会 2006)より(筆者:帯谷知可):

国境線の変遷 ―三つの契機
近現代におけるこの中央アジアの国境線の変遷を考える場合、大きく分けて三つの契機があったといえるでしょう。

その第一の契機は、帝政ロシアによる中央アジアの征服です。帝政ロシアはシベリアを征服した後に、今度は南へ向かってどんどん拡大しました。19世紀の初めぐらいからカザフ草原へ南下し、徐々にこれを征服していきます。そこに要塞線を築き、それ基地として、19世紀の後半には、中央アジア南部の、定住民の暮らす地域に本格的に進出してくるわけです。この地域では当時、コーカンド・ハン国ブハラ・アミール国ヒヴァ・ハン国という、一般にウズベク三王朝などとも呼ばれますが、それぞれウズベク系の支配者の君臨する王朝が三つ巴という状況でした。このうちコーカンド・ハン国は、完全にロシアに征服されます。これを解体して、フェルガナ州が形成されました。ブハラ・アミール国とヒヴァ・ハン国については、完全征服はされず、君主を残したかたちで保護国化されました。1867年にはタシュケント(現在のウズベキスタンの首都)にトルキスタン総督府が設置され、以後中央アジア南部地域統治の中心となりました。元来この「トルキスタン」という言葉は「テュルク(トルコ)系の人たちが住む場所」という意味で、歴史的な地理概念・地理名称ですが、明確な境界線をもったものではありませんでした。しかし、このロシアの中央アジア征服とトルキスタン総督府設置によって、「トルキスタン」は初めて具体的な境界線をもった領域を指すことになったのです(地図3-1、3-2)。


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第二の契機は、…中央アジアの民族別国境画定です。ロシアの中央アジア征服からほぼ50年を経たところで、1917年ロシア革命が起こります。革命は中央アジアにも波及しました。それまで帝政ロシアのもとで行政府として機能していたトルキスタン総督府も革命勢力によって打倒され、やがて中央アジアにソヴィエト政権が成立します。ソヴィエト政権初期には、基本的には帝政時代の行政区分、すなわち、むしろ歴史的な地理概念や地理名称に基づいた区分がほぼそのまま引き継がれていました。かつてトルキスタン総督府領だった領域にはトルキスタン共和国、ヒヴァ・ハン国だった領域にはホラズム共和国、ブハラ・アミール国だった領域にはブハラ共和国がそれぞれ形成されました。革命後の内戦の混乱が収まり、ソ連が成立すると、民族理論や民族政策をも念頭に置いて、社会主義建設のための新たな行政区分が求められるようになり、中央アジアの行政区分が組み替えられていくということになるのです。これが、すなわち、1924年から1925年にかけて行われた、中央アジアの民族別国境画定です(地図3-3)。これによって、ウズベク、カザフ(当時はキルギズ)、クルグズ(当時はカラ・キルギズ)、タジク、トルクメンの五つの民族がそれぞれ主体となって社会主義建設を行うべき五つの国――これは「国」とはいってももちろんソ連のなかでの連邦構成単位、「ソヴィエト社会主義共和国」のことですが――の前身ともいうべきかたちができていきます。民族別国境画定によって史上初めて、中央アジアに民族別の境界線が出現したことは大きな意味をもつ出来事でした。これによって「トルキスタン」という行政区分は消失し、その言葉自体もあまり使われないようになり、カザフスタン以外の中央アジア南部地域を指す言葉として「中央アジア(ロシア語でスレードニャヤ・アーズィヤ)」がもっぱら使われるようになりました。この民族別国境画定については後で少し詳しくお話ししたいと思います。


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第三の契機は中央アジア諸国の独立とソ連解体、これは1991年と、比較的最近のことです。中央アジア諸国は、いってみれば予期せぬかたちでそれぞれ独立を宣言するに至り、やがてソ連解体を迎えたのであり、1920年代ソ連体制のもとでの民族別国境画定に由来する境界線を、そのまま引き継いだかたちで独立しました。この境界線が名実ともに独立国家間の国境となったわけです。ソ連時代には閉じることを想定されていなかった境界線が、ソ連解体後のタジキスタン内戦(1992~1997)やアフガニスタン情勢の悪化、九・一一事件とアメリカによるアフガニスタン空爆の開始、さらにもっと広い世界情勢のなかの様々な要因から、中央アジア5ヵ国の国境線として、それぞれ内に向かって閉じていくという側面が出てきます。
近現代における中央アジアの国境の変遷を考えるときに、以上三つの契機を念頭に置くとよいでしょう。

中央アジア民族別国境画定のダイナミズム
中央アジ民族別国境画定は、すでに述べましたように、現在の中央アジアの「民族」と「国家」の原型もたらしました。

従来、日本の中央アジア研究では、この民族別国境画定の過程で大きな争点となった、領域再編成の原則の対立に注目が集まっていたといえるかと思います。その一方は「中央アジ連邦構想」、つまり中央アジア全体をゆるやかな連邦としてまとめるという案、もう一方は「民族別共和国構想」、つまり現在のように民族別に共和国に区分するという案でした。結果として後者が採択されることになりますが、その意思決定の構図とは、モスクワのロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会を頂点に、中央委員会の出先機関としてタシュケントに置かれた中央アジア・ビューローに領域再編成の原案作成が委ねられ、さらにその下に民族別の領域委員会が設置されてより具体的審議を行うというものでした。中央アジア・ビューローはモスクワから派遣された人々と、中央アジア出身の民族エリートも含む中央アジアのそれぞれの共和国の代表から成っていました。民族別の領域委員会は、ウズベク人の代表はウズベク委員会、カザフ人の代表はカザフ委員会、トルクメン人の代表はトルクメン委員会を形成するというかたちをとり、それぞれにおいて領域再編成案が検討され、それを中央アジア・ビューローにもち寄るというかたちをとりました。

これまでの研究では、この中央アジア民族別国境画定は、モスクワが中央アジア支配を強化するためにスターリンの民族理論を根拠として強制したものであり、その背後には「分割して統治せよ」という理念があるということがいわずもがなの前提となっていた感があります。中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくるような可能性をあらかじめ奪い取っておくべきだとの考え方が根底にある、という見方です。しかし、ノルウェーの研究者アーネ・ハウゲン(Arne Haugen)は、中央アジア民族別国境画定に関する一次資料を渉猟した成果を示した最近の著書(注1)…で、これとはかなり異なった見方を提示しています。そのなかからいくつか興味深いと思われる論点を以下に紹介してみましょう。

「分割して統治せよ」は妥当か?
「分割して統治せよ」というからには、中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくることへの懸念が背後にあったことになります。それは、一面では、ソヴィエト政権が中央アジアを一体性をもちうるものとしてみていた、そして裏を返せば、中央アジアにそのような実態があった、ということになるでしょう。ところが、ハウゲンによれば、ソヴィエト政権は中央アジアをむしろ非常に小さい単位の集団の集合体、いわば寄せ木細工のような状態とみており、しばしば生じる多様な集団間(例えば遊牧民と定住民の間の)の不和・反目・衝突を抑え、大きな紛争を防ぎ、さらに効率的な統治方法を創出することに懸命でした。当時、中央アジアにおいてソヴィエト政権は何もかも力で解決できるほどには強力ではなかったので、現地出身の協力者たちに依存しなければならない点も多く、彼らの意見を可能なかぎり吸い上げ、なんとか妥協点をみいだして、彼らを自分たちの側に引き止めておかなければならないほど切羽詰まっていたというのです。従って、中央アジア民族別国境画定は、「分割して統治する」というよりは、小さい単位の集団をより大きな、適正な規模にまとめ、統治しやすくするためのものだったと理解した方がよいとしています。

中央アジアの実態の点ではどうでしょうか。19世紀末から生じたジャディード運動(ロシア帝国領内のムスリム知識人による教育改革運動。名称は「新方式(ウスーリ・ジャディード)」に由来)の担い手たちのなかから生じたトルキスタン主義のように、中央アジアが一体となって「トルキスタン人」という新しいアイデンティティを確固たるものにしようとするような動きは知識人のなかに根強くありましたが、それがどのくらい広く共有されるものだったのかについては今のところ十分に検証されていません。このような考え方が後にモスクワによって次々につぶされていき、そうした思想の担い手たちもスターリンの大粛清によってほとんど命を落とすことになったのは事実ですが、一方で、民族別国境画定をめぐる審議においても明らかなように、中央アジアの人々がすべて中央アジアの一体性を重視する考え方をもっていたわけではなく、それぞれの思惑があって、その主張は実に多様だったのです。従って、モスクワの中央アジア認識という点からも、中央アジアの実態という点からも、「分割して統治せよ」を前提に中央アジア民族別国境画定のプロセスを分析するのは妥当でないということになります。

民族の政治化
20世紀の初頭は、中央アジアの人々のアイデンティティを考えるにあたって、大変興味深い時代です。特に定住民(ウズベク人、タジク人)の場合、今日の「民族」アイデンティティはまだあまり強固なものとなっておらず、それが定着していく契機ともなったのが民族別国境画定とその前後の状況だったと言えます。それ以前の定住民のアイデンティティは、ムスリム(イスラ広教徒)というものであったり、あるいは出身の都市や居住する都市、帰属する部族に由来するものであったり、それらが重なり合ってもいたとしばしばわれます。

しかし、ソヴィエト政権のもとで、民族理論が整備されていき、また民族を主体とした行政区分(共和国、自治共和国、自治州など)が成立していくという大きな流れのなかで、中央アジアのエリートたちもその状況をみながら政治的な権利を少しでも多く獲得するためには、ソヴィエト的な「民族」としての主張を前面に押し出すことが必要だと急速に理解していくのです。こうして「民族」こそが政治的に重要なカテゴリーとなり、「民族の政治化」が生じました。例えば、ハウゲンはある地域にほぼ日常的に生じていた「遊牧民」と「定住民」との間の問題が、19220年代頃には「カザフ」と「ウズベク」、あるいは「トルクメン」と「ウズベク」という「民族」間の問題として提起されるようになっていったと指摘しています。

また、…「ウズベキスタン創設の父」とも呼ばれるファイズッラ・ホジャエフは、ペルシア=タジク文化とテュルク=ウズベク文化が共存する歴史的都市ブハラの出身で、ある時点まではブハラ人としてのアイデンティティを強力に前面に押し出し、ブハラの利益のために日々闘っていました。しかし、中央アジアの民族別国境画定が議論され始めると、ブハラをも包摂する「ウズベキスタン」設立の急先鋒に立ち、ブハラ人であることを超えて、「民族」として「ウズベク人」にならねばならないのだと熱弁を振るうようになっていくのです。…

中央アジア側のイニシアティヴ
民族別国境画定をモスクワの強制とだけとらえたのでは、このプロセスのダイナミズムを見失うことになる、というのがハウゲンの一貫した主張です。そして、限定的ではあるけれど、中央アジア側のイニシアティヴによって当初モスクワがほとんど想定していなかった結果がもたらされた例として、クルグズ人の国としてのクルグズスタン、カラカルパク人の国としてのカラカルパクスタン(現在はウズベキスタン内の共和国)の成立があげられています。ハウゲンによれば、当初、モスクワは領土的自治を与えうる中央アジアの主要民族として、ウズベク、カザフ、トルクメンの三つしか明確に認識していませんでした。細部の議論は中央アジア・ビューローに委ねられ、基本的にモスクワは下からあがってくる案をそのまま承認したといいます。

ここで、「民族の政治化」に目覚めたクルグズ、カラカルパクの代表は、「カザフ」に包摂されることをよしとせず、いわばタイミングよく「我々にも権利がある!」と手をあげたのです。それは中央アジア・ビューローでの議論で認められ、ボトム・アップのかたちでモスクワもそれを認めるに至ったというわけです(ただし、カラカルパクはソ連の構成単位を形成することにはならず、その後、カザフスタンの一部になったり、ウズベキスタンの一部になったりと複雑な変遷をたどります)。ハウゲンは、当時の中央アジアのエリートたちの間にみられた、このような交渉と妥協による合意形成は、1920年代の新経済政策(ネップ)のもとでの全ソ連的な傾向にも一致するのではないかと指摘していますが、やがてそれはスターリンの恐怖政治のもとで失われてしまいます。

「民族」としての主張の時差
この民族別国境画定のプロセスでは、中央アジアの「民族」が同時にそれぞれ自らの主張を展開したというイメージがもたれがちかもしれません。しかし、すでにみたように、クルグズとカラカルパクは、まさに民族別国境画定の過程で「民族」としての声をあげました。中央アジアの地図を見てみると、もう一つ、現在国家を有している「民族」にタジクがあるのに気づくでしょう。実は、民族別国境画定の過程でつくられた民族別領域委員会にはタジク委員会はありませんでした。タジクはいわば、さらに遅れて声をあげた「民族」だったといえるのです。

タジクは中央アジアで唯一ペルシア系の言語をもつ人々ですが、同じ定住民であるテュルク系のウズベクと非常によく似た文化をもっており、特に都市部ではウズベクと混住し、知識人らは相互にバイリンガルな世界に生きていました。現在ウズベキスタンの主要都市になっているサマルカンドやブハラといった、非常に歴史の深い大都市は、むしろこのタジクの方が主要住民であったとさえいえるでしょう。

従来の研究では、民族別国境画定でタジクは政治的敗北を喫し、サマルカンドやブハラをウズベクに譲らざるをえない結果となり、タジクは歴史的悲劇に見舞われた、という点が強調されがちだったように思われます。

しかし、ハウゲンによれば、一次資料から読み取れるのは、タジクを代表する都市のエリートたちが、民族別国境画定の段階では、声高に「民族」を主張する必要はないと考えていた、ということだというのです。すなわち、この段階では、都市民であるタジク・エリートは、ウズベキスタンにおいて同じく都市民であるウズベク・エリートと歩調をそろえてやっていける、都市定住民として相互の利益は合致すると考えていました。民族別国境画定の結果成立したタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国はウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内の自治共和国という設定で、その領域は、サマルカンドもブハラも含まず、都市民ではない、山がちな地域のタジク語住民を包摂するものでした。

しかし、民族別国境画定後、1920年代後半のウズベキスタンで、急激に「テュルク化」を強化する諸政策が浮上し、ソヴィエト・ウズベキスタンの文化がテュルク語に基礎を置いたものになる方向性が明確になると、それに対する反発として、ここで初めてタジク・エリートが声高にそれに抵抗し始めるのです。その結果、1929年、名称の「自治」がとれて、ウズベキスタンと対等な立場の共和国として、タジク・ソヴィエト社会主義共和国が成立したのでした。

こうしてみていきますと、中央アジア民族別国境画定に関連して、歴史的にみても非常に短い、数年単位というようなスパンで、それぞれの「民族」の主張が、歴史的な経緯を背景にしながらも、ソ連体制のもとで実現可能性のある具体的な要求を掲げて、頭をもたげてきたことになります。それぞれの主張が出てくる論理やタイミングも「民族」によって異なっていた点は大変興味深いと思います。

境界線を引く原則の「揺れ」 ―遊牧民にも都市を!
さて、実際に境界線を引く作業となると、特にその境界線近辺では、ある都市や集落をどちらの共和国の領域に入れるかということでしばしば問題が生じました。そのような場合、当該の地域をその住民の多数を占める「民族」の共和国に入れることが原則でしたが、ハウゲンはこの原則が行政や社会主義建設の効率を優先させるために頻繁に破られたことを指摘しています。

その一例は、現在のトルクメニスタンの一都市タシャウズ(現ダシュオグズ)です。アラル海にアム川が注ぐ三角州地帯の主要都市の一つですが、ここはウズベキスタンとトルクメニスタンの境界地帯です。タシャウズはオアシス都市で、当時の住民は約1万、その大多数がウズベクでした。遊牧民であるトルクメンはこの都市にはほとんどおらず、周辺部の砂漠地帯に暮らしていました。原則からいえば、住民の大多数がウズベクなので、タシャウズはウズベキスタンの帰属となるところです。しかし、ソ連体制のもとで想定された社会主義建設や、そのもとでの近代化政策を考慮すれば、遊牧民にも都市が必要で、都市に行政府を置いて統治する仕組みをつくり出すことが重要課題として浮上していました。この観点から、タシャウズをトルクメニスタンの帰属にしなければ、トルクメニスタン北部地域の行政が成立しないとの意見がトルクメン側から出され、協議の結果、これは受け入れられました(地図3-4)。


これと対照的なのはフェルガナ地方のクルグズの例です。タシャウズと同じ論理で、遊牧民であるクルグズの代表も都市が必要であることを主張し、ウズベクが圧倒的多数を占める都市アンディジャンを要求しました。しかし、この例では、アンディジャンのウズベクから猛烈な反対が起こるかもしれず、そうなれば大きな混乱をもたらしかねないだろうとの判断から、都市における「民族」的マジョリティの論理の方が優先されて、クルグズの要求は退けられました。その代わり、妥協策としてオシュがクルグズスタン領に組み入れられることになったのです(地図3-5)。…

現代の国境越えの旅から
さて、冒頭にも述べましたように、中央アジア諸国の独立とソ連解体を経て、以上のような経緯で引かれた中央アジア諸国の境界線は、名実ともに独立国の「国境」になったわけです。国籍、ヴィザ、パスポート、通貨交換、越境や移住のための手続き等々をめぐって混乱が起きたのはいうまでもないでしょう。それに加えて、1990年代の後半からは、タジキスタン内戦後の和平プロセスやタリバーン政権下のアフガニスタン情勢と連動して、「ウズベキスタン・イスラーム運動」などイスラーム過激主義組織の活動が活性化し、関係諸国はそうした組織の越境を警戒して、国境警備をそれぞれに強化しましたが、…
国境の「現場」はまだまだ混乱しているといえるでしょう。…

立ちはだかる国境? ―共存の道を求めて
…国境がますます「壁」となって立ちはだかっているという印象を私は年々強くもつようになりました。中央アジアの人々自身からも、歴史的に育まれてきた中央アジア全体としての諸関係がソ連解体によって完全に「分断」され、さらに九・一一事件後、アフガニスタンからイスラーム過激主義勢力や麻薬、難民の流入を懸念した中央アジア諸国の国境閉鎖・孤立主義的方策によって事態はさらに悪い方向へ向かったというような声が聞かれることもあります。

中央アジア諸国は、いわば独立後に新しいナショナリズムを打ち立てて、それぞれに異なった路線を歩んできました。そこでの「民族」や「国家」は今や揺らぎようもないものとして、太古の昔から存在してきたものとしてとらえられています。そして、各国にとって安全保障が重要なのは当然だという意味では、中央アジア域内の国境がソ連時代の共和国の境界線のように開放的になる日はもはや来ないのかもしれません。

しかし、この地域の安定と共存のためには、こうした状況を憂えてソ連時代のノスタルジーに浸るだけでなく、独立国家として、今の時代に見合った国境管理体制を共同で模索し、対話や問題解決の回路を共有し、ルールやモラルを国境の現場に浸透させていくことがいっそう重要になってくるでしょう。…
ソ連時代という共通の過去の経験は、これからの中央アジア諸国の共存のために生かされるべきだと思います。そのために、自明な「民族」も「国家」もまだ形成されていなかったなかから、現在の中央アジア諸国の原型ができ、現在の国境の原型ができた、今からわずか80年ほど前の民族別国境画定の歴史をときに紐解いてみることも無意味ではないと思うのです。

(注1) Arne Haugen, The Establishment of National Republics in Soviet Central Asia, New York: Palgrave Macmillan, 2003

(参考) 中央アジアにおける民族領域の変遷(1918-1936)
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by satotak | 2007-08-24 16:41 | 民族・国家


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