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テュルク&モンゴル

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2007年 08月 30日

中央アジアにおける民族領域の変遷 (1918-1936)

岩崎一郎・他編著「現代中央アジア論」(日本評論社 2004)より(筆者:地田徹朗)):

1922年のソ連邦の形成は「民族自決」の原理に基づき、各民族の領域的自治による連邦制という形式を取った。ソ連邦結成当時の中央アジアの行政区分は、民族区分とは関係ない帝政ロシア時代のものをほぼ引き継いでいたため、それを改変していかにして「民族領域」を画定させるかが焦眉の課題となった。パン・テュルク主義的な「統一トルキスタン」を目指す構想(ルスクロフらの「テュルク・ソビエト共和国」構想)、中央アジアの経済的統一性を保つために「中央アジア連邦」を創設すべきだというホジャノフの議論など、「民族」原理での領域画定への反対論も存在していたが、それは中央アジアの政治エリートの間では少数派だった。

ただし、様々なエスニック集団が混住する中央アジアでは、はじめに領域を付与すべき「民族」そのものを画定する必要があった。「カザフ人」には1920年にすでに民族領域が付与され、「クルグズ人」は1922年にカザフ自治共和国からの分離を要求していた。それ以外にも、ウズベク、サルト、タジク、テュルク、キプチャク、カラカルパク、タランナ、クラマといったエスニック集団が混在し、カシュガルルク、ブハラリクなど都市名で白らを判別する人々もいた。これらのうち、元来は区別されていたサルトとウズベクは同一民族と見なされて「ウズベク人」に統合された。そして、「カザフ人」、「クルグズ人」、「ウズベク人」政治エリート各々が、テュルク、キプチャク、カラカルパク、クラマといったエスニック集団の自民族との近接や同一性を主張した。1926年に行われた第1回全ソ人口調査ではこれら42のエスニック集団も民族名称として残ったが、1939年の人口調査では、自治共和国を付与された「カラカルパク人」を除き、全て「ウズベク人」に統合されている。また、「ウズベク人」政治エリートは、サマルカンドやブハラなどのペルシア語系話者についても「タジク人」ではなく「ウズベク人」だと主張した。

このような政治エリート自身が「民族」を奪い合うという様相は、今度は自らの「民族」定義と合致する「民族領域」の奪い合いに発展した。1924年10月に民族・共和国境界画定の基本的な枠組みが完成するが、その後も共和国・自治共和国・自治州民族エリートは国境地域の民族分布や交通・水利面での経済的合理性など様々な理由を持ち出し、自民族に最大限の領域を確保すべくモスクワに異議申立を行ってゆく。そして、このような国境をめぐる対立は必然的に係争地の民族間関係を悪化させることになった。1936年に最終的に確定する中央アジア5共和国の形成に至るまでの民族領域の変遷については下図を参照されたい。


[拡大図]


by satotak | 2007-08-30 19:41 | 民族・国家


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