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テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

突厥帝国の繁栄

「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974)より(執筆:護 雅夫):

…マニアク(注1)使節団は、…コーカサスを越えて黒海に出、コンスタンティノープルに到着した(568年)。一行は東ローマ皇帝ユスティヌス二世の歓待をうけ、友好のちぎりを結んだ。これは、サーサーン朝に対抗する攻守同盟であったが、そのなかには、サーサーン朝の仲継を経ず、突厥と東ローマ帝国とが直接に絹取引を行なう旨の確約もふくまれていたと思われる。マニアクたちは、その同じ年、ゼマルコス将軍を団長とする東ローマの使節団を伴って帰途につき、シルジブロス(木汗(ムカン)可汗の叔父)の本拠、大ユルドゥズ渓谷(注2)に到着した。

この地における突厥の可汗シルジブロスの贅をこらした生活は、ゼマルコスたちを驚かせるに十分であった。メナンドロスは伝える。「ディザブロス(シルジブロス)は天幕のなかで、黄金づくりの椅子に腰かけていた。それは二輸車で、必要なさいには馬で曳けるようになっていた。・・・その天幕の内部には、見る眼あざやかに刺繍された多彩な絹がかけめぐらされていた。・・・別の大天幕も同様に立派な絹の掛布で飾られ、それには、さまざまの文様が刺繍されていた。ディザプロスは黄金の長椅子に着座し、天幕の中央にはいくつかの酒杯・大瓶・大壷が置かれていたが、これらもみな黄金製だった。・・・ これらは、わが国のものに決してひけをとらない」と。ゼマルコス一行は、東ローマ皇帝のそれに優るともおとらぬ、突厥の可汗の「 東洋的豪奢」からうけた感銘を胸ふかく秘めつつ、突厥の使者たちとともに、ふたたび「ステップ-ルート」をとって、コンスタンティノープルへ帰着した。…

東ローマ帝国の使節団が、天山の山なみをめざして旅をつづけていたころ、モンゴル高原では、木汗(ムカン)可汗、および彼をついだその弟佗鉢(タスパル)可汗が大可汗として在位し、華北では、北周と北斉とが対立していた。

この北朝の両国は、ともに突厥の歓心・援助を得ようとし、突厥はこれを利用して双方から厚幣をむさぼりとった。中国史書は、佗鉢可汗の即位をしるしたのち、ほぼつぎのように伝える。「木汗可汗の治世いらい、突厥は富強をきわめ、中国を凌ごうと意図するにいたった。わが北周朝廷は、すでにこれと和親して、木汗可汗の娘を娶り、毎年、繒絮錦綵(ぞうじょきんさい)などさまざまの 絹織物十万段を突厥に贈った。それに止まらず、わが朝廷は、京師に在住する突厥人を優遇し、錦をまとい、肉を食する突厥人は、常に千人を数えた。そこで、北斉は、突厥の寇掠を懼れ、これまたその府蔵を傾けて突厥に贈物をした」と。そうだとすれば、佗鉢可汗の、「わが国の南方の二児 ―北周と北斉― がわれに孝順でいてくれるかぎり、どうして、わが国に物資欠乏の心配があろうか」という言葉は、あながち無稽の倣語とばかりはいいきれまい。…

(注1) マニアク:かってエフタルに支配され、いまや突厥に属するにいたったソグド人の首領
(注2) 大ユルドゥズ渓谷:亀玆(クチャ)の東北、中部天山山脈中の交通の要地で、しかも絶好の牧地

by satotak | 2006-06-30 02:06 | テュルク


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