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テュルク&モンゴル

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2008年 01月 12日

西暦1700年前後のタリム盆地とジューンガル、チベット

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ガルダン、タリム盆地を支配する
ジューンガル部長ガルダン・ホンタイジがホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜とし、オイラトの指導権を握ってまもない1678年冬、ダライラマの使者がやってきて、ガルダン・ホンタイジに、持教受命王(じきょうじゅめいおう、テンジン・ボショクト・ハーン)の称号を授けた。…「持教」は…オイラト最初のハーン、ホシュート部のグーシ・ハーンの称号と同じである。ダライラマ五世は、ガルダンを、グーシ・ハーンと同様、[チベット仏教]ゲルク派の擁護者としての全オイラトのハーンと認定したのである。…

ホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜としたガルダンは、本家の青海ホシュート部を併合しようと、1678年青海に進軍したが、途中で軍を還して、甘州近辺のサリ・ウイグル(シラ・ヨグル)部族から貢納を徴収するだけにした。ダライラマからハーン号を授かったのはその冬であるから、青海侵入をダライラマ五世に止められたのかもしれない。

ガルダンは、1679年にハミとトルファンを征服し、翌1680年にはアルティ・シャフル(六城(ろくじょう)地方、タリム盆地西部の六都市のこと)に遠征して、カシュガル、ヤルカンド、ホタンなどの都市を服属させた。この地方は、チンギス・ハーンの第二子チャガタイの子孫である東チャガタイ・ハーン家(モグリスタン・ハーン家)の領土であったが、この頃、オアシス都市に住むイスラム教徒の指導権を握っていたのは、マホメットの子孫と自称するホージャ家の一族で、これが白山党(はくざんとう)と黒山党(こくざんとう)の二派にわかれて激しい闘争をくりかえしていた。

当時この地方に君臨していたチャガタイ家のイスマイル・ハーンは、熱心な黒山党の支持者で、白山党の首領アパク・ホージャをアルティ・シャフルから追放した。アパク・ホージャはカシミールを経てチベットに逃げこみ、ダライラマ五世に援助を求めた。ダライラマ五世は、アパク・ホージャに手紙を持たせてガルダンのもとに送り、白山党を援助するようにガルダンに要請したのである。

この要請にこたえて、1680年、ガルダンはアルティ・シャフルを征服し、チャガタイ・ハーン家の一族と黒山党のホージャをイリに幽閉した。ガルダンは、白山党のアパク・ホージャを代官としてヤルカンドにすえて、アルティ・シャフルを支配させる代償に、莫大な貢納(アルバン)を取り立てた。こうして、タリム盆地のトルコ系イスラム教徒は、異教徒の、ジューンガル部率いるオイラト民族の属民となった。ジューンガル部は、このあと1755年に滅ぶまで、天山山脈を越えた北のジュンガル盆地を本拠地としながら、南のタリム盆地のオアシス諸都市を支配した。

by satotak | 2008-01-12 13:27 | 東トルキスタン


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