人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2008年 06月 04日

カザフ・ハン国 -ジュンガル・清国とロシアのはざまで-

宇山智彦編著「中央アジアを知るための60章」(2003 明石書房)より(筆者:野田 仁):

ブハラ、ヒヴァ、コーカンドは中央アジアの三ハン国として知られるが、中央アジアにはそれ以外にもハン国と呼びうる政権が存在していた。現在カザフスタン共和国が占める位置に15世紀から19世紀まで続いたカザフ・ハン国も、その一つと言える。その興国のきっかけは、15世紀後半にジャニベクとギレイの二人が、ウズベクのシャイバーン朝の宗祖たるアブール・ハイルに圧迫されて東方へ移動したことにあった。彼らはチンギス・カンの長子、ジョチの後裔であり、カザフ・ハン国は、モンゴル帝国の流れをくむテュルク系遊牧政権の一つであった。


チュー川流域(バルハシ湖の南)に興ったハン国は、やがて西方のキプチャク草原へと広がっていくが、その過程でモグール遊牧民やノガイ族の一部を編入していった。彼らは現代のカザフ民族の祖となった。こうした複雑な部族編成が一因となって、後のハン国には、三つのジュズと呼ばれる部族連合体が存在することとなる。これは東から順に大(ウル)、中(オルタ)、小(キシ)ジュズと呼ばれ、18世紀になるとそれぞれのハンを戴き、独自の行動が見られるようになった。

ハン国は南方にも展開した。当初より争いの絶えなかった隣人ウズベク族に対しては、16世紀末にはブハラの王朝交代時の混乱に乗じて要都タシュケントを押さえる勢いとなった。

17-18世紀には、モンゴル系の遊牧民ジュンガル(カルマク)の来襲に苦しんだ。とくに大規模だった1723年の侵入はカザフ人にとって大いなる厄災であり、「裸足での逃走」を意味する「アクタバン・シュブルンドゥ」の言葉をもって語り継がれている。こうした外敵の侵略による動揺はカザフのハンたちを動かし、1730年には小ジュズのハンであったアブルハイルが、ロシア皇帝に対して、臣籍を受け入れその保護を求める請願を行った。この動きは他地域にも広がり、1740年には後に名君として知られる王子(スルタン)アブライが、中ジュズのハンらとともにロシアに宣誓を行っている。

一方、ジュンガルの勢力は次第に衰え、長年ジュンガルに悩まされてきた中国(当時は清朝)は、その内紛を利用し討伐を行った。その最中に清朝軍はカザフ(清朝資料上では哈薩克)の遊牧地にも侵入し、ここにカザフ・ハン国と清朝とは接触を持つようになった。形ばかりとは言え、すでにロシアの臣となっていたはずのカザフのハンたちだったが、東の大国、清朝に対しても同様にその「臣属」となることを請願するのであった(1757年)。ここで大きな役割を果たしたのがアブライであり、彼は清朝から汗(ハン)として認められ、ロシアからも中ジュズのハンとみなされるようになった(1771-1781)。このように清朝の臣となることは、カザフが皇帝のもとへ入貢する代わりに、清朝が爵位を授け、中国西北における交易を保証することにつながった。カザフはイリやタルバガタイにおいて、自らの家畜を中国内地産の絹、綿などの織物へ換えることができたのである。また一部のカザフは滅亡したジュンガルに代わって新疆北部へ移動し、領域は東へ広がった。

清朝は積極的にカザフに介入しなかったが、アブライの死後、ロシアのカザフ草原への進出はとどまる所を知らなかった。1822年にロシア政府が導入した規定(「シベリア・キルギズに関する法規』)によって、中ジュズのカザフは西シベリア総督府の管轄下に入り、ハン位は廃止され、権限を縮小されたアガ・スルタン(上席スルタン)制にとって替わられた。小ジュズについても1824年に類似の規定が設けられた。ハン一族(トレ、もしくはスルタンと呼ばれた)の権限はこの後も段階的に奪われ、ハン国の解体は進んだ。

それでも東部においては、1820年代になっても依然として清朝への使者の派遣は続いていた。これは清朝からの爵位に関して、代替わりの際に皇帝から承認を得ることで、権威を獲得しようとするものが多かった。ここに露清という東西の二大帝国のはざまにおいて、外交上のバランスを保ち自分たちの独立を維持しようとしたカザフのハン一族の姿を見ることができる。無論これは裏返せば、ハン一族が一体となって困難を乗り切ることができなかったことを示してもいるだろう。

ロシア支配の拡大、南からのコーカンド・ハン国の脅威はいっそうの混乱をもたらした。コーカンドは1809年にタシュケントを奪ったことを皮切りに、大ジュズの遊牧地であるカザフ草原南部へと侵入していたのである。30年代後半には争乱が相つぎ、アブライの孫にあたるケネサルは各地を転戦しながら対ロシア反乱を行った(1837-47)。ロシア帝国への併合がおくれた大ジュズ地域も1860年代までに併合され、以後この地はロシアの植民地統治に組み込まれることになる。

一方で、清朝領内に遊牧地を持っていたカザフについては、ハン家の一族が各部族の統率者の地位を保持していた。1871年のロシア軍によるイリ占領に代表されるような露清間の国境画定を巡る争いを経て、20世紀の中華民国期に至るまで彼らは役割を持ち続けた。このことはあまり知られていないが、これも一族のたどった多様な運命を表していると言えるだろうか。

こうして長きにわたり独自の政権として存続していたカザフ・ハン国は、現代カザフスタンのカザフ人新疆のカザフ族にとっても、自らの民族を顧みる際に欠かせない存在となっている。アブライ・ハンはカザフスタンの紙幣となって、今もなお人々の中に生き続けているのである。

by satotak | 2008-06-04 11:33 | テュルク


<< 天山の民・トルフト族 -現代中...      摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・... >>