テュルク&モンゴル

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2008年 12月 02日

「華夷一家」 -大清帝国の世界観-

石橋崇雄著「大清帝国」(講談社 2000)より:

華を超えた夷
『大義覚迷録』(注1)に見られる多民族国家としての考え方を称して大中華主義という。しかし、大清帝国の世界観は中華世界の枠内で捉えうるものではなかった。満洲族のハンとして盛京[瀋陽]の宮殿にある八角殿に座し、北アジアの大ハンとして避暑山荘[承徳(熱河)]にあってマカートニーを手玉に取り、中華世界の大皇帝として北京の紫禁城に座すその姿は、単なる夷狄の血を継承する中国皇帝の姿にとどまるだけのものではない。イエズス会士とヨーロッパを語り、典礼問題でローマ教皇庁を叱り飛ばす。ロシアと渡り合って自らの領域を固め、多世界の文化の粋を結集した円明園で政務を執る。問題に対する解決は積極的に試みるが、結果には固執しない。変化をおおらかに受け入れて成長する。それはやはり中華世界の枠内に閉じ込められた中国皇帝としての姿には収めきれない。


清朝系図 [全体図]

確かに「華夷一家」としての複合多民族国家である。が、華におもねる「華夷一家」ではない。それにはあまりにも、夷に抱合させる部分が大きく、広いからである。具体的な領域上の支配関係こそないが、この夷にはイエズス会士を介してのヨーロッパ文化さえ含まれている。領域上の大清国世界は、満洲族世界から中華世界、北アジア世界、チベット世界、中央アジア東トルキスタンのイスラム世界を内包する。文化の上ではさらにヨーロッパ世界までが抱合される。そこにある世界観は、北アジア世界をも越えた大ハンの意識であったのではないか。まさに中華世界をも単に内包する一世界に過ぎないまでに拡大した「華夷一家」の世界の現出であった。その意味では「華夷一家」と称するのも正確ではないことになる。正しくは「夷華一家」の世界帝国と称するべきであろう。清朝の中で夷は華を越えていたのである。

中国を「閉ざされた自給自足世界」と見なす説がある。だが清朝は決して閉ざされてはいない。それが、たぐい稀なる拡大発展を実現した原動力でもあったろう。そして「夷華一家」の世界帝国を実現した結果、大清帝国世界内では自給自足が可能であった。その意味では「閉ざされた自給自足世界」とも言えるかもしれない。無ければ困るものが無いからである。しかし、乾隆帝時代が終り、清朝も動脈硬化をきたして保守化した。もはや「夷華一家」の政治力・軍事力・経済力はヨーロッパの「野蛮な自分中心主義」の破壊力には太刀打ちできなくなっていた。清朝が滅び、「夷華一家」の世界帝国から再び中華世界の後遺症が残る「中国」に戻ったこの世界は、現在にいたるまで自己再生の道の途上にあるのである。

絶えまなき革新の力
比類ない大清「帝国」への第一歩は、太祖ヌルハチによる孤立無援の経済覇権闘争に始まった。その結果、自身が属していた建州部を統合してマンジュ国を樹立した後、さらに東北部における女真(満洲)族の統合を果たして複合部族国家としてのアイシン国を形成したヌルハチは、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成るという、不安定な要素を抱える複合部族国家の管轄・支配を強化する中で、分権に基づく伝統的部族制の中では革新的ともいうべき政策によって自らの集権体制を築き上げ、漢族農耕地域を経済基盤とすることも開始した。そこに伝統的分権体制を保持しようとする保守派の反動が生まれ、その結果がヌルハチの後継者としてホン=タイジを選択することになった。

即位後、太宗ホン=タイジはモンゴル族・漢族を自己の新たな勢力基盤に加える独自の革新的政策を採用し、その集権体制を築き上げようとした。その結果が、内モンゴルを平定し、東北部での満洲・モンゴル・漢族世界を統合した多民族国家としての大清国の成立となった。ここに旗人社会の頂点に立つハンは満洲・モンゴル・漢族に推戴された大清皇帝を兼ねることになったのである。ここで再度、伝統的分権体制を保持しようとする保守派からの反動が起こり、ドルゴンを摂政とする世祖順治帝の即位となった。その直後にたまたま明朝が滅亡した機に乗じた大清国は、明朝の後継者として中国内地に進出し、東北部・内モンゴル・中国内地にまたがって君臨し、待望の巨大な経済基盤を手中に収める独自の多民族国家としての清朝へと大きく変身する転機を得た。ただし、その支配層の本質はいまだ伝統的部族制に立脚する性格が強く、あくまでもその中においてドルゴンは自身の独裁体制を強化することになった。

ドルゴンの死後、親政を開始した順治帝は、中国化という当時の旗人社会にあっては革新的というべき政策を採用することで自己の集権化を図ったが、果たす前に死去した。そこに三度(みたび)、伝統的分権体制を保持しようとする保守派の反動が現れることになった。四人の輔政大臣が補佐する形式で聖祖康煕帝を即位させると共に、順治帝の中国化政策を象徴する内十三衙門を撤廃した。

才知によってこの輔政大臣を失脚させて親政を開始した康煕帝は、いわば夷狄としての満洲族の血を引きながらも中華世界の北京に生を受けている点で、華夷の同居する清朝最初のハン=皇帝であった。三藩の乱を平定し、鄭氏一族をも下して明朝再興運動を終息させ、中国統→を果たしたことは、単に中国内地における漢族を併合したことだけにとどまらず、その巨大な経済基盤を確保することに繋がった。この機に、帝は八旗制を改革する革新的政策を打ち出し、それまでの伝統に裏打ちされた族制内の秩序を変えて、その独裁化を図ろうとした。支配領域も東北部・内モンゴル・中国内地に加えて、外モンゴルからチベットまでに拡大されることになり、帝は承徳(熱河)の地に避暑山荘の建設も始めた。ロシアとの間にネルチンスク条約を締結したことで、清朝の版図がそのまま、内外から中国として認識される契機も生まれることになった。

帝の素養は、満洲族世界の伝統文化や中華世界の伝統文化に加え、イエズス会士を通じてヨーロッパ世界における当時最新の学問知識までにも及んでいた。となれば帝の内部では既に「華夷一家」の基盤はできていたようにも思える。しかし、ネルチンスク条約の国内発表に際して中華世界の伝統に妥協する形でしか対処できなかったように、それが国内の華夷思想に対する具体的な施策として現れるまでには至らなかった。のみならず、中国史上でも数少ない長期政権保持の弊害でもあろうか、晩年の帝には壮年期の革新性は姿を消し、保守に転じた姿しか見えてこない。皇太子にまつわる旗人社会内の混乱に対する弾圧と皇太子に対する再度の廃位・幽閉に苦悩する姿は、往時の手際よい政治能力と隔世の感がある。

その力が止んだ時……
その後を継いだ世宗雍正帝の即位には、謎めいた暗い印象こそ付きまとっているものの、康煕帝の即位までに繰り返しみられたような保守の反動はもはやうかがえない。とはいえ、康煕帝晩年の保守政治による旗内の混乱は激化しており、即位時の状況は決して安定したものではなかった。その不安定さの中で即位したことを原動力として、自らの独裁権確立に邁進した雍正帝による国内政治は、いうなればそのすべてが康煕帝晩年の保守政治に対する革新政治として位置付けられるものであった。康煕帝による中国統一を背景とする旗(満洲・モンゴル・漢)・漢(中国内地)における「華夷一家」としての清朝における支配権の確立は、雍正帝による絶対権の確立によって成し遂げられたのである。夷から華に返答した史上初めての政治思想である『大義覚迷録』はその革新性を最もよく象徴するものであった。

続く高宗乾隆帝は、雍正帝による支配権確立を背景とする安定の中で即位したことになる。康煕・雍正の両帝が蓄財した豊かな国庫もある。いわば、政治・経済・軍事の諸条件に最も恵まれた中での即位なのである。帝以前における歴代のハン=皇帝の即位時にみられたような不安定な要素は皆無といえる。そうした恵まれた環境では革新性が生まれることは難しい。革新性を求める原動力となる負の条件が欠如しているからである。となれば、そこからは保守の立場しか生まれ得ない。雍正帝による『大義覚迷録』を禁書処分にした自主規制は、それを象徴していよう。理論の欠落を実践で埋めるかのように打ち続けられた外征による領土拡大も、革新性によるものというよりは保守性から生まれたものとの感が強い。たしかにその結果として、モンゴル・チベット・ウイグルを併合し、清朝の経済基盤である中国内地を取り囲む外壁となる藩部を完成することになった。しかし、外壁を築くことが大きな目的であったかにみえる点からして、守りの姿勢ではなかろうか。

清朝の最大版図 [拡大図]

とはいえ、ここに形成された清朝の最大版図には、中国に君臨する王朝としては史上初めて、イスラム世界の一部をも収められており、入関(注2)前におけるマンジュ国の樹立から不断に続いた清朝の領域拡大過程における、いわば新たな多民族国家への脱皮ともいうべき政治上の変遷を反映する成長段階の最終部分であり、複合多民族国家清朝の完成と捉えうるものである。ここからは、清朝の政治的変遷と多民族国家として発展・拡大する過程とが表裏一体のものであったことを直ちにみて取れよう。

そしてこの保守性による乾隆帝の長期に亘る外征は、最大版図を形成した代償として、豊かな国庫を浪費し、回復不可能な国力の低下を後に残すことになった。いわば革新と保守との軋轢(あつれき)を重ねることで成長.拡大し続けてきた清朝の特性は、乾隆帝によって終焉を迎えたことになる。そこから新たな革新を生み出すだけの余力はもはや残っていなかったのである。

(注1) 大義覚迷録: 中国内地を統一・支配した最後の非漢族王朝である清朝。その中央集権制の頂点に立つ、独裁権力としての皇帝権の確立をみたとされる雍正帝が、史上初めて夷の側から華の唱える華夷思想に対して反論し、清朝の正統性(皇帝としての正当性)を政治思想として主張しようとしたのが『大義覚迷録』であった。
『大義覚迷録』の意は、雍正帝の大いなる義の徳によって清朝の正統性に疑義を持つ輩(やから)の迷いを覚まさせる記録というものである。記録とは何か。これは裁判記録なのである。それも、理論に秀でたたぐい稀なる皇帝が開いた御前裁判の記録である。朱子学の流れを汲み、強い反清思想を唱え、今は亡き呂留良(りょりゅうりょう)の思想に影響されて反清運動を展開した曾静(そうせい)らが被告。弁護士はいない。検事と裁判官は帝自身である。とうてい被告に分があるとは思えない御前裁判であった。
ではなぜ、雍正帝は自分の考えを上諭の形で下さなかったのであろうか。なぜ、このように面倒な手順を踏んだのであろうか。答えはさほど難しくはない。自分の正しさを本人の言葉だけをつづっていくら力説しようと、聞く側は耳を貸さないであろう。たとい真実に近かろうと、その言葉をそのまま受け止めるであろうなどとは、とうてい期待できない。世の現実とはそうしたものである。それよりも反清運動を続ける当の人物に自己批判してもらった方が影響力は大きい。帝の意図はそこにあった。帝と曾静らが問答を繰り返し、結果として曾静らが自己批判して清朝の正統性を認めることになった裁判記録。それが『大義覚迷録』なのである。

(注2) 清朝入関:1644(順治元)年5月、ヌルハチの第14子、摂政 和碩睿親王(せっしょうホショイえいしんのう)ドルゴンが率いる大清の精鋭軍は、もと明の総兵官呉三桂(ごさんけい)の先導によって万里の長城の最東端に位置する山海関を通り、明朝崩壊直後の中国内地に進んだ。大清が北京に入城した時の情景を、『大清世祖実録』は次のように語る。

5月1日、摂政和碩睿親王ドルゴン率いる大清の軍隊が北京の東方すぐ近くにある通州(つうしゅう)まで来たところ、通州を管轄する知州は百姓を引き連れ、大清を喜び迎えて、これに降(くだ)った。そこで大清は諭を下してこれらの者に薙髪(ていはつ)させた。翌2日、大清の軍隊はついに燕京(えんけい)(北京(ペキン))城までやって来た。故(もと)の明の文武官員は城外五里まで出て、これを喜び迎えた。…
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by satotak | 2008-12-02 13:08 | 女真・満州・内蒙古


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