テュルク&モンゴル

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2008年 12月 05日

二人のロシア人狩人 -20世紀初頭の満洲奥地で-

ニコライ・A・バイコフ著、中田甫訳「バイコフの森 –北満洲の密林物語」(集英社 1995)より:

鬱然(うつぜん)たる密林(タイガ)の静寂を破り、遠い銃声が響いてきた。私はぎくりとして耳をそばだてた。連れていた犬が、息を吸いこみ、利口そうな褐色の目でいぶかしげに私を見やった。私が声を立てぬようにと指で脅すと、賢い動物は尾を振って背に巻き、前もって踏みならしてある雪の上、私の横に座った。

私は岩山の険しい尾根の、がれ場のそばに立っていた。そこで、忠僕の黒ライカ犬シビルレットとジャコウジカの跡を追い求めていたのである。
黒い鬱蒼(うっそう)たるシベリアマツの森に覆われた張広才嶺(チャンクアンツァイリン)の支脈が、ぼんやりと青みがかって数十キロメートルにわたり、遠い空にかすんでいた。
下の谷底では、ここでは石河(シホ)と呼ばれている海林河(ハイリンホ)が、白いリボンのように曲がりくねりながら、暗い密林の高地を通り抜けていた。
山は静まり返っていた。曲がったシラカバの枯れた幹では、大きなクマゲラが丈夫な嘴(くちばし)で音を立ててつつきながら、哀れっぽく鳴いているだけであった。
上方には青空が広がっていた。絹雲が走るように流れていたが、それは、明日になれば雪が降り、風が吹くという前触れであった。
私は森の物音に耳を澄ましながら立ちつくしていた。その荘厳なまでの静謐(せいひつ)を破るものは、何ひとつとしてなかった。

このあたりには紅胡子(フンフーズ 匪賊)(注1)が出没していたので、不意をつかれてその手中に陥らぬよう、銃を撃った男の正体をつきとめておく必要があった。…

打つ手を決めなければならない。私は大声で犬を呼ぶと、銃を構えて先へ進んだ。
シラカバの幹の陰から人の姿が現れた。私がすぐそばまで近づき、「やあ、こんちは!」と言うと、男は両手で持っていた銃を下ろした。
「こんちわ!」見知らぬ男は答えた。
私の前に若い男が立っていたが、どうやらロシア人らしかった。中背で、均整がとれており、肩幅が広かった。長い亜麻(あま)色の髪がオオヤマネコの毛皮帽の下からのぞいていた。…
「あなたも狩りをなさってるんですか?」彼は、しばし沈黙していたのちに尋ねた。
「そうですよ」私は答えた。「ジャコウジカを探しとるんだが、ひょっとしたら、あなたがもう仕留められたのでは?」
「ええ、仕留めました。ほら、あの石の横に置いてあります。私はね、臓物抜きをしようとしていたら、あなたの姿が見えたので、相手が何者か確かめたかったんです。ぼくはヴェセロフスキー、名はアレクサンドル、父称(父の名から作られ、名の後につく)はイワノヴィチです。どうぞよろしく!」そう言うと、彼は大きいとはいえないが、がっちりした手を差し伸べた。…

日はすでに低く傾き、斜めの光が茂みのあちこちに射しこんでいた。暗くなった。私が別れを告げて立ち去ろうとすると、ヴェセロフスキーが先手を打ってきた。
「どこへ行くつもりです?ぼくの所へ来ませんか。小屋はすぐそこですよ。ぼくの小屋は、豪邸じゃないですがね、密林(やま)の雪の上で夜を明かすよりはましですよ」
彼のたっての要望でもあり、また森での野宿を考えると承知せざるをえなくなり、私は彼と並んで山腹を降り始めた。…
星空になった。私たちが険しい川岸に着いたときには、もう夜が訪れていた。崖下に二つの窓をもつ小屋がひっそりと建っていた。ノロ皮が打ち着けてある低くて大きな扉に表から突つかい棒がかってあった。
私たちは小屋へ入った。小屋の主がともした大豆油のランプの光で、かなり広い部屋が目に入った。壁ぎわに木製のベッドが置かれ、ふさふさした熊の毛皮がかぶせてあり、床の半分に同じような毛皮が敷いてあった。壁の横にかまどと、自然石を積み、粘土を塗った暖炉があった。さらに片側の壁には小さな机と椅子が置かれ、質素な小屋の調度品を補っていた。…

「ぼくの友達はまだです」テーブルに着きながら彼は言った。「多分、遠くに仕掛けた罠で手間取っているんでしょう。あのですね」-私のいぶかしげな表情を見て取ると、彼は言葉を続けた-「ぼくたちは二人でここに住んで、一緒に猟をしてるんです。ぼくは鉄砲一本槍(やり)ですが、連れのほうは銃ばかりでなくて、罠、つまり、それで毛皮獣を捕るんです。もう帰ってくるはずですがねえ。…ほうら、噂(うわさ)をすれば影とやら。帰ってきましたよ!」
…大きな話し声と犬の鳴き声が聞こえてきた。
シビルレットが緊張して背中の毛を逆立て、脅すように吠えだしたので、壁に打ち付けてある輪につながなければならなかった。
なんと驚いたことに、馬のいななきがするではないか。
いったい、なぜここに馬がいるのかと尋ねると、ヴェセロフスキーは、馬は三頭いて、一頭は馬車用、二頭は荷櫨(にぞり)用で、仕留めた獣を密林から鉄道沿線まで搬出するのに使うためだと言った。
「以前は、ただ働きみたいなもんで、運び出せないために、ずいぶん獣を無駄にしました。ところが、おかげさまで馬や運搬道具がなんとか手に入り、まあまあの暮らしをしてます。…

そのとき小屋へ、上背がある、もう若くはない男が入ってきた。かなり白いものが混ざった黒く濃い頬(ほお)ひげと、赤褐色の荒れた顔とは色の区別があまりつかなかった。
私は立ち上がって大男と握手したのだが、私の手はその大きな掌の中にすっぽり収まってしまった。彼は子供のようにいたずらっぼく笑うと、遠慮がちに首を振った。
「イリヤ・コンドラチェヴィチ・バラバシュ(名、父称、姓の順序)、あだ名はイリヤ・ムーロメツ(ロシア英雄伝説に登場する勇士)です!」ヴェセロフスキーは彼を紹介した。
「お好きなように呼んでください。ぼくは、いつもイリューシャ(イリヤの愛称)と呼んでますが、…」…

二人が獣の片づけや家事に追われている間に、私は彼らをよく観察し、ある程度の結論を得ることができた。
恐らく、アレクサンドル・ヴェセロフスキーはインテリ層に属しているが、イリヤ・バラバシュのほうは典型的な庶民であろう。私は、このようなきわめて特異な環境の下で、緊密な共同生活において異種の要素が結合したり、性格や理解力や物の考え方が異なっている性格の人が強い友情に結ばれているという事実に、深い興味を抱いた。…

イリヤはチェルニゴフ県(ウクライナ)の農民の出で、父に連れられてウスリー地方へ移住した。だが、不運なことに、父はチフスで亡くなり、彼は興凱(ハンカ)湖畔に建てた家を捨てて、ニコリスクヘ、そこからまたウラジヴォストークヘと移り、ドックの鍛冶(かじ)工になった。そこで五年ほど働いた。その後、商船会社の機械工になり、日本や、インドや、コンスタンチノープル(現イスタンブール)へも行った。やっとチェルニゴフ近郊の生まれ故郷の村へ帰ってきたものの、すべてになじめず、また極東地方へ舞い戻り、ウスリー州のチェルニゴフカ村に住民登録をした。
ここでは狩猟を業とし、かなりうまくいっていた。トタン葺(ぶ)きの家を建て、馬や牛も手に入れ、結婚もした。移住民の青年を雇い入れて朝鮮人労務者の仕事の監督をさせ、自分は秋から冬にかけて密林へ入って狩猟をした。こうして一年が過ぎた。ところがイリヤは、その移住民の青年と自分の妻とが、あまりに親しすぎることに感づいた。二人はついに、すでにかなり前から夫婦同然だったことを白状した。「勇士」イリヤは、言いようもない悲しさをぐっと抑え、その男に全財産を渡して妻とも別れ、永久に密林へと去ったのだが、その後、ヴェセロフスキーと出会うことになったのである。

こうした密林漂泊者の出来事の一部始終を知ったのはヴェセロフスキーの口からであった。それというのも、無口で陰気なイリヤは身の上話をしたがらず、…

「あなたは、どこで彼と知り合いになったんですか?」
中国煙草を短いパイプに詰め、一服吹かすと、彼は答えた。
「三年ほど前、ウスリー地方の、いわゆる、アヌーチン森で知り合ったんです。そのころ、ぼくは紅胡子を追跡して捕えるために派遣されていたんです」
ひと息つくと彼は続けた。「言っておきますが、ぼくはウラジヴォストークに司令部のある東シベリア連隊の将校だったんです」
「本名はヴェセロフスキーではありません。別にあります。ある理由で他人の身分証明書を手に入れなければならなかったんです。」…

「モスクワの陸軍幼年学校を出て、小尉に任官するとすぐに極東地方へ配属になりました。ぼくはここの手つかずの自然と特異な生活環境に心から引かれていたのです。ぼくが探し求めていたものをここで見つけたのはもちろんのことです。自然のままの原始的なこの地方に、ぼくは強烈な印象を受けました。ぼくは勤務の余暇を、アムール湾とウスリー湾とを取り囲んでいる山や森で過ごしていました。ついに、中尉になってからのことですが、この地方で最も興味のある地方の一つ、アヌーチノ村へ派遣されました。この近辺は、当時あらゆる鳥獣の豊庫だったのです。ぼくは半箇小隊を率いて密林を渉猟したのですが、それがさらに漂泊生活への愛着を強めたのです。ある行軍の途次、密林(やま)の中で偶然猟師の越冬小屋にぶつかり、そこで泊まりました。小屋主はまる一日後に、虎の毛皮を持って戻ってきたのです。それが、イリヤ・バラバシュなのです。ぼくは彼と馬が合い、このお人よしの力持ちが大好きになったのです……」
そのとき犬が吠えだし、シビルレットも寝台の下から這(は)い出し、外へ行かせてくれとせがんだ。
ヴェセロフスキーは毛皮を羽織って外へ出た。
依然として強風が吹き、密林は捻りを上げていた。
やがてヴェセロフスキーが戻り、雪を払いながら言った。「なんでもない嵐(あらし)のときには、犬はいつもこうなんです」…

「…そのころ、清国との戦い(注2)が始まると、ぼくは連隊付で満洲へ派兵されました。ずいぶんあちこち回りましたが、自然の美しさと鳥獣の豊かさでは、吉林省がいちばん気に入りました。ここでの猟は豪華なもので、密林にはありとあらゆる動物がひしめいているんです。まったく自由な暮らしができますよ。当時はすでに鉄道付属地では猟で生きていくロシア人が、ぼつぼつ出始めていました。彼らは戦争が終わると残留して、満洲の猟師になってしまったのです。
…戦争が終わって部隊がニコリスク(現ウスリースク)へ引き揚げると、すぐ予備役に編入してもらい、今までの生活に完全に見切りをつけ、背水の陣を敷いた、つまり、ウラジヴォストークで10ルーブル出し、他人の身分証明書を買ったんです。
あなたはそんなぼくを非難なさるでしょうが、こんな自由な暮らしをするには、そうするよりほかに手はなかったのです。そして、やれ身内だの、親類だの、やれコネだの、知己だのと、もうほんとうに嫌気がさしてしまい、過去とはきっぱり縁を切ることにしたのです。一度死んでしまい、生まれ変わる。」…

油が足りなくなったので、ランプが煤(すす)を出し始めた。彼はこれを完全に消さなくてはならなかった。あたりは真っ暗闇になり、凍てついたガラス窓に、やっと見えるほどの弱い光がちらついていただけであった。
風は強くなりまさり、小屋全体が風圧で揺れていた。森は嵐の海鳴りのようにざわめいていた。
鳴きやまぬコオロギが暖炉の陰で、はぜるような歌を歌い続けていた。…

「純益ですか?」彼は聞き直した。「どう言えばいいのかなあ。年に千ルーブルくらいは貯まるのかな、毎年ですよ。だが、これも、獣の数とか、天候とか、それにも増して本人次第ですがね。
体さえまめに動かせば、獣だって鳥だって捕れます。部屋でごろごろしてたら、獣も目に入りません。うまい諺(ことわざ)があるでしょう、《歩く狼は餌にありつく》とね。イリューシャのほうは肉獣がおもで、猪(いのしし)、赤鹿(あかしか)、獐(のろ シカ科の小型動物)などを仕留めています。昨今は肉の値段ががた落ちで、以前は沿線で1プード(16.38キログラム)が5、6ルーブルで売れたものでした。そこでぼくは毛皮獣専門に切り替えました。黒貂(くろてん)、栗鼠(りす)、川獺(かわうそ)、貂(てん)、大山猫(おおやまねこ)、狐(きつね)、浣熊(あらいぐま)、熊(くま) - これがぼくの商売目的の動物です。虎を仕留めるのはまれです。じつにずる賢いやつですからね。それでもひと冬に一、二頭は捕えますが。こいつは金になる代物です。中国人たちは毛皮ばかりでなく、肉を臓物ぐるみ買い取ってくれますから。
だから大きな雄虎ならば、三百から四百ルーブルぐらい取れますよ。肉、骨、脂肪、内臓、脳など、すべて特別な薬の材料になるんです。ある知り合いの満洲人猟師の言葉ですが、虎の心臓を食べた者は、虎のように偉く、強くなれるのだそうです。むろん、これはたわいない迷信ですが。

ところが、袋角(ふくろつの)の卓効については、ぼくはこれを信じています。この物質が、貧血、瘰瀝(るいれき 頸部リンパ節結核)、老衰、その他多くの慢性疾患に効くことは間違いありません。わが医学界も、この物質の医薬品としての特性に、啓蒙的関心を抱くことが必要です。
ぼくたちは去年の夏、寧古塔(ニンクタ 現・寧安)で大きな袋角一本を八百ルーブルで売りました。だから、ここでもなんとか生きていけますよ!

ちょっぴり寂しいことは確かです。ときどき、憂愁に胸をさいなまれることはありますが、猟に出てしまえばけろりと忘れ、人の世がはるか彼方に思われるんです。浮き世の心配事はこの深い山奥には入ってきません。第一、虚偽、欺瞞、絶望などは起こる機会も、感じる場もないのです。ここでは人間が精神的、肉体的に生まれ変わり、過去を悔やむのではなく、将来に望みを託して強くなり、勢いよく前を見ているのです……ところで、もう夜中の二時ですよ!」ヴェセロフスキーはうわずった声で、鋼鉄側の懐中時計を枕の下へしまいながら言った。…

「あなたはね、紅胡子や土地の満洲人の猟師たちと、どのようにしてうまくやっているんですか?」私は尋ねた。「紅胡子どもはロシア人を憎んでおり、追撃に対して報復しているし、満洲人たちは野獣捕りでの危険な競争相手だと見なしているはずでしょう」
「紅胡子に関しては、おっしゃるとおりです。彼らはロシア人全部を憎んでいます。だが、襲うのは実際に彼らの邪魔立てをする者だけです。ぼくたちは彼らに手出しはしないので、邪魔にはならない。正しくは、彼らはぼくたちを怖がってはいないし、彼らの敵でもない。ふざけてぼくたちに手を出したり、因縁をつけて復讐するなんてはずはない。世話がやけて面倒なだけですから。たまに彼らはぼくたちの所へやって来ます。茶をもてなし、パンをくれてやると、また遠くの森へ消えていきます。とにかく、とてもいい、筋を通す、まじめな連中です。けっして理由もなく侮辱したり襲ったりはしません。
また、土地の満洲人猟師ときたら、彼らは一度もぼくたちに腹を立てたことはありません。穀物を取り上げるわけでもなければ、彼らの縄張り荒らしをしたこともありませんから。ここの山や森はじつに広大で、猟師が何人いようとも、たがいに邪魔になることはありません。ぼくたちは誰とでもじつに仲よく暮らしています。いちばん近い男は、ここから十露里(10.67キロメートル)ほどの所に住んでいます。もう八十歳近くの老入ですが、まだ頑健で、足の達者な勇気のある猟師です。ぼくたちの所にはよく立ち寄り、乾パンを添えて紅茶を飲むのが好きです。パンも好きで、歯のない口でもぐもぐ食べるのが滑稽です。」…

翌日の昼食までには、私はヴェセロフスキーに手を貸して熊を運んできた。毛皮をはぎ、体をいくつかに切って量った。すると18プード(約295キログラム)もある重量級の、なかなかの熊であった。私は気さくな森の漂泊者たちと食事を終えると、もうここの犬たちと仲よしになったシビルレットを口笛で呼び寄せ、横道河子(ハンダオヘーヅ)駅へと北東を目指し帰宅の途についた。

私は、未開の満洲密林の開拓者である、これらロシア人猟師(トラッパー)たちの僻遠(へきえん)の小屋で過ごしたときのことを思い起こしては、満足感に浸るのである。

事件の多い1904年が訪れた。
戦争(日露戦争)が勃発した。
満洲の地、とくに哈爾賓以南はまったく変貌し、千年の夢から覚めてこれを振り払い、二国の大軍の大激戦の行方に固唾(かたず)を呑み、刮目(かつもく)していた。…
戦いも終わりに近づいた。
困憊(こんぱい)の極に達した勝利者の軍隊は、最後の決戦に備えて静かに待機する敗者の北の大軍との闘いに入る術(すべ)もなく、手を拱(こまね)いていた。それは、必死の狩人が傷ついたライオンを前にしておずおずと後ずさりし、ライオンは目に瞋恚(しんい)の火を燃やし、恐ろしい口を開け、死の一撃をくわせようと、強力な脅威の脚を上げようとしている場面を思わせた。

新しい部隊が哈爾賓に到着した。駅頭は人の波であった。…
私は暇つぶしにプラットホームを歩きながら、東行きの郵便列車を待っていた。
ベルが鳴った。列車が前の駅を出たという合図だ。
「やあ、こんちは!こんな所でお目にかかれるとは思いませんでした!」すぐそばで大きな声がした。私は振り向いた。外套を着、アライグマの毛皮帽をかぶった将校が私の目の前に立っていた。彼は中背で、あごひげを剃っており、ブロンドの口ひげが左右に立っていた。大きな碧眼(へきがん)が物問いたげに、いたずらっぽく私を眺めていた。
この眼差しには何やら見覚えがあった。こんな表情豊かな目をどこかで見たような気がした。そして私は、あの鬱蒼たる密林と、険しい川岸に立っている見すぼらしい猟師小屋や、熊狩り、知り合った二人の猟師を思い出した。あれは二年前のことであった。…

旧満州東部 [全体図]

(注1) 紅胡子(フンフーズ 匪賊): 中国語でフンは「赤色」、フーヅはひげ。もと満洲ではロシア人を指した。転じて、19~20世紀初頭にかけ、主として東満密林地帯に根拠地を持つ盗賊団を指すようになった。彼らの目的は現地の農民が作る阿片(あへん)や、ロシア人・中国人実業家、森林利権企業などからの物資の略奪、貢ぎ物の取り立てであった。のちに政治的勢力を持つに至る匪賊(ひぞく)団さえあった。これら匪賊対策は東清鉄道警備軍の重要な任務の一つであった。

(注2) 義和団事件(1900年)を指す。中国華北に起こった排他的反乱で、日、露、米ほか五か国が北京に出兵。ロシアはこの事件に事寄せ、満洲に出兵し、東清鉄道全線にも特別の警備軍を配して満洲を勢力下に置き、これが日露戦争の原因ともなった。
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by satotak | 2008-12-05 11:11 | 女真・満州・内蒙古


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