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2010年 01月 28日

18世紀のジュンガルで結婚したスウェーデン人夫婦の物語

ハズルンド著 内藤岩雄訳「蒙古の旅 上巻」(岩波新書 1942)より:

…ポルタヴァ(注1)における敗戦の後、ロシアの捕虜となったスウェーデン人の中に、レナトという若者があった。
レナトはドイツから来たユダヤ人移民の家族に属していたが、彼は他のユダヤ人と共に1681年9月29日、ストックホルムのドイツ教会で洗礼を受けた。父のモーゼス・ヤコブはスウェーデン人となり、かつグスタフ・ミカエル・レナトゥスという名でキリスト教徒となった。そして移住したために貧困になったこの家族は、市庁と政府に対して根気よく請願したお陰で、次第にストックホルムで相当に繁栄するようになった。
息子のヨハン・グスタフ・レナトは18歳の時砲兵に応募し、ナルヴァ、ディーナ及びポルタヴァで転戦した。そして他の捕虜と共に1711年に、トボルスク(注2)に収容せられた。

ポルタヴァの捕虜の中に、後にレナトと同様の残酷な運命を分かつことになった、一人の若いスウェーデン婦人がいた。しかし、それより以前にも彼女の生活は、暴風雨の海のようであった。
彼女は前述のストックホルムのドイツ教会においてユダヤ洗礼が行われた後3年たった時、はじめて陽の光を見たが、『キリストが大きな犠牲を払って得た信者の組合』に加わることを許された際、ブリギッタ・クリスティアナ・シュルツェンフェルドなる名を与えられた。彼女の両親、すなわち『騎兵連隊副官にして、高名且つ家柄よきクヌート・シュルツンフェルド氏及び彼女の親愛なる母フルー・ブリギッタ・トラナンデル』は、彼女が未だ幼児の時逝去したが、しかし母方の伯母と『数名の高名な親族』は彼女を注意深く養育した。

15歳の時この若い婦人は結婚したが、数年後大戦争の結果寡婦になった。フルー・ブリギッタは夫の側に居りたいためリガ(注3)に移住していたが、そこで彼女はその後スウェーデン兵と再婚し、軍隊がロシアに進軍した時、彼女も伴われて行った。そしてポルタヴァ戦闘後、彼女は捕虜として夫と共にモスクワに収容せられ、1711年彼女は再び寡婦となった。
当時27歳で未だ美しかったフルー・ブリギッタは、他のスウェーデン捕虜メクレンブルク人(注4)、ミカエル・シムスと三度目の結婚をした。その後間もなく、彼女は彼と共にトボルスクのスウェーデン捕虜部落に移された。

ピーター大帝(注5)は砂金の豊富な河のあるトルキスタン方面に彼の境界を拡張する計画を有しており、その目的で陸軍中佐ヨハン・ブックホルツはジュンガル部人の草原の領土に遠征隊を準備するよう命ぜられた。このロシアの遠征隊に砲術と築城法に経験のあるトボルスクの多数のスウェーデン捕虜が参加したが、1715年この遠征隊はイルティッシュ河を遡りジャムィシェフに送られ、ブックホルツはそこに堡塁を築いた。参加したスウェーデン人の中にミカエル・シムスとヨハン・グスタフ・レナトがいた。
環境が平穏に見えたので遠征隊の数人の士官は彼らの妻を呼びよせた。しかし、かれらの到着する前に、『ジャムィシェフの城砦はカルムック人(注6)によって取囲まれ、付近の村は到るところ包囲軍によって荒された。彼らは又これらの旅行者をも襲撃した。・・・シムス大尉は殺害せられた。・・・婦人たちは・・・ひどい悲惨な奴隷生活に入った。』

ジュンガル部人の捕虜の中にフルー・ブリギッタとレナトが居た。そして殺された者の中にフルー・ブリギッタの夫シムスがいた。
スウェーデン人を捕らえたジュンガル部人はホイト族であったが、ブックホルツ遠征隊を全滅し、ロシアの計画を挫折させた後、彼らはエビノール(注7)湖畔の領地に退却した。
30年の間フルー・ブルギッタは多くの災厄を受けてきた。しかし、1716年の秋、彼女は一生涯の中で最も恐ろしい受難を経験したのである。彼女はジュンガル部人の手に奴隷となっていた。それらの野蛮人は、当時の著述家によれば、『荒し廻る野犬のように』スウェーデン軍の周囲に群がったアユク汗(注8)のトルグート軍の仲間であった。アジアの野蛮人たちは彼女に無慈悲極まる虐待をなし、『彼女のすべての着物をはぎ取ったばかりでなく、彼女の死ぬ日まで手足に縄目の痕が残ったほど厳しく長い間鉄鎖や強い縄で縛った。そして終に彼女がカルムック地方に連れて行かれた時、彼女は奴隷としてのさまざまのつらい不面目な仕事を強要せられた。そして文明国では稀な忍び難いとされるような粗末で、少量で且つ不潔な食物に満足しなければならなかった。』

ホイト族の族長は彼の白人捕虜を、ジュンガル部人の将軍ドゥカールに引渡し、後者は彼の主君すなわちジュンガル部人の豪勇な戦士であり、『カルムック人の最高主権者であって、彼の臣下及び彼らと同一人種の国民によって国王と呼ばれているが、周囲の国々からは王或いは太公と認められ、勇敢な高貴の英雄及び崇高なる王と言う意味でスルクトゥ・エルデニ・バドゥル・コンタイギーと称せられている』ツェワン・ラプタンの許へ彼らを連れて行った。

ツェワン・ラプタンはこのスウェーデン婦人を奴隷として、チベットのココノル地方(注9)から来たホシュート族の王女であった、彼の第一夫人に与えた。そして今はフルー・ブルギッタは『これまで丸裸体であった彼女を幾分か覆うため古い毛皮の着物を与えられたので』やや耐えられるような状態になった。
次第にスウェーデン婦人は王妃に愛されるようになった。というのは、彼女は行儀がよい上に女仕事、『特にクロシェ編物(注10)と織布』に熟練していたからである。そしてフルー・ブリギッタが宮廷で得た寵愛を、彼女は蒙古人私民の奴隷となっている、他のキリスト教徒の捕虜のためにうまく利用した。彼女が助けたり生命を救ってやった奴隷の中にレナトがいた。

ツェワン・ラプタンの掌中の玉は彼の若い娘セソンであった。彼女の母はヴォルガ・トルグートの有力な族長アユク汗の娘で、首領の第二夫人であった。セソンがクロシェ編物をしたいと特に望んだので、彼女はそのスウェーデン人の女奴隷を彼女の師匠に頼んだ。フルー・ブリギッタは小さな宮廷に移されたが、ここでもまた彼女は大寵愛を得ようと努めたので、間もなく彼女の欲求するものはどんなものでも得られるようになった。
若い王女セソンがアユク汗の孫ドンドゥク・オンボに婚約した時、フルー・ブリギッタは彼女の女主人に似合う嫁入衣装を調達する機密の使命を与えられ、この目的のために『小ブハリア』の『ゲルケン』(現今の東部トルキスタンのヤルケント(注11))で2年間過ごした。

元スウェーデン砲兵曹長レナトはフルー・ブリギッタの斡旋によって、首尾よく奴隷の身分を脱した上、ジュンガル宮廷で大いに寵愛された。彼自身、フレデリック王に提出した放免請願書の中に『大砲及び臼砲を備えた砲兵隊を創設し、200人のカルムック人に砲術を教えた』と述べている。彼はまた清朝人に対抗してジュンガル部人と共に実線に参加したと述べている。
レナトはついに彼をスウェーデン王に対する大使として派遣するようジュンガル部王を説服した。
しかし、その時勃発したコザックとの戦争が、この『使節団』の延期を余儀なくさせた。


『小ブハリア』から帰ると直ぐ、フルー・ブルギッタは王家の許しを得て、彼女の同国人レナトと結婚し、かくして侍女としての彼女の職務を解かれた。これが彼女を救う奇縁となった。というのは、1727年ツェワン・ラプタンは急死し、毒殺の疑いがあったので彼のトルグート人の第二夫人と彼女の娘セソンは拷問によって無理強いに自白させられ、彼らの全従者と共に死刑に処せられたからである。

ツェワン・ラプタンの晩年に、清朝皇帝はジュンガル部人の勢力を完全に打ち砕いた。そして前者の継承者ガルダン・ツェリンはかつては偉大で有力であった国民の粉砕された残った小部分の支配者となった。

この王にもスウェーデン人夫婦は大いなる寵遇を得て、間もなく彼らが釈放されるときが来た。王は不承不承『これらの二人の有用で気持ちのよい者』を解放したのであるが、彼自身の利益のために彼らの『快楽と希望』とを妨げたくなかったのである。1733年3月22日17年間『これらの野蛮人』の仲に逗留した後、レナト一家は彼らの恩人に別れを告げた。彼らの事をフルー・ブリギッタの伝記には『ある点においては確かに彼らは勝っているとは言えないが、正直、相互の愛情及びその他幾多の美徳は多くのキリスト教国民に匹敵する』。フルー・ブリギッタが出発するので、愛情の印として『王妃王女が彼女の出発を嘆いて流した涙の跡のある、数枚の手巾を順次に受取った』と書いてある。

このスウェーデン人夫婦は18人のスウェーデン人と134人のロシア人を、ジュンガル部の奴隷の身分から解放することに成功した。帰国旅行に夫婦は18人のスウェーデン人と、フルー・ブリギッタがキリスト教に改宗させるためスウェーデンに連れ帰ろうと思った20人の『綿花園の奴隷』をも同伴した。これらの中ある者は途中で斃れ、他のものはロシア人に抑留された。しかし、レナトとフリー・ブリギッダは1734年6月6日、残りの随行者と共にストックホルムに到着した。

帰国後わずか2年の1736年4月14日、フルー・ブリギッタは『彼女がこの世に51年9ヶ月生きた後』彼女の目を閉じ、その疲れた身体は当時の王立砲兵教会に埋葬せられた。
レナトは帰国すると直ぐストックホルムの砲兵中隊の中尉に任命せられ、次いでスウェーデン砲兵隊の大尉に昇進した。学会においては彼は大なる興味の的となった。彼が奴隷の境涯から故国に持ち帰った華麗な着物や、出来栄えから判断すればレナトでなくて蒙古人によって製図せられた、中央アジアの数葉の地図がユプサラ大学(注12)の所蔵に帰した。リンケピングの博学の僧正エリク・ベンゼリウスは地図の複写を手に入れ、リンネの後継者、オロフ・スルジゥス学長はジュンガル部より持ち帰った種子を手に入れ、ユプサラ大学の農園に播種した。

3年間フルー・ブリギッタの喪に服した後、レナトは絹織物業者イサック・フリッツの寡婦エリザベト・レンストレムと結婚し、1744年に彼が死ぬまで彼女と共に暮らした。…

(注1) ポルタヴァ→ポルタバ(ポルタワ):ウクライナにある工業都市。北方戦争で、1709年ロシアのピョートル一世がスウェーデン国王カール12世の軍を破った古戦場。
   北方戦争:1700-21年にわたり、バルト海域の覇権をめぐって行われたスウェーデンとロシアとの戦争。ポーランド、デンマークがロシアに加担。1704年スウェーデンはナルバの戦でロシア軍に大勝。敗れたロシアはピョートル一世の下で国内体制を建て直し、1709年ポルタワの戦いで大勝し戦局を逆転。1721年ニスタット条約を結んだ。この結果ロシアはバルト海に進出、国際的地位が高まった。

(注2) トボルスク→トボリスク:ロシア中部、西シベリアの都市。オビ川の上流、イルティシ川とトボル川との合流点付近にある。1587年、エルマークらにより創設。1708-1882年シベリア総督府が置かれ、行政の中心として栄えた。

(注3) リガ:ラトビア共和国の首都。リガ湾に臨む港湾都市。1201年創設。1710年ロシアが占領。

(注4) メクレンブルク:ドイツ北東部、バルト海に沿う旧地方名。民族大移動以後スラブ系民族が居住、12世紀からドイツの植民が行われた。三十年戦争(1618-1648年)後17世紀末までスウェーデンの支配下にあった。

(注5) ピーター大帝→ピョートル一世:ロシア皇帝(在位1682-1725年)。啓蒙専制君主の典型。自ら英国、オランダに留学して西欧の技術文化の輸入を図り、富国強兵に努めた。スウェーデンとの北方戦争の緒戦における敗北を契機に軍政改革に着手、また官営の製鉄所や織物工場を設置。1703年新都ペテルブルグを建設し、バルト海沿岸を制圧。

(注6) カルムック人→カルムイク[人]:西モンゴル諸族の一つで、広義にはオイラト(オイロト)の別称、狭義にはヴォルガ川下流に住みついたオイラトの支族であるトルグート族などのことをいう。
   ジュンガル:17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族部族連合。オイラト遊牧民は14世紀半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれ、この言葉がロシア語に入ってカルムイクとなった。現在ヴォルガ河畔に住むカルムイクは、1630年にこの地方に移住してきたオイラト部族連合の一部である。

(注7) エビノール[湖]:漢字で艾比湖。中国新疆ウイグル自治区北西部、ジュンガリアの盆地南西部にある塩湖。カザフスタンとの国境に近く、湖岸で塩が採取される。

(注8) アユク汗→アユーキ・ハーン:ヴォルガ河畔に移住したトルグート部の族長(在位1670-1724年)。アユーキの時代がトルグートの最盛期。ロシアのピョートル大帝がヴォルガ河畔にアユーキを訪問し、条約を締結した。トルグートはロシアのためにしばしば出兵し、1707年にはスウェーデン王チャールス12世と戦い、スウェーデン軍を苦しめた。

(注9) ココノール→青海湖:中国青海省北東部にある中国最大の塩水湖。

(注10) クロシェ:鉤(かぎ)針編み

(注11) ヤルケント→ヤルカンド:中国新疆ウイグル自治区タリム盆地西部にあるオアシス都市。毛織物を産する。漢代の莎車(さしゃ)国の地とされる。

(注12) ユプサラ→ウプサラ:スウェーデン、ストックホルムの北64kmにある学園都市。北欧最古の大学であるウプサラ大学がある。
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by satotak | 2010-01-28 11:40 | モンゴル
2008年 08月 02日

オイラト民族 -新モンゴル民族に対峙する部族連合体-

護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版社 1990)より(筆者:宮脇淳子):

モンゴルとオイラトの抗争
…この時代の前半はオイラトの勢力が元朝の後裔であるモンゴルにまさった。オイラトトゴンは1430年代に実権を握り、モンゴル人をも支配下にいれて北アジアの事実上の独裁者になった。トゴンの後をついだその子エセン太師(たいし)は、1452年にモンゴルのハーン、トクトア・ブハを殺し、翌年自ら大元天聖大ハーンの位に登った。この時代オイラトは東方では中国東北地方の女真人を服従させ、西方では東チャガタイ・ハーン国を制圧し、西トルキスタンにまで出兵した。また明の北境にも進攻し、1449年には明軍を土木堡で破って皇帝を捕虜にした。

このようにめざましい活躍をしたエセンであったがその治世は短く、即位の翌年1454年に部下の反乱で殺された。オイラト帝国はたちまち崩壊したが、この時期はモンゴル史のうえでは一大変革期であった。エセンはモンゴルのハーンを殺したあと元朝の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母とする者のみが助命されたという。真偽のほどは明らかではないが、エセンの時代にモンゴル社会は大混乱におちいり、文書や系譜の類も多く失われたことはまちがいない。なぜなら、モンゴル年代記にはこれ以前の時代について記すことが非常に少なく、現存の系譜はどの部族でもすべてエセンの同時代人が実際上の始祖になっているからである。

エセン・ハーンが殺された後、オイラトはモンゴルに対する影響力を失って、本拠地である漠北のモンゴル高原中部から西北方に後退した。混乱のなかにあったモンゴル各部を統一したのは、チンギス・ハーンの子孫で、かつエセン・ハーンの娘が生んだボルフ・ジノンの子バト・モンケ・ダヤン・ハーンであった。ダヤンというのは「大元」のモンゴル訛りで、これはつまり大元皇帝という意味の称号である。後世内外モンゴルにおいてチンギス・ハーンの後裔と称した人びとは、その全員がこのダヤン・ハーンの子孫である。ダヤン・ハーンが混乱の時代を生き延びた唯一人のチンギス・ハーンの子孫であったわけだが、彼が何家の出身なのかは明らかではない。それどころかその生没年にかんしても史料の異同が激しく.わが国において1960年代から東京と京都に別れてダヤン・ハーン論争がおこったくらいである。

それほど明らかでない人物であるが、ダヤン・ハーンこそ今日のモンゴル民族の中興の祖である。ダヤン・ハーンは15世紀末に即位し、その後38年にわたる治世中にモンゴル各部を再統一してこれを左右翼3万戸(トメン)ずつに再編成した。このときに編成されたモンゴル各部はそれぞれダヤン・ハーンの子孫を首長に戴き、相続による細分化やハーン位継承をめぐる同族争いはあったが、モンゴル民族としてのまとまりは17世紀清朝に服属するまで続いた。清朝治下においても、牧地の境界は厳しく設置されたが、ダヤン・ハーンの数多くの末裔はこれまでどおり支配階級としての地位を安堵され、清朝官僚としての特権を享受した。

ダヤン・ハーンの孫で右翼万戸の一つトメト部の長であったアルタンは、嫡流ではなかったが実力でハーン位を獲得し、明に侵攻する一方で旧敵のオイラトをおおいに攻撃した。これが16世紀中葉のことで、これ以後モンゴルは何度もオイラトを討ち、16世紀末にはモンゴル高原からオイラト各部を追いだしてしまった。現在のモンゴル人民共和国中央部に新たなモンゴル民族が住むようになったのは、この時代からである。…

オイラト民族
以上のモンゴル民族に対して、彼らから異族(ハリ)と呼ばれ、また各種のモンゴル年代記において「四十(ドチン)モンゴルと四(ドルベン)オイラト」と対比されるオイラト民族は、モンゴルとどこが違うのか、その起源は何かをつぎにみてみたい。

オイラトという名の部族が歴史に登場するのは、…13世紀初めのことである。ラシード『集史』によると、当時オイラトはイェニセイ川上流のケム川を構成する八河地方に住み、数部族に分かれていたという。オイラト王クトカ・ベキは1208年チンギス・ハーンに降り、そのナイマンとメルキト征討を助けたので所領を安堵されて、四千戸の将としてチンギス・ハーンに臣事した。オイラト王家はその後チンギス・ハーンの子孫のジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家すべてと婚姻関係を結んだ。これはその住地が、それぞれの領土の接点に位置するという戦略上の要衝だったからである。モンゴル帝国分裂の機縁となった1260-64年のフビライとアリク・ブガの抗争のさいに、オイラトはアリク・ブガの側に立ってフビライ軍と戦った。戦争の運命を決した1261年のシムルタイ湖の戦で、フビライ軍に粉砕されたアリク・ブガ軍は多数のオイラト兵から成っていたという。オイラトのその後の動向は明らかではなく、『元史』にわずかに残された記録では、ハイドの乱の最中にオイラト兵がやはり元軍と戦ったことが知られるだけである。彼らの住地は元の都から遙かに遠く、その威光はおよばなかったと想像されるのである。

元朝が滅びると、オイラトはモンゴル高原に退却したフビライ家のハーンを殺し、アリク・ブガ家のイェスデルをハーンに擁立した。しかし、モンゴル年代記によるとその後まもなくモンゴルとオイラトの対立が起こり、モンゴルのハーンはオイラトに暗殺されたという。このころの1403年の明の記録によると、オイラトには馬哈木(マハムード)、太平(タイピン)、把禿孛羅(バト・ボロト)の三人の首領がいた。その後マハムードの子トゴンがオイラトを統一する。つまり、元朝が滅びた後新たに登場したオイラトは、かつてのオイラト部族に他部族をくわえた連合体に変わっていたのである。

この新たなオイラト連合体を構成した諸集団にかんしては、彼ら自身の手になるオイラト年代記やその他の史料によっておおよその出自が解明できる。オイラトにおける年代記の成立は、…モンゴル年代記にくらべて一世紀近く新しくなるが、これはオイラト社会が異民族の圧迫を受け、その支配下で変貌をとげる時期がモンゴルにくらべて一世紀遅れたからに他ならない。オイラト民族の最後の独立政権ジューン・ガルが清朝に滅されたのは1757年のことで、オイラト諸部のなかで最も西方に住地をひろげたトルグート部を中心とするヴォルガ・カルムィクがロシア政府の統制下に組みこまれていったのも18世紀中葉であった。

カルムィクの語源はトルコ語のカルマックで、15世紀に彼らの侵略を受けた中央アジアの人びとがオイラトをさしてこう呼んだのがはじまりである。意味は明らかではない。その後ロシア人がこの名称を使用してひろまったが、彼らの自称はオイラトである。

オイラト民族の一部であるヴォルガ・カルムィクは、18世紀中葉から急速に進みはじめたロシア人農民の遊牧地への入植によって圧迫を受け、その過半数は、清朝のジューン・ガル遠征によってほとんど無人の地と化した故郷のイリ河畔に帰還した。1771年のことである。このとぎヴォルガ河畔に残ったオイラト民族の子孫が、今のソ連邦カルムィク自治共和国に住む人びとであるが、現在われわれが利用できるオイラト年代記はここに伝えられたものである。

代表的なオイラトの年代記は二つあり、両方とも『四オイラト史』という題である。一つはトルグート部のエムチ・ガワンシャラブが1737年に書いたもので、もう一つはホシュート部のバートル・ウバシ・トメンが1819年に書いたものである。これらと、その他1776年出版のパラス『モンゴル民族史料集』や『蒙古源流』などのモンゴル年代記によって、四オイラト連合体の起源をつぎのように明らかにすることができた。…

16-7世紀に、同時代史料であるモンゴル年代記やロシア古文書に登場するオイラト民族は、少なくとも8集団によって構成されていたのであるが、彼らは自身を四(ドルベン)オイラトと称した。この四という数字には実は根拠があり、それはモンゴル帝国時代にさかのぼるのである。オイラト諸集団はつぎのように分類できる。


[拡大図]

(1) 旧オイラト系ホイトバートト
モンゴル年代記に「ホイトの首領たちはイナルチ・トロルチの後裔である」とある。これはオイラト王クトカ・ベキの二人の息子の名である。また、バートトはその勇猛を中国人が称えてホイトにあたえた尊称であるとパラスがいう。

(2) バルグト系バルグブリヤート
…バルグトはバイカル湖の東西にいた部族の総称で、バルグはその一部でもあった。この地方が現在ブリヤートと呼ばれるところである。

(3) ナイマン系ドルベトジューン・ガル
オイラト年代記に「ドルベトとジューン・ガルの一族は天から出た。管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったのでその子孫をチョロースという」とある。この始祖説話は天山ウイグル王国のものと酷似している。ウイグル帝国の分支はいくつかあるが、住地から考慮してアルタイ山脈の東西にひろがっていたナイマンがドルベトとジューン・ガルの前身であろう。ドルベトとジューン・ガルの首長たちは、系譜によるとトゴン、エセン父子の後裔である。

(4) ケレイト系トルグート
オイラト、モンゴル年代記ともに、トルグートはケレイトのオン・ハーンの後裔であると記す。

以上の、モンゴル高原西北部を住地とした四大部族、オイラト、バルグト、ナイマン、ケレイトが、元朝崩壊後その遺民であるモンゴルに対抗して連合したのが新たなオイラト民族の起源で、このゆえに四オイラトと称したのである。

実はオイラト民族にはこの他にホシュート部がふくまれる。オイラト年代記の系譜によると、その首領の家系はチンギス・ハーンの同母弟ハサルを始祖とする。ただし、本家である当のモンゴルのホルチン部の系譜には、これについて何の記述もない。ホシュート部の王族の姓はオジエトであるから、彼らは実際は前述のモンゴル民族の構成集団…で述べた三衛系の分かれであろう。つまりホシュートはモンゴルの出身なのであるが、トゴンとエセンがモンゴル高原を支配した時代にオイラトの傘下に入り、その後もオイラトに残留したのである。
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by satotak | 2008-08-02 12:55 | モンゴル
2008年 08月 01日

オイラトとモンゴル

「オイラト族はオイラト族である。みなさんモンゴルの一部と誤解しないようにご注意して頂きたいです。」
(「最後の遊牧帝国 ジューンガル」(200.12.10)へのコメントより)

「オイラト族は自分の文化、習慣などをもっている一つ民族です。
モンゴルの一部ではないしモンゴル系でもないです、ということを伝えたいです。正確なことを日本のみなさんに。
…オイラトについての誤解される情報が結構流れているからです。」

(「オイラト人の留学生」氏からのメール(2007.7.31)より)


「オイラト」に対するアイデンティティあるいはこだわりが、現在もこのようにあるとは知らなかった。
私自身は、「ジュンガル」、「トルグート」あるいは「ホシュート」といった部(民)族には直接的な関心を持っていたが、「オイラト」はそれらの歴史的総称ぐらいの認識しかなく、現在に生きている名称とは思っていなかった。。


中央ユーラシアを知る事典」(2005 平凡社)を見ても、「オイラト」という独立した項目はなく、「カルマク」、「ジュンガル」、「モンゴル」などの項目の中で言及されているだけである。
これらの中で、オイラトはどのように述べられているか…

モンゴル
…元朝が崩壊し、モンゴル高原に戻った集団、いわゆる北元を明朝が〈蒙古〉と呼ばず〈韃靼(だったん)〉(タタル)と呼んだのは、元朝の後継として了解されるような〈蒙古〉を用いるわけにはいかなかったからである。…統一以後のモンゴル族が自身の民族名としてタタルを用いることはなく、他称である。
一方、アルタイ西部に割拠したモンゴル系諸集団は〈オイラト(オイロト)〉と総称された。元朝の後裔であるモンゴル(=韃靼)と、そうでないオイラトとの間の対立は強く、その後のモンゴル史を決定づけ、今日でも民族内対立は潜在している。…

ジュンガル
17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族の部族連合。オイラト遊牧民は14世紀の半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれたが、…

カルマク
中央アジアのテュルク諸語において、モンゴル系のオイラトをさす言葉。オイラトは、中央ユーラシアにおいて大きな勢力を持った遊牧集団の一つで、15~18世紀にかけて中央アジア各地を幾度にもわたって攻撃し、その住民に甚大な被害を与えたり、部族の構成や分布に大きな変化をもたらしたりした。…


ウィキペディアによれば

オイラト
オイラト(Oirad, Oyirad)は、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。しかし、本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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by satotak | 2008-08-01 21:11 | モンゴル
2007年 12月 10日

最後の遊牧帝国 ジューンガル

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ジューンガルの時代
ジューンガル部族は、17世紀末に突然歴史の表舞台に登場し、中央アジアに一大遊牧帝国を築いた(注1)。しかし18世紀中葉には、古くからの遊牧帝国と同様、相続争いによる内部崩壊を起こし、この機を利用した清朝に討伐されて滅んだ。ジューンガルの人びとは、清軍のもたらした天然痘の大流行と虐殺によって、ほとんど絶えたといわれる。しかし、ジューンガル部族と同盟関係にあって、これとともにオイラトと総称されたドルベト部族やトルグート部族やホシュート部族の人びとは、いまもモンゴル国西部、中国の新疆ウイグル自治区北部、ロシアなどに分かれて暮らしている。

かれらの活躍した地域は、いまのモンゴル国から、ロシア連邦のシベリア地方、ブリヤート共和国、トゥワ共和国、ゴルノ・アルタイ共和国、カルムィク共和国、CIS中央アジア諸国のカザフスタン共和国、キルギズスタン共和国、ウズベキスタン共和国、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、青海省、チベット自治区、内モンゴル自治区にまたがっている。その時代は、これらの地域がまだ、清朝にもロシアにも支配されていなかった時代で、しかし、すでに清朝とロシアの影響が及び始めていた頃である。
いまのモンゴル国民の中心であるハルハ部の人びとは、17世紀末にジューンガル部族長ガルダン・ハーンの侵攻を受けて、同族のモンゴル人のいる南に逃げ、その結果として清朝の支配下に入った。

これより前の17世紀中ごろ、ジューンガルと同じオイラト民族で、ジューンガルとライバル関係にあったホシュート部族が、故郷の中央アジアから青海チベットに侵攻し、この地を制覇してそのまま住みついていた。18世紀初めになって、ジューンガル軍は、ホシュート部族の支配下にあったチベットのラサに侵攻した。ホシュート部族長に助けを求められた清朝は、軍隊をチベットに派遣し、この結果、チベットが清朝の保護下に置かれることになった。
また、いまの中国新疆ウイグル自治区も、17世紀後半にジューンガルの支配下に入り、1755年にジューンガルが滅びた後、清朝がその支配を引き継いだのである。

カザフスタンの人びとは、18世紀にジューンガルの圧迫を受け、これから逃れるためにロシアの臣民になった。ブリヤートの人びとは、もともとオイラト部族連合つまりオイラト民族の一部であり、トゥワやゴルノ・アルタイの人びとも、一度はジューンガルの支配下にあった人びとである。キルギズスタンの人びとが、シベリアの故郷からいまの地に移り住んだのも、ジューンガルの時代であった。ジューンガルは、最盛期には、ウズベキスタンのオアシス諸都市のほとんどすべてを支配した。いま中央ユーラシア草原の最西端に住むモンゴル系の、ヴォルガ西岸のカルムィク共和国の人びとも、ジューンガルと同じオイラト民族である。(ソ連の建国者レーニンには、実はこのカルムィク人の血が流れていた。)

これらの地域が、現在中国とロシアの支配下にある遠因を創ったのが、ジューンガルであったと言っても過言ではない。…

[拡大図]

オイラト遊牧部族連合
17、18世紀に中央ユーラシア草原を席巻した最後の遊牧帝国ジューンガルの実体は、ジューンガル部長を盟主とするオイラト遊牧部族連合であった。古くは 匈奴以来、鮮卑や柔然や突厥やウイグルやモンゴルなど、北アジアや中央アジアで消長を繰り返したいわゆる遊牧帝国も、ジューンガルと同じような遊牧部族連合だったに違いない。広い草原に家畜を放牧するため、人口が少なく分散して生活する遊牧民を構成員とする国家は、このような仕組みを取る以外に存立し得なかったのである。

…遊牧国家の指導者は、一族の成員である遊牧民を養うことを要求された。遊牧君主は、略奪戦争の指揮がうまく、遠隔地交易など手段は問わないが、一族に分配できる富をつねに蓄える必要があった。遊牧君主は、一般に考えられているほど野蛮残虐な専制君主ではなかったのである。だから、ジューンガルの君主のように、豊かな中央アジアのオアシス都市から毎年定まった貢納を徴収できるとか、トメト・モンゴルのアルタン・ハーンやヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーンのように、明やロシアから毎年贈物や報酬を得、交易を独占できた君主は、他の遊牧領主とは比較にならないほどの強大な権力を持った。遊牧帝国すなわち遊牧部族連合は、有能な盟主でなければ維持できない運命だったのである。

17世紀のオイラト部族連合の盟主は、1671年にガルダンがジューンガル部長になるまでは、ドルベト部長やホシュート部長だった。ガルダンのあとのジューンガル部長はハーン号を持っていないので、ジューンガル・ハーン国と呼べるような国家は存在しなかった。しかし、ジューンガルを盟主とするオイラト部族連合の勢力は、かれらの周りのさまざまな民族を震撼させ、その君主は、清朝やロシアなど超大国の君主とも対等な政治力を持ったから、国際関係上、ジューンガルを十分に帝国とよべると思う。ゆるやかな部族連合という仕組みであったおかげで、かえってチベットからヴォルガ河畔にいたるような広大な地域を、同族で支配することができたともいえる。

ジューンガルの崩壊の原因も、また古来の遊牧帝国と全く同じだった。たとえ前君主の嫡男でも、能力のない君主にはだれも従わない。兄弟間の相続争いが、遊牧民の宿命である。オイラト部族連合のもう一つの弱点は、どの部族長もチンギス・ハーンの男系子孫でない点であった。部族長同士のライバル関係が、その政治に最後までひびいたのは、見たとおりである。しかし、かれらのなかにもしチンギス・ハーンの男系子孫がいたとしても、チャガタイ家の末路やモンゴル民族の歴史を見てわかるように、結果は同じだったともいえる。チンギス統原理は、遊牧民社会にも、かれらなりの論理があるという説明には有効だが、同時に、遊牧社会は血筋だけでは生き延びることができない世界だったからである。

1755年にジューンガルが滅亡したあと、中央ユーラシア草原に、かつてのような遊牧帝国は二度と誕生しなかった。それは、清朝とロシアという二大国家が領土の観念をこの地域に持ち込み、遊牧民の自由な移動を制限したことと、すでに騎馬の軍事力よりも火器の力が上回るようになっていたこと、さらに…コストの安い海洋貿易に圧されて、遊牧君主の経済の基盤であった内陸貿易が衰退したこと、人口が増加した農耕地帯から農民が草原に進出してきたことなどの理由による。

この直前17世紀後半は、世界史上の大転換期であった。この頃にわれわれ人類の生活様式は大きな変化を遂げ、これ以前のことが想像できなくなっていったと思われる。ジューンガル帝国は、古い英雄時代の最後の華であったといえる。そのジューンガル帝国を創ったガルダンは、遊牧民に生まれてチベット仏教の修業をした、文武兼ね備えた新しいタイプの英雄だった。そして、かれと同時代に生きた、清の康煕帝、チベットのダライラマ五世、ハルハのジェブツンダンバ・ホトクト一世、ヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーン、ロシアのピョートル大帝もまた、自分の育った世界に新しい文化を持ち込んだ英雄だった。

(注1) 部族か、民族か、国家か、帝国か
これから遊牧王権の歴史を叙述していくのに際して、まず、部族や民族や国家や帝国ということばを、ここで私なりに定義をしておぎたいと思う。
中国史料では、たとえば唐代のカルルクのある集団について、族とも部とも姓とも記す。また、漢文では、部族も部落も意味に大差はない。
遊牧集団を表す各時代のさまざまな名称の、どちらが総称で、どちらが下位の集団かなど、これまで東洋史学界ではよく問題にされてきた。しかし、遊牧集団は固定したものではなくつねに変化するので、実体が明らかでないのは当然のことである。私はつぎのように考えている。

一人の族長に率いられた、ある名称を持つ遊牧集団は、次の代には族長の子供たちによって分割相続され、あるいはかれらの妻が婚資として持参した他集団と結合するので、集団の構成員は各代ごとに変化する。そのため、名称は残っても規模や内容は変わる。前代の部族名が、新しい集団内で他集団と区別するために姓や氏族名として扱われたり、新しい集団名が生まれたりするのがつねである。
しかし同時に、遊牧民にとって父系の系譜は非常に重要で、誰が誰の後裔であるかについては、必ず伝承がある。そこで、規模や構成員は変化しても、遊牧集団の間になんらかの系統関係が存在する場合には、後身(こうしん)という表現を使うことにする。

氏族は、同じ祖先を持つ人びとの集団と考えられるわけだが、構成員すべてが血縁関係にあるかどうかは、史料がないために保証の限りではない。本書では、部族の下位集団という意味で使う。種族は、中国史料に登場した用語をそのまま引用しただけで、人種の意味は含まない。
特定の首長に率いられて、他の遊牧集団とはっきり区別できる集団を、本書では部族とする。規模や内部事情は考慮しない。

本書で使用する民族は、遊牧部族の連合である。20世紀の現代に生きる日本人のわれわれが考える民族の概念とは異なる。日本人がよく使う民族ということばは、われわれ日本民族を反映して、ふつう英語のネイションnationとレイスraceの両方あわせた意味に用いられる。しかし、ネイションは国民または国家であり、レイスは人種である。われわれが考える民族の意味にぴったりする外国語は、実は存在しない。本書では、モンゴル民族やオイラト民族ということばを使うが、これには人種の意味はなく、どちらかというと、英語のネイションに近い。ただし、本書で使用する民族ということばに、領土の観念を持つ20世紀的な国家を当てはめて想像しないように、注意が必要である。

最後の帝国の定義であるが、エンパイアempireはもともと最高の統治権または統治のことである。
部族連合からなる遊牧民族と、かれらが征服した定住農耕地帯の諸民族で構成された多民族国家を、ここでは遊牧帝国とよぶことにする。遊牧民には、最初から領土支配の観念はない。したがって、遊牧国家も遊牧帝国も、支配したのは領民、国民であって、20世紀のわれわれが考えるような領域国家ではなかった。
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by satotak | 2007-12-10 13:12 | モンゴル
2006年 12月 31日

モンゴル旅行の記憶 -社会主義・プージェー・音-

社会主義の廃墟
7月上旬に1週間ほどモンゴルに出かけた。今年はモンゴル建国800年、そして7月はナーダムの時節であったが...私の目当ては、歴史の本などに良く出てくるカラコルムとオルホン・トーラ両川。カラコルムの地に自分の足で立ち、オルホン川の水を掬い、トーラ川を間近に眺めることができた(下の写真:トーラ川)。 残念ながらカラバルガスンには行けなかったが。
しかし今度のモンゴル旅行で一番印象に残ったのは、あちこちの町や村に放置されている工場跡。社会主義時代の工場の多くが社会主義崩壊後に操業できなくなった、とは聞いていたが。実際にその荒廃ぶりを目の当たりにすると、何とかならなかったものかと、痛ましい気分にさせられた。
体制変更後15年。悪路に揺られ、廃墟と化した工場跡を眺めて、この国の困難さを思い知らされたような1週間であった。

プージェー
映画「プージェー」については前に紹介したが、この映画のことを現地の女性ガイドに話したら…「シーズンオフになったらプージェーの家を探してみたい。ウランバートルからそんなに遠くはないようなので。…私には、本当はプージェーが生きているように思える。」と話してくれた。帰りの空港で私のメールアドレスを伝えて、何か分かったら教えて」と言って別れたのだが…

8月12日(土)21:00からフジテレビで「新グレートジャーニー 日本人の来た道 北方ルート」放映...やはりプージェーが交通事故で亡くなったのに間違いはないようだ。ことの成り行きを見ると、プージェーと彼女の家族にとって関野吉晴は「疫病神」ではなかったのか?! 彼が現れてから、この家族には次々と不幸が襲う...失礼!

モンゴルの音
この旅行で取った(盗った?)音をやっと整理した。残念なのは、ツェンケル温泉からツェツェルレグ経由でカラコルムに戻る悪路の途中、車の中で聞いたカセットテープの音を取り損なったこと。整理したコンテンツの中の「ブルドのナーダム_3」の3’15”あたりから、同じような音がかすかに聞こえている。何とも懐かしい日本民謡のような節回し...

日本民謡のことは全然詳しくないが、帰ってきてから調べてみると、「江刺追分」や「長持唄」に良く似ているような気がしたが、どうだろうか?
モンゴルの音      (参考) 宮城長持唄
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by satotak | 2006-12-31 08:05 | モンゴル
2006年 12月 31日

モンゴル人の描くチンギス・ハーン即位 –モンゴルの新作映画から-

「モンゴル帝国を宣言する」(MIATモンゴル航空 機内誌 2006夏)より:

1206年のモンゴル国
当時のモンゴル国に36ヵ国と72の諸部族が服属し、優れた兵士は30万人以上、人民は700万人以上に達し、大地を持つ巨大帝国となったのである。

チンギスハーンの母オウルンさんが70歳になる
その年の一番重要な出来事はチンギスハーンの母であるオウルンさんが70歳になったことだった。この記念日をモンゴル国全土で正式かつ盛大に執り行ったのである。
さらにこの儀式がテムジンをチンギスと命名し、モンゴルをモンゴル帝国と宣言するまで一年中続く。テムジンがチンギスハーンに即位され、モンゴル帝国が築かれたことはまるでチンギスハーンからのお母さんへの恩返し、親孝行だった。
オウルンさんの70歳を祝う集会がこの年の4月に開かれたのである。

1206年4月の大集会の決定
チンギスハーンの大将軍と大臣らが話し会い、以下の3案をチンギスハーンに提案することを決める。
1.オウルンさんが今まで苦しみの中でチンギスハーンを育てあげ、モンゴル国のことを心から心配してきたこと、また70歳になることも含め祝うこと。
2.王子を結婚ざせること。
3.兵士らの能力を検定する、兵士らの功績を把握すること。
上記のことを理由に集会を開くことをチンギスパーンに提案した。

更に古代モンゴルの中央部に当たるヘルレン川の上流、大草原のオアシスに集会を開くことを決め、チンギスハーンの宮殿をオノン川岸に建てたのである。ここは集会を開き、色々を話し合うには最適な場所で、8月まで留まる必要があることをチンギスハーンに伝える。チンギスハーンは特にお母さんの70歳のお祝いの話を快く引き受け、自分の宮殿をまずそっちに移すよう指示し、10歳以上なら男女問わず集会に参加するよう指令を発した。
大勢の官吏は指令を持ち、オウルンお母さんの誕生日を4月1日に祝うことを各地に届けたのである。

オウルンさんの70歳のお祝い
そこでモンゴル国全体がまるで山が動き、海が移るかのようにオノン川上流に移動して行った。モホリ大将軍が最初に着き、5千人の軍隊でチンギスハーンの宮殿を建てる。次にオウルンさんとボルトさんの宮殿も建てはじめる、このようにチンギスハーンとご家族用の9つの宮殿を建て、そこから1キロのところで軍隊が見えるよう舞台を建て、チンギスハーンのために銀製の22棒からなる大ゲルを組み立てる。
そのゲルの天井に凡そ3メートルの金製の雷神を造り、121メートル長いフエルトを被せ、周りに13メートル幅の9色の幕を張り、宮殿の後ろに北極星を描いた旗と左右に太陽と月を描いた旗を立てた。
官吏らが集会の準備が完全になったことをチンギスハーンに伝え、チンギスハーンはオウルン母さん、家族とともに3回大砲で撃ち大音を出した後、オノン川岸に向かって出発した。モホリ大将軍は先走り、途中でチンギスハーンを9人の官吏が9回出迎えるよう指示していった。更に36ヵ国と72諸部族それぞれの旗が立てられ、各地にラッパと笛を準備し、チンギスハーンを迎える大砲の音を待ち全兵士が並んでいた。

その様にチンギスハーンはブルハンハルドンから大移動し、チンギスハーンに付き添う何万人の流れがオノン川に到着したところ、次々に3回大砲で撃ち、音楽も流れ、9人の高官がチンギスハーンを迎える。
チンギスハーンが到着された際に、両側から音楽が流れ、チンギスハーンは馬から降りテントに入り座った。
まもなくオウルンさん一行が到着し、チンギスハーンは将軍と官吏らと脆いて出迎え、中央テントの中でハダグ(神聖な布)を差し上げてからオウルンさんは宮殿に向かった.
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翌日4月1日に官吏らと将重達はチンギスハーンにオウレン母さんのために天と土に線香を差し上げるよう申し上げ、チンギスハーンは聖なる水でうがいし、線香で全身を清め、大ゲルに白いハダグを持ち入り、お母さんの長生きを祈った。
その後、突然静まり返り、ソルホンシャルが脆いてオウルン母さんの偉功を大声で読み始めた。そこでチンギスハーンに向けてハーン(天皇)に即位するよう依頼を申し上げた。今まで断ってきたテムジンはみんなの意見に賛同し依頼を受けいれた。オウルン母さんは大いに喜ぶ。

モンゴルという新名前
チンギスハーンは〈我が国は北国と知られている。ただいま外国の20ヵ国以上を支配している我が国に新しい国名が付く必要がある〉と考え、デイセツンとソルホンシャル等に新名検討を任せる。彼らは相談し、ヘルレン川に沿って生活してきたモンゴル人の祖先であるモン国の“モン”を取り、“最高に尊敬される青いモンゴル国”と名づけた。こうしてモンゴルという新国名が出来たのである。

チンギスハーンという新称号
新国名を考えている最中に、奇跡的に鳥が大ゲルの上に座り、9回チンギス、チンギスと鳴いて飛んで行ったのである。全員でこのことを相談し、デイセツンはチンギスハーンに“最も優れた人間をチンギスハーン"と命名することを伝えたという。
この話は伝説とも考えられるが、歴史に残された誠実な説明である。

1206年の12月1日の朝
12月の1日の朝、ソルホンシャルが先頭となり3回にわたって大砲を撃ってから音楽が流れデイセツン、ソルホンシャル、モホリ、ボールチ4人はチンギスハーンの宮殿に行き“人民が集まり、チンギスハーンをお待ちしているので皇帝の位置についてくださいませ"と申し出る。
チンギスハーンは身体を清め、新しい服を着て、宝石付きの帯を締め、仏塔の形をした帽子を被り王冠を載せ、耳に真珠をつけた金製のイアリング、9つの宝石を取り入れた首飾りをし、赤い靴を履いて出てきた。
全員が静まり返る。

この時夜が明け、大地に9種の楽器の音が響き渡り、チンギスハーンは天と土に向かい線香を持ちながら祖先に祈り、オウルン母さんに向かい脆いて敬意を表した後、全身を清め、ソルホンシャルとデイセツンに手伝わせて皇帝の位置についた。その時、全員チンギスハーンに3回脆いて9回頭を下げ、大声でチンギスハーンが長生きできるようにと祈った。
オウルン母さんにチンギスハーンまた将軍、官吏ら全員が一緒に脆いて敬意を表した。その時オウルン母さんは息子に対し〈ハーンとなった私の息子。国の全員を自分の子供のように気遣い、全員を自分のように許してあげてくだざい。私の45年の苦しさは無駄とならず我が息子がハーンとなり親孝行している〉と涙ながら喜んで言った。そしてチンギスハーンはボルトさんに向かいお互いにハダグを交わした後に、全員チンギスハーンとご家族に脆き敬意を表した。
このようにモンゴル帝国が宣言されたのである。

(参考) 映画「大帝国の真髄」  歴史的事実に基づく映画は、監督のみならず、出演キャストや製作スタッフにとっての挑戦である。モンゴル人は歴史映画の大作を製作することに関して豊富な経験を持っている。例えば「高貴なツォクトタイジ」、「賢明なマンドゥハイ女王」、「無限の天空の力のもとで」など。

J.ソロンゴ監督はこの映画を、昨年9月から始めて、比較的短期間で撮影した。この映画には他の歴史映画と比較していくつかの特徴がある、と監督が語っている。この映画は「モンゴル秘史」に基づいており、約40人の出演者が247人の中から選抜された。

この映画では、ジャムハをより写実的に描くことを目指した。彼はチンギスハーンを強調するために重要な役柄である。何故なら、彼らはかって親友であったが、後に敵対するようになってしまった。

あの時代を特徴付ける要因の一つである戦闘場面が、モンゴル兵士の武芸を強調して撮影された。チンギスハーンの妃たち、彼女たちの衣装と生活様式に関して、新しい試みがなされている。この映画で主張したいことは、チンギスカーンとモンゴルの繁栄は無敵の蒼い天空の力によるものである、ということである。(テンギス劇場で 7月10日初日)
(「MIATモンゴル航空 機内誌」(2006夏)の「大モンゴル国800周年記念 イベント」欄から)
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by satotak | 2006-12-31 07:03 | モンゴル
2006年 06月 30日

少女プージェー - 遊牧民の今 -

「文化/映画 モンゴルの少女、覚えてますか?」(産経新聞 2006.6.6)より:

f0046672_20513897.jpg探検家の関野吉晴が人類の足跡を逆にたどった「グレートジャー二―」(平成14年までフジテレビ系で放送)の途上で出会ったモンゴルの少女、プージェーを覚えていますか? 彼女を主人公に「人と人との出会い」「自然も人間も変わる」ということの“重さ"を記録した映画「puujee」(山田和也監督、写真)が東京・ポレポレ東中野で公開されている。

関野が、モンゴルの大草原で自在に馬を操るプージェーと出会ったのは平成12年秋。当時、まだ6歳でありながら、遊牧民としてのプライドや誇りを強く持った彼女に魅せられた関野は以来、5年間にわたって再訪を重ね、プージェー一家と家族同然の仲になる。

だが、この間にモンゴルの近代化は急速に進み、一家も馬の盗難、家畜の餓死、最愛の母の死など、押し寄せる時代の波の影響を次々受ける。一方、プージェーは関野との交流を通して日本に興味を抱くようになり、「将来は日本語の通訳になりたい」と目を輝かせていたのだが…。

プロデューサーの大島新は「モンゴルの少女が自立して“格好よく”生きられる社会が失われつつあるという現実は、われわれが経験した社会の変化と根が同じだと思う。人間を取り巻く環境の一端を、より多くの人に伝えることができれば」と話している。  (安藤明子)

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(参考) [プージェー puujee Official Site]参照
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by satotak | 2006-06-30 06:04 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルと日本と海

ザンバ・.バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

遥か700年前に来日した初めてのモンゴル使節
…モンゴル人はいつ初めてこの地[日本]に渡来したのでしょうか。モンゴルという名の部族集団は13世紀に明らかになったので、それ以前にはモンゴル人の祖先が別な名前で日本に来ていたのかもしれません。…
しかし、モンゴルという名前で日本列島に渡来した資料の存在は、後の13世紀に下ります。鎌倉にモンゴル人の碑があると聞いていましたが、行ったことはありませんでした。…

神奈川県藤沢市の常立寺(注1)という小さなお寺にその立派な石碑は建っていました。フビライ・ハーンが遣わしたトーシジン(杜世忠)、ケウェネヌゥ(何文著)、ソ・チャン(徐賛)など5名の使者の記念碑で、彼らが斬首される前の辞世の詩も刻まれています。大きな記念碑の前にある小さな五つの石碑の中央にあるのが使節団長であったモンゴル人の碑であろうと推測できます。30歳を過ぎたばかりのモンゴル人、高麗人、漢人、ウイグル系の人で構成された使節団であり、団長のトーシジンは34歳の教養の高い勇敢な若者であったと研究者は記しています。使節団は、出発時には4人でしたが、1275年3月(注2)に高麗に到着すると、そこで日本語をよく解するソ・チャンが加わり、4月に長門の国の室津(山口県豊浦町)に到着しました。彼らが行き先を変更して室津に来たことに日本側は疑いを強め、3か月間の監視の後、8月に鎌倉に移送しました。そして北条時宗の命により、1275年9月7日、竜ノロで首を刎ねられたのです。

「モンゴルなどという国は聞いたことがない」
彼らはフビライ・ハーンが遣わした初めての使節ではありませんでした。フビライ・ハーンは、初めての全権使節を1266年11月に日本に送っています.しかし彼らは対馬の近くのコジェ(巨済)島で嵐に遭い、年が変わるまで待機していましたが、嵐がやまないので1267年1月にカンファ(江華)に戻りました.

日本の地に初めて足を踏み入れたのは二度目の使節で、1267年11月に対馬に到達し、守護代宗助国の案内で1268年7月に太宰府に着きました、彼らは1266年8月付のフビライ・ハーンから日本の天皇に宛てられた国書を携えていましたが、返書を得ることはできませんでした。日本側は友好関係締結を提案する背後に威嚇とも思える内容を含んでいるとし、国書も贈物も認めなかったのです。
フビライ・ハーンの国書は奈良の東大寺に保管されており、2000年2月にモンゴルのトムルオチル国会議長(当時)訪日の際、その写しが公式に手渡されました。

フビライ・ハーンの3回目の使節は1268年に遣わされました。当初8名で出立しましたが、高麗で4名が加わり、さらに十数名の従者を含めたこの使節団は1268年12月に高麗を出発し、翌年初めに対馬に着きました。この使節団の目的は日本の軍事力の偵察であったことを日本側は気づいたようで、さらなる移動を制限し、受け入れを拒否しました。彼らは対馬の塔二郎、弥二郎という二人の住民を連れて帰りました。当時の都であったハーンバルガス(現在の北京)で2人を迎えたフビライ・ハーンは「日本人とは化け物と聞いていたが、貴方たちは私たちと変わらない顔の、赤い皮膚をした人間ではないか」と述べたと言われています。その後、2人はハーンバルガスの街並みや宮殿を案内されました。思うに偉大なる皇帝であったフビライ・ハーンは、自分たちと変わらない顔つきの日本人を見て親近感を感じたのではなかったでしょうか。

この二人の日本人を含めた第四次使節団は1269年7月に高麗のカンファに来ました。その年の9月に対馬付近の小島に到着し、対馬の守護職がフビライ・ハーンの国書を鎌倉幕府に届けました。興味深いのは京都の朝廷がフビライ・ハーンの国書に返書を起草していたことです。返書には「我が国は天照皇大神から今上天皇まで神に護られ、国が造られてから外国の支配に屈したことはない(中略)。武器を持って闘うことを望まない。貴国はよく考慮されたし」と記され、また「かつて我が国は中国と友好関係にあったが、モンゴルの名前は聞いたことがない」と、一方で説得を試みながら、他方で一瞥もくれないような内容で起草されましたが、鎌倉幕府はこの返書を使節団に送ることを拒否しました。注意深かったのか、必要無いと思ったのかはわかりません。…

しかし、フビライ・ハーンはすでに侵攻を決めていたので、1271年12月に偵察のための第五次使節を遣わしました。この使節は女真族の官吏であったヂャオ・リャンビ(趙良弼)を団長として、以前に捕らえられた2人の日本人が通訳として加わっていました。この頃、日本国内は混乱しており、京都の朝廷は単独での問題解決能力をほぼ失い、鎌倉幕府の支配が一層強まっていました。幕府では全ての権力を、20歳を過ぎたばかりの若き執権、北条時宗が握っていました。著名で影響力の強かった僧侶日蓮が捕らえられたのもこの時期です。日蓮が捕らえられた理由は、モンゴルの襲来を予言したからでしたが、モンゴルと柔軟な政策で交流することを提言したことが怒りを買ったという人もいます。この度の使節も返書を受け取ることはできませんでしたが12名の日本人に案内をさせて帰途につきました。帰国した後に彼らは日本の使節団であると語ったそうです。使節団長ヂャオ・リャンビは、1273年5月にハーンバルガスでフビライ・ハーンに謁見し、「日本の領土は美しく、山には木や水が多くあり、土地は肥えており、人々は勤勉、食べ物は豊富」と報告しました。…

海上での戦闘の準備は、モンゴル人自身がしたわけではないだろうという理解が広くされています。しかし、戦争のための船の建造や、戦闘に参加するモンゴル兵の拠点づくり、その場所の選択などに、朝鮮の歴史ではフートン(忽敦)として有名なホタクト将軍が指揮していました。ホタクト将軍は、開かれたプサンではなく、有利な点が多い閉ざされたマサン(合浦)を選び、そこで3万人以上を働かせて、3か月の間に9百隻の船を造らせました。

海を持たない海洋民
…フビライ・ハーンは遊牧騎馬民族のモンゴルが手中に収めていた陸の道海の道に繋いで、広大な帝国全土に陸海の交通網を張り巡らせ、経済活動を活発にするという壮大な構想を抱いていました。モンゴル時代の史実を記した明代の歴史書『元史』には、国が交易のために船と資本を商人に貸し与えたとあります。これは、南宗までの歴代の中国王朝には無かった、まったく新しい発想でした、

フビライ・ハーンは遊牧農耕航海という、人類の活動の三つの大きな流れを総合しようとしましたが、これを象徴するのが大都の建設です。大都は、海まで150キロメートル近くもある内陸に建設された都市でありながら、市街の真ん中に港を持っていました。人工的に造られた運河と自然の川を組み合わせて水運を可能にしたのです。運河の開通によって、遠くアフリカ、中近東、インドなどから多くの物資が大都に運ばれました。

こうして内陸の遊牧民族モンゴルの皇帝フビライ・ハーンが、古代文明の中心のひとつであるアジアの中国を水路によって他の大陸と結ぶ道を開き、後にモンゴル遊牧民の子ボローが、ピョートル大帝の治世に勢力を強めたヨーロッパの大国ロシアの首都を内陸および外部世界と水で結ぶ道を開いたということは、たいへん興味深い史実ではないでしょうか。

モンゴル帝国は海軍を強化し、1292年から1293年には太平洋諸国、ジャワ・スマトラにまで到達しました。同時に海上交通・貿易を促進し、東アジアとインド洋の東半分、スリランカに至るまでの広大な地域の国々と友好関係を結びました。モンゴル帝国の庇護の下にアジアの大陸と海を含む巨大なシステム化された交易圏が作られたのです、

歴史家によれば、モンゴルはフビライ・ハーンの治世の後半から、はっきりと「海上帝国」の性格を持ちます。この大帝国の二段階にわたる成長は世界史上の驚異であり、今もその意義は色褪せていません。

ですから今日のモンゴルは海に出口がないと嘆くのではなく、頭を使い、賢明な政策で国際海洋条約その他の国際法規に基づいて海に進出し、海上輸送や海洋資源の利用のチャンスを活かすべきなのです

(注1) 「常立寺の伝元使塚」参照

(注2) 1275年は、元寇と言われる「文永の役」(1274)の翌年に当たり、二度目の元寇「弘安の役」は1281年であった。
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by satotak | 2006-06-30 06:03 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルの人口

ザンバ・バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

人口の変動
…1990年代初頭、モンゴル自然環境省や大臣宛に自然保護に関する手紙が外国から、主にアメリカからよく届きました。その中には「モンゴル政府はユキヒョウの狩猟を外国人ハンターに許可しているが、世界的に稀少なこの美しい動物の狩猟は許されない、強く抗議する」という内容の手紙がたくさんありました。…

研究者によれば13世紀のモンゴル大帝国時代にモンゴル民族の人口は約200万人であったとされています。それ以降800年が経過した今日のモンゴルの領土に居住する人口は、200万を大きく超えることがありません。その間に世界の人口は数倍に増えているにもかかわらずです。国境を接する二つの超大国は大きく人口を増大させ、ロシアはモンゴルの約60倍、中国は約530倍の人口を養っています。日本の人口もモンゴルの53倍です。…

1920年代の史料によると、当時のモンゴルの地に生活していた人はたったの60万人、そのうち約10万人は妻を娶ることが許されない僧侶で、結婚していない成人女性が9万人以上いたそうです。そのため、20世紀初頭には、モンゴル人は絶滅への道にかなり近づきました。17~18世紀に強大な勢力を持ち漢民族やモンゴル・チベットを支配し、後に消え去ってしまった満洲民族の後を追う悲壮な運命が迫っていたのです。

このような時期にモンゴル民族の滅亡について、ユキヒョウと同じように心配してくれた人がいたでしょうか? 外国人はともかく、モンゴル人自身がこのことにどれだけ敏感であり、竈(かまど)の火と民族の未来を絶やさないためにどれほど闘ってきたでしょうか?

モンゴル人の歴史を、史実や社会現象の面からだけでなく、地理的な存立条件、環境・気候変動に関連づけて研究したロシアの研究者であるレフ・グミリョフは、国家や民族を人間と同様な寿命(生まれ、育ち、死ぬ)を持つとして、モンゴル人にはすでに500年の寿命しか残っていないという興味深い仮説を1980年代に発表しました。…

モンゴル民族をふり返れば
かつてモンゴルの地に居住していた人々は、原始共産制として数千年間を経た後、紀元前1000年代の末頃に階級制社会に移行し部族集団が形成されました。その社会生活は互いに同様ではなく、森の狩猟民、川の漁民、草原の遊牧民などでした。彼等がそれぞれの発展段階を経て13世紀を迎えます。1206六年にモンゴル統一国家が建てられたことにより、モンゴル人たちの間で戦争の危機が収まり、ばらばらであった状況が一転し、民族としての発展の道に入る可能性が開かれました。そのとき以降、ひとつの祖国とひとつの言語、共通の生活習慣を持つモンゴル民族となって確立していったとされます。しかし、その後、東西南北に分断し、その一部は遠くボルガ河(今日のロシア領)、青海(今日の中国領)付近を領土としました。独特の言語方言・生活習慣・知的文化を持つ多くの部族となり、それら全てをモンゴル系諸族と呼ぶようになります。

現在のモンゴル民族
現在のモンゴル国には20以上の部族を含むモンゴル民族が約240万人います。中国に400万人、ロシアに50万人、アフガニスタンに3万人、アメリカに2千人、フランスに千人など、世界中の国々に居住しているモンゴル民族の人口を合計しても650万人を超えません。
それでも、現在のモンゴル国の人口は、1920年代と比較すると4倍に増加し、今後も増加する傾向にあるので、モンゴル民族の寿命が500年で終わることはないと思われます。このことは天の神様に委ねることではなく、私たちモンゴル人自身に関わる問題です。「当人が努力すれば、運命も努力する」とモンゴルのことわざに言われるのは根拠のないことではありません。…

チンギス征西時には
...[チンギス・ハーンは]1218年には450名からなる大通商団をホラズムに派遣し、ムハンマド・シャーに「和議を結び、通商を拡大する」内容の申し入れをしました。しかし国境の町オトラルの長はムハンマド・シャーの命令により通商団の商品を没収し、通商団員を惨殺しました。450名のうちひとりだけが帰国してその事実をチンギス・ハーンに報告したため、チンギス・ハーンは怒りに震えましたが、殺害された団員を悼み、詳しい理由を知るために再びムハンマド・シャーにひとりのイスラム教信者と二人のモンゴル人からなる使節を派遣しました。ところがムハンマド・シャーは使節団長のイスラム教信者を殺害し、二人のモンゴル人の髪を剃って追い返したのです。…

1219年、チンギス・ハーンは大クリルタイを開きホラズム攻略を協議し、大軍を自身が率いることが適当であるとの決定を出しました。当時のモンゴルではひとりの考えによって全てが決定されていたのではなく、国家政策や精緻な行動体系が備わっていたことがわかります。人口200万に満たないモンゴル2千万の人口と40万の軍隊を持つホラズムを攻撃するとは、どんなに勇敢かつ知恵を必要としたことであったでしょう。この戦争に参加したモンゴル精鋭軍は8万、兵站任務にあたるなどの他民族の軍が6万、合計14万人でした。モンゴル軍はオトラルを廃墟にし、ブハラを占領し、職人以外の人々を殺害して寺院を破壊しました。さらにサマルカンドを征服し、多くの鍛冶職人を捕虜にしました。
これはその後の大遠征の序章でした。こうして人類史に「モンゴル時代」と名づけられる歴史のページが開かれ、戦争と抵抗、和平と破壊の時期が代わる代わる訪れることになります.この時代について書かれた本や芸術作品は無数にあります。…

仏教と人口
…元国の時代にフビライ・ハーンが国教と定め、16世紀にはモンゴルの中心的宗教になっていたチベット仏教は、モンゴルの運命にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。この問いにモンゴル人はさまざまな回答を与えています。

仏教の教えは、モンゴル人に激しさや荒々しさでなく(もともとそうであったわけではないでしょうが)、平安・寂静・忍辱(にんにく)など慈悲深い思想を備えさせるのに重要な役割を果たしました。もともと人口が少なく、生けるものが生存していくことが容易ではない厳しい自然や気候の中で生活している人々にとって真に適した哲学です。
しかし、貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴などの堪え忍ぶべき煩悩の中に、この世の成立する最も根源的原理である子孫を残す法則、男女の行為をも含めて、僧侶の妻帯を禁じたことは、モンゴルにとって良い結果をもたらしませんでした。

1921年の革命が始まった時期の外モンゴルの人口はわずか60万人で、そのうち10十万人が僧侶、9万人は成人独身女性であったというデータがあります。このような状況が長く続いていたなら、今日、モンゴルはいわんやモンゴル民族なるものが残っていたかどうか定かではなく、あるいは満洲族と同様の運命を辿っていたかもしれません。

いずれにしろ、私がモンゴル国を代表して日本に赴任し、読者諸氏と言葉を交わすような素晴らしい機会が得られたかどうかは疑問です。その意味で、「宗教はアヘンである」と言ったマルクスの言葉に従っただけでなく、モンゴル人へ及ぼした欠点も考慮して、1921年の革命後にモンゴルの党と政府は宗教に対して相当厳しい対応をしたのかもしれません。

しかし、反革命の温床として多くの僧侶を殺し700以上の寺院を破壊したことは、数百年間にわたるモンゴル民族の物質・精神文化の遺産を根こそぎ消し去りました。外国からの影響があったとはいえ、モンゴルの寺院はモンゴルの気候に適したモンゴルの資材を利用し、モンゴルの職人の知恵が詰まったモンゴル芸術建築でした。.寺院ではお経を読んで祈りを捧げるのみならず、写経・翻訳・出版、さらに文字の学習、薬の処方も行なわれていました。寺院は今日における学校・病院・コミュニティセンターの役割を果たし、人々が知的充電を行ない、心を清浄化する場所であったことは間違いありません。…
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by satotak | 2006-06-30 06:02 | モンゴル
2006年 06月 30日

ティムール -ウズベキスタンの象徴-

間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史⑧」(講談社現代新書 1977)より:

ティムールの出現
14世紀後半におけるティムールの出現と、彼による大帝国の建設は、中央アジア史上にかつて例を見ず、またその後にも例を持たぬ、文字通り稀有の出来事であった。中央アジアのオアシス地帯の住民は、ティムールの出現によって、そのながく苦しかった被支配民族としての立場から脱却して、広大な領域を持つティムール帝国の支配民族としての立場を獲得する。そして広大な帝国の中心地となったマー・ワラー・アンナフルには、世界の富と文化が集中し、そこにはモンゴルの侵入によってもたらされた怖るべき荒廃にかわる、未曾有の繁栄が見られた。…

ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュの近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の5代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガタイ・ハーンの輔佐役として、ハーン家内部の諸間題を取り扱った有力者であった。しかし、カラチャルの子のイジェル・ノヤンという者が、チャガタイ・ハーン国の領域を去ってイランのイル・ハーン国の領域に移住したりしたこともあって、この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。

ティムールが生まれた頃…ティムールの父タラガイも、わずかに三、四人の従者をもつのみの小身であり、その結果ティムールもはじめは手元に四、五人の従者しか持たぬ貧しい遊牧民であった。そのためティムールは、その青年時代を、もっぱら羊とか馬の略奪を事とする盗賊として過ごしていたが、その間に、もって生まれた指導者としての才能を発揮して、自分につき従う盗賊団の仲間の数を徐々に増やしていった。こうして、300人とか500人といわれる盗賊団の首領として、各地を略奪してまわっていた頃、モグーリスターンから、トゥグルク・ティムール・ハーンが軍をひきいてマー・ワラー・アンナフルに侵入し、分裂していたチャガタイ・ハーン国の一時的な統一に成功した。

ティムールはこの機会をとらえ、1360年(または61年)、トゥグルク・ティムールに帰順して、彼の属するバルラース部の領地であったケシュとその周辺地帯の支配権を獲得した。これがティムールの政治的活動への第一歩であった。しかし、それ以降、1370年にいたる
およそ10年間は、ティムールにとってもっとも苦しい時代であった。すなわちこの10年間には、いったん帰順したモグールと袂を分って、モグールに対する抵抗運動に従事する一方、バルフを本拠とした有力者アミール・フサインと、時に同盟し、時に敵対するなど、変転きわまりない日々を送った。そして1363年ごろには、イラン東部のシースターンで右腕と右脚に終世の傷を受けるなど、苦難の日々を体験せねばならなかった。

しかし、この苦難の日々にも盗賊時代以来の彼の部下たちは、彼につき従い、彼を見捨てることがなかった。そして、これらの仲間を中核とする彼の軍隊は、ついに1370年、バルフにアミール・フサインの軍隊を打破り、フサインを殺害して、ティムールをマー・ワラー・アンナフル唯一最高の実力者として承認した。
ただしティムールは、自らがチンギス・ハーン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミシュというチンギス・ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス・ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス・ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終世ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、あるいはアミール・サーヒブ・キラーンと呼ばれる…。

ティムール帝国の建設
1370年、マー・ワラー・アンナフルの統一に成功したティムールは、以後彼が死没する1405年までの35年間、絶え問のない遠征を敢行して、日の出の勢いのオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ、東は中国の辺境から西は小アジアまで、南はインド北部から北は南ロシアの草原地帯に至る広大な世界帝国を建設する。このあいつぐ遠征によって成立したティムールの国家の領域の概要は、直轄地としてのマー・ワラー・アンナフルを中心に、彼の一族が分封されて直接支配に当ったフェルガーナ、アフガニスターン、ホラーサーン(…)、アゼルバイジャーン(…)の四大直接支配地と、小アジア、エジプト、シリア、南ロシヤ、アルメニア、ジョルジア、シールワーン、北インド、モグーリスターンなどの広大な間接支配地域(ティムールの宗主権を認める地域)より成り立っていた。
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ティムールの遠征は、モンゴルの遠征に勝るとも劣らぬ破壊活動の連続であり、バグダードにおける9~10万人の虐殺、…諸例が示すように、ティムールに対する抵抗は、あくことを知らぬ残虐さをもって報いられた。…

もっとも、ティムールの遠征を、ただ破壊活動の連続とのみ見なすことは、ゆきすぎである。なぜなら、ティムールは抵抗を示さぬ都市に対しては、その市民たちから生命保証金(マーリ・アマーニー)をとりたてることによって満足し、それらの都市を破壊・略奪することはしなかった。…アフガニスタンのカーブル付近における灌漑設備の整備など、その遠征地においても少なからざる建設事業を行なっている。

しかし、ティムールがもっとも力をそそいだのは、首都サマルカンドを中心とするマー・ワラー・アンナフルの充実であった。彼はサマルカンドに、モンゴルの侵入以来失われていた堅固な城壁を築く一方、征服地から連行した当代一流の職人、芸術家たちを駆使して、各地に大規模な建造物を建設させた。征服地からは、また当時のイスラム文化の精華ともいうべき、すぐれた学者たちをサマルカンドに移住させ、サマルカンドを文化的にもイスラム世界の中心地とすることに努力をかたむけた。…

ティムールは、…イスラム世界が生んだ最大の思想家イブン・ハルドゥーンの目にも、彼は「すこぶる知的で、すこぶる明敏な」人物に見えた。…そして何人も、その「稀有の気性と深み」の底にあるものにふれることはできなかったといわれる。

なぜ世界帝国をつくりえたか
…ティムールの驚異的な成功は、遊牧民の軍事力と、定住民の経済力という、二つの基盤の上にきずかれたと見ることができる。しかもティムールの時代、この二つの基盤は、北方の草原地帯と南方の定住地帯という、隔絶した二つの地域からではなく、マー・ワラー・アンナフルという一つの地域の中から調達することができた。つまり、トルコ化・イスラム化しつつも、なお遊牧民としての特性を失ってはいなかったチャガタイ人が、マー・ワラー・アンナフルの定住トルコ人、イラン人と交錯して存在していたという、その時代のもった特異性が、ティムールの成功をみちびきだした最大の原因であった。
その意味において、ティムールは、中央アジア史上に常に見られた遊牧社会と定住社会の相互依存関係を最大限に利用して、その関係の中から最大のエネルギーをみちびきだすことができた人物であったといえよう。すなわちわれわれは、ティムールの成功の中に、中央アジアの遊牧文化とオアシス文化の類まれなる結合を見る。...

象徴としてのティムール 
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男))

ティムール朝の滅亡後も,英雄ティムールの記憶は中央アジアの年代記や民衆文学の中に鮮明にとどめられた.20世紀に入ってムスリム知識人の間に民族的な覚醒が始まると,ティムールはナショナリズムの象徴として現れるようになった.ロシア革命期にトルキスタン・ナショナリズムを鼓舞したフィトラトは,その作品でティムールのイメージを効果的に用いたが,こうした作品は1920年代末から〈過去の理想化〉や〈汎テュルク主義〉の実例としてプロレタリア文学派からの激しい批判にさらされた…..ソ連史学では,〈侵略者〉や〈人民の抑圧者〉とされ,〈偉大な学者〉ウルグ・ベクや〈ウズベク古典文学の父〉ナヴァーイーとは対照的に否定的な評価を受けたが,ソ連からの独立後ウズベク人の民族的な英雄となった.独立2周年にあたる93年9月,タシュケント中央の公園にはそれまでのマルクス像に代わってティムールの勇壮な騎馬像が建てられた.〈独立国家理念〉の普及を図る政府にとって,かつてウズベキスタンの地を基盤に強大な国家を建設したティムールは,この上ない象徴なのである。
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by satotak | 2006-06-30 05:04 | モンゴル