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カテゴリ:モンゴル( 22 )


2006年 06月 30日

モンゴル建国800年 -今、モンゴル人の意識は?-

モンゴル高原を統一したテムジンが、1206年春、オノン河の水源地に部下とモンゴル高原の遊牧部族・氏族の代表者を召集して大会議(クリルタイ)を開催し、その席上、全員の支持を受けて最高指導者つまりハーンに選出された。そしてテムジンの義弟にあたる大シャマンが、「勇猛な」という意味の古いテュルク語「チンギズ」から借用して、チンギス・ハーンという称号を授けたという。

f0046672_8512646.jpg今年は、そのチンギス・ハーン即位からちょうど800年モンゴル国ではそのためのWebサイトも立ち上げ、様々な行事が行われている(左はそのロゴマーク)。
はじめは観光客を呼び込むためのキャンペーンかと思ったが、それだけではないらしい。行事予定を見ると、いろいろなイベントが目白押しである。

しかし、現在のモンゴル人にとって、チンギス・カーンとはどんな存在なのであろうか。そしてモンゴルの歴史をどのように理解し、感じているのだろうか。また学校教育の中ではどんな歴史が教えられているのか。
岡田・宮脇両氏の対談「モンゴルとは何か」では、一党独裁体制から抜け出したものの、「歴史を失った」とでもいうようなモンゴルの混沌とした状況が語られていたが、あれから3年。モンゴル人の意識に何か変化があったのだろうか。

駐日モンゴル大使館Webサイトの冒頭、「ご挨拶」の中でザンバ・バトジャルガル大使が、「遊牧民族であるモンゴル人は世界の文明の発展を二度にわたって大きく押し進めました」と述べ、「チンギス・ハーンが建設したモンゴル統一国家」のほかに、「モンゴル人の祖先である匈奴(きょうど)」を挙げているのが興味深い。

ところで、今から44年前の1962年は「チンギス・ハーン生誕800年」であった。そして当時のモンゴル人民共和国では…

モスクワと北京との間で (Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より)
…1962年1月に開催されたモンゴル人民革命党中央委員会第二回総会で、チョイバルサンに加えられたと同様の新たな非難がツェデンバル政権に突きつけられたことは明白である。1959年、ツェデンバルを含む党指導者たちを「新しい条件下で古い労働のやり方」で進めていると激しく批判した党の新星D・トゥムルオチルは、ツェデンバルの最大の敵と考えられていた。ツェデンバルはトゥムルオチルを引きずり降ろす好機を待っていた。

チンギス・ハーン生誕800年記念祝賀をめぐる論争がモンゴルの党内抗争に火をつけた。当時政治局員であったトゥムルオチルの積極的な参画で、この記念祭は1962年5月から6月にかけて全国的に慶賀するよう準備が進められた。記念碑が建てられ、記念切手が発行され、また学者たちの祝祭会議が行われた。しかし、ソビエト政府はある種の民族主義の危険な復活を懸念し、出来る限り祝賀を抑圧した。

ツェデンバルはこの状況を利用し、トゥムルオチルが「民族主義的」行動をとっていると非難した。トゥムルオチルは暗に中国寄りとされることで1962年9月に追放された。その当時、ツェデンバルはますます疑い深くなり、忠誠心の疑わしい人たちを相次いで追放した。…チョイバルサンとは異なり、ツェデンバルは彼らを迫害せずに辺境へ終身追放した。…
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by satotak | 2006-06-30 05:03 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルの今

生駒雅則著「モンゴル民族の近現代史」(東洋書店 2004)より:

モンゴル民族の分布状況
古来、遊牧生活を送ってきたモンゴル民族は、ユーラシア大陸に広く分布している。現在の「モンゴル国」(旧モンゴル人民共和国、いわゆる外蒙古)には17部族250万人が居住し、総人口の70%余りを占めるハルハ族を除くと、大部分が西北部に住む。特にホブド地区には、カザフ族など非モンゴル系少数民族も居住する。モンゴル国以外では、ロシア領にカスピ海沿岸のカルムイク族(約20万人)やバイカル湖沿岸のブリヤート族(約50万人)が、中国領ではフルンブイル(呼倫貝爾、別名バルガ)を含む内モンゴル自治区(ダグール族約28万人、その他約400万人)や新彊ウイグル自治区(オイラート系諸族約16万人)、さらに雲南省やチベット自治区にも居住する(分布図参照)。
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モンゴル国は西高東低の高原の国で、標高平均約1,500メートル、気候は典型的な大陸性・高山性で降水量もわずかであるが、西部ホブド地区と北部フブスグル地区ではシベリアの湿気と高山の雪解け水で河川や湖沼が多く、比較的水量に恵まれ、森林や草原が発達している。東部と対照的に水と動植物に恵まれた西部モンゴルでは、「林の民」と呼ばれた人々が、遊牧だけでなく狩猟や農耕にも早くから従事してきた。一般にラマ教(チベット仏教)の影響で農耕はタブー視されてきたが、西部モンゴルのトルベート族などは農耕に従事する。自然環境や生活様式・習慣の相違は、モンゴル民族の間に東西の差異を生み出す原因の一つとなった。

東部モンゴル人は、ハルハ族を中心に、北部のブリヤート族、バルガ族や南部のトゥメト族、チャハル族などに分かれる。現在のモンゴル国は大部分が東部モンゴル人、特にハルハ族から構成されている。…

西部モンゴル人は自称「オイラート」で、…ロシア人やムスリムは「カルムイク」と呼ぶ。清朝初期にはホショト、ジュンガル、トルベート(デルベト)、トルグートで「ドルベン(四)・オイラート」を形成したが、1676年に「ジュンガル王国」が成立すると、その強大化と相次ぐ戦争を避けて、17世紀前半にトルグート部はヴォルガ沿岸へ、ホショト部は青海へ走った。一方、乾隆年間にホイト部とチョロス部がドルベン・オイラートに入った。ジュンガル王国滅亡(1757年)後にヴォルガ沿岸から「イリ帰牧」を遂げたのが「旧トルグート」で、ヴォルガに走らなかったものは「新トルグート」と呼ばれる。
ここに西部モンゴル諸族間の対立関係が見てとれる。ジュンガル王国の支配者ジュンガル部とそれに従ったトルベート、ホイト、チョロス各部に対して、ジュンガルの支配を拒んだトルグート、ホショトが対立した。また新旧トルグート間の対立は清朝の支配下において一層深まり、1907年の「ホブド・アルタイ分治」で固定化される。

1918年の「自治モンゴル」第1回国勢調査によれば、中国人100,000人とロシア人5,000人を除く総人口542,000人の内訳は、ハルハ492,000人(90.7%)、トルベート39,000人(7.2%)、ザハチン4,500人(0.8%)、エルート3,000人(0.6%)、ミンガト2,000人(0.4%)、ホトン(カザフなど回族)1,500人(0.3%)である。ハルハとホトン以外はいずれも西部モンゴル人であり、主として西部辺境ホブド地区に居住していた。

西部モンゴルの複雑な住民構成が清朝の支配に利用され、その分割統治によって強化・固定化された民族・部族聞の対立は、モンゴル人民共和国の形成に種々の問題をもたらすことになる。特にトルコ系ムスリムの存在は1924年のモンゴル人民共和国成立後も民族問題として残り、…1990年代に多数のカザフ族がカザフスタン共和国に移住した。...

民主化運動の高揚と「モンゴル国」再興
1952年から1984年まで30年あまりにわたって独裁体制を維持してきたツェデンバル政権時代が、ペレストロイカの流れの中でようやく終わり、1989年の米ソ冷戦終結とその後のソ連邦解体によって、モンゴル人民共和国でも民主化運動が進展し、民族意識も高揚し、ソ連離れが進む。

1989年12月にゾリックを長とする「モンゴル民主同盟」が「シネチレル(ペレストロイカ)」と民主化・人権尊重を要求して立ち上がり、初めて反政府デモを行った。民主同盟には学生、作家、芸術家など知識人が結集していた。「モンゴル民主化の星」といわれたゾリックは当時27歳の大学院生で、次期首相候補と期待されていたが1998年10月2日に何者かに虐殺され、未だに犯人が逮捕されていない。

1990年1月21日に当局の禁止令を無視して7,000人の市民がスフバートル広場に集まり、2月18日に初の野党「モンゴル民主党」が結成された。これを契機に「社会民主党」など新しく政党が続々と誕生する。1990年3月12日のモンゴル人民革命党中央委員会臨時総会でその全政治局員が辞職し、オチルバトら4人の新政治局員を選出した。21日の国民大会議で議長にオチルバトを選出し、一党独裁の放棄、複数政党制の新憲法を採択、新選挙法を承認した。

第1回総選挙が1990年7月に実施された結果、小選挙区制による国民大会議は、定数430に対して、人民革命党が357人(83%)を占めた。政党別の比例代表制による国民小会議は、定数50に対して、…野党が約4割の票を得た。
1990年9月の国民大会議で初の大統領選挙が行われ、人民革命党のオチルバト人民大会議幹部会議長が選ばれた。新首相ビャムバスレンは国営企業の民営化を手始めに市場経済化に着手した。…

1991年4月21日にツェデンバル元国民大会議幹部会議長・人民革命党書記長がソ連で死去した。ツェデンバルは1952年1月のチョイバルサン死去により、同年5月首相に就任し、1974年から国民大会議幹部会議長を務めた。国際派・親ソ連派として知られた彼は1958年に民族派・親中国派を追放し、1979年には国防会議議長も兼務して党・国家・軍を掌握したが、1984年8月に解任され、ソ連で暮らしていた。彼の死は、独裁から民主化へ向かう新生モンゴルを象徴するものであった。

1992年2月発効の新憲法で、マルクス・レーニン主義の放棄、「モンゴル国」への国名の変更、国旗・国章のデザイン変更、大統領の直接選挙制、一院制議会、私有財産・市場経済の保障などが規定された。国名の変更は1912年の「モンゴル国」再興を意味する。
新憲法に基づく1992年の総選挙では、定数76に対して人民革命党が71名を独占した。1993年の大統領選挙はオチルバトが60%の得票で再選されたが、今度は野党統一候補としてであった。
人民革命党が初めて野党に下ったことで、民主連合政府は急速な民主化を推進しようとしたが、少数与党のために改革は混乱続きであった。…政治の腐敗も次々と暴露され、改革の鈍化と経済の混乱は、国民大衆に、民主改革に対する情熱を薄れさせ、生活の安定を求めるようになった。

1996年の第2回総選挙では野党民主連合が国民大会議で多数派を占めたが、1997年の大統領選挙では人民革命党候補バガバンディが勝利した。さらに2000年の第3回総選挙では人民革命党が圧倒的多数を占め、2001年の大統領選挙で人民革命党候補バガバンディが再選されて、議会も大統領も人民革命党が権力を握ることになった。今や一時の民主化熱が一段落し、高いインフレに苦しむ国民が現実路線を選択した。

1997年7月制定の「1997~2000年の国有財産私有化プログラム」により1999年6月時点で864企業と286の不動産の私有化が実施されたが、人民革命党の抵抗で同年10月に「私有化保留国有財産リスト」が作成されるなど、民営化はあまり進んでいない。

粛清追悼記念館の創設
民主化のテンポは緩和されたが、もはや政治的民主化の波を押しとどめることはできない。…
モンゴルで大粛清が開始された1937年9月10日を記念して、9月10日を「政治粛清被害者追悼記念日」と制定し、1993年…「粛清追悼記念館」創設が決定された。…
粛清追悼記念館創設の目的は、共産主義独裁期に祖国を追われスパイの汚名を着せられて殺された…人々の無罪・名誉回復と歴史的真実の正しい理解、人権・自由尊重精神の育成にあるとされる。
展示の概要を紹介すると、①故ゲンデン首相の使用品と政治思想を示す文書などを展示する部屋、②粛清された約12,500人の名前を金文字で刻印するホール、…

人民革命党は、自らが粛清の被害者であり、ソ連の圧力で粛清が行われたとして責任逃れの発言を繰り返してきたが、2000年9月10日の粛清記念日にエンフバヤル人民革命党党首・首相が初めて正式に謝罪し、補償事業の継続を表明した。モンゴル最大の『日刊新聞』(2000年9月9日)は、1990年から10年間に30,000人の名誉が回復され、10,324人に総額86億2,400万トグルクの補償が支給されたと報じている。…
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by satotak | 2006-06-30 05:02 | モンゴル
2006年 06月 30日

20世紀以前のモンゴル -モンゴル人の歴史認識-

Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より:

…遥か昔の話ではなく、最近までのひどくゆがめられた歴史を振り返ってみよう。…後に「世界の征服者」と呼ばれる有名なチンギス・ハーンが、13世紀にすべてのモンゴル民族を統一し、初めてモンゴル国家を成立させ、仏教を取り入れたことを知っているであろう。その子孫は、やがて朝鮮半島からハンガリーに至る広大な帝国を築きあげた。彼の孫フビライ・ハーンは中国に元王朝(1279-1364)を建国した。

しかし、モンゴル勢力の絶頂期はそれほど長くは続かなかった。14世紀の半ば頃に、この一大帝国は分裂を始め、モンゴル人は万里の長城の北方の故土へ撤退せざるを得なくなった。モンゴル人がたやすく撤退できた大きな理由の一つは、彼らすべてが乗馬に優れていたことによる。その上、彼らの広大な領土は、北からの脅威のないゴビの北にあり、まだ安全であったからである。しかし、17世紀も終わり頃になると、モンゴル人はロシアによる東方への勢力拡大に脅威を感じはじめ、間もなく彼らの移動の自由は大幅に制限されるようになる。

元王朝崩壊後、モンゴル人は暫らく故土に引き下がり、北元を建国した。その後、大きく二つの集団に分かれ、東部は東モンゴル(ハルハを含む)、西部はオイラト・モンゴルと呼ばれた。両者は自分たちこそがハーン王位の正当な後継者であると主張しあい、その紛争解決のために内戦が長引いた。東モンゴルの支配者ダヤン・ハーンの軍は1500年前後、オイラトを破り、暫くの間モンゴルを再統一した。敗れたオイラトは北西に移動し、アルタイ山脈の周辺で名高いジューンガル帝国を樹立した。

ダヤン・ハーンと彼の孫たちは伝統的な支配体制を引き継ぎ、東モンゴルの南部地帯からゴビの南部に神経を集中させた。ダヤン・ハーンが、人民と領地を息子たちに封土として分け与えたが、その多くは南モンゴルであった。ただ、末子のゲルセンゼだけにはゴビの北方にある遠隔地を与えた。そこは後に北モンゴル、あるいはハルハ・モンゴルとして知られるようになる。ハルハは南モンゴルに比べて弱体で後進的であった。だが、17世紀になると、満州族がモンゴルの東部で蜂起し、モンゴルを行政的に二分割することになった。満州族は中国に清王朝を樹立し、1636年、まず南モンゴルを従属させ、1691年までに北のハルハ・モンゴルを服従させたのであった。

ハルハ・モンゴルはトゥシェート、ザサクト、セツェンの三つのハーン領から成っていた。東部と西部との間で絶えず内紛が続き、弱体化していた。…満州皇帝はハルハとオイラトの争いを、いずれは併合しようとして関心を持っていた。…その戦闘(1688-1691)で[オイラトの]カルダン・ボショグトに敗れたハルハの統治者たちは、南モンゴルの国境周辺に逃れた。

なぜハルハの統治者たちがロシアでなく満州帝国[(清朝)]に同盟を求めたのかという伝統的な理由は、第一代ジェプツンダンバ・ホトクトの主張によると言われている。それは満州人が同じ信仰を持つラマ教徒であり、モンゴル人と似た衣服を着ていたのに対し、ロシア人は異なる信仰を持ち服装も異なっていたからである。その当時、ロシア人とモンゴル人とでは伝統、習慣、言語、宗教に大きな違いがあったことを理解されたい。一方、満州人はモンゴル語に近い言葉を話していたし、また、満州語のアルファベットはモンゴル文字を採用した。ハルハの統治者たちが、満州皇帝と同盟(1691年のドロンノールの条約)を結ぼうとしたのは、自分たち独自の遊牧文化、民族的特質と宗教が保持出来ると考えたのは明白である。

モンゴルが公式に、南部(ウブル・モンゴル)と北部(アル・モンゴ)とに分割されたのは17世紀末にモンゴルが満州人の清朝の一部になった時である。その結果満州の統治者は、この二つのモンゴル全土を別々に取り扱った。その基準は、満州人が最初に服従させた当初のモンゴル諸侯の協調の度合いによる。南部モンゴル諸侯の協調はより強かったために、満州の統治者は彼らを内区(内蒙古)として扱い、それを49の旗(ホショー)に分けて満州軍と同様の募兵組織とした。北部モンゴルの諸侯は長い間抵抗したので外区(外蒙古)として取り扱い、34の旗に組織した(ハルハは後に86の小さな旗に分割された)。

内モンゴルの49旗と外モンゴルの86旗は、満州当局から任命された世襲諸侯によって統治された。満州人は、内、外両モンゴルの行政を監督する最高機関として、北京に理藩院(満州国の少数民族管理機関)を創設した。…彼らの忠誠心を最も確実にする方法は、満州皇帝一族の女性と結婚させることであった。

南モンゴルのトゥメドのアルタン・ハーンがチベット仏教の黄帽派を取り入れ、この宗派をモンゴル人の共通の信仰として支援した16世紀末以来、仏教の教えや戒律は、モンゴル遊放民の習慣や社会、その他さまざまな活動に大きな影響を与えた。チベット仏教のモンゴル版はラマ教と呼ばれ、その僧侶はラマ僧として知られている。
満州皇室の寛大な政策のもと、モンゴルの教会組織は大きく成長し、国家の中の国家と言われるほどになった。ハルハだけについて見ると11人の上位ホトクト(高位のラマ僧)とおよそ50人の下位ホトクトがいた。ホトクトは、世俗の封建貴族と同様に封建制度の特権を享受し、自分の領地内で権力をふるった。その結果、高位のラマ僧たちは、封建貴族とともにモンゴル社会の二大中心勢力となった。この両者間の権力争いも、また、モンゴルの近代史における主流である。

ラマ教徒の管理は、少なくとも一部分は理藩院の管轄下に置かれた。新しく転生したホトクトの承認、その公式任命、地位、称号、寺院の僧侶の数、あらゆるラマ教大寺院の管轄権といったすべての事柄について、理藩院が権限をもっていた。著名な転生した高位ラマ僧は、すべて6年ごとに自ら北京へ出頭し、順序に従って皇帝に対し忠誠の宣誓をするよう命じられた。ラマ教庁が北京に設立され、理藩院の指導のもとにラマ教行政を監督した。

北部、即ちハルハ・モンゴルの最高のラマ僧はジェプツンダンバ・ホトクトであることは良く知られている。その第一代と第二代の転生者は、ハルハ・モンゴルの四人のハーンの中で最も影響力のあるトゥシェート・ハーン家に現われた。つまり彼らはチンギス・ハーンの子孫だということになる。彼らはモンゴル政界で高い威信を持ち、モンゴルの精神的な指導者であった。その結果、満州宮廷は彼らの指導力のもとでモンゴルが再統一されることを恐れた。このモンゴルの再統一を阻止するため、満州皇帝は不文律の規制を発布した。この規制で、ジェプツンダンバ・ホトクトの三代目とそれ以降の転生者は、モンゴルではなくチベットで求められることになった。

問題の鍵は、なぜモンゴル人が200年以上も満州族、漢族に支配されながら、中国化されなかったのかということにある。辺鄙な場所、過酷な気候といった地理的要因を除外しても、文化や宗教が重要な要因であることに注目すべきである。文化面では、モンゴル人は彼ら自身、チベット仏教界の一部をなすと常に考えてきた。その結果、モンゴル文化には中国の儒教との共通点が多くない。さらに満州人は、モンゴルと強力な同盟関係を維持しようと考えたので、様々な反漢的な法律を採択し、かつ実施した。それらの法律は20世紀初頭まで効力があった。満州人は中国人がモンゴルの国境を越えたり、モンゴルで耕作したり、モンゴル女性と結婚することを禁じた。

ロシア帝国満州帝国[(清朝)]は、18世紀と19世紀の間、アジア内陸部への勢力拡大を図った。両国は17世紀に征服した大モンゴルのそれぞれの地域に境界を定めることが得策であると考えた。そこで、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約でその実現を図った。後者はモンゴルを分割して、清朝の支配地域とロシア支配地域に国境を設定した。

1850年代後半は、中国商人や北方モンゴルに定住しはじめた中国人に対して、満州宮廷は、その厳しい政策を次第にゆるめていった。…中国商人は、ホブド、ウリヤスタイ、ウラーンゴム、イフ・フレー[大庫倫、今のウランバートル]に集中した。ある推定では、19世紀末の北部モンゴルには、およそ500軒の中国人商店があり、10万人の中国人定住者がいたと言われる。彼らはモンゴル全域で商売をし、彼らの金融業はモンゴル国家財政をも脅かすほどのものになった。中国人の通商組織は全モンゴルを支配し、貿易額は北方モンゴルで1905年には5000万ルーブルと見込まれた。これはロシアの対モンゴル貿易額の6倍に当たる。

19世紀後半には、ロシアの商業勢力が北方モンゴルの全土に及び、かってないほど強力になった。1860年11月、ロシアと清当局との間で締結された北京条約によって、1861年イフ・フレーにロシア領事館が設けられた。ロシアの貿易商はイフ・フレーや張家口は言うに及ばず、遥か北京に至る地域での通商権を手にした。…1881年のサンクト・ペテルブルグ協定により1905年、ロシアはモンゴル西部のホブドに領事館を開設した。ロシアの対モンゴル貿易額は飛躍的に増加し、中国貿易との競争は激化した。モンゴルとロシアの貿易額は1861年にわずか10万ルーブルだったのが、1885年には170万ルーブルに増加し、1900年には1690万ルーブルにもなった。
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by satotak | 2006-06-30 05:01 | モンゴル
2006年 06月 30日

イル・ハン朝(フレグ・ウルス) - 「イランの地」のモンゴル

「地域からの世界史 第7巻 西アジア(上)」(朝日新聞社 1993)より(筆者:佐藤次高):

バグダードの攻略
…続いて北アジアに興ったモンゴル民族は、強大な軍事力を用いて周辺の諸民族を圧倒し、チンギス・ハンの孫フレグ(1218-65年)に率いられた一団は、13世紀の半ばから西アジアの征服に乗り出した(注1)。その使命はイスマーイール派の暗殺者教団とアッバース朝のカリフ政権を屈服させ、シリアから地中海へと進出することであった。
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フレグ征西軍進路 [拡大図]

ニザール派(過激イスマーイール派の一派)を興したハサン・サバーフ(1124年没)は、イラン北部の険しい山岳地帯にあるアラムート城を根拠地として各地に宣教員(ダーイー)を派遣し、…またイラン・シリアの要害の地を選んで山城を建設し、ここで訓練した献身者(フィダーイ)を都市に送り込んでスンナ派の要人を次々と暗殺した。…

イスラーム世界の解放者をもって任ずるフレグは、イスマーイール派の根拠地であるアラムート城を包囲し、これを落城させると異端に対する勝利宣言をイスラーム諸国に送りつけた。続いてイラクに進出したフレグは、バグダード包囲の体制を固めたが、伝統を誇るカリフの居城への攻撃にはきわめて慎重であった。…

…1258年1月からバグダードに対する総攻撃を開始した。最初の攻撃が行われてから20日後、アッバース朝第37代のカリフ・ムスタースィム(在位1241-58年)はフレグの前に投降し、絨煬(じゅうたん)に巻かれたうえで騎馬に踏み殺された(注2)。600年余りにわたって存続してきたカリフ体制の消滅は、多くのムスリムに計り知れないほどの衝撃を与えた。10世紀以降、マムルーク軍人の台頭と独立王朝の出現によってカリフ権力は衰え、バグダードの繁栄もすでに失われていたが、アッバース朝カリフは、「信者の長」として、なおスンナ派ムスリムによる敬愛の対象とされてきたからである。

イル・ハン朝の国家と社会
「平安の都」バグダードを攻略したフレグは、イラン、イラクの地にイル・ハン朝(1258-1353年)を樹立した(注3)。王朝の樹立後もフレグはさらに西進を続け、1260年には、北シリアの要衝アレッポを占領した。しかし地中海進出を目前にして、彼のもとに皇帝モンケの訃報がもたらされた。前進部隊はすでにダマスクスの包囲にとりかかっていたが、フレグはモンゴルの慣行にしたがって帰国を決意し、後事を将軍キト・ブカ・ノヤンに託した。これを受けてキト・ブカはダマスクスを支配下におくと、さらに南下してエジプトに進撃する準備を着々と推し進めた。

一方、新興のマムルーク朝側では、スルタン・クトズ(在位1259-60年)のもとに迎撃の体制を整え、シリアにいたマムルーク出身のアミール・バイパルスを先遣部隊の司令官に任命した。1260年9月、エジプトのマムルーク朝軍とモンゴル軍との戦いは、パレスティナの小村アイン・ジャールート(「ゴリアテの泉」の意味)で行われた。アラブの史書はモンゴル軍の数を10万、エジプト軍の数を12万と記しているが、実際には双方とも数万程度の軍勢であったらしい。いずれにせよ、イスラーム世界の命運を左右する勝負は一日で決した。バイパルスの率いるバフリー・マムルーク軍の活躍によって、スルタン・クトズは会心の勝利を収め、指揮者を失ったモンゴル軍は敗走を重ねてシリアの地を後にした。このアイン・ジャールートの戦いは、連勝を続けてきたモンゴル軍が味わう最初の敗戦であった。

イラク、イランに退いたイル・ハン朝は、ガザン・ハン(在位1295-1304年)のときに最盛期を迎えた。イル・ハン位をめぐる内紛と経済政策の破綻による国家の危機を克服し、イラン人の宰相ラシード・アッディーン(1247-1318年)の助けを得て、税制・軍制の改革を断行した。改革の主眼点は、ブワイフ朝やセルジューク朝で行われていたイクター制(注4)を施行することにあり、モンゴル軍人に徴税権を伴うイクターを授与することによって、彼らの生活の安定化をはかった。またガザン・ハンは自らイスラームに改宗して、支配階級であるモンゴル人とイラク、イランに住むイスラーム教徒との融和に努めた。

f0046672_11485656.jpgイル・ハン朝の中興の祖となったガザン・ハンは、モンゴル語のほかに、ペルシア語、チベット語、中国語などにも造詣が深く、さらに歴史学、医学、天文学、化学など広い範囲の学問に通じた名君であった。また宰相のラシード・アッディーンも、セルジューク朝のニザーム・アルムルクにならって、イラン社会に適合したモンゴル支配体制の確立に努め、ペルシア文学史上の傑作と讃えられる『集史』を著した。首都タブリーズには、イラン人の学者ばかりでなく、中国人、インド人、ヨーロッパ人の学者も招かれ、ここに学芸の一大センターが出現した。しかしガザン・ハンとラシード・アッディーンの二人が没すると、国力はしだいに衰え、特に1335年にアブー・サイード・ハン(在位1316-35年)が没すると(注5)、国内には有力アミールが乱立する状態となり、イル・ハン朝政権はここに事実上崩壊した。

(注1) フレグの征西軍は1253年秋、モンゴル高原を出発。本隊はアム河まで非常にゆっくりと進軍し、その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。アム渡河の決行は1256年1月1日。

(注2) モンゴルが貴人の命を奪うときの習慣

(注3) イル・ハン朝:創始者であるフレグの称号イル・ハンが継承されたためこう呼ばれる。フレグ・ウルスともいう。

建国時期について、杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)」(講談社現代新書 1996)は、「…皇帝モンケ他界の報が飛び込んできた。フレグは、ただちに帰還を決意した。…タブリーズまでとって返したとき、クビライの即位を知らせる使者が到着...。フレグは当面、帝位をあきらめた。代わりに、そのまま「イランの地」に留まり、遠征軍をもとに西アジア・中東に独自の勢力圏を築こうと決意した。…1260年のこの時をもって、「フレグ・ウルス」の誕生とする。これまで、ともすれが、1258年のアッバース朝滅亡を境に成立したかのような記述や年代区分けがされている。それは…イスラーム研究者達の…当然とも言える心情が投影…。しかし、それは事実ではない。」と述べる。

また「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)では、「1256年、イラン総督のアルゲンがモンゴル本国に召還されたのを機に、征西中のフレグはジュワイニー家の助けを得て政権を掌握した。」として、1256年をイル・ハン朝の始期にしている。

(注4) イクター制:配下の軍人にイクター(分与地)を授与し、その土地の農民から直接租税を徴収させる制度。イクター保有者(ムクター)には、土地の所有権はなく、政府によって定められた税額を徴収する権利だけが認められた。

(注5) アブー・サイードが没すると、フレグ裔が断絶した。
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by satotak | 2006-06-30 04:09 | モンゴル
2006年 06月 30日

トプカプの『集史』

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社現代新書 1996)より:

トルコ共和国のイスタンブル。オスマン朝の故都である。…その旧市街のトプカプ宮殿は、オスマン朝の故宮である。たくさんの観光客でにぎわう一角に、石造りのごくささやかな図書館がある。ここだけは、訪れる人もなく、ひっそりとしている。オスマン朝の600年のあいだ蒐集されたさまざまな書籍・古写本が眠っている。モンゴル帝国の研究にとって、最も根本となる最古・最良の古写本が、ここにある。

ラシード・アッディーンの『集史』。ペルシア語で記されたこの歴史書は、人類史上、最大の歴史書と言ってよい。『.集史』は、イラン方面におけるモンゴル政権の「フレグ・ウルス」、俗称イル・カン国でつくられた。

西暦1295年、軍事クーデタで第七代目のフレグ・ウルス君主となったガザンは、イスラームに改宗し、国家の根本改造と行政改革に乗り出した。その改革を進めるヴァズィール、すなわち宰相として指名したのが、自分の侍医でもあったラシード・アッディーンである。西部イランのハマダーン出身のラシードは、実はユダヤ人であったとも言われる。ガザンとラシードの主従は、フレグ・ウルスの再興のため、力を合わせて邁進するかたわら、モンゴル帝国の歴史編纂にもとりかかった。

その目的は、いくつかあった。すでにチンギスの創業以来90年ほどの歳月が過ぎ去り、モンゴルはユーラシアの東西にまたがる文字どおりの世界帝国となっていた。しかし、そうしたモンゴルたち、とりわけフレグと共に「大西征」の軍隊として「イランの地」にやってきたモンゴルたちは、自分たちの由来や歴史について、次第にわからなくなり始めていた。
自分たちは、いったいどういう人間なのか。なぜ「イランの地」にいるのか。そして、東方の宗主国である「大元ウルス」をはじめ、その他のウルスにいるモンゴルたちと、どんなつながりや縁、あるいは血脈で結ばれているのか。

…「世界」に散らばる「モンゴル共同体」のすべての者たちに、広くモンゴルたることの自覚を呼び覚まそうとした。特に、自分の臣下であるイラン方面のモンゴルたちに対しては、現在の栄光と富貴のみなもとは、直接にはフレグとその血統を中心とする結束にこそあることを、訴えようとした。

ガザンがラシードに求めたのは、そうした「モンゴル史」の編纂なのであった。だから、そこにはかザンの政治上の立場と、彼自身の見解が、色濃く投影されている。ガザンは、単に編纂の命令者にとどまらない。半ば以上、ガザン自身が著者であり、編者であった。
編纂にあたっては、モンゴル帝室共有の『アルタン・デフテル』、すなわちモンゴル語で『金櫃(きんき)の秘冊』という秘密の史書も使われた。…数多くのさまざまな情報提供者も協力した。モンゴル各部族に伝わる「旧辞」や系譜なども、書伝と口伝とを問わず利用された。しかしそれにもまして、核心部分についてはモンゴルの諸事や秘事を熟知していたガザン自身の口述に基づくところが大きかったと、ラシードは記す。

編纂長官となったラシードは、スタッフに任せきりにすることなく、多忙をきわめる庶務のかたわら、みずからも夜明けとともに筆を執り、時には移動の際の馬の背でも構想を練るなどして、寸暇を惜しんで主人ガザンの期待に応えようと努力した。
しかし、ひとまずの完成を見る前に、1304四年、ガザンは激務の果てに、34歳の若さで他界した。しばらくして、ガザンの後継者となったその弟のオルジェイトゥに奉呈された史書は、『ガザンの歴史』もしくは『ガザンの幸いなる歴史』と名づけられる「モンゴル史」であった(…「幸いなる」と言うのは、すでに死去していたガザンヘの敬意を示す)。

実は、当時の情勢を冷静に眺めると、ガザンがこの「モンゴル史」…の編纂を思い立った時、フレグ・ウルスという遊牧民の連合体は、がたがたになっていた。国庫はほとんど空となり、遊牧騎士たちをつなぎとめるべき経済力も国家財政も枯渇に瀕していた。ウルスの創始者フレグが麾下の西征軍をもって1260年「イランの地」に事実上の政権を樹立して以来、これといった確かな国家機構を組み上げることなしに成り行きまかせにやってきたことのつけが、たび重なる内紛と相乗効果をなして、新君主ガザンの前に投げ出されていた。そうした国家と政権が伸(の)るか反(そ)るかという時に、かつての部族連合の「記憶」を呼び覚まさせるため、ガザンは「修史事業」に乗り出した。単なる「文化事業」では、とてもなかった。やむにやまれず、必要に迫られて、「モンゴル史」の編纂を企てた。むしろ、追いつめられていたからこその、歴史編纂であった。その意味で、かぎりなく政治色の濃密な「国家政策」であった。

しかも、そこにはもう一つ、ガザンの密かな思惑が秘められていた。ガザンの立場からすると、それまでのフレグ・ウルスの王位継承はあまりにも錯雑をきわめていた。ガザンの直接の祖父アバガ(第二代)、父アルグン(第四代)の歿後は、それぞれ弟に王統が移った。ガザン自身が「反乱」を起こして打倒した第六代のバイドゥは、まったくの庶流の人物であった。ガザンは、フレグ-アバガ-アルグン-ガザンと直系の長子による王統こそフレグ・ウルスの正統なのだと宣言したかった。そこで、その論理に拠って「フレグ・ウルス」の部分を編纂させたのである。もとよりガザン自身はクーデタによる不当な簒奪者ではなく、本来しかるべき正当な王位であり、「嫡統」ガザンのもとに今や推し進められようとしている国家改造こそ、フレグ・ウルスを再興せしめる聖なる勲(いさおし)だと主張しようとしたのである。

ところが、そのガザンが他界し、「モンゴル史」が出来上がろうとする間に、帝国と世界の情勢は大きく激しく変化していた。モンゴル帝国を揺るがした中央アジアの紛乱は、カイドウの死を境に、1303年から4年にかけて急速に鎮静化し、モンゴルの東西は完全に和合した。ユーラシア世界は、再び一つとなったモンゴルを中心に、ゆるやかな平和状態となった。人類史上かつてない巨大な地平が、そこに拓かれていた。

モンゴルの目からすれば、「世界」はモンゴルの手の中に握られているかのような状況となった。こうした帝国と世界情勢のいちじるしい変化をうけて、第八代フレグ・ウルス君主のオルジェイトゥは、さらにこの「モンゴル史」の他に、当時の「世界」の主な"種族"の歴史も追加編纂するよう、ラシード・アッディーンに依頼した。ガザン時代と変わることなく宰相の任を委ねられていたラシードは、当地の学者だけでなく、中国やカシュミールなどからの仏僧の他、キリスト教徒、ユダヤ人の学者などもスタッフに加えた。
人祖アダムに始まるヘブライの預言者たちと古代ユダヤの歴史、古代ペルシアの王朝史、
預言者(ペイガンパル)ムハンマドに始まるカリフたちの歴史、および、モンゴルが滅ぼしたホラズム・シャー朝やイスマーイール教団に至るまでのイスラーム諸王朝の歴史、伝説のオグズ・ハンに始まるトルコ族の歴史、やはり伝説の人祖「盤古」に始まり南宋最後の少帝に至る中国諸王朝の歴史、さらには、「フランク」という名のヨーロッパの歴史がつくられた。釈迦と仏教の歴史を含むインド史もつくられた。

ここに、ガザンの「モンゴル史」を中核に、さまざまな「世界」の諸地域の歴史をより集めた一大史書が、出現した。それは、モンゴルを中心とする「世界」をもはや当然の前提にし、そこに至る「世界の歴史」を、史上初めて体系化しようとするものであった。….西暦1310年ないし11年、オルジェイトゥに捧げられた拡大版の「新版」は、「諸史を集めたもの」の意味で、『ジャーミー・アッタヴァーリーフ』、すなわち『集史』と名づけられた。

『集史』は、時の権力者であるモンゴルが、ペルシア語でつくらせた巨大な「モンゴル正史」である。それとともに、14世紀初めに至るまでのユーラシア諸地域についての総合史ともなった。しかも見逃せないのは、その一方で、フレグ・ウルスとその再編事業に関して、ガザンとラシードという二人の当事者自身が語る、またとない完全同時代史という側面をも併せもつことである。ペルシア語の史書とはいうものの、実に数多くのモンゴル語、トルコ語の用語にあふれ、さらには漢語、ティベット語、サンスクリット、ラテン語などに由来する単語さえも使われている。

もし『集史』がなければ、モンゴル帝国史は語れない。そればかりか、中央ユーラシアに展開したトルコ・モンゴル系の遊牧民たちの歴史も、再構成が難しくなる。そしてイスラーム史・イラン史も、実は大きな史料源を失うことになる。『集史』は人類史上、空前の史書であった。そして、その後も、実はその規模と視野の広大さ、加えて何よりもそのデータのもつ根本性において、これに匹敵する歴史書はつくられていないと言って差し支えないのではなかろうか。まさに、モンゴルという未曾有の政権と時代であったからこそ出現した、未曾有の一大歴史編纂物であった。
それはまた、モンゴルが、「世界」というものを明確に意識していた紛れもない証拠となる。…
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by satotak | 2006-06-30 04:09 | モンゴル
2006年 06月 30日

歴史を失ったモンゴル

「刀水 No.7」(刀水書房 2003.8)より:
(岡田英弘・宮脇淳子対談「モンゴルとは何か?」 )

モンゴル人が「モンゴルの通史」を初めて読む!
 ○ …「その国の歴史」というとき、日本とモンゴル国ではずいぶん違うらしいと知りまして、…きっかけは宮脇先生の『モンゴルの歴史』を先頃刊行した折に、「帯に『初めてのモンゴル通史!』と入れてよいですか?」と先生にお訊ねしたことです。私たち日本に生まれた人間にとっては、通史というか、先史時代から今までを通して歴史を見るというのは、…当たり前のようなことだったんです。…
 宮脇 …モンゴル史を教える、…授業をしてきました。…毎年、必ず一人か二人、モンゴル人も聴きに来てくれます。『モンゴルの歴史』が刊行されたら、授業中に頒ける約束をしていたんです。…内モンゴルからの留学生が一人、…「待ってた」って言うんですね。で、ニコニコして持って帰りました。だから今ごろ一所懸命読んでると思いますよ。モンゴルの人は日本に来ないと、本当の通史とか自分たちの歴史を読めないのですよ。

モンゴル国では「悪い歴史」とされてきたモンゴル史
 岡田 それはモンゴル史というのは長い間、共産党の統治の下では悪いものとされてたんです。…かつてモンゴルが現代の兄弟国であるロシア以下の国を片っ端から征服したという歴史があるからです。それは800年経っても駄目なんです。(笑)…
 そうですね、要するに負けたからでしょう。モンゴル帝国時代にモンゴル軍が、ロシアおよびハンガリーやポーランドに攻め込んだ。その時にヨーロッパ側は圧倒的に負けたわけです。それで、アジア人に負けたというのはやっぱり屈辱的なことなわけですよ。その時はそういうふうに考えなかったかもしれなくても、20世紀になって歴史を振り返った時に、あのモンゴル軍さえいなければ自分たちは西ヨーロッパのようにもっと発展していたのにと、ロシアはそう言ってるんです。ロシアは「モンゴルさえこなければ、フランスやドイツ程度には自分たちも大国になっていたはずだ」と言っています。…

20世紀に粛清されたブリヤート人
 宮脇 モンゴル人民共和国のブリヤート人は、基本的に大人の男はみんな処刑されたと聞いています。…
1990年、モンゴルで民主化が始まって情報公開が行われていろんな資料が出てきたら、ブリヤート人だけでなく、知識人、字の読める人はほとんど全滅したみたいです。
 つまりモンゴルをモスクワの言うとおりにさせたかったんです。モンゴル人は決してモスクワの言うとおりにはなりたくない。自分たち独自でやっていこうという努力を各地でしたわけです。20世紀の民族主義の精神です。ちょっとでも考えのある人がリーダーになったら、言うことを聞かなくなるわけですよね。ですからモスクワの言うとおりになる人たちだけを残して、トップクラスの知識階級を、何かかんかと難癖をつけてだいたい粛清した、ということがわかってきたんです。それで唯一、ツェデンバルという人が…字が読めた。彼だけが最後に残った人物で、あとで首相になったんです。実に極端な話です。本当に知識人の男はほとんどいなくなったんです。何十万という数だったそうです。これが北の方のモンゴル人民共和国のお話です。…

チンギス・ハーンも「中国人」(!)
 岡田 中国では元朝があったことは認めるんです。しかし元朝は1368年に滅びてしまったと言ってるんですよ。本当は元朝皇帝はあと2年生きているんです、今の内モンゴルで。そればかりじゃない、その後裔もずっと生きて、みんな独立していたんです。しかし、それは無視する。中国史の考え方では、明は元から独立したので、モンゴルは明の時代に入った時になくなるわけです。実際は、明はモンゴルの帝国の中の中国人の住んでいるごく一部分が独立しただけのことなんですよ。ところが中国史では、明代のモンゴル人社会は蛮族なんだということになる。…
 ○ そういう歴史を結局内モンゴルのモンゴルの人たちは学ばされているんですか。
 宮脇 はい。要するにモンゴル人は中国人である。中国王朝を立てた蛮族の一つだった。けれども元朝が滅びた後はモンゴル人はもう完全に中国人の支配下にずっといたんだ、と教えられています。…ですから、モンゴルは、…一度は偉くなって、首領が中国王朝の皇帝になったこともあったけれど、元朝がなくなった後はもう二度と皇帝はモンゴルからは出なくて、いつも中国人に支配されていた少数民族(!)である、これが中国史の解釈です。…

歴史を学べなかったモンゴル
 宮脇 モンゴル国は20世紀の初めまでは、中国ではないにしても北京にいた満洲人(清朝皇帝)の家来だったわけです。だけれどもソ連の赤軍が出てきて、独立が最終的に可能になったわけで、その間の、どっちつかずの独立したくても支援が得られなかった時代の歴史は、現代のモンゴルでもほとんど誰も研究していないし、封印されてるんです。…
 非常に優秀なモンゴルの歴史学者が三、四人、20世紀にはいたんです。その人たちが苦労してなんとかやっていこうとしていたんですが、その時代というのはまだ社会主義の時代で、1924年にソ連と友好的になった後のことはともかく、それ以前のことに関しては、そもそもモスクワの監視が厳しくて、自由な研究はできませんでした。…

結局、モスクワのおかげで、友だちであるロシア人のおかげで独立ができるまでは、モンゴル人は満洲人の虐待の下に中国につなぎとめられていた、ということになるわけです。満洲人と手を組んだチンギス・ハーンの子孫の封建王侯が人民を虐待して、人民はもう塗炭の苦しみを味わう260年であった。…で、それ以前のチンギス・ハーンの時代を封建時代というんですね。モンゴルの古い中世の封建時代には、貴族階級と奴隷階級と二つあって、大多数の人民は奴隷階級であった。チンギス・ハーンとその一族は奴隷の上に乗っかって豪奢な生活をした悪い貴族階級であったと。(笑)
 ○ でもそれは満洲やモンゴルだけじゃなくて、世界中の歴史がだいたいそういうふうに説明してたんじゃありませんか?…

 岡田 …いろいろな歴史の記述があれば、我々のようにその時代の歴史を振り返ろうという者はそれに出会えますけどね。何の歴史的記述もないということは、事実を何一つ知らない者にとっては、歴史というのは一切ふれることができないものなんです。だから「私たちモンゴル人の歴史は1924年に始まっている、それ以前は何もない」ということになる。…

80年間、自由にものが言えなかったモンゴル
 宮脇 モンゴル国は結局あまりにも空白が長すぎて、自由がなく研究もできないままに80年が過ぎて、3世代経ってしまったんですよ。そうすると、口伝えに聞いた覚えもないわけです。伝統が一度完全に断絶しているので、手探りなんですよ。2世代だったら「小ちゃい時におじいちゃんから聞いたからそれ覚えてる」って言えるけれども、80年経っちゃうと聞いた覚えもないんです。
だからこの間モンゴルに行ったとき、通訳の日本語の上手なお嬢さんに何を言っても、彼女は「ああ、そんなことだったんですね」とか、「なんか言葉だけチラッと聞いたことあるけど何のことだか全然わからなかった」と言うんです。チンギス・ハーンは名前しか知らなくて、彼に子供があったかどうかも知らないんです。本当に何も知らないんですよ。…
もうとにかく現時点ではチンギス・ハーンだけが歴史上の人で、それ以外に何があったかなんて、基礎知識がゼロなんで。…

 それでね、「チンギス・ハーンの時代に書いたものってほとんどなくて、チンギス・ハーンの孫の世代にやっと、チンギス・ハーンがどんな人だったかを書いた資料がでてくるのよ」と私たちが言うと、「じゃその孫の時代の本って誰が書いてるんですか」と訊いてくる。「ペルシャ人と中国人が書いた」と言うと、「チンギス・ハーンのことをすごく悪く書いてるんじゃないですか」と言うの。私たちが「あの時代はモンゴル人が主人で、ペルシャ人も中国人も家来だったから、自分たちの主人のことだからすごくよく書いてるの」と答えると、「えーっ!」って感動する。…

 ○ 一つの国を80年かけて、そういうふうにしちゃうっていうのはどういうことですかね。
 宮脇 だから知識人を全員殺した。字の読める人はほとんど生き残れなかったんです。実は、これモンゴル人民共和国だけじゃなくて、カザフスタンも、キルギズスタンも、ウズベキスタンも同じことが起こったんです。当時ソ連は、地方でリーダーになりそうな人は全員粛清させたんですよ。それで、どこが社会主義や共産主義がいいって言えるのでしょう。…

政治と歴史
 宮脇 科学アカデミーにいる私の友だちが、歴史の教科書を書くと言っています。ただ問題は、モンゴル国の国史を書かなきゃいけないということですよ。
 岡田 世界中に広がったモンゴル帝国の歴史でなくてね。
 宮脇 つまりロシアと中国にいるモンゴル人のことをどう処理するかということで躓いてるんですよ。国史だから大モンゴル主義になってはいけないわけです。非常に難しいですよ。だって国境を越えない歴史を書かなきゃいけないから。もうほとんど不可能ですよね、はっきり言って。…
 チンギス・ハーンのことは書くと思うんです。そこから現在のモンゴルにまで来る間をどう説明するかですよね、途中を。だってもし若い子たちがロシアと中国を恨みに思うようなことを書いちゃったら、またそれはそれで政治問題になるから、でしょう? 本来自分たちの領土だったのに取られちゃったと思うとしたら…。歴史というのは本当に大変なんですよね。(笑)…

 マルクス主義だと、常に歴史というのは政治なわけですよ。…
これまではソ連の伝統の歴史を教えられてきた。押しつけられた。だからこれを逆転させた裏返しの歴史を書こうとするわけです。それ以外知らないんですもの。…
ウズベキスタンはティムールを建国の英雄と言って持ち上げていますが、私たちにしてみたら非常に面白いのは、ウズベク人がやってきてティムールを追い出したんですよ。…
「ウズベクは先住民と混血したんだから、いいんです」というふうに言い換えて、ティムールをウズベク民族を象徴する英雄として銅像を建てて、民族のアイデンティティにしようとしています。ほんとうに笑っちゃいけないんですよ。そういうふうにしないと国づくりができないわけです。いかに国家とか民族が幻想かがわかりますが、幻想がなければ外からの勢力に対抗できないわけです。
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by satotak | 2006-06-30 04:06 | モンゴル
2006年 06月 30日

世界帝国 モンゴル

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社 1996)より:

中央と属領
[第2代皇帝オゴデイの時代]…この書記局兼財務庁を備えるカラ・コルム中央政府のもとに直接リンクする形で、華北・中央アジア・イランの三大属領に対して、それぞれ「総督府」が置かれた。…これら総督府の本来の目的は、あくまで徴税業務にあった。…徴税の際の強制執行力と、徴税対象となる所轄地域の反乱防止のため、それぞれの地域の各種軍隊のうえに軍政統轄本部)が置かれて、税務部門に対して、それ相応の軍事力の裏付けの役目を果たしたとも言える。

こうして、モンゴルの占領地政策は、本式にはオゴデイ時代に始まったと言える。そのやり方はおおむね、モンゴルとしてはあまり立派とは言いかねる程度の出自の人物を中心に、モンゴルに準じるウイグルやキタン族の有力者を幾人か、総督府の長官クラスに据える。それに中央派遣のイラン系ムスリム財務官僚を組み合わせたうえで、在地の有力者をピックアップして下部組織とした。純モンゴル自身は、行政.財務には直接関わらないのを誇りとした。彼らはあくまで、武人であろうとした。…

点と点をつないだものにすぎないとはいえ、中央と属領を貫く人間組織が、ともかくもつくられた。それは、のちの大元ウルス時代に比べれば、まだほんのささやかなものではあった。しかし、とはいえ、それはそれなりに、初めて統治機構めいたものが姿を現したのであった。

こののち、大カアンのオゴデイは、もはや帝都カラ・コルム一帯の野営地や行宮をめぐって暮らす他、カラ・コルム地区を離れることはなかった。ありていに言えば、遊興と狩猟、そして酒宴に明け暮れる日々となったのである。
それでも、帝国は維持できたし、発展した。それだけ、いったん組織化されてしまったあとのモンゴルの軍事力は、強力であった。モンゴル帝国は、戦争を自己目的に組織が勝手に拡大再生産してゆく、一種の自動装置のようになった。人間の輪と領域は、急速に広がっていった。

…新都カラ・コルムの造営が進められていた1235年、近郊の野営地ではモンゴル帝室・諸将によるクリルタイがおこなわれた。会議は、春から秋にかけて延々と続いた。場所も、カラ・コルム地区の郊外に広がる春営地、夏宮地、秋営地など、点々と変わった。
議題の一つは、金朝滅亡後の北中国の戦後処理であった。…

世界戦略
もう一つの大きな議題は、東西への大遠征であった。
…金朝を殲滅させたあとの状況のもとで企画されたこのたびの東西大遠征は、…壮大な規模でおこなわれた。
西方遠征は、…「キプチャク草原」と呼ばれる西北ユーラシアの大草原の完全制圧が、まず第一目標であった。そして、それが達成されたならば、さらに西方へどこまでも突き進むこととなった。
西北ユーラシアは、もともとチンギスの構想では長子ジョチに委ねられるはずであった。…しかしジョチは、ホラズム・シャー国への遠征の後半、兵をシル河以北の現カザフスタンの地に進め、予定された経略活動を展開していた最中にみまかった。

したがって、この西方遠征には、ジョチのやり残した事業を実現する意味が込められていた。遠征軍の総司令官には、ジョチの次子で、ジョチ一門の当主となっていたバトゥが任命された。ジョチの長子オルダは、病弱で父の故領イルティシュの本拠を守って、当主の地位は弟のバトゥに譲っていた。…

バトゥ率いるジョチ家の諸王の他、チャガタイ、オゴデイ、トルイの諸王家から、それぞれ長子か、それに準ずる王子が参加することとなった。のちにモンゴル皇帝となるオゴデイ家のグユク、トルイ家のモンケも、重要なメンバーであった。
そして、これらチンギス家のプリンスたちを補佐し、おそらくは実際上の主将の役目を果たしたと思われるのが、歴戦の将スベエデイであった。彼はチンギス西征の折、スルターン・ムハンマドを追跡する使命を受けて、部将のジェベと共に2万騎を率いてアゼルバイジャンからルースィ(ロシア)へ討ち入った。15年ほど前のことである。…

この西征は史上、「ロシア・東欧遠征」などと呼ばれて、たいへん有名である。それと一対となるもう一つの遠征が、南宋遠征であった。…
この東西二大遠征を企画した頃より、モンゴルは「世界戦略」とでも言えるようなものを、少しずつながら意識し始めるようになっていった。

モンゴル軍少年部隊
バトゥの西征をはじめ、こうした遠距離の長年月にわたる外征の場合、「民族移動」の方式が普通だったチンギス時代とは異なって、モンゴル高原にいるある一つの千戸が丸ごとそのまま参加する形は、むしろ少なかった。主力となる軍団は、たとえば広く高原の牧民たちに10戸ごとに2人の若い戦士を供出させて、編成した。

モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。モンゴル高原を出発する時は、10代の、それも前半の少年であることが多かった。彼らは長い遠征の過程で、さまざまな体験をし、実地の訓練を通して、次第にすぐれた大人の戦士になっていった。モンゴル遠征軍の各部隊の指揮官は、手練の古強者があてられたが、兵員そのものは年若く敏捷な者たちから成っていたので、軍事行動も迅速であった。素直で、指揮官の言うこともよく聞いた。たいていまだ妻子もいず、身軽な分だけ遠征先にも馴染みやすかった。壮年兵や老年兵よりも、困苦欠乏にもよく耐え、ひたすら戦闘の勝利へ邁進した。こうした少年兵にとって、遠征の出発は人生への旅立ちでもあった。

このやり方ならば、モンゴル本土の千戸群は、そのまま維持される。我々はつい、大遠征を幾度も繰り返せば、モンゴル高原から成年男子はいなくなってしまったのではないか、などと考えがちである。しかし、そんな心配は必要ない。

彼らは遠征先で、そのまま落ち着いてしまうことも、しばしばあった。その場合、今やすっかり大人となったかつての少年兵や、さらにその子孫たちも、やはり「モンゴル」であることには変わりがなかった。はるかなるモンゴル本土の高原には、兄弟姉妹、一族親類がいた。帰るべき心のふるさとは、みなモンゴル高原であった。そして、帝国の拡大に伴って諸方に散った「モンゴル」たちを、見えない糸でしっかりと結びつけているものは、高原に変わることなく続いている「モンゴル・ウルス」であった。…

ルースィの大地 - バトゥの西征
…ジョチ家の遊牧地は、すでにシル河の北、ウラル山脈の東南にまで延びていた。現在のカザフ・ステップの東半.てある。1236年、バトゥの西征軍は、ヤイク河、すなわち現在のウラル河を越えて、「キプチャク大草原」に入った。

キプチャクというのは、カスピ海・カフカズ・黒海の北部一帯、西はドナウ河口に至るこの広大な西北ユーラシア大草原に、古くから住むトルコ系遊牧諸集団の名である。…彼らは大小さまざまな部族集団に分かれ、それぞれに別の族長・首領をいただいていた。
モンゴル軍はまず、これを叩いた。キプチャク族のうち、抵抗したり、西方へ逃走・移動するものもいた。しかし、バトゥ西征軍は、キプチャク諸集団の多くを吸収して、一挙に巨大な軍団に成長した。それらはみな、遊牧民の騎馬軍団であった。しかも、モンゴルという統制のきいた軍事組織に配属・編成されることによって、ばらばらだったキプチャク遊牧民たちは、精強きわまる大軍団に変身した。遠征の第一目標は、達成された。

バトゥらは、この新たに編成なった巨大軍団をもって、1237年、当時「ルースィ」と呼ばれていたロシアに向かった。…
この頃のルースィは、数多くの諸公国に分かれ、分裂と反目のさなかにあった。ルースイは、モンゴルの侵入に対して結束できず、完敗を喫した。この時、ルースィ全土は廃墟となったと言われている。…「タタルのくびき」の開始である。

しかし、事実は訂正を必要とする。モンゴルは、ルースィを駆け抜けた。実は、多くのルースィ諸都市は、無傷であった。モンゴル大侵攻の被害を受けたのは、モンゴル軍の進攻ルートにあった都市のうち、開城勧告に応じなかった町だけであった。しかも、そうした町も戦後、急速に復旧された。1240年におこなわれたと言われるキエフの破壊と大虐殺も、…大袈裟に書いた…。むしろ、モンゴル側がみずから、実際に破壊されたいくつかの例についてわざと激しく、その恐怖を宣伝した。そうして、相手方がみずから開城・屈服するよう演出したふしがある。モンゴルの軍事拡大の時代、ほぼ一貫して見られる「恐怖の戦略」の一つであったのではないか。

…これが、その後。パターン化した。自己の保身とルースィの権力を握るため、ルースィ諸公は進んでモンゴルに媚びへつらった。その最後の成功者が、モスクワであった。モスクワはモンゴルが来るまでは、存在したかどうかさえわからない程度の町であった。ルースィの人々にとって、「タタルのくびき」は、実は「ルースィ諸公のくびき」でもあった。

東方からの嵐
モンゴル軍は、さらに二手に分かれ、主力はハンガリ、分隊はポーランドへ侵攻した。…
ところが、1242年3月、バトゥのもとにオゴデイ崩御の報と西征軍の帰還命令が届いた。しかし、バトゥはすぐには兵を引かず、ハンガリなどを蹂躙しつつ、ゆっくりと旋回した。西欧は、破滅の寸前で救われた、と言われる。

従来、この遠征を「ロシア・東欧遠征」と呼んでいるが、はたして適当な呼び名かどうか、疑問である。たとえば、北東と南西の二つのルースィ地方への侵攻の間、1238年から翌39年にかけては、モンゴル軍はカフカズ北麓一帯に向かい、キプチャクの残部を掃討するとともに、アス族(古代のアラン族。現代のオセット族)を平定・接収した。これにより、キプチャク草原は、完全にモンゴルのものとなった。キプチャク大草原とそこに展開するキプチャク族とアス族の吸収は、モンゴルにとっては、ルースィ・東欧作戦以上に重要であった。そうした現実から言えば、「キプチャク・カフカズ・ルースィ・東欧遠征」と言わなければならない。…

こうして結局のところ、西欧には直接の被害はなかった。西欧にとっては、モンゴルの来襲は、しょせん一過性の「東方からの嵐」でしかなかったのである。

巨大なジョチ・ウルス
オゴデイ逝去の報に、遠征軍を構成していたモンゴル諸王家の部隊は、次々と東方へ引き揚げていった。しかし、バトゥ率いるジョチ家の軍団は、モンゴル本土へ向かわなかった。バトゥは1243年頃、かねて自分の本営地として選んでいたヴォルガ下流の草原に戻った。彼らはその後、後継者選びで紛糾するモンゴル本土をはるかに見やりながら、どっかと腰を据えて動かなくなった。

バトゥを総帥とするジョチ一門は、大カアン不在の結果、この遠征の巨大な成果を、ほとんどそっくり頂戴する形となった。彼らは、キプチャク諸族が分布していた大草原を、そのまま自分たち独自の土地とした。…
チンギスからジョチに分与されていたモンゴル牧民は、わずかに四つの千戸であった。ジョチの遺児たちは、この牧民たちを分有して、それぞれの集団の基幹部隊とした。その下に、厖大なキプチャク牧民たちが属することとなったのである。

こうしてジョチ・ウルスは、モンゴル国家の一員とはいうものの、その実態はトルコ系のキプチャク族が大半を占める独特の構成となった。ジョチ・ウルスの人々は、言葉も容姿も急速にトルコ化した。バトゥの庶弟ベルケが当主となってからは、イスラーム化も進行する。現在、西北ユーラシアがトルコ系ムスリムの地となっている直接の契機は、モンゴルにある。事態をありのまま見れば、ジョチ家のモンゴルがキプチャク族の大波に吸収されたと言える。ジョチ・ウルスを「キプチャク・カン国」などと俗称するのは、こうした現実を背景としている。しかし、もともと人種・民族を超えた集団こそ、「モンゴル」の本質であった。

モンゴル到来後、西北ユーラシアの政治地図は、大きく様変わりした。雨は少ないけれども肥沃な南の大草原は、牧民世界。雨は多いけれども土地は痩せた北の森林地帯は、…ほそぼそとした零細農民の世界。その基本構図を引き継ぎながらも、草原の力を有効に組織化した新来者モンゴルによって、それまでは牧民・農民ともにばらばらで求心力がなかった状態が、ゆるやかに統合された。
これら全体が、一つのシステムを成した。その多重構造の連合体の頂点にいるのが、ヴォルガ河畔を南北に「オルド」を季節移動させるバトゥ家の当主であった。その巨大な天幕をロシア語で「ゾロタヤ・オルダ」、すなわち「黄金のオルド」と言った。…

史上初めて、巨大な西北ユーラシア世界が、一つの歴史世界として登場することになった。そして、ジョチ家のモンゴルを中心とするこの図式は、時とともに次第にゆるみ、崩れ、変形しながらも、ともかくもほぼ300年続いた。ロシア帝国も、その中から誕生する。こうした一連の事柄は、今まで西欧中心主義のため、ともすれば見失われがちであったが、世界史上のごく単純な事実なのである。
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by satotak | 2006-06-30 04:05 | モンゴル
2006年 06月 30日

チンギスの西征

杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)-軍事拡大の時代」(講談社 1996)より:

西へ!
金国遠征から帰還したチンギスは、ただちに西方のホラズム・シャー王国への遠征準備にとりかかった。1216年にゴビの北に帰ると、翌年、ジャライル族出身の宿将ムカリに「大師・国王」の称号を授け、…左翼のうち24個の千戸と新編成した…20個の千戸を配属させて、中国方面を委任した。チンギス自身は、残る部隊を率いて西へ向かうこととした。モンゴルを二手に分けたのである。…

そして全モンゴル軍には、1216年より2年の休息が与えられた。次なる大遠征への準備が、牧民社会の至る所で進められた。西方へは、諜報・調略を目的とする通商団が送られた。西の目標は、「カラ・キタイ」、そしてホラズム・シャー朝であった。

ところが、その西遼国[(カラ・キタイ)]は、ほとんど自滅していた。…

東トルキスタンの全域は、自然のうちにモンゴル領となった。すでに天山ウイグル王国と天山カルルク王国は、モンゴルに臣従していた。特に天山ウイグル王国は、モンゴルと一体化した。オアシス通商国家に変身していたウイグルの人々の知恵と情報が、モンゴルとリンクした。キタン族とは違った意味で、ウイグルはモンゴルの頭脳となったのである。

オアシスの太陽ホラズム・シャー
シル河の下流、ホラズム地方を根拠地に1077年に成立したトルコ系の軍事政権ホラズム・シャー朝は、13世紀に入ってめざましい勢いで拡大しつつあった。君主は、アッラー・アッディーン・ムハンマド二世。彼は、チンギス率いるモンゴルの勃興にめぐり合う不運さえなければ、中央アジア史上ばかりでなく、イスラーム史上、さらにはひょっとして世界史上にも、大きな足跡を残すことになったかもしれない。

…「マー・ワラー・アンナフル」、すなわち…アム河とシル河のあいだの大オアシス地帯を制圧した。次いで、アフガニスタン方面にあった謎に満ちた政権、ゴール朝を押さえた。さらに、イラン方面へ勢力圏を拡大し、実権回復の兆しを見せつつあったバグダードのカリフ政権アッバース朝をも、うかがう構えを見せていた。ホラズム・シャー朝は、イスラーム世界の覇者にのし上がりつつあったと言ってよい。13世紀の初め、ユーラシアには、二つの太陽が昇りつつあったのである。東のモンゴル、西のホラズム・シャー朝。両者の激突は、不可避であった。

1219年秋、チンギス率いるモンゴル軍は、末弟オッチギンにモンゴル高原の留守を委ねて、西征へと旅立った。この遠征の理由については従来、前年の1218年、ホラズム・シャー国の東方国境線にあるオトラルの町でチンギス派遣の通商団が全員虐殺された事件のため、とするのが定説であった。報復の遠征だというのである。しかし、これは誤解である。すでに述べたように、チンギスは金国遠征から帰還した1216年から西征の準備を始めている。カラ・キタイ征討からホラズム・シャー朝への攻撃が一連の作戦行動であることは、ラシード『集史』が明言している。虐殺された通商団は敵情視察のスパイ集団であり、ホラズム側が殺害するのは当然であった。

モンゴルの攻撃は、実に統制されていた。あらかじめ決められた計画に従って、ホラズム側の国境線の都市・要塞を着実に包囲し陥落させていった。
対するスルターン・ムハンマドの基本戦略は、専守防衛であった。それも、各都市ごとに分散防衛する方針であった。これは従来、イスラーム史家たちの強い非難を浴びている。しかし、おそらくそれは仕方がなかった。…

モンゴル騎馬軍を導き入れて長期戦にもち込み、敵方が疲れて撤退するところを、一気に反撃・殲滅する -こうしたムハンマドの思惑は崩れた。モンゴルが攻城戦にも見事な対応能力を見せるのを見たムハンマドは、1220年4月、…首都としたばかりのサマルカンドより、みずから脱走した。アム河を越え、ひたすら西へ逃走した。…
モンゴルは、実戦開始後わずか1年半あまりで、マー・ワラー・アンナフルからホラズム権力を追い出したのである。

モンゴルは「破壊」しなかった?
戦場は、東部イランのホラーサーンアフガニスタン方面に移った。ところが、ここでのモンゴル軍の行動は、疑問符がつくものだった。一転して、行動に計画性がなくなり、無意味な戦闘や攻撃、殺害も目につくようになる。おそらく、下調査なしに、逃亡するホラズム兵に引きずられて、うかと踏みこんだためであろうか。チンギスのホラーサーン・アフガニスタン作戦は、泥沼となった。

この時、モンゴル軍による住民の大殺戮がおこなわれたとされる。それは、イスラーム史書が、百万単位での虐殺が各地でおこなわれたように記すからである。これが従来、鵜呑みにされ、モンゴルを「殺戮者」「文明の破壊者」とする元となった。
しかし、もともとそんな大人口はいなかった。イスラーム史書の数字表記は、一桁どころか二桁くらい多い。たぶんに気分である。モンゴル側でまとめられたイスラーム史書にも大変な数が記されるから、信用できるのだ、という主張もおかしい。当時の軍記物において「破壊」や「殺戮」は悪業ではなく、功業である。できるだけ誇大に言うのがあたりまえだ。ヒューマニズムは、近現代の産物である。

そもそも、モンゴル自身が、「大殺戮」「大破壊」を喧伝した。恐怖のイメージをまき散らして、戦わずに降伏させる。「恐怖の戦略」を意図して演出していた。もちろん、モンゴルは破壊も殺戮もした。ただ、従来いわれるほど極端なものではなかった。第一、破壊し殺戮し尽くしてしまったら、あとはどうするのだろう。廃墟と死骸を手に入れても、仕方がない。…

1222年夏、チンギスは、必ずしも成功ではなかったホラーサーン・アフガニスタン作戦に見切りをつけた。全軍に旋回を命じ、ゆっくりとモンゴル本土へ退いていった。本拠の大オルドに帰着したのは、1225年陰暦2月のことであった。…そして、当のスルターン・ムハンマドは、逃走の果てに1220年12月、わずかの供回りの者に看取られて、カスピ海の小島で寂しく他界していた。…

チンギスは何を求めたのか
「人類文化史 第4巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974)より(筆者:護 雅夫):

…この西方遠征のきっかけが、「金国への全面的攻撃に要する、厖大な軍需物資の需要をみたすため、チンギス-カンははじめこの軍需物資の供給をモンゴル国内に活躍していた西アジア方面の隊商団に求めたが、さらに彼らを通じて、彼らの祖国たる、西アジアのホラズム帝国との通商条約の締結を強く願うにいたった」点にあることだけを指摘しておきたい(村上正二氏)。松田寿男氏が、「欧米学者の遊牧民に無理解かつ理不尽な従来の解釈を捨てて、この経緯を判断してみると、はじめチンギス-ハァンはイスラム商圏の実力をよく知りとって、モンゴル商圏を平和のうちにそれに結びつけようと努力した。ところが事態の悪化によって、彼はイスラム商圏を自己の商圏にとりこむことを決意する。これは彼を泥沼にふみこませたに等しい。…モンゴル軍はけっして勝手な経路を血に荒れ狂いつつ駆ったわけではない。彼らは…重要な市場を抑えながら、重要な商業ルートを進んだのである」と言われるのも上の意味においてである。…
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by satotak | 2006-06-30 04:04 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴル建国

宮脇淳子著「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生かモンゴル国まで」(刀水書房 2002)より:

チンギス・ハーンの即位
モンゴル高原を統一したテムジンは、1206年の春、オノン河の水源地に、部下とモンゴル高原の遊牧部族、氏族の代表者を召集して大会議(クリルタイ)を開催し、その席上、全員の支持を受けて最高指導者つまりハーンに選出された。テムジンの義弟…の大シャマン(巫)、ココチュ・テブ・テンゲリが、チンギス・ハーンという称号を選んで授けたが、チンギスというのは、古いトルコ語のチンギズの借用であって、「勇猛な」という意味である。

さらに、ココチュ・テブ・テンゲリは神がかりになって次の天命を宣言した。
「永遠なる天の命令であるぞ。天上には、唯一の永遠なる天の神があり、地上には、唯一の君主なるチンギス・ハーンがある。これは汝らに伝える言葉である。我が命令を、地上のあらゆる地方のあらゆる人びとに、馬の足が至り、舟が至り、使者が至り、手紙が至る限り、聞き知らせよ。我が命令を聞き知りながら従おうとしない者は、眼があっても見えなくなり、手があっても持てなくなり、足があっても歩けなくなるであろう。これは永遠なる天の命令である」。

これは地上の全人類に、チンギス・ハーンを唯一の君主として絶対服従することを命ずる、神聖なる天の命令だった。チンギス・ハーンも、かれをハーンに選出したモンゴル高原の全遊牧部族も、この天命を固く信じ、この天命に導かれて世界征服の事業に乗り出したのである。チンギス・ハーンと家臣たちにとって、無条件で降伏しない者は天に逆らう極悪人であり、極悪人を殺し尽くすのは、天に対する神聖なる義務を果たすことだった。いつの時代も、宗教の果たす役割には恐るべき力がある。

チンギス・ハーンが君主に即位した1206年が、モンゴル帝国建国の年であり、現代のことばを借りればモンゴル「民族」誕生の年である。君主になったチンギス・ハーンがモンゴルと総称される氏族集団の出身だったので、新しい遊牧部族連合の名前もモンゴルになったのだ。ただし、…このとき誕生した「モンゴル」は、種々雑多な遊牧民の連合だった。今のわれわれが考えるような「民族」という観念は、当時の世界には存在しなかった。

モンゴル帝国から始まった世界史

ちかごろ日本でかなり普及してきた惹句であるが、「世界史はモンゴル帝国とともに始まった」と最初にいったのは、岡田英弘著「世界史の誕生」(筑摩書房、1992年)である。
右の書物の岡田説を簡単に紹介すると、そもそも、歴史というのは文化であって、単なる過去の記録ではない。歴史という文化は、地中海文明では紀元前5世紀に、中国文明では紀元前100年ごろに、それぞれ独立に誕生した。それ以外の文明には、歴史という文化がもともとないか、あってもこの二つの文明の歴史文化から派生した借り物の歴史である。歴史という文化を創り出したのは、地中海世界では、ギリシア語で『ヒストリアイ』を書いたヘーロドトスであり、中国文明では漢文で『史記』を書いた司馬遷という、二人の天才だった。…

しかし、同じ歴史とはいっても、へーロドトスが創り出した地中海型の歴史では、大きな国が弱小になり、小さな国が強大になる、定めなき運命の変転を記述するのが歴史だ、ということになっている。一方、司馬遷の『史記』では、皇帝が「天下」(世界)を統治する権限は「天命」によって与えられたものであって、この天命の伝わる「正統」を記述するのが歴史である、ということになっているから、中国型の歴史では変化は記述しない。だから、日本の西洋史と東洋史は、「世界史」と名前を変えても水と油のままなのだ。

ところが、中央ユーラシア世界を中心にしてみると、世界史の叙述が可能になる。すでにヘーロドトスと司馬遷に遊牧騎馬民の活躍が記されているが、実は、中央ユーラシア草原の遊牧騎馬民の活動が、東は中国世界、西は地中海世界そしてヨーロッパ世界の歴史を動かす力になった。そして、13世紀に、モンゴル帝国が草原の道に秩序をうち立てて、ユーラシア大陸の東西の交流を活発にしたので、ここに一つの世界史が始まったのである。13世紀のモンゴル帝国の建国が世界史の始まりだというのには、四つの意味がある。

第一に、モンゴル帝国は東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸に住むすべての人びとを一つに結びつけ、世界史の舞台を準備したことである。

第二に、モンゴル帝国がユーラシアの大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権が一度ご破産になり、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が分かれた。それがもとになって、中国やロシアをはじめ、現代のアジアと東ヨーロッパの国々が生まれてきたことである。

第三に、北中国で誕生していた資本主義経済が、草原の道を通って地中海世界へ伝わり、さらに西ヨーロッパヘと広がって、現代の幕を開けたことである。

第四に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このため、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出し、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から海洋帝国へと変わっていったことである。

1206年のチンギス・ハーンの即位に始まったモンゴル帝国は、このようにして、現代の世界にさまざまの大きな遺産を残した。世界史はモンゴル帝国から始まったのである。
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by satotak | 2006-06-30 04:02 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルはどこから -チンギス・ハーン以前-

宮脇淳子著「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生かモンゴル国まで」(刀水書房 2002)より:

モンゴルという名前の部族がはじめて歴史文献に登場するのは、7世紀のことである。その時代は、モンゴル高原を突厥(とっけつ、トルコ)が支配し、南の中国は、鮮卑族の建てた唐王朝が支配していた。…

室韋はすなわちタタル
7世紀にアルグン河渓谷にいたモンゴル部は、唐から見れば、室韋(しつい)と総称される種族の一部だったわけだが、もともと当時の北アジアは突厥帝国の支配下にあり、…室韋の諸部落もまた、突厥に付属していた。…

…三十姓という多数の部族からなるタタルが、ケルレン河中流下流流域、アルグン河、オノン河、シルカ河方面にいたということになる。この、古代トルコ語でタタルと呼ばれる多数の部族が、同時代の中国史料では室韋と総称された諸部族であったことは間違いない。
…「九姓タタル(トクズ・タタル)」がセレンゲ河下流近くにおり、突厥やウイグルと激戦したという。
三十姓タタル九姓タタルの関係について記したものはないが、九姓タタルの住地が突厥やウイグルに近く、かれらがタタル諸部の中では、文化的により開けた部族であったとはいえるだろう。

突厥を滅ぼしたウイグルは、100年ちかく漠北のモンゴル高原を支配したのち、840年に、西北方から侵入してきたキルギズ軍に本拠地を追われて四散した。しかし、キルギズの支配は長続きせず、860年代には、タタルがキルギズをアルタイ山脈の北方に撃退してしまった。
キルギズをおって漠北の中心地にあるオルホン河畔に入ったのは、九姓タタルであると考えられる。13世紀にモンゴル部が強大になるまでモンゴル高原の支配部族だったケレイト王家は、おそらくこの九姓タタルの後身だろう。一方、モンゴル部をふくむ残りの三十姓タタルは、九姓タタルがかつて住んでいたセレンゲ河上流域やケルレン河上流にまで住地を広げた。チンギス・ハーンの時代に大部族として有名であるモンゴル高原東部のタタル部族は、かつての三十姓タタルの一部族で、この集団にだけその名が残ったのである。…

モンゴル史料の出現
…7世紀の蒙兀室韋(もうごつしつい)あるいは8世紀の三十姓タタルが、モンゴル部族の遠い祖先らしいことは明らかになった。しかし、このあとチンギス・ハーンが誕生するまでの500年もの間、モンゴルについて記した史料はほとんどない。これから物語るチンギス・ハーンの祖先たちの話は、すべて、チンギス・ハーンの子孫の時代、13世紀末から14世紀になって、口頭で伝えられ伝承や当時のさまざまな言語の記録をもとにして、書き留められたものなのである。しかも当時の記録といっても、チンギス・ハーンが成人するまで、記録をつける習慣はモンゴル人にはなかった。

13世紀にチンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国し、モンゴル人が中央ユーラシアの支配者となったために、古くから文字があり記録の伝統を持つ人びとが、モンゴル人の家来になった。それからはじめて、君主の一族の由来や偉業が書かれるようになったのだ。
それらのモンゴル史料のなかで、書かれた年代が古く、もっとも信頼のおける歴史書が二つある。一つはペルシア語の『集史(しゅうし)』(注1)、もう一つは漢文の『元史(げんし)』(注2)である。
…今のモンゴル人にとって、もっとも大切な資料がこの『元朝秘史(注3)である。…いわば「歴史小説」のようなものであるから、史料として利用するには慎重を期さなければならない。…

モンゴルの始祖説話 (注4)
…しかし、わが日本国でもっとも有名なチンギス・ハーンの始祖説話は、例の「蒼き狼」の神話である。『元朝秘史』はこのように物語をはじめる。

「高き天の定命(さだめ)を受けて生まれたボルテ・チノがあった。その妻のホワイ・マラルがあった。海を渡って来た。オノン河の源のブルハン・ハルドン[山]に遊牧して、生まれたバタチハンがあった」。
モンゴル語でチノは「狼」、マラルは「牝鹿(めじか)」の意味で、狼と牝鹿の夫妻が渡ってモンゴル高原に来た海とは、バイカル湖のことである。妻のホワイ・マラルのホワは、モンゴル語で黄毛のことで、ホワイはその女性形であるから、「黄色い牝鹿」という名前である。
…那珂通世博士は、ボルテ・チノを「蒼き狼」と訳した。…しかし、残念ながら「蒼き狼」は誤訳で、しかもチンギス・ハーンはその子孫ではないのだ。
モンゴル語で「ボルテ」は「斑点のある」という意味である。…だから、ボルテ・チノは「斑(まだら)の狼」という名前なのである。

『元朝秘史』の話では、ボルテ・チノとホワイ・マラル夫妻の八代あとの子孫に、ドブン・メルゲンが生まれる。ドブン・メルゲンが死んだあと、その寡婦のアラン・ゴワが天窓から差し込んだ光に感じて産んだ男の子が、チンギス・ハーンの祖先である。チンギス・ハーンはボルテ・チノと血統でつながっていないから、「蒼き狼」の子孫ではないのだ。
祖先が狼であるという始祖説話は、突厥など、いわゆるトルコ系部族に共通の物語である。

…狼と鹿の夫妻が渡ってきた海、とあるバイカル湖の西方のイェニセイ河の流域は、トルコ系のキルギズ部族の古い住地だった。さらにバイカル湖の北方のシベリアのヤクート人はトルコ系の言語を話す。だから、…モンゴル部族にはシベリアのトルコ系住民の血も混じっているということを示しているのだろう。

また、狼の子孫ドブン・メルゲンの妻となったアラン・ゴワの父は、ホリ・トマトの氏族長、母はバルグジン・トクムの領主の娘と伝えられるが、どちらもバイカル湖周囲の遊牧部族で、いまのブリヤート・モンゴル人の祖先にあたる。そういうわけで、チンギス・ハーンの祖先の物語は、モンゴル高原を中心とした広い地域の、さまざまな遊牧民に伝わっていた口頭伝承を集めて整理したものである、ということができる。

チンギス・ハーンの祖先の物語 (注4)
…『集史』『元史』『元朝秘史』に共通な物語は、アラン・ゴワが天の光に感じて産んだボドンチャルが、ボルジギン氏族の祖になったというものであった。そのボドンチャルの孫の寡婦モナルンと息子たちは、キタイ軍に攻められてケルレン河から逃げてきたジャライル部族に襲撃されて、皆殺しになった。ただ一人だけ生き残ったハイドが、バイカル湖のほとりのバルグジン・トクムに移って成人し、兵を率いてジャライル部族を攻め、これを臣下とした、という話が続く。このハイドはチンギス・ハーンの六代前の祖先だが、かれがどうやら最初の歴史上の人物らしい。

先に述べたように、アラン・ゴワもバイカル湖畔の出身だったことを考えると、チンギス・ハーンの祖先の本当の発祥の地はバイカル湖畔で、そこから南下してオノン河の渓谷に移住し、そこでチンギス・ハーンが生まれたと考えるほうがよさそうだ。

ハイドには三人の息子があって、次男のチャラハイ・リングンの子孫が、のちにチンギス・ハーンと敵対するタイチウト氏族になった。長男のバイ・シンホルにはトンビナイという息子があった。トンビナイには多くの息子があって、それぞれ氏族の始祖となったが、六番目の息子ハブル・ハーンが、チンギス・ハーンの曾祖父である。
トンビナイの時代と思われる1084年、久しぶりに漢文史料に「モンゴル」が現れる。『遼史』によると、この年「萌古(もうこ)国」が契丹に使者を派遣している。このころようやくモンゴル部にも王権が生まれて、「国」と呼べるような集団になったらしい。

1125年に金帝国がキタイを滅ぼしたころのモンゴル部族の指導者は、チンギス・ハーンの曾祖父ハブル・ハーンだった。ハブル・ハーンは金の朝廷を訪問したこともあるらしい。バブル・ハーンの死後、かれの又従兄弟(またいとこ)のアンバガイが次のハーンになった。
ハブルとアンバガイ二人のハーンの時代、モンゴル部族は、金の長城沿いに遊牧していたタタル部族と抗争をくりかえした。アンバガイ・ハーンはついにはタタル部族に捕らえられて、金の皇帝のもとに送られて殺された。

アンバガイ・ハーンのあと、今度はハブル・ハーンの息子フトラがハーンになった。チンギス・ハーンの祖父バルタン・バートルは、フトラ・ハーンの兄弟である。バートルとはモンゴル語で「勇士」の意味だ。バルタン・バートルには四人の息子があり、その三番目がチンギス・ハーンの父イエスゲイ・バートルだった。つまり、チンギス・ハーンは、モンゴルのハーン一族の出身ではあったが、傍系だった。
『元朝秘史』には続いて、チンギス・ハーンの父イエスゲイがメルキト部の若者から新妻ホエルンを掠奪する話、九歳のチンギス・ハーンとボルテの婚約、イエスゲイがタタル部族に毒殺され、残されたホエルンが苦労して息子たちを育てる話などが物語られるが、いずれも史実かどうかは定かではない。

(注1) 『集史(しゅうし)』:正式の書名を『ジャーミア・ウッタワーリーフ』(歴史の集成)という。チンギス・ハーンの孫でイランにいわゆるイル・ハーン国を建てたフレグの曾孫、第七代ガザン・ハーンが、1302年にユダヤ人宰相ラシード・ウッディーンに命じて、「モンゴル史」の編纂がはじまった。「万国史」、「地理誌」を加え『集史』が完成したのは1311年。
モンゴル帝国が遠征軍を組織するときは、戦利品が各部族に公平に渡るように、それぞれの部族あるいは氏族が代表者を参加させた。このため、遠征軍がそのまま征服地に残留して国家をたてたこのイル・ハーン国のような場合には、モンゴルの故地から遠く離れたイランの地に、モンゴル高原のすべての部族や氏族の子孫が暮らしていた。だから、イランの地で、『集史』のような、あらゆる部族の伝承を記録したモンゴル史が書かれたのである。

(注2) 『元史(げんし)』:中国の正史の一つで、元朝を継承した明朝で編纂された歴史書。1370年完成。

(注3) 『元朝秘史』:今のモンゴル人にとってもっとも大切な資料。モンゴル語の題は『モンゴルン・ニウチャ・トブチャアン』(『モンゴル秘史』)というが、モンゴル文字の原本は見つかっていない。原文のモンゴル語を、日本語の万葉仮名のように、一音ずつ漢字で写し、その脇に中国語で一語ずつの直訳を付け、一節が終わる漢文で意訳を付けたテキストだけが現存している。
モンゴル国では、公式には1240年の庚子(こうし)の年に成立したという説を採用し、1990年に『モンゴル秘史』成立750周年記念大会が開催された。…

(注4) [モンゴルの系図]参照
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by satotak | 2006-06-30 03:14 | モンゴル