テュルク&モンゴル

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カテゴリ:モンゴル( 22 )


2006年 06月 30日

現代モンゴルの悲哀

小長谷有紀著「モンゴルの二十世紀 社会主義を生きた人びとの証言」(中央公論新社 2004)より:

13世紀以来、モンゴル高原の主人公であったモンゴル人たちにとって、20世紀とは明確な国境によって同胞がソ連、中国、モンゴルの三つの国に分断された時代である。
1911年の辛亥革命によって清朝の支配がゆらぐとともに、民族を統一する動きが起こる。
にもかかわらず、中国、ロシア、日本などの列強の干渉によって統一は容易ではなく、先がけて庫倫(クーロン)(現在のウランバートル)で1912年にモンゴル人民党による政府が樹立された。そして1924年、それまで名目上の首座に居た活仏が寂滅すると、これを契機として、モンゴル人民共和国の成立が宣言された。大国のはざまにあって唯一、民族自治の果たされる独立国家として「モンゴル」が成立したのである。
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現代モンゴル図 [拡大図]

中国からの直接的な干渉は、その後に中国内蒙古自治区となる地域のモンゴル人がもっぱらひきうけた。また同様に、ソ連からの直接的な干渉は、後にブリヤート共和国になるモンゴル人がひきうけた、と言えよう。いわば南北双方に緩衝地帯が存在したのである。それゆえに、モンゴル人は国境によって分断されながらも、唯一の独立国家としてモンゴルを維持することができたように思われる。
こうして20世紀初頭、モンゴル人民共和国は、ソ連につぐ世界で二番目の社会主義国としての道を歩みはじめる。

・・・1939年に東部国境付近でハルハ川戦争(日本ではノモンハン事件と呼ばれている)が起きると、国土を守るという目的のために、ソ連から大量の軍隊が投入された。第二次世界大戦が終結してもなお、そうしたソ連との協調は変わらず、…実質的にはソビエト連邦の十六番目の共和国である、とさえ言われた。…

…1989年、ソ連におけるペレストロイカの影響を受けてモンゴルでも民主化運動が活発になり、1990年に人民革命党による一党独裁制が放棄され、1992年にモンゴル国に生まれ変わった。すなわち、モンゴルにとって二十世紀とは「社会主義の選択とその放棄」という大きなうねりを経験する時代なのである。…

…「未開地の開墾」というスローガンのもとで、1960年に20万ヘクタールだった農地は30年間で80万ヘクタールに増加した。こうした本格的な開拓期を率いた若手の一人が、ゴンガードルジ氏である。…
彼がその半生を傾けて作り上げた農業部門、とりわけ穀類の生産部門は、現在ほぼ壊滅状態にあると言っても過言ではない。20世紀を通じて粉骨砕身してきたことが、国の前で瓦解したときの悲しみは計り知れない。…
社会主義を背負って国づくりにいそしんできた人びとにとって、過去はあくまでも美しいにちがいない。しかし、その過去には、背後にいつも危険がひそんでいた。社会の幸福という名目のもとに、個人を不幸におとしめる、そんな大いなる誤りをおかす危険性は、つねにここかしこに潜在しており、そして実際に、いくつもの過ちがくりかえされた。…

社会主義の建設という名目のもとで、半世紀をかけて得られた実りも、失うには一瞬で事足りる。失ったものの大きさは、いまや政治的立場の違いを超えて、多くの人びとに共通する喪失感を生み出している。
創造に没頭した過去をどれほど礼賛したところで、失ったものはもはや戻らないし、破壊に傾倒した過去をどれほど批判したところで、やはりもとには戻らない。そしてまた実は、創造と同時に破壊は一方で並行して存在していたし、だから破壊もまた創造の一過程であるのかもしれない。…

第5章 ...人民作家...プレブドルジは語る
...何世紀ものあいだ、ほとんど何の関係もなかった日本とモンゴルが敵対する歴史はそこからはじまったのです。このような状況は長年のあいだ続きました。そして、両国の関係がよくなる発端が「ゴビ・コンビナート建設」で拓かれたというわけです。
新しい時代には、かつての敵だった日本人が、モンゴルに来るようになりました。単に来るのではなくて、私たちを助けるというのです。いまや私たちはまったく異なる関係になりました。
これは、まったくもって、たった一世紀のあいだに起こっていることで、...そもそも、モンゴル人が日本人を助けたという証拠は歴史にありません。また私たちモンゴル人もまた日本人の助けなしにここまで来ました。それなのに、今はどうして一方が援助国になり、一方が被援助国になっているのでしょうか? これは誰のために必要な助けなのでしょうか?
この援助はモンゴルに必要なものなのでしょうか? 私はときおりいぶかしく思います。私は援助なしに生活したいものだと思います。しかし、援助しようという日本人の善意を私たちは受け取らなければなりません。私のように考えるモンゴル人は多いのです。人の助けで生きるのではなく、人を助けて生きているのが遊牧民の性質です。どうして日本政府はモンゴルを援助すべきだとみなすのでしょうか? 私はこの問題に対して今まで解答を得ていません。
日本とモンゴルの関係は良い方向に変化しているでしょう? 日本人はどう見ているのでしょうか? 私はこの点についてわかりません。関係がさらに悪化するということだってありえるでしょう? モンゴル人が日本人と会ってはならない時代があったくらいですよ。...
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by satotak | 2006-06-30 02:09 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルとは集団の呼び名 - モンゴルの起源 -

「遊牧民から見た世界史」(杉山正明著、日本経済新聞社 1997)より:

モンゴル帝国について多くの人が感じるであろう疑問は、なぜあれほど急速に史上最大の版図をもつまでに拡大したのかという点だろう。…
軍事上におけるモンゴル軍の優位性をかぞえあげていけば、おそらくきりがなくなるだろう。…しかし、従来ややもすれば、もっとも肝心な点を見逃しがちだったのではなかろうか。それは、「モンゴル」ということばそのものにある。

結論を先取りするかたちになるが、「モンゴル」とは、きわめて融通性にとんだ集団概念であった。しかも、それは、版図の拡大につれておなじように膨脹した。きわめて弾力性のあることばであり、人間組織であった。
ひるがえって、ふつうに「モンゴル」というと、あたかもはじめからそうした人種民族が厳然として存在したかのように考えられている。しかし、それは誤解である。いや、錯覚といってもいい。

たしかに現在、外蒙のモンゴル国と、ゴビの南、中華人民共和国の内蒙古自治区という二種の地域を中心にして、モンゴルという人種・民族が存在しているから、それが過去にさかのぼって、ずっとそうだったと考えられるのも仕方がない面がある。それに、これらの人びとが、世界帝国時代の「大モンゴル国」のモンゴルたちの、すくなくとも子孫の一部分であることもたしかではあろう。

しかし、ここで肝心な点は、モンゴル帝国の形成に中核となった「モンゴル」とは、いったいどういう人びとだったのかである。そこに、超広域の世界帝国が出現した鍵が隠されている。
チンギス・カン、すなわちテムジンによる高原統合のまえ、大小、数多くの牧民集団が割拠し、入り乱れるように攻伐をくりかえしていた。大きな場合は「部族」単位で、小さなものは「氏族」単位で、運命共同体をつくって行動した。
もちろん、ここにいう「部族」も「氏族」も厳密な表現ではなく、おもに血縁もしくは仮構された疑似血縁でむすばれた小規模な集団をかりに「氏族」といい、そうした「氏族集団」が地縁や政治上の理由(その場合も、「血」に仮託された親疎関係が強調された)でいく個か寄りあつまったものを、やはりかりに「部族」というほどのことにすぎない。
当時の漢語文献において、「○○ 氏」、「○○ 部」と表記されるものに近い。…高原に割拠する諸勢力のうち、…ケレイト、ナイマンなどは、それなりの中央権力機構をそなえ、「王国」といってもよい状態にあったとされる。とはいえ、結束や組織化の度合いにちがいはあっても、いずれも「連合体」である点に、大きな違いはなかった。
モンゴルはそのなかであまり強力とはいえない「部族」集団であった。まして、テムジンが生まれたのは、モンゴル部のなかの、…小連合であるキャト氏…の、そのまたボルジギン氏という家柄であった。大小あまたある牧民集団の大海にあっては、まことに渺(びょう)たる存在にすぎなかった。…

歴史上、モンゴルという名称そのものは、すでに唐代の漢文献にあらわれている。「萌骨」蒙兀」などと表記された。いずれも、モンゴルに近い音をあらわす。
しかし、モンゴルと呼ばれる集団は、久しいあいだ、とりたてて目立つほどのこともない存在であったらしい。弱小集団のモンゴル部が記録の表面に浮上してくるのは、せいぜいが12世紀のことである。テムジン登場の前夜とさえいっていい。モンゴルは新興勢力であった。
12世紀すえ、テムジンは、そのモンゴル集団のリーダーへと浮上した。さらに、13世紀のはじめ、ほとんど一瞬にちかい好機をとらえて、ケレイト部のワン・カン…を奇襲攻撃で殪(たお)した。…ときに、1203年の秋であった。
一気に、高原の東部と中部の覇者にのしあがったテムジンは、1205年、西部の大勢力であるナイマン部族連合をも打倒・吸収する。テムジンの覇業は、わずか二年あまりでなしとげられた。

ここに、容貌も言語もまちまちな牧民たちが、テムジンという一個の権威者のもとに寄りあつまるかたちが生まれた。まさしく、政治連合体というほかはない。その牧民連合体の名として、指導者の出身集団の名をとって、「モンゴル」とされるのは自然のなりゆきであった。すなわち、いわゆる「モンゴル」とは、もともとささやかな集団の呼び名にもとづくのである。
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by satotak | 2006-06-30 01:08 | モンゴル