テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:タタール( 9 )


2006年 12月 31日

チョラ・バトゥル -タタール人の記憶-

山内昌之著「ラディカル・ヒストリー」(中公新書 1991)より:

タタールの叙事詩『チョラ・バトゥル』
『チョラ・バトゥル』は、ロシア帝国の前身たるモスクワ大公国がカザンを征服する直前に、クリミアとカザンの二大汗国で起きた事件とその背景となる社会条件をタタール語で記録した作品である。…
しかし、『チョラ・バトゥル』は、モスクワ=カザン関係やロシア人の征服について記述した歴史書でもなければ、最初から特定の個人が書いた年代記でもない。それは、16世紀の征服直後から数世代をかけて、今日の形に整えられながら口伝えで後世に伝承された文学的作品であり、トルコ文学史ではダスタンと呼ばれるジャンルに入る。ダスタンは言うなれば〈口誦化された歴史叙述〉である。この作品群は、中央ユーラシアに君臨したモンゴル帝国の各ハーンが統べた国家(ウルス)、キプチャク汗国やチャガタイ汗国の末裔として活躍したトルコ=モンゴル系のハーンを戴く国家の歴史的記憶を今日に伝えている。…

『チョラ・バトゥル』は、タタール人の歴史や文学の伝統の一部であるとともに、民族の偉業と悲劇を偲ばせる叙事詩の性格をも帯びている。それは、どのトルコ系民族の文章史料よりも早く「ロシア人」(ルース)を名指しの敵として言及した歴史の記録としても知られている。
ここで重要なのは、『チョラ・バトゥル』が文学作品だったにもかかわらず、ロシア人の支配の正統性に挑戦する大きな脅威になったことである。その証拠に、『チョラ・バトゥル』は文学作品としての価値はもとより、存在さえ幾度も抹殺されようとした。
ロシア帝国からグラスノスチ以前の時代を通して、公権力が変わらずにこのダスタンを嫌ったのは、ロシア人を敵として描いていたからだけではない。『チョラ・バトゥル』は、ソビエト体制やその中枢にいたロシア人に好都合と目された歴史叙述の試みに対する深い挑戦となっているからである。タタール人がこの作品を通して見た歴史は、ソ連の公式歴史学がこれまで主張してきた〈諸民族の歴史的友好〉、ロシア人やロシア国家との〈自発的な結合〉といったソ連の国家理念をあからさまに否定しかねない内容をもっている。…

しかし、ダスタンの目的は単に歴史的事件を描くことだけにあるのではない。それは、「正史」の果たす役割とは違った衝撃を後世に残す。ダスタンは、民族ぐるみの思い出を後世の人びとの感情のなかに沈殿させて、歴史的記憶を残すための理想的な世界を人びとの前にパノラマとして呈示するからである。
『チョラ・バトゥル』が今日のようなテキストをもつことになったのは、他のダスタンと同じく19世紀に入ってからである。しかし、それは特定の個人によってテキスト化されたのではない。いろいろな場所に住むさまざまな人びとが口誦伝承から文章に移し換えたのである。…

『チョラ・バトゥル』のあらすじ
クリミア汗国のハーンに仕える近習にナリク(ナレング)という勤勉な若者がいた。かれは、誰からも信頼される人間として知られており、勇敢で名誉を重んじる男でもあった。かれは、出仕していたハーンの宮廷でもひときわ目立つ存在であった。汗国を行き来する商人たちも、かれの目許すずしげな様子に殊の他ひかれるようになり、嗇(お)しまずに贈り物をするほどであった。この有様を見て、人心がナリクになびくのをおそれたハーンは、これはと思う花嫁を見つけることを名目に汗国各地を歩き回るように命じた。それでも、君寵から出たこの振舞いは、宮廷内部にナリクヘの嫉妬を燃え上がらせずにはおかなかった。

ナリクは、イディル(ヴォルガ)川とヤイク(ウラル川)の間に広がるハーンの領地を跋渉して、トゥルガイとヤイクに挟まれた土地の、とある村にたどりついた。そこで見るともなく休息していると、ひとりの婦人が火をおこしている風情に視線がいった。彼女は、慣習の教えに従って灰を踏みつけないように奥床しく動作に気遣っていた。その立居振舞に感心したナリクは、婦人に娘がいないかどうかを尋ねた。はたして妙齢の女子がいることを知ったナククは、それこそ、わが伴侶たるべしと思いを定めた。新妻の名は、メンリ・アルク・スル(ミングレ・スル)といった。

婚礼は、貴庶を問わずすべての人が参加して豪奢をきわめた。しかし、ハーンの嗣子は自制心を失ってメンリ・アルクの美貌の擒(とりこ)になった。彼女をわがものにせんと一計を案じて、王子はナリクを使者としてモスクワに送ろうとした。王子の奸計を悟った妻は、夫にモスクワへ出かけないように切々と訴えた。ナリクは怒って、妻の言い分に耳を傾けようとしなかった。それでも、ナリクは出発したように見せかけて、気取られずに家に戻ろうと密かに覚悟を決めていた。

その夜、果然、王子は主人の留守する家を訪れた。やむなくハーンの嗣子を家に招じ入れたメンリ・アルクは、ある逸話を語って聞かせた。
「わたしの父はイディル川のほとりに住む裕福な人物でした。かれはたくさんの馬を飼っていましたが、なかでも美しい子馬が気にいっていました。ある日、この子馬がふと寝込んでしまい、仲間の群れからはぐれてしまいました。そのとき、飢えた狼が子.馬に襲いかかり、後ろ足に噛みついたのです。折も折、狼を追跡してきた猟人がそこに姿をあらわしました。狼は森のなかに逃げ去りましたが、子馬は体が不自由なので動けずにそのままじっとしていました。ややときがあって、ライオンがこの獲物に襲いかかろうとしました。しかし、子馬の足に狼の歯の痕跡を見つけて、こう述べたと伝えられております。『余は百獣の王である。いかで他の者の食い残しにありつこうか』」
これを聞いた王子は気も動転しながら、若年にも似合わずどこでその物言いを学んだのかとメンリ・アルクに尋ねた。

物陰からことの顛末を見守っていたナリクは、立ち去ろうとした王子を襲って殺してしまった。王子の姿が見当らないことをいぶかしく思ったハーンは、側近の者たちに事情を問いただした。
すると、ナリクが進み出て一部始終を包み隠さずに申し立てた。ハーンはこれを一応諒としたが、君臣の関係をこれ以上保つことはできないとして、長年の忠勤を嘉しながら多くの金銀をあたえて、国土を立ち去るように永の暇をだした。
ナリクは妻とともに連袂(れんぺい)退去した。

夫が浪々中のある日、メンリ・アルクは夢を見た。
「燃えるような炎がわたしの足のあいだからほとばしり出ました。その尖端が天空までたどりついたのです。人びとが懸命に努力しても、その火を消し去ることはできませんでした。すると、暗雲が空をおおいつくしました。この雲間からは沛然とふりそそぐ雨が火を消しとめてくれました」
そして、彼女は夢見をこう意味づけている。
「わたしは力強いバトゥルを生むことになるでしょう」と。

ときは過ぎ去りゆく。ふたりのあいだに生まれたチョラ(チュラ)は、他の若者たちと一緒に牛の番をしている。そこに托鉢をなりわいとする年老いた旅のデルヴィーシュ(修道者)が飄然と姿をあらわした。ほかの子供たちがこの老人を気持悪がるのを尻目に、チョラだけは食べ物を供して尊敬を表すことを忘れなかった。村を立ち去る前に、デルヴィーシュは一頭の子馬を選び出して、その首筋に輪をつけてタスマル・ケルと命名した。こうしておいてから、かれはおもむろにチョラに向かって、チョラがそのうちに勇敢なバトゥルになること、子馬がそれにふさわしい優駿に育つことを預言した。

月日がたって、ハーンの徴税官アリー(ガリ)・ベイが年貢の取立てにやってきた。ナリクはじめ村人は、下にも置かぬもてなしでかれを迎えた。かれは、饗応をうけている間にもひとりの少年が視線をそらさずに自分を見つめているのに気がついた。それは、アリーの勢威を畏怖して視線を合わそうとしない大人たちと好対照だった。チョラには物を恐れるという風情がまったくなかった。徴税官は、村が十二分に自分をもてなしてくれたことに謝意を表して、税をとりたてずに辞去した。
ハーンは、アリーほどのもののふが税をとらずに帰還したことをいぶかしく感じた。しかし、剛胆な少年の話を聞くと興味をそそられて、チョラに会おうと言いだした。謁見が始まると、驚いたのはハーンのほうであった。

「そちはまだ豎子(じゅし)である。バトゥルではありえない。アリーを見よ。かれは長髯(ちょうぜん)を首筋のしりえで結ぶこともできる。その足音は7千もの兵士の足音に匹敵する。その力は千人のバトゥルに及ぶ。そちは、いったい何人力なのか」
チョラの答えは簡明であった。
「わたしは、わたしめにふさわしい者ひとりにあたります」
こう言い捨てるとすぐにハーンの前を辞去して、馬に乗って故郷の村に向かった。ハーンは40人ほどの家臣に後を追うことを命じた。チョラは追手がかかったのを知り、ひとまず下馬して身支度を整え迎え撃つ態勢をとった。かれは須臾(しゅゆ)のうちに敵をうちまかして、「爾余の旅人にも迷惑千万なれば犬ども鎖にてひとつなぎにし申し候」と書き添えてハーンのもとに送り届けた。
ハーンは満面に朱を注いで怒り、アリーに命じてチョラの村を劫掠(ごうりゃく)してかれの愛馬を鹵獲(ろかく)するように命じた。チョラは不在だった。アリーはナリクに侮辱を加えて馬を捕らえ、意気揚々と宮廷に戻った。ナリクはチョラを捜し求めて、ことの次第を委細切々と詩文に託して説明に及んだ。
チョラはまたしても馬を駆ってハーンの軍勢と干戈(かんか)を交え、再び勝利を収めて愛馬を奪い返した。しかし、もはや故郷に留まれぬと悟ったチョラは、一路新天地のカザンを目指して駒を走らせた。

途中、空高くまいあがるアックという鳥を見つけて、矢で射落とした。その鳥はカザンの大地に落ちて体を横たえた。カザンの住人たちは、腕に覚えのあるバトゥルを含めて、アックに突き刺さっている矢を見つけると驚きを隠さなかった。というのも、並みの技をもってしては、空を自由に飛翔するこの鳥を射ることはおぼつかなかったからだ。しかも、その矢を改めてみると覚えのないものだった。カザンの住人が用いる弓では到底使いこなせないほど長い矢であった。剛勇無双を自負してきたカザンのバトゥルたちはいたく自尊心を傷つけられた。
よくよく調べてみると、くだんの矢はちょうどカザンに着いたばかりのチョラ・バトゥルの持ち物だと知れた。すぐさまチョラに弓矢の技を競い合うべく、挑戦状が敲(たた)き付けられた。チョラ・バトゥルは弓矢を借り受けたが、その剛力をもちこたえられる弓はなかった。弦をひくたびごとに、弓はこわれた。そこで、チョラは愛馬にくくりつけてある愛用の弓を求めた。ひとりのバトゥルが出かけて弓を持参しようとしたが、重すぎて運べなかった。ふたり目のバトゥルが助け舟を出してようやく弓を持ってくることができた。こうして、弩弓を手にしたチョラは労せずして勝利をわがものにした。
面目を失ったカザンのバトゥル一同は、チョラを陥れようとして謀りごとをめぐらした。その度ごとにチョラは智略を縦横に発揮して危機をくぐりぬけた。

ある日、カザンのシャー・アリー・ハーン(シャー・ガリ)の息女サル・ハヌム(サル・カニ)は、32人のバトゥルにそれぞれ褒美を下賜した。ある者には名馬、別の者には刺繍のついた衣服、そして刀剣。他ならぬチョラはまだ中身のない金入れを賜った。この思いがけない仕打ちに困惑したチョラは、下賜品を堆肥の上に捨ててしまった。

そうこうするうちに、ロシアの兵力がカザンを襲っているという報がチョラのもとに届いた。32人のバトゥルたちがモスクワ人たちを押し戻さんと7日7晩も奮戦にあい努めたが、その甲斐もなくカザンの運命は風前のともしびであった。ハーンは側近たちに下問した。
「どうしてモスクワ人どもを撃退できぬのか。チョラ・バトゥルはいずこに在るのか」
君命をおびたカザンの長老たちがチョラをたずねて、弓矢をとりてロシア人とたたかうように愁訴した。チョラは答えなかった。不首尾を知ったハーンは自ら、鹵簿(ろぼ)を進めて、チョラの出陣を求めた。それでもチョラは動かなかった。こうしてようやく、サル・ハヌムが出駕する。王女はえりぬきの侍女たちを側に控えさせながら、涙ながらにチョラ・バトゥルに事態の急を告げて、出廬(しゅつろ)を懇請した。ようやくに応えたチョラは、それでも皮肉まじりに次のように糺すのを忘れなかった。
「王女さまは32人のバトゥルたちには貴重な賜り物をくだしおかれたのに、それがしには空の金入れを下賜されました。32人のバトゥルはたがわずにモスクワ人どもを追い返すことでしょう。どうして、それがし如きがこの部屋を立ち去る必要がありましょうか」
王女はたずねる。
「金入れはいまどこにあるの?」
チョラは答えて、いう。
「堆肥の上でございます」

サル・ハヌムと美人ぞろいの侍女たちは、息せききって堆肥のもとにかけより、そのなかに入り込むようにして目当ての品をさがした。侍女たちは、ようやくにして金入れを捜し出して、主人に献じた。サル・ハヌムはそれを開いて、八度も抱擁した剣を中にそっとしまった。チョラは狂喜した。この名刀『ギョク・チュブク』を振りかざして、チョラはカザンを包囲するロシア人たちのなかに突進していった。チョラはロシア人たちを撃退して、カザンの囲みを解くことに成功した。
チョラの勇武の前に一敗地にまみれたロシアの将官は、二度と師(いくさ)をおこさないこと、剣を佩びないことを誓約した。チョラは勝利の勲功によって、めでたくカザン汗国のハーンの「バシュ・バトゥル」つまり大将軍の位に陞(のぼ)つたのである。

敗北にうちひしがれたロシア人たちは、カザン再攻略を懲りずに企てていた。なかんずくチョラの力を削ぐにはどうしたものかと占星術師に相談をもちかけた。
占星術師は不気味な預言をした。やがてひとりのロシア人の少女がチョラ・バトゥルの子をみごもり、その男の子は長じるに及んで、実の父を殺すのだ、と。
ロシア人たちは、見目麗しい少女に秘命を授けてカザンにおくった。彼女は、チョラを見つけて同衾し、子を宿せばすぐロシアの地に戻るように命じられた。はたして、チョラはこの美女の擒(とりこ)になり、生活を共にするようになった。ややあって懐妊したロシア娘は故郷に戻った。

時が過ぎる……。
チョラがロシア娘に生ませた男子は、すくすくと成長した。
かれはまもなく、カザンに向かうロシアの軍勢の先鋒として指揮をとる。
カザン攻防をめぐる最後のたたかいのなかで、チョラ・バトゥルは実の子の手にかかって非業の最期をとげることになる。...
[PR]

by satotak | 2006-12-31 11:01 | タタール
2006年 12月 31日

タタール 補遺

タタールとバシキール
「タタール」と「バシキール(バシコルト)」はよく並べて記され、兄弟民族とも言われているが、タタールとバシキールを分かつものは何なのだろうか。何が同じで、何が違うのか。それぞれ別の国を建てる必然性はどこにあったのか。お互いが自分をどう認識し、相手をどう見ているのか。
山内昌之は「スルタンガリエフの夢」の中で、「タタール人とバシキール人は文化やエスニシティの面でしばしば区別できないほどよく似ている」と書いている。日本で言えば、薩摩と長州ほどの違いもなかったのではあるまいか?

民族があって国ができるのか、あるいは国境が民族を峻別するのか。
実際、1920年前後には様々な国家構想があったようである。
1920年のタタールスタンとバシキリア
20世紀のボルガ(イディル)・ウラル地方
最近、北大出版会から「ロシア帝国民族統合の研究 -植民政策とバシキール人-」(豊川浩一著)が出版された。読んでみたいが、値段が9,975円!…図書館で探してみよう。

タタール NOW
日本のメディアでタタール、特に現在のタタールが取り上げられることはほとんどなく、タタールと言っても、なかなか現実感が伴わない。タタールの人びとはどんな顔をしていて、どんな言葉を話しているのか?
そこでインターネットをあちこち探してみて、見付けたのがタタルスタン共和国の公式ホームページ(英語版)。
Official Web-site of the Republic of Tatarstan

[Videos]タブをクリックすると、テレビ放送のダイジェスト版のようなものにアクセスできる。多くのコンテンツがあり、各コンテンツのタイトルにタタール語版かロシア語版かの別も記されている。タタール語のコンテンツを視聴すれば、タタール語の実際を聞くことができる。(多分! 自分はタタール語もロシア語も分からない。)

ただし、私が使っているInternet Explorerでは、コンテンツをファイルに保存することはできるが、直接再生することができなかった。

コンテンツの中から数例を紹介する。
今週のニュース 2006.9.9
歌とスポーツの祭典 2006.7.14
カザンのサバンテュイ祭 2006.6.24
シャイミエフ大統領の年次教書 2006.3.3
シャイミエフ大統領の就任式 2005.3.26
[PR]

by satotak | 2006-12-31 09:04 | タタール
2006年 12月 31日

タタールの起源とその盛衰

山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史②>」(東京大学出版会 1986)より:

タタールのエスニックな起源 (注1)
スルタンガリエフを生んだタタール人は、その兄弟民族バシキール人とともに、ヴォルガ中流域を核としながら同じ歴史的遺産と故郷を共有している。かれらの居住圏は、西のかなたオカ川やドン川の低地にいたり、東はウラル山脈をこえて西シベリア地方に広がっていた。また北はヴャートカ川に接し、南はヴォルガ中流域を中心にアストラハンまで伸びている。

タタール人とバシキール人は文化やエスニシティの面でしばしば区別できないほどよく似ているが、かれらの民族的起原は詳しく分かっていない。しかし、ヴォルガ川流域のフィン=ウゴール系先住民を基層部分としながら、かれらと、後から移動してきたチュルク(トルコ)系移住民との間のエスニックな混交から生れたことはまず間違いがない。フィン=ウゴール系先住民の血は、今日のモルドヴァやマリなど、ヴォルガ中流域のムスリムでないフィン系の民族集団に継承されている。この混交プロセスは、紀元後670-740年頃(一説では5-6世紀)にヴォルガ川とカマ川との間にある森林地帯に、ブルガールと呼ばれるチュルク系民族集団が定住した時から始まっている。このプロセスはキプチャクという他のチュルク系民族集団の到来とともにいっそう促進された。キプチャクがうちたてた支配権力は、11-12世紀に全盛期を迎えたという。最近の考古学調査の成果に依拠すると、キプチャクなど非ブルガール系の民族集団がヴォルガ中流域のエスニックな混交プロセスに果たした役割は、これまで想像されていた以上に大きいようである。

この混交プロセスの転換点となったのは、13世紀のモンゴルの到来である。1230年代からブルガール国家はモンゴルの国家を構成する自治的要素として認知されていたが、後者がキプチャク・ハーン国と呼ばれているように、ヴォルガ中流域の住民に占めるキプチャクの比重が高くなっていた。

ところで、ブルガールはヴォルガとカマの二つの川に挾まれた土地に移住してきたが、その地での定住化を決意した。かれらは、チュルク系民族集団のなかで初めて遊牧生活を放棄した種族といわれている。ブルガールは、早くも8-9世紀になると、通商交易を経済力の基盤としていたが、これはやがて末裔のタタールにも受けつがれる才能の前ぶれであった。かれらが通商交易に従事した理由としては、定住化した土地がどちらかというと森林地帯であり、農業や家畜の飼育にあまり適さなかったことが考えられる。そのうえ、かれらの土地がアジア・中東と東・北欧を結ぶ交通の十字路に位置しており、ヴォルガとカマの河川交通を利用した中継貿易に最適の立地条件に恵れていたことも忘れてはならない。また当のブルガール自身も、陶器・宝石細工・皮革・履物の加工にたけていた。ウラルの東沿いの地域では、かれらのつくった皮革製品が「ブルガーリー」と名付けられて、珍重されたほどである。

ブルガールの商人は、通商交易から富を獲得しただけでなかった。取引きの相手だった南方のアラブ商人からは、かれらの歴史を決定づけるイスラムを受容している。こうしてヴォルガ中流域は、ブルガール国家がイスラム文明圏の最北辺となったおかげで、発展の一途をたどるイスラム世界の「文化的植民地」として新しい世界史に合流したのであった。

ブルガールとヴォルガ中流域のイスラム化
西暦922年5月12日、ブルガール国家はイスラムを国教として受けいれ、遊牧民時代にさかのぼるアニミズムの多神論的伝統と訣別した。ブルガールの後継者タタール人は、スルタンガリエフなど後世のムスリム・コムニストも含めて、祖先のイスラム化が、剣や外交に強制されたのではなく、自発的なウンマヘの参加であると誇らしげに評価している。実際、ブルガールのハーンだったアルマスは、921年にバグダードのアッバース朝カリフ-アル・ムクタディルに使者を送って、モスクの建築や住民の教化を指導する使節団を派遣するように求めた。…アルマスはイスラムに改宗してめでたくジャファル・アブド・アッラーフとなった。

ブルガール国家の経済を潤す動脈が通商だったとすれば、その精神を支える脊椎はイスラムであった。しかし、ブルガールの繁栄はしばらく中断された。13世紀に東方からモンゴルが侵入したからである。やがてこの打撃から立ち直ったブルガールは、50年あまりキプチャク・ハーン国の内部で自治を享受しながら、河川を利用した毛皮貿易の集積地をつくりあげた。ブルガールの中心地は、北方の生産物を毛皮とともに東西に仲介するハーン国のなかで、首邑サライとならんでヴォルガ川流域で繁栄を謳歌した。イブン・バットゥータのいう「暗黒の地」からの毛皮は、イラク、シリア、エジプトなどの中東・中央アジア・中国・インド・ヨーロッパに拡がるユーラシア大陸通商網の拡大を促したのである。

しかし栄華を誇ったブルガールの首邑は、1395年にいたってティムールの荒涼のために烏有(うゆう)に帰した。ティムールの嵐を生きのびたブルガールの住民は、カマ川に沿った昔ながらの故郷を放棄して、新しくヴォルガ川右岸にカザンを築きあげて再出発した。この時いらい、かれらはしばしば「ブルガール・アルジャディード」(新しいブルガール)と称された。

ブルガールとタタール
「新しいブルガール」の名称が暗示するように、新天地カザンの国づくりに勤しんだのは、ほとんどがブルガールとモンゴルの混合結婚や文化的な混淆の結果から生みだされた人びとである。モンゴルは支配民族としてはキプチャク・ハーン国のエリートであったが、ブルガールやキプチャクなどの言語・文化・慣習を採用するなかで徐々に被支配民族に同化していった。この同化プロセスを促進したのは、1273年のキプチャク・ハーン国によるイスラムの国教化である。しかし、モンゴルが後世の歴史に最も重要な追憶を残したのは、民族の名称である。征服者の部族名である「タタール」(韃靼)が「ブルガール」の名にとってかわり、15世紀に入ると「ブルガール」の呼称はヴォルガ中流域からほとんど姿を消してしまった。ブルガールの方にはかれらなりの思惑もあった。かれらは、「タタール」を名乗ることによって、14世紀に広く人口に膾炙(かいしゃ)したモンゴル・タタールの軍事的名声や政治的能力の後継者を自負する機会を得て、自分たちの実力を誇示する狙いをもっていたともいう。いずれにせよ15世紀になるまでに、イスラム化したブルガールやキプチャクなどのチュルク系定住民、タタールなどモンゴル系遊牧民、フィン=ウゴール系定住民の一部は、「タタール」と自他ともに許すエスニック集団に溶解していった。

イスラム国家の都カザン
カザンは、1438年いらい新国家の中央集権化を推進したウル・ムハンメド(メフメト)のときからカザン・ハーン国の首邑となった。この国は、ブルガール国家の通商交易と工芸の伝統を継承するとともに、肥沃な土地を生かした農業の振興にも熱心であった。ハーン自身それにミルザとよばれる特権貴族階級、ワクフ(宗教寄進財産)をもつ大モスクが大土地所有者であった。園芸や家畜飼育と結びついた三.圃制耕作は、ヤサクという現物による貢租を納める農民によって維持された。しかし、かれらが耕す地条は狭いうえに農業技術の水準も低かったので、目をみはるほどの収穫はなかった。そこで、ヤサク農民は農耕以外に狩猟をも生業にせざるをえなかった。毛皮がヤサクの主要物品だったのはこのためである。

カザンのタタール商人は、皮革・宝石細工・陶芸などの手工業製品や毛皮・魚・奴隷などをモスクワ大公国やクリム・ハーン国との交易で取引きした。15-16世紀のカザンは、ヴォルガ流域最大の経済中心地となり、東・北欧とアジアとくにオスマン帝国との中継貿易の拠点となった。商人はモスクワとイスタンブルの毛皮貿易の仲介者として広く名声を博した。

カザン・ハーン国は通商交易と関税収入で富を蓄積しながら、ヴォルガ川のほとりに独特なイスラム文化を開花させた。有名なスユム・ビケ女王の摂政時代(1549-1551)を中心に、メクテブやメドレセと呼ばれたイスラム学術の教育・研究施設はじめ図書館や文書館も造成された事実は、1539年にムハンメディアルが書いた『人びとへの贈りもの』のなかに描かれている。この詩人が1542年に書いた『心の光』の623連を貫くモティーフは、人類愛・寛大さ・恥・戦争・忍耐・公正など、世界中どの地域の「文明国」であろうと妥当する「普遍主義」の詩境であった。ムハンメディアルの詩は、アラビア語とペルシア語の借用語に依拠しながら、タタールの言語を整備することにも貢献した。
その言語が彫琢(ちょうたく)されるにつれて発展した豊富な民俗文学と伝承は、16世紀のカザンが申し分なく文明化された豊かなイスラム都市だった面影を今日まで伝えている。

カザン汗国の内訌と衰亡
1390年代のティムールによるアゾフ、アストラハン、ウルゲンチなどの破壊、1453年のコンスタンチノープルの陥落と関連する大航海時代の開始などは、世界史上の通商パターンに画期的変化をもたらした。この変動は、カザンと中央アジアを結ぶユーラシア内陸ルートを衰退させる原因ともなった。しかも折も折、カザン・ハーン国は、内部の政治対立に加えてモスクワ大公国とクリム・ハーン国を軸とする新しい国際対立と勢力均衡の犠牲となって、1487-1521年にかけてロシア人による間接支配を経験する破目になった。ハーン国内部の「ロシア派」と「反ロシア派」が繰り返した内訌のあげくに、カザン.ハーンのシャー・アリーはひとまずクリム・ハーンの兄弟サヒプ・ギレイに王座を追われた。イワン四世のカザン征服もこの内紛に負う所が大なのである。

カザン・ハーン国は、わずか107年たらずのあいだ存続したにすぎない。しかし、ハーン国はヴォルガ中流域のムスリム住民の歴史に忘れえない想い出を刻みこんだ。そのイスラム文化と国家の枠組のなかで培われたアイデンティティこそ、後世の子孫に受けつがれてタタール人の自覚をいやがうえにもます民族意識の源流となったからである。

(注1)ヴォルガ=ブルガール国家とカザン・ハーン国の版図」参照
[PR]

by satotak | 2006-12-31 09:03 | タタール
2006年 12月 31日

ロシア帝国治世下のタタール -ディアスポラへの道-

山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史②>」(東京大学出版会 1986)より:

正教化と四つの時期区分
ロシア国家の中央ユーラシア方面への膨張は、ロシア正教会がムスリムやアニミストにおしつけたキリスト教化と渾然一体となって進められた。ロシア史を通して聖俗両権力の複雑な関係はたびたび変化したが、神の福音とツァーリの恩寵をあまねく「しろしめす」という目的においては、正教会の布教活動はロシア国家のイスラム地域にたいする統合政策とたがいに補完しあっていた。その布教活動はタタール人ムスリムのばあいに、ロシア国家の政策と関連して大まかに四つの時期に区分できる。

まず第一は、イワン四世の時代からリューリック朝モスクワ大公国が衰亡に向かった16世紀末にいたる時期である。この間の教権は相対的に俗権から自立しながらタタール人の強制的同化を狙った (1552-1600年)。第二は、ピョートル一世などロマノフ朝初期の俗権優位の時代である。この時期も強制的同化が進められたが、行政的措置を伴ったのが特徴である (1600-1762年)。第三の時期は、啓蒙専制君主エカチェリーナ二世がイスラム信仰とタタール人の商工業活動に寛容な姿勢を示した時代である。そして第四は、エカチェリーナの寛容政策によるイスラムの活性化を危惧した俗権が正教会に布教活動を再開させて、教育や言語を手段に文化的同化を企てた時期である。時代と性格を異にしながら、この四つの段階を貫く太い糸がある。それは、自らの信仰と独自の生活様式を捨てまいとするタタール人ムスリムの不屈の抵抗力であった。

クリャシェンの誕生
カザン陥落直後、文武両権をもつ「ヴォエヴォーダ」と並んでカザンの植民地経営にあたったのは、1555年にカザン大主教に叙任されたグーリーであった。かれの宗務行政権限は、カスピ海にいたるヴォルガ全流域、ウラル山脈をこえてシベリアにいたる東方全域に及んだ。グーリーは、「異族人」の農民層のあいだに入ってねばり強く布教し、時には村や地域をまるごと正教に改宗させる成果をあげた。これは、かれがタタール語など地元語をよく駆使した賜物だったろう。タタール人改宗者の一団は、修道院と教会のすぐ傍に独自の共同体をつくりだし、ロシア語で「洗礼をうけた人」を意味する「クレシチョヌィ」またはタタール語で「クレシェン」とよばれた。かれらはロシア史上、タタール語が訛った「クリャシェン」の俗称で有名である。…

ディアスポラのはじまり
グーリーとちがい布教活動にアメよりもムチを用いた最初の人物は、1589年にカザン大主教に叙階されたゲルモーゲンである。かれはその主君フョードルの意を体して、ムスリムに苛酷きわまる措置をとった。1593年の勅書はロシア領土内のモスク新設と修復を禁止したが、この措置は現存するモスクの一掃を狙っていた。…

フョードルとゲルモーゲンの正教化政策は、ヴォルガ中流域のイスラム共同体にかなりの打撃をあたえた。カザンばかりか他の由緒あるイスラム都市でも人手を欠いたモスクがさびれはて、信仰の活力源であるワクフ収入は途絶えてしまうか公収された。イスラム文明の知の泉だったメドレセとメクテブも次から次へと閉鎖された。ウラマーは、ムスリム貴族ともどもロシアの聖俗両権力の憎悪の的となり、一身に弾圧を受けた。この試煉を運よく生き延びた者は、農村に難を避けて身を隠すか、自由を求めてはるか東方の地に亡命した。ムスリムのヤサク農民もロシア人との同化を拒んで、信仰を堅持するために集団で東方に脱出した。こうしてタタール人のイスラムは、「都市の宗教」の特性を失い「農村の宗教」として子孫に伝えられた。これは、イスラム史ではまったく新しい経験であった。

しかし、農村へのウラマーとタタール商人の浸透は、フィン系アニミスト住民のイスラム化とタタール化を促進する契機ともなった。もっと重要なのは、タタール人の東方への亡命や移住が、ロシア人も手をまわしかねた辺境地帯のカザフやノガイなどの半遊牧民や遊牧民のイスラム化を促したことである。また、中央ユーラシア各地の通商交易に活躍したタタール商人は、シベリア、トルキスタン、北カフカースに居留地をつくり、地元のムスリム住民との混合結婚や文化的混淆のおかげで独特な離散状態のエスニック共同体をつくりあげた。こうして16世紀末に早くも、のちにタタール人の目立った特徴となる「商業民族としてのディアスポラ」が始まったのである。ディアスポラ(離散)の状態にありながら、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、イスラム信仰と、文明語として熟していたチュルク=タタール語への執着のためであった。それにタタール人の民族意識をたえず覚醒させた別の要素も忘れてはいけない。ロシア人征服者にたいする憎悪と怨恨という心理的な要素も。…

ピョートル大帝の対イスラム政策
大帝ピョートル一世の即位から女帝エカチェリーナ二世の登極までの一世紀は、タタールにとって一番長く感じられる苦難の時期であった。ピョートルは1721年にモスクワ総主教を廃したかわりに、「最も聖なる統治権を有する宗務院」をつくって改宗布教活動を国家政策の必要性に従属させた。また、ムスリム地主の社会的凋落に情容赦なく追いうちをかけたのは、1713年に出されたピョートル一世の勅令であった。これは、カザンとアゾフのムスリム地主にたいして6ヵ月の猶予期間内に正教に改宗するか、それとも土地と農奴を国庫へ返還するか、いずれか一つの選択を命じていた。…

こうして、勤務タタールの上層部にいたムスリム貴族は急速に姿を消した。…改宗者はロシアの貴族層に吸収されたが、信仰を堅持した者は異族人身分の納税階級に身を落した。…

啓蒙専制君主と「啓蒙宗教」
エカチェリーナ二世の治世は、あらゆる面で「抑圧された民族」だったタタール人にとって息つぎの時代となった。ドイツ貴族の娘エカチェリーナが、イスラムを「啓蒙宗教」として評価したヴォルテールの影響をうけたことはよく知られている。彼女は、ロシアの東方膨張にあたり、タタール人がカザフ人やバシキール人など遊牧民・半遊牧民を「文明化」する役割を期待した。たしかに多民族帝国としてロシアが発展するのに、ロシア正教のみに依拠して各民族固有の信仰や誇り、慣習をふみにじるのはあまり賢明とはいえなかった。クリャシェンのプガチョーフの乱参加にみられるように、強制的な同化政策の行きつく結果を、現実主義者の女帝は案じたのかもしれない。

また、「不信の徒」たるロシア人との交易に背を向けがちな、中央アジアに広がる無限の市場もロシア経済には魅力であった。タタール商人はムスリム同信者としていともたやすく、ユダヤ教徒やロシア正教徒の商人を寄せつけない未知の土地に出入りしていたのである。タタール人の商いの才能と経験を帝国の富の蓄積に貢献させないでおくという法があろうか。こうして女帝は政策の転換にふみきったのである。

エカチェリーナは、即位後まもなく1764年に悪評の高い取扱局を正式に廃止し、67年にカザンを親しく訪れてムスリムの市街地居住とモスク建立を許可した。73年になると彼女は、帝国の全ムスリムにたいしても信仰の自由を与えただけでなく、メクテブ・メドレセ・モスクの建造をも公認した。1776年には、タタール商人の通商活動に加えられていた規制も撤廃されている。エカチェリーナの下で1783年に征服されたクリム半島のムスリムは、既得権をあまり失わずに済んだ。ヴォルガ中流域では89年に正教会による布教・改宗活動が制限をうけるまでになった。また驚くべきことに、99年になると、正教会によるムスリムヘの改宗活動が公けに禁止されている。これらは、ロシア帝国のムスリムの歴史において画期的な事件であった。あるムスリムが彼女の治世をロシア・イスラムの「黄金時代」と呼ぶ所以である。また、エカチェリーナの寛容政策がクリャシェンのイスラム再改宗を促した点も注目に値する。

しかし、タタールの歴史で画期的な意味をもつのは、ムスリムの生活全般にわたって法学的な解釈と適用に責任を負うムフティー職の設置が1782年に認められたことであろう。しかもこのムフティーは、信者たちによって選出されるきまりになっていた。ムフティー職の設置は、ロシアのムスリムが精神生活の上では公権力から自立した、ひとまとまりのイスラム共同体つまりウンマに属している事実をロシア帝国がはじめて認知したことを意味している。また歴代のムフティーはほとんどタタール人だったが、これはタタール人のあいだにイスラムの一体性への自信を再び植えつけ、自分よりおくれてロシアの支配下に入った同信者を「長兄」として指導する自覚をよびさますことになった。…オレンブルクのムフティー職は1788年にムスリム宗務協議会に再編成され、その権限はヴォルガ中下流域のタタール人とバシキール人を中心とする内地ロシアの全ムスリム及んだ。…

タタールの再生
ロシア経済の拡大とともに、18世紀末になるとカザンは、往年の経済中心地としての地位をタタール人の居留する別の新興都市に譲った。オレンブルクと「セイトフのポサード」、オルスク、トローイツク、ウラルスク、アストラハン、セミパラチンスクを結ぶタタール人の商業交易の密にして漏らさない網が中央ユーラシアの全域にはりめぐらされた。さらにタタールの居留区は、シベリア、トルキスタン、カフカースだけでなく、アルタイ、マンチュリア、東トルキスタン(新彊)、中国内陸部はては中・西欧や合衆国の各都市にも開拓された。ニューヨークで毛皮販売を一手に引きうけたのはタタール人であった。このような「ディアスポラ」の活力は、タタール人のあいだにパン・トルコ感情やパン・イスラム的気運を生みだす素地をつくりだしたのである。…

カザフ人にウラマーなどの宗教者を供給したのもタタール人であった。のちにスルタンガリエフは、「宗教に大義名分をかりて信心ぶかい」カザフ人を「たやすく搾取する」ためにタタール人のなかでも「意志薄弱なくず」ばかりが送りこまれたと皮肉っている(「ムスリムにたいする反宗教宣伝の方法について」)。いずれにせよ、西部カザフスタンを中心にタタール人の慣習法やシャリーアが広く普及し、タタール人のウラマーがカザフ人の食物・言語・衣服にいともたやすくなじむのを、正教の宣教師はただただ拱手傍観する他なかった。…

ロシア人とタタール人の経済競争
1860年以降になると近代技術の粋を集めたロシア人産業大ブルジョワの製品にたいして、相変らず中世的な手工芸の段階で足踏みをしていたタタール人手工業者の製品は大刀打ちできなくなった。また、蒸気機関を疾走させるロシア人の産業資本家と、勤勉と信用だけを頼りに牛馬で廻るタタール商人では勝負が目にみえていた。タタール人たちは新市場の積極的開拓に走りまわるどころでなく、これまでの通商交易網を守って自らの優勢を保持するのに汲々とした。それでもタタール人商業資本家のなかには、ロシア人の近代技術や取引方法を模倣しながら新しい試煉に立ちむかって成功を収めた者も少なくない。…

それでも全体としては、1880-90年代のタタール人商業・産業の衰退はおおうべくもなかった。そのうえ、エカチェリーナ死後の帝国の行政官は中央・地方を問わず、しばしばロシア人に依怙贔屓してタタール人にたいする露骨な差別政策をとりはじめた。…

ガスプリンスキーの「新方式」
ナースィリーの「タタール主義」と対照的な「パン・トルコ主義」もタタールのイスラム改革思想の水脈に合流するモダニズムの産物であった。パン・トルコ主義は、…ロシアで誕生した当時はむしろ文化的な改革運動を支える穏健な思想にすぎなかった。

その創始者イスマイル・ベイ・ガスプラル(1851-1914)またはガスプリンスキーは、クリム・タタールのムスリム貴族の家系に生れた。クリム・タタールは、ロシア帝国のヨーロッパ領土のなかでヴォルガ中流域のタタール以上に孤立したチュルク系の小さな共同体であった。このためにかれは、帝国の他のチュルク諸民族と密着しなければ、近代世界において民族として存続するのもおぼつかないとクリム・タタールの未来を危惧したのである。ガスプリンスキーはパン・スラヴ主義にならって、パン・トルコ主義こそクリム・タタールひいては似たような境遇にある中央ユーラシアのイスラム化されたチュルク諸民族に有益だと信じたのである。…

かれは、イスラム改革思想のどの先駆者にもましてチュルク諸民族の再生のエネルギー源を教育の革新に求めた。とくにかれは、『コーラン』の章句や教授の講述の暗記に終始する伝統的なイスラム教育を批判して、音声の理解を重視した新体系や世俗の諸学問の合理的な教育方法を導入しながらメドレセやメクテブの改革を試みた。これは、古色蒼然とした古典的教育の「旧方式」(ウスーリ・カディーム)と対照して、「新方式」(ウスーリ・ジャディード)またはたんに革新と新規を意味する「ジャディード」とよばれる学校の創立につながった。…

パン・トルコ主義における「タタール・ヘゲモニー」
ガスプリンスキーのパン・トルコ主義思想は、帝国の各地に散在するタタール人をたがいに有機的に結びつける手がかりともなり、タタールの居留地があったカザフスタン、トルキスタン、西シベリアなどのチュルク諸民族を統一する有力な武器であった。また、それは、ユーラシア大陸にまたがってロシアの公権力に庇護されたロシア資本と競合するタタール人の商業ブルジョワジーの経済的利益を代弁する思想でもあった。ロシア人の産業・商業ブルジョワとの死活をかけた経済的な競争に生き残るための切り札は、イスラムにもとづく宗教的一体性と、タタール人はじめチュルク諸民族に共通する言語的統一性であった。これこそタタール人の商業ブルジョワがガスプリンスキーのパン・トルコ主義の宣伝に援助をおしまず、「新方式」などジャディーディズムによるイスラムと民族の復興を激励した理由なのであった。タタール人などムスリムのチュルク諸民族のばあい、パン・トルコ主義とパン・イスラム主義は決して矛盾せず、イスラム改革思想のなかで琴瑟(きんしつ)相和するように結びついていたのである。

しかし、20世紀に入るとバシキリアとカザフスタンでは、タタール商人の経済力や「新方式」によるタタール文化の普及に支えられた「タタール・ヘゲモニー」は、同じムスリムのあいだでも他の民族から警戒されたり反感をかうことも珍らしくなかった。「タタール・ヘゲモニー」は、遊牧民や半遊牧民のばあいには「文化的に進んだタタール人がバシキール人を圧迫」したとスルタンガリエフが述べるように、ロシア人のタタール人抑圧に似た圧迫の構造をムスリムの内部で生みだしかねなかったからである。ロシア人の抑圧に劣らずムスリム諸民族内部の対立も考慮に入れなければ、1917年以降のウンマの分裂原因をさぐることができないであろう。
[PR]

by satotak | 2006-12-31 09:02 | タタール
2006年 12月 31日

スルタンガリエフ -タタールのムスリム民族共産主義-

山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史②>」(東京大学出版会 1986)より:

スルタンガリエフ (1892-1940)
タタール人のムスリム民族共産主義者. カザンのタタール人師範学校に在学中,ロシアの革命思想から大きな影響を受けた. ウファやバクーにおけるジャーナリストなどの活動を経て,1917年のロシア革命を機にカザンに戻る. そこでムスリム社会主義者委員会やムスリム共産党の組織化にあたり,17年6月に,のちのソ連共産党の前身ボリシェヴィキの党に加盟した. まもなくレスターリンに抜擢されて,中央ムスリム軍事参与会議長,民族問題人民委員部参与会員,《民族生活》紙編集長,赤軍政治総本部東方局長,連邦土地委員会議長など,20以上の常勤の役職を務めた. これは,ムスリム・コムニストとして最高の栄位に昇りつめたことを意味する.

彼は,イスラーム東方世界における社会主義の独特な性格を強調した. 階級闘争とプロレタリア独裁に関するマルクス主義の古典理論を修正することによって、〈第三世界〉の意味と重要性に初めて着目した非ヨーロッパ出身の社会主義者であった. とくに,主要著作《ムスリムに対する反宗教宣伝の方法について》(1921)の中で,イスラームがまるごと反動的な宗教だという誤った説を斥けて、個人と集団を進歩的な社会原理に基づいて統合する規範としてイスラームを積極的に評価した. また,抑圧されたプロレタリアートとのアナロジーで抑圧された民族を〈プロレタリア民族〉と考える独特な視点を打ち出した. コミンテルン(共産主義インターナショナル)がヨーロッパ中心主義に堕していると批判して,アジア・アフリカの抑圧された民族からなる〈植民地インターナショナル〉の結成を呼びかけた.

スターリンの党運営を批判したこともあって,23年5月に逮捕され,まもなく〈民族主義的偏向〉として党から除名された. 28年12月に2回目の逮捕. 31年1月~34年3月,白海のソロフキで服役. 釈放後,37年に3回目の逮捕,40年1月28日に処刑された.
ペレストロイカの下で90年6月に名誉回復. 彼が活躍したカザン市にはスルタンガリエフ広場がつくられて,タタールの人々がその往事を偲んでいる.
[以上は「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より、筆者:山内昌之]

スルタンガリエフの生い立ち
ジャディーディズムに象徴されるイスラム改革思想で重要なのは、特異なタタール人社会主義者の一群を生みだしたことである。スルタンガリエフの生い立ちと政治的経歴は、かれらの軌跡の縮図であった。

タタール名ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグルは、1880年頃に、現在ではバシキール共和国に入っているステルリタマク郡のクリムサカル村に生れた。1892年生まれという説もあるが…かれの父は村の小さなメクテブの教師つまりムアッリムであった。
スルタンガリエフの父は、ムアッリムの御多分に洩れず、ロシア政府から俸給をもらわなかったので貧しく、その家族もつましい生活をおくっていた。…村の名士会が定めた安い報酬に甘んじていたのであろう。…

クリムサカルは100戸ほどをかかえる集落であった。村のメクテブは「新方式」の影響を多少は受けていたらしい。スルタンガリエフも父の薫陶をうけながら、音声や字母を基礎にしたタタール語とアラビア語の訓練はもとより、算術・地理・歴史の初歩の手ほどきをうけたことは間違いない。メクテブの外観がたとえみすぼらしかったにせよ、ムアッリムや生徒の教育水準は隣村のロシア人学校よりもはるかに高かった。…

スルタンガリエフの父が息子にロシア語を学ばせたことは、当時の心あるムスリム知識人の常とはいえ、開明的な人柄をしのばせる。…スルタンガリエフの家系は、父親の控え目な職業が示唆するよりもはるかに由緒ある血筋を引いていたのかもしれない。スルタンガリエフの名前のミール・サイッドは、親がこの子どもに託した期待と野心のほどを想像させる。というのも、ミールとは「アミール」(王侯)を意味し、サイッドは他ならぬ預言者ムハンマドの末裔にのみ許される名称だったからである。

スルタンガリエフは、父のメクテブで8-9年間にわたって、初等教育を授けられた。その内容は同時代の若いタタール人の仲間と変らなかったはずである。すなわち、古典アラビア語を少しかじり、オスマン=トルコ語とペルシア語にもなじみ、宗教諸学を学び、そのうえにシャリーアの初歩にも関心をもって、たぶん『コーラン』の朗唱術(タジュウィード)の手ほどきも受けたと考えるのが自然である。

こうしてメクテブ生活を終えたスルタンガリエフには、同じムスリム・コムニストたちの幼少年時代と似て、かなり熱烈なタタール民族への愛情とややファナチックなムスリム青年になる素地がつくられていた。しかも、かれの場合は、父親の職業や生活環境の所為で信仰上の禁忌を厳格に守っていた。…しかし、1895年にかれがメドレセではなくカザンのタタール師範学校の門をたたいたことは、後年のスルタンガリエフに素晴しいロシア語の知識を与える下地をつくっただけでなく、メクテブの級友の大多数には考えられもしなかった新しい人生への門出ともなった。

カザンに出たスルタンガリエフ
タタール師範学校は、その当時タタール人に唯一開かれていた国立の中等教育施設であり、ヴォルガ中流域のロシア・タタール学校の訓導の養成を目的としていた。そこでは官許の宗教の時間を除けば、全授業がロシア語でおこなわれていた。1891年に帝国内務省がタタール人ウラマーの公的資格としてロシア語を必須にすると、この学校への入学者が急増するようになり、そこから後年の著名なムスリム民族運動指導者を輩出した。…

スルタンガリエフが師範学校に在学したとおぼしき1895―1900年の5年間は、かれの成長に画期的な印を刻みこんだ。かれは先輩や同級生との交遊を通じて、マルクス主義を含むロシアの社会思想を初めて知ったことであろう。そのうえ重要なのは、スルタンガリエフが父の薫陶により培ったイスラムヘの信仰から徐々に離れるようになったことである。確証はないが、スルタンガリエフが「抑圧された民族」としてのタタール人を救済するために、イスラムを狭い信仰や精神の宇宙から解放してその政治的ダイナミズムを蘇生させようと思いついたのもこの学校の卒業前後ではあるまいか。…

スルタンガリエフは、…1900年にウファ市立図書館に司書として奉職していた。この頃になると十二分にロシア語に習熟していたので、トルストイの作品やザサディムスキーの児童文学のタタール語訳にもあたったようである。その傍、折から澎湃としておこったイスラーフ運動にも参加した。

イスラーフ運動
イスラーフ運動は、1904年頃にカザンのムハンメディエ・メドレセから始まり、…メドレセの学生たちはイスラーフ運動のなかで、文化的改革が政治的自由の獲得と不可分に結びついていることに自覚を深めながら、ツァリーズムやスラヴ主義への反発を深めるようになった。こうしてイスラーフ運動は、「ジャディード改革主義の最も急進的かつ革命的な示威」となったのである。…

しかし、イスラーフ運動の最も重要な意義は、1917年2月革命後に創立されるカザンのムスリム社会主義者委員会に多数の活動家を送りこんだことであろう。そのなかにはスルタンガリエフも含まれていたが、かれの歩みは同輩たちと比べても驚くほど慎重で遅々としていた。…

「異端」と「偏向」
「スルタンガリエフ主義」とよばれるムスリム民族共産主義は、一朝にして成ったわけではない。…だが、1917年2月に共産党に加入したときから、スルタンガリエフがイスラム世界など植民地・従属地域における民族革命と社会主義のあり方について、「正統」的なマルクス主義とは異質な考察を進めていたことだけは間違いない。それがレーニンに代表されるボリシェヴィキの革命理論の「修正」につながったことも明白である。しかし、かれの思想の発展は、1917年の入党から23年の除名をへて29年の逮捕と追放にかけて首尾一貫して連続していたわけではない。
ソヴェトの当局者が公式に「反革命」と定義したスルタンガリエフ主義は、1923年の除名以後に形成されたということになっている。党員当時のかれの思想傾向に「異端」や「偏向」とおぼしき要素が含まれていたのは事実だが、それらをただちに「反革命」と考えるには相当な無理がある。…

それでも、スルタンガリエフの思想のなかに、入党から追放にいたる全時期を通じて終始一貫する糸のような三つの関心があったことは否定できない。やがて「偏向」と烙印をおされるかれの関心は、対立しあう「階級」に分解していない前資本主義的ムスリム社会における社会主義の性格、イスラムと社会主義の関係、国際革命におけるイスラム・東方地域など植民地世界の位置づけ、の三点にむけられていた。…

複合革命論
スルタンガリエフは、タタール人などムスリム諸民族に代表される「抑圧された民族」を民族資本主義と外国帝国主義の消滅を通して解放しようとした点では、ボリシェヴィキの見解にさして異議をさしはさまなかった。しかし、かれとボリシェヴィキとのあいだには、「複合革命」としての10月革命の評価をめぐって無視できない相違があった。
ボリシェヴィキは、10月革命の基本的性格をプロレタリア革命として評価したうえで、それを側面から強化する要素として副次的に農民革命・兵士革命・民族革命を位置づけていた。他方のスルタンガリエフは、「タタール人労働者・貧農が革命には参加しなかった」と、10月革命がタタールスタンで果たした社会革命としての役割をあまり評価しない。スルタンガリエフにしても、10月革命が「地元搾取者」や反動的ウラマーにたいする社会革命と、「民族の牢獄」の解放に冷淡なロシアの臨時政府と対決する民族革命の性格を併せた複合革命だった点をおそらく否定しないであろう。

両者の違いは、複合革命のどの要素をとくに強調するかにある。ボリシェヴィキは、首都ペトログラートの変革が内地ロシアの周縁都市部に外延的に発展して、プロレタリア革命が拡大すると考えた。労働者階級が存在する限り、プロレタリア革命はどの地でも普遍的性格を獲得するのであり、その階級内部に存在する民族間の矛盾や対立は自然に解消するマージナルな問題にすぎなかった。しかし、ムスリム地域のように、労働者階級が存在するにしても、帝国の時代いらいの入植につづく農業プランテーションの発展、鉄道・土木・建築工事の拡大から生れたロシア人労働者が大多数を占め、ムスリム・プロレタリアートが皆無に等しい所では、プロレタリアート独裁は「大ロシア排外主義」の利益と重なることが珍しくなかった。地方党組織やソヴェト権力がプロレタリアート独裁の名にかくれてムスリム地元民の権利をふみにじった例は枚挙にいとまない。…

スルタンガリエフは、ムスリム・プロレタリアートが「階級」として組織化されるまでの過渡期の性格を重視した。かれは複合革命論に立脚しながら、「階級」の区別も定かでないムスリム地域では「抑圧された民族」内部の社会革命よりも民族的差別の解消とロシア人との平等な権利の獲得を目ざす民族革命が優先すると強調した。「民族意識と階級意識の発展をあれもこれも同時に促進することは、問題の正しい理解を混乱」させる原因だと批判した。

スルタンガリエフは、何をおいても民族解放をまず優先させる根拠としてムスリム社会構造の特殊性を二つあげている。第一に、階級分解が緩慢かもしくは存在しないムスリム社会の全体として均質な性格。第二に、プロレタリアートや貧農が質量ともに弱体なので、ソヴェト権力を指導する力量を欠いていること。しかし、スルタンガリエフは、ムスリム地域に社会主義が成立する可能性を否定したわけではない。それどころか、かれの思想で独特なのは、民族の解放こそ、社会主義の達成に不可欠な条件とみなしたことなのである。

プロレタリア民族
スルタンガリエフは、ムスリム諸民族のようにプロレタリアートを欠く民族が、資本主義発展の段階を飛びこして「非資本主義的発展」の道を経由しながら、直接に封建制社会や前資本主義社会から社会主義に移行できると考えた。

これを証明するために、スルタンガリエフにより提示されたのが、「抑圧された民族」を「プロレタリア民族」ととらえる独特な定式である。スルタンガリエフは、1918年3月のロシア共産党カザン県委員会で、ムスリム社会が植民地主義者に抑圧されていたことを理由にほとんど全部の階級がプロレタリアートとよばれる資格をもつことを論証しようとしている。…

そこでイスラム世界では、社会主義の実現を目ざす「階級闘争」は、「生産諸関係」における異なった階級間の闘争というよりも、異なる歴史的条件におかれた「抑圧する民族」またはその特定の階級にたいする「プロレタリア民族」の闘争としても理解されるのである。たとえば、タタールスタンにいるロシア人やドイツ人の中農は、「もっとも恵れた」タタール人の富農よりも豊かなので、タタール人の富農による貧農への圧迫を批判する前にまずタタール人の農民全体に共通する貧困こそ問うべきなのである。…

スルタンガリエフの遺産 (注1)
…ソ連の国外でスルタンガリエフは「復権」した。しかも、時にはソ連では予想もできない名声を外国で博している。いったい、スルタンガリエフ主義とは何であったのだろうか? また、そもそもスルタンガリエフとは何者だったのだろうか? 忘れられた預言者、その理論がついに第三世界の革命のなかで正当化された先駆者、イスラム世界に初めて独特な社会主義連動を移植した人物、現実からやや遊離したロマンチックな革命家、あるいは「ムスリムのトロツキー」……。

ムスリム・コムニストの犠牲者たちの大半は、今日、「名誉回復」を受けて復権した。…スルタンガリエフは相変らず異端のままであり、「反革命」の烙印をおされつづけている。…
しかし何故に、死んだムスリム・コムニストにたいする、妥協を知らない批判が半世紀も続いているのか? かれの思想はそもそもソ連の市民から完全に忘れ去られたのではないのか?

スルタンガリエフは、ロシア人の植民地主義やボリシェヴィキによる「普遍主義」の強制とたたかったが、それらを打ち負かすことはついに出来なかった。しかし、スルタンガリエフは、やがてムスリム民族共産主義とよばれるダイナミックな政治思想や行動の原型を、自らの生命を代償に遺産として後世に残した。アルジェリアやイランの例で見たように、この遺産はムスリム社会に特有のダイナミズムを引きだすことに成功した以上、ソ連のムスリム諸民族にとっても潜在的な反体制のエネルギーとして蓄積される可能性がある。このエネルギーの顕在化を阻げることこそ、ソ連当局によるスルタンガリエフ批判の主な動機なのである。

スルタンガリエフが提示したムスリム民族共産主義は、植民地化されたイスラム世界にとっての革命的な戦略であった。名目が何であれ帝国主義や無神論者の公権力のもとで「抑圧された民族」が存在し、植民地主義や「普遍遍主義」による同化政策がみられる地域では、スルタンガリエフの名をかぶせなくてもムスリム民族共産主義の支持者を必ず見いだすことができる。それは、抽象的な政治思想の領域と社会運動の沃野をつなぐ展望を人びとに与えてくれるからである。

この点にこそ、スルタンガリエフとその思想が、民族のおかれた運命を積極的に変えようとする意志と勇気をもちあわせる者たちに訴えかける魅力があるのである。あたかも、スルタンガリエフ自身が1917年にこう告白したように。
「私を社会主義に導いたのは、自分の心に重くのしかかる民族への愛であった」。

―――「もしトルキスタンがツァリーズムの支配下にあった時のように、実際に植民地であるならば、…その時には、われわれがスルタンガリエフをさばくべきでなくて、スルタンガリエフがわれわれを、ソヴェト権力の枠のなかで植民地の存在を許している人間として、さばかねばならない。」(スターリン 1923年6月)―――

(注1):本書が出版されたのが1986年であることに留意されたい。
[PR]

by satotak | 2006-12-31 09:01 | タタール
2006年 12月 31日

新しいタタール知識人 -第一次ロシア革命後の民族意識-

長縄宣博著「ヴォルガ・ウラル地域の新しいタタール知識人」より:


 2002 年の国勢調査は、ロシア連邦にすむタタール人にとって、自らが何者なのかを改め
て問い直す契機となった。タタールスタン共和国大統領政治顧問のハキーモフは、地元紙に「お前は誰だ、タタール人か」なる連載を発表したが、それは大きな反響を呼んだ。その際、彼が常に参照したのは、20世紀初頭のジャディードたちによる自民族の説明であった。
それは偶然ではない。ソ連の公式史観で「ブルジョワ民族主義者」の代名詞であったジャディードに属する知識人の名とその言説は、ソ連崩壊後、急速にタタールスタン共和国における公式史観を構築するに至ったからだ。本稿の目的は、このジャディードと分類される人々による「民族」の言説が、それが語られていた時代にどのような意味を持っていたのかを考察しようとするものである。それは、過去十年で「正統派」の位置を獲得した「ジャディディズム」をもう一度見直す可能性を開くだろう。…

二つの民族論
 …ヴォルガ・ウラル地域におけるムスリムの統合を志向する者は、カザン方言に基づいた文章語を共有する「タタール人」を「民族」と呼んだ。他方、第一次革命(注1)後の「ロシア・ムスリム」の運動の高まりを意識する者は、「共通トルコ語」に基づく「ロシア・トルコ人」の一体性を主張した。

 以下では、このそれぞれの立場に立つ「民族論」を取り上げて、論争の中で断片的に表明された見解をより具体化してみたい。分析する文献は、ジャマレッディン・ヴァリドフの『民族と民族性』とガズィズ・グバイドゥーリンの『民族主義の若干の基礎』である。着目する論点は、彼らの民族の定義、宗教の理解、「民族史」観に加え、彼らが「民族」とロシア帝国との関係をどう理解していたのかということにある。
 グバイドゥーリンの著作には史料としての説明が必要である。この著作は、…1913 年から1917 年にかけて彼が断続的に発表した論説に基づいているが、1917 年末から1918 年初頭に、…大幅に書き加えられたと考えられる。…このため、彼の著作を1914 年のヴァリドフの著作と同時代的に比較することは困難である。しかし、十月革命後の領域的自治論の基礎にあるそれ以前の「民族」の思想を読み取ることは可能だと考える。

 では、両者の民族の定義から見てみたい。まずグバイドゥーリンは、миллEт(ミッレト)の語がイスラムと共にもたらされた時には宗教的な意味を帯びていたが、今日、西欧人がいうnation の意味で使われ始めていることを指摘する。これは、ヴァリドフが民族名論争の背景を説明した時にも言及されていた。…

 …グバイドゥーリンは、言語こそが人種を分けるのであって、人種と民族が対応することが理想だとする。この観点からすれば、「今日では共通の言葉を話しているが、元来は別の民族と数えられていた人々を統合することは望ましいと考える。」彼は、…共通の言語、歴史、慣習を共有するトルコ諸集団はすでに一個の民族(миллEт)として統合されているので、「パン・トルコ主義」といった運動さえ不要だと言うのであった。

 …ヴァリドフは、グバイドゥーリン同様、言語を宗教よりも重要な民族の要素だと見ている。しかし彼は、統合ではなく分裂することで民族が生まれると考える。これは彼が、土地を民族の要件に加えていることと無関係ではない。彼は、帝国内部に少数者としてムスリムが生きる土地を、諸民族が互いに影響を及ぼしあい、民族の根幹さえ失いかねない民族闘争の場として捉える。
つまり、民族は実生活に基づくべきだ、という考えが彼にはあったのである。この観点から彼は「トルコ人」統合の思想を批判する。

 彼は、当時のトルコ人世界は分離と統合が同時に進んでいると見た。当然、世界各地に広がり、各々が政治的あるいは自然の境界で分けられ、生活さらには言語においてさえも遠く隔たったトルコ系諸民族が、一つの民族として統合することは全く不可能である。かといって、血の親近性、宗教の一体性、言語の類似性によって結びついたこの偉大な民族(кавем)が互いを全く忘れてしまう可能性もない。しかしながら、民族性が無益な夢や感情、学問的なものから成っているのではなく、実生活において機能する社会的な要素だとすれば、民族としての分離は不可避である。...ヴァリドフがトルコ人世界の統合を見るのは、ただ知識人の文化的な関係だけである。
 ここでも彼は「タタール人」の範囲に言及するが、それは民族名論争での主張と同じである。(注2)...

 次に宗教観に着目してみたい。言語を民族の根幹と捉えるグバイドゥーリンからすれば、たとえ一つの宗教を信仰しているとしても、様々な人種や民族文化の下に発展した人々が一個の民族を成さないのは当然である。彼によれば、全人類のためにあった宗教が、ある民族のなかに入ると、その精神状態に合致する側面だけが受容されて、宗教は民族化する。彼は、アフマド・ヤサヴィーやバハー・アッディーン・ナクシュバンドを「民族的な聖者たち」と呼び、彼らは馬肉や馬乳酒を禁じるどころか奨励した、というのである。

 ヴァリドフの宗教観は、新しい知識人のイスラム理解を例証するものとしてすでに見た。(注3)
ここでは彼は、民族がその知、思想、文化において発展するにつれて信仰の持つ凝集力は弱まり、その代わりを歴史の中で形成された宗教的な組織、文学、教育といった社会的な力が担うようになる、と述べる。…

 二人の「民族」の理解が対照的であるので、その歴史をいかに理解するかにも大きな差がある。グバイドゥーリンの議論は、…トルコ民族史観に沿って展開される。彼によれば、5-6世紀以降に出現した大トルコ帝国、チンギス・ハンとチムールの登場、その後の諸ハン国の時代、ロシアの征服からドゥーマ開催までの歴史が、「ロシア・トルコ人を途切れることのない一つの紐で結びつけている。」
 その一方で彼は、ヴォルガ・トルコ人の歴史上の使命とその文明的な義務を論じる。彼によれば、彼らの祖先であるブルガールやハザールは独自の文明を作り出すというよりもむしろ、文明間を繋ぐ役割を果たしていた。ゆえに今日のヴォルガ・トルコ人も、トルコ民族の先頭に立って、東方・トルコ人世界をヨーロッパに近づける義務を負わなければならないのであった。こうしてグバイドゥーリンは、北のトルコ・タタール人には独立した一つの「民族」として生きる権利がある、と主張した。

 これに対してヴァリドフはトルコ民族史観を明確に否定する。「我々の歴史家たちは、民族愛にかられて我々に極めて偉大なトルコ文明があったことを示そうとしているが、そのような文明社会がいつどこにあったのかは確証できない。」彼は「民族」の起源をトルコ人の歴史ではなく、新方式の登場に見出した。
 ヨーロッパの中世を引き合いに彼は、宗教が民族性を抑圧すると述べる。思想、科学、技術の発展こそが、民族の基礎を強化するのであった。もちろんこれはムスリムにもあてはまる。よって、「無秩序がアッラーへの信仰によってタタール人の精神に根付いていることを考慮すると、新方式の貢献と義務が決して低いものではないことが自ずと理解されるにちがいない。」彼によれば、民族性のためにはまず全体的な覚醒が、民族意識が生じるためにはまず共通の意識が必要なのであり、新方式はまさにここに貢献したのである。

 注目すべきは、ヴァリドフが1905 年の革命を「歴史の始まり」と位置付けたことである。まさに第一次革命において「共通の意識」が生じ、精神が高揚し、思想が開かれ、その後は民族的な道に沿って運動が進んでいる、と彼は見たのだ。その背後には、第一次革命期の政治運動の反省があった。…
第一次革命後には、当時の国家制度に条件付けられる形で、階級の差よりも「ムスリム」の一体性を前面に出す大衆運動が出現したのである。まさにこれを捉えて、ヴァリドフは1905 年を「民族」史の始まりと位置付けたと考えられる。そしてそれは、革命時に一個の「民族」として団結した活動ができなかったことへの反省とともに、革命後の変化を捉えずに相変わらず階級闘争を主張する同世代の知識人への批判にもなっただろう。このことからすれば、ヴァリドフが第一次革命とそれがもたらした結果を極めて正確に認知していたことがわかる。しかし、彼はそうした事態を「ムスリム」の運動としてではなく、彼の提起する新しい「民族」、「タタール人」の運動として説明した。

 「民族」とロシア帝国の関係に関してグバイドゥーリンは、民族文明を発展させる領域を確保するという目的で「連邦制」を、「我々の祖国ロシア」のために「人民共和国」を提言している。先にも述べたように、ここには十月革命後の政治状況が反映している。当然、別の考察が必要ではあるが、革命以前のトルコ主義が「領域的自治論」と結びつく点は注目しておいてよいだろう。

 これに対して、ヴァリドフの立場は「文化的自治論」と言える。彼は自分たちがロシア文明の支配下にあることを認め、自身の道を保つためには、この文明にしがみつく力を我々は得なければならないと述べる。ここで彼は、民族性を維持することとロシア帝国の市民であることとの両立を説く。そのために彼は、政府がこの両立を目指した教育プログラムを作るべきだと考える。しかし、ロシア人の民族性に依拠したロシア帝国においては、異族人の願望は考慮されていないのが現状である。よって我々は、国家の法の範囲内で、文明化を促す民族的で社会的な運動に自ら着手しなければならない、と彼は訴えた。

 第一次革命後、政府の「異族人」教育への対応は一変する。1870 年の「異族人教育規則」
には、教育がムスリムをロシア社会に順応させるはずだという期待があった。しかし1910
年のストルイピンの特別協議会は、近代化されたムスリムの学校を脅威とみなし、そのロシア語教育すら禁止して、それを宗教的な領域に押し留めようとした。ヴァリドフが学んだボビィエ・マドラサが廃校になったのもそのためである。これに対して、世俗的な教師でもあった新しい知識人は、1870 年の「規則」に沿ってマドラサにロシア語クラスを設置することを求めた。また、マクタブやマドラサが公的な学校網に組み込まれることが、それらに法的な権利や財源の確保をもたらすと期待した。…地方の自治制度との協力が、新方式に次ぐ時代の到来として捉えられていたのである。

おわりに
 本稿では、第一次革命後の国家制度とムスリム社会の政治意識から、新しい知識人の「民族」の言説を解釈してきた。新しい知識人は、第一次革命後の自らの社会に階級を越える「民族」の存在を認めた。彼らの中には、国会のムスリム・フラクションを核とする「ロシア・ムスリム」という「民族」を「ロシア・トルコ人」として捉える者がいた。また他方で、カザンを中心とする文学の広がりを「タタールスタン」と呼ぶ者もいた。彼らは、その住民たる「タタール人」が民族性を維持し、なおかつ帝国の市民となるために、ゼムストヴォの活動に希望を見出すことができた。確かにヴァリドフが述べたように、彼らの民族論の根本が、帝国の中心部に位置することで「民族の根幹を失いかねない」という危機意識にあったとすれば、西欧の「民族」の概念を用いながらそれに合致するように「民族の根幹」を整理することは、「民族運動」を行なう上で不可欠だった。
しかしまさにそのことによって彼らは、信仰を実践する権利と制度の獲得を目指すムスリム民衆の動きを「実践的な力」として評価できなかったのである。

 現代のタタール知識人は、新しい知識人の「民族」の言説に欧米の「民族形成」の理論を接木している。さらに、「ヨーロッパ化したイスラム」がジャディディズム最良の遺産だと主張している。今日の「正統派」の思想が含まざるをえない限界と20 世紀初頭の新しい知識人による「民族」の言説が示すそれとの間に、共通性は見出せないだろうか。

(注1) 第一次ロシア革命:1905年1月22日、民衆が生活苦の打開、立憲政治の実施、戦況不振な日露戦争の即時停止などを、ロシア皇帝ニコライ2世へ請願するため、首都ペテルスブルクの冬宮に向かってデモ行進を行った。これに対して、軍隊が発砲を行い、3000人以上の死傷者を出した。この事件は「血の日曜日」と呼ばれ、第一次ロシア革命のきっかけとなった。

 この事件によって民衆の不満はいっそう高まり、1905年を通じてストライキが頻発した。6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の水兵がオデッサ市のストライキに呼応して反乱を起こしたが失敗している。10月にはゼネストが決行された。この間に、首都ペテルスブルクなどの大都市で、はじめてソヴィエトと呼ばれる労働者の代表機関が組織された。
 皇帝ニコライ2世は、こうした革命運動の高まりに対して弾圧を行ったが、ついに10月30日、立憲政体の採用と国会(ドゥーマ)の開設を約束し、政情不安も安定に向かった。
 1905年におけるこれら一連の動きを、第一次ロシア革命と呼ぶ。

(注2) ヴァリドフの「タタール人」:彼は、民族を分けるものを言語の違いに見る。しかし、「どの子音が違うと言い、いくつかの接辞が異なることによって言葉や民族を作るとすれば、世界には文章語も、文学を持つ民族も決して現れまい。」こうして彼は、ミシャルやバシュコルトもタタール人であり、さらにはクルグズ(当時はカザフ人を指す)の言葉までもが共通のタタール文学を成すことができると断言した。

 ここには、カザン方言に基づく共通の文章語を志向する新しい知識人の立場が打ち出されているのだが、それは彼らの出自とも関係する。つまり、多様な出自を持つ者たちが、カザンを中心に「タタール文学」を生み出そうとしていたのである。その広がりを「タタールスタン」と呼ぶ者もいた。

(注3) ヴァリドフの宗教観:新しい知識人は、イスラムそれ自体を理念にするイスラムの改革者とは異なり、「自身が信ずるものによって民衆を説得し、民衆を進歩の道に入れることがより容易であるように、イスラムを文明的な方法で武器にし、それを別の目的のための媒介とするためだけにイスラムに言及する。」では「別の目的」とは何か。

 ヴァリドフは、宗教が文明の基礎であり、文明へと上昇するための一つの段階だと捉える。よってイスラム世界においては、その文明の基礎であるイスラムこそがヨーロッパの新しい文明の受容を可能にすると断じる。彼によれば、この新しい文明こそが民族を死から救うのだった。ではいかにして受容が可能か。ヴァリドフは、イスラムを信仰、法、倫理の側面に分けて考察する。彼によれば、信仰の問題は従来から哲学に付すことが禁じられてきたために、理性から科学的に論じられない。他方、イスラム法の問題は現在、真の危機にある。それを今日の条件に適合させる努力にもかかわらず、シャリーアはその大部分を失い、人々がそれに基づいて判断することは全くなくなるだろう。つまりこの二つの側面には、「新たな知的、実践的な力として登場する可能性はない。」 ヴァリドフが可能性を見出すのは、倫理体系、そして聖なる制度としてのイスラムの性格である。彼によれば、民衆において多くが迷信と結びついた倫理は、その根本的な価値を維持する形で、強力な頭脳を持つ知識人が、文明世界の知と一致させることができるはずであった。倫理を知識人が規定できるとすれば、ヴァリドフが実質的に宗教から求めるのは、その聖なる媒介としての役割だけである。よって宗教は、民衆が民族となるための形を提供すると同時に、知識人がその理性で判別した倫理を伝える媒体でなければならないのである。そしてその調和こそが、ヴァリドフの考える理想的な宗教であった。

 彼の議論は明らかに、同時期に進行していた「ムスリム」の大衆運動の論理と異なる。なぜなら「ムスリム」は、ヴァリドフが「文明」の観点から切り捨てた、正しい信仰の実践とそのためのシャリーアの厳密な適用を求めていたからだ。先にも見たように、それは第一次革命を機にムスリムが得た法や制度に裏打ちされており、「実践的な力」を発揮していたのである。新しい知識人は、イスラムという行動原理から離れ、「自らが信じるもの」に基づいて運動を始めたのである。
[PR]

by satotak | 2006-12-31 08:04 | タタール
2006年 12月 31日

韃靼の志士 -日本で活躍したタタール人たち-

宇山智彦編「エリア・スタディーズ 中央アジアを知るための60章」(明石書店 2003)より:

ソ連の崩壊と冷戦構造の後退をうけて、日本は中央アジア諸国を支援するため積極的な「シルクロード外交」を唱えている。だが、日本がこのイスラーム圏へ関心を懐いたのは、これがはじめてではない。20世紀初頭の日露戦争に前後する時期から第二次大戦での敗北に至る半世紀に、この関心は、日本の大陸侵攻と関連し、対回教圏政策として展開した。この時期に、革命に揺れ内戦をへたロシアから日本にタタール人・バシキール人が流入し、「グレート・ゲーム」と第二次大戦に向かう国際情勢の急迫のなかで、彼ら在留ムスリム、そして大陸と東南アジアのムスリムに熱い視線が放たれた。この時期に来日し、政界や軍部、さらに民間の論客と関係をもち、ムスリムの組織化と日本の大陸政策に関わった人々がいる。アブドゥルラシド・イブラヒム(1857-1944)とガブドゥルハイ・クルバンガリー(1889-1972)であり、また、ガヤズ・イスハキ(1878-1954)である。
さて、彼らを輩出した帝政ロシアは、多様な民族・地域を支配し統合する帝国であったが、極東での日露関係の緊迫と開戦は、これら非ロシア系民族の日本への関心を引き起こした。帝国支配下のポーランドやフィンランドの活動家の来日、日本の特務機関との接触はつとに知られているが、帝国支配下のムスリムの来日と活動もこの時期に始まる。イブラヒムの来日は、このような状況でその先駆けをなした。イブラヒムは、1857年に西シベリア(トボリスク県)のタラという町に生まれた[タタール人だ]が、先祖は16-17世紀からシベリアの都市に住み着いたブハラ商人であった。中央アジアのイスラーム圏と結びつき、その知識人の通例として、彼はイスタンブル修学、メッカ巡礼を果たし、ヨーロッパとアジアを周遊し、ツァーリズム批判と汎イスラーム主義を唱えていた。1905-06年のロシアをとらえた革命のなかでは、全ロシア・ムスリム大会開催に指導的役割を果たしている。

このイブラヒムが、その後のストルィピン体制を逃れ、カザンからシベリア鉄道経由でウラジオストクに至り、1909(明治42)年の2月2日未明に敦賀に降り立った。6月半ばに東京を発つまでの日本滞在は、カザンの新聞をつうじロシアのムスリムにも伝えられ、後に『イスラーム世界』(2巻本、イスダンブル)にまとめられ、日本がイスラーム世界に広く紹介されることになった。彼は、この日本滞在で、徳富蘇峰らの文人、大隈重信、伊藤博文ら大物政治家にまみえ、軍部とも密かに接触している。また、スーダンのマフディー運動に参加したアフマド・ファズリー、新彊のトルグート王の息子バルタ・トゥラ、インドの独立を目指すバラカトッラーとも会っている。彼は、日露戦争後の日本の国際的威信の高まりに触れて日本人の自尊心を巧みにくすぐりながら、ヨーロッパ列強からのアジアの解放、キリスト教批判を唱えてまわった。彼は、日本でのイスラーム布教の可能性を確信しつつ、モスクの建設も視野にいれ、国際政治におけるイスラームの重要性を訴えて、日本の大アジア主義と大陸進出と呼応したのである。

第一次大戦が始まると、イブラヒムはドイツでロシア軍ムスリム捕虜の組織化にあたり、ロシア革命と帝政の崩壊のなかで中央アジアで活動した。彼が亡命をへてふたたび来日するのは、1933(昭和8)年の10月である。(注1)

他方で、この革命と内戦をへて、シベリアを東に逃れ満洲を経由し、タタール人・バシキール人を中心とするムスリムが大量に日本に到来する状況が生まれた。彼らはラシャの行商などで知られることになるが、この在留ムスリムの指導者としてクルバンガリーは積極的な活動を展開した。彼は、ウラルのチェリャビンスク地方のムッラーの家系に育ったバシキール人であるが、内戦でコルチャークの白軍に加わり、やがてセミョーノフ軍とともに満洲に逃れた。彼は、日本の大陸政策のなかで回教徒工作の重要性を訴え、日本の政界、軍部、右翼とも密接な連絡をとり、その支援を得つつ、東京回教団を組織した(1925年)。さらに、回教学校を開校し(1927年)、雑誌『ヤニ・ヤポン・ムフビリー(新口本事情)』をイスラーム圏に向けて発刊し(1933年)、東京の代々木上原に回教寺院の建立にこぎつけた。だが、その開堂式(1938年5月)を前に逮捕され、日本を強制退去させられ、彼は、活動の場を満洲に移すことになる。(注2)

クルバンガリーが追放された後、日本のムスリムをまとめたのはイブラヒムであった。彼は、その死に至るまでの10年を、井筒俊彦ら日本のイスラーム学者を育て、在日ムスリムの重鎮として過ごすことになる。

イブラヒムとともに、もう一人のタタール人指導者イスハキが来日しているのも見のがせない。イスハキは、カザン近くのタタール人村落でムッラーの家族に生まれ、タタール文芸で活躍し、ロシア革命のなかでもヴォルガ(イデル)=ウラル国家の実現をめざして闘ってきた。彼は、ヨーロッパを舞台に活動していたが、ポーランド軍参謀部の資金でイデル=ウラル運動を唱え、極東でのその展開に期待して来日した。やがて、ムスリム運動の方向をめぐりクルバンガリーと鋭く対立し、1934年2月11日に紀元節の祝賀に沸く「帝都」で、乱闘事件を起こすことになる。(注3)

1936年にイスハキが極東を離れ、1944年にイブラヒムが死去し、クルバンガリーは翌45年の夏に満洲でソ連軍特殊部隊に捕らえられた。彼らが活動の基盤とした日本、そして満洲、朝鮮をふくむ極東のムスリム社会は、戦後、新中国の成立、朝鮮戦争の勃発、冷戦構造の形成のなかで消失していった。ロシアの支配からの解放を求め北方からムスリムが来日し、彼らの組織化が計られ、その指導者が日本の政界、軍部、言論人と交流し接触した時代、日本の大陸政策とその一環としての対回教政策がこれらのムスリム組織と共鳴・反発しながら「グレート・ゲーム」のなかで展開した一時代は、終わりを告げた。(西山克典)

(注1) イブラヒム:アジアに広がるイスラームの戦略的重要性を認めた日本の招請を受け,33年再来日を果たした. 東京ではロシア革命後の亡命タタール人社会の長老として東京モスク(現,東京ジャーミィ)でイマーム職を務める一方,タタール語雑誌《新日本通報》にイスラーム世界と日本との連帯を呼びかける論説を書くなどして日本の対ムスリム政策に協力した. やがて来日するムーサー・ビギエフに先立ち,少壮のイスラーム学者井筒俊彦に個人教授を行ったことでも知られ,日本の敗色濃い44年8月東京に没した. 汎イスラーム主義の夢を追って,ロシア・ムスリムと日本とを結ぼうとした人物といえよう. (1857-1944)

(注2) クルバンガリー:33年秋にイスハキが来日すると,彼との対立を深めて乱闘事件を起こし,38年に東京モスク(現,東京ジャーミィ)の落成祝賀を前にして国外退去処分を受け,大陸に移った. 45年8月にソ連軍が満洲に進攻すると,セミョーノフとともに逮捕され,55年までヴラジーミル監獄に収容され,その後,ウファ,次いでチェリャビンスクに戻り,ムッラーとして活動した. (1889-1972)

(注3) イスハキ:一貫して反ボリシェヴィキの立場を堅持,ロシア内戦時にはコルチャークと行動をともにした. 19年から亡命,日本,満洲,ポーランド,ドイツ,トルコ等で民族解放運動を継続した. 作家としての代表的な作品には,自民族に警鐘を鳴らし覚醒を呼びかけた《200年後の絶滅》(1904),政府を批判したため1917年まで上演されなかった戯曲《ゾレイハ》,亡命期にタタール人の歴史を概観した《イデル・ウラル》(1933)などがある. トルコのアンカラで死去. (1878-1954)

(参考) 韃靼(だったん):本来,東北アジア内陸部の諸集団の総称と考えられるタタルtatarを,漢語で表記した名称. 突厥からの情報が漢地に入って音訳きれ,唐代より漢籍に現れる. 南宋・金代には,モンゴル高原東部のタタル部や北東部のモンゴル部を含む諸集団は黒韃靼,南部の諸集団は白韃靼と呼称された. モンゴル部のチンギス・カンによってタタル部が滅ぼされた後も韃靼の語はモンゴル高原の諸集団に対して用いられ,明・清代にも継承きれた. ただし,明代には漢語〈韃靼〉は狭義のモンゴルのみをさす用例もある. 清代には西トルキスタン等のムスリムも含めて,北アジア・中央アジアの諸集団は漢人に広く韃靼と称された.

一方,古ルーシではモンゴル帝国の継承諸政権を構成するテュルク系ムスリムをタタールと称したが,モスクワ・ロシアの拡大に伴い,南シベリアの非ムスリム諸集団までその名で呼ばれるようになった. このように,漢語の韃靼とロシア語の呼称タタールは概念の上でも重なり合うようになり,後者にも韃靼の字が充てられた. こうして日本でも,バシキール人のクルバンガリーやヴォルガ・タタール人のイスハキー,ブハラ系タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムらは〈韃靼の志士〉と呼ばれたのであった.
[PR]

by satotak | 2006-12-31 08:03 | タタール
2006年 12月 31日

1990年代、タタルスタンの政治と民族意識

松里公孝著「タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998」)より:

ロシアの中の傑出した民族共和国
 タタルスタンがロシアの民族共和国の中でも傑出した存在であることは議論の余地がないだろう。タタルスタンは、①ロシア連邦と事実上の国家連合的関係にあり、②石油産出地であり、しかもこんにちではロシアから独立して石油輸出を行い、直接、外貨を獲得している。③軍事産業が集中し、しかもこんにちではモスクワの統制を離れて独立して武器輸出を行っている。④旧体制下でも強力な農業リージョンであったが、シャイミエフ政権の特殊な保護主義のおかげで1992 年以降も農業生産力をかなりの程度維持している。⑤カザン大学と独立した共和国アカデミーに代表される学術・科学技術上のポテンシャルを有している。…

 タタルスタンは、資本主義への移行において、ポピュリスト的・家父長的な住民保護政策を構成要素とする「市場経済への軟着陸」路線をとったリージョンの一例である。…シャイミエフ体制は、1998年8月の金融危機以降も盤石の強さを発揮している。…

いわゆる「タタールのくびき」
 モスクワ・カザン関係が過度に対立的に描かれる原因となっている歴史認識上のステレオタイプとして、「タタールのくびき」があげられる。[しかし]ロシア側の史学史においてさえ、…ユーラシア学派の再興により、この概念は説得力を失いつつあるが、現代タタルスタンの歴史認識・史学史においては「タタールのくびき」論の存立余地はほとんどない。…

 1944 年、こんにちのタタール人の祖先を金帳ハン国(注1)とする説はソ連共産党中央委員会決定により公式に否定され、それにかわって、モンゴル侵入以前のヴォルガ流域に高度な文明を築いていたチュルク系のイスラム民族、ヴォルガ・ブルガール人が現代タタール人の起源であると主張されるようになった。…

 戦後、ロシア民族主義が沈静化するにつれて、タタール人の民族起源説として、ヴォルガ・ブルガール人にウェイトを置きつつも、ヴォルガ・ブルガール-金帳ハン国-カザン・ハン国(注2)の3者をより連続的にとらえる説が主流となった。つまり、金帳ハン国の被支配民族であったブルガール人が…金帳ハン国をかなりの程度同化した、そしてこの混合の結果、こんにちのタタール人が生まれたと説明されるようになったのである。

 ペレストロイカ以降のタタルスタンでは、このタタール人の民族起源説はいわば両極化した。一方では、こんにちのタタール人をモンゴル侵入以前のヴォルガ・ブルガール人の直接の継承者であると考え、モンゴル・タタール的な要素の混合・介在を否定する、急進的な新ブルガリズムが生まれた。
この考え方からすれば、こんにちのタタール人にタタール人という名称が与えられていること自体が欺瞞であり、したがって本来の名称であるブルガール人に復帰しなければならないということになる。…
他方では、タタルスタンの国家性を正当化するために、現代タタール人の金帳ハン国からの継承性を強調する見解がタタルスタン史学において優勢になった。ただし、だからといって、現代タタール人とロシア人が過去の因縁から敵対的に解釈されるわけではない。なぜなら、この金帳ハン国派は、…ロシア帝国・ソヴェト連邦を(ビザンツやキエフ・ルーシではなく)金帳ハン国の後継者として考えるからである。

以上を要約すれば、新ブルガール主義者は、こんにちのタタルスタンの基幹民族は実は「タタール人」ではないと主張している。金帳ハン国派は、タタルスタンのみならず、ロシアそのものが金帳ハン国の後継者であると主張している。つまり、いずれの立場をとるにしても、「タタールのくびき」という考え方は起こり得ないのである。

 金帳ハン国派は主張する。こんにちのロシアのどこにキエフ・ルーシの痕跡があるのか。政治システム、文化はもとより、言語でさえも違うではないか。キエフ・ルーシがどれだけ貧しく混乱した国であったか忘れたのか。いったい誰のおかげで大国になれたと思っているのか。あなた方ロシア人が金帳ハン国から多くを学んだおかげではないか、と。強調に値することだが、シャイミエフの政治路線に哲学的な基礎を提供しているのは、チュルク・イスラム民族解放闘争的な発想ではなく、ロシア史そのものを金帳ハン国からの連続性において再解釈しようとする立場なのである。…

ミンチメル・シャイミエフ大統領

 ミンチメル・シャリポヴィチ・シャイミエフは、1937 年にタタルスタン自治共和国…の小村のコルホーズ議長の家庭に生まれた。9人兄弟の8番目(男子としては6番目)であったが、最初の4人の男児は全て死亡していた。そのため、両親は、彼の一つ上の兄と彼とに、生き延びるようにとの祈りを込めて、タタール語の「鉄(timer)」に由来する名を与えた。…ミンチメルは、この世代の常として、学校に上がる前から家畜を追い、農作業を手伝った。1959 年、若きシャイミエフはカザン農業大学を卒業、農機技術者となる。1967-69 年、タタルスタン州党委員会)勤務。1969 年、32 歳の若さでタタルスタン自治共和国土壌改善・治水灌漑大臣に抜擢され、1983 年(46 歳)までの14 年間、この職にあった。これは明らかに出世の停滞を意味しているが、…ただし、この大臣職にある間、シャイミエフは郡レベルでの指導者との面識を得、郡レベルでの統治システムを熟知したと言われる。
 1983 年にようやく自治共和国副首相に昇格、その後、州党委員会書記を経て、1985年から89 年まで自治共和国首相。1989 年、…党第一書記となる。1990 年4月、ゴルバチョフの兼任方針に従って、タタルスタン最高会議議長を兼任した。経歴から明らかなように、シャイミエフは典型的なテクノクラート、経営型指導者であり、「イデオロギーは私の守備範囲ではない」と公言する。対照的に、自治共和国党第一書記として前任者のウスマノフは、原則主義的な「典型的党指導者」であり、もし彼があと1、2年、タタルスタンの指導者の地位に留まっていたとしたら、民族運動に癇癪を起こして、タタルスタンの政治情勢はさらなる危機に瀕していただろうと言われる。…

連邦構成共和国への昇格
 …シャイミエフ体制の形成過程を検討しよう。この体制は、1990 年以前のエリートが生き残って比類ない結束力を見せていること、その反面、野党に影響力がほとんどないことによって条件付けられている。シャイミエフの対モスクワ政策と国内政策(民族間政策)の相互作用が、このような国内状況を生んだのである。
 なぜ旧体制エリートの延命がタタルスタンでは比較的容易であったか。やや逆説的なことであるが、…タタール民族がその「格」に相応した連邦構成共和国としての地位をソ連体制下で得られなかったことが第一にあげられる。

 歴史的民族(ロシアに併合される以前に国家を形成していた民族)としてのタタール人は、ロシア帝国・ソ連内で、おそらく東方民族としては唯一、「敬われるべき敵」としての栄誉ある地位を占めていたばかりではない。タタール人は、私の用語では、ロシア人、ポーランド人と並んで、ロシア帝国内の3大「帝国民族」のひとつであった。「帝国民族」とは、住民が支配宗教、支配言語、支配文化を受容することによって作られてゆく民族である。つまり、ロシア人がそうであり、ポーランド人がかつてそうだったように、タタール人として生まれるのではなく、タタール人になるのである。もちろん、近年の民族学は、民族とは概して不断に創造されるもの、主に集団心理的な作用の産物であると教えているが、帝国の実在または記憶は、この集団心理に決定的に影響するのである。ここでのポイントは、帝国民族は、(…カザン・ハン国のような)帝国そのものが滅亡した後も数世紀にわたって帝国民族であり続けるということである。まさにこの点で、タタール人は、バシキール人などの他のチュルク-イスラム系の民族とも区別されるのである。帝国民族は、その本性からして膨張的であり、周囲の住民を不断に同化してゆく。ここからタタール・ヘゲモニーの問題が起こる。タタール・ヘゲモニーの対象はヴォルガ中流域に限られず、歴史的には中央アジアを含むロシア帝国内イスラム圏の全域に及んでいた。ロシア帝国政府は、タタール人を警戒しつつも、中央アジアを「文明化」するために彼らを利用した。

現在でも、タタール人インテリの多くは、「中央アジアの諸民族に識字と民族意識を教えてやったのは我々だ」、「タタール人女性と結婚することは、中央アジアのエリートにとってつい最近まで大変なステータス・シンボルだったのだ」などと公言するのである。
 タタール民族のこうした「格」にもかかわらず、外国境を持っていないが故に、タタルスタンは連邦構成共和国になれなかった。自治共和国という二流の地位は、ソ連下のタタール人にとっては最大級のトラウマであり、自分たちを連邦構成共和国と比較して自分たちの優位を誇るのが彼らの習慣となった。「沿バルト3国の工業力を全部あわせてもタターリヤにはかなわないのだ」、「カザン大学に勤務する博士の数は、中央アジア5共和国の博士の数を全部足したより多いのだ」といった類である。たしかに、ロシア帝国で最も伝統ある大学都市のひとつであり、ヴォルガ中流域と中央アジアを結ぶ商工業中心地であったカザンに代表される旧カザン県のステータスは、ソヴェト政権下での石油開発、軍事産業の育成、巨大自動車工場の誘致合戦に勝ったこと(カマ自動車工場建設)、農業部門の発展などによって、一層強化された。…モスクワの側も、タターリヤの指導者と住民の不公正感を、部分的、物質的な特権を与えることによって癒そうとした。

 以上のような歴史的経過から、1988 年にソ連において民族主義的な主張が寛容されるようになったときに最初に出てきたのが、「タターリヤの連邦構成共和国への昇格」という要求だったのは当然だった。そもそもこれはタターリヤ共産党組織の伝統的な要求だったから、運動がこれを追求する限り、その主導権を旧体制エリートが握るのは困難ではなかった。現に、タターリヤ最初の民族主義的団体「タタール社会センター(TOTs)」は、1988 年秋、前出のハキモフをはじめとする州党委員会指導者の音頭で生まれたのである。周知の通り、1990 年6月まではロシア共和国共産党中央委員会が存在しなかったので、タターリヤ党組織は、誰に憚ることなく「連邦構成共和国への昇格」(つまり、ロシア共和国からの離脱)をソ連邦中央に要求することができた。

 こうして、タタール自治共和国の旧体制指導者は、1990 年春のビッグバンをさほど困難
なく乗り切った。4月11 日に招集された新しい共和国最高会議は、ゴルバチョフの兼任方
針に従って、州党第一書記シャイミエフを議長に選んだ。得票は、シャイミエフが151 票
(70.9%)、急進民族派の候補が38 票(17.8%)、親モスクワ民主派の候補が7票(3.3%)であった。

 「連邦構成共和国への昇格」が争点である限りは党指導部が情勢を容易にコントロールできるという事情が変わったのは、エリツィンがロシア共和国最高会議議長となった1990 年5月以降である。ロシアがエリツィン政権の支配下に入ったもとで「連邦構成共和国への昇格」を掲げることは、ゴルバチョフとエリツィンの闘争の文脈でゴルバチョフを支持することになる。これはタターリヤにおける親モスクワ民主派の許容するところではなかったので、彼らとタタール民族主義者の間の関係は極度に緊張した。1990 年8月30 日に共和国最高会議第2会期での激論の末に採択された「タタルスタン共和国の国家主権宣言」は、二つの要点からなる妥協の産物であった。第一は、タタール語とロシア語の国家語としての同権を宣言したことである。これは、民族主義者の顔を立てたものである。第二は、宣言が「連邦構成共和国への昇格」という伝統的な要求に触れず、その替わりに、「国家主権」なる、如何様にも解釈できる曖昧模糊たる概念を中心に据えたことである。同じ時期に他の自治共和国で採択されていた主権宣言は、当該共和国の遠心的な傾向を反映したものだった。ところが、タタルスタンの場合は、主権宣言は、エリツィンに逆らいたくないという親モスクワ民主派の顔を立てるために、連邦構成共和国への昇格という伝統的な要求から一歩退いたものだったのである。おそらく代議員たちの耳には、ほんの2、3週間前に、エリツィンがわざわざカザンまでやってきて発した有名な言葉、「どうぞ持てるだけ主権を取りなさい」という言葉がまだ残響していただろう。

 主権宣言はその後のタタルスタン政治体制の安定的な発展の礎石を置いた。第一に、二国語主義がとられたことで共和国内のエスニック・コンフリクトは顕著に沈静化した。第二に、エリツィン=ロシアとの関係でも「白黒はっきりさせる」ことに執着することで矛が収められないような状態に陥ることを避けるという、シャイミエフ指導部の一貫した対モスクワ政策を確立した。第三に、1990 年春の最初の民主的な地方選挙から8月の主権宣言までの数ヶ月間に、旧体制指導層が、急進タタール民族主義者と親モスクワ民主派の間の非和解的な関係を利用するエスノ・ボナパルティズムに習熟した。その反面では、民族主義野党と親モスクワ民主派の双方が政治的無能力を露呈した。この無能力は、ときが経つにつれますます一目瞭然となってゆくのである。

危機と均衡回復のサイクル
 1990年から1994年権限分割条約までのタタルスタンの政治過程は、「危機→合意形成・危機回避→8月クーデター、10月事件といった外的要因によって「合意」の前提が破壊される」というサイクルを3回繰り返した。…

 総じて、1990年から94年までの最も危機的な時期をシャイミエフ政権が凌ぐことができたのは、その対モスクワ政策が、内政、とくに民族間関係政策と密接に結合して展開されたからである。この過程に特徴的なのは、他の共和国においては分離主義的なニュアンスを持った主権宣言が、タタルスタン政治の文脈では、親露民主派を慰撫するためのものであったり(1990年)、タタール急進民族主義者を押さえ込むためのものであったりして(1992-93年)、抑制的(反分離主義的)な機能を果たしたことである。さらに指摘さるべきは、まさにこの「主権」なる言葉の使い方に象徴される、タタルスタン指導部の「能動的・法ニヒリズム」である。権限分割条約には法的には何の意味もない、これはロシア・タタルスタン両指導部の政治的な意志の表現なのだ、といったことをタタルスタンの指導者たちは平気で公言するのである。

彼らの関心は権限分割の具体的な内容に向けられたのであり、実利を獲得するために「政治の延長としての法」が駆使されたと言ってよいだろう。実際、タタルスタン指導部は、彼らが求めているのは連邦なのか国家連合なのか、また対称的連邦と非対称的連邦のいずれをより望ましいと考えているのかといった問いかけに、公の場で一義的な答えを与えることはしない。しても一文の得にもならないし、憲法学上のあれこれの理論的純粋性のために後ろの橋を焼き落とすようなことはしないというのが、彼らの鉄則である。これが、沿バルト型とも、チェチェン型とも異なる、タタルスタン型の紛争解決のアプローチの中核である。…

(注1) 金帳ハン国:ジョチ・ウルスの俗称、キプチャック・ハン国ともいう。13~18世紀、中央ユーラシア西方のキプチャック草原を中心にチンギス・カンの子孫を王家に戴いて興亡した遊牧国家。(「チンギス裔の系図」の系図4-5参照)

(注2) カザン・ハン国:ヴォルガ川中流のカザンを中心に興亡したジョチ・ウルスの一政権。1438~1552年。支配王家はチンギス・カンの長男ジョチの子孫だが、臣民は主にタタールなどチュルク系ムスリムとフィン・ウゴル系諸民族からなる。ジョチ・ウルスの遊牧集団の激しい離合集散のなかで、ウルグ・ムハンマドはウルスの主導権をめぐる争いに敗れ、かつてブルガル王国のあったヴォルガ中流域に逃れ、1438年カザンを中心に政権を樹立した。
モスクワ大公国の圧迫が続き、カザン戦争(1545-52)を経て、モスクワに併合された。この事件は、チュルク系諸民族の記憶に長くとどめられ、チュルク語英雄叙事詩《チョラ・バトゥル》を生み出す背景となった。
[PR]

by satotak | 2006-12-31 08:02 | タタール
2006年 12月 31日

タタルスタンとバシュコルトスタン -モスクワからの自立は?-

宇山智彦編「エリア・スタディーズ 中央アジアを知るための60章」(明石書店 2003)より:

ソ連邦ロシア連邦共和国タタール自治共和国
ソ連崩壊によって多くの国々が独立したが、独立したくてもできずに取り残されたところもあった。ソビエト期に一「自治共和国」や「自治州」として位置づけられていた諸地域である。連邦を構成する共和国は、ソ連憲法によって形式的に認められていた離脱権を最後には実質的に行使して独立したのだが、自治共和国自治州には離脱権は認められていなかった。共和国と自治共利国の間にはその他にもさまざまな待遇の違いがあり、いくつかの自治共和国は以前から不満の声を上げていた。その代表格がタタルスタンである。

タタール人はロシア革命以前、経済・宗教・政治活動の面でロシア・ムスリムの中で大きな影響力を持ち、もっとも先進的な民族と自負していた。ところが1920-30年代に中央アジアの自治共和国が次々と共利国に格上げされる一方で、タタルスタンはロシア内の自治共和国のまま残された。外国と接する国境を持っていないことが主な理由とされる。その後何度も共和国への格上げ要求が行われたが、実現しなかった。

ペレストロイカ期、タタール自治共和国指導部は自ら民族運動を後押しするとともに、90年8月に主権宣言を発し、共和国への昇格を宣言した。もっともこの「共和国」がロシア連邦共和国から脱退してソ連邦を直接構成するとは明記されず、モスクワとの交渉の余地を残していた。ソ連が崩壊してCISが成立するとタタルスタンはCISに加盟する意志を宣言したが、これは当然実現せず、ロシア連邦指導部に対して存在感をアピールするという以上の意味を持たなかった。

ロシア連邦タタルスタン共和国
だがタタルスタン共和国の権限を向上させるための指導部のその後の立ち回りは、なかなか見事であった。ロシアは92年3月末に、国内の共和国や州などと権限分割条約(連邦条約)を結んだが、タタルスタンは直前に国民投票を行ってロシアと「対等な」関係を築くことを決め、連邦条約への参加を拒否した。同年11月に採択されたタタルスタン憲法は、ロシアとの関係を「連邦」よりも対等なニュアンスの「連合」と表現した。そして翌93年に行われたロシアの二度の国民投票(一度目はエリツィン大統領信任などを問い、二度目は憲法採択を問う)は、タタルスタンではわずかな有権者しか参加せず無効となった。タタルスタンの団結と指導部の投票操作能力を見せつけられたロシア側は譲歩し、94年2月に、ロシアとタタルスタンの権限分割条約が結ばれた。これは、連邦条約で各共和国に与えられたよりもはるかに大きな権限をタタルスタンに保証した。

モスクワに圧力をかげながら交渉を続けて有利な条件を勝ち取ったタタルスタンの手法は、独立運動が流血の戦争に転じたチェチェン共和国の場合と対比して、国際的に高い評価を受けた。もちろんこの二つの共和国の事情はあまりに違いが大きく、単純には比較できないが、たしかにミンティメル・シャイミエフ大統領らの交渉能力は際立っていた。権限分割条約締結後も、シャイミエフはタタルスタンの主権を強調しながら、ロシア大統領選挙の時などはエリツィンのために献身的に働き、信頼関係を強めた。

共和国内部では、モスクワとの交渉の下支えとして、モスクワ寄りのロシア人と強硬な独立派タタール人の中間点を探る努力が行われた。結局この中道路線が成功したことで、独立派民族運動は存在感を失い、シャイミエフの権力が強化された。タタルスタンは経済的に比較的豊かで、石油産業、軍需産業、農業(シャイミエフ自身ソビエト期は農業官僚だった)、自動車産業(ロシア最大のカマズ自動車工場がある)などが盛んだが、これらの産業の一致した支持を得ていることも、シャイミエフの強みである。

彼はロシア全体の政治でも存在感を発揮して、99年4月に政治運動「全ロシア」設立の中心となり、エリツィンの次の大統領候補と見られたプリマコフ元首相を支持したが、プーチンが大統領に就任したことでこの目論見は外れた。しかしプーチンはシャイミエフの政治力に一目置いており、シャイミエフもまたプーチンを強く支持するようになった。そしてロシアの法律では共和国大統領の三選が禁止されているにもかかわらず、なかばシャイミエフのために一部例外が認められ、彼は2001年3月に三期目の当選を果たした。

だがプーチンが掲げる中央集権化は、当初言われたほど性急に進められていないとはいえ、タタルスタンにとって試練であり、さまざまなせめぎ合いが続いている。共和国法をロシア法に合致させるという連邦側の方針のもと、タタルスタンは2004年4月に憲法を改正し、ロシア連邦の一部であることを明記せざるをえなくなった(まださまざまな独自の規定を残してはいるが)。共和国が徴収した税金も、以前より多く連邦に吸い上げられるようになった。タタルスタンが計画しているタタール語のラテン文字化も、モスクワの強い批判を受けている。また宗教面ではタタルスタン指導部は、タタールのイスラームは近代的な「ユーロ・イスラーム」であって過激主義とは無縁なのだと宣伝しているが、ごく一部にはチェチェン人武装勢力やアル・カーイダに加わるタタール人もおり、イスラームとテロが話題になるとしばしばタタール人に疑いの眼が向けられることも事実である。

バシュコルトスタン
さて、タタルスタンの東隣に位置するバシュコルトスタンも、独自の特色を持つ共和国である。遊牧民であったバシキール人は、16世紀後半にタタール人に続いてロシアの臣民となったが、その後18世紀後半に至るまでたびたび反乱をくり返し、土地所有などの権利を守った。モスクワと特別な関係を持つ重要な民族だという意識は、現在のバシュコルトスタン指導部の政治姿勢にも受け継がれている。ただ実際に取ってきた政策は、主権宣言を90年10月に行い、ロシア連邦との権限分割条約を94年8月に結ぶなど、タタルスタンから一歩遅れた後追いという性格が強い。共和国の人口の中で最大の集団はロシア人であり、バシキール入はタタール人に次ぐ第三位にすぎないこと、しかも北部のバシキール人は言語的・文化的にタタール化が進んでいて、ムルタザ・ラヒモフ大統領ら南部出身のバシキール人と微妙な対立があることが、状況を複雑にしている。ラヒモフはシャイミエフほど権力基盤が強くなく、言論統制など強圧的な手段に頼る部分がより大きい。

タタルスタンもバシュコルトスタンも、モスクワとの交渉で権利を確保するという面では、ロシア内の他の共和国よりも成功してきたと言ってよい。しかし結局独立国ではないため、中央アジア諸国と比べて国際社会からの注目度は低い。ソ連がいわば便宜的に設けた「共和国」と「自治共和国」の区別が、意外なほど大きな影響を現在まで残しているのである。(宇山智彦)
[PR]

by satotak | 2006-12-31 08:01 | タタール