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2006年 12月 31日

英雄叙事詩 –コーカサスの口承文芸-

「コーカサスを知るための60章」(明石書店 2006)より(筆者:坂井弘紀):

コーカサスの諸民族は様々なジャンルの口承文芸を代々伝えてきた。それらには共通する点が多いものの、この地域の多様な民族構成のあり方が反映されている。一説によると、コーカサスの口承文芸には、2500~3000年前からその伝統があるといわれるほど、長い歴史がある。口承文芸には彼らの古来の記憶が織り込まれている。コーカサスの口承文芸の特徴の一つは、多くのすぐれた詩人を輩出したことであり、彼らがこの地域の現代文学の礎を築いたといえるであろう。
コーカサスの諸民族の口承文芸の主なジャンルとして、民謡、昔話、伝説、叙事詩、ことわざ、なぞなぞなどが挙げられる。…

コーカサスの口承文芸の中心的なジャンルは英雄叙事詩である。英雄叙事詩は、「民族」の運命や英雄たちとのかかわりをテーマとした英雄物語で、そこには彼らの歴史的な記憶が投影されている。英雄叙事詩はその「民族的」な性格から民族叙事詩と呼ばれることもある。長く口承で語り継がれてきたが、19世紀以来、採録されるようになり、多くのテキストが出版されてきた。ではここで代表的な叙事詩の例をいくつか取り上げよう。

ナルト』(注1)はコーカサスの英雄叙事詩を代表する作品である。この作品は、オセットやアディゲ、イングーシ、アブハズ、チェチェン、カラチャイ・バルカル、クムクなどほとんどのコーカサス諸民族に広がる。『ナルト』では、ソスラン(オセット)、もしくはソズリュコ(チェルケス)と呼ばれる勇士を中心にナルトの英雄たちの活躍が描かれる。部族社会の神話と古代の歴史的出来事を叙述するモチーフとが結び付いており、そこにはコーカサスを舞台に活躍したスキタイやアランのフォークロアの痕跡が見られるともいわれる。『ナルト』には、インド・ヨーロッパ系神話に見られる「神聖・戦闘・生産」の三機能的な思考が反映されていることが指摘されている。このほか、古代ギリシアの口承文芸やイギリスの『アーサー王伝説』、日本神話など世界各地の神話や伝説、口承文芸との関連がしばしば指摘され、研究者の関心を惹いている。

サスンのダヴィト』はアルメニアを代表する英雄叙事詩である。アルメニアの歴史に関する伝説や英雄物語を取り入れながら、民間の語り手たちによって何代にもわたって語り伝えられてきた。この作品は、『サナサルとバグダサル兄弟』、ダヴィトの父を描く『大ムヘル』、『サスンのダヴィト』、『小ムヘル』の四つの部からなる。サスンの地を敵から守るアルメニアの人々の戦いをテーマにしたこの叙事詩は、851年に起きたアラブの徴税官に対する農民の蜂起に基づいているといわれる。ダヴィトの像はヴァリアントによって多様であるものの、勇敢さ、慈悲深さ、高貴さや純真さ、そして力強さという性格を兼ねそなえた英雄とされている。この叙事詩は、1873年に初めて書き取られ、その後ホヴハンネス・トゥマニヤンなど多くのアルメニア詩人が、この作品に霊感を得て作品を生み出した。現在でもアルメニア文化の象徴的存在となっている。

またグルジアには英雄叙事詩『アミラン』などの作品が伝わる。キリスト教が伝来する以前のグルジアの世界観を伝える『アミラン』は、主人公アミランと神との戦いを描いている。アミランは「太陽の子」とされ、人々に火をもたらしたために神により罰せられ、コーカサスの巌につながれた。このようなアミランの姿は、ギリシア神話のプロメテウスを彷彿とさせる。この作品をプロメテウス伝説に由来すると考える意見もあり、グルジア文化の奥深さを考えるうえで興味深いものである。

アゼルバイジャンには、『キタブ・デデ・ゴルグッド』や『キョログル』などの有名な叙事詩(ダスタン)がある。『キタブ・デデ・ゴルグッド』は伝説的な賢者ゴルグドについて歌った作品で、彼らの祖先に当たるオグズ族の伝統を色濃く残し、アゼルバイジャンの民族文化の象徴ともなっている。また『キョログル』は、16世紀末の農民反乱を題材とした作品といわれ、主人公キョログルは民衆の側に立ち、権力者と戦う義賊として描かれている。なお、これらの作品は、アゼルバイジャンのみならず、トルコやトルクメン、ウズベクやカザフなど中央ユーラシアのテュルク系諸民族にも広がっている。

ノガイやクムク、カラチャイ・バルカルなど北コーカサスのテュルク系民族にも多くの英雄叙事詩が伝わる。『エディゲ』(注2)、『カラサイとカズ』、『ショラ・バトゥル』(注3)、『アディル・スルタン』、『コプランル・バトゥル』などが彼らの代表的な作品として知られている。これらの作品は、キプチャク草原の遊牧政権ノガイ・オルダ(15~17世紀)の歴史を伝承している。この一連の叙事詩は「ノガイ大系」ともいわれ、中央アジアやヴォルガ・ウラル地域のテュルク系諸民族(カザフ、カラカルパク、ウズベク、タタール、バシュコルトなど)にも広く伝えられている。北コーカサスのテュルク系民族の叙事詩には16~18世紀に中央ユーラシアを猛攻したカルマク(モンゴル系遊牧国家ジュンガル)やサファヴー朝の軍事的中核であったテュルク系シーア派の騎馬軍団「クズルバス(キズィルバーシュ)」などとの戦いが描かれる。

ソ連崩壊後のコーカサスでは、以上に挙げたような叙事詩を始めとする口承芸が改めて強く脚光を浴びるようになり、「新しい時代」に生きるコーカサスの人びとの文化的アイデンティティとなっている。

(注1) 「ナルト叙事詩」参照
(注2) 「エディゲ」参照
(注3) 「チョラ・バトゥル -タタール人の記憶-」参照
(参考) 「中央ユーラシア・テュルクの叙事詩」参照
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by satotak | 2006-12-31 11:03 | カフカス
2006年 12月 31日

草原の民と山岳の民が織りなす歴史 -北コーカサス-

「コーカサスを知るための60章」(明石書店 2006)より(筆者:赤坂恒明):

コーカサス山脈の北方に広がる草原地帯は、西はハンガリー盆地から東は満洲平原にまで至る、中央ユーラシアを東西に貫く大草原の一部を成しており、古来より騎馬遊牧民族の活動の場であった。

有史以来、長らく北コーカサスの草原地帯にて活躍していたのは、キンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人、アラン人など、インド・ヨーロッパ語族に属する東イラン系の言語を話す人々であった。しかし、4世紀以降、内陸アジアの草原地帯から、フン、アヴァル(ダゲスタンの現代アヴァル人とは別集団)など、アルタイ系の言語を話していたと考えられるモンゴロイド形質の遊牧民族が西進、6世紀には突厥(とっけつ)〈古代トルコ帝国〉の勢力がこの地域にまで及んだ。次いで、7世紀には、トルコ系のブルガル人が、黒海北岸から北コーカサスに至る草原地帯に「大ブルガリア」を建国し、ブルガル人と近縁関係にあったハザル人が、ヴォルガ川下流域からダゲスタン方面にハザル可汗(カガン)国を樹立した。ハザル可汗国は、アラブの北進を阻止し、王家がユダヤ教を信奉したことで有名である。さらに、9世紀より、ブルガル人やハザル人のとは別系統のトルコ系言語を話す遊牧民族が東方から移住してきた。その代表がキプチャク人(クマン人、ポロヴェツ人)である。

このように、北コーカサスの草原地帯には、もともと東イラン系の遊牧民族が居住していたのであるが、東方からトルコ系の遊牧諸集団が波状に西進し、この地域の民族構成を著しく変えた。もっとも、東イラン系のアラン人(アス人)は、勢力は縮小しながらも、なおも一定程度の勢力を保っていた。こうして、北コーカサスの草原地帯には、13世紀の初めまでに、キプチャク人やアス人の小王国が成立した。

13世紀、チンギス・ハンの孫バトゥを総帥とするモンゴル帝国の騎馬軍団が、北コーカサスをも席巻した。モンゴル帝国の西北部を構成する政権 -中央アジア北部から北コーカサス、黒海北岸方面を支配した- は、しばしば「キプチャク・ハン国」「金帳汗国」の名のもとに呼ばれる。キプチャク人やアス人の多くはモンゴルの支配下に入り、彼らの一部は、遠く元朝のもとで皇帝(ハーン)の親衛隊となり、元朝後期の政局や、元朝解体後のモンゴル高原の歴史に、大きな足跡を残している。なお、モンゴルのために国を失ったアス人は、西遷してハンガリー盆地に移住した人々(ヤス人。言語的にハンガリー化)もいたが、コーカサスの山岳地帯に逃避する人々も多かった。今日のオセット人は彼らの子孫であると考えられている。

ところで、コーカサス山脈の北斜面から北麓には、北西コーカサス系の言語や北東コーカサス系の言語を話す、コーカソイド(ユーロペオイド)形質の人々が居住していた。前者は、広義のチェルケス人(アディゲ人、カバルダ人ほかを含む)で、後者は、現在のチェチェンダゲスタンの山岳地帯に住む人々の祖先である。彼らも、基本的にはモンゴル政権の支配下に入ったようであるが、その実態については、今日なお不明の点が多い。

なお、キプチャク・ハン国のモンゴル人は、人口のうえで多数を占めるキプチャク人の影響によって、言語・文化的にキプチャク・トルコ化したが、北西コーカサスとダゲスタンの住民の一部も、言語的にキプチャク・トルコ化している。すなわち、現代のダゲスタン中部平野部のクムク人、北西コーカサスのカラチャイ人バルカル人の祖先がそれである(なお、クムク人のトルコ語は、文章語としてアラビア文字によって書き記され、近世、ダゲスタンにおける世俗的な共通語として機能した)。

キプチャク・ハン国の時代、キプチャク人やチェルケス人は、奴隷として黒海・地中海交易の商品として盛んに輸出され、彼らのなかにはマムルーク(奴隷軍人)として、エジプトやシリアで活躍する人々も現れた。また、それまで北コーカサスには東方正教を中心とするキリスト教が広まっていたが、モンゴル支配期よりイスラーム化が進み始めるようになった。

キプチャク・ハン国の解体に伴い、北コーカサスの東部はアストラハン・ハン国、西部はクリミア・ハン国の支配下に入った。アストラハン・ハン国は16世紀中葉にロシアに滅ぼされ、16世紀後半にはテレク・コサックが成立し、ロシア人勢力が扶植された。

17世紀、チベット仏教を信奉するオイラト(西モンゴル)系のトルゴート人(カルムイク人)が西進し、主に今日のカザフスタンの西部に遊牧生活を送っていたノガイ人(キプチャク・トルコ系)を撃破、ヴォルガ川を渡って北コーカサスに進入した。カルムイク人の進撃はカバルダ人によって阻止されたが、ヴォルガ川西岸からドン川方面の草原地帯はカルムイク人によって占拠された。壊滅したノガイ人は四散して、今日のダゲスタンの北部の草原地帯からコーカサス山脈北麓の各地に移住し、彼らの一部はクリミア・ハン国の支配下に入った。

クリミア・ハン国は、16世紀後半、オスマン朝の保護国となった。クリミアのハンは、北西コーカサスの(広義の)チェルケス人のもとに皇子を送り、チェルケス人貴族はクリミア皇子と婚姻関係を結び、ハンに服属した。オスマン朝の君主は、チェルケス人に対するクリミア・ハンの宗主権を認めてはいたが、チェルケス人支配者に対して、直接、命令を送り、称号を与えていた。なお、チェルケス人の間にイスラーム教が広まったのは、クリミア・ハン国の支配期においてであった。

さて、近代化を推し進めたロシアは、1768年、オスマン朝およびその属国クリミア・ハン国と戦い、これらを撃破した。かくて締結された1744年のキュチュク・カイナルジャ条約でクリミア・ハン国がオスマン朝から「独立」したのに伴い、チェルケス人の一部を構成するカバルダ人は、ロシアの支配下に入った。オスマン朝は、ロシアの侵略を防ぐために、黒海沿岸に要塞を建設または再建し、クリミアに代わってチェルケス人を直接統治しようと試みた。また、クリミア・ハン国の滅亡(1783年)後、チェルケス人とオスマン朝の協力によって、クリミア・ハンの一族を戴いたクバン・ハン国が建てられている。しかし、1787~92年の露土戦争で、オスマン朝の主要拠点であるアナバ要塞が陥落し、18世紀末には、黒海コサック(後のクバン・コサック)が成立し、ロシア人による植民、農業開発が進められた。そして、1829年のアドリアノーブル条約で、オスマン朝はチェルケス人に対する権利を放棄した。その後、ロシアは1864年、北西コーカサスを制・併合した。ロシアの弾圧等により、北西コーカサスのムスリム住民の大多数はオスマン朝の領内に移住し、北西コーカサスの民族構成は大きく変容することとなった。

一方、北東コーカサスのダゲスタンの中部から南部においては、15~16世紀、三つの封建領主の政権、すなわち、カーズィー・クムク(今日のラク人)のシャームハール政権、カイタクのウースミー政権、タバルサラン(タバサラン)のマァスーム政権が鼎立していたが、16世紀以降、イラン(サファヴィー朝)とオスマン朝、さらにロシアの三大勢力による争奪の場となった。住民の多くがスンナ派のムスリムであったダゲスタンは、オスマン朝の影響力が大きかったが、キュチュク・カイナルジャ条約の締結後、ロシアの進出が顕著となり、それに抗するイスラーム神秘主義教団、ナクシュバンディー教団の指導者たちによって率られた活動がチェチェンとダゲスタンを中心に活発化し(北西コーカサスにも波及)、シャイフ・マンスールの蜂起、さらにイスラーム国家の建設へと至るのである。
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by satotak | 2006-12-31 11:02 | カフカス
2006年 12月 31日

北カフカスの人びと

植田 樹著「チェチェン大戦争の真実」(日新報道 2004)より:

…北カフカス地方は西側では黒海に注ぎこむクバン川流域の平地が広がり、東側ではカスピ海に注ぎこむテレク川流域の平地が広がる。南北の往来は、古くから山脈の両端の黒海とカスピ海沿いのそれぞれの狭い沿岸ルートに限られていた。それ以外は、地元の山岳民族だけが分け入ることのできた標高数千㍍の峠を越える渓谷沿いの険しい山道しかなかった。
…そこに住む多様な民族は古くからメソポタミア、スキタイ、サルマト、アラン、古代ローマ、アラブ、ペルシャ、トルコ、モンゴル、ロシア人など様々な周辺の大民族の侵略と戦いながら民族の独自性を保ってきた。カフカスの歴史は異民族との戦いの連続だっただけに、どの民族も極めて誇り高い。

この地域には古くから50以上の中小の民族が住んでいる。このうち、ロシア人との戦いで中心的役割をになう北カフカスのチェチェン人とイングーシ人は、インド・ヨーロッパ語族から分かれた北カフカス語系のナフ語を話す。今から6千年前にほぼ現在の土地に定住するようになった。チェチェン人とイングーシ人は古くは一体の民族だったが、中世になって地域別に分れただけの兄弟民族である。
また、その東側のカスピ海沿岸部のダゲスタン共和国に住むダゲスタン人はさらに小さなアヴァール、ダルギン、レズギン人など凡そ30の小民族に分かれている。

チェチェン人の生活と心
チェチェン人自身は自分達の民族名を「ノフチー(Nokhchee)」あるいは兄弟民族イングーシ人を含めて「ヴァイナフ(Vainaikh)」と呼んでいる。古代のチェチェン人はカフカス山脈の北麓だけでなく、ずっと北方の草原地帯に住んでいた。チェチェンの平地部では8世紀から12世紀ごろ、様々な民族からなるアラン王国が形成された。山岳部とダゲスタンでは国家の前形態のサリルという集団が形成された。
この二つの集団は統一の生活圏をなしていたが、モンゴル・タタール軍の侵入(1222、38、40年)で崩壊し、テレク川流域のチェチェンの平地はモンゴル・タタール人のキプチャク汗国に組み込まれた。14世紀には、その支流のガユル汗が作ったシムシム汗国に組み込まれた。16-17世紀に入ると、チェチェンを含むカフカス地方全体がトルコ、ペルシャ、ロシアなどの周辺大国が覇権を争う舞台になった。
それでも山岳の奥深くまでは異民族の征服者は侵入しなかったので、山岳部の住民は伝統的な自由で比較的平等な社会の伝統を長く維持することができた。平地では穀物などの農耕が主で、山麓では牧畜が営まれてきた。

氏族の結びつき
平地の集落は川や道にそって数千戸からなる場合もあったが、山岳部の集落は数十戸からなるものも多かった。山岳部では、石造りの家とともに生活と防衛のための高い石積みの塔も築かれた。
彼らは、同じ祖先から出た血縁と信じる「テイプ(Taip)」と呼ばれる氏族ごとに強い結びつきを今も維持している。チェチェンには125以上のテイプがあるが、これらのテイプは9つの部族「トゥクム(Tukm)」に統合されている。これは「太古、ノフチー(チェチェン人)は9人の兄弟から始まった」という伝説に基づいている。これに基づいて、独立派のチェチェン=イチケリヤの国旗には9つの星が描かれた。

チェチェン人は氏族と部族関係を今日に至るまで継承し、戦争や宗教、政治で、一致団結するだけでなく、住宅建設、道路補修、農作業などでも互いに助け合ってきた。
チェチェンでは東方のダゲスタンなどとは異なり、古来、国家組織がなく、支配階級としての封建領主や貴族もいない、かなり平等な自由な農民の集まりだった。集落の共有地での放牧や農耕、木々の伐採、周辺の他部族への出撃、仲間内の争いの仲裁など集落内の公けの決め事は、各戸の家父長が出席する集会で決められてきた。それだけに家族の中では家父長の権威は強く、長幼の序列は固く守られねばならない。

血の復讐
氏族社会の中では一族の名誉が何よりも重んじられる。家族の一員が殺されたり辱められたりしたら、家族全員に対する挑戦と見なされ、これに復讐しなければ家族やテイプ(氏族)全体の恥辱とされた。血の復讐の風習は、今日のチェチェン戦争の中でも生きている。つまり、チェチェン人の男達の多くは独立の大義や信仰によるだけでなく、身内の誰かがロシア人兵士に殺されたためにロシア軍を相手に戦うのだと言われるほどだ。戦死者が出れば必ず、復讐を誓う新たな戦士の志願者が名乗りをあげる。こうして血の復讐の伝統はチェチェン戦争を一層、終りない泥沼の闘いにしている。

高い女性の地位
女性は男性よりも社会的には低い序列に置かれていたが、それでも男性は女性に最大限の敬意と礼儀をもって接することが義務とされていた。西欧とは違い「レディ・ファースト」ではなく、男性は常に女性の前を歩かねばならない。これは、厳しい環境の中で真っ先に敵や困難に男性が立ち向かうためにそうすべきなのだと説明されている。
特に、母親としての女性の地位や権威は高かった。他のイスラム社会と違って、チェチェン人の女性は既婚者でも未婚の娘でも男性の前で顔を隠さなかった。…

民俗宗教
チェチェン人は太古には山や岩、森、木などを信仰する自然崇拝や呪術を信仰した。イスラム教は7世紀に侵入したアラブ人によって初めてカフカスの地にもたらされたが、定着はしなかった。8世紀には、グルジアを経由してキリスト教が一部に伝えられた。チェチェン人の信仰は、古来の土俗の宗教にこれら外来の世界宗教が入り混じった独特のものになった、13世紀頃からイスラム教がモンゴル・タタール人によって再び伝わり、18世紀までに広く浸透するようになった。しかし、その後も自然崇拝や呪術などの土俗宗教は消滅せず、その後のイスラム教スーフィズムと融合して独自の信仰として痕跡を残すことになる。

奴隷制
カフカスの古代国家の多くは奴隷を軍事力や農耕に用いた。古来、戦いで勝った側は相手の戦士だけでなく非戦闘員の婦女子を戦利品として連行するのが慣行だった。捕虜や人質獲得を主たる目的にした戦争も少なくなかった。奴隷の獲得や使役は、周辺地域でも古代から中世にかけて慣行となっていた。しかし、他の地域では時代とともに自然に廃れたが、カフカスでは彼らの好戦性とともにいつまでも残った。
戦争捕虜や人質の婦女子はその家族から身代金が支払われた場合には解放されたが、身代金が支払われなければ、奴隷として使役されたり、仲間内や奴隷市場で売られたりした。域外での奴隷の買い手は主としてトルコ人だった。6歳から12歳の男子の需要が特に多かったのは、買い主が徴兵義務を免れるために自分の身代わりに奴隷を兵隊に仕立てるために買い入れるからだといわれた。若い美しい娘は金持ちのハーレムに送り込まれた。

ダゲスタン
チェチェンの東隣のダゲスタンも、ロシア人との戦いの主要な舞台となってきた。カスピ海西岸に面し、北でロシア、南でグルジア、アゼルバイジャンと接し、西側ではチェチェンに接している。カフカス山脈を迂回して海岸沿いにロシアからグルジア、アゼルバイジャンに通じるルートとして昔も今も戦略的に重要な地になっている。

3世紀にダゲスタンは南部のデルベントまでがササン朝ペルシャに征服され、4世紀に北部はフン族に占領された。7世紀にアラブ人が侵入し、住民に重い税を課し、イスラム教を広めたが、10世紀にはアラブ人の支配者は追放された。この頃から、ダゲスタンは北方のルーシ(ロシア人などの東スラヴ人)と関わりを持つようになった。11世紀半ばには、トルコがアゼルバイジャンとダゲスタンの大部分を征服した。
12世紀末頃からダゲスタンにアヴァール藩王国、カジクムフ・シャムハル藩王国、カイタグ(ウツミ)公国などの封建国家や地方領主が地域ごとに支配権を握るようになったが、彼らは互いに争い、統一国家は生まれなかった。

生活や文化は隣のチェチェン人と多くの点で共通しているが、藩王や地方領主が農民を支配する封建社会だった点が自由で平等なチェチェン人社会とは違っていた。しかし、周辺の山岳部では凡そ40の“自由民の集落”が隣のチェチェン人と同じような自由で平等な暮しを続けてきた。

チェルケス(アドゥイゲ)人とアブハズ人
カフカス北西部=黒海北東沿岸に住むチェルケス人はアドゥイゲ人と自称する。チェルケス(アドゥイゲ)人は個別の民族名として用いられる他に、カバルダ人など近種の北西カフカス民族を総称する民族グループ名として用いられることもある。
チェルケス人は現在、ロシア領アドゥイゲ共和国、カバルヂノ・バルカル共和国、カラチャエヴォ・チェルケス共和国に住んでいる。古代アドゥイゲ人の民族集団は、紀元前10世紀頃から1世紀頃にかけて黒海東岸に形成された。

黒海東岸のアブハズ人はチェルケス人と土地をめぐって争ったが、ロシア人による侵略に対抗するために同盟した。チェルケス人はクバン川南部でさらに地域ごとにナトゥハイ人、シャプスグ人、アバゼフ人、ウブイフ人などと18の小さな部族に細分化されて呼ばれることもある。それぞれの部族は集落の長老によって支配され自立していた。

黒海沿岸のチェルケス人は6世紀、ビザンチン帝国の支配下に入り、この時以来、東方キリスト教を受け入れた。また、アブハズ人は黒海のクリミア半島などに進出して交易を行なっていたイタリアのジェノアの商人達の影響を受け、カトリックのキリスト教を受け入れた。中部では土俗宗教とイスラム、南部ではグルジアの影響でギリシャ正教を信仰していた。彼らは同時にあらゆる山や川、森などをそれぞれの守護神として信仰し、様々な迷信、魔術を信じていた。

イタリアのヴェネツィヤ(ヴェニス)人やジェノア人の商人達が、1175年頃から黒海東岸やクリミア半島を訪れて交易するようになった。…彼らは北カフカスの陸地を経由してカスピ海北岸に達し、中央アジアや中国、ペルシャとも交易した。…沿岸部では彼らが広めたキリスト教が13世紀ごろまで残った。1475年にトルコが黒海北岸のクリミア汗国を征服して属国にしたことにより、ジェノア人の活動は終わり、一帯に…イスラム教が広まった。

チェルケス人は武勇を誇った。彼らはエジプトに渡って歴代王の傭兵や親衛隊として仕えながらエジプトの国政を左右し、チェルケス人(奴隷)王朝を築いた。
チェルケスはトルコとクリミアからの脅威を和らげるために1481年、トルコに使節を派遣して進んで保護国になることを申し出た。しかし、その後もクリミアによる襲撃はやまなかったので、チェルケス人の中のキリスト教徒達は北のキリスト教徒のロシアに頼ろうとするようになった。
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by satotak | 2006-12-31 10:04 | カフカス
2006年 12月 31日

グルジアとロシア

植田 樹著「チェチェン大戦争の真実」(日新報道 2004)より:

ロシア、カフカス南部へ進出
ロシア人はキエフ・ルーシ時代の988年頃、キリスト教を受け入れたが、南のグルジア人とアルメニア人はそれより600年以上も前の4世紀にキリスト教を国教として受容していた。いずれのキリスト教も、ビザンチンの東方キリスト教を源流として民族ごとの正教に分かれた。東スラヴ人の古代国家キエフ・ルーシから覇権を奪ったウラジーミル・スーズダリ大公国のアンドレイ大公は息子ゲオルギーをグルジアに送った。ゲオルギーは1185年、そこでグルジアの伝説的な女王タマーラと結婚した。

16世紀から18世紀にかけてカフカス南部の支配をめぐり、イスラム救国のペルシャとトルコが覇権を争った。17世紀初頭にはペルシャがグルジア中央部と東部を侵略し、10万人を殺して20万人を捕虜や奴隷として連れ去った。トルコもグルジア西部を征服し、多くの住民を奴隷として連れ去った。グルジア人はイスラム教徒の圧迫から逃れるため、北方のキリスト教徒であるロシア人の庇護を求めた。

グルジアの南に位置するアルメニアも、16世紀からヒ18世紀にかけてトルコとペルシャの争奪の舞台になった。1639年、トルコとペルシャは頭越しに収り決めて、アルメニアの.西部はトルコに、東部はペルシャに分割した。
19世紀にはアルメニア全域がロシアに併合された。

7世紀半ば、現在のアゼルバイジャンの地にアラブ人が侵入し、イスラム教を広めた。さらにモンゴル・タタール軍の侵略後はトルコとペルシャが覇権を争った。
ピョートル大帝の治世の1723年、ロシア.軍が初めてバクーに上陸し、カスピ海沿岸部を支配した。…
1826-28年の再度の対ペルシャ戦争後、南部のナヒチとオルドゥバド藩王国もペルシャからロシアに割譲された。

ロシアは新たに獲得したカフカス山脈南部の土地と住民を統治するため、チフリス(現在のグルジアの首都トビリシ)にカフカス総督府を設けた。この総督府は1844-82年まで存続した。総督はカフカスに駐留するロシア軍の総司令官を兼務して皇帝の名代として軍事、行政全般にわたり無制限の絶大な権力を振るった。1845年には、カフカスにロシア本土並みの行政制度が導入された。

こうしてカフカス山脈以南のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン三国の領土は、19世紀前半までにトルコやペルシャからロシアの支配下に組み替えられた。しかし、ロシア本土と併合された領土の中間に位置するカフカス山脈北麓(北カフカス)にはロシアの支配は依然として及んでいなかった。…

グルジアの併合
18世紀後半、グルジアのイラクリ二世は東部諸公をまとめ、カルトリ・カヘチ統一王国を作った。グルジアはペルシャやトルコのイスラム教徒から度々侵略され、以前から何度も北のキリスト教国ロシアに保護や軍事支援を求めていた。しかし、ロシアはグルジアを助けることによってイスラム諸国との戦争に巻き込まれるのを避けようとして長い間、手を差し伸べることをためらっていた。

エカテリーナ二世の治下の1783年、ロシアとカルトリ・カヘチ王国はゲオルギエフスク条約に調印し、グルジア東部がロシアの保護国に入った。グルジアはそれに伴ってペルシャとトルコヘの従属関係を絶ちきった。
ロシアはグルジアを保護国とした後、グルジア防衛の決意を示す象徴として首都チフリス(トビリシ)に2個の歩兵大隊を駐留させた。
1787年、第二次露土戦争が始まると、ロシアはわずかな兵力ではグルジアを防衛しきれないと判断し、チフリスから駐留部隊を引き揚げ、保護の約束を事実上、撤回した。グルジア国王イラクリ二世はその後もロシアに、駐留部隊の復帰を要請したが、援軍は得られなかった。1795年9月、ペルシャは制裁のためグルジアに侵入した。首都チフリスを占領して家々を略奪し、町を破壊し尽くした。グルジアはペルシャの制裁によって荒廃し、その後、何年も立ち直ることができなかった。ロシアはこれに報復するため、翌年、3万5千の軍をカスピ海沿岸に派遣しペルシャの属領になっていたデルベント、クバ、ガンヂャ(エリザヴェトポリ)を征服した。

パーヴェル帝(1796-1801年)の治下、ロシアとグルジアの関係は新たな段階に向けて動き出した。グルジアのイラクリ二世の死後、王位を継承した新国王ゲオルギ十二世は重い病気にかかっていた。彼は1799年9月、ペテルブルグに派遣していた使節に自分の死後のグルジアの運命を遺言として次のように指.示していた。
「グルジア王国とその統治をキリスト教の真理に従いロシア帝国の皇帝の庇護下に置け。王国をロシア皇帝の完全なる権力と監督に委ね、グルジア王国がロシア帝国内においてロシア諸州と同じ処遇を受けられることをめざせ。…グルジア王室の一族の運命については、わが一族からグルジア王の権威を奪うことなく、先祖の時代と同様、その権威が一族の子孫に代々継承されることをパーヴェル帝が文書によって約束されるよう.願い出よ」

グルジアがロシア帝国の一部に組み込んでもらいたいと希望したのは、以前の保護条約ではグルジアは外国として扱われ、危急の際に外敵の侵略から国を守ってもらえなかったからだった。
弱小国のグルジアが自力ではペルシャやトルコから国土と国民を守りきれないことは、骨身にしみていた。独立と主権を犠牲にしてでも、国土と国民の安泰をめざそうとする国王の悲壮な決意だった。キリストの真理という言葉を用いているのは、イスラム教徒の支配に屈するよりも信仰の兄弟であるロシア正教徒の支配に入る方がまだましだという、せめてもの思いがあったからである。
パーヴェル帝は1800年10月18日、ゲオルギ国王.の要請を受け入れ、次のような詔勅を出した。
「私はグルジア王国をわがロシア帝国に永久に併合するにあたって、グルジア王国とその従属諸州の新たな臣民が私の庇護下でロシア古来の臣民と同様の権利と自由、利益、特典を享受することになることを約束する」

パーヴェル帝は、病気で死に瀕しているゲオルギ国王の後継者にダヴィド王子がつくことに同意を与えた。ロシア政府としてはグルジアをロシアに併合した後もグルジア王国という国名を残し国王も名目的に存続させるが、ロシア帝国の他の諸州と同様に扱い、国王を実質的には総督として扱うという暗黙の了解ができあがっていた。

やがて、グルジアのゲオルギ王が死んだ。一方のロシアでもパーヴェル帝が宮廷クーデターで殺され、その子アレクサンドル一世が即位した。…

王族のモスクワ移送

グルジアが併合されると、故ゲオルギ国王に対する王政維持の約束は反古にされ、王政は廃止された。
翌1802年、ロシアに帰化したグルジア人の子孫であるパーヴェル・ドミトリエヴィッチ・ツィツィアノフ公爵が、グルジアの行政長官とグルジアに駐留するカフカス軍総司令官を兼ねる総督に任命された。
ロシア政府はグルジアの王族達がグルジア民族主義の旗印に担ぎ出されることを警戒し、王族全員をグルジアから引き離してロシアに移す方針を打ち出した。王族の多くは生まれ育った土地や民族から引き離されるのを嫌がり、中には頑として抵抗する者もいた。故ゲオルギ国王の二番目の后マリアもその一人だった。

マリア王妃は当時、30歳を少し過ぎ、病弱だった。彼女は病気を理由に移住を拒み続けていた。グルジア駐留ロシア軍のラザレフ将軍は、狙撃兵の大隊で王妃のたてこもる宮殿を包囲した上で、彼女に決断を促すために宮殿に赴いた。王妃は王女や女官達に囲まれ、毛布に包まってソファーに座っていた。彼女はラザレフに「私は病気でこんなに高い熱があるのに、お前はそれでも私を引き立てようとするのか」と言って、自分の体温をわからせるように毛布の中から左手を将軍に差し出した。将軍がその手を取ろうとして近づいた瞬間、王妃は毛布を跳ね上げ、隠し持っていた短剣で将軍を刺した。
傍にいた王女が、長剣を振り下ろして将軍に止めを刺そうとした。しかし、将軍が最初の一撃でよろめいたため、王女の長剣は脇にいた自分の母親である王妃の肩を深く切り裂いた。王妃も血に染まって絶命した。将軍もその場で死んだ。生き残った王女の一人は、馬車に乗せられて護送の途中でも隠し持った護身用の小さな懐刀で護送の兵士に切りかかろうとした。カフカスではどの民族も気性が激しく戦闘的だった。それは男も女も同じだった。

王政の廃止と王国の名の消滅はグルジア人にとっては予想外のことだった。王族達の国外移送はさらに怒りに拍車をかけた。ロシア人の支配に敵対する急先鋒に立ったのは、故ゲオルギ国王の弟アレクサンドレ王子だった。彼は兄ゲオルギ国王の存命中に王位争いによって兄王と対立し、ダゲスタン山中に逃れていた。彼はその後、ペルシャと同盟し、ロシア軍に抵抗を続ける。
グルジアのカルトリ・カヘチ王国は1801年、併合によって消滅し、残りのグルジア西部のメグレル、グリ公国、イメレチア王国もロシアに併合された。グルジア王に服属していたアゼルバイジャンのチャンヂャ藩国も1804年、武力でロシアに併合された。
ロシアによるグルジア併合とその後に進駐したロシア人の統治のやり方は、グルジア人の反発を買っただけではなかった。周辺の山岳民達も、遠くから事の一部始終を注意深く見守っていた。誰もが、あすは我が身に振りかかる運命だということを理解していた。ロシアとカフカス民族の間の対決は、さらに抜き差しならないものになっていく。
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by satotak | 2006-12-31 10:03 | カフカス
2006年 12月 31日

カフカース概観

「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:北川誠一):

東のカスピ海,西の黒海に挟まれた一大地峡. 古くからアジアとヨーロッパを結ぶ回廊の役割を果たしてきた. 英語名コーカサス.

[カフカースの地勢]
[カフカースの共和国と民族]

【地理】
ソ連時代の地理学上のカフカースは,北はドン川下流左岸,マヌィチ湖,カスピ海に流れるクマ川下流を結ぶ線から,南はイラン国境およびトルコ国境に及ぶ面積44万k㎡の地域であった. …この自然地理的カフカースは,さまざまな観点から大カフカース山脈を境に南北に区分される. かつては,北カフカースを前方カフカースとも呼び,また南カフカースを〈後方カフカース(ザカフカース)〉とも呼んだ.

ソ連時代には,この固有の北カフカースにドン地方(中心都市ロストフ・ナ・ドヌー)を加えた地域が,経済や軍事,統計の面での北カフカース管区であった.現在では,これにカルムイク共和国を加えた南部連邦管区が設置されている.
ダゲスタン,チェチェン(イチケリア),イングーシ,北オセチア・アラニア(オセチア),カバルダ・バルカル,カラチャイ・チェルケス,アディゲの民族共和国が含まれる. 南カフカースには,グルジア,アゼルバイジャン,アルメニアの共和国があり,現在3共和国ともにCIS(独立国家共同体)に加盟している.
グルジア(首都トビリシ)には,ソ連時代アブハジア,アジャリアの2自治共和国と南オセチア自治州があったが,現在その法的地位は未定である. アゼルバイジャン(首都バクー)には,アルメニア人の自治州ナゴルノ・カラバフ(首都ステパナケルトあるいはハンケンディ),トルコとの条約によって自治権が与えられナヒチェヴァン自治共和国(首都ナヒチェヴァン)がある. アルメニア(首都エレヴァン)は,イラン,トルコとの国境に接し,人口のほとんどがアルメニア人からなる小国である。

カフカースの南の境界に関しては,チグリス・ユーフラテスとの分水嶺をとるのが,自然地理,歴史および歴史地理から見てより合理的である. また,旧ソ連国境を南に越えた,トルコ領チョロフ川流域・クラ川上流域は歴史地理学上の西南グルジアであって,18世紀までグルジアを統治したバグラト朝発祥の地であり,アラクス川上流・チグリス川上流は西アルメニアを形成する. また,イラン北西部の3州(東・西アゼルバイジャンおよびアルダビール州)は,いわゆるイラン領アゼルバイジャンで,アルメニアの伝統的地理では、パルスカハイク(イランのアルメニア)を形成している.

カフカースの中央部は,中心となる分水嶺を挟んで,峠によって結びつけられるいくつもの小交流地域を形成していた. 大力フカース山脈は南北の行き来を阻んでいたのではなく,これを越えて多くの文化,宗教,民族,交易圏が形成されてきた.

【言語と民族】
カフカースが包含する複雑さの中で,その最たるものは言語である. カフカース固有の言語は,カフカース諸語(イベロ・カフカース語族とする場合もある)である. カフカース諸語は,系統論上関係の証明されていない北カフカース語派とカルトヴェリ語派に分かれる.
北カフカース語派は,北西カフカース(アブハズ・アディゲ〉語群,ナフ語群,ダゲスタン語群に大別される. それぞれカバルダ語,チェチェン語,アヴァル語が最大の言語である. カルトヴェリ語派には,グルジア語,メグレル語およびラズ語,スヴァン語が数えられる. これらの中で古くからの文章語であったのは,グルジア語だけである.

カフカースにおけるインド・ヨーロッパ諸語の代表は,アルメニア語派のアルメニア語とイラン語派のオセット語である. イラン語派ではほかにも,クルド語,ターレシュ語,タート語がある. ただし,共通文章語としてのペルシア語の存在を無視すべきではない.
20世紀には,スラヴ語派のロシア語とウクライナ語もこの地域で有力になった.
テュルク諸語はカフカースの全域に分布し,最大の分布はアゼルバイジャンとグルジア南部およびダゲスタン南部で使用されるアゼルバイジャン語で,話者は700万人に達する. ほかにも北カフカースのノガイ語,カラチャイ語,バルカル語,クムク語などがこのグループである.
また,アルメニアとグルジアに住むアッシリア人が,セム語族の新アラム語を話す. 19世紀までは同語族のアラビア語の話者も存在した. アラビア語の場合も,18~19世紀ダゲスタンの共通文章語がアラビア語であったことを無視してはならない.

【宗教】
住民の大部分はキリスト教徒とイスラーム教徒(ムスリム)である. キリスト教は,グルジアの大部分にグルジア正教会の信者がいるが,オセット人やアブハズ人の一部にも正教徒がいて,グルジアかロシアの正教会に属している. 正教徒のギリシア人は18~19世紀のアナトリアからの移住者であるが,その一部はトルコ語話者である. アルメニア人は正教徒ではなく独自のアルメニア教会を持っている.アッシリア人は,ネストリウス派か,カトリック帰一派である.

イスラームはアゼルバイジャンを中心にシーア派が,その他の地域,すなわち北カフカース,黒海沿岸のグルジア人の間,イラン国境のアスタラ地方にはスンナ派が分布する.
カフカースのユダヤ人は,グルジア語を話すグルジア・ユダヤ人,タート語の山岳ユダヤ人,バクーをはじめ各地の都市に住むアシュケナジームである.
カフカース全域に古い宗教が残存しているが,アルメニアとグルジアのクルド人の多くは,ヤズィーディーである. また19世紀にロシアから移住したモロカン派(ロシア正教の異端派)がグルジア南部,アルメニア,トルコ領のカルス周辺に残存している.

【歴史】
カフカースは,近世以降オスマン帝国,イラン,ロシア帝国の角逐の場となったが,19世紀中に全域がロシアに併合きれ,次いでソ連邦の一部となった. こうした歴史的経緯もあって,とくにペレストロイカ以降,諸民族の運動が噴出,ソ連邦解体の序章となるとともに,現在も多くの民族問題を抱える地域となった.

[ロシアによる征服の時代] ロシア併合の過程で,ロシア人農民とカザークによる入植が進んだ. 北カフカースではスーフィズムの影響が強く,18世紀末のシャイフ・マンスールの反乱,19世紀にはシャミール等の反乱が起こって,ロシアの進出に抵抗して神政国家を設立する運動を起こした. この運動はダゲスタンとチェチェンを中心に,北カフカースのほぼ全域に広がり,ロシアによるカフカース征服の最大の障壁となった.この反乱の失敗後,北カフカースの住民の間にロシア領からオスマン帝国へ移住しようとするマハージェル運動が起こった. 移住にはオスマン帝国のスルタンの勧誘とロシアによる強制退去の二つの側面があったが,移住者はアブハズ人,アディゲ人,チェチェン人を中心に数十万人を数えた. 南カフカースは19世紀にロシア・イラン戦争と露土戦争を経てロシア領になったが,住民交換によってアルメニア人,アッシリア人,ヤズィーディーが移住し,民族分布はいっそう多彩になった. ロシアはトビリシに,カフカース総督府を置いて統治にあたらせた.

[ロシア革命期・ソ連] 1905年革命期には,バクーの油田労働者の間に労働運動が盛んになった. その一方,アゼルバイジャン人とアルメニア人の間にタタール人・アルメニア人戦争が起こった. アルメニアでは没収された教会財産の返還要求,グルジアでもロシア正教会に吸収されたグルジア正教会の独立要求が政治運動の焦点にあった. ロシア革命後の1918年,南カフカースには,アルメニア,グルジア,アゼルバイジャンからなるザカフカース連邦が結成された. バクー・コミューンが樹立(1918)された現アゼルバイジャンのバクーを除いてボリシェヴィキの勢力は弱く,グルジアではメンシェヴィキ(グルジア・メンシェヴィキ),アルメニアではダシナク党,アゼルバイジャンではミュサヴァト党やオスマン帝国の〈統一と進歩委員会〉の支持者が多かった. ザカフカース連邦を経て,18年5月三つの民族共和国が誕生した後の国境画定で3者の利害が複雑に衝突したため,アルメニア・グルジア戦争,アルメニア・アゼルバイジャン戦争が発生した. グルジアはボリシェヴィキの影響下にあったオセット人とアブハズ人や,トルコ併合を望むアジャリアのムスリム・グルジア人(アジャル人)の分離主義に苦しんだ. アルメニアは,オスマン帝国におけるアルメニア人虐殺(1915-16)を逃れた多数の難民を抱えていた. 20-21年には各国にソビエト政権が成立したが,22年に3国は再びザカフカース連邦を結成してソ連邦に加盟,36年には再度分離した. この間,ソ連邦と民族共和国の関係のあり方をめぐって,いわゆる〈グルジア問題〉が生じた.

一方,北カフカースでは,マハチカラに1917年北方フカース山岳共和国が成立,さらにチェチェンとダゲスタンのムスリムが北カフカース首長国を建国した. さらに21年には山岳自治共和国,ダゲスタン自治共和国などのソビエト政権が成立したが,しだいに民族的自治共和国に分離された. チェチェンとダゲスタンでは,反ソビエト・ゲリラの活動がその後も続いた. カフカースでは43-44年に,対独協力やその他の口実で,多数の民族が中央アジアやシベリアに追放きれた.彼らの名誉は56年のスターリン批判以後回復されたが,追放された人々が故郷へ帰還する権利や,国境の復元などをめぐって,ペレストロイカ以降さまざまな問題が生じている.

[ペレストロイカ以後] アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州では,アルメニア人住民の間でアルメニアヘの帰属を目的とする運動が続いていたが,アルメニアでもこれを支持するエレヴァン100万人集会(1988)が行われた. アゼルバイジャンではスムガイト事件(1988),バクー事件(1990)前後のポグロムでアルメニア人虐殺事件が起こり,これがきっかけとなって,アルメニアとアゼルバイジャンの問の本格的戦争に発展した. グルジアでも,アブハジア自治共和国のアブハズ人の分離要求に対するグルジア人の抗議行動は,トビリシ事件(1989),スフミ事件(1989)に発展した(アブハジア紛争). グルジアの独立宣言(1990)後,南オセチアとアブハジアでは,分離要求が激しい内戦に発展した(南オセチア紛争). 北オセチア・イングーシ紛争は,イングーシ人の追放後,北オセチアに与えたヴラジカフカース(旧オルジョニキーゼ)近郊の土地の返還要求が原因である.

ソ連時代のカフカースの最も深刻な民族問題は,共和国のソ連からの完全独立運動であった.グルジアでは,ガムサフルディアが〈グルジア・ヘルシンキ・グループ〉を組織して人権擁護運動を指導していたが,民族運動に転じ,グルジアを独立(1991)に導いた. アゼルバイジャンでは共産党政権崩壊後に主導権を握ったのは,バクーのアゼルバイジャン人民戦線であったが,初代議長のエルチベイは汎テュルク主義的傾向の強い民族主義者であった. アルメニアの反体制的民族主義者では,ハイリキアンが著名であったが,実際に独立運動を指導したのは若い世代の〈アルメニア全国民運動〉であった. アルメニアとアゼルバイジャンも91年に独立した. 北カフヵースでは〈カフカース諸民族連合〉(山岳諸民族連合を改称)が最大の政治組織で、将来的にはアブハジアを含めた北カフカースの統合を望んだ. これら北カフカースの共和国の中で唯一独立を望んだのは,チェチェン共和国であるが,94年秋以降,2度にわたってロシアと戦っている(チェチェン戦争).

民族問題の多くに顕著に見られるのは,歴史的国境に対する執着である. アゼルバイジャンの領土要求の基礎になるのが,カフカース・アルバニアの領土であり,またアルメニアはしばしば〈海から海まで〉の大アルメニア主義を主張している. オセット人も〈大アラン国〉を根拠に南北オセチアの統合を求めており,アブハズ人も中世アブハジア王国を領土と主権主張の根拠と考えている.

【カフカース諸国の現状】
アゼノレバイジャンはナゴノレノ・カラバフ戦争の敗北によって,経済的・政治的に大きな打撃を被ったが,ヘイダル・アリフエフ大統領は,カスピ海底油田の富を担保とし,停戦を維持して経済の再建と政治システムの確保に努めた. その結果,与党は議会で安定多数を形成して,GDP(国内総生産)は増大に向かっている. 対外的にも,アメリカ,ロシア,トルコ,イラン,EU(ヨーロッパ連合)との間にバランスのとれた外交関係を樹立した.しかし難民問題を含めたナゴルノ・カラバフ問題の解決,選挙のたびに欧米から求められる民主的選挙制度の確立は,2003年父に代わって大統領に就任したイルハムの手腕に任されている.

アルメニアでは,農業の私有化で独立後の厳しい状況を乗り切った. また,ソ連時代からの伝統でもあるコンピューター,精密機械などの分野による経済再建は,順調に進んでいるといってよい. 現コチャリアン大統領は,ナゴルノ・カラバフ問題については,ナゴルノ・カラバフの独立を維持する政策を,外交はロシア,イランとの関係に重点を置く伝統的手法を用いている.

グルジアでは,アゼルバイジャンのような資源はなく,ソ連時代に発展した茶,柑橘類等の商品作物,観光,石炭などは,紛争と交通路の遮断によって壊滅的な状況から回復しておらず,首都に対する電力供給もおぼつかない. 03年には,国会議員選挙の結果に不満を持つ野党連合が,シェヴァルドナゼ大統領を退陣に追い込む政変が生じた. グルジアの政情安定には,軍事基地を確保したアメリカが大きな関心を有しているが,ロシアもグルジア内で独立・分離的傾向にある自治共和国,自治州のてこ入れで対応している.

北方フカース諸国は,ソ連時代の自治共和国,自治州がすべて,ロシア連邦内の共和国としてソ連崩壊を迎えた.
チェチェン・イングーシ共和国では,チェチェン人はイングーシ人と分離して,チェチェン(イチケリア)共和国として独立宣言をし,さらに1994,99年の二度にわたってロシアとの本格的な戦争に突入した. 2003年にはロシア側についた前ムフティー(ムスリム宗務局長)のカディロフ政府首班が,選挙に勝利して大統領に就任したが、軍の治安活動は継続し,社会の安定の目処はたっていない(カディロフは2004年5月爆弾テロで死亡).
ダゲスタンでも分離主義的運動やイスラーム政党の活発化,いわゆるワッハーブ派と伝統主義者との紛争が相次ぎ,テロ事件も多発したが,2004年現在では平静化している. 1990年代前半に活発化したアディゲ系,テュルク系の運動,北カフカースの独立をめざすカフカース(山地)民族同盟などの活動も20世紀末までに停滞した.
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by satotak | 2006-12-31 10:02 | カフカス