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2007年 07月 22日

トルガルト峠~ソン・クル湖~ビシュケク -もう一つのシルクロード-

Nikolai Shetnikov “FROM TORUGART TO BISHKEK ALONG GREAT SILK WAY
("DISCOVERY Kyrgyzstan” #9/2007 Silk Road Co.,Ltd.)より:

かつて有名を馳せ、良く知られた存在であった大シルクロードが復活しつつある。遠い昔には荷物を積んだキャラバンが中国から北方に向けてのろのろと進んでいた。自動車が駱駝や馬に取って替り、今日では絹や宝石の替わりに中国からの消費物資が運ばれ、デルヴィーシュ(イスラム神秘主義者の修行者)や巡礼者が観光旅行者に替わったのは重要ではない。最も重要なことは、大シルクロードの精神が消失せず、古代都市の遺跡にそして現代の遊牧民の気分の中に維持されているということである。トルガルト峠(注1)に数年前「アーチ」が載せられて、峠を通る道は国と時代を映す鏡に向かう道のようでもあり…見違えるほどに変貌した。


[拡大図]

峠を越え、キャラバンで1日の行程のところに、タシュ・ラバト(テュルク語、「石の構造物」の意)という奇妙な石の構造物がある。今日まで、これを誰が、いつ、何のために建てたかについて、統一した見解は出ていない。この建造物は全くユニークなもので、世界中に類似したものがない。この建造物の建設時期は10世紀と15世紀の間のいつかである。しばしばこれが隊商宿(テュルク語で「キャラバンサライ」)であると言われている。学者の多くはこれを仏教寺院、あるいはキリスト教の修道院であると考えている。しかしそれが何であったかはそれ程重要でなく、より重要のことは、それがここにあり、昔と同じようにそこでの生活がずっと続いてきたという事実である。住民はこの場所を捨てなかった。ここでは、昔と同じように、様々な国々からの人々-旅行者、遊牧民、地元民 -キルギズ人- に会うことができる。遊牧民の円形天幕(テュルク語で「ユルト」)、テント、木綿製の様々な品物、食品、そしてここでの休息や更に続く旅に必要とされる物全て - それらをここで見出すことができる。

キャラバンの行程で次の主要な地点がコショイ・コルゴン(テュルク語、「英雄コショイの丘」の意)という要塞であった。この要塞跡の直ぐ近くに現代の村(テュルク語で「アイル」)カラ・スー(テュルク語、「黒い水」の意)が位置している。残念ながらこの要塞の昔の名前は知られておらず、今ではキルギスの伝説的な英雄マナスと共に戦った同志にちなんだ名前が付いている。この要塞はかつては大きな都市 -6世紀から8世紀にかけてのテュルク族ハーン国の根拠地- であった。

現代の本道はここからナリンに向かうが、昔のキャラバン・ルートはおそらくアトバシ川に沿って進み、ナリン川を越え、そしてケクジェルティ川とソンケル川沿いに遡り、ソン・クル(テュルク語、「最後の湖」の意)湖(注2) に達するものであったろう。ここにこの見知らぬ土地を最初に発見した商人と旅人達の昔の集落があった。ソン・クル湖の美しい渓谷を昔の旅人が気付かずに通り過ぎることはできなかった。テュルク族貴人の埋葬塚 -古墳- があり、そこからこのことの証拠となる陶磁器の工芸品が発見された。キャラバンが長期に休息できる場所として、ここに大きな町があったことに疑問の余地はない。

さらに、キャラバン・ルートが川の渓谷と山の峠を通って、北方に延びていた。およそ3-4日後にキャラバンはスイエ(スイアーブ)の町に着く。ここは7世紀から12世紀に、西突厥、テュルギシュそしてカルルク各ハーン国のかつての首都であった。今は近くにアク・ベシムという村がある。「この町は周囲6-7里。様々な国から来た商人とフー人(ソグド人)がこの町に一緒に住んでいた。スイエの西隣にはいくつかの町があり、それぞれの町に首長がいた。これらの町は互いに独立していたが、テュルク(突厥)に服属していた。」 西暦630年にスイアーブを訪れた中国の旅行者三蔵がこのように記している。(注3) 現在では、アク・ベシム集落として知られる都市の遺跡が残っているだけである。この集落の範囲内で、二つの仏教寺院、一つのキリスト教教会、複数の日干し煉瓦の建物、そして様々な家庭用品が見付かった。

三蔵が記したように、スイアーブの西方30kmの地点(現代のクラースナヤ・レーチカ村)に大シルクロード上で最も大きい町であったナヴァーカートの遺跡がある。たまにこれが中央アジアのノヴゴロドと言われることもあるが、ほとんどの科学者はクラスノレーチェンスコエ集落と呼んでいる。この都市は最初ブハラやサマルカンドからの移住者によって6世紀にソグド人の交易所として設立され、12世紀まで存続したものである。商人だけでなく、様々な宗教の宣教師がソグド人に続いてここにやって来た。拝火教徒 -ゾロアスター教徒- の教会が建てられ、仏教寺院、そしてネストリウス派キリスト教徒の教会も始まった。これら宗教の教会に関係する品々(ソグド人の陶磁器製小型棺 -アッスリアス- 、ネストリウス派信者の短剣、高さ12mの仏像)、そしてコインや家庭用品など非常に多くの物が発見されており、これら全てがこの都市の過去の繁栄と力を示す証拠である。また黄金の駱駝がこの都市に埋葬されたという伝説もある。誰が、何故、何のために、駱駝を埋葬したかを誰も知らない – しかし埋葬の事実に疑問の余地はない。

クラスノレーチェンスコエ集落の西方およそ35km、現代のビシュケクの領域内に、6世紀から14世紀までテルサケントという都市があった(この名前は「背信者の居留地」または「キリスト教徒の都市」という意味のペルシャ語に由来する)。ネストリウス派信徒の銘文のある短剣と墓碑銘 -カイラク- を伴う墓石や銀と青銅のコインが発見されたが、これらは13世紀から14世紀のものであり、テルサケントの存在を証明している。歴史家は、キルギスの英雄叙事詩「マナス」の中に「タルサ」という民族が存在していたことに気付いていた。

数多くある大シルクロードのキャラバンルートの一つに沿った短い旅によって、中世の民族と歴史的展開についてこの上ない重要性を理解することができる。テュルク帝国と中国帝国、チンギスハーン、アラブ人のイスラム戦争を見た - これら全てを大シルクロード沿いの町々は切抜けて生きてきた。大シルクロードが存在した当時、時代や民族がこれらの町々を抑圧することはなかった。これら都市の消失を引き起こしたのは、唯一中国からヨーロッパに至る海路が発見されたがためである。

大シルクロードが再び生き生きとしてきた。新しい都市が昔の町の近くに生まれつつある。交易、交渉そして友好関係という理念が再び、かつて古いキャラバンの道が通っていた国の人々の主要な行動指針となってきた。そしてそれが永遠に未来に向かう道であることを信じようではないか。

(注1) トルガルト峠:標高3,752m。南に170kmほど下ると、中国新疆ウイグル自治区西端部の中心都市カシュガルがある。

(注2) ソン・クル湖:キルギスのほぼ中央、ビシュケクの南南東約120kmのところにある湖。標高3,016m、長さ29km、幅18km、深さ13m、面積278k㎡。キルギスでイシク・クル湖に次ぐ大きさの湖だが、イシク・クル湖とは違って淡水湖であり、9月から6月まで氷が張る。年間の平均気温約-3.5℃、夏季は約11℃。冬は気温が-20℃まで下がり、200日間ほど雪がある。
エーデルワイスなどの高山植物、カモミル、ヤマヨモギなどのハーブ・薬草類が豊富で、カモメ、カモなどの水鳥、シカ、マーモットなどの動物を見ることができる。
湖の周りには4,000m級の山々に囲まれた広大な高原が広がっており、馬、牛、羊の夏の放牧地になっている。
湖畔には民宿風のユルタ(フェルト製の円形天幕)があり、旅行者が利用できる。
(Lake Son-Kul, KyrgyzstanSonkul Lake参照)


(注3) 「城の周は六、七里ありて、諸国の商胡は雑居せり。…素葉已西に数十の孤城あり。」と『大唐西域記』にある。
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by satotak | 2007-07-22 12:39 | キルギス
2007年 06月 11日

チンギス・アイトマートフ -キルギスの知性-

[1]
アイトマトフ | Chinggiz Aytmatov[クルグズ]|Chingiz Aitomatov[ロシア] | 1928-
クルグズスタンの作家.タラス州の農村に生まれ,祖母らからクルグズ民話を,母からロシア文学を教わりながら育った.父トロクルは共産党幹部だったが1938年に処刑された.53年クルグズ農業大学卒,畜産技師として働く.

共同体の規範に背いて出征兵士の夫を捨て恋を貫く女性の物語《ジャミラ》(1958)で名声を得,これを収録した《山と草原の物語》(1962)でレーニン賞受賞.作品の多くは,クルグズスタンとカザフスタンの自然と生活の絵画的な描写と,教訓的・寓意的・悲劇的な内容を特徴とする.初期はおもにクルグズ語で短編・中編を書いたが,60年代後半以降はロシア語でおもに長編小説を書く.《一世紀より長い一日》(1980〉はソ連戦後史の暗部を描き,作中の伝説に登場する〈マンクルト〉は,民族的伝統を失った人々をさす言葉として中央アジアで流行した.その他の代表作に《白い汽船》(1970),《処刑台》(1986),《カッサンドラの烙印》(1994)などがあり,多くが日本語に訳されている.映画の脚本作品も多い.

ソ連大統領会議メンバー(1990),ソ連(のちロシア)の在ルクセンブルク大使(1990-93),クルグズスタンの在ベネルクス3国大使(1994- )を務めるなど,政治家,外交官としても活躍.子のアスカルはクルグズスタン外相(2002- ).
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:宇山智彦))


[2]
「いとしのタパリョーク」 訳者あとがき
キルギス共和国生まれの、現代ロシア文学を代表する作家チンギス・アイトマートフ(1928- )は、1957年、「セイデの嘆き』(原題は『面と向かって』)でロシアの文壇にデビューする。この作品は脱走兵を匿い続けた妻が、夫の人間性の喪失に耐えかねて、やがて官憲に夫を突き出すというショッキングな幕切れで、物議をかもした。
翌年発表された『ジャミーリャ』では、因習を打ち破って愛を貫く女性の姿を詩情豊かに描きだし、フランスの詩人から「世界一美しい愛の物語」という絶賛を浴びる。
そして61年、この『いとしのタパリョーク』(原題は「赤いスカーフをした、私のタパリョーク』)によってレーニン文学賞(当時の国家最高文学賞)を受賞する。この初期三部作によって、アイトマートフは作家としての地位を不動のものとする。

『セイデの嘆き』が人間の倫理観を強調したのに対し、『ジャミーリャ』では純粋な男女の愛を謳いあげたが、『いとしのタパリョーク』では、より複雑で現実的な両者の止揚が試みられている。つまり、男女の情愛を越え、それをも抱合する人間の愛情が描かれているのである。
「セイデの嘆き』がアンハッピー・エンドで、「ジャミーリャ』がハッピー・エンドであるとするなら、「いとしのタパリョーク』はナチュラル・エンドと言えるだろう。一人ひとりが人生の痛みを抱いて生きていく――これが生の実相だとでも言わんばかりの、作者の声が聞こえてきそうである。その後、彼は恋愛小説を卒業する。

アイトマートフは、知識人の国際会議「イシク=クーリ・フォーラム」と「アイトマートフ金の文学賞」を主催している。また、ペレストロイカの頭脳の一人として、ソ連大統領ゴルバチョフを支え、ソ連崩壊後にはキルギス共和国の初代大統領に推されたが、固辞した。現在は、キルギス共和国のベネルクス三国担当の大使として、ブリュッセルに在住している。前記代表作のほか、『最初の教師』、『母なる大地』、『白い汽船』、『一世紀より長い一日』、『処刑台』、『チンギス・ハンの白い雲』、『カサンドラの烙印』など、多数の作品がある。


さて、かつてこの作品が映画化された時のこと。当時の助監督の話しによると、峠でのロケ中に野次馬がいるのに気づき、危ないので立ち去るように命じたら、その男は素直にその場を立ち去ったという。

あとでそれが、他ならぬ原作者と知って、助監督は冷や汗が出たと述懐している。アイトマートフは、撮影の邪魔をしてはいけないと思って言う通りにしたと、後に語っている。彼の人柄を髣髴させるエピソードである。


1998年の晩秋、私は初めてアイトマートフに会った。当時、彼の文学についての論文を書き終えた私は、知人の紹介で、多忙な作家を東京のホテルに訪ねたのだった。会って拙論を手渡すと、私は矢継ぎ早に鋭い質問を浴びせられ、まるで論文の審査を受けているような気分になった。

とにかく一つの質問と、一つの要望、そして一つの許可をもらうことを考えて会見の場に臨んだ私は、まず、こう質問を発してみた。
「あなたにとって、男女の愛とは何ですか?」
「《贈り物》、そして《試練》。愛があるから、人は成長できる」
間髪を入れない明快な解答であった。その内容もさることながら、青臭い質問にこれほどまで明確に、何の逡巡もなく、齢七十を過ぎた人間が即答できるなんて、私には脅威であった。その語り口に私は素直に感動した。
次に、
「また是非、恋愛小説を書いてほしいのです」
そうお願いすると、
「今、書いているところだよ」
これも間髪入れずに答えが返ってくる。私は嬉しくなった。
最後に私は、彼に許可を求めた。
「『赤いスカーフをした、私のタパリョーク』を、日本で出版したいのですが……」
「それには、何が必要なんだね?」
「あなたの許可です」
「それなら問題ない」
言下に彼は答えた。
快く記念撮影にも応じてくれた彼は、別れ際にちょっと考え込んでから、口を開いた。
「原題が長いので、それを直訳しても、日本語の小説の題名としてはたしてふさわしいかどうか...。どうするつもりだ?」
「『いとしのタパリョーク』にします」
私がそう答えると、
「それはいい」
にっこり、彼は微笑んだ。
ふと時計を見ると、予定の会見時間はゆうに過ぎていた。

(チンギス・アイトマートフ著「いとしのタパリョーク」(鳳書房 2000)より(筆者:阿部昇吉))


[3]
「処刑台」 訳者あとがき
チンギス・アイトマートフは1928年にキルギーズ共和国のタラース盆地のシェケル村で生まれた。1928年というと、ソ連では左翼反対派の指導者トローツキイがアルマ・アタに追放され、第一次五カ年計画が開始された年にあたる。スターリン時代の始まりである。...粛清はアイトマートフの肉親にも及んだ。1988年7月11日発行の『アガニョーク』誌のインタヴューで作家は1937年に父親と二人の叔父が抑圧された、と自から告白している。だとすると9歳でスターリン主義の試練に遭い、13歳で15百万人の犠牲者を出した大祖国戦争を体験したことになる。戦後は畜産中等専門学校、次いでキルギーズ農業大学を卒業(1953年)した後、1956年まで畜産研究所の実験農場で畜産技師の職にあった。在学中に文学活動を始め、1952年に地元の新聞に処女作である短篇小説をキルギーズ語で発表している。1956年にアイトマートフは職業としての文学の道を歩むべくモスクワのソ連作家同盟付属文学学校に入学、ここで2年間にわたって学んだ。この間、1957年にソ連作家同盟に迎えられている。今までに発表された作品は1980年発表の長篇『一世紀より長い一日』(飯田規和訳、講談社)を除くと、ほとんど中篇小説で、初期のものはキルギーズ語で発表されたが、1966年の「さようなら、グリサルィ!』(小野理子訳、『ソヴェート文学』19号)以後の作品は最初からロシア語で書かれている。アイトマートフはソ連の各民族共和国出身の作家の多くの例にもれず、バイリンガルなのである。

長篇小説『処刑台』は一昨年、雑誌「ノーヴィイ・ミール」の6・8・9月号に連載、発表された。この作品は扱った題材の衝撃性、内容的にペレストロイカと呼応する時局性、作者がソヴェート社会に向けて放った血と涙のにじむような問いかけなどにより、連載開始と同時に文学界はもとより、一般読者から宗教界までを巻き込む反響を呼び、とりわけ若い層に深い感動と共感をもって迎えられた、と伝えられる。…

革命後70年間に最初の社会主義国家[・ソ連]は干渉戦、大戦、封じ込め政策を耐え抜いて確実に守られたのみか、超大国にまでのしあがり、国内的には餓死する人や住む家を持たない人がいない、金がないために医療や学校教育を受けられない人がいないという意味で、絶対的な貧困は一掃された。だが、このためにどれほどの犠牲が払われなければならなかったか。特に人間の内面生活がどれほどないがしろにされてきたか。ソ連共産党の党員であり、無神論者であるアイトマートフが、無垢と善への志向のみを武器に素手で「国の威信」という名の既成秩序や麻薬犯罪(=俗世の悪)に闘いを挑む元神学生アヴジイ・カリストラートフを主人公に選んだのも、このことと深いつながりをもつと思われる。乖離した内面世界と現実世界の調和と再生はこの作品の主要テーマの一つである。またこれと関連して、小説の題名『処刑台』がキリストの礫刑にも似た主人公の『殉教』を象徴していることは、お読みいただいた方には容易に分かっていただけることと思う。

アヴジイ、グリシャン、カソグーロフ、ボストン、バザルバイ、コチコルバーエフといった各々象徴的な人物と並んで、小説にはもう一組の重要な主人公がいる。それは言うまでもなく、アクバラとタシチャイナルという狼の夫婦である。大自然を具現するこの2頭の狼をめぐる民話風の哀しいバラードは小説の各プロットを糸のようにつなぎ、人間と人間、人聞と自然の相克に悲しみの光をあてている。『処刑台』は「ペレストロイカの小説」とか「ソ連におけるタブーを扱った問題作」とかいった風にセンセーショナルな面ばかりが強調されている観がなきにしもあらずだが、作品の文学性と作家の真骨頂はむしろ狼の生涯をして自然への深い愛情と畏怖とを語ったこの部分に発揮されていると訳者は思う。

人間の文明が自然に対してふるう破壊力を前にたじろぐ作者のもはや怒りを通り越した憂欝な眼差しが見える。多彩な生命の営みを内部に秘めた渺渺たるモユンクムィの大草原、天山山脈を仰ぎ、深く厳しい山塊に真っ青な湖を象嵌(ぞうがん)のように嵌めこんだキルギーズの自然は単に小説中の出来事の舞台であるはかりでなく、アイトマートフが『処刑台』全篇を書くにあたって寄って立つ精神的根拠そのものであるのだから。

(アイトマートフ著「処刑台」(群像社 1988)より(筆者:佐藤祥子))
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by satotak | 2007-06-11 22:47 | キルギス
2007年 05月 31日

玄奘三蔵の足跡 -天山・イシククル湖・スイアーブ-

桑山正進著・訳「西域記-玄奘三蔵の旅」(小学館 1995)より:
高昌王の援助
仏教をあつく信じていた[高昌国王]麹文泰(きくぶんたい)は、玄奘が高昌にとどまって自分の先生になってくれるようさかんに要請したが、玄奘はこんなところでとどまるつもりは毛頭ないから、三日の絶食をして意思をまげなかった。

決意のかたいことを知った麹文泰は、母である張太后(ちょうたいごう)を証人として仏前で兄弟のちぎりをむすび、インドからの帰り道にも立ち寄って三年の間とどまって供養(くよう)を受けるよう約束させた。

そこで麹文楽は、玄装の出発に際していろいろな旅装をととのえてやった。
(一)衣類 僧侶としての衣装三十具。頭巾(ずきん)、手袋、靴、靴下などおのおの数点。
(二)旅費 黄金百両、銀銭三万、綾(あや)ぎぬ五百匹。
(三)身のまわりを世話する人 四人。
(四)人足 二十五人。
(五)馬 三十匹。

その上さらに臣下にエスコートさせ、[西突厥の]統葉護可汗(とうしょうごかがん)の王庭まで送らせた。高昌の西のクチャをはじめとして、通過する道筋の二十四国の王には、それぞれおおきな綾ぎぬ一匹と手紙、統葉護可汗には、特別に綾ぎぬ五百匹と果物を満載した車二台を用意した。添えた手紙には、
 「法師はわたくしの弟であります。仏法を求めて、インドへまいろうとしております。どうか可汗は、わたくしめと同様、法師にもまたあわれみをたれ賜(たま)わんことを」
としたため、玄奘を紹介して全面的援助を依頼した。

玄奘はたまたま高昌に行ったことで、支配者の絶大な援助をうけることになり、また高昌と西突厥とが婚姻をとおして密接な関係にあったことを通じて、その王庭まですっかり護送され、なんなく到着することが可能になった。

もともと、西突厥の勢力圏内に早くはいることをめざした玄奘であったけれど、道こそちがえ、西突厥の勢力下に無事はいることができたわけである。これを苦難のひとり旅とはいわない。

西突厥王の篤いもてなし
その西突厥は、ヒンドゥークシュの南のカービシー=カーブル国と親和関係にあったから、王庭からヒンドゥークシュの南まで、可汗の息のかかったところを護送され、またしても楽な旅であった。
統葉護可汗は高昌王から、かれの望むところの綾きぬや果物など膨大な贈りものをうけとり、玄奘に対する便宜もまた、これにしたがって絶大なものがあった。

すでにのべたように、統葉護可汗や西突厥に関する記録は『西域記』にはほとんどないので、『慈恩伝』にもとづいてかれらのことを記しておこう。
まず最初は、玄奘が統葉護可汗に会ったところである。

玄奘は高昌の歓信(かんしん)というひといっしょに、たくさんの荷物を馬につんで、大キャラバンをくんで天山山脈をだいぶ西側で越えた。北側に出ると、そこはイシク・クル。熱海(ねっかい)とよばれた一大塩湖である。『西域記』によれば、周囲は千里あまり、『慈恩伝』では千四、五百里という。東西がひろく南北はせまく両囲は山岳。諸川が流れ込み、湖水は青黒く、風がつよくなくても高い波が寄せ、魚類は多いけれども捕れないと、記されている。(注1)

ここをまわりこんで北西へ五百里行くと、チュー河河畔のスイアーブの町。いまのフルンゼから東へ四十キロほどである。この町のまわりに可汗はそのときいた。『慈恩伝』それを描写している。

スイアーブに到着し、突厥の統葉護可汗に出会った。
ちょうど狩猟中のことでもあり、馬がたくさん集まって盛観である。可汗(かかん)は緑色の綾織り筒袖の外套(がいとう)をはおり、冠はかぶらず絹のはちまきをし、髪を後ろにたれさげている。有力部族の長たち二百人あまりが、みな髪を編んで、錦の筒袖の上着を着、大可汗の左右をかこんでいる。
そのほかの兵士たちはみな皮衣(かわごろも)とかフェルトを着け、旗印をかかげて短い弓をもち、ラクダや馬に騎乗して、目のとどくかぎり数しれない。
玄奘と可汗ははじめてあいまみえることになった。可汗はとても喜び、
「しばらくさるところへ行くが、二、三日で帰るはずである。さきに本営に行かれよ」
とのこと。お付きの部下に玄奘たちを本営までおくらせ、旅装をとかせた。

三日たつと可汗は帰ってきた。法師をつれて可汗のテントに入ることになった。
可汗はおおきなテントに住んでいた。テントは金の飾りもので飾り、まばゆいばかり。大勢の部下が可汗のまえに長大な絨毯(じゅうたん)をつらねて二列になってすわり、みな錦の服を着て輝き、衛兵たちがずらっと後ろにたっている。
このありさまを見ると、遊牧の王ではあるが美を重視していることわかる。

法師はテントから三十歩のところにいた。可汗はテントを出て、ていねいに迎え、通訳を通じて慰労の言葉を伝えると、自分の座所にもどった。
突厥(とっくつ)は火をあがめているので椅子を使わない。椅子は木であり、木は火を宿すとおもっているので、敬遠し、床に布団を重ねて敷くだけである。そんなわけで法師のためには鉄製の折り畳み椅子を設け、そのうえに布団をおき、すわれという。

少したって、高昌から玄奘を送ってきた中国人の使者と高昌人の使者を引見した。かれらはテントにはいって、高昌国王の公式の手紙と手紙にはかならずつくことにきまっていた贈りものを渡した。
可汗は自分でこれを見てて、たいそうご満悦であった。使者たちをすわらせ、酒を出し、音楽をやらせ、可汗はなみいる部下たちや使者たちと酒宴をひらく。
葡萄(ぶどう)ジュースを特別に出させ、法師に捧げた。これからみなが自分たちで互いに酒をすすめあって飲みはじめ、酒杯はいりみだれ応酬し、夷狄(いてき)の音楽が弦楽器や打楽器でかわるがわるいろいろ演奏される。蕃族(ばんぞく)の音楽ではあるが、なかなか聞いてよし見てよし、こころを楽しませてくれる。
しばらくしてさらに食事となった。みな牛や羊の焼いたものと煮もののたぐいで、これらをみなの前にたくさんつみあげる。
法師には別につくったものをだしてくれた。コムギ粉のパン、米飯、ヨーグルトやミルク、氷砂糖、蜂蜜でつくったもの、葡萄などがそろっていた。食事がおわると葡萄のジュースをのんだ。

そこで可汗は、法師に仏の教えを説教するよう要請した。
法師は、十の善行(ぜんこう)を実践して生きとし生けるものの命を大事にしなければならないという根本から説きはじめた。
パーラミタという大乗の行法が解脱にいたるわざであるという点にまで説きすすんだ。可汗は両手をかかげて額をうち、喜びにたえないというふうで、教えをその心にうけたのであった。

こんなことで、ここに滞在すること数日。可汗は法師にいった。
「インドには行かないほうがよろしかろう。あそこは暑さきびしく、…」
という。法師は答えた。
「いまそこへ私が行こうというのは、仏のあとをたずね、その教えを慕いもとめたいとおもうだけです」
それではしかたがないということで、可汗は軍中に命令して、中国語と諸国語がわかるものをさがさせたところ、以前に長安で数年すごし、中国語がわかる青年がみつかった。すぐにこれを通訳官に任命し、またおおくの国書を作成し、かれに護送させてヒンドゥークシュ山脈の南のカーピシー国まで到達せしめることになった。
一方、綾ぎぬの緋(ひ)の法衣(ほうい)をひとつと、絹布五十匹を法師に布施(ふせ)し、可汗は群臣とともに十里ばかり見送ってくれた。


可汗は高昌の麹文泰から護送されてきた玄奘を厚くもてなしたあげく、通訳を正式に任命してヒンドゥークシュを越えたところまで護送してくれた。
伝記の文は簡潔にしか書いてないが、実際にはここからさきカーピシーまで、玄奘は可汗の勢力下でその力をかりて、なんなく通行したことを意味している。
ソグド地方のサマルカンドをへて南へと行き、ザラフシャーン山脈を越えて、アム河流域にはいった玄装は、可汗が長男にタルドゥシャドという官職をあたえて置いていたワル国でいったん旅装をとく。その長男に嫁していたのは、麹文泰の妹であった。

(注1) 『大唐西域記』によると、玄奨の西遊は恐ろしく苦難に満ちた旅であった。しかし、この国外脱出者の高僧としての噂はすでに西域の異民族の間にも伝わっていたらしく、玄奘は方々で歓迎されたり、援助の手を差しのべられたりしている。とは言え、言葉も判らず、人情も風俗も判らぬ国々を次々に経廻(へめぐ)って行くのであるから、その労苦のなみ大抵でないことは当然である。玄奘は高昌国、阿耆尼(あきに)国、屈支(くっし)国、跋禄迦(ばるか)国といった西域北道に沿った小国を通過し、天山へはいって行く。天山の一支脈である凌山を通過する時はたいへんであった。

 《国の西北より行くこと三百余里にして石磧(せきせき)を渡って凌山に至る。これ則(すなわ)ち葱嶺(そうれい)(パミール高原のこと)の北原、水多く東流す。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消泮(しょうはん)することありと雖(いえど)もついでまた結氷す。経途は険阻(けんそ)にして寒風は惨列なり。暴竜の難多くして行人(こうじん)を陵犯す。この途(みち)による者は衣を赭(あか)くし、ひさごを持ち、大声に叫ぶことを得ず。微(かす)かに違犯するあれば、災禍目のあたりに見る。》

こういった高い調子の旅行記である。暴竜の難が多いというその暴竜とは何のことであろうか。竜巻のことであろうか。しかし、風のことは風のことで別に書いている。
 《暴風奮発、沙を飛ばし、石の雨をふらし、遇(あ)う者は喪没し、生を全うすること難し。》

この凌山越えで、実際に玄奘は同行した従者や牛馬の多くを失っているので、必ずしも表現がオーバーであるとは言えないようである。惨憺(さんたん)たる苦難の泊りを幾つか重ねて、やっと凌山を越えると、玄奘はそこにイシククル湖の美しい湖面を見た。湖面が美しいのは一瞬のことで、どうしてひとすじ縄で行く相手ではなかった。勿論玄奘の頃はイシククルとは呼ばれていなかった。玄奘は大清池と呼んでいる。

 《山行四百余里、大清池に至る。あるいは熱海と名付け、また鹹海(かんかい)と謂(い)う。周千余里、東西長く、南北狭し。四面山を負い、衆流は交湊(こうそう)す。色は青黒を帯び、味は鹹苦を兼ねたり。……:竜魚難処霊怪はしばしば起る。ゆえに往来する行旅は禱(まつ)って以(も)って福を祈る。水族は多しと難も敢て漁捕する者なし。》

ここにはしばしば霊怪が起ると記してあるが、この霊怪なるものの正体もまた判らない。しかし、これを玄奘がいい加減なことを書いたとするわけにはいかない。他の記述は恐ろしいほど正確であるからである。イシククル湖が熱海と呼ばれているのは不凍湖であるためであり、鹹海と謂われていたのは水が塩分を含んでいるからである。

玄奘はイシククル湖畔を過ぎ、なおアラトウ山脈を越えたり、チュー川に沿ったりして、チュー盆地へ降りる。するとそこに突厥の都邑である素葉城[(スイアーブ)]があった。「清池西北行五百余里素葉水城に至る」。玄奘は簡単に記している。
素葉城の地は、現在のトクマク付近とされている。湖畔からトクマクまで都邑はなかったのである。烏孫の時代にあったその王都赤谷城のことはどこにも記されていない。漢の公主が王の妃として、更にまたその王の孫の妃として何年かを過した赤谷城は、玄奘の頃は影も形もなくなっていたのである。凌山の暴竜の為せる業か、あるいは大清池の霊怪の為せる業なのであろう。…
(井上靖著「西域物語」(新潮文庫 1977)より)
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by satotak | 2007-05-31 13:16 | キルギス
2007年 05月 22日

イシククル湖 -天山の湖-

井上 靖著「西域物語」(新潮文庫 1977)より:

…天山の山ひだ深くに匿(かく)されているイシククル湖は、玄奘が通過した後も決して歴史とは無縁ではなかった筈である。8世紀のアラブの侵入、13世紀のモンゴルの侵寇(しんこう)、さらに降るとチムールの大兵団の移動がある。次々に異った民族が、中央アジアの征服者としての姿を、イシククル湖の湖面に映して来る。またこうした大侵略兵団の到来の間々を縫って、前述したように中国兵が湖畔を通過する時代もあれば、カラハン朝を初めとするこの地帯の征服者たちがその時々の誇りやかな姿を湖畔に現わした時代もある。そしてその度に、イシククル湖の湖畔には都市や聚落が建設されたに違いない。大きな都邑もできていたかも知れないし、小さい聚落がちらばっていたかも知れない。しかし、そうしたことの詳しい記述はない。
多少詳しくイシククル湖が紹介されたのはアラブの時代、それに次いでは14世紀のチムールの時代であって、チムール時代の文献に依ると、湖畔には定着生活を営んでいる聚落が点々としてあり、美しい草花が咲乱れ、果樹栽培が行われ、湖上には島があって、王宮が築かれていたという。そしてチムールも屢々(しばしば)軍旅の疲れを、この天山山中の湖の城に.医(いや)しにやって来たというようなことが記されているが、果してそのような事実があったかどうかは判らない。チムールの軍隊がこの地方を通過したことだけは間違いないが、総帥チムールが自らこの地方に足を印したかどうかは疑問とされている。しかし、湖上に島があったことと、そこに城が築かれたということの方は事実と見ていいようである。

ただ面白いのは、15世紀に存在し、16世紀にも存在したに違いないと思われるその島も、城も、これまたいつか影も形もなくなってしまっていることである。18世紀の前半に、ロシア人は初めてこの地方に進出するが、その記録にはイシククル湖畔には僅かのキルギス人が遊牧していることが記されているだけである。そしてその時作られた地図には島は記載されていない。

19世紀中頃からロシアの探検家がこの地方に足を踏入れ始めるが、その中でも有名なのはセミョノフ・チャンシャンスキー、プルジェワリスキー等である。…
わが国に於て西域探検家として最も有名であるスウェン・ヘディンもイシククル湖畔に足を印している。その著『さまよえる湖』の中に、彼がイシククル湖畔でプルジェワリスキーの墓に詣でたことが記されている。…

天山に関する地理学的研究で不朽の業績をあげたセミョノフ・チャンシャンスキーもイシククル湖畔を度々通過したことであろう。セミョノフにとっても、プルジェワリスキーにとっても、ヘディンにとっても、イシククル湖は、どうしてもそこを通過しなければならぬ東トルキスタンヘの足がかりであり、大遠征旅行の重要な一基地であったのである。しかし、そのイシククル湖そのものの異変については、この偉大な探検家たちも思いを致すことはなかったであろう。大天山が、あるいは天山の向うの未知の世界が彼等を大きく呼んでいたからである。

しかし、この三人の大探検家も、あるいはイシククル湖畔の住民たちから、この地方に伝わる伝説の幾つかを聞く機会を持ったかも知れない。

その伝説というのはなかなか面白いものである。――昔、いま湖になっているところは美しい平野になっていて、平野には幾つかの町が繁栄していた。人々は平和に豊かに生活していたが、ある時一人の魔女がやって来て、町の人たちをすっかり堕落させてしまった。天山山中の静かな美しい町は、忽(たちま)ちにして淫蕩(いんとう)な騒がしい町に変った。これを見てすっかり腹を立てた神は、一夜にして町を水びたしにし、一帯の地を今日見るような湖にしてしまった。

また、こういう伝説もある。いま湖になっているところに、昔一つの町があった。町の人たちは平和に楽しく暮していた。この町のただ一つの欠点は泉が一つしかないことで、町中の人は毎日のように壷を持って、泉に水を汲(く)みに行った。泉には鍵(かぎ)を預かる聖者がいて、人たちはその鍵番の聖者から鍵を受取って、泉の水を汲み、汲み終ると、泉に鍵をかけ、再びその鍵を聖者に返す掟になっていた。ところが、ある時、ひとりの娘がこの掟を守らなかった。彼女は水を汲んだあと、恋人と愛の囁(ささや)きを交すのに夢中になってしまって、鍵を鍵番の聖者に返すことを忘れてしまったのである。恋人たちが鍵のことを思い出した時はもう遅かった。泉からは水が噴き出し、もうどんなことをしても、それをとめることはできなかった。見る見るうちに町は水びたしになり、何日もたたないうちに、町は水の底に沈んでしまった。

この地方には同じような伝承が幾つかあるが、どれも町の瞬間的破局を物語るものばかりである。

あるいはまた三人の探検家は、湖畔に点々とちらばっている聚落の住民たちの生活に接して、奇異な思いを持ったことがあったかも知れない。そうしたことがあっても、いっこうに不思議はなかったのである。なぜなら湖畔の住民たちは、奇妙な皿に料理を盛って食べ、奇妙な器で酒を飲んでいたからである。いずれもこの地方で造られていない器物ばかりであった。それもその筈、住民たちはそれらの品を湖底から獲(え)ていたからである。自然に湖岸に打上げられて来たものもあれば、住民たちが自ら湖の中にもぐって行って拾って来たものもある。彼等が湖中から得たものは食器類ばかりではなかった。彼等が住んでいる家も、湖中から得た日干し煉瓦(れんが)で組みたてられてあったのである。

そしてまた、三人の偉大な探検家たちは、湖底に一つの都が沈んでいるという伝承と、その伝承を裏付けでもするように、時折、湖岸に人骨や武器が打上げられたりする話を耳に入れたかも知れない。恐らくセミョノフも、プルジェワリスキーも、ヘディンも、イシククル湖の不可思議な伝承に耳を傾け、イシククル湖から出て来た土器や煉瓦を己が手で取上げ、それに触ってみ、撫(な)で廻し、それから改めて思いをイシククル湖の広い湖面に馳(は)せたことであろう。しかし、そうした天山山中の湖の秘密の解明は、いかに魅力あるものであっても、彼等の仕事ではなかったのである。天山の氷河が、タクラマカン沙漠が、チベットが、青海が、ロプ湖がより強い力で彼等を呼んでいたのである。…

ソ連科学アカデミー考古学研究所によって、イシククル湖の考古学的調査が行われたのは1958年のことであった。若い研究所員たちは潜水具を身に着けて、湖底を探った。

考古学者たちは湖底において宮殿の壁の一部と思われる煉瓦積みを見たり、大量の煉瓦の堆積(たいせき)を見たりした。古代の柵(さく)もあれば、古代の水道管もあった。が、引上げることのできるものは、その一部でしがなかった。それでもいろいろなものが地上に上がった。高価なうわぐすりのついた煉瓦もあれば、浮彫り装飾のある焼結土板もあった。青銅製の容器もあれば、鉄製の槍首もあった。数十キロの重さの石臼(いしうす)もあれば、人骨も、獣骨も、武器も、農具もあった。最初の潜水で発見し、二度目の潜水で姿を消しているものもあった。そうしたものの中で、潜水者たちを残念がらせたものは二個の金製の釜であった。イシククル湖底は、潜水者たちにいろいろな物を見せたり、匿したりした。

調査は翌年も翌々年も続けられた。各所の湖底で石を敷きつめた舗道が発見されたり、大きい建物の基礎が発見されたりした。大煉瓦工場跡も出て来た。

この調査によって判ったことは、湖底に聚落が沈んでいるということであった。大きな都邑であるか、小さい幾つかの聚落であるか、そうしたことは判らないにしても、とにかく曾て人間が集り住んだ一区域が建物や人間と共に沈んでしまっているのである。

この調査団の一員であるボリス・ジューコフはその著『イシククル湖の波の下』(加藤九祚(きゅうぞう)氏訳「湖底に消えた都」)において、イシククル湖の持つ不可思議さを過去に何回にもわたって起きた地震によるものとしている。湖底から引上げられたものが一つの時代のものではなく、さまざまな時代にわたっているからである。(注1)

――イシククル湖全域にわたる破局というのはなかったと考えられる。きまざまの時代と、さまざまの地域で、地震によって湖岸の一部が水中に沈んだのである。場合によっては、湖岸の聚落のある部分が水中に没することもあったが、多数の人命の犠牲をともなうことはなかったようである。これこそは、民間伝承のうちに大破局の明白な痕跡(こんせき)が残ってない主な理由ではないだろうか。しかし現地のなかば破局的な現象は、空想に包まれてはいるが、民間伝承の中に全く見出されないわけではない。多くの場合これらの伝承の本質は、イシククル湖そのものの成因の説明に向けられているけれども、同時に地震の一般的な様相にもふれている。

ボリス・ジューコフはこのように結論している。

私は二回の西トルキスタンの旅で、二回ともイシククル湖畔に立つことを希望したが、その願いは果されなかった。地図の上で見ると人間の眼のような形をしている天山山中の湖を、飛行機を使えば30分もかからぬ地点まで来ていながら、瞼の上に思い描くだけで満足しなければならなかった。大きさは丁度琵琶(びわ)湖ぐらいである。そして南と北には4000メートル以上の山が迫っている。北にあるのはクンゲイ・アラトウ山脈、南にあるのはテルスケイ・アラトウ山脈である。四時雪を戴いた屏風(びょうぶ)のような一つの山脈に挾まれて、人間の眼のような形の湖が置かれているのである。玄奨三蔵が記したように、この天山山中の湖には、確かに“暴竜”が住んでいたのである。今なお住み続けているかも知れない。イシククル盆地は現在も活溌な地殻活動が行われている地帯であるからである。

(注1) 烏孫 赤谷城:イシククル湖は...紀元前後は騎馬民族烏孫の地で、その首都赤谷城はシルクロードの開拓者張騫が訪れ、烏孫に嫁いだ漢の公主が住んだ所と言われていたが、長い間その所在が確認されなかった。しかし1985年の調査により、イシククル湖東の湖底にある遺跡がほぼ赤谷城であると特定された。
(「キルギス写真旅程1」より)
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by satotak | 2007-05-22 16:25 | キルギス
2007年 05月 10日

井上靖とキルギス・イシククル湖

読売新聞(2007.5.19朝p.37)より:

井上靖墓前に西域の石 生前に訪問切望 イシククル湖からキルギス顧問が持ち帰る

 生誕100年を迎えた作家 井上靖(1907~91年)が生前、訪問を切望していた中央アジア・キルギスにあるイシククル湖の石が、幼少期を過ごした静岡県伊豆市湯ヶ島の墓前に届けられた。同湖への思いを記した井上の著書を読んだキルギス大統領経済顧問の田中哲二さん(64)が持ち帰ったもので、一般にも公開される予定だ。


 天山山脈の北側にあるイシククル湖は、シルクロードの要所として栄え、湖底には騎馬民族の都が沈んでいると言われる。唐代の僧・玄奘三蔵の旅行記「大唐西域記」でも言及されている。

 西域の歴史に造詣(ぞうけい)の深い井上は、65年と68年の2回、同湖行きを試みたが、当時のソ連外務省から許可されず、2度目のビザ申請の際には「軍事機密があるなら、湖までは目隠ししてもいい」と懇願したという。

 田中さんは日銀出身で、93年にキルギス中央銀行最高顧問として派遣された際、「西域物語」など井上の著書を数冊持参した。同年夏、同湖を訪れた際、井上の無念をつづった著書を思い起こしてきれいな石を6個拾い、持ち帰った。

 その後、田中さんは仕事に追われ、石を書斎の段ボール箱にしまっていたが、先月8日、都内のキルギス物産展で偶然、井上の長女の浦城いくよさん(東京都町田市)と出会った。いきさつを聞いた浦城さんは「生誕百年記念祭が開幕するから、持ってきてほしい」と要望。開幕日の先月22日、田中さんと浦城さんらは、キルギスの民俗帽子に包んだ石と、同湖の風景の刺しゅうを墓前に供えた。

 田中さんは「14年間の心の重しが、ようやく取れました」と話し、浦城さんは「父の思いを読み取ってくれてうれしい。出会いも父の導きに違いないですね」と感激していた。石は浦城さん側が保管し、今夏までに一般公開される。
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by satotak | 2007-05-10 14:03 | キルギス
2007年 05月 06日

クルマンジャン・ダトカ -クルグズの女傑-

クルマンジャン・ダトカ Kurmanjan Datka (クルグズ語: Курманжан Датка; Datka Kurmanjan Mamatbai kysy) 1811-1907

コーカンド・ハン国期およびロシア帝国期のクルグズ人部族指導者。「アライの女帝」または「南部の女王」としても知られる。

遊牧民オン・カナト(右翼)部族連合のムングシュ族の平民クルグズの娘として、クルグズスタン南部アライ地方グルチョに生まれる。18歳のときにそれまで会ったこともなかった男との結婚を強いられた。彼に会ったとき彼を好きになれなかった彼女は伝統と故郷を捨て、最初隣の中国に逃れたが、後に父親マンバトバイのもとで過ごすことを決意する。
1832年、当時コーカンド・ハン国によってアライ地方のダトカに任命されていた有力クルグズ、アルムベク・ダトカが若くて快活な彼女に惹かれ、彼女は彼と再婚した。

「アライ山の女王 クルマンジャン」
(ユリスタンベク・シガーエフ (注1))

なおダトカとは、コ一カンド・ハン国では要塞司令、ブハラ・アミール国ではアミールヘの請願を取りつぐ官職であり、クルグズ人の場合、この称号は部族長に与えられた。

アルムベクはハン国宮廷で大きな影響力を有していたが、クルマンジャンは夫が地元不在の際に聡明な部族指導者として頭角を現すようになった。62年、しだいに衰えつつあったハン国宮廷の内紛によりアルムベクが非業の死を遂げると、当時ハン国に干渉していたブハラ・アミールは彼女の影響力に注目し、アライの支配者としてダトカに任命した。彼女はコーカンド・ハン国、ブハラ・アミール国、カシュガル方面にも影響力を有していた。

コーカンド・ハン国の内乱に乗じてロシア軍が征服を開始すると、クルマンジャンは当初これに抵抗した。しかし76年スコベレフ将軍のアライ遠征に際して抵抗の無益を悟り、彼女の部族民にロシアの宗主権を受入れるよう説得した。

引き続く動揺とロシアの支配権を排除しようとする部族民の散発的な試みが続く中で、銃砲火薬類をはじめとする密輸は儲けの多い商売となった。そしてクルマンジャンの2人の息子と2人の孫が密輸と税関役人殺人の罪で告発された。彼女のお気に入りの息子に死刑が宣告されたとき、彼女の支持者達が彼の救出を熱心に求めたが、彼女は自分の個人的な希望や熱望で部族民を苦しめることを拒んだ。彼女は実際に息子の公開処刑に立ち会った。そして他の者達はシベリアに追放され、彼女は実質的に公式の場から引退した。

1906年、マンネルハイム将軍(後のフィンランド大統領)が彼女を訪れ、ロシアの勲章を授けるなど、ロシア帝国併合後も「アライの女帝」としてトルキスタンのロシア権力から丁重に扱われ、特権を得た。クルマンジャン・ダトカは90才過ぎまで生き長らえ、2人の息子、2人の娘、31人の孫、57人の曾孫と6人の玄孫を遺した。

1995年に創設された女性のための委員会の名称に彼女の名前が付けられた。その委員会は現在では「女性国民連合:エラユム “Erayim”」として知られている。

(出典) 「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005 筆者:秋山 徹)
     「Kurmanjan Datka」 (From Wikipedia, the free encyclopedia)

(注1) ユリスタンベク・シガーエフ: 1957年 旧ソ連邦キルギス共和国ビシケク生まれ。1984年 ペテルブルグの芸術アカデミー卒業。アジアン・アート・ビエンナーレ(1997年 ウズベク、1999年 バングラデシュ)、World Contemporary Art (ロス・アンゼルス) などにおいて受賞多数。2000年 キルギス国家賞受賞。キルギス国立建築大学美術学部教授。2006年9月 初来日。

(参考) 50ソム紙幣: クルマンジャン・ダトカの肖像が入ったクルグズスタン紙幣

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by satotak | 2007-05-06 20:07 | キルギス
2007年 04月 25日

キルギスの歴史

若松 寛訳「マナス 少年篇 -キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫 2001)より:

キルギス人は悠久の歴史をもつ古い民族である。その先祖は“堅昆”(けんこん)と呼ばれ、彼らは最初南シベリアのイェニセイ川上流の森林地帯に居住して、紀元前3世紀には匈奴に服属していた。西暦3世紀に至って、堅昆はかなり強大となって、彼らは丁零、鳥孫、康居の諸民族と隣り合っていた。このころの史書ではキルギス人は“堅昆”、“紇骨”、あるいは“契骨”と称された。

唐代に至って、キルギス人は"黠戛斯”(かつかつし)と呼ばれた。648年(唐、貞観23年)、黠戛斯首領失鉢屈阿桟(しつばつくつあさん)が唐に入朝して以来、キルギス人は初めて唐と直接に関係をもち、一時はその支配をうけ、唐の堅昆都護府が名目的ではあるが設けられた。

9世紀、キルギス人の勢力は東、南方向に向かって拡張し、モンゴル高原のウイグル・カガン国を倒して(840年)、キルギス・カガン国を創建した。キルギス・カガン国が存在した百余年は、キルギス史上の繁栄時代であり、キルギス人はゴビ砂漠以北に雄を称(とな)え、国強く兵は壮(さか)んで、人口は百万を超えた。

10世紀初め、内モンゴル東部に契丹(遼朝)が興り、キルギス人に取って代わってゴビ砂漠以北の高原をも支配した。ここにさしも強盛を誇ったキルギス人も契丹の隷属民と変わり果てた。

10世紀後半頃からキルギス人はしだいに東、西両グループに分かれ始めた。東方グループが主力で、イェニセイ川上流の森林地帯に拠って牧畜兼狩猟の生活を送っていた。西方グループは若干の西遷したキルギス人で、彼らはアルタイ山と天山の一帯に遊牧していた。

12世紀20年代、遼朝の王族耶律大石が王朝の滅亡に際して中央アジアへ逃れ、1132年、カラハン朝を滅ぼして、チュー河畔のベラサグンを都としてカラ=キタイ(西遼)朝を開いた。カラ=キタイ朝は80余年と短命であったが、キルギス人にとっては苦難の時代となった。カラ=キタイの軍はキルギス人の牧地を占領し、キルギス人の家畜・財産を掠奪して、彼らに流浪をよぎなくさせた。

モンゴル族が台頭すると、1218年チンギス・カンはキルギス人を征服し、キルギス人西方グループ地区はモンゴル西征の基地となった。元朝もまたキルギス人に強力な支配権をふるったが、この頃からキルギス人西遷の動きも顕著となった。

明代に入ると、チンギス・カンの時代からイェニセイ川の西方、イルトィシ川の上流にいて、キルギス人とずっと隣り合ってきたオイラト人が急激に勃興し、その勢力をモンゴル高原とアルタイ山以南に伸ばした。オイラト人は西モンゴル族であり、キルギスとその他のテュルク語系民族からはカルマクと呼ばれ、漢文史料では瓦刺(わら)と称される。

1439年オイラトの首領となったエセンは一代の梟雄で、東は朝鮮から西は中央アジア、北はシベリア南辺から南は長城に至る大領土をひらいた。彼は49年大軍を率いて明の北辺に侵入し、長城の土木堡で明の正統帝を捕らえ、その後まもなく大ハーン位についてオイラトの全盛期を現出した。しかし彼は54年部下に殺され、ゴビ砂漠以北の草原は一時混乱状態におちいった。このあともオイラト人の勢力は衰えず、西北モンゴリアはひきつづきその勢力下にあった。

キルギス人の東方グループが大挙して天山一帯に西遷したのもエセン・ハーンの支配期とその死後の混乱期のことだったらしい。キルギス人は新たにモグーリスターン・ハーン国の支配下に入った。この国は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、天山からセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきた遊牧国家である。キルギス人はモグーリスターン・ハーンの苛酷な統治とカルマク人の侵攻にあえいだが、16世紀に入ると、彼らはカザフ人と同盟を結んで、モグール人(モグーリスターン・ハーン国人)およびカルマク人と抗争を行った。

17世紀前半、オイラト人の中のチョロス部族が他のオイラト諸部族を統合して、天山・アルタイの間の大草原にジュンガル王国を建設した。以後、この王国の勢力は、東はモンゴル高原にまで伸びて、このため清朝と北アジアの覇権を争い、西は中央アジアのシル川東岸にまで達してタシュケント、サイラムの両都市をも占領し、北はシベリア南辺でロシア帝国と境を接し、南は天山以南のタリム盆地全域を奪った。キルギス人もこの王国の支配下に組みこまれ、天山以北にいる者は東ブルート、天山以南にいる者は西ブルートと呼ばれた。1757年ジュンガル王国が清朝に滅ぼされると、東西ブルートはジュンガル王国の70年の久しきにおよぶ統治を脱して、清朝に服属した。

一方、16世紀ごろから中央アジアのフェルガナ地方に移住した一部のキルギス人は、その後ウズベク人のホーカンド・ハーン国の支配下に入ったが、1864年からはロシア帝国に服属した。(注1)

以上のような歴史をキルギス人はたどってきた。そこに目立つ現象は絶え間ない外患と遷徙(せんし)である。紀元前3世紀匈奴への隷属を皮切りに、彼らは唐代に至るまで北方異民族の属部となってきたが、西暦9世紀にキルギス・カガン国を樹立して、ゴビ砂漠以北の高原に百余年にわたって万丈の気を吐いた。しかし10世紀からは連続して彼らは契丹人、モンゴル人、カルマク人、モグール人、ジュンガル人の支配下にあった。こうした逆境の中から民族を外敵から守り独立を勝ち取るあこがれの民族英雄が模索され、それが叙事詩の中で結実したのであろう。したがって英雄マナスはあくまで実在の人物ではなく、民族の夢と希望の所産なのである。

(注1) クルグズスタンは18世紀後半から19世紀前半にかけてコーカンド・ハン国の支配下にあったが、1855-76年にロシア帝国に併合され、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となった。1916年反乱の際、北部ではクルグズ人とロシア人農民の大規模な衝突が起きた。
ロシア革命後にトルキスタン自治共和国の一部となったが、24年にロシア連邦共和国の一部としてクルグズ(1925年までのロシア語名カラ・キルギズ)自治州が成立し、26年にクルグズ(キルギズ)・ソビエト社会主義自治共和国、36年にソ連邦を構成する共和国に昇格。ソ連時代後半に活躍を始めた作家アイトマトフは世界的な名声を得た。
1990年にオシュ事件の悲劇を経験。90年12月にクルグズスタン共和国に改名して主権を宣言し、91年8月にソ連からの独立を宣言した。93年5月にクルグズ共和国に改称。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
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by satotak | 2007-04-25 11:57 | キルギス
2007年 04月 22日

キルギズの起源

護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版 1990)(筆者:加藤九祚)より:

…キルギズの起源については、一般にイェニセイ・キルギズと天山キルギズの二つに分け、その相互関係について諸説がある。イェニセイ・キルギズに関する資料は、漢代に匈奴の北にいたという堅昆(けんこん)、鬲昆(かくこん)にはじまり、南北朝時代の結骨(けっこつ)、契骨(けっこつ)、唐代の黠戞斯(キルギス)、紇斯(キルギズ)、古代トルコ語碑文のqyrqyzとしてあらわれている。『新唐書』では農耕民として登場している。『史記』匈奴伝の堅昆は、ソ連の考古学者L・キズラソフによれば初期テュルク(トルコ系)のタシュティク文化の担い手であるとしている。そして本来のイェニセイ・キルギズ(彼はハカスと称している)の文化は6世紀以降とし、ソ連の考古学では南シベリアのトゥーヴァとミヌシンスク盆地の6-12世紀の考古学的遺物を「イェニセイ・キルギズの文化」として総括している.

つぎに「天山キルギズ」であるが、これは現在天山、パミール・アライ方面に居住しているキルギズ人、つまりソ連のキルギズ共和国のキルギズ人のことである(注1)。この天山キルギズと歴史上のイェニセイ・キルギズとの関係はどのようなものであろうか。民族学者S・アブラムゾンはこの問題について三つの仮説があることを指摘している。

第一は天山地方を調査した考古学者A・ベルンツュタムの仮説とそれを発展させたものである。ベルンシュタムは、天山地方には前3-前1世紀までサカ、烏孫など東イラン語系の人びとが住んでいたが、前1世紀ごろから紀元4-5世紀ごろまで匈奴を主力とするトルコ語系の人びとが進入した。「この地域の東イラン系諸族はしだいにその立場を失い、トルコ語系の人びとがそれにとってかわった。キルギズもその一つである。」 ベルンシュタムは、キルギズがはじめて天山地方に現われた時期を、前49-前47年 匈奴が郅支(しっし)単于に率いられて天山地方に入り、一部はタラス川流域に住みついたときと考えている。彼の調査したケンコール古墳は匈奴の残したものとされている。ベルンシュタムの説はその後一部修正され、イェニセイ・キルギズは匈奴以後千三百-千四百年の長期間、幾波にもわたってイェニセイ川上流域から天山方面に移住したとの説になっている。

第二の説。キルギズは遠い古代から天山およびパミール・アライの山地に変わることなく居住したとするものである。この見解はN・ビチューリン、Ch・ワリハノフ、N・アリストーフらの研究者たちがこれに属し、近年はカザーフ共和国の学者A・マルグランによって発展させられた。彼は9-10世紀におけるキルギズの政治的連合の中心はウルムチおよびトルファン北部地域にあったとの結論に達した。キルギズはここからいくつもの方向へ移動したが、天山方面へ移動したグループの一部がこの地域に残って、キルギズという名称をえたというものである。

第三の説。これはK・ペトロフの見解で、後代にキルギズというエトノス(民族を構成する要素)を形成した人びとは、イェニセイ川とイルティシュ川の河岸地帯からのキマク(キプチャク)・キルギズ、さらにはキマクに近い東部キプチャク諸部族であるとするものである。彼らははじめ(13世紀中ごろ)イリ川とイルティシュ川の河間を占め、ついで天山中央部に進出した。天山方面への移動は、はじめいくつもの小グループによっておこなわれ、他のモンゴル・トルコ系住民と混じりあった。しかしティムール時代以後(15世紀)になると大移動となり、キルギズ民族形成過程のはじまりと時を同じくするにいたった。

アブラムゾン自身の見解はおよそつぎのとおりである。キルギズの物質文化、伝承、部族名などはアルタイ、イルティシュ川上流部、モンゴル、東トルキスタン、チベット周辺の諸民族に近い。こうした事実からして、現代のキルギズの形成過程は主として天山東部およびそれに隣接する地域において、トルコ系譜部族を基盤にしてなされた。これら諸部族の大部分は、おそらく6-10世紀の突厥国家時代の諸部族にさかのぼると考えられる。いくらか時代が下がると、キルギズの民族形成にモンゴル起源の部族もくわわった。キルギズの中央アジア移動はモンゴル時代以後と考えられるが、このころになると、キルギズは、一面ではカザーフ・ノガイ的要素、他面ではウズベクおよび部分的にはタジクに代表される現地の中央アジア的要素によって補充されるにいたった。要するに、アブラムゾンは、イェニセイ・キルギズと天山キルギズの間には、間接的関係はありうるけれども、直接的関係はみられないとの見解に立っている。この点、ベルンシュタムのイェニセイ・キルギズ移住説とは根本的にちがっている。

イェニセイ・キルギズは、17世紀にロシア人がシベリアに進出した当時、四つの小部族連合に分かれて狩猟と牧畜に従事していた。農耕はなかった。18世紀初頭、キルギズの2500家族がカルムィク人によって南シベリアから連れ去られた。これ以後シベリア諸民族のなかでキルギズの名は消滅した。しかし一部のキルギズはその住地に残り、自称、言語、生活様式などの特徴を失い、ハカス、トゥーヴァなどの民族に溶けこんだことは確かであると考えられている。

(注1) クルグズ[人]:中央アジアの天山山脈西部・パミール高原地方に居住する民族。 キルギスともいう。
テュルク系諸民族の一員で、クルグズスタンでは最大人口を占める。同国には約333万人(2003年クルグズ共和国統計)が、その他中国・新疆ウイグル自治区に十数万人(中国語名は柯爾克孜)、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン等に分かれて数十万人が暮らすと推定される。テュルク諸語キプチャク語群に属すクルグズ語を話し、大多数はスンナ派イスラームを信仰している。
〈クルグズ〉は自称で、いくつかの起源伝説がある。おもなものに①〈ハンの娘の40人の侍女〉=〈40 kirk〉+〈娘kiz〉の子孫、②〈40の部族〉=〈40 kirk〉+〈部族uruu〉の子孫、③〈連峰kir〉に住む人々=〈クルクルラルkirkirlar〉または〈クルキスレルkirkisler〉の子孫といった伝説が挙げられる。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
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by satotak | 2007-04-22 20:41 | キルギス
2007年 04月 13日

マナス第一部

若松 寛訳「マナス 少年篇/青年篇/壮年篇」(東洋文庫 2001-05)より:

《少年篇》
第1章 不思議な夢
老人の嘆き〉老妻の見た夢〉ジャクィプの見た夢〉若妻の見た夢〉失踪した少年の捜索〉夢判断〉

第2章 勇士誕生
ジャクィプの兄弟たち〉チュウィルディの懐妊〉難産〉ジャクィプ外出〉男子誕生〉“スユンチ(吉報)”〉盛大な祝宴〉マナスと命名〉

第3章 オシュプル老のもとでマナスを鍛錬
放牧見習い〉四十チルテンの出現〉カルマクの老人とけんか〉サラマトの四人の子とけんか〉オシュプル音を上げる〉

第4章 カルマクの乱暴者どもを制裁
帰途でのできごと〉気丈な母〉ジャクィプ、救援にのりだす〉母と子、無事家に帰る〉

第5章 アルタイのカルマク勢を撃退
カルマク人の内輪もめ〉アルタイのカルマク勢を撃退〉凱旋〉

第6章 エセン・ハーンの密偵団を制裁
皇宮取りゲーム〉エセン・ハーンのたくらみ〉隊商とマナスのけんか〉

第7章 ネズカラ討伐
バイと二人の息子〉バイの受難〉バイ、ジャクィプと邂逅〉ネズカラ、ジャイサンバイを攻撃〉キルギス軍迎撃〉マングル人、キルギス人に服属〉

第8章 十一人の密偵団に仕置き
ジャクィプ、虎口を逃れる〉鳩首凝議〉怪物退治〉密偵どもに鉄拳制裁〉

第9章 オルクン川の戦い
若者グループのかしらに選ばれる〉オルクン川の岸辺に到達〉エセン・ハーンの調査隊〉クィタイ軍撃破〉

第10章 ハーンに推戴
ジャクィプの提案〉

《青年篇》
第1章 テケス・ハーンの魔人部隊撃滅
長老会議〉出陣〉テケス・ハーンの驚き〉魔法使いクヤス、魔兵を配置〉バカイ、魔兵を看破〉魔兵部隊の全滅〉テケスの後継者選出〉テイイシュの祝賀会〉マナス、一騎打ちに出場〉祝賀会は続く〉更なる進軍〉

第2章 オルゴ・ハーン軍との決戦
オルゴ・ハーンの驚き〉オルゴ・ハーン、迎撃体制を固める〉巨漢アタンの惨死〉合戦始まる〉激戦のあと〉オルゴ・ハーン妃、命乞いに行く〉

第3章 アクンベシム征伐
長老会議〉部隊を分けて行軍〉アクンベシム、防戦準備に大わらわ〉マナス、バカイ二手に分かれる〉魔法使いボーン現る〉バカイ隊の行動〉魔法使いボーンの最後〉マナス軍進軍〉シャムィン・シャー注進〉アクンベシム、防戦体制を取る〉合戦の火蓋切らる〉アクンベシムの最期〉

第4章 父祖の故地へ移動開始
長老会議〉移動中のできごと〉

第5章 アローケ・ハーンに向けて進撃
マナス、狩りに興じる〉アローケ・ハーン登場〉アローケの使者来る〉アローケ出陣の知らせ〉マナス出陣〉アローケの王宮〉マナス王宮に突入〉マナス、猛獣の群の中に入る〉アローケ降伏〉

第6章 ショールク・ハーンとの抗争
ショールク・ハーン出陣〉美女アクィライの諌め〉合戦の火蓋切らる〉ショールク、和睦を懇願〉美女たちの婿選び〉アローケの後日談〉

第7章 アルマムベトとの出会い
マナスの見た夢〉マナス、狩りに出る〉アルマムベトの悲哀〉アルマムベトを発見〉アルマムベト、マナスの営地に来る〉アルマムベト、マナスにまみえる〉歓迎の競馬〉

第8章 マナスとアルマムベトの盟約
義兄弟の契り〉マナス、自分の結婚を決意〉

第9章 マナスのために嫁探し
嫁の条件〉ジャクィプ嫁探しの旅に出る〉ジャクィプ、娘をのぞき見る〉ジャクィプ、王宮に乗り込む〉アテミル、難題を案出〉婚約成る〉

第10章 マナスの求婚
マナスとアルマムベトの見た夢〉ジャクィプの帰郷談〉マナス、ケイイプへ行く〉アテミルのマナス迎接〉マナスとサニラビイガのいさかい〉怒りのマナス、軍勢をアテミルに向ける〉冷遇にマナス怒る〉マナス、アテミル膺懲の戦を決意〉サニラビイガ、マナスに嫁ぐことを決意〉

第11章 マナス、アルマムベト、四十勇士の結婚
花嫁達のテント〉婿選びの競馬〉婿と嫁の二度のテスト〉アルーケ翻心〉華燭の典〉

《壮年篇》
第1章 六ハーンの謀反(上)
六ハーンの謀議〉マナスに遣使〉使者を威圧〉祝宴を開く〉使者帰還〉

第2章 六ハーンの謀反(下)
トュシトュク叱咤激励〉六ハーン進発〉マナス、四十勇士を招集〉六ハーン到着〉マナス、六ハーンに接見〉

第3章 大遠征の準備
バカイを遠征軍の総司令官に任命〉アルマムベトを全軍の先導役に任命〉従軍を望まぬ者に帰郷を許す〉

第4章 大遠征の途につく
マナス、部隊を視察〉部隊進発〉アルマムベトの提案〉カヌィケイからの選別〉カヌィケイの嘆き〉マナスと四十勇士、部隊に戻る〉アルマムベト、軍紀に不満〉アルマムベトを総司令官に選ぶ〉

第5章 ベージンへ向けて進発
全軍の点呼をとる〉アルマムベト、全軍に訓示〉強行軍にクィルグィル老怒る〉クィルグィル、マナスに抗議〉クィルグィル老、十人隊に戻る〉宿営の令下る〉アルマムベト、オルクン川を渡って偵察〉アルマムベト、天気を変える〉全軍オルクン川を渡る〉エリメで越冬〉全軍の点呼と取る〉アルマムベトとスィルガクを斥候に選ぶ〉

第6章 アルマムベトとチュバクのいさかい
チュバクの怒り〉チュバク、アルマムベトの懲らしめを決意〉バカイ、チュバクの説得に行く〉マナス、チュバク説得に加わる〉マナスとチュバク、アルマムベトと合う〉チュバクとアルマムベトの和解〉

第7章 一つ目の巨人マケル退治
サヤス山からベージン観察〉一つ目の巨人マケル出現〉チュバク、アルマムベト、一つ目の巨人マケルと闘う〉マケルの首を持ち帰る〉

第8章 クィタイから馬群奪取
ベージンへ偵察に行く〉クィタイ陣営鳩首擬議〉都督チャバラ討たれる〉馬飼い頭カラグル、馬群を移す〉クィタイ陣営、防戦準備に乗り出す〉変装したアルマムベトとスィルガク、クィタイに潜入〉アルマムベト、故郷を見て懐旧にふける〉アルマムベト、馬飼い頭カラグルをだます〉二勇士、馬群を連れ出す〉カラグル、盗まれた馬群を追跡〉両勇士、背後から迫るクィタイ軍と戦う〉コングルバイ、アルマムベトに傷を負わさる〉

第9章 キルギス軍奮戦
マナス、熟睡から目覚める〉スィルガク、バカイに救援を求めに走る。三勇士奮戦〉バカイ、大軍を率いて出動〉キョル・ケチュー渡河点でコングルバイ、マナスを襲う〉

第10章 凱旋
キルギス全軍突撃〉コングルバイ、マナスによって負傷〉キルギス軍、カスパンを包囲〉重傷のコングルバイ抗戦の非を説く〉コングルバイ、終戦をエセン・ハーンに嘆願〉和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉

〈和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉
クィタイ人からコングルバイ、クィルムス・シャーの〔子〕ムラディル、〔帽子に〕朱房をつけたネズカラ、カルマク人のウシャン、奴らが命と引き替えに財物を出すことを合意した。カンガイ人からオロングもその場にいたな。軍司令官コングルバイが奴ら全員をそばに集めた。黒いたてがみボローンチュ、カトカランの〔娘〕サイカル、いちいち名前を挙げるんですかい。ソローンのアローケ、猪のような気性の勇士ジョロイ、トクシュケルの〔子〕ボズケルティク、九十二歳の長寿を保つ、ソロボの〔子〕ソーロンドュク、奴らが自分の命を心配して、偶像の前に額ずぎ、財物を奉納することを誓った。

奴らは九千頭の黒いひとこぶ駱駝を用意して、ひとこぶ駱駝の背に金貨を積んだ。また、
九千頭の赤いひとこぶ駱駝を用意して、赤いひとこぶ駱駝に高価な金細工を積んだ。駱駝に高々と積まれた荷の中には金塊もある。これらのすべての荷の上には絹のロープが掛けられた。さらに白銀を積んだ三万頭の駱駝が引き出された。白銀を積んだ駱駝を引いて行ったときのその光景を見てくだされ。エメラルド・ダイヤ・ルビーが二千頭の駱駝に積まれた。贈り物として進呈するために、今いるすべての馬の中から、互いによく似た黒馬九千頭が選り抜かれて、それらを達人どもが調教した。さらに九千頭の赤毛馬と九千頭の栗毛馬を用意した。どいつも姿が優雅で、走れば駿足だ。さらにまたすらりとして美しい大型の鹿毛馬九千頭も用意して、そいつらが土埃を山のように巻き上げた。ほかにも九千頭の葦毛馬も用意した。各村落から集めさせた贈り物用の馬群は十万頭に達した。

奴らは各自の町から娘たちを探し出させた。その黒髪は川獺(かわうそ)のよう、鏡の前で髪を櫛けずらせて、真珠のような歯、反った眉、鴨のような首、小さい上品な頭、丈は中背、歳は十五、細くて柔らかい指、太いお下げ、黒い干し葡萄や食べ物を口にすると、白い喉を通してそれらが透けて見える。そういう美しい娘を九千人引き連れ、工匠の中でも抜きん出た名人たちも連れて、贈り物を届けに、アンディジャンから逃げたアローケ老人をはじめ、みんなが来た。

昔からこういうことばがある、「槍を刺すなら折れるほどに刺せ。敵であろうとひとたび倒れたら、辱しめるな、心を安んじさせてやれ」と。まさにその通りに、バカイ翁とクィルグィル老(チャル)が〔マナス・〕バートゥルのもとへ行って、バカイ翁が言った。
「贈り物を受け取ってやれ、勇者マナスよ。異教徒であろうと、ハーンを戴く人民じゃ。昔から物をたんと持っておる人民じゃよ。クィタイ人であろうと、膨大な人民じゃ。握力の強い我が猛者よ、わしの言うことを聞き入れよ。奴らはついに恐れ入った。今はもう放っといてやれ、バートゥルよ」
賢いバカイがことばを継いだ。
「娘たちを贈り物に差し出したからには、〔クィタイ人を〕虐殺したらよろしくない。〔キルギス人の〕六ハーンを集めて、彼らと協議したらどうじゃな。相談しようぞ。あのクィタイ人どもを苦しませぬよう返事をしてやろうぞ」

獅子マナス・バートゥルはバカイの言った助言を受け入れた。腕の立つ匠をもらう者、望んで娘をもらう者、ひとこぶ駱駝をもらう老、人それぞれであった。食うや食わずだった者は金銀をもらい、〔みなが〕数えきれぬ家畜をもらった。クィタイ人とキルギス人が和睦したのち、アローケらはそれぞれの故郷へ散って行った。
カカンでは七十の城門を備える都市を七つ破壊して占領したという。クィタイ人の地へ来て、キルギス人が殺戮をやったという。十二か月が経って、一年と一月になったとき、彼らが撤退したという。短かからぬ、長い道のりを通って、ベージンから出たおびただしい〔キルギス人の〕軍勢が郷里へ帰ったという。
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by satotak | 2007-04-13 17:40 | キルギス
2007年 04月 05日

マナス概観 –八部の叙事詩-

若松 寛訳「マナス 少年篇 –キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫694 2001)より:

今日、中央アジアのキルギス共和国と中国とに分かれて住むキルギス民族に伝わる長篇英雄叙事詩『マナス』は、内陸アジア民族文学のあまたの星の中でひときわ光り輝く巨星である。中国では、チベット・モンゴル民族の『ケサル(ゲセル)』、モンゴル民族の「ジャンガル』とともに、三大史詩とたたえられる。

『マナス』は全部で八部、約20万詩行から成る。(注1)
第一部『マナス』は、八部の叙事詩の中で最も長く、5万余行あり、全叙事詩の4分の1の篇幅を占める(語り師ごとにその語る第一部『マナス』の長短は異なる。ここで指しているのは現代中国の大語り師ジュースフ・ママーイの語り本の行数である)。ここには、主人公マナスが誕生、成長し、そしてキルギス・ハーンとなり、自民族とその周囲の諸民族を結集して国を建て、外敵の侵略に抵抗する英雄的事跡が述べられている。それらの叙述を通じて、最も集中的に、かつ鮮明に歌い上げられているのは、クィタイ人(中国人)とカルマク人(西モンゴル族オイラト人)の侵略に対する反抗精神である。この部は他の七部に比べて最も早く発生し、最も古くから流伝してきた上、芸術的にも最も成熟度が高いことから、八部叙事詩中の核心部分とみなされている。
こうした理由から、他の七部にも個別の題名が付されているものの、八部全体が『マナス』と称されるのである。…

第二部『セメテイ』は、マナスの死後発生した内乱を述べる。マナスの遺児セメテイは母に連れられて異郷に避難する。彼は11歳の時故郷に帰り、のち政敵を滅ぼして、内乱を平定する。この部は芸術上独特な風格を備えており、とくにセメテイと仙女アイチュリョクとの愛情物語を描写する章は、現実と神話が入り交じり、人間と仙女が共同で暮らして、すこぶる浪漫的色彩に富む。

第三部『セイテク』は、セメテイとアイチュリョクの遺児セイテクが苦難の中で成長し、のちに父謀殺の犯人一味を討って、国を再建するいきさつを述べる。セイテクは外敵の侵犯もたびたび撃退する。この部も神話的・伝奇的色彩に満ちている。

第四部『カイ二二ム』の主人公カイニニムは、セイテクと仙女クヤルの子であり、天下無双の英雄である。彼は齢八千の蛇頭石身の妖怪を退治し、また民衆を苦しめる7人の巨人を討つ。

第五部『セイイト』の主人公セイイトは、幼い時から父カイ二二ムに従って南征北戦し、9歳で単独出征する。彼は凶悪な巨人カラドを打ち破ったのち、巨人に囚われていた民衆を解放する。「赤い沙漠の戦い」は叙事詩中の名場面である。

第六部『アスルバチャとベクバチャ』の主人公アスルバチャとベクバチャは、セイイトの双子の遺児である。兄アスルバチャは25歳の時沙漠で戦死したが、弟ベクバチャは兄の業を承け、勇士部隊を率いて外敵の侵入を撃退した。彼の足跡はチベット、モンゴル高原、中央アジア、アフガニスタンなどの地にも及んだ。

第七部『ソムビリョク』の主人公はベクバチャの子ソムビリョクで、幼い時に父母を失い、母方の叔父に育てられて成人する。彼は15歳で故郷に帰り、東征西戦して、侵入の敵を追い払い、勝利をかちとる。だが彼は敵に奇襲されて、24歳の盛りで陣没する。

第八部『チクテイ』の主人公はソムビリョクの遺児チクテイである。彼はカザフ人と共同して侵入のマングト人、クィタイ人を撃退するが、戦場で重傷を負ったのちに死去する。時に年21歳。彼は妻を娶らなかったので嗣子がなく、ここにマナス家は第八代子孫をもっ
て断絶する。

この八部の叙事詩には長短がある。ジュースフ・ママーイの語り本に拠れば、3万行を超えるものは四部あって、それらは第一部『マナス』(5万行)、第二部『セメテイ』(3.2万行)、第四部『カイニニム』(3.5万行)、第六部『アスルバチャとベクバチャ』(4.5万行)である。第五部「セイイト』、第七部『ソムビリョク』、第八部『チクテイ』、この三部叙事詩の主人公はいずれも20数歳で世を去り、事跡がわりと少ないため、各部1万行余りあるにすぎない。第三部『セイテク』は長からず短からず、中くらいの篇幅である(2.4万行)。

(注1) 英雄叙事詩「マナス」は勇士マナスの生涯をうたった作品であるが、彼の息子セメテイと孫セイテクについてうたった作品を含めた三つの作品を一括した「マナス大系」を「マナス」と呼ぶのが一般的となっている。
「マナス大系」のほとんどのヴァリアントはこの三部作からなるが、中国・新疆ウイグル自治区に住むクルグズの語り手ジュスプ=ママイは、マナス・セメテイ・セイテク・ケネニム・セイィティム・アスルバチャとベクバチャ・ソムビレク・チギテイと、マナス以後七代の子々孫々までを歌う。「マナス」は、類似するモチーフやエピソードが近隣の中央アジア諸民族に見られるものの、もっぱらクルグズにのみ伝わる民族叙事詩として知られている。
「マナス」の語り手はマナスチュといい、彼らによって「マナス」は語り伝えられてきた。とくに有名なマナスチュは、サグムバイ=オロズバコフとサヤクバイ=カララエフである。サグムバイは約18万行、サヤクバイは約8万行にもわたる「マナス」を語っている。先に触れたジュスプに至っては、20万行以上もの「マナス」を語るなど、その規模の大きさが「マナス」の特徴のひとつとなっている。
(「英雄叙事詩と「国家」-「アルパミシュ」と「マナス」を例に-」より)
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by satotak | 2007-04-05 21:49 | キルギス