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2010年 03月 31日

海蘭察(ハイランチャ)資料集

清朝乾隆期に活躍した鄂溫克(エベンキ)族の英雄・海蘭察(ハイランチャ)…

この将軍の基本史料はまず「清史稿」であろう。

漢籍電子文献
二十五史 / 新校本清史稿 / 列傳/卷三百三十一 列傳一百十八 / 海蘭察子安祿
この節は
  「海蘭察,多拉爾氏,滿洲鑲黃旗人,世居黑龍江.乾隆二十年,以索倫馬甲從征準噶爾.輝特台吉巴雅爾既降,復從阿睦爾撒納叛,師索之急,遁入塔爾巴哈台山中,海蘭察力追及之,射墜馬,生獲以歸,功,賜號額爾克巴圖魯.累擢頭等
侍,予騎都尉兼雲騎尉世職,圖形紫光閣.三十二年,以記名副都統從征緬甸,師出虎踞關,海蘭察率輕騎先驅,至罕塔,遇賊,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;設伏,殲賊四百,賊自猛密出襲我師,援擊之.三十三年,再出師,度萬仞關,敗賊戛鳩江,燬江岸賊居,授鑲黃旗蒙古副都統.師薄老官屯,攻賊於錫箔,毀其木柵,賊來攻,急擊之,追戮其強半,縛二人以歸.既還師,命留軍防邊.移鑲白旗蒙古副都統.」で始まり、

  「五十八年三月,卒,諡武壯.復圖形紫光閣,甫成,上製贊嗟惜,諭曰:「海蘭察以病卒,例不入昭忠祠.念其在軍奮勉,嘗受多傷,加恩入祀.」
  子安祿,襲公爵,授頭等侍.嘉慶四年,佐經略勒保征四川教匪,戰屢有功.賊渠苟文明等窺開縣,安祿與總兵朱射斗合軍逐剿,賊不敢東竄.十一月,與射斗逐賊枯草坪,乘雨登汪家山殺賊,賊多墜崖死.安祿望見數十賊匿山溝,率數騎逐之,賊潰散,獨策馬從
其後,數賊自林中出,安祿倉卒中矛死.諡壯毅,賜白金千治喪,加騎都尉世職,合前賜騎都尉為三等輕車騎尉.是時奎林子惠倫亦戰沒.上以二人皆名將子,與烏合亂民戰,沒於行陣,深致惜焉.」で終る。

「清史稿」で海蘭察について記しているのはこの節だけではない。「漢籍電子文献」で「新校本清史稿」の中を「海蘭察」をキーワードにして検索すれば、その全ての記述を順に辿ることができる。

このサイトは台湾のサイトで、繁体字で書かれているが、簡体字のサイトもある。

国学網站— 原典宝庫
二十五史系列:清史稿 列传一百十八 海兰察子安禄…
「海兰察,多拉尔氏,满洲镶黄旗人,世居黑龙江。乾隆二十年,以索伦马甲从征准噶尔。辉特台吉巴雅尔既降,复从阿睦尔撒纳叛,师索之急,遁入塔尔巴哈台山中,海兰察力追及之,射坠马,生获以归,叙功,赐号额尔克巴图鲁。累擢头等侍卫,予骑都尉兼云骑尉世职,图形紫光阁。三十二年,以记名副都统从征缅甸,师出虎踞关,海兰察率轻骑先驱,至罕塔,遇贼,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;设伏,歼贼四百,贼自猛密出袭我师,援击却之。三十三年,再出师,度万仞关,败贼戛鸠江,毁江岸贼居,授镶黄旗蒙古副都统。师薄老官屯,攻贼於锡箔,毁其木栅,贼来攻,急击之,追戮其强半,缚二人以归。既还师,命留军防边。移镶白旗蒙古副都统。…」


「清史稿」からの日本語訳としては、
○《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察) 
この前書きに…
「ミンリャン、エリントと並んでアゲイの督戦下で活躍した人です。ジュンガル、ビルマ、金川、サラル囘部の乱、台湾・林爽文の乱、クルハの乱などを平定、もしくは平定に貢献した人物で、途中からアゲイではなくフカンガの副将みたいになりました。林爽文の乱なんかはこの人がほとんど独力で平定してのけたもので、諸将が相互に連携しあう…この時期に珍しいっちゃ珍しいです。あと、とにかくやたら勇敢な人で、ツェリン以来の『超勇公』の称号を授かってますね。お気に召したら訳文どうぞ。ただし非常に長いです。」

簡潔にまとめたものに、
ハイランチャ(海蘭察)〈上〉
ハイランチャ(海蘭察)〈下〉

しかし海蘭察は「清史稿」だけではない。
こんな資料も日本で入手できる。

清宫珍藏海蘭察满漢文奏摺匯編
「本書は、清代の宮廷に収蔵された清乾隆時期の名将海蘭察の奏折や奏片285件(満文88件、漢文198件)を収録する。これらの奏摺の年代は、乾隆37年(1772年)5月19日から乾隆58年(1793年)3月29日の20年間にわたり、内容は、海蘭察が金川・甘粛・台湾・チベットなどへ出征した際の事跡及び乾隆帝が海蘭察に賜った官職や爵位などさまざまである。いずれも初公刊の一次資料であるため、海蘭察研究及び清代の多くの歴史事件や民族関係の研究にとって、史料的価値が極めて高い。」
しかし値段といい、内容といい、素人には手が出ないが…

○《乾隆朝武臣之冠——海蘭察》出版
乾隆朝武臣之冠——海蘭察 
こちらは1,860円で入手可能。

ところで、現代中国で海蘭察はどう評価されているのだろうか?

「BaiDu百度百科」には、
海蘭察

呼倫貝爾(フルンボイル)市人民政府の公式サイトの中に
清代鄂温克族“武壮”海兰察

一方、呼倫貝爾市阿栄旗のサイトには
海蘭察
阿栄旗は呼倫貝爾市の東南部にあると記されている。

中国人が描く海蘭察のイメージは…
海蘭察 – 図片

海蘭察はテレビドラマ(?)にもなったようだ。
大型歴史ドラマ《索倫名将——海蘭察》主题歌:草原の鹰

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by satotak | 2010-03-31 18:23 | 女真・満州・内蒙古
2009年 10月 27日

賢治の里に満洲ツングース族!?

今月初旬に帰郷した折、96歳の父親との会話:-
  父「お前が中学の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
  私「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。ところで何故?」
  父「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったよ。」
  私「終戦後の満洲開拓団の引揚げのことかな?」
  父「いや違う。ずっと昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
  私「…そんなことは書いてないなあ。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ばされたとき、その一族の一人が幸田に落ちのびて来たとあるから、それと混同したのでは。この冊子によれば、満洲の原住民というのはツングース系民族のことで、飛鳥時代より前に日本に渡来したという説があるらしい。幸田ではなく、胡四王山の方の話だね。」…
  父「越国...新潟の方が本拠だったのか。どうりで田中角栄はどこか普通の日本人とは違って、大陸的だったなあ。」

「ふるさとの由来」(「季刊タウンやさわ第29号」 矢沢観光開発協議会 2009)より(筆者:内舘勝人):

…花巻市矢沢地区は、北上川の左岸にある地域で、三郎堤、胡四王山、大森山があり、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、花巻市博物館、東北新幹線新花巻駅などの建物もあり、文化観光の拠点地域となっている。…

古志族とは
花巻市史に古志族について次のような記述がある。
「藤原相之助氏は「古四王神考」(東亜古俗考)に於て、我々の祖先は祖神を祭ってそれを中心として集落をつくり都邑を形成していくものであるということを前提として、古四族-満州附近に住んでいたツングース系民族-の祖神たる高志(越)王神であるとし、この神社のあるところ古志族の分布した名残の場所と考えた。(古四王神社は岩手、宮城、秋田、山形、新潟などにわたって約40位あるようである。)」

また、古志族についての文献がホームページにあったので紹介する。
「(略)日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。

この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえずれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。

「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。」
(出典:「満洲族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁 」の「渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄」)

(参考 1) 「胡四王山
 ...と、ここまでなら、坂上田村麻呂伝説に始まり、神仏習合→神仏分離という経過をたどったという、東北地方に数多くある社寺の一例のように思えます。
 しかし、「胡四王」という名前には、もっと古い歴史が秘められているという説もあるのです。

 じつは、「コシオウ」という名前の表記には、「古四王」や、「越王」、「巨四王」、「高志王」、「腰王」、「小四王」、「小姓」など様々な種類があって、その名を冠した神社は、新潟、山形、秋田に多く見られるのです。(例えば、秋田市の古四王神社、秋田県大曲の古四王神社、秋田県横手市の古四王神社、新潟県新発田市の古四王神社など。)...

 そして、北陸地方が古来より「越(こし)の国」と呼ばれていることを踏まえて、これは日本海側に住んでいた人々によって古くから信仰されていた神であるとする説が、かなり有力と考えられています。
 その「神」とは、ある説では、阿倍比羅夫が秋田地方に遠征したことと関連して、阿倍氏の祖神と蝦夷(エミシ)の土着の神が習合したものが「コシオウ」神であるとします。
 また別の説は、『花巻市史』にも紹介されているものですが、沿海州から日本海を越えて渡ってきたツングース系渡来人が、高志(越)族だったとするものです。『花巻市史』では、藤原相之助氏の「奥羽越の先住民族ツングースの研究」を参照しつつ、次のように説明されています。...

(参考 2) 「東北民俗学からアジア民俗学へ:藤原相之助論(1)
…藤原相之助の民俗学方面の主著は『日本先住民族史』(1916)と『東亜古俗考』(1943)である。前著は大正二、三年頃、河北新報上に掲載したものを修訂した随筆であると相之助は謙遜し…。後者もまた、『旅と伝説』などの雑誌に寄稿した論文で一書が編まれている。刊行年から見ると順が逆になるが、まず、テーマも多岐に渡り、藤原相之助の問題関心が広く窺える『東亜古俗考』を取り上げる。…
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by satotak | 2009-10-27 21:04 | 女真・満州・内蒙古
2009年 10月 13日

近況報告 - ハイランチャ、そしてマンション管理

月に1編は載せようと思っているのですが、ナカナカ...
8月は果たせず、9月はピンチヒッターで過ごし、グズグズしているうちに10月も半ばを過ぎようとしています。
8月には、ハイランチャ(海蘭察)について載せようと、ネットで資料を集めたりしたんですが、まとまりませんでした。

そして別にこんなサイトを始めました。
  「マンション管理 内観外望
WORDとFTPだけで作る地味なサイトです。
そんなこともあって、ハイランチャは全然進んでいません。

ハイランチャ...清朝乾隆期のエベンキ族出身の将軍。ホロンバイルから一兵卒として出て、ジュンガル、ビルマ国境、ネパール国境、四川、台湾と各地を転戦するうちに昇進を重ね、数々の栄誉に輝いた。
そして最期は都の畳の上(?)で逝ったのですが、帝のはからいで戦場で死した勇士の礼をもって弔われたとか。
しかし、一方でエベンキ族は度重なる遠征に駆り出され、人口が急減したといいます。
少数民族の栄光と悲惨...ハイランチャは何を想って逝ったのか!

エベンキ族がハイラルの方にまで南下し、清朝で大活躍した将軍を出したことを、今年6月の東内蒙古旅行まで知りませんでした。
それまでの私の知識では、エベンキ族はシベリア先住少数民族の一つで、中国側に居るとしても北縁の黒竜江流域ぐらいと思っていましたので。もしかすると「黒竜江」の認識が問題なのかもしれません。ハイラルも黒竜江地域?清朝の黒竜江将軍が管轄したのはどの範囲?
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by satotak | 2009-10-13 19:49 | 女真・満州・内蒙古
2009年 09月 20日

中国ホロンボイルのモンゴル族

田中克彦著「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」(岩波新書 2009)より:
ソ満国境と満モ国境とのちがい
1932(昭和7)年、満洲国が出現したために、日本は、…それまで一度も経験したことのない不慣れな国境問題を抱え込まなければならなかった。国境は一部はソ連との間に、また一部はモンゴル人民共和国との間にあった。
ソ連軍と対峙することとなった4000キロメートルにわたる国境線は、ウスリー河-アムール河(黒龍江)-アルグン河がつくる天然の境界を主軸としているために、まだ比較的明快だったと言えよう。

それに対して、満洲国とモンゴル人民共和国との国境線は、日本がかつて経験したことのない特異な、類のないものだった。日本人的な感覚から、国境近くに流れるハルハ河を国境にするのを当然としていたが、実際には国境線には川もなく、起伏の少ない地域だった。わずかに、「ノモンハー二ー・ブルド・オボー」と呼ばれる塚(オボー)が目印になっていた。それは、満洲国がもつエスニックな混質性に由来する。このことが、隣接するモンゴル人民共和国との国境線での単なる小競り合いから、ノモンハン戦争という一大戦争に発展する原因になったのである。…

問題はモンゴル人民共和国との国境
ソ・満国境と比べてみると、モンゴル人民共和国と満洲国との国境は、20世紀に入って生じた全く新しいもので、この国境はこの国の輪郭が作られた1912年に発生したと言ってもよく、あるいはより実体を伴ったものとしては、モンゴル人民共和国が宣言された1924年と言ってもいい。それはこの国が、もと清朝の領土であった外モンゴルを土台にして創られたからである。このモンゴル人民共和国は、少なくとも形式上は、ソ連とも中国とも異なる、新たに出現した独立国のはずであるが、…1928年ごろから、ソ連が完全にコントロールし、外国人の立ち入りを許さず、ソ連が意のままに支配した閉鎖されたマリオネット(傀儡(かいらい))国家であって、ラティモアは、その状態をソ連の「衛星国」であると名づけた。…

満洲国がかかえた国境問題は、ソ・満国境よりも、この、モンゴル人民共和国との国境のほうにあった。それはかっての露・清の国境を引き継いだソ・満国境とは異なり、まったく性質のちがった国境問題をかかえ込むことになったのである。
問題はどこにあるのか。それは国境をへだてた両側に、エスニックには同じモンゴル人が住んでいたし、今も住んでいるということにある。方言的差異を無視すれば、かれらは何よりも同じ言語を話し、同じ文化をもち、宗教をも共有する同族である。

族境が国境になる
いわゆるソ・満国境は、自然の境界がそのまま国家の境界に対応しているから、両国の勢力はここでむき出しに、いわば明快に対峙しているのに対し、満洲国とモンゴル人民共和国との間に発生した国境は、部族の境界を国境に代えて民族を分断する結果をもたらした。近代国家の形成に遅れた民族(エスニック)集団の常として、その中の部族的、種族的相異は温存され、どこか外からの勢力が必要とすれば、いつでもそれを際立たせて一大抗争に発展させうる可能性を宿している。

さて、すでに述べたようにモンゴル人民共和国側の住民はハルハ族であり、満洲国側のモンゴル人はバルガ族と呼ばれる。
バルガ族は、自分たちはハルハ・モンゴル族とは親縁であるけれども、独自な存在だと考える面がある。だから、バルガ族とハルハ族の間に微妙な差異があるこの差異は、矛盾として存在しつづけ、無視はできないけれども、しかしたとえば漢族のような強大な異族が侵入し、その支配を受ける危機を感じると、バルガ族とハルハ族との隔たりはほとんどゼロに近くなり、完全に同一の民族であるとの自覚が現れる。何よりも、この自覚を補強するのが「モンゴル」という歴史的民族名である。

このハルハ族とバルガ族との部族的境界(民族的境界ではないという意味で)が、まずはモンゴル人民共和国の、次いで満洲国の出現によって国家の境界に変貌したのである。言い換えれば、族境が国境へと転化し、分断された民族の間に生じた衝突がノモンハン戦争であり、ノモンハン戦争の舞台はそのような場所であったことを理解しておくことが重要である。
そこで以下に、バルガ族とは何か、また、かれらの居住地ホロンボイルとはどんなところかについて見ていこう。

バルガ族とホロンボイルの特徴 (ホロンバイル、フルンボイル)
モンゴル諸族の居住地帯は切れ目なく連続した一つの巨大な複合体をなしている。そこは、それぞれが、異なるさまざまな異民族、異文化に接しあいながら、いくぶん異なる色あいを含む文化空間であるが、モンゴル文語という書きことばと、チベット仏教(ラマ教)を共有することによって統一(感)が保証されている。

かれらの生活の基盤を最も強く脅かすのは、その固有の生活形態-牧地と家畜からなる遊牧生活空間に対する漢族の農耕文化である。
この観点から見ると、長城に接する内モンゴルが最も早くから漢族によって農耕化され、ハルハ、すなわち外モンゴルは比較的、農耕の弊害から守られている。さらに、ロシアの支配下に入ったブリヤートは牧畜のほかに狩猟、漁労と仏教侵入以前のシャマニズムが濃厚に維持されている地域である。こうした生活基盤の特徴と方言的相異によって、モンゴル諸族はハルハ(外モンゴル)、内モンゴル、ブリヤートと地域名をあげて示すことができるが、ここで忘れてはならないのはバルガ族である。

バルガ族の居住空間は、その西に接するモンゴル国に寄った二つの大湖、ホロン湖とボイル湖に特徴づけられる。北のホロン湖はまたダライ湖(ノール)とも呼ばれ、湖水面積2339平方キロメートル、すなわち琵琶湖の三倍以上もある、中国全体から見ても第五位の大湖である。南にあるのはボイル湖で、その全体はモンゴル国領内にあり、670平方キロの琵琶湖に比べて、615平方キロとやや小さめである。

この二つの湖の名を併せた、地理的な呼称がホロンボイルである。日本ではしばしば、「ホロンバイル」と呼ばれるのは、ボイルが漢語で貝爾と書かれるからで、この「貝」の字は日本語では「バイ」と読まれるから、バイルとなる。中国語で読めばベイ(bei)だから、中国ではベイルと呼ぶが、モンゴル語ではbuir(ボイル)でなければならない。
ホロンボイルという地名に対して、ハルハのモンゴル人、さらにロシア人はここをバルガと呼ぶことが多い。この呼び名は、そこに住むバルガ・モンゴル人、すなわちバルグートの名にちなんでいるだけに、その歴史的、エスニック的な背景をよりはっきりと示している。

バラーノフの『バルガ』
…1912年にやはりハルビンで、国境警備隊ザアムール軍管区が出版した、その名も『バルガ』と題した一冊があるのを見出した。著者はA・バラーノフと言い、明らかに辛亥革命とそれに続いて生じたバルガの独立運動後の状況を意識して書かれたものであるが、…

このバラーノフはじめ、他の多くの研究書によると、バルガ族はもともとバイカル湖のブリヤートから移住してきたブリヤート人である。私はその原郷はバイカル湖の北東岸のバルグジン地方であって、バルガとは、それにちなむ名称であると考えている。ちなみに、バイカル湖の東岸に沿って北から南へ走るバルグジン山脈は、かつて、ライプツィヒの毛皮市場で注目を浴びた、高価な毛皮を産する黒テンの棲息する原始の保護林地帯であり、日本でも愛唱される「聖なる湖バイカル」でも「エイ! バルグジンの風よ吹け!」と歌われているほどのなじみの地なのである。

さて、今日中国で言う陳巴爾虎とは、モンゴル語でホーチン・バルガ、すなわち古いバルガで、シン・バルガ[新巴爾虎]とは、新しいバルガという意味である。なぜ旧と新なのか、前者はすでに1732年ごろまでに移住をすませて清朝の臣下となり、後者は、ハルハ・モンゴルを経てバルガに入り、1734年に清朝に服属したものである。
バラーノフは、バルガとは、ハルハ・モンゴル人から見ると、仏教を受け入れず、未だに文明のとどかない、遅れた異族という響きをもつ呼称だという。…

ホーチン・バルガに対してシン・バルガのほうは、ロシアから逃亡してまずハルハ・モンゴルに入ったために、そこですでに、シャマニズムを捨てて仏教徒となっている。…

独立運動の拠点-バルガ・ホロンボイル (ホロンバイル、フルンボイル)
バルガ族は、このように異族の中にあって独立を失わぬ長い歴史的背景をもっていて、清朝の配慮によって漢族の流入を防ぎ、最も遊牧生活がよく守られた地域であった。20世紀に入っても、いかに独立不羈(ふき)の気風の強い土地であったか、その盛んな独立運動の歴史が示している。

清朝が倒れた1911年、ハイラルにあった、たった一つの漢族の学校を改編して、八つの学校を設け、ここで漢語の授業が始められた。バルガ族の王公たちは、これを漢化政策のはじまりとして警戒し、9月には王公会議を開いた。
かれらは清の雍正帝が、バルガ族に牧地をあてがう際の約束、すなわち漢族による開墾と農耕化を防ぐという約束が破られることに抗議した。かれらの要求は、漢人官吏を追放し、これまで通り、バルガ族の手に行政をまかせること、漢族の植民を禁ずること、関税収入をバルガ族に与えることなどであった。
これらの要求が拒否されると、翌年1月には、独立宣言を発して蜂起し、ハイラル、ルービンフ(臚浜府)[後の満洲里]など主要な町を占拠した。

前記『バルガ』によれば、王公会議はまた、こうした反漢蜂起の中で、黒龍江省からバルガが分離し、独立することをめざしてロシアの保護を求めたという。しかし当時のロシアは、そのような火中の栗を拾うことで中国との間に問題をかかえ込むことを避けたかった。むしろ、中国の新体制の中で新しい方途を見出すようバルガ族に対して答えたという。

バルガは辛亥革命を好機とするモンゴル諸族独立運動の中でも指導的な役割を果たした。すなわち「1912年はじめ、独立宣言を発するとともに、ハルハの活仏政府への帰属を宣言した。南(内)モンゴルの旗(ホショー)の大部分がそれに続いた。しかしこれらモンゴルの土地の住民の愛国の気運は阻止された。北京政府がそこに軍隊をさし向けたからである」(チミトドルジーエフ)。

ホロンボイルの独立意識はその後もずっと維持され、そのことをラティモアは「現在〔満洲国の一部となった〕興安省に組み込まれているバルガ地方は、歴史的には一つの独立したモンゴル地域で、いまだかつて内、外いずれのモンゴルとも完全に融合したことはない」と、バルガの独自・独立性を強調している。
ここでラティモアが強調しているように、バルガ族は自らを、ハルハ(外モンゴル)にも、また内モンゴルにも、ましてやロシアのブリヤートにも属さぬ独自のモンゴル族だと考え、また同時に、他のどのモンゴル族とも関係のある一族だと考えていた。

さらに、ホロンボイルには先住のダグール、エヴェンキ(もとはソロンと言った)などの諸族が住み、このことがバルガの独自性をさらに強調していたと考えられる。このよう背景を考えると、1911年に辛亥革命で清朝が崩壊したときに、ハルハ(外モンゴル)でも内モンゴルでも、それぞれ独立運動が発生したが、バルガもまた、それとは別に焦点の一つになったのには十分すぎるほどの理由があったのである。

「ホロンボイルは中国に非ず」
ホロンボイルに入ったバルガ族は雍正帝のもとで勅令によって高度な自治を与えられた。清朝としてはそのようにして自治を与えなければ、せっかく帰順したバルガ族がまたロシアに逃げ帰ってしまうのではないかというおそれがあったからである。
バルガは清朝八旗制に従って、清朝の行政組織に組み入れられたのであるが、それが辛亥革命後に「中国=漢族」の行政組織になってしまったのを、かれらが得た自治権の侵害と受け取るのは自然なことであった。

自分たちは清朝=満洲(マンジュ)族に服属したのであって、漢族の支配を受け入れたのではないというこの考え方は、チベットにも共有されていた。しかしそれがモンゴル族、とりわけバルガのもとで大きな政治運動となって高揚した背景には、ロシアというもう一つの強力な後ろ盾が、バルガの独立意識をいっそう高めたという事情がある。「バルガはいつでも中国(キタイ)とはかかわりがなく、かかわりがあるのは満洲(マンジュ)族=清朝だけである」(バラーノフ)という主張を理解するのでなければ、当時のバルガ族の運動を理解したことにはならないのである。

遊牧モンコル族と農耕漢族の対立
ホロンボイルはなぜこのように過激に独立の気風に燃えたったのであろうか。それはモンゴル人の遊牧生活のための草原が比較的よく保たれているうえに、農耕漢族が押し寄せてくる最前線だったというのが一つの理由であろう。…

遊牧民から見た農耕の漢族に対する、ほとんどトラウマに近い恐怖心は数百年にわたってつちかわれた民族的な伝統になっている。そこから、多発したモンゴル人の反漢暴動をラティモアは次のように説明している。

「漢族によるモンゴル植民はモンゴル人の絶滅を意味するものであった。1891年から1930年にかけて起った、数えきれないほどのモンゴル人の蜂起はまずこのことによって説明できる。蜂起の目的は地域自治であったり、満洲帝国の復興であったり、内外モンゴルの統一など、指導者はいろいろと宣言したが、いずれも漢族の入植がもたらす重圧、漢族の横暴がますます増大する一方で、モンゴル人の絶望感がますます深まることで不可避となったものであり、家畜のように死ぬくらいなら、いっそ戦って死んだ方がましだという悲痛な思いとなって爆発したものである。」

マンジュ族の清朝政府は漢族が遊牧地帯に無制限に侵入し、牧草地を耕地に変えて、遊牧民の生活を不可能にしてしまうこの重大な弊害を防ぐための方策をとっていた。しかし17世紀になると、農耕地帯における人口増のために、耕地を求めてモンゴル人の伝統的な牧地に侵入する農耕民の波はおさえがたいものになっていた。しかも、ねらわれるのは、最も草の成育のいい、遊牧民にとってもかけがえのない牧草地であった。

かたや農耕と比較して、遊牧は生産性においておよぶべくもなく、さらに農耕は勤勉、計画性、労働作業の綿密さなど、人間生活におけるさまざまな徳性をはぐくむものになっている。しかも、この食料の生産性の高さは人間そのものの生産性と深く結びついている。

遊牧は死滅すべきか
…独立運動に失敗して、若いときに内モンゴルから脱出して諸国の大学で教えているというハルトードさん…かれが、故郷から離れてすいぶん時間がたった今でも、どうしても見てしまうという悪夢をこんなふうに話してくれた。

「ある朝、目がさめてみると、地平線の彼方から漢族の女たちが、手に手に赤ん坊をかかえて押し寄せてくる。その列は地平線にびっしり並んでますます近づいてくる。恐怖心に押しひしがれて息が詰まりそうになって目がさめる。」

そして、ハルトードさんは私によく言った。「...漢族は武器も何もなくてもモンゴル人を滅ぼすことができます。牧草地を耕地に変えて、そこでどんどん子供を産む。私たちはどこで生きていけますか。解決方法は、モンゴル人民共和国のように、自分の独立国をもつしかないのです」と。

この悪夢は、残念なことに21世紀に入った今日、現実になってしまった。今日、中国の内モンゴルではいたるところで、遊牧生活の断末魔が演じられており、そのことを描き出した、痛切な映画が作られ、私たちの前に送りとどけられている。
私たちは、そのことを、支配する農耕民による遊牧民の排除、抑圧という図式だけではなく、遊牧は死滅すべきかという文明の根本的な問題として、またさらにすすんで、民族の独立の意味という点からも考えなければならない。

現在のホロンボイル・呼倫貝爾市
[拡大図] [詳細図]
(ホロンバイル、フルンボイル)
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by satotak | 2009-09-20 20:27 | 女真・満州・内蒙古
2009年 07月 16日

中国エヴェンキの歴史と現在

末成道男・曽士才編「講座 世界の先住民族 01 東アジア」(明石書房 2005)より(筆者:思沁夫(スチンフ)):

Ⅰ はじめに
かつて、エヴェンキはシベリアのほぼ全域とアムール川の流域に分布していた。エヴェンキは広大なタイガの森で繰り返し行われる移動、また他の民族との交流を通じて、さまざまな自然環境に適応した狩猟、漁猟、トナカイ放牧など多様な生業を確立し、洗練させ、それを経済基盤に氏族組織、シャマニズム、独自な文化、言語や習慣などを維持してきた。

エヴェンキは国家(あるいは王朝)という政治組織を持たず、基本的には外婚制の氏族組織を中心に社会生活が秩序付けられていた。氏族内部での結婚が禁止されていたため、他の氏族と何らかの関係を結ぶ必要があった。また、エヴェンキはつねに周辺民族の影響を受けていたが、彼らもまた他の先住民に影響を与えていた。エヴェンキは獲物や家畜の餌を求めて自由な移動生活を好み、また移動は彼らにとって、さまざまな支配から自分の生活スタイルを守る最も有力な武器でもあった。

16世紀以降、シベリアのエヴェンキはロシアの支配下に置かれ、ヤサーク(毛皮税)の徴収対象となり、アムール川流域のエヴェンキは他の先住民(中国語の文献では、“索倫(ソロン)部”として登場するが、“索倫部”にはエヴェンキ、ダフール、オロチョンなどが含まれる)と一緒に、清朝によって嫩江(のんこう)流域へ強制移住させられ、清朝の政治組織(八旗)に組み込まれた。20世紀になって、中国とロシアは過去に支配していた領土を引き継ぎ、新しい国家として再出発する。それによって、エヴェンキはそれぞれ新たな国家統合を経験することになる。本章では、中国側のエヴェンキについて述べることにとどまる。
Ⅱ エヴエンキの人口、分布、言語
(1)エヴエンキの人口と分布
中国は56の民族(正式に認められたのが56で、まだ識別されていない民族もいる)から構成される多民族国家である。一般的に、人口構成上、漢民族が圧倒的に多い(中国総人口の9割以上を占める)ため、漢民族以外の民族を「少数民族」と呼んでいる。エヴェンキは少数民族というカテゴリーに入るが、その中でも人口が非常に少ない民族である。

2000年の中国政府の人口統計データによれば、エヴェンキの総人口は3万505人である。そのうち2万6578人が内モンゴル自治区・ホロンバイル市(2001年までホロバイル盟)に分布している。それ以外のエヴェンキは黒龍江省、遼寧省、北京、山東省、河北省、新疆ウイグル自治区、広東省などの地に分散している。

ホロンバイル市は内モンゴル自治区の東部に位置し、市の西部にホロンバイル草原が広がり、東北から西南にかけて大興安嶺が走っている。また、ホロンバイル市はモンゴルを始め、エヴェンキ、ダフール、オロチョン、漢など多民族が共存する場所でもある。ここではエヴェンキは一つの自治旗(エヴェンキ族自治旗)と八つの民族郷を持っており、大多数のエヴェンキはこれらの「自治地方」で生活している。

しかし、1950年代から始まった社会主義建設(開発)、1980年以降の改革・開放政策の実施に伴い、ホロンバイル市に周辺地域や全国各地から人口が絶えず移住するようになった(移住者のほとんどは漢民族だが、中にモンゴル、ダフールなどの少数民族の人口も含む)ため、ほとんどすべての自治地方で、人口構成上エヴェンキは少数者となっている。例えば、エヴェンキ族自治旗の総人口は14万3324人、そのうちエヴェンキは1万151人、総人口の7.08%に過ぎない(ちなみに漢民族は8万6943人、総人口の約61%を占める)。また、生活環境の著しい漢化、あるいは多民族化は、エヴェンキの婚姻関係、家庭にも大きな影響を与えている。1950年代までは7割ぐらいの家庭は民族内部の結婚(地域によって差はあるが)によるものであったが、現在(21世紀)では5割以上の家庭は漢、ダフールやモンゴルなどの民族出身者との結婚から成り立っている。

また、長い間、エヴェンキは牧畜、狩猟、林業、農業によって、生活を維持し、またほとんどの人口がそれらの生業に従事していた。しかし地域社会の都市化や進学などを通じて都市への移住者が急増するなど、従来の生業に従事する人口が年々減っている。2003年の時点で、定住化が実現し、約6-7割の人口は都市、町(鎮)で暮らしている。また4-5割の人口は生業経済ではなく、公務員、会社員や自営業などによって生活を営んでいる。

(2) エヴエンキ語
エヴェンキ語はアルタイ諸語―ツングース語派に属する。エヴェンキ語は共通な起源を持っているとはいえ、広大な地域に分散し、異なる環境下で生活していたため、方言の差が見られる。…エヴェンキ語は自然現象、特に大興安嶺の地名、動物や植物などに関して大変豊な語彙を持っているだけではなく、人間を動物、植物と同等に扱い、自然利用において、つねに批判的な目で人間の行動を看るなど、エヴェンキの中で代々伝わってきた考え方(世界観)を直接表現できる唯一の手段でもある。

エヴェンキは文字を持たない。そのため、口頭伝承は歴史、文化、民族のさまざまな出来事や個人の経験などを後世に伝える最も重要な手段となっている。エヴェンキは伝説、神話、物語、シャマンの詩などさまざまな形で、歴史を後世に伝えてきたが、その中でシャマンは大変重要な役割を担ってきた。

…独自な表現やことばによって唱えられる「シャマンの詩」は、エヴェンキの言語―文化の結晶の一つであり、エヴェンキの視点から捉えた「歴史の記憶」でもある。…例えば、その中に16世紀後半、ロシア(コサック)の侵入を逃れ、大興安嶺の森に移住した経過をこのように伝えている「……われわれはシルカ川から出発し/生茂るタイガ(森)の影に沿って/アムール川を渡る。……われわれの根はシベリアのチューム(テント)にあり、われわれの運命は祖先の霊によって導かれる……」。…

1950年代からはじまった政治運動、特に文化大革命によって、シャマニズムは迷信として批判され、シャマンたちのすべての活動が禁止された。1980年代後半からシャマンは復活しつつあるとはいえ、シャマンの独自なことばに精通したシャマンがほとんどこの世を去り、…復活には多くの困難が伴うことは容易に想像できる。

Ⅲ 16世紀以降、清朝によるエヴエンキの移住と新たな生活環境への適応と変化
エヴェンキは17世紀、19世紀初め、そして20世紀初頭という大きく三つの時期に、アムール川流域、レナ川上流流域とトランス・バイカル地方から中国東北地域に移住させられ、または移住してきた。…

(1)清朝によるソロン・エヴェンキの嫩江流域への移住とホロンバイル草原への派遣
17世紀初めまで、中国文献で「索倫」(ソロン)と呼ばれるエヴェンキは、西はシルカ川から、東はアムール川中流、ゼヤ川まで、北は外興安嶺までの地域で、狩猟や牧畜などによって生活を営んでいた。単独で、あるいはダフールと一緒に「部族連盟」を形成し、この地域においては最も影響力を持つ部族社会(集団)を維持していた。

1619年満洲のリーダー、ヌルハチ(清の太祖)は、自分たちの本拠地の安全を確保するために、アムール川流域に住む先住民、エヴェンキ、ダフール、オロチョン(索倫部)を自分たちの支配下に治めようとした。エヴェンキのリーダー、ボンブグル(博穆博果爾)が率いる部落がそれに抵抗したため、彼は軍隊を派遣し先住民たちの抵抗を武力によって治めた。清朝は1639年12月―1640年5月まで、1640年12月、そして1643年5月、全部で三回に渡って征服戦争を行い、それによって、先住民側は多くの死傷者を出し、成人男性は清朝の軍隊に編入され、女性と子供は、征服戦争で功を立てた清朝の将士に奴隷として与えられた。

17世紀40年代からネルチンスク条約が結ばれる(1689年)までの約40年間、コサック(ロシア人)はアムール川に侵入し、すでに清朝の影響下にあった先住民に対し、略奪とクロテンなどの毛皮の強制徴収を繰り返し行った。清朝はコサックが先住民から食糧を調達できなくするために、1649年―1652年にかけて、アムール川中流域やゼヤ川流域のほとんどの先住民を嫩江流域へ移住させた。…さらに、1731年布特哈地域のエヴェンキ、ダフールとオロチョンは「布特哈八旗」として、清朝の政治組織に組み込まれた。

1732年清朝は「移民実辺」、つまり国境地帯地域の防衛のために、すでに布特哈地域に落ち着いたエヴェンキ、ダフール、オロチョンとバラグ・モンゴル、合計3000人(そのうちエヴェンキ人1636人)を、この地域に住むモンゴルが南下したため、ほとんど無人地帯化したホロンバイル草原に派遣した。…また、ホロンバイル草原では「八旗」(全部で一六旗からなる)を編成し、いまのハイラル市のところで「副都統衙門聡管」を設けて、彼らを統轄し、また11万8528頭の牛、羊や馬などの家畜を与え、牧畜業に従事させた。…

満洲族の発祥地である東北地方は、清朝の特別な政策に守られ、漢民族の流入を制限していた。しかし、19世紀に入ってから、清朝勢力の衰退や中原地域で人口増加によって耕地が不足するなどが主な原因で、東北地域への漢民族の流入は急速に増加した。…また、19世紀末東清鉄道の敷設によって、鉄道が通る大興安嶺の部分で生活していたエヴェンキなどは、猟場を失う、生活空間を失うなど大きな被害にあった。

レナ川上流流域あたりに狩猟とトナカイ放牧によって生活を立てていたエヴェンキは、19世紀の初めに、ロシア、ヤクートの圧力を感じて、大興安嶺の北西部森に猟場とトナカイ放牧地を求めて移住した。移住する前に彼らはすでにロシア人の影響を受けており、移住後から日本軍の統治を受ける1930年代までも、ロシア側の徴税官に税金…を払い、主にロシアの住民と物々交換を行っていた。…

(2) 清朝支配下のエヴエンキの生活と周辺民族との関係
見てきたように、17世紀半ば―20世紀初頭まで、エヴェンキは清朝の支配下にあった。この200年以上に上る清朝支配の歴史は、エヴェンキにとって、従来の生活形態が大きく変化させられた過程であるが、同時に、変化の中で自分の生活、文化、言語などを維持し、積極的に新しい環境に対応し、ダフール、モンゴル、オロチョンなどと共存関係を形成してきた過程でもある。

清朝は黒龍江将軍、その下の布特哈副都統、呼倫貝爾副都統、さらにその下の旗を通じて、先住民を管理すると同時に、エヴェンキなどに「納貢」(税のようなもの)、「軍務」を課した。15才以上の住民は全員貢納の義務があり、納貢の対象はテンの毛皮のみが認められていた。テンの狩猟は大変難しい(毛皮が少しでも傷ついたら価値が下がるので、傷つかないようにするには大変な工夫が必要)上、大量捕獲によって数が激減したため、貢納は先住民にとって、ますます大きな負担となった。18世紀後半以降、テンは獲れなくなったため、先住民は納貢するため、商人から、高い値段でテンの毛皮を買わなければならなかった。また、先住民は官人の腐敗にも悩まされていた。しかし、貢納制度は先住民の反発、抵抗にもかかわらず、1908年まで続いた。

八旗に編入された先住民の人口は、領土確保、内部反乱の鎮圧を始め、数知れない戦争に参加させられ、また各地に駐屯を強いられたことによって、減少したといわれている。その中でエヴェンキはその勇敢さゆえに最も大きな犠牲を払った先住民である。1769年南方で起こったある反乱を鎮圧するため、エヴェンキ、ダフールから1700名を兵士として徴集されたが、生き残ったのは300人であった。(注1)

すでに述べたように、エヴェンキは嫩江に移住される前からダフール、オロチョンと混住していた。移住後も密接な関係は維持されていた。…

また、ホロンバイル草原に派遣されたエヴェンキとモンゴルも、草原の利用、交換関係など多方面にわたる関係を維持していた。エヴェンキとモンゴルは基本的に別々の旗によって統治されていたが、日常生活では、旗の境界を越えて、牧草地を利用し合っていた。…さらに、一部分のエヴェンキはモンゴル語、満洲語を通じて、読み書き能力を身につけていた。

Ⅳ エヴエンキの現在(1990年代以降を中心に)
20世紀に入って、ホロンバイル地域は国民党勢力の浸透、モンゴル民族による「地方自治」、さらに日本軍による統治を経て、1947年中国共産党勢力によって中国社会主義体制下に組み込まれた。社会主義体制下に置かれてから今日(2003年)に至るまでに、エヴェンキは1950年代から1970年代にかけて、上地改革、人民公社化(集団化)、文化大革命などの激しい政治運動の時期を経験し、1980年代以降、中国全体が急速に市場経済化する中、新たな選択や対応に迫られている。…

(1) エヴエンキの生業の変化
エヴェンキは自然環境に応じて、さまざまな生業経済を行ってきた。例えば、動植物が豊富な大興安嶺の奥地や北西部などでは、狩猟とトナカイ放牧を行い、ホロンバイル草原では、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜を飼い、季節的に移動する生活を送り、気候が相対的に温暖な大興安嶺の東南部などでは、農業、狩猟、林業と牧畜を組み合わせて生計を立てることが主流であった。しかし、これらの生業経済は土地、家畜などの集団化、また生業経済を直接政府各部門の管理の下で行われる「生産活動」へと統合することによって、特に、1980年代後半以降、市場経済に吸収され、あるいは市場経済の影響を受けることによって、大きな変貌を見せている。

もちろん、生業経済は自然環境に大きく依存しているため、開発や人口増加などによって、自然環境の変化、破壊にも左右されることは言うまでもない。実際、ホロンバイル地域の人口増加、大興安嶺の森の伐採と農地化、草原での大規模な農地の開拓、また大規模な石炭工場の建設などによって、エヴエンキの生業経済は大きな被害を受けており、それによって生業経済が完全に崩壊してしまった例も出ている。…1950年代から本格化した大興安嶺の森林の大規模な伐採(1950年代から大興安嶺は中国で最大の木材供給地となっている)によって、…森の生態系が破壊されただけでなく、この地域に生息していたヘラジカ、アカシカ、オオヤマネコ、テンなど多くの動物が絶滅、あるいは激減し、生業経済としての狩猟は21世紀を見ることなく、この地域から姿を消した。…

ホロンバイル草原で遊牧生活を営むエヴェンキにとって、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜は財産であり、食料の源でありさらに現金を得る手段でもある。自然に入って草を家畜の餌とし、移動を繰り返し行うことで草原を再利用することを図ってきた遊牧民エヴェンキにとって、草原の面積と草の質量は家畜の生存に関わる問題である。このような自然にほとんど手を加えずに利用する放牧は、広大な面積の草原を必要とする。しかし、1950年代から本格化し今日まで続く農地開墾、大規模な石炭の発掘、工業用地としての利用、さらに町と道路の建設などによって、放牧可能な牧草地は大きく縮小され、また以上のことも原因となり、草地の乾燥化や砂漠化が急速に進むなど、遊牧エヴェンキも大きな環境問題に直面し、生活に深刻な影響が出ている。例えば、エヴェンキ族自治旗・バインチャガン・ソム(村)のエヴェンキの3割の牧民が家畜の冬を越すために充分な草が取れないため、生活を維持できる数の家畜を飼うことができず、貧困化現象が生じている。…

(2) 言語の変化
エヴェンキ語はオロチョン語と同様最も急速に消滅しつつある言語の一つといわれている。…

1996年以来、私はエヴェンキ族自治旗を始め、ホロンバイル市におけるエヴェンキが集中して住んでいるところの大半を見てきた。…これらの地域への旅で、エヴェンキの中で漢語化現象が急速に広がっていることを感じ取った。
それではなぜこのような事態が生じたのか。漢語化はエヴェンキが自ら選択した結果であり、誰かによって強制されたものではないことは明らかである。では、なぜ彼らはそのような選択をするのか、その要因には遊牧エヴェンキの「脱モンゴル語化」現象が挙げられる。

エヴェンキは文字を持っていないため、進学時に学校教育用語として漢語とモンゴル語のどちらかを選択しなければならないという現状がある。長い間遊牧エヴェンキはモンゴルと混住し、またほとんどの人がモンゴル語を話せるという事情から、モンゴル語で学校教育を受けてきた。しかし、1990年代に入ってから、漢語を選ぶ人が急速に増えている。脱モンゴル語化現象と漢語化現象の背景には、共通している部分が多い。学歴社会へ進む中国の現状を考えると、将来大学や専門学校などに進学する時、教育用語を漢語にした学生は、モンゴル語を選んだ学生より選択肢は圧倒的に多い。また、ほとんどの地域で通信設備が整備され、漢語による大量の情報が流れている。特に各家庭におけるテレビの普及は、子供たちの言語環境を大きく変えている。調査で世話になったほとんどの家庭の子供たちは漢語放送の番組を見ていた。モンゴル語の放送も少しはあるものの面白くないと彼ら、彼女らは言う。さらに、地域社会の都市化、城鎮化(町化)も要因の一つと考えられる。

Ⅴ おわりに
エヴェンキは東北アジアの先住民として、中国北魏時代(日本の古墳時代の前期に当たる)の文献にすでに登場し、また日本、中国やロシアの研究成果から、紀元前2千年前から、シベリアから中国の東北地域にかけての広大な空間を舞台に活動し、独自な生活形態を確立したと同時に、その地域の歴史、文化の形成にも大きな影響を与えたことが判明されつつある。

本章で紹介してきたように、17世紀以降、特に20世紀に入ってからエヴェンキの従来の生活形態は大きく変わり、近年「民族文化」の継承も危機的な状況にあると考えられる。しかし、1980年代以降、エヴェンキの各自治地域において、さまざまな形で「民族文化」を復活させようという動きが見られる。…例えば、元エヴェンキ研究会の理事だったウインダライは、『エヴェンキ族の起源』という本の中で、エヴェンキを主体的に捉え、国から出版された歴史教科書や漢民族出身の学者と異なるエヴェンキ民族の起源、形成過程を論証している。…さらに、近年ロシア側のエヴェンキとの文化交流活動も軌道に乗り始め、国境を越えてのエヴェンキ同士の交流が広がりつつある。

(注1) エヴェンキ族自治旗にあるエヴェンキ博物館の前庭には、清朝乾隆期に活躍したエヴェンキ族出身の将軍海蘭察(ハイランチャ)の像があり、その銘には次のように記されている。

海  蘭  察
  海蘭察(公元1740年――1793年)額格都・杜拉爾氏,呼倫貝爾索倫左翼?黄旗鄂温克人。乾隆二十年(1755年)従軍,征戦南北。海蘭察武勇過人,身先士卒,由索倫馬甲,晋昇頭等侍衛、一等超勇公、侍衛大臣、内大臣、都統,参賛大臣等大清国要職。
  為維護大清版図之完整,海蘭察之戦騎踏大小金川,西蔵台湾等地,其戦功赫赫,青史留名。乾隆五十八年,海蘭察病逝于京都,以神威之帥入昭忠祀,画像列紫光閣四次。

(参考) 《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察)
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by satotak | 2009-07-16 10:38 | 女真・満州・内蒙古
2009年 06月 25日

言語の変遷に見る中国東北部の民族

三上次男・神田信夫編「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:池上二良):

小興安嶺、嫩(のん)江地方、大興安嶺、呼倫貝爾(ホロンバイル)地方にはエウェンキー(エヴェンキ)語が分布し、またそれに親縁関係の近いソロン語があり、東の松花江およびウスリ川の下流沿岸、両川間のアムール川沿岸の地方にはナーナイ語が分布していて、言語の分布上それぞれ北の東シベリア、アムール川下流地域からのつづきといえる。しかし、中国東北部には、ほかにダグール語などのモンゴル語があり、満洲語がおこなわれ、さらに古くは女真語がおこなわれた。中国東北部は、言語分布上この点が、上の二地方と大きく異なる。
なおキルギズ語の話し手である柯爾克孜(キルギズ)人は乾隆年間に新疆方面から移動させられたものという。

ホロンバイルの諸言語に関しては、清の『世宗実録』の雍正10年(1732)の条に、索倫(ソロン)・打虎児(ダグール)・巴爾虎(バラグ)・鄂倫春(オロチョン)の兵3000を選び、呼倫貝爾(ホロン湖・バイル湖)付近の済拉嘛泰(ジラマタイ)河口の地に遷移し、彼らを編成して八旗となし、左翼は自ら城処を修めてロシアの交界に至る地で遊牧し、右翼は喀爾喀(ハルハ)河に在って遊牧するものとすることが記されている。ホロンバイル南部における今日の索倫、達斡爾(ダグール)、陳巴爾虎蒙古の諸族の分布、したがってまたその言語の分布は、この東方からの移動がおこなわれたこのころ以降のこととみられている。その後、新巴爾虎蒙古族が外蒙古桑貝子一帯から、布利亜特(ブリャト)蒙古族、通古斯(ツングース)族はさらにのちソ連領から十月革命当時にホロンバイルに移動したものという。

これよりさき、17世紀中ごろ、清はロシア人の寇奪から避難させるため、索倫・達呼爾の部族を北の黒龍江上流地方から嫩江地方へ移している。17世紀においてもそれ以前は、…ダウル人はアムール川上流、ゼーヤ川下流にいた。またビラル[バラグ]人は当時北のゼーヤ川の支流セレムジャ川の上流やウダ川の上流にいた。マネギル人は北のゼーヤ川支流のギリュイ川などの地方にいたようである。その後ビラル人やマネギル人も、ダウル人の移動のあと分布を南へ拡大したとみられる。
また達斡爾・索倫族からは、その後新疆の伊犁地方へ兵士が派遣され、家族とともに移住した。
この地方の民族・言語の分布は複雑な移動の歴史をもち、その結果によるものである。

満洲語については、少くとも満洲語口語は、もと明末清初の建州女直が話していた言語であったものとみるのが自然であろう。なおまた『満洲実録』巻二に満洲国への葉赫(イエヘ)国からの使者のことばとして「一つことばを話す国に烏拉(ウラ)、恰達(ハダ)、葉赫、輝発(ホイファ)、満洲の五人の汗もが生きる道理ありや」と記されている。…この記述からみて、海西女直の呼倫(フルン)国の烏拉、輝発、恰達、葉赫も、満洲語と同じ言語か、ないしそれと方言的違いしかないような言語を使っていたろうと思われる。ただし、同書巻一によれば、葉赫部の始祖は蒙古国の人であったという。すると、葉赫部はもと使っていたモンゴル語をとりかえたのであろう。なお、満洲の汗ヌルハチの根拠地の興京老城は蘇子河岸であり、この地方は松花江との分水界の南側に位置するが、鳥拉は松花江上流、輝発はさらにその上流支流揮発河地方を占めていたとみられる。さらに古く元明時代には、『遼東志』によれば、建州は松花江上流沿岸に位置した。したがって、満洲語は北の地方から南へ分布をひろげたとみられる。

さらに、『満文老档(まんぶんろうとう)』天命四年(1619)の条に「漢人の国から東へ、日あがる方の海の水に至るまで、朝鮮国から北へ、蒙古国から南へ、女真ことばの国を討ち従え、その年終わった。」とある。これは、建州・海西の女直ばかりでなく、この地域の野人女直(少なくともその主な諸部族)に、女真ことばとして一つによべるような言語が広くおこなわれていたことを示しているといえよう。上に建州女直の言語を満洲語とよび、海西女直の言語も満洲語としたが、満洲語もここにいう女真ことばに入るものである。この女真の言語は全体としては地方地方の方言的差異をふくむであろうが、満洲語の言語名を広義につかってその総体をまた満洲語とよぶことも許されよう。なお『満洲実録』巻六の相当箇所には「東海から西へ大明国の遼東の辺界に至るまで、北は蒙古国の科爾沁(コルチン)の住んでいたはての嫩江から南の朝鮮国の辺界に接するまで、一つの満洲ことばの国をみな討ち従わしめ、統一し終わった」とある。『満洲実録』では上掲の「女真ことば」のかわりに「一つの満洲ことば」の表現を使って記している。また、時代的に先行する後述の女真語もこの女真ことばにつながるものであろう。

また、上にみたように、17世紀中ごろ、少なくともアムール川の小興安嶺断崖部から川下のおそらくサラプリスコエ村あたりまでのアムール川沿岸、松花江下流・ウスリ川沿岸には、デュチェル人が分布していた。このデュチェル人とはなにか。阿南惟敬は、…デュチェル人は居住地域が清初の野人女直の一つの東海虎爾恰部と一致するとしながらも、その部族が女直であったか、ゴルディ(ナーナイ)であったか、問題であるとし、実はゴルディではなかったかという考えを捨てきれないと述べている。しかし、ステパーノフらロシア人が1656年その地に再来したとき、デュチェル人はおらず、彼らは、デュチェル人が清の皇帝の命によりすでにここを避難退去して虎爾吟(フルハ)河(牡丹江)地方へ移動したことを、その土地に残っていたわずかな人びとからきいている。一方、1709年にこの地方を踏査したイエズス会士の見聞にもとづくアルドの『中国誌』(1735)は、清の皇帝からフルハ川・松花江沿いの寧古塔(ニングタ)付近の土地をあたえられてそこに住む農耕民のイラン・ハラ(三つの氏族の意)とよばばれる住民についてふれているが、これは移動後のデュチェル人ではないか、ないしはこれをふくむものではないかと思われる。同書に、これは以前は魚皮韃子(ユビタズ)と混住していたが、真の満洲人であるとあり、この点が注目される。デュチェル人は、おそらく野人女直の一派といえるものではなかったろうか。そしてその言語は、広義の満洲語の一方言ではなかったろうか。なお、魚皮韃子は、デュチェル人がいた地域に混住していた、またはその隣接地に居住していたナーナイ人のことであろう。今日のこの地方のナーナイ人の少くとも一部はその子孫であり、また、彼らのナーナイ語方言は魚皮韃子のナーナイ語に由来するものであろう。

満洲人は、17世紀以後着々と勢力を拡大し、清を建国し、中国本土に進出した。これに応じて、満洲語の話し手が北京はじめ広く中国の諸都市など各地に居住するようになり、満洲語の分布は拡大した。しかし、満洲人は漢人にくらべれば人口もきわめて少なく、文化的に漢人に化し、言語も中国語を話すようになって満洲語をしだいに使わなくなった。満洲語は、清代中葉の隆盛期にすでに衰微のきざしをみせていた。
今日では、満洲語は、東北地方では西部の少数の村、愛琿県大五家子満族自治郷や富裕県三家子屯などでしか使われていない。なおそこの満洲人は、康煕年間に大五家子のほうは寧古塔から、三家子屯のほうは吉林長白山麓地方から、当時辺要の地であったそれらの地方へ移住したものであるという。

ただし、満洲語を話す錫伯(シボ)族の兵が、乾隆中期に遠く西方の伊犁(イリ)地方の国境警備のために派遣され、乾隆29年(1764)家族とともに盛京(瀋陽)をたち、翌年に同地に到着、移駐した。家族をふくめての総数は、公式には約4300、実際にはふえて5000であった。
この錫伯族は、今日新疆ウイグル自治区察布査爾(チャプチャル)錫伯(シベ)自治県、そのほか伊寧、霍城、鞏留、塔城、烏魯木斉(ウルムチ)などに居住し、いまもなお満洲語を口頭語として使っている。これを錫伯語ともよぶ。新疆の錫伯人の人口は1982年に約2万7000であるが、錫伯語の話し手の数はそれより少ない。しかし、ツングース・満洲諸語のなかではおそらくエウェンキー語とならんで話し手が一番多い有力な言語であろう。なお東北地方に残る錫伯族はすでに満洲語を話さない。
錫伯族が本来どんな民族で、どんな言語を話していたかは、なお問題である。モンゴル人の一派か、もしくは満洲族とは別のツングース族の一つであった可能性もなお否定できないとみられ、自分の固有の言語を満洲語にとりかえたこともありえよう。嘉慶八年(1803)の年記のある瀋陽の太平寺の錫伯碑には錫伯が元来ハイラルの東南の河川の流域に住んでいたと記されていることも指摘されている。

さらに時代をさかのぼると、女真(女直)族の女真語が中国東北部の地域におこなわれていた。女真語は、碑文や文献に残るが、ツングース・満洲語の一つで、なかでも満洲語に非常に近い親縁関係にある言語である。女真族が12世紀に金を建国し、中国本土北部に進出したのにともない、女真語の分布も拡大した。しかし、13世紀には金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代までおこなわれた。その後、女真語は衰滅したともみられようが、女真語は、満洲語と姉妹語関係にあったというより、むしろ方言的関係にあって、上述したその後の広義の満洲語の方言としてそのなかに没したものであろう。

以上にみたように、東シベリアの地域におけるエウェンキー語・エゥェン語の分布拡大、アムール川下流地域におけるナーナイ語・オルチャ語・ウイルタ語の進出とともに、また中国東北部の地域から女真語が南の中国本土北部に、さらに満洲語が中国版図に広く分布を拡大した。その後は消滅したが、ただし、上述のように、はるか中国西辺には今日も錫伯語が残存している。これらの分布拡張が、今日のツングース・満洲語の分布を生じ、ひいてはさらに今日の東北アジアの言語分布を生じた大きな要因となっているといえよう。なおさらに、つぎにみるように、高句麗や濊(わい)などの言語がツングース・満洲語に属するものならば、ツングース・満洲語はもっと古くには朝鮮半島北部へも分布を拡大したことになる。

古代の言語分布
近隣地方を広くふくめて上述の地方のさらに古い時代の言語の分布を知るためには、中国正史の東夷伝・北狄伝に当時のアジア東北部・北部の諸民族について記述があり、その言語についてもごく大略的ではあるが、ふれられていて貴重である。ここでは、朝鮮半島西北部などもふくめて上述の地方の諸民族の言語についてみる。

晋の陳寿(297年没)撰の『三国志』の「魏書」には…
南朝宋の范曄(はんよう)(445年没)の『後漢書』には…
言語の異同についてこれらの記事によってみると、少なくとも三世紀の三国時代における同地方の言語はつぎの三類に大別されよう。
Ⅰ 鮮卑、烏桓(鳥丸)の言語
Ⅱ 夫餘、高句麗、濊、東沃沮の言語
Ⅲ 挹婁の言語
今日の東北アジアの言語とその分布から推すと、Ⅰの言語はモンゴル語の一派かと思われるが、チュルク語とみる見方もある。…Ⅱの言語はツングース・満洲語の一派か、またはそれに近い言語とも思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しくしらべてみなければならない。Ⅲの言語は、近隣の言語と非常に異なる言語で、今日ならば古アジア語に一括されるような言語であったとみるのが一番自然ではないだろうか。なお今日この地方にもっとも近く分布する古アジア語はニヴフ語であり、それはこれがさかのぼるような言語であったかもしれないが、あるいはほかに今日すでに絶滅してしまった古アジア語も過去にあったかもしれない。

それより時代がくだると、北斉の魏収の『魏書』には、… 同様に唐の李延寿の『北史』にも、…
これらの記事によれば、五、六世紀の南北朝時代のこの地方の上記の言語はつぎの二群に分かれよう。なお、当時の高句麗については、これらの史書のその条にその言語に関する記事が見出されない。
Ⅰ 室韋(失韋、しつい)、庫莫奚、契丹、豆莫婁(豆婁)の言語
Ⅱ 勿吉(もつきつ)の言語
Ⅰの契丹の言語はモンゴル語の一つとみられている。Ⅰの他の言語もモンゴル語に属するものであろう。Ⅱの勿吉の言語についての上掲記述は、勿吉の少なくともある主な部族の言語が、近隣のツングース語系やモンゴル語系の言語にくらべて異なることを述べているのではないだろうか。なお、のちの『新唐書』は黒水靺鞨(まつかつ)について「黒水靺鞨は粛慎の地におり、また挹婁ともいい、元魏の時には勿吉ともいう」とあり、あるいは勿吉のその言語は挹婁の言語にさかのぼるものかもしれない。
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by satotak | 2009-06-25 14:30 | 女真・満州・内蒙古
2009年 05月 28日

満洲族のモビリティ -大清に向かって-

三宅理一著「ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷」(ランダムハウス講談社 2009)より:

太祖ヌルハチの登場
女真族(じょしんぞく)すなわち満洲族は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)などと同根のツングース語系民族であると同時に、日本との共通性もきわめて高く、数の数え方を始めとして日本語の中に満洲語の片鱗を見出すのもそう難しくない。この女真族が中国史の中で大きな位置を占めるようになるのは12世紀から13世紀にかけてであり、遼から分かれて東北部に金(1115-1234)を建国し、その後、宋を倒して中国の北半分を支配したことで知られている。金朝はモンゴル高原から南下した元によって滅ぼされ、主を失った遺民は関外の地に四散して部族ごとに小集団を構えることになる。三百年にわたる沈黙期間の後、この女真族を再び糾合し中原の覇者をめざして攻め上ったのがヌルハチ(1559-1626)である。…

明朝期における女真族の実態はそう簡単なものではなく、少数民族ゆえにわからない部分も多く、周囲を囲む明朝、李朝、モンゴル等のはざまにあって小集団が相互の合従と抗争を繰り返していたようだ。女真族全体としては大きく三系統に分かれて、現在の東北三省からロシア沿海州にかけて分散して生活圏を築いていた。東北部、撫順(ぶじゅん)の東の山間部に広がる「建州」、その北にあり、今日のハルビンの一帯までを治める「海西」、はるか東に位置し、豆満江(とまんこう)の河口から沿海州にかけて陣取る「野人」の三統である。そのうちヌルハチが属しているのは遼東平野に隣りあう建州女真であった。建州の地域は、明との国境(現在の撫順市の東側)の東に広がる山岳丘陵地帯で、南北では瀋陽を横切って流れる渾河(こんが)の南岸から朝鮮との国境地帯に到るエリアが彼らの居留地である。森林に恵まれ、狩猟、採集、牧畜、農耕を生業とする民であり、草原の遊牧民たるモンゴル人とは生活形態が大きく異なって定住を常としていた。山間の地に数十戸単位の集落を構え、危急の時には馬を駆って首長のもとに馳せ参じ、戦闘に参加した。彼らは、モンゴルには若干劣るものの、騎馬民族としての資質を有し、成人男子はすべて武の道に秀でており、いつでも戦闘集団として戦える体制になっていた。この仕組みが後の八旗制度に発展する。

ヌルハチは、1559年に撫順の東、蘇子(そし)河の流域で生まれた。この場所は、今日の新濱(しんぴん)満族自治県に相当し、瀋陽から150キロほど東に進んだところである。一円に清朝の始祖たちを合葬した陵墓(永陵(えいりょう))や当時の都城(フェアラやヘトアラ)など、満洲人の歴史を語るには絶対に見逃すことのできない貴重な遺構が散見される。その当時、明との国境をかたちづくっていたのは撫順の東側で、そこに築かれた撫順城がその東の建州との境であった。万里の長城とまではいかないが、周辺民族の侵入を妨げるために土塁(辺牆(へんしょう))が築かれていた。明の支配が及ぶのは平坦な遼東平野の東端のこの地までで、そこから東の森林に覆われた山間の地が、満洲人の前身女真族(女直)の跳梁跋扈する土地であった。…

[清朝建国直前の満洲]

[満洲の地勢]

建州の統一
13世紀初めに元によって金が滅ぼされ、東北の故地に散った女真族(じょしんぞく)は、森林地帯で狩猟と採集の細々とした生活に甘んじることになる。西に明、南に朝鮮との国境を抱え、女真族が少しでも反旗を翻せば両者から手痛い仕返しを受けていた。しかし、北方のモンゴルを最大の敵とみなす明朝は、女真族を一種の外人部隊に仕立てて対モンゴル戦に活用しようと考え、国境から近いところに居住する建州や海西の女真族に対し懐柔策を打ち出すことになった。胡(こ)に対しては胡でもってという中国古来の辺境民族対策で、その先兵に利用されたということである。その策として女真の有力家系に一定の官位を授けて朝貢の形態をとる国境貿易の利権を提供する。女真族の経済は、広大な後背地を抱える明に対して馬や毛皮、人参などの特産品を売って得た利益でなりたっており、この利権を得るために各部族がしのぎを削っていた。このアメを巧みにばら撒くことで明朝は彼らの間接支配を行うことに成功する。東北一帯に「衛所(えいしょ)」と呼ばれる辺境部の末端行政組織をつくり、そこでの官職に各部族の長をつけ、明との関係をオーソライズするわけである。その先鞭をきるのは建州女真族で、15世紀の前半には建州三衛(建州衛・建州右衛・建州左衛)と呼ばれる衛所に組み込まれていった。部族の有力者には、都督(ととく)、都指揮(としき)、鎮撫(ちんぶ)といった官職が授けられ、それを錦の御旗に朝貢貿易の利権を部族内で分配する。建州の北側に散らばる海西の女真族においても、同じ頃に兀者(ウェジ)衛以下、多くの衛所が組織され、遼東一帯に女真族の手を借りた明の支配の体系が成立していく。…

彼らのかたちづくっていた部族社会は15世紀後半に入ってそれなりの成長を示し、生産力も軍事力も高まってきた。明の側からいえば建州三衛やその他の衛所を介して明に帰属したということになるが、女真族の立場からすれば、明の衛所を足がかりとして彼らの国家をつくることが大きな目的であった。16世紀に入ると彼らは部族ごとにまとまって独立した国家を形成するようになる。ヌルハチの時代には建州五部と呼ばれる五つの部族国家が成立していた。…ヌルハチ自身はスクスフ部に属していた。ちなみに、建州以外の女真族も同様に部族国家化し、海西女真で四部、野人女真で四部の、女真すべてを合わせて十三の国家が成立していたのである。とりわけ、海西のハダ(哈達)部やイェヘ(葉赫)部は建州をしのぐ力を有して、部族国家間でしばしば衝突を起こしていた。我国の戦国時代の群雄割拠の状態を頭に浮かべれば理解できるだろう。

ヌルハチの家系は、代々渾河(こんが)支流の蘇子(そし)河(スクスフ河)の流域に住み、明朝から都督や都指揮使等の官位を授かるとともに、部族の長としてスクスフ部をまとめる立場にあった。歴史上、この一門で最初に名前が出てくるのが14世紀後半のメンゲティムル(孟哥帖木児)で、その七代後がヌルハチとされる。メンゲティムルは、建文帝(けんぶんてい)の時代に当時の首都南京に朝貢し建州衛都指揮使の位を授かり、次の永楽帝(えいらくてい)の時代には帝に従ってモンゴルヘの遠征にも参加している。当初、朝鮮の国境地帯に居住していたが、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子河の流域に移住して、その地で建州左衛のトップたる指揮使の職を与えられた。

1598年になってヌルハチは自身の祖先を祀るため蘇子河と二道(にどう)河の合流点の近くに大掛かりな陵墓をつくり、マンジュ・グルン(満洲国)建国に到る以前の父祖の霊を祀った。この陵墓は、後の順治帝(じゅんちてい)の時代に大きく改装されて今日のかたちになり、名称も「永陵(えいりょう)」と改められる。…

「マンジュ国」の成立
ヌルハチをトップに仰ぐマンジュ(満洲)国は16世紀末に成立した。辺境であった東北地方に、強大な軍事力を有した国家が出現したということであり、ヌルハチ自身も一介の部族長からのしあがって、統一されたひとつの国家の長に就くのである。…
建州統一の過程でヌルハチはマンジュ国に対して国家としての機能とデザインを整えるべく、さまざまな事業に乗り出していた。後述するように、1587年になって新たな都を構えるべくフェアラ(佛阿拉)城の造営に取り掛かり、法律を整備し、さらに行政制度としても大臣をトップとする国家機構を整え、国事を処理すべく衙門(がもん))役所)を設立した。

かくして、1590年を境にヌルハチは、全女真族の覇権を握るべく海西女真の平定に乗り出していく。ここで知っておかなければならないのが、ヌルハチにおける女真の統一事業が、彼にとって抵抗勢力となる他部を討って征服することではなく、同一言語を有し血族関係もある女真諸部の勢力をそのまま自身のもとに再編成することを目的としていたということである。その点は、平定した地域の住民に対する移住政策をみれば明らかだろう。帰順した他部のベイレや領民をマンジュの地に移住させ、新たな殖民を行って農業生産を上げるとともに、機動性に富んだ兵団を確保する。領民を屯田兵化することが目標だったのである。

女真族は山間の民である。寒冷の地で少ない人口を養いつつ強力な国家をかたちづくるにあたって、生産の基盤となる領民をどう配置していくかは為政者にとって大きな課題であり、中原のように膨大な数の農民の上に少数の支配者が立ち富を吸い上げる体制を敷くわけにはいかない。同一の部族集団からなる支配者も領民もいわば運命共同体の中にあり、部族抗争の中で滅亡するか、あるいは巨大な中華文明の中に吸収されていくか、当時の女真族はそのような選択肢の中にあった。

そもそも女真族自体の人口はいわゆる漢民族に対して極端に少なく、15世紀半ばの時点では建州女真はわずかに一万三千人にすぎないという人口推計が出ているくらいだから、その数がいくら多くなったとしても数万人から十数万人の規摸である。広い東北地方に分散して住んでいる女真の民を、できるだけ多く蘇子(そし)河流域のマンジュ国に移住させ、強力な戦闘集団となして明に対峙させることがみずからの生存を保証する最大の手段であった。ヌルハチはその意味で稀有のリーダーであり、戦略家であったようだ。…

八旗の村
…マンジュの軍団編制と居住環境との関係は、いわゆる定住型の農耕民とは一線を画しているようにもみえる。漢人であれば、長子相続型の形態をとり、代々家作を相続し、その地に住み続けるのが普通であるが、女真族(じょしんぞく)つまり満洲人は、長子は必ず家を出て、別に家作を構えることになっていた。居住地を次から次へと変えるのは、彼らにとっては日常のことであり、何か切羽詰まった理由で移動を開始するのではなさそうだ。元の支配がなくなり、明朝の支配が及んでくると、各地に分散していた女真族は続々と移動を始める。たとえば、ヌルハチの先祖にあたるメンゲティムル(孟哥帖木児)一族は他の女真族の圧力で今日のハルビン一帯から朝鮮国境地帯に「家を挈(けつ)きて流移」し、その後、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子(そし)河の流域に移り住んだことが朝鮮側の史料に記されている。女真族の集落はせいぜい数十戸が単位で、それ以上の町となると、ハダやウラのように部族国家を成立させて、その「城下」に数百戸を集住させるようになってからであった。つまり、彼らは自然条件や部族間の関係によって居住地を転々と変えており、マンジュの軍門に下った後に、マンジュの国内に集団で移住したとしても、それは彼らにとってそう特別なことではなかったはずだ。「野人(女真)は散処し、或いは五、六戸或いは十余戸、或いは十五余戸、屯居常ならず。各酋長有りて、酋長留まらんと欲すれば、即ち其の下焉(いずく)にか往かん。去らんと欲すれば、即ち其の下亦之に従う」というのが実態であった。重要なのは、「家を挈きて流移」と記されるように、住宅を解体し、必要に応じてどこにでもそれを運搬して「移築」をはかるという文化を有していた点である。明末の彼らの住まいは『満洲実録』の図版から窺い知ることができるが、木造と煉瓦造を組み合わせ茅葺(かやぶき)、土塗りが一般的であった。基本は木造の軸組みからなっていて、それを解体・異動させることができれば、高度の建築経験がなくとも建築が可能なのである。

モンゴルに代表される遊牧系の国家では、移動型の生活自体はとりたてて不思議なことではなく、むしろ季節に応じて居留地を変えることが必要であった。遊牧民は夏季の間に家畜とともに移動し、冬季は冬営地でじっとしている。女真族は遊牧民ではなく、狩猟や漁労にいそしんでいた伝統をもつ。狩猟のために「タタン」と呼ばれる小屋を建てて必要な期間、そこに移り住むことは普通であった。明朝時代の建州女真族の居住実態については、成人男子二名程度を含む小単位であることが報告されている。つまり、彼らは大家族ではなく、小家族の単位で転居を繰り返していたのである。ヌルハチが、蘇子河流域の開墾を促進させマンジュ国の国力増進に努めるために多くの帰順女真一族をその地に移住させた背景には、このような文化が横たわっていた。八旗(当初は四旗)を単位として軍団的に兵丁を組織し一定の土地に定住させた後も、ヌルハチの西進政策のために多くの八旗兵が居留地から抜け、新たな土地に向けて移動していくことになる。…
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by satotak | 2009-05-28 12:46 | 女真・満州・内蒙古
2009年 04月 18日

近代満洲の民族相 -日本人の錯覚-

小林英夫著「〈満洲〉の歴史」(講談社現代新書 2008)より:

大いなる錯覚
関東軍作戦参謀だった石原莞爾(いしはらかんじ)は、満洲事変勃発(ぼっぱつ)4日後の1931年9月22日の作戦会議で、これまでの「満洲」直接占領構想を放棄し、清朝皇帝だった薄儀(ふぎ)を頭首とする国家づくりへと考え方を変えた。それまでは石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。

石原はここで満洲イメージの修正を強いられたわけだが、はたして多くの日本人はそうしたイメージ変更をできたのだろうか。…実は、こうした多くの日本人が共有していた大いなる錯覚が、1931年以降の日満のみならず日中関係を誤らせる結果を導いたのではないだろうか。…

17世紀ならいざ知らず、日本が本格的に係わり合いをもつ19世紀半ば以降のこの地は、漢族1000万以上の農民が住み、毎年40万から50万人の農民が津波のように押し寄せ、そして何もかも飲み込んだ大地を噛み砕く、漢族の自治の土地だったというべきだろうし、その中から生み出された張作霖(ちょうさくりん)に代表される政治指導者たちは高い政治統治能力を持っていた。それを「軍閥」という名称のもと、古いイメージでこの地と向き合った、この大いなる錯覚が、東北をめぐる日中関係の不幸の始まりだったのではないか。

黄龍から旭日へ
…たしかに、13世紀からの中国東北の.歴史をひもとけば、それは、清朝発祥の地として、何人も立ち入ることができない封禁(ふうきん)の地として、長い間、広大な荒野を野生の天国に存置していた。しかしこの地は漢族の移民の開始とともに、瞬く間に農業地帯へと変貌を遂げていった。そして露・中・日、三つ巴の抗争の歴史を経て日本がこの地に勢力の扶植を図りはじめたのは、漢族の開墾が大いに進んだ後の19世紀末から20世紀初頭のことだった。

日本は、日清・日露戦争を契機にこの地に進出し、1945年までこの地域に大きな足跡を記すこととなるのだが、その日本は、最大時でも約150万人という、漢族から比べれば20分の1にも足りぬ、しかも大地から遊離した移植の民をもって、ある「夢」を実現させんとしたのである。その「夢」とは、この地を清朝の黄龍旗(こうりゅうき)はためく地から旭日旗(きょくじつき)満ちる地に変えることであった。それはさまざまな手法をもって行われた。清朝皇帝と皇室との交流に始まり、工業化政策と移民政策がそれに加重された。しかしこの変更はあまりに困難で、厳しい環境の中で旭日旗自体が強風にむなしくもちぎれていった。…

17世紀に始まる漢人の満洲移民
当初、満洲はヌルハチに起源をもつ清朝発祥の地として、満洲旗人の地を保存する考えから、何人も立ち入ることができない封禁の地であった。ところが清朝が北京を都に定め全中国の統治をしはじめると、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満洲の空洞化現象が生じはじめた。これを防ぐために清朝は1644年に「土地分給案及開墾補助策」を、49年には「移住民の保甲編入、荒地開墾所有許可令」、53年には「遼東招民開墾例」などの一連の遼東招民開墾政策を実施し、漢人の東北移民を促進した。漢人の東北移民は急速に進行し、開墾奨励政策は1668年に停止されたものの、漢人の移民の勢いは止まらず、その後も自主的な移民が進められ1900年頃には東北の漢人の人口は推定1700万人近くに達したのである。

移民の増加とともに清は、各地に総督-巡撫-布政使司(ふせいしし)、按察使(あんさつし)のラインで地方統治を整備し、それ以下の行政レベルでは地方自治を許してきた。しかし満洲はその発祥地ゆえに事実上の軍政が布(し)かれ将軍、副都統がおかれて統治されてきた。

移住者の増加にともない、徴税という面では税損局を設けて課税を実施しはじめた。…多くの場合には徴税額ではとうていこの地域の歳出はまかないきれず、毎年中央からの補助金で財政の赤字を補填したといわれている。

漢人開拓地の自治の実像
漢人による満洲開拓が進行するなかで、この地域の牧草地や山林、森林は次第に耕されて耕地へと変貌していった。開拓を担ったのは山東省や河北省からの漢人移住者だった。彼らは、陸や海路を利用して満洲へと入り、まず奉天省の未開地を開拓し、さらに進んで吉林省へと踏み入り、そしてロシアと国境を接することとなる黒龍江省へと開拓の歩を進めた。…また吉林省の開拓に当たっては、18世紀中葉から生活に困窮した在京旗人救済の目的で彼らの移民策が展開されたが、農耕生活に不慣れな彼らは定着することはできなかったという。ロシアと国境を接した黒龍江省の開拓は、17世紀末に屯田のかたちで移民が進められたが、それが本格化したのは19世紀も後半で、主に漢人の私墾というかたちで展開された。こうして、東北では旗地の売買が活発化するなかで、清朝を支えていた旗人は土地を喪失して没落していった。それは同時に清朝の衰退過程に符合した。

1860年、天津(てんしん)条約に基づいて牛荘(きゅうそう、営口(えいこう))が開港されることで、満洲は世界経済の一環に包摂されることとなった。営口で取引をされたのは満洲特産の大豆三品(大豆、大豆油、大豆粕)で、この輸出入を通じて営口は賑わい、過炉銀(かろぎん)が流通することとなる。満洲特産大豆が世界製品になる過程は、同時にまた営口が栄え、漢人の満洲開拓が急速に促進される過程でもあった。

拡大した漢人の開拓地を清朝は総督を派遣して統治したことは前述したが、それは中央機関だけで、漢人の開拓村は自治に任されていた。自治とはいえ、中央機関とは何らかの関連を持つわけだが、それに対して彼らは、長年の政治経験を活用して柔軟に対応した。…

この満洲の地は清朝の統治の対象ではあったが、その治安を維持するための軍事力の多くを担ったのは、馬賊と称された、村落の自衛武装集団だった。日本では誤解されて馬賊というと馬に乗った略奪者、強盗もしくは盗賊集団として扱われるが、これは正しい認識ではない。治安が不良で自衛が必要とされる中国で、略奪のかたわら地域的自衛をも担当する武装集団が活動したが、彼らの多くは頭目が騎馬で指揮したことから馬賊と称されたのである。

もっとも満洲社会の防衛組織を馬賊で代表させることは、必ずしも適切ではない。馬賊というのは、そうした村落自衛組織の一つであって、時期や場所によって異なるが、民団、郷団、商団、保衛団、自衛団などさまざまな組織が活動していた。自衛団を例にとれば、これは常時ある場合もあるが、通常は村落にあって農作業に従事しているが、非常の際に銃器を携え村落防衛に従事する場合が多い。団長や副団長は村落の地主や富農の二男坊が就任し、兵は村民が志願もしくは義務的に従事する。彼らは自分たちの村を守るという意識が強いから、農家に宿泊しても馬賊などの雇われ者がやるような食い荒らしはせず、夜間の警備などを任せれば一番忠実で安全であるというのだ。…

混乱に生きる満洲住民
日露戦争中および戦後の満洲は、日清戦争時とは比較にならぬ範囲と規模で戦争の影響を受けた。まず、戦時好景気が満洲を覆ったことである。もっとも満洲全土というよりは、兵站地域でそれが著しかった。たとえばロシア軍の拠点ハルビン、大連と南の日本軍の拠点営口がそれである。戦争勃発直前のハルビンには850名程度の日本人がいた。彼らは娘子軍(じょうしぐん、売春婦)が圧倒的に多数で、以下、洗濯屋、理髪屋、時計士、写真師、大工、ペンキ屋等だった。彼らは日露開戦と同時にハルビンを引揚げた。…

そしていったん戦端が開かれると、ハルビンにはあらゆる物資が充満、ショーウインドウにはダイヤモンドやたくさんの酒が、そして濃艶なロシア女が街に溢れ、この都市は「極楽世界の観」を呈したという。日本軍の拠点、営口も同様で、軍需品の荷揚げで活況を呈し、満洲で一稼ぎしょうとする日本人が殺到し、日清戦争時にはわずか数十人に過ぎなかった居留民は8000人に膨らみ、旅行客を含むと 1万人を超えたという。…

もっともこれは戦場が生むことの一面であって、他面で、多くの中国人は戦火の犠牲となって多大な被害を受けたことはいうまでもない。クリスティーは、その著書の中で短く「それは支那の土地で戦はれた。支那の農民は、自分達の戦争ではなかったけれども、そのために苦しみ且つ死んだ。そして何等賠償を受けるあてもなかった」(『奉天三十年』下)と結んでいる…

戦争が終わると、今度は戦後の荒廃と混乱、景気の後退が満洲に打撃を与えた。ハルビンではあらゆる物資が暴落し、買い手のない悲惨な状況が生まれた。営口も被害を受けた港の一つだった。戦争勃発当初は、軍需品の輸送で活況を呈したが、戦争が終結すると軍需品の値下がりと滞貨の山のなかで、倒産する商人が続出、さらには大連港が復興し、満鉄の呑吐港(どんとこう)として機能しはじめると営口の重要性は減少していった。…

日本人移住者の増加
満洲も満鉄もまだ日露戦争直後の荒々しさの余韻を残している1907、08年ころ、他方で日本人の満洲移住が始まっていく。すでに中国人移民の数は1300万人を超えていた。日本人移民の数も徐々にではあるが増加を開始する。

ここに1906年8月時点の営口の日本人戸数調査がある。それによれば、営口の戸数合計は1044戸、人員は7087人、その内訳は男子5111人、女子1976人であった。職業の内訳の上位5種を挙げれば、下婢(かひ、使用人) 394、雑貨店 226、芸妓 113、料理店 75、菓子製造 68の順になっていた。…

占領初期と相も変わらず芸妓、酌婦、下婢、料理店、飲食店関連従事者の数が多いことがわかる。料理店、飲食店とは大半が淫売宿であり、芸妓、酌婦、下婢はその大半が淫売婦だったという。…

「五族協和」の内実
…満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族が住み分けていた、というのが実情に近かった。

人口構成
『満洲年鑑(昭和15年版)』に依拠して、満洲國の1937年12月末時点での民族別職業別人口構成を見てみよう。満洲国の総入口は約3667万人。うち最大多数の漢族が2973万人で全体の81%を占めている。第二位は満族でその数は425万人。全体の約12%を占める。第三位は蒙古族で、その数98万人、全体の3%弱。そして第四位は朝鮮族の93万人でこれまた3%弱。そして第五位が日本人で42万人、1%強である。

次に職業別人口構成を見てみよう。やはり農林牧業に従事する人口が圧倒的多数で、2304万人、63%弱で半数以上が農林牧業に従事しており、なかでも漢族が1841万人で、全体の50%、半分を占めている。この対極にいるのが日本人で、公務員・自由業が8.3万人で、全入口に占める比率こそ1.2%だが、満洲国全体の公務員・自由業の5.8%を占めている。

つまりトップに立つ日本人は、公務員及び自由業に従事するものが最大で、逆に最大の人口比率をもつ漢族は農林牧業を筆頭に以下商業、鉱工業と続いている。中国人が、農・商を通じてがっちりと満洲の大地を食んでいることがわかるであろう。…

実質的に農村を支配する中国人農民
中国人農民といった場合にも、4000万人(?)の農民の内訳を見れば、富農や地主から貧農、小作農までそれこそ千差万別で、一律に論ずることはできない。東北農村をコントロールしていたのは巨大な地主と富農で、彼らはしばしば大豆集買を業とする糧桟を兼業し、さらには金貸しをも兼ねていて、村落で絶対的な力を有していた。しかも農会をコントロールし、保甲制度の実施においては、保長か甲長を兼ねて村落で大きな権限をポストとともに保持していたのである。

彼らは、さまざまな情報を集計して、有利な条件で大豆を購入・販売しており、こうした利便性を活用して富を蓄積した。…特に戦時期に入ると統制が一般的となり、正確な情報いかんが収益を左右することとなり、それを有利に活用できる富農や地主がさらなる富をものにすることができた。したがって、彼らが実質的な意味での農村の支配者であり、満洲の大地の支配者だったのである。

商売上手な中国人商工業者
中国人商工業者の多くは、付属地に隣接する城内に住んでいた。満洲事変前は、城内と付属地の日本人街では交易を行う際には関税上の問題があり、自由な取引はできなかった。したがって、張作霖政権は、この関税を調整することで、中国人商人に有利なように商取引を実施することを仕掛けたのである。
満洲国成立後は、治外法権撤廃にともない、それ以前の制度は消滅したが、中国人商工業者の居住地と日本人のそれとは明確に峻別されていた。…

中国人商人の商売上手は、日本人のそれとは比較にならなかった。北満の奥地を旅した島木健作は、中国人商人が上手に日本語を使い、愛想よく島木に接し客を大切に扱う態度が随所に見られたのに対し、日本人商人の店は客扱いが雑で価格も高く、いい気持ちはしなかったと述べている(『満洲紀行』)。

しかし中国人商人のなかには、正常な商取引というよりは麻薬、阿片などの取引に手を染める者も少なくはなかった。時折彼らの暗号めいた符号入り書簡が憲兵隊の検閲に引っかかることがあったが、それは阿片取引の場合が少なくなかった。…

若い世代が台頭しはじめる中国人官吏
中国人官吏の生活は多様であったが、満洲国の官吏養成課程が整備されるにともない、次第にその養成課程から選出された官吏が要職を占めはじめた。建国当初は日本留学組が要職を占めていたが、やがて建国大学や大同学院出身者が、県長から満洲国中央政府の処長、科長、次長へと昇格を開始し、敗戦直前では、中央政府の次長クラスヘと昇格したものが現れはじめた。日本の大学を卒業し、帰国して中央政府入りを果たし、出世街道を進みはじめるものも現れはじめた。
その契機となったのは、1942年の「満洲建国10周年」を迎えた人事異動だった。…

広範に活動する朝鮮人
朝鮮人の活動領域は満洲国全域に及んでいたし、従事していた職業の業種も日本人よりははるかに広かった。彼らは、母国を離れて満洲国に住みながらも、官吏、農業、工業、商業など広範な領域にその触手を広げ、朝鮮人のネットワークを持ちながら、その領域を拡大していった。…
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by satotak | 2009-04-18 16:37 | 女真・満州・内蒙古
2009年 02月 07日

女真族の国家

川本芳昭著「中国史のなかの諸民族」(山川出版社 2004)より:
女真族の興起
遼や元を生み出したモンゴル高原の東境には南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)が横たわる。その東麓には現中国の東北地方、かつて満州と呼ばれた大平原地帯が存在する。

この大地は古来より言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族が活躍した舞台であり、古くは粛慎(しゅくしん)、挹婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が活躍したことを中国の史書は伝えており、なかには高句麗(こうくり)や渤海(ぼっかい)などのように強大な国家を建設するものもあらわれた。ただ、これらの諸族は基本的に万里の長城の線をこえて南下拡大することはなかった。

しかし、海東の盛国と称された渤海[契丹]によって滅亡させられたのち、その後身は女真(女直)という名のもとに結集を始め、やがてそのなかの完顔(ワンヤン)部がを建国するにいたり、それまでとは違った様相が生じるようになる。
完顔部の阿骨打(アクダ)は遼の圧政を排除しつつ、ムクンと呼ばれる単位を基礎とする氏族制社会としての女真勢力を改編して、完顔部を中心とする支配力を強化し、会寧(かいねい)を首都とする金を建国し、女真文字を定め、外に向かってついに長年の宿敵たる遼を滅ぼすことに成功する。この拡大は、金の華北進出から、さらに北宋の打倒へと展開し、やがて江南に南渡した(南宋)と淮水(わいすい)をはさんで対立するまでにいたるのである。

12世紀末の北東アジア
[拡大図]

こうした動きは、明らかにそれまでの満州諸族の歴史展開とは相違するものであり、その背景には、遼や北宋などとのあいだに生じた個々の具体的政治状況の存在とともに、古来より展開してきた満州系諸族の経済的・社会的発展の存在が関係していた。金による華北支配はそうした発展の、帰結であったということもできる。

この金は、華北を領有するとその基盤を華北に移すようになり、やがてそれは女真族の漢化民族性の喪失を惹起し、新興のモンゴルによって滅亡させられるにいたる。その結果、金の中国王朝化後も満州に残留していた女真族は、モンゴル・元の支配下に組み込まれ、その強大な軍事力に圧服される時代をむかえるのである。しかし、そのような状況下にあっても女真族再結集への動きは存続しており、それは明のあと、後金国が興隆してくる基礎となるのである。

金朝の国制
さて、完顔(ワンヤン)阿骨打(アクダ)は、1115年、自立して帝位につき(太祖)、国を金と号したが、その前年の14年、配下女真族を統制するうえでの軍事・行政の両面をかねた猛安(もうあん、[ミンアン])謀克(ぼうこく、[ムクン、ムケ])という制度を定めた。これは、300戸を1謀克としてこれを行政上の基礎単位とし、10謀克をもって1猛安とする制度であり、その1謀克当たり100人の兵士を徴し、これを軍編成の基礎単位として、1猛安当たり1000人の部隊を編成する軍事制度であった。各猛安、謀克の長の名称もそれぞれ猛安、謀克と称し、それらは世襲の職であり、そのために世官と呼ばれることもあった。

猛安はミンガンという女真語で「千」の意味をもっており、謀克は同じく女真語で「族長」を意味する言葉である。よって猛安・謀克制とは3000戸の構成員から1000人の戦士を徴発する制度ということになり、猛安が「千」の意味をもつことから行政上の制度の面をもちながらも、その本質は軍事面にあったということができる。こうした制度はさきにモンゴルの軍制についてふれた際、千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)の制やノヤンの制について述べたが、ミンガンという呼称の一致面をも含めて、金においてもこれと同様のことがおこなわれたことがうかがわれよう。また、その際、その千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)制と遼の軍制、はたまた北魏の軍制との共通性についても論じたが、そのことは大きくとらえると、金の猛安・謀克制は北魏の軍制(行政制度でもある)である八部制と同様の性格をもっていたことをも想定させるのである。

金は1142年、宋と和議を結ぶと、華北の治安維持のため多数の女真族をその猛安・謀克の組織のまま、満州から華北の地に移したが、その形勢は金の第四代海陵王による燕京(えんけい)遷都によっていっそう著しいものとなる。彼らが漢人といりまじって居住し、耕地を与えられ税負担も軽く抑えられた反面、漢人に対しては過重な負担がしいられた。このことは漢人の金朝に対する反感をいっそう強いものとし、金朝の滅亡の大きな原因の一つとなる。

彼ら自身も華北に移住した結果、自らの母語である女真語を失い、漢語をあやつるようになるなど、物心両面におよぶ中国化と民族性の喪失を生むのである。…

海陵王と世宗
…金の第四代海陵(かいりょう)王(完顔亮)は満州の都・会寧府(かいねいふ)を棄てて華北の大興府(北京)への遷都を断行し、多くの女真族を華北の地に移住させた。また彼は、皇帝権の強化のために宗室諸王や女真族大官を抑圧し、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、南宋を討つために、多くの反対を押して淮南へ軍を進めている。この海陵王の事跡をみるとき、北魏[注1]の孝文帝の事跡とのあまりの類似に驚かざるをえない。

海陵王と同じく中国文化にあこがれた北魏孝文帝は都を多くの家臣の反対を押しきって平城(大同)から洛陽へ移す。また、彼は洛陽遷都にみられるような中国王朝化をめざした施策に反対する鮮卑族大官を数多く粛正した。また、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、江南にあった南朝を討つため、多くの反対を排して南伐の軍を起こす……。

こうした類似が生じた根本には、皇帝個人の志向もさることながら、そこに両国が中国を支配するようになって徐々に進行する中国化にいかに対処し、その国家としての基盤を確固たるものにするにはこれまでの国家の有り様を根本的に変革するよりほかにない、とする判断があったがためと考えられるのである。

ただし、金と北魏を比較した際、その中国に対する対応にはやはり相当根本的な相違も存在する。それは、女真文字の創出や、海陵王のあと即位した第五代世宗(完顔烏禄)の施策にみられる女真族国粋の強化と、再興への動きの存在などに端的に示されているとされよう。その意味では、金はやはりそれに先行する遼、その跡を継ぐ元と同じく征服王朝としての性格を濃厚にもっており、北魏後に展開された北アジアの歴史発展を踏まえて出現した国家といえる。

しかしまた、金が遼や元と比較して中国文化と親和的な国家であったということもこの際、確認しておく必要がある。そのことは金が華北支配にあたって科挙(かきょ)制度を排除せず、1127年、その制を採用し、漢人を中央行政、地方行政において活躍させ、決して除外しようとしなかったこと、あるいは、金一代をつうじて儒教を国家の指導理念としていたことからもみてとれる。

つまり、金の場合、たしかに世宗にみるように女真主義の強化を標榜するものがあるが、それはあくまでも中国思想・文化を排斥、それと対立しようとするものではないことは注目に値しよう。このような遼・元との相違が生じた原因としては種々の事柄が考えられるが、その要因に、モンゴル高原という遊牧を生業とする地から発した国家としての遼・元と、満州という狩猟や牧畜、そこで農耕をも部分的におこなう地から発した金との差異があることは確実なことといえるであろう。

清による中国支配
元代の女真族がの強大な軍事力に圧服され、そうしたなかでも再結集をめざす動きがあったことをさきに述べたが、が江南の地を確保し、さらに元を追って満州にまで進出すると、女真の一部は明に帰服し、満州から元の残存勢力を駆逐した。その後、明は巧妙な羈縻(きび)政策[注2]をとり、有力首長に官職を授け彼らに朝貢・互市貿易の特権を与えることをつうじてその懐柔に成功した。

明代の女真族は満州南部の建州女直、松花江沿いの海西女直、東北極遠の野人女直に大別されるが、海西女直と建州女直は明一代をつうじて徐々に文化的・経済的生活を向上させ、明末には有力者の荘園も出現するようになる。その社会組織は血縁によって構成されるムクンとともに、地縁共同体としてのガシャン(村)もあらわれ、さらに明末にはその連合体としてのアイマン(部)やその諸部を統合したものとしてのグルン(国)が形成されるようになった。これらの部、国が明との朝貢・貿易権をめぐって激しく抗争し、やがてそれは建州女直出身のヌルハチの制覇に帰して後金国[アイシン国]の建国をみ、清朝へと発展するのである。

は第二代太宗ホンタイジが1643年に没し、子の世祖順治帝が位につくと、幼少のため睿(えい)親王ドルゴンが摂政となって政治にあたった。翌年、北京が李自成によって攻略され明が滅ぶと、これに乗じて清は万里の長城の要衝・山海関を突破して華北にはいり、北京に都を移した。これによって清は以後、1911年の辛亥<(しんがい)革命にいたるまで300年近くの年月にわたって中国全土を手中におさめる満州族による征服王朝として中国の大地に君臨することになる。…

[注1] 北魏 (386~534年):混乱を極めた五胡十六国時代を収束し、のちの隋唐統一帝国の母胎となった、鮮卑(せんぴ)族の一たる拓跋(たくばつ)部が建国した非漢民族国家。この国家は華北の大地のほぼ全域を統一し(439年)、以後100年をこえる支配を実現するが、中国史を通観するとき、中国の大地に侵攻し、国家を建国した北方諸民族国家の一つの典型を示しているといえる。
その北魏を建国する鮮卑族拓跋部は3世紀のなかごろ、その初期のリーダー拓跋力微(りきび)が諸部を合わせて盛楽(いまの内蒙古和林格爾(ホリンゴール))を中心に活躍するようになってから明確なかたちで史上にその姿をあらわし、以後、曲折をへながらもモンゴル高原の一大勢力として成長していく。
4世紀末、拓跋珪(けい)は、はじめて帝号を称し(太祖道武帝)、登国と建元して国号を魏と定めた(386年)。その後、道武帝、太宗明元帝、世祖太武帝と続く三代の皇帝の治世のあいだに、着々とその支配領域を拡大し、439年ついに割拠する諸国を平定し、華北を統一するまでに成長する。
そうした安定を基盤として北魏の最盛期を現出させた皇帝が、隋唐の均田制や日本古代における班田収授制に影響を与えた均田制を実施した皇帝として史上著名な高祖孝文帝・拓跋宏(こう)である。

鮮卑族はモンゴル高原東南部から大興安嶺南部を本拠地として、1世紀末からしばしば長城を越えて中国北部に侵入した遊牧民集団。東胡の末裔といわれ、言語はモンゴル系であったという説が有力だが確証はない。2世紀後半中国の体制が弛緩し治安が悪化すると、そのような状況から逃れるため、逆に大勢の中国人が長城を越えて鮮卑族の領域に移住し、人口増加をもたらすとともに、経済的・文化的に大きな影響を与えた。

[注2] 羈縻政策:羈縻(きび)とは、羈が馬の手綱、縻が牛の鼻綱のこと。アメとムチの政策を使い分けながら、国力の消耗を極力抑え、国家の威信を発揚していく中国王朝の対外政策。
朝貢・互市貿易の特権:中国王朝に朝貢する周辺民族は、帰属と貢物を献上する見返りに、朝廷から官爵や献上物に数倍する回賜(賜物)をえた。また、自国の産品と中国の産品とを交易する権限も与えられた。この権限は首長層に大きな利益をもたらした。
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by satotak | 2009-02-07 12:41 | 女真・満州・内蒙古
2009年 01月 23日

満族 -創出される民族、想像される民族-

劉正愛著「民族生成の歴史人類学 -満洲・旗人・満族」(風響社 2006)(注1)より:


■ 集団の名称とアイデンティティ
満洲(注2)が正式にある人々の集団を指す言葉として用いられたのが1635年だとすれば、それ以降書かれた歴史(あるいは神話)に登場する「満洲」は、歴史を書いた時点から遡上して定立されたものである。それは「満族(注3)という語が1950年代以降正式に使用されたにもかかわらず、あたかも当初から存在しているかのように語られているのと同じである。

集団の名称は、名付けであろうと、名乗りであろうと、それが生まれた時点から、遡及的にそれにアイデンティティを求める運動が起きる。「満洲」と「満族」という語はそういった意味でも、人々のアイデンティティの形成においては特に重要な意味を持つものであるといえよう。しかし、清朝政府がその「満洲の道」を推進するに当たって、八旗満洲や八旗漢軍を問わず、旗人を一つのカテゴリーとしてみてはいたものの、「満洲」という言葉は決して八旗漢軍や八旗蒙古を包括できる概念ではなかった。たとえば、八旗漢軍は「旗人」であっても「満洲人」「満人」ではなかった。

現代満族の間で「純粋な満族」とそうでない「満族」という議論があるのもそのためである。「旗人」はすべて「満族」と見なされるが、旗人の構成における多元的特徴のゆえに、満族はさらに二つのカテゴリーに分類される。つまり、八旗満洲は「純粋な満族」で、八旗漢軍は「純粋な満族」ではないという考え方が生まれるわけである。ただ、こうした議論は外部調査者あるいは行政への応対の時に表に出るものであって、日常生活ではほとんど意識されない問題である。…

一方、「民人」というカテゴリーも考察の対象にしなければならない。なぜなら、東北地方ではこれら「民人」――旗人ではない漢人の後裔たち――も今日では満族の一員になっているケースが数多く確認されているからである。…

東北地方のいくつかの事例と福建省の二つの事例を比較してみれば分かるように、今日満族と呼ばれる人々はその歴史的・社会的背景が異なるがゆえに、アイデンティティの表出も異なっている。
村人の話を借りれば、肇家村(注4)では、80年代、特に84年の上夾河満族郷成立以前は「誰も満族という言葉を口にしなかった」。「満族」という言葉が頻繁に登場するのはそれ以降のことである。肇家村では…周囲との明確な境界もなければ、他者を強く意識することもない。なぜなら、彼らは自ら満族であると強調しなくても、事実として満族であり続けてきたため、自らを差異化する必要に迫られていない。つまり、彼らの日常生活における生活実践は「無意識の生活様式」である。

それに対して、福建省の満族、特に琴江(注5)の満族は、長年地元の福建漢人とは異なった社会的環境(物理的にも精神的にも)に置かれたため、自らを差異化しないと「満族」としてのステータスを確保できない。血縁的に漢人に結びつけられるような「漢軍旗人」という立場は時として彼らを困らせる。彼らは数百年間旗人として生活しており、「旗人」=「満族」という図式が成り立つならば、彼らは文句なしの「満族」である。しかし、行政側を含む周囲の人々は彼らが「漢軍」ということでそれを否定する傾向にある。民族籍を満族に変更し、満族村が成立されて20数年以上たった今でも、彼らの「満族」としてのステータスは常に「漢軍」であるがゆえに不安定なままである。「満族」であることを証明するためには、周囲の漢人とは異なる旗人たる身分を証明しなければならず、それは同時に国のために献身的に戦った功績の証明にも繋がる。そして、何よりも重要なのは、文化的差異を強調する必要がある。それはたとえどんな小さな差異でも、彼らにとっては大きな意味を有する。…

彼らが積極的に「満族」として名乗り出る背景にはもうひとつ重要な要素がはたらいている。それは単に少数民族としての優遇政策を享受しようとするだけではない。宗族組織が発達している「城外」の福建漢人社会に囲まれた社会的環境において、個と個の繋がりの薄い彼らにとって、「満族」は共同体の結束力を高める重要なカテゴリーでもあるからである。その意味において、彼らのアイデンティティには強い政治性があるといえよう。

しかし、一方では、民族政策の実施に伴う厚生的利益享受のための民族籍変更が見られており、同じ満族でも決して一枚岩的ではない。
…1985年満族自治県の成立をきっかけに新賓の満族人口は1982年の33%から1985年の63%に急増した。これは少数民族人口が半数以上占めることが自治県成立の条件の一つとされたため、県政府や郷鎮政府の動員によって多くの人が満族籍に変更したことに起因する。満族として新たに登録したのは、①八旗満洲後裔(辛亥革命以降に漢族に変えた者)、②八旗漢軍の後裔(元漢族と申告した者や満族と申告したが辛亥革命以降に漢族に変えた者)、③民人の後裔などであるが、変更の原因については少数民族の優遇政策のためだと答える人がほとんどである。

現在、中国において、少数民族とは厚生の対象となる籍としての性質をもっており、少数民族になることは様々な優遇政策を享受できることを意味する。ここで、アイデンティティの実利的側面を窺うことができる。もちろん、これは自治県という特殊な行政地域においてのみ顕著に現れることであり、すべての少数民族の民族意識が実利的であるとは言っていない。事実上、利益などかまわず、満族としての強いアイデンティティを持っている人は多数存在しており、また、利益があっても「民族を裏切る行為」をしたくないため、頑なに民族籍を変えない漢族もいるわけで、アイデンティティを一枚岩的にとらえては決してならないのである。

■ 創出される民族、想像される民族
筆者は肇家村を含め新賓満族自治県の五村及び… (調査対象は満族が大半を占める)などで個別のインタビューを通して意識調査を行ったが、満族の特色を表すものはなにかという質問に対して、「漢族と大して変わりない」との回答は90%以上であった。しかし、この語りは「満族は自らの文化を持っていない」という意味ではなく、逆に「漢族はわれわれ満族と変わりない」という意味でとらえることもできる。この場合、「漢化」と「満化」の図式は同時に成立できる。
標準中国語の基礎になっている北京語は、清代の旗人語に由来するといわれるように、現代中国語に対する満族の影響は無視できない。中国の伝統服といわれるチャイナドレスも実は旗人の服装「旗袍」の改訂版であり、食生活においても、東北、北京地方では満族の伝統的メニューといわれるものがまだ生きている。だが、これらは満族の独立した文化体系としてではなく、むしろ支配王朝における満漢文化の相互受容によって新たに生み出された旗人文化あるいは地域文化として存続してきたのかもしれない。...

東北の地域文化として表象されてきたこれらの文化的諸要素は、満族の伝統文化として新たに意味付けられ、アイデンティティ構築のための文化的距離は明確な形で確立された。これらの「選び取られた」文化要素がエスニック・マーカーとして再びクローズアップされたとき、それは、文化要素の原初性から用具性への転換を意味し、ある種の政治性を帯びるようになる。

八旗満洲、八旗漢軍、八旗蒙古を網羅する「旗人」は、初期においては様々な異質の文化を抱え込み、後期ではそれらの異質な文化要素が渾然たる一体をなし、新たに再構成された旗人文化を所有する「上位集団」となった。
この上位集団の中でも上は為政者から下は八旗兵士や庄園の農奴までの階級区分があった。しかし、辛亥革命とともに清王朝の統治に終止符が打たれ、中国が王朝政権から国民国家に移行したとき、「旗人」は、今度はそれを陵駕する政治的権力国家の中に内包される下位集団少数民族としての満族へと反転していった。このとき、かつての階級的区分は消し去られ、かつて存在した満洲・漢軍・蒙古などの区分もなくなり、「旗人」はそのまま想像された均質的な文化や共通の起源に基づく「満族」として生まれ変わる。

現在「中国人」と呼ばれる人々が国民国家の成立と共に形成された一つの「多元一体」的な民族範疇(中華民族)であるとすれば、かつての「旗族」という語に示されるとおり、「旗人」もまた当時においては「民人」を排除した、狭い範囲とはいえ一つの「多元一体」(満、漢、蒙、朝ほか)的なカテゴリーであったといえよう。

支配的な「漢化」という言説の中で、80年代の半ばから満族は今日を待っていたかのように人々の前に現れ、自らの存在を強く主張し始めた。共通言語の不在や文化的特徴の欠如のために、「帰属意識」のみが強調されてきた満族は、近年様々な歴史的記憶を想起し、「歴史文化の再構成」活動が政府主導の観光の場で行われ、かつて曖昧であったイメージの明確化を図っている。ヘトアラ城(注6)に代表されるように、そこに動員されるファクターはヌルハチにまつわる清前史、ヌルハチ家の生活様式など一連の王朝系譜的なものであり、「満族文化」=「清朝文化」という図式が成り立っている。ここで、歴史と文化は経済利益を獲得する商品として開発され、歴史や文化の真正性を問う研究者らとの思惑の違いも見られている。しかし、本物であろうと、まがいものであろうと、すでにそれらは確実に満族文化の一部になっている。...

民族は流動的で多変的な現象であり、民族という概念は常に変化のプロセスの中で捉えなければならないということは今日人類学においては常識である。しかし、多くの場合、民族は自明の概念のごとく語られているため、あたかも実体として存在するかのような錯覚を人々に与える。言語、文化、宗教、慣習などの定義要素は他者規定による客観的基準であることが多い。しかし、自らの言語を持たず、宗教・生活慣習などを共有しない場合でも、自分たちは「○○族」だと認識することはよくあることである。
このような共属意識が行政という制度に対応する必要が生じた場合、上記の他者規定による客観的定義要素は自己規定による主観的定義要素に転じ、主観的認識を裏付ける「証拠」として逆利用される場合がある。これは例えば、言語の再習得や「伝統文化の回復」など客観的に定義し得る方向へ向かう姿勢によく表れている。したがって、客観的定義要素と主観的定義要素は決して無関係のものではなく、むしろ互いに補完し合うものであり、定義される主体側が自らの状況に応じて巧みに操作していくものである。ここで主導的役割を果たすのは主体内部の権力者やエリートなどの「活動家(エージェント)」である。

中国の民族を論じる際のもう一つの重要な側面は、戸籍制度民族政策の関係である。1949年以降、中国では民族政策を戸籍制度に反映させるために、戸籍に「民族成分」という欄が設けられた。個々人にとって、「民族成分」は簡単に変更できず、民族籍は避けられない問題である。両親の民族籍が異なる場合、子供はそのどちらかを選択することができる。50年代から行われた国家主導の民族識別作業は、多くの人の民族籍を行政的に確定した。こうした制度的な他者による定義は個々人のアイデンティティを一層複雑なものにした。人々は生まれたその瞬間から、制度的にあるレッテルを貼られてしまい、その後、自分の意識がどうであれ、通常一生○○族として生きていかなければならない。

一方、戸籍上の民族籍の欄は逆に彼らのアイデンティティを規定する要因になったのも事実である。つまり、「○○族」というレッテルは漢族と少数民族を差異化する。その結果、少数民族側に差別される意識を与える一方、彼らの民族意識の高揚をもたらし、少数民族優遇政策に対応した利益獲得のための実利的帰属意識をもたらすことにもなった。つまり、中国において、「民族」は学術用語であるというよりはむしろ国民や住民を分類して統治するための行政的な装置の中で生まれた行政的範疇であり、国家によって作られた行政的範疇はそれに属される人々の「共属意識」を醸成し、それは「作為的・政治的」と「自生的・文化的」という二つの力の拮抗と相互作用によって維持されている。

佐々木[史郎]は民族帰属意識の形成過程について二つのケースを提示している。一つはカリスマ性を持った少数の指導者が政治力と軍事力を持って人々を結集して、それを民族に類する集団に仕立て、国家建設の原動力とするケースで、もう一つは国家の中枢を担う有力な人々によって区分され、枠組を与えられた行政的な「民族」が時とともにそれに属する人々の意識の中に定着して、帰属意識が共有されるようになり、人類学的に民族と見なせる集団になってしまうケースである。そして、満洲(満族)は前者の典型的な例だとしている。しかし、今日の満族はむしろ両方の性質を帯びているといえるかもしれない。つまり、清朝時代の「旗人」はヌルハチがその政治力と軍事力を持って結集した人々の集団であり、中華人民共和国成立後の「満族」は国家主導による行政的な「民族」である。しかしながら、「満族」は与えられた枠組の中で「満族」としての帰属意識を持つようになったのは確かだが、同時に「満族」という枠組を乗り越えて自らを清王朝に結びつけ、「旗人」としての社会的・歴史的記憶を依然保持し続けており、「満族」としてのアイデンティティを裏付けるものとして、その「輝かしき征服の歴史」を文化として打ち出している。

上述の通り、満族が今日、「満族」と呼ばれるようになったのは、様々な歴史的、政治的経緯があった。「旗人」という歴史的、政治的カテゴリーが「原初的体験」として満族の定義における客観的、主観的根拠になっているとすれば、中国における「民族成分」という制度は、制度への帰属意識を醸成する装置であり、「均質的で固定的な帰属意識を持たせ」るアイデンティティの新たな根拠として機能しているといえよう。

1949年まで、満族は自称、他称とも「旗人」「満人」「満洲人」などと呼ばれていたが、1949年以降、「満族」という呼称が正式に行政的名称として使用されたとき、満族は実体のあるものとして、あたかも最初から存在していたかのように語られ、自明の実体のある概念として人々の脳裏に植え付けられた。そしていまも満族自身を含め誰も「満族」という実体を疑うものはいない。
民族は「上から作られ」てきたというのは、ある程度の妥当性を持つかもしれないが、作られる側の主体性を剥奪してしまう危険性も常にあることを忘れてはいけない。その主体性を確立させるためには、もう一つの側面を視野に入れなければならない。つまり、それは「作られる」ことへの少数民族側の積極的な呼応の側面であり、国家によって「創出」された「民族」への少数民族側の「想像」の側面である。それらの一方だけを強調せず、二つあるいはそれ以上の力学を視野に入れてはじめて、中国における少数民族の本質を理解することができるのである。

この視点を受け入れたとき、われわれは、民族は近代に創られたものなのだから、民族そのものが存在するのではなく、民族は幻想でありウソなのだとする理論に疑問を投げかけるであろう。渡邊欣雄は沖縄文化を論じる際に、「仮構」という概念を利用し、絶えず生成し、創造される「沖縄文化」を積極的に肯定しようとした。「仮構」とはもともとなかったものが、あるものとして構築されることであり、真正なものかまがい物かを問わず、あるがままの現実を積極的に肯定しようとする姿勢を反映している。それに対して、「虚構」という概念はあるがままの現実を主観的に否定し、その現実を生きている人々の主体性を奪う危険性を常に孕んでいる。
「仮構」という概念は「民族」にも適用できるものである。民族は現に創られており、それに向かって振舞おうとする人びとにとって、「イメージ」や「目標」、「……らしさ」の民族は明らかにいま存在している。かれらのイメージや目標は、もはや民族を創った政策から離れ、民族の担い手のものになっている。かれらにとって民族は虚構、つまりはウソなのではなく、仮構、つまりは仮=前提として構築すべき対象になっている。民族の担い手たちにとって、民族はいかなる意味でもウソ=虚構ではない。

「ある特定の集合的アイデンティティの形態を無条件に普遍化し実体化する」本質主義を、支配や不平等を隠蔽する政治的役割を担ってきたとして批判した構築主義の功績は評価される一面がある。しかし、本質主義を絶対視するあまり、現実社会における人々の日々の実践を見逃すと、現実離れの空論になってしまうという懸念も残される。

筆者からすれば、「構築」と「本質」は表裏一体のものである。前者は固定したものへの相対化を図ることによって、流動的で、未来に開かれた可能性を切り開き、後者は揺れ動く意味要素を認知可能なものとして固定する作用をもっている。この両者のいずれをも絶対視せず、それらを、相互作用のスペクトルで捉えることが、いま必要となっている。つまり、人類学やほかの社会科学において重要なのは、意味の解体だけでなく、解体された後、新たな意味が生成されるプロセスを視野に入れることであり、そのためには共時的かつ通時的な研究である歴史人類学的手法が有効となってくるだろう。

(注1) 著者 劉正愛:1965年中国遼寧省生まれの朝鮮族、東京都立大学博士課程終了(社会人類学博士)、2006年現在北京大学社会学人類学研究所ポストドクター。本書は彼女の博士論文をベースにしたもの。

(注2) 満洲:1635年にヌルハチの位を継いだホンタイジが、自らの集団を指す言葉として、ジュセン(諸申、女真、女直)をマンジュ(満洲)に改名したということについては、歴史学会の定説になっているようである。

(注3) 満族:清朝の根幹的存在であった「旗人」が「満族」として認定されたのは1950年のことであるとされるが、「満族」が少数民族であるかどうかという議論はその後も続いた。

(注4) 肇家村:肇家(ちょうけ)村は遼寧省新賓満族自治県に属し、県庁所在地の新賓鎮から61キロ、撫順市から60キロ離れた山地に位置する。2000年現在の総人口は1612人である。満族と登録しているものは約93%で、満族集居村、そして愛新覚羅の後裔の居住村として内外にその名を知られている(「肇家」の「肇」は愛新覚羅の漢字姓)。

(注5) 琴江村:琴江村は福建省東部を流れる閔江(びんこう)南岸の烏龍江、馬江、琴江の合流するところに位置する省内唯一の満族村である。総人口は2002年現在157世帯の395人、うち満族222人、漢族171人、苗族2人。1979年まで、琴江村は洋嶼村に所属する一つの自然村(当時は「生産大隊」と呼ばれた)であったが、満族村として独立した。
琴江村の前身である常磐里は雍正7年(1729)に作られた。朝廷が福州に駐屯していた漢軍八旗から513名の官兵とその家族を派遣し、三江口水師旗営を創建したのが、その始まりである。

(注6) へトアラ城の「復元」:新賓は、農業以外に特に目立った産業はなく、交通不便などの原因で経済発展が遅れているが、観光開発が経済発展の柱産業となった。「ヌルハチの生まれ故郷、清王朝の発祥の地」と称される新賓では、美しい自然景色と清前史を観光資源として打ち出した。2000年に新賓で行われた記者会見で、ある政府関係者は次のように述べている。
「わが県中部の永陵地区に位置する清王朝の祖陵-永陵と後金政権の第一都城-ヘトアラ城などの歴史名勝は、民族英雄ヌルハチが残してくれた世紀を跨る作品であり、新賓観光産業の最大のカードである。清前史跡という文章を完成し、満族というブランドを打ち出すために新賓は1.5億元を投資し、全国唯一の「中華満族風情園』を建設し、清永陵、覚爾察城、皇寺などの人文景観を修繕・開発した」。
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by satotak | 2009-01-23 20:59 | 女真・満州・内蒙古