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カテゴリ:シベリア( 3 )


2009年 03月 13日

ロシア人の進出とシベリア原住民の移動

三上次男・神田信夫編著「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:加藤九祚):

ロシアによるシベリア併合の意義
シベリアがロシアに併合されたことは、ロシアおよび現地住民にとってどのような歴史的意義をもつものであろうか。

この問題をはじめてとりあげた学者は、18世紀中ごろ以後に活躍したドイツ生まれのシベリア史家ミュラーであった。彼の見解は、シベリアはロシアの武器によって征服(ザウオエワニエ)された、というものであった。この見解はロシア史家の間で定着し、征服の主導者がツァーリ政府、企業家ストロガノフ家、エルマクを首領とするカザク(コサック)のいずれであるか、あるいはこの三者の組み合わせがどうであったかをめぐっての論議があるだけであった。…

ソ連時代になってから、研究者たちは多くの資料を細かく検討した結果、一部の原住民が自由意志でロシア国家に編入された事実が判明し、征服ということばは不適当であるとして「併合(プリソエジネニエ)」という表現を用いはじめた(たとえばシュンコフ)。これは征服、自由意志による編入、平和的進出などの意味をこめたものである。

シベリアの原住民にとって、ロシア併合はいかなる意味をもったか、ミュラーによると、ツァーリ政府は原住民を大切にあつかい、その結果、原住民に対してもロシア国家にとっても利益をもたらしたのである。この見解は帝政ロシア時代を通じて支配的であった。ソ連時代になってからも、一部の学者はこの立場であった。
これに対し、18世紀末のラジシチェフはまったく否定的な見解をとった。彼によればシベリアにおけるツァーリ政府の役人、商人、高利貸、ロシア正教の聖職者たちはすべて強慾で、原住民から毛皮などを仮借なく収奪し、原住民を貧困のどん底におとしいれたとするものである。この見解は19世紀中ごろ以後のシベリア出身のロシア人学者たちにひきつがれた。ただしこの場合、シベリアのロシア人農民や手工業者たちはシベリア原住民によい影響をあたえたことを指摘している。…

ロシア人のシベリア進出にともなう原住民の移動
現在、シベリアの総人口は約3000万、うち原住民は約100万人にすぎないが、最初ロシア人は、ロシア人のまったくいない地域へ侵入したのである。しかし原住民は侵入してくるロシア人に対して本格的な抵抗をすることはできなかった。シベリアの土地はあまりにも広大で、住民の数はあまりにも少なく(総数約30万)、また組織化されていなかった。またロシア人は政治・経済・軍事などの面で、原住民よりも圧倒的に優勢であった。原住民は稀れに反抗することもあったが、しかしそれは散発的・局地的なものにすぎず、すぐに鎮圧されてしまった。原住民は、進出してくるロシア人の圧迫から逃れるために、むしろその住地を変えることを選んだ。つまり消極的抵抗しかできなかった。そして、その後は毛皮税(ヤサク)の納入者として、移動すらも不可能となったのである。

ロシア人のシベリア進出直前の民族移動
〔ブリャト〕
ブリャト(ブリヤート)はモンゴル語を話す民族であるが、その形成地は現在と同じバイカル湖沿岸であった。バイカル湖沿岸の住民のなかへ、モンゴル高原からのモンゴル人がくわわって、現在のブリャトが形成されたものである。
ブリャトはロシア人の進出直前、バイカル湖岸から西方へ移動する傾向にあった。彼らはコソゴル湖付近およびエニセイ川上流部においてトゥワ(都播)やキルギズなどの民族と接するようになった。ブリャトの西方移動は、ロシア人の進出する17世紀までつづいた。

ロシア人がブリャトとはじめて接触したのはカン川であった。毛皮税の台帳によれば、1686年ロシア人のつくったバラガンスク砦付近に多くのブリャトが住んでいた。チュナ川、ウダ川の岸辺にもブリャトの住地があった。
ロシア人の進出以前におけるブリャトの住地の拡大は、ヤクートが北方のレナ川中流部へ移動した原因の一つと考えられている。
ロシア人がバイカル湖沿岸地方へ進出する前に、東部のブリャトはすでに、プリミティヴながら農耕を知っていた。…

〔ヤクートと北東シベリアの他の諸民族〕
ヤクートがバイカル湖沿岸地方から北方のレナ川中流域に移住したことは、多くの言語学的・考古学的資料によって証明されている。またヤクートの伝承によっても明らかにされている。しかしこのことは、ヤクートがすでに形成を終わった民族としてレナ川中流域に移動したことを意味するものでも、移動が一度だけおこなわれたものでもない。…
その時期について一部の歴史家は、最初の波は紀元初頭で、つぎが7-9世紀、最後がチンギス・ハン時代のモンゴルの移動にともなうものと考えている。考古学者オクラドニコフによれば、最後の波が15世紀末から16世紀初頭であるという。

ヤクート族は南から移住したチュルク系要素とブリャト・モンゴルの要素が原住民と混じって形成された。民族学者トカレフは書いている。
《ヤクートは、原地住民と移住民のいくつかのグループによって形成された。南方起源の要素はそのなかの一部にすぎない。原住民の言語はツングース系であったと考えられる。移住民のうち、一部はモンゴル語を話し、別のグループはチュルク語を話した。これらの言語が混じりあって新たな共通語が形成されたが、この言語の基本構造はチュルク語であった。》

ヤクートの形成において、南方からの移住民が重要な役割を果たしたのは、言語だけでなく、南方からもちこまれた牧畜という生業である。ヤクートは明らかに「騎馬民族」であった。乳のしぼり方をはじめ牧畜技術のすべてが南方のチュルク・モンゴル系諸民族と同じであった。牛もまた南方からもちこまれた。トカレフは書いている。
《牧畜はいうまでもなく、ヤクート地方にすぐに根づいたものではなかった。草原の家畜にとって不慣れなきびしい気候のために、もちこまれた家畜の多くは死んだ。新しい移住民がくりかえし家畜をもちこんで、気候条件に合わせて飼いならしたにちがいない。》
北方での牛の飼育は馬よりもなお困難であった。ヤクートの牛の品種は明らかにバイカル湖沿岸とのむすびつきを示している。

ヤクート地方は広大な面積を占め、しかもそこに住んでいた原住民ツングース(エヴェンキ)の人口は稀薄であったが、しかしそれでも、南方からのヤクートの移動はツングースに影響をあたえ、彼らを移動させた。ただし、当時ツングースは、それまでの徒歩移動から乗用トナカイを利用した移動に変わりつつあったから、ヤクートの移動はそれに拍車をかけたにすぎないともいえる。当時、シベリア北東端のチュクチにおいても、海岸の定住海獣漁撈と、内陸部のトナカイ飼育民の間の相違がひろがりつつあった。…

〔北西シベリアの諸民族〕
北西シベリアでは、チンギス・ハンの孫バトゥの遠征と金帳汗国(キプチャク・ハン国)の形成の結果、オビ川イルティシ川の中流部に「シベリア・タタール」が進出した。この結果、原住民ハンティ(旧称オスチャク)とマンシ(旧称ヴォグール)の間では氏族制の解体がはやまり、封建制の発生が促された。両民族とも、南方の遊牧民から牛馬の飼育を借用したが、東方のヤクートにおけるような発達をみなかった。この原因は、彼らの場合、家畜としてのトナカイ飼育が早くからおこなわれていたからと考えられる。

マンシは、ロシア人のシベリア進出よりも約200年前、ウラル山脈の西方に住んでいたことが知られている。彼らが東方のオビ川流域に移動したのはコミ(旧称ズィリャン、ペルミャク)の増加によるものと考えられる。他方、ウラル北部でのノヴゴロド住民による毛皮税(ヤサク)の徴収はペチョラ川流域における毛皮獣資源の悪化とともにますますきびしくなり、マンシを東方へ駆りたてた。…16-17世紀の北方諸民族にかんする記述にが、唯一の橇曳用家畜としてしばしば書かれていたが、それがしだいにトナカイにかわっていった。…トナカイ飼育の発展とともに、シベリア北西部の住民はしだいにトナカイ遊牧の様相をつよめた。
17-18世紀における北東シベリア諸民族の移動
この時期の原住民の移動は、直接間接にロシア人の進出結果によるものである。北東シベリアの場合、この時期でもっとも大きく移動したのはヤクートとユカギルであった。
ロシア人の進出当時、毛皮税の台帳によれば、ヤクートの住地はその百年以後にくらべてはるかにせまかった。マイノフによると、南西方におけるその密集地はレナ川沿いに、東部はアムガ川に限られていた。それが18世紀になると、はるかにひろがっている。反対に、17世紀に広大な地域を占めていたユカギルの住地は著しくせまくなっている。ヤクートの拡張について、19世紀の著名なヤクート研究家セロシェフスキーは書いている。
《これは実際、奇跡的ともいえる変化であった。わずか50-60年間にばく大な人口(もちろん当時の規模での話であるが)と広い面積を占めるにいたったのである。》
マイノフは、ヤクート住地の拡張は、ヤクートの人口の急激な増加によると説明している。しかしそれにしてもあまりにも急激な変化であるために、研究者のなかには、ロシア人の進出当時ヤクートの住地がせまかったことをみとめようとしない人もある。つまり毛皮税の台帳に誤りがあるのではないかとみている。

しかしこれは少数意見にすぎない。地理学者ポクシシェフスキーは書いている。
《われわれは知っている。われわれの祖先であるシベリア踏破者たちがどれほど正確に、彼らの出会った“異民族“グループの所属を明らかにしたか、また代官所においてどんなに注意深くそのデータを総括したかを知っている。その資料は“異民族“統治と毛皮税の課税額算定の基礎となったものである。》…

こうしてカザクの毛皮台帳を疑うことは困難である。地理学者ポクシシェフスキーは、ヤクートの人口と住地の増加・拡大をつぎのような二つの理由で説明している。すなわち、ヤクートはロシア人征服者にしたがってツングースの住地に入り、ロシア人が一時的に去った後にも、その地にとどまった。また多くのヤクートがロシア人カザクに従って行動し、褒賞として牧地や狩猟用地を特権的に分与された。…
第二は、以上とはまったく逆の理由である。一部のヤクートはロシア人の徴税からのがれて、オレニョク川、ヤナ川、インディギルカ川、コリマ川、一部はヴィリュイ川、さらにはオリョクマ川の流域まで入りこんだ。…

ヤクートの進出によって、ツングース系諸民族はさらに遠くへ散っていった。たとえばジガンスク砦付近のツングースはエニセイ川の西側まで移動した。ドルガーンも西方へ移動した。レナ川の東側でも、ツングースの住地が縮小した。

ユカギルの人口と住地も急速に縮小したが、これについては後に述べることにして、さらに北東方のチュクチについて一言しよう。チュクチ族の研究者ヴドヴィンは、18世紀中ごろ以後、チュクチがアナディル川の南方へ、チャウナ川の西方および南西方へ移動をはじめたことを指摘している。また少し後代になると、チュクチはコリマ川流域まで進出し、ロシア人と衝突するようになった。
コリマ地方の「トナカイ」チュクチは、ツングースからトナカイを借用し、これを乗用に利用し、場所によってトナカイの新品種をつくりだした。19世紀になると、一部の富裕なチュクチは5000頭からのトナカイ群を所有した。

ユカギルの謎
北東シベリアの諸民族のうち、ユカギルは不思議な民族の一つである。この民族はかつてレナ川下流部からアナディル川流域までの広大な地域を占めていた。ソ連の民族学者ドルギフが17世紀の毛皮税台帳によって調査したところ、17世紀中ごろで約4350人を数えた。…それ以前はさらに広大な地域に分布していた。これはユカギル語の分析によって明らかにされている。オクラドニコフとレーヴィンは、ユカギルの先祖こそはシベリア北東部(今のヤクート自治共和国)の最古の住民であったと考えている。近年ユカギルとサモディ(サモエド)語との関連が指摘された。これは、ユカギルとサモディ系民族とがかつて隣接していたことを示している。しかし現在のユカギルとサモディ系民族とは遠く離れており、両者の間にはツングース系の民族がくさびのように入っている。これは比較的新しい時代のできごととされている。

ユカギルの生業は、徒歩による野生トナカイ狩りであった。冬は橇を利用し、秋はおとりを用い、夏は湖岸や川岸でトナカイを待ちうけ、それを渡るトナカイを小舟に乗って仕とめた。また、秋にはプリミティヴな網で魚をとった。住居は竪穴を利用した円錐形のものが多かった。17世紀当時、ユカギルの物質文化はヤクートやツングースにくらべてはるかにプリミティヴであった。

ユカギルの人口はその後急速に減り、1859年にはわずか639人、1897年に351人となった。実に17世紀当時の十分の一以下である。1894-97年、ヨヘルソンの調査によれば、ユカギルはほとんどが、ヤクート、エヴェン、ロシアなどの人びとの住地のなかにまじって住んでおり、ユカギル語を話す家族は自称ユカギルの約三分の一にすぎず、あとはロシア語やエヴェン語、ヤクート語を話した。

ユカギルの人口減少は、ロシア人はもちろん、ヤクートやエヴェンにくらべても生業形態がプリミティヴであり、そのうえ飢餓、貧困、伝染病、ロシア人など支配者によるきびしい収奪、近隣諸族との融合が原因とされている。現在、自らの言語を知り、民族意識をもち、若干の文化的特徴を残すユカギルは150人ほどで、それもロシア革命後のソ連の少数民族保護政策の結果であるとされている。

アムール川流域諸民族の移動
ロシア人がアムール川中流部に進出した当時(1640-50)、その地域に住んだダウル、ゴグル、デュチェルらの民族が農耕を営んでいた。…ゴグルとデュチェルは同族であった。この繁栄が急激に衰退するが、その原因については、ロシア人の進出前後におこなわれた清の遠征によるといわれている。

ロシア人がはじめてアムール地方に進出したのは、1644年ゼーヤ川からアムール川に入ったポヤルコフの一行であった。ついで1649年には、ハバロフの一行がヤクーツクからアムール川へ進出した。ロシア人はアムール川を下りながら住民に毛皮税を課したが、そのときの台帳によると、17世紀なかばのギリャク(今のニヴフ)の住地は、最近までの住地とほぼ同じであることが判明した。

の太祖(ヌルハチ)と太宗は、ワルカ部征討(1634、1635、1637)をおこない、主としてウスリー江流域のフルハ(デュチェル)人を服属させ、多くの若者を八旗にくわえた。
1653年、カザクの一人ステパノフがハバロフにかわってアムール地区ロシア人の隊長となり、55年には中流・上流部の原住民から毛皮税を集めた。その翌年、ステパノフが再度この地を訪れたときには、デュチェル、ダウルは姿を消していた。
《これは清朝がデュチェル人の住居を強制的に焼きはらったり、こわしたりして、松花江の支流フルカ河方面にかれらを移住させたためであった。》(吉田金一による)

ステパノフの指揮するロシアのカザク兵と清軍との間でしぼしば軍事的衝突がおこり、1654年と58年の戦闘では、清国の要請によって朝鮮の鉄砲隊(150名)が派遣されたことが知られている。吉田金一の研究によれば、1658年の戦闘ではステパノフ以下220名が戦死、朝鮮の兵も8名戦死、25名が負傷した。…
ステパノフの敗北によって、ロシア人はいったんアムール川から姿を消すが、1660年代後半以後、ザバイカル方面から多くのロシア人がアルバジン地区に移住しはじめた。1680年代の初めには、アルバジンを中心とするアムール川の沿岸320キロメートルにわたって農地1000ヘクタール以上が開かれ、そこに営農部落20があった。

ロシアのアムール川進出は1689年8月29日に調印されたネルチンスク条約によって頓坐し、シベリア経略の方向はカムチャツカ北アメリカの方面へ転じたのである。…

(参考) シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-
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by satotak | 2009-03-13 21:34 | シベリア
2008年 10月 20日

シベリア先住民族 -日本はどう向き合うか-

ジェームズ・フォーシス著・森本和男訳「シベリア先住民の歴史 –ロシアの北方アジア植民地」(彩流社 1998)より:


シベリアの先住民


シベリアの自然地形


北方アジアの民族(1600年頃)



17世紀の西シベリア



17世紀の中央シベリア


17世紀の東北シベリア



19世紀の極東



ロシア人によるシベリア征服


1934年のシベリアと東ロシアにおける民族領域




トゥヴァ人のシャーマン

アムールのナナイ

エヴェンキの猟師


1980年頃のシベリアの民族


シベリアの人口



ノゴ族のアニコ


訳者あとがき
シベリアと言うと、多くの日本人は「シベリア鉄道」、「シベリア抑留」のことを思い出し、そして、広漠とした大地に、白樺や、モミ、スギからなる森林が延々と続く、単調な景色を頭の中に思い浮べるであろう。ロシア文学に登場するモスクワやサンクト・ペテルブルク等のヨーロッパ・ロシアの都市のイメージと、やや異質な印象をシベリアについて抱くはずである。その上、冷戦構造、中ソ紛争等の複雑な地政的状況が長く続き、距離的にさほど遠くないシベリアの情報が日本に届きにくかったために、日本人のシベリアのイメージは漠然となりがちであった。この傾向は、今日でも日露間の領土問題が未解決なまま、さほど好転していない。ともかくも、日本人にとってシベリアは、アメリカ、ヨーロッパ、中国、東南アジア等と比較して、それほど身近に感じられるような地域ではなかったし、また、深く理解していると決して言えるような場所でもないだろう。

現在シベリアは、まぎれもなくロシアの一部となっているが、そこは太古からロシアの土地であったわけではない。大航海時代の幕開けと同時に、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス等の西ヨーロッパの帝国諸国が、金銀財宝を始めとする富を求めて、世界各地に侵出した。それと同じように、ロシア人も毛皮の富を求めて東へと進み、次々に領土を拡張して一時は、アラスカまでをも版図の内に取り込んだのであった。また、西ヨーロッパの植民地為政者たちが世界各地でその土地の先住民に遭遇し、彼らを植民地統治下に置いたように、ロシア人もシベリア各地で様々な先住民と出会い、片っ端から彼ら帝国の統治体制に組み入れて搾取したのであった。16世紀から始まったヨーロッパ諸国によるアジア、アフリカ、アメリカの分割と植民地支配は、その後400年の間に、植民地の独立や民族運動が盛んになるにつれて表面的には姿を消していった。しかしながら、シベリアは植民地のよう性格であったにもかかわらず、宗主国から独立することも、あるいは連邦制の下で分離するということもなく、今でもロシア国家の枠組みの中に留まっている。その意味で、シベリアはロシアの中で特異な存在なのである。…

ここ数年のシベリア先住民を取り巻く状況について、訳者宛の私信で、筆者は以下のように語っていた。ロシアにおける全般的な社会経済的凋落は、先住民の状況改善を(ダイヤモンドを所持しているヤクート・サハを除いて)ないがしろにしている。「主権宣言」や、憲法上の自治共和国としての地位の承認は、実際上、ほとんど何も意味していない。空前の規模の腐敗と犯罪をともなって、私人、州幹部、大企業は、絶え間ない富の略奪に夢中となっている。国の職員は給料を手にしておらず、生活水準きわめて低い。国家の平常な機能はマヒしていて、税金は集まらず、信頼できる輸送はない。社会福祉のための基金もない。ほとんどの平均的市民は、悪化し続ける悲惨な状況に苦しんでいて、シベリアの非ロシア人を思いやる余裕を欠いている。冬になると東シベリアでは、ウラジオストクから船で輸送される狩猟民や漁労民たちへの供給品がしばしば滞る。伝統的な生活技術の復興によってのみ、そのような共同体は生き長らえているのである。

地域研究は、言わば、政策決定に必要な情報収集のような性格をも兼ね備えているのである。イギリス人によって記述された本書にも、そのような傾向が全く無いわけではない。古ロシアのシベリア侵略の動機を、他の世界帝国の場合と同様に、飽くなき富への追及に求めたのはごく自然であり、誰もが納得できるだろう。イギリス人は、大英帝国の世界侵略過程を熟知しているので、この点を明確に描写できたのである。けれども、旧ソ連邦の民族政策については、いわゆる「西側」社会の価値観を反映して、社会主義的民族施策や集団化をも含め、概して否定的な見地から述べられている。確かに旧ソ連邦の崩壊前夜から多発した民族紛争などを見ていると、旧ソ連邦の民族政策が必ずしも完全であったとは言い難いだろう。だが、シベリア先住民は、初期ソヴィエト政権の下でロシア史上初めて搾取される対象から外された。その存在が認められ、表面的ながらも民族自決権さえも付与され、国家の側から各種の施策がなされた。同時期に、第三世界の多くの民族、先住民が植民地支配の苦しみにあえいでいたことを考えると、ソヴィエト政権の民族政策に肯定的な側面もあったのではなかろうか。ソヴィエト社会主義体制下の民族政策については、まだ十分な研究がなされておらず、検討の余地があるだろう。

さて、日露関係は、現在、領土問題の交渉のもつれ等から、かなり冷えきっている。経済関係も、近隣諸国と比べてきわめて小規模である。このような膠着した事態を打開しようと、1997年7月に橋本首相は新しい外交政策である「ユーラシア外交」を表明し、11月にクラスノヤルスクで開かれた日露首脳会談に臨んだ。この会談で、日本側は領土問題をめぐる平和条約の締結に関心を寄せ、ロシア側は「橋本-エリツィン・プラン」の対露経済協力に期待を寄せた。すでに日本では、極東・シベリアのエネルギー資源の開発について、政財官界の間で着々と構想が練られ、その展望には、エネルギー開発をめぐる東アジア全体の秩序までをも、視野に含めている。この流れからすると、将来必ず日露双方の国益を背景にして、日本とシベリアの交流は活発になるはずだ。その時、日本人はシベリア開発、そして先住民の問題に直面するだろう。旧ソ連時代に起きたシベリア開発と先住民をめぐる問題について、ロシア政府は十分な結論や、改善策を打ち出さないうちに、外国資本の援助を受けながら巨大開発を再開するかもしれない。そして日本人は、現地の問題を深く知ることなく、大規模開発に専念するかもしれないのである。

シベリアの潜在的な経済的可能性を、ロシアや日本だけが認識しているわけではない。…シベリアの資源は、ロシア外交の不可欠な要素となっており、今後、シベリア開発はさらに促進されるであろう。これらの大国の利害が渦巻く中で、シベリア先住民の運命は翻弄されてしまうのではなかろうか。旧ソ連邦時代まで、シベリアの大自然と先住民たちは、ロシアの経済開発にだけ左右されていたわけだが、シベリア開発の国際化とともに、冷酷な世界市場の荒波にさらされてしまう可能性が強い。

将来、シベリアは経済開発を軸に、ロシアだけでなく、日本や世界との結び付きを強めるだろう。その結び付きは単なる経済的関係にとどまらず、社会文化的交流にも拡大されるであろうし、またそうすべきである。シベリアを単なるエネルギー供給源用の土地と見なし、もしも、それ以上の関係に目を向けようとしないならば、そのような態度は、かつてのソヴィエト政権が犯した間違いを再び繰り返すことになるだろう。また、国家的戦略の見地からのみ隣国に接するという態度は、あまりにも時代錯誤的で、貧困な精神を表明しているように見える。となると必然的に、関係を結ぶ側にとって、シベリアの歴史、先住民、ロシア人に関する認識が必要となろう。過去の出来事についても、例えば日本の場合、シベリア出兵、満州国の建国と崩壊、シベリア抑留、サハリンの朝鮮人問題等々を直視しなければならないだろう。先住民に関しては、日本のアイヌ問題と同じように、歴史的な民族問題に対する判断を避けて通ることはできまい。要するに、シベリアと接するにあたり、日本人独自の見識が要求されるのである。日本人にとってシベリアが何を意味するのか、その姿勢も問われるだろう。

外交的にもシベリアヘの関心が高まっているのに反して、日本国内で当該地域を研究対象としている研究機関、研究者はきわめて少ない。残念ながら、…日本にはシベリアの情報が根本的に乏しいのだ。さらに、日本におけるロシア語圏研究の現状も、さほど芳しくない。…とは言うものの、シベリア民族の研究には様々な意義があり、日本人による研究が、今後も進展することを願ってやまない。…
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by satotak | 2008-10-20 16:23 | シベリア
2007年 10月 18日

シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-

黒田 卓・他編「中央ユーラシアの民族文化と歴史像」(東北大学東北アジア研究センター 2003)より(筆者:イグナティエヴァ・ヴァンダ):

■ サハ共和国の地理的特徴
アジア大陸の東北部分に位置するロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)の面積(北極海に位置するノボシビルスク諸島も含む)は310万3200平方キロメートルであり、全ロシアの18%以上に及ぶ。その領域の40%以上は北極圏に含まれている。
共和国の南北間の距離は2000㎞、東西間の距離は2500kmである。…ヤクーチアの領域には3つの時間帯があり、モスクワとの時差は+6~+8時間である。


[拡大図]

■ 諸民族の歴史と文化
ロシアの植民地化が開始されるはるか以前から、ロシアのレナ地方(ユーラシア大陸東北部に対する旧称)にはさまざまな原住諸種族および諸民族が暮らしてきた。彼らは何千年にもわたってこの地域に適した生業適応を行い、ほぼすべての領域に進出してきた。ある専門家によれば、さまざまなかたちで分布している先住民族の経済・文化類型は、ホモサピエンスとしての人類の極北環境への適応メカニズムとしてだけではなく、「自然地理および社会経済的過程における社会と自然の相互作用と動態的な均衡の結晶」として理解すべきものである。

・ユカギール
種族としてのユカギール(自称はヴァドゥル、オドゥル)は、レナ川下流からアナディール川にかけての広大な領域に暮らしてきた。…
ユカギールの民族起源は、紀元前2~1千年紀の考古学上のウスチ・ミール文化と関係する独自の種族が関わったといわれている。
ユカギールの主要な生業は、半遊動ないし遊動的な狩猟である。ツンドラにすむグループは主として野生トナカイが、タイガにすむグループは野生トナカイの他にヘラジカ、シベリアビックホーンが主な狩猟対象だった。季節に応じてさまざまな生業に従事していた。夏には鳥の卵の捕獲、秋には漁労、冬には毛皮獣狩猟という具合である。彼らはトナカイを飼育していたが、それは主として交通用であり副次的な位置にあった。それ以外に橇牽引及び狩猟用にもちいる犬も持っていた。17世紀の前半のユカギール種族の人口は、いくつかの説があるが、おおよそ5~9千人だったといわれている。

・チュクチ
チュクチは自称をリグオラベトルアンといい、チュコト自治管区と北レドヴィト海沿岸に住んでいる。
チュクチもその中に含まれる北東パレオアジア種族形成に関与した古い基層文化は、新石器時代後期のヤクーチアに現れるウミィヤフタフ文化と関係しており、その担い手が後になってユカギールの祖先をなす集団を同化したといわれている。
チュクチの生業の特徴は大きく二つある。一つは「チャウチュ」と自称する人々によるツンドラのトナカイ遊牧であり、もう一つは「アンカリン」による定住的な狩猟と海獣狩猟である。前者はトナカイ・チュクチとも呼ばれ、家畜トナカイの群れとともに一年を通して、アラゼイや川、コリマ川、シェラグスキ岬、ベーリング海峡に至る領域を遊動する生活を送っていた。その遊動パターンはツンドラ地帯から、東シベリア海・チュコト海・ベーリング海の沿岸に移動し、戻ってくるというものであった。これに対し沿岸に定住し、海獣狩猟に従事するいわゆる海岸チュクチが暮らしていた場所は、デジュネフ岬からクレスト湾さらにアナディール川とカンチャラン川下流域にかけてであった。彼らは春及び冬にはアザラシを、夏から秋にかけてはセイウチや鯨を捕獲した。17世紀末のチュクチの人口は8~9千人だったと考えられている。

・エヴェンキ
すでに5~7世紀に中国の記録に「奇」として知られ、かつてツングースとよばれたこの民族が暮らしていた地域は巨大な領域に及ぶ。西はオビ川、エニセイ川から東はオホーツク海にいたり、南は中国東北部から北はエニセイ川とレナ川に挟まれたツンドラ地帯までだからである。エヴェンキには数多くの自称をもった地域集団があり、…
エヴェンキは東シベリアに原住したさまざま種族つまり、ユカギールやプリバイカル及びザバイカル地方のツングース・満州系の種族が混じり合って10世紀頃に民族が形成された。
エヴェンキは地域によってそれぞれさまざまであるが、主として三つの生業文化に分けることが可能で、徒歩エヴェンキ・トナカイエヴェンキ・馬エヴェンキと呼ばれる。徒歩エヴェンキの多くはタイガの狩猟民であり、トナカイ・ヘラジカ・ノロ・ジャコウジカ・シベリアビックホーン・オオヤマネコ・クズリ・オオカミ・クマなどの獲物を求めて常に移動する生活であった。生活のために重要な狩猟を行うため、その移動手段として騎乗及び駄載トナカイも用いていた。後には毛皮獣であるクロテン・キツネ・リス・オコジョ・北極キツネもその対象となった。トナカイエヴェンキは、家畜トナカイの新しい放牧地を求めて移動を繰り返す遊動生活を送っていた。家畜トナカイの群れは通常25~30頭ほどで、彼らは夏には分水嶺に赴き、冬には川沿いに移るという移動パターンだった。馬エヴェンキは、ザバイカル地方南部そして中国(大興安嶺の支脈)やモンゴル(イロ川上流及びブイルーヌル湖付近)と接する地域にくらしていた。彼らは定住的生活を行い、さまざまな家畜を飼っていた。上記の分類とは別に、プリバイカル地域及びザバイカル地域南部、ヴィルイ川上流、さらにオホーツク海沿岸には漁労を中心とする集団もあった。

・エヴェン
かつてラムート諸種族と呼ばれた人々(自称はウヴン)は、エヴェンキの分布域から北東に広がる領域、つまりベルホヤンスク山脈の支脈、コリマ川・インジギルカ川・オモロン川の各流域、オホーツク海沿岸で暮らしてきた。エヴェンはその内部に複数の集団があり、それぞれ名前をもっており、…
エヴェンの民族起源は、ツングース・満州系の諸種族と関係しており、紀元1世紀頃アンガラ川及びアムール川の中流から下流域から現れた人々が、ヤクーチア北東部地域に住んでいたユカギール系の文化を持っていた人々と混合して成立したといわれる。
エヴェンの生業複合の特徴は、漁労や毛皮獣狩猟をともなう遊動的トナカイ飼育あるいはタイガでの半遊動的狩猟である。彼らの中には定住的あるいは半定住的生活を送っていた集団もおり、そこでは海獣狩猟や河口での漁労が中心だった。専門家によれば、18世紀初頭エヴェンとエヴェンキをあわせた人口は8~9万人だったといわれている。

・サハ (注1)
レナ地方の主要な住民はサハ(自称はサハ、ロシア語による名称はヤクート)であった。彼らは中世初期の時代に南シベリアのモンゴル・テュルク系種族が中心とし、主としてツングース系諸種族を同化して形成された民族である。なおサハの民族構成要素としてサモディ一系の要素をも含まれているという仮説もある。
伝統的にサハの多くはアムガ川とレナ川の間の領域、及びヴィルイ川流域に暮らしてきた。またそれほど多くはないがオレクマ川河口付近やヤナ川上流域にも住んでいた。サハは35~40の外婚制集団(種族)に分けられ、それぞれ地域ごとに独自の自称を持っている。…
サハの伝統的生業は、馬群による馬飼育と牛飼育それに集団漁労、マツやカラマツの伐採、さまざまな根や植物(ベリー類も含む)の採集である。北方に住むサハの中にはトナカイ飼育を行っていた集団もいた。さらにタイガに住む動物――クマ・ヘラジカ・トナカイ・ウサギ・鳥類などを対象にする狩猟も副業的な意味として広く行われていた。さらに、リス・キツネ・クロテン・北極キツネなどの毛皮獣猟もあった・特徴的なのは手工業が発達していたことである。鍛造・木材細工・貴金属細工・陶器制作などがこれにあたる。

・ドルガン
ドルガンは民族自称を、ティアキヒあるいはサカといい、19世紀後半に主として4つのツングース系種族であるドルガン、ドンゴト、エジャン、カラントから形成された民族である。さらに北方サハ・エネツ・ネネツ・「ツンドラ後方の農民」と呼ばれたタイムィール地方の先住ロシア人といったさまざまな民族の一部もドルガンの形成に加わった。彼らの多くはタイムィール半島に暮らし、さらにアナバール川沿岸にも数は少ないが住んでいた。
彼らの生業複合は、トナカイ飼育、狩猟、漁労から成り立っている。そのなかで最も重要なのはツンドラ型トナカイ飼育である。ドルガンのトナカイ飼育では、他の先住民と比べてそれほど長い距離にわたる季節移動は行わなかった。夏季はツンドラに赴き、冬には森林ツンドラに移動したからである。狩猟の主な対象は野生のトナカイであり、これ以外に春には水鳥やライチョウが、秋にはカモ類が狩られた。毛皮獣狩猟についていえば、キツネ・オコジョ・赤キツネが捕獲された。ハタンガ川流域やツンドラに数多く点在する湖では漁労も行われた。

17世紀初頭には、レナ地方に住んでいたさまざまな種族や民族は上記のようなかたちでそのほぼ全域にわたって分布していた。古い時代から、このレナ地方においてさまざまな民族の移入・混合があった。その結果、現在にいたるような民族起源と民族文化の特徴をもつエスニック集団が形成されたのであった。

■ ロシアの植民地化と社会主義、そして現在
17世紀の最初の四半世紀に、レナ地方は「経済的領域」として征服されロシアの一部となった。この時代から現在のヤクーチアの領域は明確になり、ロシア人を主とする東スラブ系住民の人口が増え始めたのである。彼らは当初、行政府・軍隊・宗教組織で働く人々あるいは商人であったが、後には農民も入植するようになった。ロシア人は定住のための入植拠点つまり要塞や柵そしてヤサク(毛皮税)取り立てのための冬営地といったものの建設を急速に進めた。それらは先住民にとってみると、ヤサクを規則的かつ組織的に取り立てるための場所でしがなかった。
公式文書資料によれば、17世紀の後半にロシア人初期植民者が建設した入植拠点は20を越えていた。レナ要塞、オレクマ柵、チェチュイ柵、さらに21にも及ぶヤサク冬営地、… 入植拠点は時代によって場所を変える場合もあり、その総数はしばしば変わったが、そうした状況は入植が至るところで頻繁に行われていたことを示している。
17世紀から19世紀にかけてのヤクーチア領域における経済植民地化の結果、東スラブ系住民がまとまって暮らす状況を生み出した。後に、彼らは比較的均質的な民俗的特徴をもつ先住ロシア人となった。中央ロシアとヤクーチアは地理的に離れており、また彼らは当初少数であったこと、さらに厳しい自然-気候条件下で新たな生活を送るための適応が必要だったこと、それらの理由によって、これらロシア人の伝統的民俗文化は変容し、彼らが移り住んだ地方的・北方的変種が形成されたのである。入植者達の民俗文化適応の過程は一方的なものではなかった。文化複合の変容は先住ロシア人だけでなく、同時にヤクーチアの先住民にもおよんだ。後者もまた顕著な文化伝播の影響を受けたのだった。
ヤクーチアがロシアに組み込まれてから常に入植者及び先住民の人口は変動してきた。植民地化がすすむなかで次第に進んだことは、もともと存在した歴史・文化的領域の範囲が狭まったことである。疫病・家畜伝染病・大規模な飢餓が頻繁に起きたため、住民の人口は大規模に減少した。19世紀の間にかつて数千の人口がいた諸種族は次のような状況になった。19世紀末においてユカギールは948人、チュクチは1558人、エヴェンとエヴェンキは11647人であり、ヤクーチアにおける彼らの比率は全部あわせて5.3%だったのである。この地域で人口の点で優勢であったサハ(19世紀末には22万1500人おり、ヤクーチアの人口の82・1%)の影響のもとで(他の民族を取り込む)同化が進行したことも、ヤクーチア人口の展開に大きな影響を及ぼした。
1897年ロシアにおける最初の国勢調査が行われたが、ここからわかるのは、当時行政区分として存在したヤクート州における民族構成の多様化が進行し、ロシア帝国の他の県から移民が流入していたことである。国勢調査の分析からは、ヤクーチアでは新たに現れた42の言語及び方言が分類され、それに対応して42の種族・民族が存在していたのである。国勢調査後ロシア帝国の民族構成は、言語によって確定されるようになった。帝国において最も人口の多いロシア人(この場合、3つの東スラブ系民族つまり、大ロシア人・小ロシア人・白ロシア人が統合された総称)は、ヤクート州においては3万600人で、彼らの割合は11.3%だった。他の諸民族の人口および割合はいずれもきわめて小さいものであった。
ヤクーチアの新たな住民達の多くが住み着いたのは、当時金鉱山があったオレクマ管区で、ここには最も多い81.6%が集中していた。二番目に多かったのは14.8パーセントが暮らしていたヤクーツク管区で、ここにイルクーツク-ヤクーツク間に多数あった郵便・交通のための宿駅――これらを経営していた初期のレナ地方への入植者の子孫達、農業を行うために入植した農民が暮らしていた。
1920~30年代には大規模な移民が押し寄せていた。これは、当時のヤクート自治共和国での産業開発が原因である。こうした傾向は1960~80年代にかけて雪崩のように強まり、この地域の民族構成の動態に著しい影響をもたらした。1989年に行われたソ連最後の国勢調査によると、自治共和国には116の民族が登録された。とはいえ、この数字にはソ連の公式民族リストに含まれない12の民族が除外されている。
過去40年の間に、ヤクーチアの有力な民族はロシア人となった。文字通り人口の点で50.3%を占めていること、またソ連全体の民族階層のなかでの位置付けという二つの意味において「有力」なのである。ヤクーチア先住民及びロシア人を除いた他の民族は合計で14.1%であり、このうち8.0%はウクライナ人とベラルーシ人であった。つまりヤクーチア先住民を除いて、ヤクーチアに暮らす民族の大半(90.5%)は東スラブ系の住民となったのである。…
1959年から1989年にかけてのソ連国勢調査が示しているのは、20世紀の中葉はヤクーチア先住民にしてみると危機的な人口発展の始まりだったということである。つまり移民が入ってくることは、自治共和国におけるヤクーチア先住民の人口比を著しく下げたからである。1989年の国勢調査では、ヤクーチア先住民の人口比は35.6%でしかなかった。その内訳は、サハ人が33.4%、エヴェンキ人が1.3%、エヴェン人が0.8%、チュクチが0.1%となる。ヤクーチア先住民の人口減少が進んでいることに対し、「シベリア少数民族」の代表者達は、100年前と同様に深刻な懸念を表明している。

■ 住民の人口構成
2000年1月1日現在で、サハ共和国(ヤクーチア)の人口は988,600人である。膨大な面積であるにもかかわらず、ヤクーチア領域はここ100年間において人口密度は低い。20世紀の初頭および末いずれにおいても、平均人口密度はロシアのヨーロッパ部と比べて10分の1程度である。ヤクーチアを構成する行政区ごとに人口密度の分布をみてみると、居住のパターンは一様ではないことがわかる。居住に影響するのは、自然・気候的および経済的な要素である。農業生産において比較的好条件のメギノ・カンガル郡、…そのほか工業生産と交通網の整備が進んだヤクーツクやニュールングリの都市管轄区においては人口密度は高く、1平方キロメートルあたり1.2~2.8人である。人口分布は不均等であり、最も人口密度が低いのは、極地気候帯にあり生活および生産活動に好条件とはいえない地域つまり、オレニョク郡、…ここでは1平方キロメートルあたり0.01~0.08人である。上記以外の共和国郡における人口密度は1平方キロメートルあたり0.1~0.9人という具合である。

ソ連崩壊とその後の政治社会的不安定によってもたらされたのは、労働移民が大量に発生し、彼らがサハ共和国へとやってきたことである。また広範囲にわたる大規模な経済改革等が行われる際に十分な熟慮がなさなれなかったため、極北地区にすむ住民に対してはその恩恵がわずかな形でしか及ばなかった。それゆえ最近では移民流入型から移民流出型へとヤクーチアはかわってきた。
いうまでもなく、移民の存在はサハ共和国の民族構成動態に大きな影響を与えている(表参照)。第一にここ40年間をみてみると、サハ人の比率が大きく伸びている。サハ人は他の民族と比べて、常に相対的に高い出生率をともなう自然増加という特徴がある。それに対応するようにロシア人の比率は減っている。減少した部分の大半はヤクーチアから出て行った人々である。その結果、サハ人とロシア人の間の人口比率差は1989年において16.9パーセントだったのが、1996年には8.1パーセントとほぼ二分の一になった。
第二点としていえるのは、これまでにはそれほどみられなかったことであるが、北方・シベリア・極東地方の少数民族さらにカフカス・ダゲスタン、中央アジアおよびカザフスタンの諸民族の人口が恒常的に増加していることである。…
第三にロシア連邦外に民族的故地をもつ民族の人口が増加していることである。…外国からの移民でヤクーチアの民族構成に大きな比率を占めるのが中国と北朝鮮からの人々である。こうした外国移民の流入やロシア人やヤクーチア先住少数民族の流出といった状況を背景として、中国及び北朝鮮からの移民数の増加は…むしろ近い将来において新しい民族政治の実態を生み出すことになろう。
今後その状況がどのように展開するか、さまざまなバリエーションを分析しておく必要がある。

(注1) サハ:ヤクート[人] Yakut
東シベリアのサハ共和国(ソ連時代はヤクート自治共和国)に暮らす民族。自称はサハSakha。総人口40万8000(1996)。ヤクート(サハ)語は、チュルク諸語に属するが、長期にわたるツングース語、モンゴル語との接触の結果、音韻・語彙・部分的には文法にいたるまで、他のチュルク語とはちがう特色をもっている。これはヤクート人の民族的形成の過程を反映している。考古学者A.P.オクラドニコフは、ヤクート人の中核がバイカル湖付近に住んで牧畜に従事した骨利幹(クリカン)であって、14~15世紀にモンゴル人に圧迫されてレナ川中流部に移ったと主張している。
1620-30年ごろからこの地域に対するロシア人の植民地化が始まり、ヤクート人にヤサク(毛皮による現物税)を課した。彼らの伝統的生業は馬を中心とする牧畜であり、半遊動的生活を送っていた。19世紀以降、牛飼育の比重が高まり、さらに農耕も行われるようになった。シャマニズムが伝統的信仰であるが、18世紀後半以後、多くがロシア正教へ改宗した。1917年の十月革命と30年代の農業集団化によって、ヤクート人の生活様式は大きく変わった。農村部における定住生活が確立されると同時に、都市部において労働者・技術者・知識人が出現したからである。ソ連崩壊前後から、伝統文化および民俗信仰の復興、歴史の見直しが社会現象となり、ナショナリズムが顕在化するようになった。共和国名に、ソ連時代の〈ヤクート〉に代えて民族自称である〈サハ〉を掲げるようになったことはその現れである。
(川端香男里・他監修「[新版]ロシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:加藤九祚+高倉浩樹))
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by satotak | 2007-10-18 15:41 | シベリア