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カテゴリ:民族・国家( 20 )


2009年 11月 13日

漢民族とは何か

橋本萬太郎編「民族の世界史5 漢民族と中国社会」(1983 山川出版)より(筆者:橋本萬太郎・岡田英弘):

中国文化圏における「民族」
国家とは、要するに一種の契約から成り立っているものであるにすぎないが、民族とは各人自身の社会的・文化的な規定にかかっている――ということがはっきりしていないと、どうしても漢民族というのが理解でぎない。いや、漢民族だけでなくて、実は、世界の民族もわからないのであるが、幸か不幸か、われわれの日常生活のなかでは、そういったことにたいする認識を迫られることが、ほとんどない。各人自身の社会的・文化的な規定にかかっているから、一民族の成員は、自分自身がその民族に属すると思わなくなったら、ほかにどんなに条件がそろっていても、民族でなくなるという側面がある。

漢民族とは、一番わかりやすくいったら、「漢字を識(し)っている人びとの集団である」ということになろうか。いや実際には、漢字を完全に習得するためには、たいへんな資力を必要としたから、かつての中国社会では、右のことばは、「漢字を識っている人びと、および漢字を識ろうと願っていた〔けれども、実際にはそれがかなわなかった〕人びとの集団」とでも、いいかえなければならない。…

この定義は、もちろん極端に簡略化していったものである。漢字を識っているとは、実はそれによってになわれた文化、文物、制度、その他これにかかわる社会的・文化的産物のいっさいを背景にもっている人びとである、ということである。もっとも、そうすると、日本人も、朝鮮人も、それからフランスの入りこむ前のベトナム人も、漢民族であったということになりかねない。これは、今では忘れられがちであるが、日本も、明治になるまでは、公用語は、少なくとも書き物のうえでは漢文であった。しかしそれだからこそ、これらの国々では、民族国家成立の文化的努力は、まず日本語、朝鮮語、ベトナム語といった民族語〔とそれにもとづく書きことば〕の確立、という形をとったのである。いわば、ルーテルがドイツ語で聖書を訳し、ダンテがイタリア語で詩作をしてはじめて、近代的民族としてのドイツ人イタリア人が成立したようなものである。それまでは、ヨーロッパでは、書き物はみなラテン語でなされていて、その間は、われわれの今日理解するような意味とレベルでの近代的な民族意識というものは、存在しなかった。

漢民族とはそういうものであるから、そのなりたち、あり方を論じようとすると、中国大陸、もっと広くいえば東アジア大陸における少数民族の問題と、きりはなしては考えられない。

漢民族のなりたち
…漢民族は、いま確実に知られているかぎりでは、西暦前10世紀ごろ、おそらく西北方の中央アジアから、下図に示すように、「中原地方」といわれる、大陸の中心部に入ってきた(しゅう)という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程のなかで、できあがってきたものである。「中原」とは、べつにここからここまでと決まった地域のことではないが、黄河の中下流域で、古代から漢民族の政治的・文化的中心舞台となった地方をいう。…黄河を中心とする、華北のもっとも肥沃な平原地帯である。この中原地方には、それ以前に(か)といい、(しょう)(のちに(いん))といった人びとの国があったという伝説があり、その存在は今日では疑いないものとして、考古学的にもたしかめられつつあるが、それらの人びとが、われわれの今日にいうような意味での漢民族であったかどうかは、まだ、あまりはっきりしていない。…
…東アジア大陸における状況は、…大局的にみると、構造上の驚くべき連続体をなしている。もって、漢民族の言語とその文化圏が、中原地方を中心とした、何千年にもわたる、周辺民族のいかにゆるやかな同化をはかりつつ成立したものであるかということが、うかがえるであろう。漢民族が、東に夷(い)、西に戎(じゅう)、南に蛮(ばん)、北に狄(てき)という「未開人」を配し、中心に開花した中華の民をすえるという、伝統的な世界像をつくりあげたのも、ゆえなしとしない。しかも、その文化圏は、異常な早熟さを示しているのである。

それには、漢民族の文化がもっともみごとに花を開いた、大唐の世をおもいおこせばよい。その時代(7-9世紀)には、イギリスは、やっと歴史に登場したばかりだし(アルフレッド大王の即位が871年)、わが国では、『古事記』(712)や『日本書紀』(720)が編さんされているところであった。

いわゆる華夷の思想はこうして生まれた。何がその華(漢民族)と夷(周囲の未開人)をわけているかといったら、要するに漢字を受けいれ、その背後にあるいわゆる「中国風」の生活をしているかどうか、「中国風」の農耕経済をいとなんでいるかどうかである。

西北方から中原地方に入ってきた周の人口など、今日からみれば、たかがしれた数であったろう。だから極端にいえば、漢民族とは、そのかなりの数が、このように同化された諸民族であるといってよい。われわれの今日いうような意味の国家などとはケタのちがったスケールで、民族としてのまとまりを考えてきた。相互にことばが通じるとか通じないとかといった問題は、二の次であった。しかしまた、同化民族であったからこそ、逆にその文化的なまとまりは、驚くほど整合的であった。その点だけについていえば、今日のアメリカ合衆国に似ているところがある。一方でアイリッシュ系とかイタリア系とかいった背景をきちんと保持しながら、たちまちに「アメリカン・ライフスタイル」にくみこまれ、そのことばに象徴される文化的な自己規定をしてしまうところは、漢民族のまとまり方によく似ている。…

周辺民族圏
これらの少数民族が、漢民族をかこむ第一次外輪圏をなしているとすると、東アジア世界には、さらにその外をかこむ第二次民族圏があった。東の朝鮮日本や南のベトナムなどが、それである。

歴史的にみると、第一次民族圏にも、その後歴史の舞台から消えてしまったが、西北の高昌(こうしょう)、西夏(せいか)、それから今日にも尾をひく西方のチベット、西南の南詔(なんしょう)(ぺー族)のような、前近代的な意味での国家をつくるうごきがあったが、漢民族的なまとまりをマイクロコズムにした近代国家をつくるのに成功したのは、この第二次外輪圏の諸民族である。

文化的に、ことに制度的に、漢文化を高度に受けいれながら、その文化圏から独立しようとしたために、これらの民族は偶然にも、近代にいたって、「単一民族単一国家」という形をとることになった。しかしそれだけに、漢民族の文化にたいして、つねに愛憎共存するアンビバレンスを保持する特徴がある。前述のように、これらの国々においては、つい近代にいたるまで、漢民族の言語が公用の書きことばであった事実が、今では、ややもすれば忘れられがちなのも、そのためである。

しかし、この公用の書きことばが漢民族の言語であったという事実は、漢民族のまとまり方を理解する上で、かぎりなく重要である。それは、漢民族の文化圏で民族をまとめるコミュニケーション・ネットワークのあり方を、今でもそのまま反映しているからである。…

漢民族のあいだには、バイブルにみられるような、できあいの文句[「はじめにことばありき」]こそないが、「はじめに文字ありき」ということが、強固な、抜きがたい伝統になっている。漢民族にとっては、それはあまりにもあたりまえのことなので、かえって、できあいの文句がないのであろう。

この、書きことばと各地の人びとの実際に話すことばとの乖離(かいり)は、あまりにも長いあいだ支配的であったので、漢民族のあいだですら、漢字によって書かれた言語のほうが、自分たちの口にする言語より本物であった。北京人と上海人、上海人と広東人のあいだにことばが通じなかったということは、そのために、漢民族としてのまとまりに、歴史のうえでは少しも障害にならなかった。

しかし、池になげた小石のえがく輪状波紋形としてとらえられる漢字文化圏のまとまりだけで漢民族をとらえると、われわれは、ことの一面しかみていない危険におちいる.
われわれは、第一次、第二次外輪圏にあらわれた諸民族のうち、北方にあらわれた諸民族の存在を、今まで故意にふせておいた。

漢民族の政治史は、極端にいうと、古代以来北方民族の不断の侵略の.歴史である。第一、周(しゅう)そのものが、西北からの侵入者であり、それ以後でも、4-5世紀に中原に入って北方を蹂躙(じゅうりん)した五胡、5-6世紀の北朝、10世紀の五代、12世紀の遼、12-13世紀の金、13-14世紀の元、17-20世紀の清(しん)と、歴史の主要な変動は、すべて北方からの侵入者によってひきおこされている。一つの例外もない。

北方以外からの侵入は、わずかに西方から8世紀に吐蕃(とばん)(チベット)の長安(今日の西安)侵入があったが、これはほんの一時的なもので、漢民族の形成・発展には、大きなかげをおとしていない。万里の長城が、華南や華西にないのも、ゆえなしとしない。

漢民族の形成をたどる、もう一つの重要な軸――南北の軸――は、こうした淵源をもつ。…なぜそうした側面が生じたかという問題を、ここで考えておこう。その問題にうつると、われわれは、この地球上における人間集団のあり方を、数千年という単位で大きく規定している気象変動と、それによってもたらされる自然環境の変化というものを考えざるをえなくなってくる。…

民族の成立と中国の歴史
…現在の中国、すなわち中華人民共和国の国民の大多数は「漢族」と分類されていて、その他のいわゆる少数民族、チワン族、回族、ウイグル族、イ族、チベット族、ミャオ族、満(満洲)族、モンゴル族などと区別されている。
これでみると、いかにも漢族という名の単一種族が存在しているようにみえるが、それは少数民族との対照の上でそうみえるだけである。漢族がすべて神話の最初の帝王、黄帝(こうてい)の血をひく子孫であるという観念、「黄帝の子孫」としての中華民族という観念が発生したのは、1895年、日清戦争で清朝の中国が日本に敗れ、近代化、西欧化に踏み切ってからのことであって、それまでは、現在「漢族」と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティのかわりに存在したのは、漢字という表意文字の体系を利用するコミュニケーションであって、それが通用する範囲が中国文化圏であり、それに参加する人びとが中国人であった。…

中国人の誕生
…前221年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。

中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。

…中国の都市の特徴は城壁で囲まれていることで、これは1911年の辛亥革命まで、あらゆる中国の都市に共通であり、城郭都市こそが都市であった。「」の本来の意味は城郭都市のことであり、その音は「郭」と共通であって、「中国」とは、もともと首都の城壁の内側のことである。のちに意味が拡張されて、「中国」は首都の直轄下の地域、つまり畿内のこととなり、最後に皇帝の支配権のおよぶ範囲をすべて「中国」と呼ぶようになったが、これは本来の用法ではない。だから「中国」とは、よく誤解されているように、「世界の中心の国」という意味ではない。

城壁の形は、地形にしたがっていろいろであるが、もっとも基本的な形は四面が東西南北にそれぞれ面した正方形で、土をねって築きあげる。四面にそれぞれ門を開くが、正門は南門で、門にはそれぞれ丈夫な扉をつけ、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。城壁の内側は、縦横に走る大通りによって多くの方形の区画に区切られ、もっとも中心の区画は王宮である。…

こうした城門、木戸の夜間閉鎖と、夜間外出の取り締まりは、1921年に清朝が倒れるまで続いた制度であった。首都の城内に住む権利があるのは、役人、兵士、それから商工業者であって、すべて塀に囲まれた坊里のなかの、長屋風の集団住宅に住んで共同生活をしていた。これは兵営都市という印象をあたえるが、実際城壁は「中国」の空間を、外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別する、もっとも重要な境界だったのである。つまり、いかなる民族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人、「華夏」の人だったのであって、中国人という人種はなかった。その意味で、中国人は文化上の観念だというのである。…

中国語の起源
中国語(漢語)と普通、呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽(おお)いかぶさっているにすぎない。…

漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ベトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する福建語、広東語の基層はタイ系の言語である。つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。

ところで漢字は表意文字であって、表音文字ではない。現在、知られている漢字は約5万字であるが、…いずれにせよ、一字一音、しかも一音節が原則となった。ところがいかにタイ系の言語といえど、あらゆる語が一音節からなるということはありえない。そのため、漢字の音は、意味というより、その字の名前という性格のものになってしまう。

こうなると、漢字のもっとも効果的な使用法は、実際に人びとが話す言語の構造とは関係なく、ある簡単な原則にしたがって排列することになる。そうすると、表意文字の体系であるから、言語を異にする人びとのあいだの通信手段として使えることになる。そしてそのように排列された漢字を、それぞれにわりあてた一音節の音で読むと、まったく新しい、人工的な符号ができあがる。こうしてつくりだされた人工的な言語は、日常の言語とはまったく違う、文字通信専用の「言語」となる。これが「雅言(がげん)」である。こうして漢字は、それをつくりだした民族の日常言語から遊離することによって、彼らにとってかわった殷人や周人、また秦人や楚人にとっても有用な通信手段、記録手段になりえたのである。

ところでこうした漢字で綴られた漢文の特徴としてきわだつことは、そこには名詞や動詞の形式上の区別もなく、接頭辞も接尾辞も書きあらわされていない、ということである。この結果、漢字の組み合わせを順次に読み下すことによって成立する、いわゆる「雅言」は、性・数・格も時称もない、ピジン風の言語の様相を呈するが、これは夏人の言語をベースにして、多くの言語、狄や戎のアルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語、マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる。…

中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組みこまれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生みだした言語なのである。
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by satotak | 2009-11-13 20:49 | 民族・国家
2008年 04月 13日

コソボ独立の見えざる背景 -人民自決の今日的意味-

「【正論】コソボ独立の見えざる背景」 佐瀬昌盛 (産経新聞 2008.4.11)より:

国際法の諸則は高尚だが…
 セルビア共和国のコソボ自治州の独立宣言からほぼ50日、独立承認国数が増えている。日本も承認に踏み切った。他方、セルビア擁護のロシアはコソボ独立を国際法違反と決めつけ、だからコソボの国連加盟見通しは立たない。ロシアほど激しくはないが、中国もコソボ独立に反対している。

 ところで、ではコソボ独立の国際法上の準則は何かとなると、わが国の報道は皆無に近い。いや、そんな議論は不要だ、国連憲章第1条2の「人民の自決の原則」(俗に言う民族自決権)がそれに決まっているじゃないか、との声があろう。それは謬論(びゅうろん)ではない。が、ことはしかし簡単ではない。この問題の議論は、将来の国際秩序の根幹にかかわるものだからだ。

 憲章第1条を念頭に国連総会は1966年、2種の国際人権規約を採択した。その第1条はともにこうだ。「すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し、並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」

 1990年代のセルビアによる「民族浄化」の煉獄(れんごく)、それを排除した99年春のNATO(北大西洋条約機構)によるセルビア空爆、同年6月の国連安保理決議1244下での9年間という曲折に照らせば、「人民の自決の権利」こそがコソボ独立の根拠たることは自明である。だが、2月17日発出の長文の独立宣言にはこの原則への言及が全くない。これはなぜだ。

「人民自決」は強調できず
 他面、独立宣言には、コソボ問題で国連事務総長特使を務め、ほぼ1年前に苦心の報告をまとめたアハティサーリの名が8回も登場する。つまり、独立宣言はコソボを将来的にはセルビアともどもEU(欧州連合)の翼で抱擁するとのアハティサーリ構想に導かれたのだ。

 ところで、委曲を尽くしたアハティサーリ案にも、輝かしい「人民の自決の原則」への言及は皆無である。だから、独立宣言はアハティサーリ案ともどもに崇高な「人民の自決の権利」への裏切りだと叫ぶ急進的原理主義組織が、コソボにある。ただ、その報道はわが国にはない。

 独立宣言派やアハティサーリは「人民の自決の原則」を否定したのか。無論、そうではない。彼らは同原則の強調ではなく、非強調の道を選んだまでだ。では、なぜ非強調なのか。国連憲章中のいくつかの理念は、個々にはいかに高尚なものだろうと、脉絡(みゃくらく)なくそれぞれを強調すれば、今日では結果として深刻な相互矛盾を生む。好例が、憲章第1条1の「国際の平和及び安全」の維持と同条2の「人民自決」原則の関係だ。後者の絶叫は前者を危うくする。

 15年前、ブトロス・ガリ国連事務総長は国際社会がボスニア紛争処理を間違うと、アフリカだけでも200の国家が出現しかねず、国連は機能しなくなるとの懸念を語った。同じころ、クリストファー米国務長官は、異なるエスニック集団が一国内で同居する方法を見いださないと、世界は「5000ほどの国家を抱えてしまう」と嘆いた。

 このおぞましいシナリオはまだ退役していない。その回避のため、「人民自決原則」の非強調という知恵が、現代世界にとり必要なのだ。

個別に「最適解」を探す努力
 ロシアのコソボ独立反対の論拠は結局、前述の安保理決議1244がセルビアの「領土保全」を謳っているではないかというにある。確かに「領土保全」は国連憲章やCSCE(欧州安保協力会議=当時)のヘルシンキ宣言などの国際法規範で重視される原則だ。が、絶対的な「領土保全」思想は、そもそも領土関係の変更を理論的に排除しない「人民自決原則」と微妙な緊張関係に立つ。ならば、ここでも純粋原則それぞれの強調ではなく、むしろ非強調に難題処理の実際的方策を求めるほかあるまい。

 六十数年前の国連憲章成立時はおろか、1966年の国際人権規約採択時においても、今日の世界に見るような既存国家からの分離独立志向の蔓延(まんえん)といった事態は予見されていなかった。憲章第1条1「国際の平和及び安全の維持」と同2「人民の自決の原則」とは調和関係にあるはずだった。しかし、そういう牧歌的な時代はとうに終わった。さりとて、それ自体は高尚な後者の原則の廃止は、いまさら不可能である。では、どういう方策があり得るか。

 国際政治の場が無原則であってはならない。が、そこでの現実問題は同じものが2つとはなく、すべて個別的だ。ならば、原則を忘却せず、しかし原則を絶叫するのではなく、個別主義的に最適解を探すこと。世界各地域の分離独立志向を扱うにはこれしかない。
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by satotak | 2008-04-13 12:21 | 民族・国家
2008年 03月 16日

民族を追って 次は何処へ?何を?

「民族は…?」をテーマに、主にテュルクとモンゴルについて見てきたが、早2年が経ってしまった。そして何が分かったのか? 残念ながら「民族」の輪郭が益々ボヤケてくるばかり。
敢えて言うとすれば、仏の教えに擬えて、「民族即是空:民族には実体がない」と言ったところか。

明確な領土と国境そして国民の存在を前提とした近代国家(国民国家)の中で民族はどんな意味を持つのか。「民族自決」とは言うけれど、この「民族」は日本独自の用語とか。本来は「民族自決」ではなく、「人民(people)自決」ではなかったのか。

しかし、こんな言い草を、故郷を捨て家族を悲しませてまで、東トルキスタンの独立を夢見て運動しているウイグル人が聞いたら、何と思うことだろうか。


「民族」の輪郭は益々ボヤケてくるばかりなのだが、では次は何に焦点を当ててみようか?また今年の旅行はどこにしようか?
インド…シベリア…沿海州…西モンゴル…新疆北部?

インド:大分前に載せたことがあるが、インドにムガル朝を建てたバーブルはチムール朝出身のテュルク=モンゴル系の人物であった。これは16世紀のことであるが、それ以前にインドにあった奴隷王朝と言われる国もテュルク系の人々が興したものであったらしい。これは面白いと思ったが、しかし適当に詳しくて手ごろな文献が見つからず、私の手には負えそうもない。

シベリア:中国、モンゴル、カザフスタンの北に連なるシベリア南部は当然古くからのテュルク=モンゴル系民族の活躍の場。現在でも、トゥヴァ共和国など、テュルク=モンゴル系民族の名称を付したロシア連邦内の共和国が存在する。しかしこちらも手ごろな文献は見つからず、関心のある地域を訪ねるパックツアーもないようだ。

沿海州:テュルク、モンゴルとはちょっと離れるが、「デルス・ウザーラ」を追ってみるのも面白そうだ。大分前にテレビの深夜放送で見て、気になっていた黒澤明の映画、題名も分からぬままでいたのだが…調べてみると、「デルス・ウザーラ」。ツングース系の猟師デルス・ウザーラを主人公としたこの物語(ノンフィクション)はもちろんのこと、作者のロシア人アルセニエフとその家族の人生も興味深い。時代は20世紀初頭、舞台はハバロフスク、ウラジボストク東方、日本海に面した山岳地帯。こちらは資料もいろいろとある…映画のDVD、アルセニエフの著作の翻訳本、岡本氏のマニアックな著作。しかし…またの機会に後回し。

ジュンガリア(新疆北部):1755年、最後の遊牧帝国と言われるジュンガルが清に滅ぼされた後、ジュンガルが支配していた人々や土地はどうなったのだろうか。
現在の中国新疆ウイグル自治区は東トルキスタンとも呼ばれ、そこに住む民族と言えばテュルク系民族であるウイグル族がまず頭に浮かぶ。しかし実際はどうだったのか。天山山脈の南と北では事情が異なると思うが、天山山脈の北、ジュンガリアはもともとモンゴル系やカザフ系の人々が遊牧していた土地ではなかったか。
カシュガル方面には何度か行ったことがあるので、今年はジュンガリアに行ってみようか。できれば西モンゴルからアルタイ山脈を越えてジュンガリアに抜けるコースがあれば…と思ったが、見つからない。
そんな訳で、今年の旅行は、西安~トルファン~ハミ~バリコン~ジムサル~アルタイ~カナス湖~ウルホ~精河~イーニン~ウルムチ~西安というコースに申込もうと思っている。6月19日出発の予定だが、参加者が集まるかどうか。
ジュンガリアの北端にあるカナス湖も、最近は観光開発が進み、中国人観光客が多いとか。あまりゾットしないが、これもジュンガリアの現実と諦め、現実を直視してくることにしよう。

現代のウイグル族と言えば、カシュガルのエイティガル寺院を持ち出すまでもなく、イスラム教徒として知られるが、18世紀のカシュガルやヤルカンドも同じこと。これら諸都市の実権を握っていたのはホージャと呼ばれるイスラム教の宗教貴族だった。しかしイリに本拠を置くジュンガルは違った。チベットから青海、モンゴル、ジュンガル、そして遥かボルガ川沿いのトルグートまでがチベット仏教の勢力圏だった。現代のジュンガリアに仏教はあるのか。

「チベットのラサで暴動 僧侶がデモ」と昨日から報じられている。北京オリンピック開催の今年、中国で何が起こるのか。
中国における「民族」も分かり難い。「民族識別」による56民族とか、「民族区域自治」に基づくという複雑な行政区の構成…そして、そもそも「漢族」とは何なのか?

こんなことも含めて、これから数ヶ月は、ジュンガリアにフォーカスしてみたい。
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by satotak | 2008-03-16 12:47 | 民族・国家
2007年 10月 26日

ブハラを去る人々 -ウズベキスタンのユダヤ人-


NHK編著「新シルクロード 激動の大地をゆく<上>」(NHK出版 2007)より(筆者:矢部裕一):

◆中世シルクロードの都
…ウズベキスタン西部に位置し、世界遺産にも登録されているブハラは、中世シルクロードの面影を今も色濃く残している街です。…
しかし、そうしたイスラム建築の遺跡以上に中世の雰囲気を濃厚に感じさせてくれるのが、ブハラの旧市街です。
普通の人々が今も暮らしている旧市街は、迷路のように入り組んだ細い路地の両側に白い壁がどこまでも続いていて、その中に入り込むと、急に静寂があたりを覆い、時間がゆっくりと流れていくように感じられます。
この旧市街にある人々の住む家は、およそ100年から150年前に建てられたものが多いと聞きました。
中を見せてもらうと、壁や天井にはおそらくイスラムに由来していると思われる色鮮やかな模様が描かれています。
こうしたこの地方の伝統的な建物は、私たちから見ればそのまま遺跡といってもよいようなものですが、その古い家でブハラの人々は当たり前のように毎日の暮らしを送っています。

◆ブハラのユダヤ人
ブハラの強い日差しに照らされて反射する白い壁に沿って、ひと気のない路地をしばらく歩いているうちに、意外なものを見つけました。
ユダヤ教の礼拝所、シナゴーグです。
ブハラには昔から、そして今も、ユダヤ人が暮らし、コミュニティーを作ってきました。今でも、ブハラに住むユダヤ人が毎朝そのシナゴーグに集まり、礼拝を行っているといいます。
シナゴーグを見て意外と感じたのは、きっと私たちが、ブハラを中世におけるイスラム文化の中心地であったとする観光ガイド的な認識にとらわれていたからでしょう。…
しかしブハラの人々にとってみれば、旧市街の片隅にシナゴーグがあることは何も意外なことではないはずです。何故なら、ブハラは何世紀も昔から、様々な土地から様々な民族がやってきては住み着いてきた、まさにシルクロード的な街だったからです。

ブハラは、パミール高原に源を発するザラフシャン川によって形作られる豊かなオアシスでした。東は中国、北はロシア、西はヨーロッパ、南はインドというように、長い歴史にわたってユーラシアの東西南北を結び、大陸を行き交うキャラバン隊の重要な拠点になってきました。
その結果、ユーラシアの各地から交易を通じて様々な民族がやってくることになったのです。

…そして、今もこの街に暮らす様々な民族こそ、ブハラがシルクロードの要衝だった何よりの痕跡といえるかもしれません。
イラン人、アラブ人、ロシア人、そしてユダヤ人。
ユダヤ人は、おもに13世紀頃、イランやアフガニスタン経由し、シルクロードをたどって中央アジアにやってきた交易商人の末裔といわれています。

◆民族が共存する街
その昔、旧市街の中でユダヤ人は自分たちの居住区を作り、ウズベク人やタジク人などのイスラム教徒とは混住せずに暮らしていたといいます。
しかし、同じ旧市街の中でわずかに細い路地を隔てて共に暮らしていくうちに、いつからかお互いの文化や習慣が混じり合っていったようです。
ウズベク人やタジク人の女性は、伝統的に眉がつながってみえるような化粧をすることで知られています。ブハラでは、高齢のユダヤ人女性も、ウズベク人やタジク人と同じように眉をつなげる化粧をしています。若いユダヤ人女性でも、結婚式には同じように眉をつなげるのだと聞きました。

…もちろん宗教的なことはそれぞれお互いに大事に守っているし、イスラム教徒とユダヤ人が結婚することはないといいます。
それでも、ソ連時代の70年を経たせいか、今ではユダヤ人が住むエリアとウズベク人、タジク人などのイスラム教徒が住むエリアが、線引きできないほど混じり合うようになっています。
そして、お互いに隣人として普通の近所づきあいを続けています。…

◆ブハラを去るユダヤ人
しかし、ブハラで垣間見たユダヤとイスラムの共存の姿も、実はだいぶ前から状況は大きく変わってきていました。
ブハラのユダヤ人の多くが、街を去っているのです。
ブハラを去ったユダヤ人は、そのほとんどがイスラエルとアメリカに移住して行ったといいます。

かつて、ブハラにどのくらいのユダヤ人が住んでいたのか、その正確な数字を求めるのは難しいのですが、少なくとも2万人のユダヤ人がこの旧市街を中心に暮らしていたといわれています。そして、私たちがブハラを訪れた2006年時点で、ブハラに住むユダヤ人はおよそ150人ほどに激減していました。…
いつ頃、ブハラからユダヤ人が去っていったのでしょう。
ユダヤ人の移住の大きな波は、1980年代以降、ふたつあったといいます。

ひとつ目は、ペレストロイカの時代である1980年代末です。
この時期、ペレストロイカによって、ユダヤ人がソ連からイスラエルやアメソカに移住することが、それまでより容易に認められるようになりました。そのため、ソ連に留まるより豊かな西側での暮らしを求めて、大勢のユダヤ人が移住していきました。

◆ウズベキスタン建国とマイノリティー
ふたつ目の移住の波は、ウズベキスタンが建国した1991年以降の数年間に起こりました。なぜ、この時期に再び大勢のユダヤ人が移住していったのかについては、いくつか理由が指摘されています。

ひとつには、経済的な理由があります。
独立後、ウズベキスタンもまた経済混乱に襲われていたため、もっと豊かで安定した生活が送れるところを求めて、ユダヤ人が移住していったといわれています。
もうひとつの理由として指摘されているのは、ウズベク人の民族意識の高揚がユダヤ人の移住の背景にあったということです。
ソ連が崩壊しウズベキスタンが誕生したことで、ウズベキスタンはウズベク人の国であるという認識が人々の間にゆっくりと浸透していきました。ウズベキスタン政府もまた、そうしたウズベク人の民族意識を高めるため、教育の現場などでウズベク人の民族の誇りを形成させるような歴史教育を行ってきました。

建国以降のこうした動きの中で、ウズベク人以外の民族は、自分たちがこの国ではマイノリティーになってしまったと感じはじめたといいます。
この感覚はとても微妙なもので、国がウズベキスタンになったからといって、あからさまな差別が急に行われるといったことは、少なくともブハラでは、ほとんどなかったといいますし、それまで隣人として親しく付き合ってきたウズベク人、タジク人とユダヤ人との人間関係も、ほとんど変わることなく続いていたといいます。
それでも、それまで同じソ連の国民として、まったく同じポジションにいた人々の間に、少しずつ段差のようなものが生まれ始めていったようです。
そして、この民族共存の長い歴史を持つブハラでさえ、ユダヤ人が住みづらいと感じるような空気が、かすかに少しずつひろがっていったといいます。

◆ユダヤコミュニティーの崩壊
…B&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)と呼ばれる小型のホテルが、旧市街の至るところにできていました。
中を見せてもらうと、100年前の伝統的な家の装飾をそのまま残した、雰囲気のある造りになっています。泊るのはブハラを訪れる観光客で、そうした歴史を感じさせる部屋が観光客の人気を集めているといいます。こうしたホテルのほとんどが、元はブハラを去っていったユダヤ人の家なのだそうです。
本来、普通の人々の普通の生活の場だったブハラの旧市街も、こうやって櫛の歯が欠けていくように、少しずつ観光地とされていくのかもしれません。

何人ものユダヤ人の話を聞いて歩くうちに、分かってきたことがありました。
今、ブハラに残っているユダヤの人々も、そのほとんどがいずれブハラを去ろうと考えているのです。まだブハラに留まっているのは、意識的に故郷を離れないようにしているのではなく、主に経済的な理由で仕方なく残っているのであって、家が売れ次第、あるいはお金が用意でき次第、すぐにでもイスラエルやアメリカに移住したいと考えている人がほとんどです。
彼らに、どうして移住したいと思っているのか、その理由を尋ねると、ここまでユダヤ人の数が減ってしまうと、ブハラはもうユダヤ人の暮らす場所ではなくなってしまったから、という答えが返ってきました。
長い歴史の中で綿々と続いてきたブハラのユダヤ人のコミュニティーは、すでに崩壊しつつありました。そして、その流れが逆戻りすることはおそらくありえないだろうと、ユダヤの人々の話を聞いていると、思えてきました。…

◆失われる共存
そう遠くない将来、ブハラのユダヤ人はおそらく一人もいなくなるでしょう。
それが、ブハラに残るユダヤの人々の話を聞いて歩いた私たちの率直な感想です。
数世紀にわたって、イスラムとの共存を当たり前のように実現してきたブハラのユダヤ人が、今ゆっくりと、静かに、人知れず消えようとしています.
シルクードによってもたらされた豊かな世界が、ここでは失われようとしているのでした。

それまでソ連の一部だったウズベキスタンがひとつの国として独立したことで、新たに国境が生まれ、ウズベキスタンという国家の独自の歴史が語られ始め、その民族の誇りが強調されていきました。そうやって国の輪郭がせり上がっていったことによって、シルクロード的世界が逆に寸断されてしまったようです。
ユダヤの人々が見えない境界線によって隔てられ、移住を余儀なくされているよう思えてきました。
かつての豊かなシルクロード的世界を象徴していたブハラのユダヤ人が、今、終焉を迎えようとしています。
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by satotak | 2007-10-26 11:41 | 民族・国家
2007年 09月 20日

ロシア連邦のアイデンティティ –National Identity Crisis-

兵頭慎治著「多民族連邦国家ロシアの行方」(東洋書店 2003)より:

ロシア連邦の概要
…現在のロシア連邦は、1991年12月に約70年存続したソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連邦)が消滅して誕生した。ソ連邦は15の共和国から構成されていたが、その中の一つであるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(以下、ロシア共和国)の領土を継承して、新しいロシア連邦が生まれた。

ソ連邦の面積は地球の陸地面積の6分の1にあたる2,240万平方キロメートルであったが、現在のロシア連邦はソ連邦の約4分の3にあたる1,707万平方キロメートルに縮小した。それでも、国家面積は依然として世界一(日本の約45倍、米国の2倍近く)であり、東西約9,000キロメートル、南北最大約4,000キロメートルにわたり、北は北極海、南は中国、モンゴルに接し、ウラル山脈を境にして欧州とアジアにまたがるユーラシア国家である。…

現ロシア連邦の人口は約1億4,400万人(2002年現在)と日本より若干多い程度であり、ソ連邦消滅直前の人口2億8,860万人(1990年現在)から半減したものの、それでも世界で六番目に人口が多い。しかしながら、ロシア連邦の人口は、高い死亡率と低い出生率により、92年をピークとして毎年75万人ずつ減少しており、2050年には1億の大台を割り込むことが予想されている。

ロシアは、100以上(少数民族を厳密に数えると140以上)の民族からなる多民族国家であり、総人口の81.5%をロシア人が占め、トルコ系のタタール人(3.8%)、ウクライナ人(2.9%)、チュヴァシ人(1.2%)、ダゲスタン人(1.2%)と続いている。しかも、国外に母国を持つドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人、モンゴル人、朝鮮人、中国人も存在する。

ロシア人が多数を占めるといっても、「自称ロシア人」や「混血ロシア人」もかなり多い。ソ連時代には民族の属性を政府に登録する制度があり、国内の身分証明書にも民族名が記載されていた。異なる民族の父母から生まれた子供は、父母のいずれかの民族を選べたため、差別的な扱いを避けるためにロシア人を選ぶ者が多かった。93年に制定された「ロシア連邦憲法」でも、自分が何民族であるのかは各個人が決定できると規定しており、2002年10月に、ソ連邦消滅後はじめて実施された国勢調査…においては、民族属性は自己申告方式であった。

多民族国家を反映して、宗教も多様である。ロシア国民の多くはロシア正教の信者であるが、それ以外にも、キリスト教諸宗派、イスラム教、仏教、ユダヤ教等が存在する。2002年末に実施された世論調査によると、「ロシア正教」を信仰する割合は69%、「キリスト教諸宗派」が3%、「イスラム教」が2.5%、「仏教」が0.4%、「その他の宗教」が1%だった。また、無神論は22%であった。…

決定的な国家統合の要素が欠如
91年12月にソ連邦が消滅し、ロシア共和国も新たな主権国家となったが、ソ連時代のような、国家統治の手段としての一党独裁体制も、[共産主義という]人工的なイデオロギーも失ってしまったため、新生ロシアは、新しい国家統合の要素を見いださなければならないという「ナショナル・アイデンティティ・クライシス」に陥った。

ナショナル・アイデンティティ」とは、自らの領土範囲や憲法観といった国家の基本構造、国家の民族的、宗教的、歴史的、文化的なアイデンティティを導くものである。かつてのロシア共和国の領土に依拠するロシア連邦は、「セルフ・アイデンティティ」、すなわち自国の存在論拠と自己同定の確立に真正面から取り組む必要に迫られた。そもそも歴史的にロシアとは何か、誰がロシア人で、どこまでがロシアなのか。しかも、なぜロシアがソ連時代の一構成共和国であるロシア共和国の領土に限定されるのか。なぜロシアは一国でなければならないのか。異民族とロシア人との関係はどうなるのか。こうした解決困難な問題に、ロシア連邦は直面した。

しかも、旧ソ連から独立したCIS(独立国家共同体)諸国には、ウクライナの1,200万人を筆頭に、約2,500万人のロシア人がとり残されたため、「在外ロシア人」と呼ばれて問題となった。現在では、約800万人の「在外ロシア人」がロシア連邦への帰還を果たしたといわれているが、依然として多くのロシア人が諸外国にとり残されている。このような「在外ロシア人」の存在は、ソ連時代に、ロシア共和国以外の非ロシア系の共和国に多くのロシア人を送り込むことで、ソ連邦の求心力を高めて、多民族国家を統治しようとしたことに起因している。

ロシア連邦の現行の国境線内に限定される、国家統合の要素を見いだすことは容易ではない。確かに、現ロシア連邦におけるロシア人の比率は、ソ連時代の52.4%(1979年現在)から81.5%(2002年現在)へと高まったが、それでもソ連邦と同じ多民族国家という点に変わりはなく、「ロシア人」というアイデンティティだけをもって、ロシア連邦の求心力とするには無理がある。

このように、現在のロシア連邦には絶対的な「ナショナル・アイデンティティ」が欠如しており、それゆえに国家のレジティマシー(正当性)に対する疑念が生じている。このことがチェチェン(ロシア語読みではチェチニャ)をはじめとする民族の分離主義の動きを誘発している。例えば、面積も小さく、人口約150万人のエストニアがソ連邦から独立したにもかかわらず、面積はエストニアよりも広く、人口も370万人を超えるタタルスタンは、なぜ自前の国家を築くことができないのかという疑問である。

連邦制度の特徴
…ロシア連邦は、89の地方単位から成り立っている。ロシア連邦を構成するこうした地方単位のことを、総称して「連邦構成主体」と呼ぶ。「連邦構成主体」の数も89と多いが、種類も六つあり、かなり複雑である…。(注1)
まず、民族自決を理念とした民族的原理に基づく21の「共和国」、一つの「自治州」(ユダヤ自治州)、10の「自治管区」がある。

共和国」の約半数には大統領が存在し、自らの共和国憲法を有している。これらの「共和国」は、非ロシア系民族の伝統が強いものの、共和国内の民族比は必ずしも自民族が多いとは限らず、ロシア人が多数を占めているところもある。例えば、フィンランドに接する「カレリア共和国」では、共和国人口の約7割をロシア人が占め、カレリア人は約1割しかいない。

さらに極端な例を示せば、極東地域には「ユダヤ自治州」が存在するが、約20万人の人口の約8割はロシア人であり、ユダヤ人の比率は5%にも満たない。…
ソ連時代下のロシア共和国に内在した五つの自治州のうち、現在では、この「ユダヤ自治州」を除いたすべてが「共和国」に格上げされている。

自治管区」は、「共和国」や「自治州」より、さらに小さな少数民族による自治単位であり、例えば、東シベリアの極北に位置する「タイムイル(ドルガン・ネネツ)自治管区」および「エヴェンク自治管区」は、クラスノヤルスク辺区に属し、民族比はいずれもロシア人が約7割を占め、人口密度も小さい。

次に、地域的原理に基づく連邦構成主体が、六つの「辺区(クライ)」と49の「州(オブラスチ)」である。これらの主体は、ロシア人の居住地を地理的に区分した単位である。「辺区(クライ)」は「地方」と訳されることもあるが、一般名詞の「地方」と混同するため、本書では「辺区」と訳す。

辺区」は、ソ連時代においても、ロシア共和国のみに存在する行政単位として存在し、「州」よりも面積が若干大きい。日本の「県」に対する北海「道」のようなものである。代表例としては、89の連邦構成主体のなかで、「サハ(ヤクーチア)共和国」に次いで面積が広く、…東シベリアの「クラスノヤルスク辺区」である。…

州」の代表例としては、最西端に位置するロシア連邦の飛び地「カリーニングラード州」や北方領土を抱える「サハリン州」、…。

「辺区」や「州」の多くには、行政長官にあたる「知事」が存在し、自らの最高法規にあたる「憲章」を有している。

さらに、首都「モスクワ市」(人口約830万人)とロシア第二の都市「サンクトペテルブルグ市」(人口472万人)の二つが、「連邦的意義を有する都市」として、独立した連邦構成主体として数えられており、行政長官は「市長」である。

また、これらの連邦構成主体の下部単位として、都市部では「」、農村部では「」や「(セロ)」、モスクワとサンクトペテルブルグ市には「行政地区」などがあり、これらを「地方自治体」と称している。すなわち、ロシアの連邦制には、「連邦政府(中央)レベル」、「連邦構成主体レベル」、「地方自治体レベル」の三つの権力レベルが存在する。

ソ連時代の行政単位を継承
これら六種類の連邦構成主体は、基本的に、ソ連時代に作られたロシア共和国内の行政単位をほぼそのまま継承している。人口約830万人を有する首都「モスクワ市」から人口約2万人の「エヴェンク自治管区」まで、各々の連邦構成主体が有する民族的特徴や経済的ポテンシャル、人口や面積は千差万別であるにもかかわらず、ロシア連邦を構成する主体として、非合理ではあるが、憲法上、互いに同権であると位置付けられている。

ソ連時代には、民族的原理からなる行政単位として、①15の「ソ連邦構成共和国」、②構成共和国に内在する「自治共和国」、③「自治州」、④「自治管区」の4つのレベルが存在した。ソ連邦が形成される過程において、①の「ソ連邦構成共和国」の成立要件としては、一定地域に居住する民族の人口が100万人以上であり、その民族が当該地域の人口の過半数を占め、さらにその地域が外国に接しているという条件があった。しかしながら、この条件が適当であるかどうかは別としても、②の「自治共和国」以下の成立要件に関しては明確な原理原則はなく、1918年のロシア共和国憲法制定過程において、一方的な布告により形成された側面が強い。これは、当時のソ連が、ロシア帝国とそれによって征服された諸民族の集まりという歴史的性格を有していることと関係している。

ソ連時代には、共和国の形成が認められた「民族(ナーツィヤ)」と「準民族(ナロードナスチ)」の区別があったが、その基準は恣意的であった。なぜなら、マルクス主義思想により、民族的な差異はいずれ解消されていくと考えられていたためである。現タタルスタン共和国は、たまたま外国に接していなかったために、ソ連時代に②の「自治共和国」のステイタスしか付与されなかった。そのため、ソ連邦が消滅した際にはロシア連邦内にとり残され、独立を果たすことはできなかった。他方、タタルスタンの人口の半分以下であるエストニアは、①の「ソ連邦構成共和国」のステイタスを獲得していたため、ソ連邦が消滅するプロセスにおいて、主権国家として独立を果たすことが可能となった。

このように、現ロシア連邦は、ソ連時代の行政区間をそのまま継承しているため、ロシア連邦の89の「連邦構成主体」は、非合理かつ非対称な存在である。

「主権宣言」のバレード
ソ連邦消滅からロシア連邦誕生までの道のりは、必ずしも平坦ではなかった。

85年にはじまったゴルバチョフによるペレストロイカ(建て直し)により、ソ連時代に抑えられていた民族主義が一気に噴出し、88年から89年にかけて、バルト3国やアゼルバイジャン、グルジア共和国をはじめとして、ソ連邦を構成していた共和国があいついで「独立宣言」をおこなった。さらに、90年6月12日にはロシア共和国、7月16日にはウクライナ共和国が主権を宣言し、90年末までにほとんどの旧ソ連邦構成共和国が「主権宣言」をおこなった。一般的に、「主権宣言」とは独立宣言を意味するが、建前上、ソ連邦を構成する15の共和国は、もともと主権国家であると憲法規定されていたため法的には、これらの動きは自らの「主権性」の確認をおこなったにすぎない。

こうした動きを受けて、チェチェン・イングーシ自治共和国(後にチェチェン共和国とイングーシ共和国の二つに分離)をはじめとして、ロシア共和国に内在する「自治共和国」の多くも「主権宣言」をおこなう。ただし、「ソ連邦構成共和国」とは異なり、これら「自治共和国」は形式的にも主権国家の位置付けではなかったため、まさしく当時のソ連邦を否定する動きであった。

当時、ロシア共和国最高会議議長であったエリツィンは、「望むだけの主権をとりたまえ」と豪語して、ロシア共和国に内在する「自治共和国」に対して、ソ連邦からの権限剥奪を奨励した。当時のエリツィンは、ソ連時代の中央集権体制を打破しようと考えていたため、ソ連邦が手放す権限は多ければ多いほどよいと考えていた。そこで、90年6月12日に布告されたロシア共和国の「主権宣言」…
さらに、ロシア共和国は、90年12月に、この「主権宣言」の内容を盛り込んだ形で憲法を改正して、翌年の5月に大統領制を導入する。そして、ロシア共和国が「主権宣言」をおこなったちょうど一年後にあたる翌91年6月12日に実施された自由選挙において、エリツィンが初代ロシア大統領に選出された。ロシア共和国が主権を宣言し、ロシア・ソ連史上はじめて国家元首が国民から直接選ばれた「6月12日」という日付は、現在では「独立記念日」と称され、ロシア連邦の祝日となっている。

こうして、ロシア共和国内の自治共和国にも広がった「主権宣言のパレード」は、91年末までに25の「自治共和国(現共和国)」、「自治州」、「自治管区」に及んだ。「自治共和国」の多くは、「ソ連邦構成共和国」への格上げを主張して、共和国の名称から「自治」を削除した。こうした「主権宣言」の動きは、当初はソ連邦に対して向けられていたが、ソ連邦消滅後はロシア連邦に向けられることとなり、91年六月にロシア大統領となったエリツィンは、権限を奪う側から奪われる側に立場が逆転し、今度はロシア領内の権限剥奪の動きへの対処を迫られた。

こうしたあいつぐ「主権宣言」による分離主義的な動きに対応するため、91年末のソ連邦消滅の直前、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領は、従来のソ連邦よりも緩やかな体制である新しい連邦条約の締結を目指し、ソ連邦の構成共和国のみならず、構成共和国に内在するすべての「自治共和国」に対して、新しい連邦の構成主体となる権利を認める法律を採択した。そして、八つの「ソ連邦構成共和国」およびトルコ系のタタルスタンをはじめとするロシア共和国内の16の「自治共和国」が仮調印までおこなったが、その後の8月クーデター、ソ連邦解体、独立国家共同体(CIS)の誕生により、ソビエト連邦の再編は実現しなかった。もし、ゴルバチョフの目指すソ連邦の再編が実現していれば、ロシア共和国内の「自治共和国」はロシア共和国から分離する可能性があったことは理解しておく必要がある。…

(注1) ロシア連邦の地方区分
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by satotak | 2007-09-20 12:12 | 民族・国家
2007年 09月 07日

民族自決と人民自決 –自決権の主体-

中野 進著「国際法上の自決権(普及版) [法律学講義シリーズ19]」(信山出版 1997)より:

自決権の主体は、「民族」又は「人民」なのであろうか。「人民」の定義、特に「人民」と「個人」との関係は、いかなるものなのであろうか。即ち、自決権は集団的権利なのであろうか又は個人的権利なのであろうか。仮に、集団的権利であるとするならば、その集団は、例えば特定の民族又は特定の言語集団などである必要があるのであろうか。

自決の原則を規定し、自決権成立過程の基礎ともいえる国連憲章においては、第1条第2項及び第55条で、「諸人民(peoples)」という文言が使用され、前文においては「すべての人民(all peoples)」という文言が使用されているが、…

…以上、自決権に関する条約及び宣言などをみてきたが、この他にも、国連がその実践過程において、ナミビア人民のような植民地人民のみならず、南アフリカ共和国国民のような1国家内の国民も自決権を有していることを認めているということも考慮すれば、現在、国連及びその加盟国などがいうところの自決権の主体は、「すべての人民」、即ち『植民地人民及び1国家内の国民』.であると考えるのが妥当ではなかろうか (なお、自決権の主体に関する学者の見解は、…自決権承認の時期の問題とも関連して、必ずしも明確なものとはなっていないが、植民地人民のみならず国民も自決権の主体として考えられる傾向にあるといってもよいのではなかろうか)。

そうして、法理論的には、国民が1人という国家もあり得るのかもしれないが、実際には複数の国民・人民によって国家が構成されているということからすれば、「すべての人民」の自決権は、一般的には、集団的権利として考えられているといえよう。しかし、確かに、自決権行使の形態としては集団的権利として行使されるが、自決権を行使するのか否か又どのような形態で行使するのかということに関する最終的な個々の決定 (例えば住民投票又は議会の構成員を選出する投票) は個々人が行なうのであるから、自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民ではなかろうか。このことは、『自決権行使の法理論上の単位は個人』であるということを意味する。

「植民地支配下の人民にとっては、歴史的伝統的な個々人の人権は、そもそも彼ら人民にこのような自決権が認められなくては真実なものとならない。その意味で、植民地人民にとって、人民自決の権利は、すべての人権を真に人権たらしめる前提となる基本的な権利、いわば基本的人権中の基本権である。」とする高野教授の見解は、植民地人民に関してのものであるが、同様のことは、国民に関してもいえるのではなかろうか。国際人権規約共通前文は、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等の且つ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め」ているが、「自決権が基本的人権中の基本権」であるならば、なおさら、自決権は「人間の固有の尊厳に由来」し且つ自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民であるということが認められてこそ、初めて「歴史的な個々人の人権は真実なもの」となるのではなかろうか。特に、,,東チモール問題及び西イリアン問題…のような問題の再発防止のためにも、住民の“代表”とされる者達による自決ではなく、個々人による自決を重視すべきであろう。即ち、確かに自決権の行使形態は集団的なものであるかもしれないが、前述の再発防止のためにも、少なくとも法理論上は、個人としての人民が自決権の主体であるという、いわば“歯止め”が必要とされるのではなかろうか。

従って、自決権を行使する際の単位は、特定の民族、部族、言語集団、宗教集団等であることは必ずしも必要ではなく、個々人の自決権に基づいて集団として一定の形態で自決権を行使すると決定した集団であればよいのではなかろうか。

特定の集団である必要はないということに関しては、宮崎教授も、国際人権規約共通第1条に規定されている自決権を行使できる「人民」の範囲に関する解釈として、「言語、習慣、種族などを共通にする『民族』『人種』などに限定されず、政治的に帰属を決定し、経済的・社会的・文化的発展を自由に共同に追求しようとする一定地域の人民であれば、自決権が認められると解される。このような解釈については、国内の分離運動を鼓吹し、国家的結束を弱めるものとして反対も予想されるが、真に自由な意思に基づくものであるかぎり、自決権は広く、どの人民にも認められるべきであろう。」と述べている。
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by satotak | 2007-09-07 20:02 | 民族・国家
2007年 08月 30日

中央アジアにおける民族領域の変遷 (1918-1936)

岩崎一郎・他編著「現代中央アジア論」(日本評論社 2004)より(筆者:地田徹朗)):

1922年のソ連邦の形成は「民族自決」の原理に基づき、各民族の領域的自治による連邦制という形式を取った。ソ連邦結成当時の中央アジアの行政区分は、民族区分とは関係ない帝政ロシア時代のものをほぼ引き継いでいたため、それを改変していかにして「民族領域」を画定させるかが焦眉の課題となった。パン・テュルク主義的な「統一トルキスタン」を目指す構想(ルスクロフらの「テュルク・ソビエト共和国」構想)、中央アジアの経済的統一性を保つために「中央アジア連邦」を創設すべきだというホジャノフの議論など、「民族」原理での領域画定への反対論も存在していたが、それは中央アジアの政治エリートの間では少数派だった。

ただし、様々なエスニック集団が混住する中央アジアでは、はじめに領域を付与すべき「民族」そのものを画定する必要があった。「カザフ人」には1920年にすでに民族領域が付与され、「クルグズ人」は1922年にカザフ自治共和国からの分離を要求していた。それ以外にも、ウズベク、サルト、タジク、テュルク、キプチャク、カラカルパク、タランナ、クラマといったエスニック集団が混在し、カシュガルルク、ブハラリクなど都市名で白らを判別する人々もいた。これらのうち、元来は区別されていたサルトとウズベクは同一民族と見なされて「ウズベク人」に統合された。そして、「カザフ人」、「クルグズ人」、「ウズベク人」政治エリート各々が、テュルク、キプチャク、カラカルパク、クラマといったエスニック集団の自民族との近接や同一性を主張した。1926年に行われた第1回全ソ人口調査ではこれら42のエスニック集団も民族名称として残ったが、1939年の人口調査では、自治共和国を付与された「カラカルパク人」を除き、全て「ウズベク人」に統合されている。また、「ウズベク人」政治エリートは、サマルカンドやブハラなどのペルシア語系話者についても「タジク人」ではなく「ウズベク人」だと主張した。

このような政治エリート自身が「民族」を奪い合うという様相は、今度は自らの「民族」定義と合致する「民族領域」の奪い合いに発展した。1924年10月に民族・共和国境界画定の基本的な枠組みが完成するが、その後も共和国・自治共和国・自治州民族エリートは国境地域の民族分布や交通・水利面での経済的合理性など様々な理由を持ち出し、自民族に最大限の領域を確保すべくモスクワに異議申立を行ってゆく。そして、このような国境をめぐる対立は必然的に係争地の民族間関係を悪化させることになった。1936年に最終的に確定する中央アジア5共和国の形成に至るまでの民族領域の変遷については下図を参照されたい。


[拡大図]

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by satotak | 2007-08-30 19:41 | 民族・国家
2007年 08月 24日

中央アジアの国境 -ソ連の民族別国境画定-

岩下明裕編著「国境・誰がこの線を引いたのか ―日本とユーラシア」(北大出版会 2006)より(筆者:帯谷知可):

国境線の変遷 ―三つの契機
近現代におけるこの中央アジアの国境線の変遷を考える場合、大きく分けて三つの契機があったといえるでしょう。

その第一の契機は、帝政ロシアによる中央アジアの征服です。帝政ロシアはシベリアを征服した後に、今度は南へ向かってどんどん拡大しました。19世紀の初めぐらいからカザフ草原へ南下し、徐々にこれを征服していきます。そこに要塞線を築き、それ基地として、19世紀の後半には、中央アジア南部の、定住民の暮らす地域に本格的に進出してくるわけです。この地域では当時、コーカンド・ハン国ブハラ・アミール国ヒヴァ・ハン国という、一般にウズベク三王朝などとも呼ばれますが、それぞれウズベク系の支配者の君臨する王朝が三つ巴という状況でした。このうちコーカンド・ハン国は、完全にロシアに征服されます。これを解体して、フェルガナ州が形成されました。ブハラ・アミール国とヒヴァ・ハン国については、完全征服はされず、君主を残したかたちで保護国化されました。1867年にはタシュケント(現在のウズベキスタンの首都)にトルキスタン総督府が設置され、以後中央アジア南部地域統治の中心となりました。元来この「トルキスタン」という言葉は「テュルク(トルコ)系の人たちが住む場所」という意味で、歴史的な地理概念・地理名称ですが、明確な境界線をもったものではありませんでした。しかし、このロシアの中央アジア征服とトルキスタン総督府設置によって、「トルキスタン」は初めて具体的な境界線をもった領域を指すことになったのです(地図3-1、3-2)。


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第二の契機は、…中央アジアの民族別国境画定です。ロシアの中央アジア征服からほぼ50年を経たところで、1917年ロシア革命が起こります。革命は中央アジアにも波及しました。それまで帝政ロシアのもとで行政府として機能していたトルキスタン総督府も革命勢力によって打倒され、やがて中央アジアにソヴィエト政権が成立します。ソヴィエト政権初期には、基本的には帝政時代の行政区分、すなわち、むしろ歴史的な地理概念や地理名称に基づいた区分がほぼそのまま引き継がれていました。かつてトルキスタン総督府領だった領域にはトルキスタン共和国、ヒヴァ・ハン国だった領域にはホラズム共和国、ブハラ・アミール国だった領域にはブハラ共和国がそれぞれ形成されました。革命後の内戦の混乱が収まり、ソ連が成立すると、民族理論や民族政策をも念頭に置いて、社会主義建設のための新たな行政区分が求められるようになり、中央アジアの行政区分が組み替えられていくということになるのです。これが、すなわち、1924年から1925年にかけて行われた、中央アジアの民族別国境画定です(地図3-3)。これによって、ウズベク、カザフ(当時はキルギズ)、クルグズ(当時はカラ・キルギズ)、タジク、トルクメンの五つの民族がそれぞれ主体となって社会主義建設を行うべき五つの国――これは「国」とはいってももちろんソ連のなかでの連邦構成単位、「ソヴィエト社会主義共和国」のことですが――の前身ともいうべきかたちができていきます。民族別国境画定によって史上初めて、中央アジアに民族別の境界線が出現したことは大きな意味をもつ出来事でした。これによって「トルキスタン」という行政区分は消失し、その言葉自体もあまり使われないようになり、カザフスタン以外の中央アジア南部地域を指す言葉として「中央アジア(ロシア語でスレードニャヤ・アーズィヤ)」がもっぱら使われるようになりました。この民族別国境画定については後で少し詳しくお話ししたいと思います。


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第三の契機は中央アジア諸国の独立とソ連解体、これは1991年と、比較的最近のことです。中央アジア諸国は、いってみれば予期せぬかたちでそれぞれ独立を宣言するに至り、やがてソ連解体を迎えたのであり、1920年代ソ連体制のもとでの民族別国境画定に由来する境界線を、そのまま引き継いだかたちで独立しました。この境界線が名実ともに独立国家間の国境となったわけです。ソ連時代には閉じることを想定されていなかった境界線が、ソ連解体後のタジキスタン内戦(1992~1997)やアフガニスタン情勢の悪化、九・一一事件とアメリカによるアフガニスタン空爆の開始、さらにもっと広い世界情勢のなかの様々な要因から、中央アジア5ヵ国の国境線として、それぞれ内に向かって閉じていくという側面が出てきます。
近現代における中央アジアの国境の変遷を考えるときに、以上三つの契機を念頭に置くとよいでしょう。

中央アジア民族別国境画定のダイナミズム
中央アジ民族別国境画定は、すでに述べましたように、現在の中央アジアの「民族」と「国家」の原型もたらしました。

従来、日本の中央アジア研究では、この民族別国境画定の過程で大きな争点となった、領域再編成の原則の対立に注目が集まっていたといえるかと思います。その一方は「中央アジ連邦構想」、つまり中央アジア全体をゆるやかな連邦としてまとめるという案、もう一方は「民族別共和国構想」、つまり現在のように民族別に共和国に区分するという案でした。結果として後者が採択されることになりますが、その意思決定の構図とは、モスクワのロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会を頂点に、中央委員会の出先機関としてタシュケントに置かれた中央アジア・ビューローに領域再編成の原案作成が委ねられ、さらにその下に民族別の領域委員会が設置されてより具体的審議を行うというものでした。中央アジア・ビューローはモスクワから派遣された人々と、中央アジア出身の民族エリートも含む中央アジアのそれぞれの共和国の代表から成っていました。民族別の領域委員会は、ウズベク人の代表はウズベク委員会、カザフ人の代表はカザフ委員会、トルクメン人の代表はトルクメン委員会を形成するというかたちをとり、それぞれにおいて領域再編成案が検討され、それを中央アジア・ビューローにもち寄るというかたちをとりました。

これまでの研究では、この中央アジア民族別国境画定は、モスクワが中央アジア支配を強化するためにスターリンの民族理論を根拠として強制したものであり、その背後には「分割して統治せよ」という理念があるということがいわずもがなの前提となっていた感があります。中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくるような可能性をあらかじめ奪い取っておくべきだとの考え方が根底にある、という見方です。しかし、ノルウェーの研究者アーネ・ハウゲン(Arne Haugen)は、中央アジア民族別国境画定に関する一次資料を渉猟した成果を示した最近の著書(注1)…で、これとはかなり異なった見方を提示しています。そのなかからいくつか興味深いと思われる論点を以下に紹介してみましょう。

「分割して統治せよ」は妥当か?
「分割して統治せよ」というからには、中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくることへの懸念が背後にあったことになります。それは、一面では、ソヴィエト政権が中央アジアを一体性をもちうるものとしてみていた、そして裏を返せば、中央アジアにそのような実態があった、ということになるでしょう。ところが、ハウゲンによれば、ソヴィエト政権は中央アジアをむしろ非常に小さい単位の集団の集合体、いわば寄せ木細工のような状態とみており、しばしば生じる多様な集団間(例えば遊牧民と定住民の間の)の不和・反目・衝突を抑え、大きな紛争を防ぎ、さらに効率的な統治方法を創出することに懸命でした。当時、中央アジアにおいてソヴィエト政権は何もかも力で解決できるほどには強力ではなかったので、現地出身の協力者たちに依存しなければならない点も多く、彼らの意見を可能なかぎり吸い上げ、なんとか妥協点をみいだして、彼らを自分たちの側に引き止めておかなければならないほど切羽詰まっていたというのです。従って、中央アジア民族別国境画定は、「分割して統治する」というよりは、小さい単位の集団をより大きな、適正な規模にまとめ、統治しやすくするためのものだったと理解した方がよいとしています。

中央アジアの実態の点ではどうでしょうか。19世紀末から生じたジャディード運動(ロシア帝国領内のムスリム知識人による教育改革運動。名称は「新方式(ウスーリ・ジャディード)」に由来)の担い手たちのなかから生じたトルキスタン主義のように、中央アジアが一体となって「トルキスタン人」という新しいアイデンティティを確固たるものにしようとするような動きは知識人のなかに根強くありましたが、それがどのくらい広く共有されるものだったのかについては今のところ十分に検証されていません。このような考え方が後にモスクワによって次々につぶされていき、そうした思想の担い手たちもスターリンの大粛清によってほとんど命を落とすことになったのは事実ですが、一方で、民族別国境画定をめぐる審議においても明らかなように、中央アジアの人々がすべて中央アジアの一体性を重視する考え方をもっていたわけではなく、それぞれの思惑があって、その主張は実に多様だったのです。従って、モスクワの中央アジア認識という点からも、中央アジアの実態という点からも、「分割して統治せよ」を前提に中央アジア民族別国境画定のプロセスを分析するのは妥当でないということになります。

民族の政治化
20世紀の初頭は、中央アジアの人々のアイデンティティを考えるにあたって、大変興味深い時代です。特に定住民(ウズベク人、タジク人)の場合、今日の「民族」アイデンティティはまだあまり強固なものとなっておらず、それが定着していく契機ともなったのが民族別国境画定とその前後の状況だったと言えます。それ以前の定住民のアイデンティティは、ムスリム(イスラ広教徒)というものであったり、あるいは出身の都市や居住する都市、帰属する部族に由来するものであったり、それらが重なり合ってもいたとしばしばわれます。

しかし、ソヴィエト政権のもとで、民族理論が整備されていき、また民族を主体とした行政区分(共和国、自治共和国、自治州など)が成立していくという大きな流れのなかで、中央アジアのエリートたちもその状況をみながら政治的な権利を少しでも多く獲得するためには、ソヴィエト的な「民族」としての主張を前面に押し出すことが必要だと急速に理解していくのです。こうして「民族」こそが政治的に重要なカテゴリーとなり、「民族の政治化」が生じました。例えば、ハウゲンはある地域にほぼ日常的に生じていた「遊牧民」と「定住民」との間の問題が、19220年代頃には「カザフ」と「ウズベク」、あるいは「トルクメン」と「ウズベク」という「民族」間の問題として提起されるようになっていったと指摘しています。

また、…「ウズベキスタン創設の父」とも呼ばれるファイズッラ・ホジャエフは、ペルシア=タジク文化とテュルク=ウズベク文化が共存する歴史的都市ブハラの出身で、ある時点まではブハラ人としてのアイデンティティを強力に前面に押し出し、ブハラの利益のために日々闘っていました。しかし、中央アジアの民族別国境画定が議論され始めると、ブハラをも包摂する「ウズベキスタン」設立の急先鋒に立ち、ブハラ人であることを超えて、「民族」として「ウズベク人」にならねばならないのだと熱弁を振るうようになっていくのです。…

中央アジア側のイニシアティヴ
民族別国境画定をモスクワの強制とだけとらえたのでは、このプロセスのダイナミズムを見失うことになる、というのがハウゲンの一貫した主張です。そして、限定的ではあるけれど、中央アジア側のイニシアティヴによって当初モスクワがほとんど想定していなかった結果がもたらされた例として、クルグズ人の国としてのクルグズスタン、カラカルパク人の国としてのカラカルパクスタン(現在はウズベキスタン内の共和国)の成立があげられています。ハウゲンによれば、当初、モスクワは領土的自治を与えうる中央アジアの主要民族として、ウズベク、カザフ、トルクメンの三つしか明確に認識していませんでした。細部の議論は中央アジア・ビューローに委ねられ、基本的にモスクワは下からあがってくる案をそのまま承認したといいます。

ここで、「民族の政治化」に目覚めたクルグズ、カラカルパクの代表は、「カザフ」に包摂されることをよしとせず、いわばタイミングよく「我々にも権利がある!」と手をあげたのです。それは中央アジア・ビューローでの議論で認められ、ボトム・アップのかたちでモスクワもそれを認めるに至ったというわけです(ただし、カラカルパクはソ連の構成単位を形成することにはならず、その後、カザフスタンの一部になったり、ウズベキスタンの一部になったりと複雑な変遷をたどります)。ハウゲンは、当時の中央アジアのエリートたちの間にみられた、このような交渉と妥協による合意形成は、1920年代の新経済政策(ネップ)のもとでの全ソ連的な傾向にも一致するのではないかと指摘していますが、やがてそれはスターリンの恐怖政治のもとで失われてしまいます。

「民族」としての主張の時差
この民族別国境画定のプロセスでは、中央アジアの「民族」が同時にそれぞれ自らの主張を展開したというイメージがもたれがちかもしれません。しかし、すでにみたように、クルグズとカラカルパクは、まさに民族別国境画定の過程で「民族」としての声をあげました。中央アジアの地図を見てみると、もう一つ、現在国家を有している「民族」にタジクがあるのに気づくでしょう。実は、民族別国境画定の過程でつくられた民族別領域委員会にはタジク委員会はありませんでした。タジクはいわば、さらに遅れて声をあげた「民族」だったといえるのです。

タジクは中央アジアで唯一ペルシア系の言語をもつ人々ですが、同じ定住民であるテュルク系のウズベクと非常によく似た文化をもっており、特に都市部ではウズベクと混住し、知識人らは相互にバイリンガルな世界に生きていました。現在ウズベキスタンの主要都市になっているサマルカンドやブハラといった、非常に歴史の深い大都市は、むしろこのタジクの方が主要住民であったとさえいえるでしょう。

従来の研究では、民族別国境画定でタジクは政治的敗北を喫し、サマルカンドやブハラをウズベクに譲らざるをえない結果となり、タジクは歴史的悲劇に見舞われた、という点が強調されがちだったように思われます。

しかし、ハウゲンによれば、一次資料から読み取れるのは、タジクを代表する都市のエリートたちが、民族別国境画定の段階では、声高に「民族」を主張する必要はないと考えていた、ということだというのです。すなわち、この段階では、都市民であるタジク・エリートは、ウズベキスタンにおいて同じく都市民であるウズベク・エリートと歩調をそろえてやっていける、都市定住民として相互の利益は合致すると考えていました。民族別国境画定の結果成立したタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国はウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内の自治共和国という設定で、その領域は、サマルカンドもブハラも含まず、都市民ではない、山がちな地域のタジク語住民を包摂するものでした。

しかし、民族別国境画定後、1920年代後半のウズベキスタンで、急激に「テュルク化」を強化する諸政策が浮上し、ソヴィエト・ウズベキスタンの文化がテュルク語に基礎を置いたものになる方向性が明確になると、それに対する反発として、ここで初めてタジク・エリートが声高にそれに抵抗し始めるのです。その結果、1929年、名称の「自治」がとれて、ウズベキスタンと対等な立場の共和国として、タジク・ソヴィエト社会主義共和国が成立したのでした。

こうしてみていきますと、中央アジア民族別国境画定に関連して、歴史的にみても非常に短い、数年単位というようなスパンで、それぞれの「民族」の主張が、歴史的な経緯を背景にしながらも、ソ連体制のもとで実現可能性のある具体的な要求を掲げて、頭をもたげてきたことになります。それぞれの主張が出てくる論理やタイミングも「民族」によって異なっていた点は大変興味深いと思います。

境界線を引く原則の「揺れ」 ―遊牧民にも都市を!
さて、実際に境界線を引く作業となると、特にその境界線近辺では、ある都市や集落をどちらの共和国の領域に入れるかということでしばしば問題が生じました。そのような場合、当該の地域をその住民の多数を占める「民族」の共和国に入れることが原則でしたが、ハウゲンはこの原則が行政や社会主義建設の効率を優先させるために頻繁に破られたことを指摘しています。

その一例は、現在のトルクメニスタンの一都市タシャウズ(現ダシュオグズ)です。アラル海にアム川が注ぐ三角州地帯の主要都市の一つですが、ここはウズベキスタンとトルクメニスタンの境界地帯です。タシャウズはオアシス都市で、当時の住民は約1万、その大多数がウズベクでした。遊牧民であるトルクメンはこの都市にはほとんどおらず、周辺部の砂漠地帯に暮らしていました。原則からいえば、住民の大多数がウズベクなので、タシャウズはウズベキスタンの帰属となるところです。しかし、ソ連体制のもとで想定された社会主義建設や、そのもとでの近代化政策を考慮すれば、遊牧民にも都市が必要で、都市に行政府を置いて統治する仕組みをつくり出すことが重要課題として浮上していました。この観点から、タシャウズをトルクメニスタンの帰属にしなければ、トルクメニスタン北部地域の行政が成立しないとの意見がトルクメン側から出され、協議の結果、これは受け入れられました(地図3-4)。


これと対照的なのはフェルガナ地方のクルグズの例です。タシャウズと同じ論理で、遊牧民であるクルグズの代表も都市が必要であることを主張し、ウズベクが圧倒的多数を占める都市アンディジャンを要求しました。しかし、この例では、アンディジャンのウズベクから猛烈な反対が起こるかもしれず、そうなれば大きな混乱をもたらしかねないだろうとの判断から、都市における「民族」的マジョリティの論理の方が優先されて、クルグズの要求は退けられました。その代わり、妥協策としてオシュがクルグズスタン領に組み入れられることになったのです(地図3-5)。…

現代の国境越えの旅から
さて、冒頭にも述べましたように、中央アジア諸国の独立とソ連解体を経て、以上のような経緯で引かれた中央アジア諸国の境界線は、名実ともに独立国の「国境」になったわけです。国籍、ヴィザ、パスポート、通貨交換、越境や移住のための手続き等々をめぐって混乱が起きたのはいうまでもないでしょう。それに加えて、1990年代の後半からは、タジキスタン内戦後の和平プロセスやタリバーン政権下のアフガニスタン情勢と連動して、「ウズベキスタン・イスラーム運動」などイスラーム過激主義組織の活動が活性化し、関係諸国はそうした組織の越境を警戒して、国境警備をそれぞれに強化しましたが、…
国境の「現場」はまだまだ混乱しているといえるでしょう。…

立ちはだかる国境? ―共存の道を求めて
…国境がますます「壁」となって立ちはだかっているという印象を私は年々強くもつようになりました。中央アジアの人々自身からも、歴史的に育まれてきた中央アジア全体としての諸関係がソ連解体によって完全に「分断」され、さらに九・一一事件後、アフガニスタンからイスラーム過激主義勢力や麻薬、難民の流入を懸念した中央アジア諸国の国境閉鎖・孤立主義的方策によって事態はさらに悪い方向へ向かったというような声が聞かれることもあります。

中央アジア諸国は、いわば独立後に新しいナショナリズムを打ち立てて、それぞれに異なった路線を歩んできました。そこでの「民族」や「国家」は今や揺らぎようもないものとして、太古の昔から存在してきたものとしてとらえられています。そして、各国にとって安全保障が重要なのは当然だという意味では、中央アジア域内の国境がソ連時代の共和国の境界線のように開放的になる日はもはや来ないのかもしれません。

しかし、この地域の安定と共存のためには、こうした状況を憂えてソ連時代のノスタルジーに浸るだけでなく、独立国家として、今の時代に見合った国境管理体制を共同で模索し、対話や問題解決の回路を共有し、ルールやモラルを国境の現場に浸透させていくことがいっそう重要になってくるでしょう。…
ソ連時代という共通の過去の経験は、これからの中央アジア諸国の共存のために生かされるべきだと思います。そのために、自明な「民族」も「国家」もまだ形成されていなかったなかから、現在の中央アジア諸国の原型ができ、現在の国境の原型ができた、今からわずか80年ほど前の民族別国境画定の歴史をときに紐解いてみることも無意味ではないと思うのです。

(注1) Arne Haugen, The Establishment of National Republics in Soviet Central Asia, New York: Palgrave Macmillan, 2003

(参考) 中央アジアにおける民族領域の変遷(1918-1936)
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by satotak | 2007-08-24 16:41 | 民族・国家
2007年 02月 27日

マレーシアのイスラム -三つのメニュー/三つの民族/三つの宗教-

「アジア学のみかた。」(朝日新聞社 1998)より(筆者:山内昌之):

マレーシアの病院に入院した田村愛理氏によれば、その夕食には三種類の違ったメニューが出されたという。もちろん、そこから一つを選ぶのである。たとえば、ある日のメニューは、①羊肉スープ・飯・ゆで野菜、②鶏の煮込みあんかけ風・飯・野菜いため、③鶏のカレー・ロティ(インド風パン)・野菜であった。…マレーシアが典型的な多民族国家であるという切実な政治と文化の反映なのである。
メニューの一番目はマレー人、二番目は中国人、三番目はインド人向けであった。豚肉と牛肉はついに一度も出されなかったという。豚肉はムスリムのマレー人にとってタブーであり、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べないからだ。…

憲法は原則ムスリム
マレーシアの国民19百万のうち、52パーセントがマレー人、33パーセントが中国人、9パーセントがインド人である。残りの6パーセントが、カダザンやイバンなどの土着民である。もともと人口希薄なマレー半島には、7世紀頃からかなりのマレー人がスマトラから移住していた。14世紀になると、ムラカ(マラッカ)王国が成立し、マレー語とイスラームという〈国民統合〉の遺産を後世に残すことになった。しかし、16世紀にポルトガルに滅ばされたのを機に、マレー半島の支配者はオランダ、イギリスとめまぐるしく変わり、第二次大戦中は日本の占領支配も受けるようになった。

19世紀になってイギリスがスズ鉱山の開発を進めると中国人も多数入ってくる。ゴム栽培が進められるとタミル系のインド人が流入してきた。こうして三つの民族集団が共生するような状況が生まれたのである。多民族社会とは、とりもなおさず多宗教社会でもある。住民の55パーセントがムスリムであり、マレー人のほぼ全体と他民族の一部がイスラームに帰依している。中国人には、仏教、儒教、道教あるいはその混淆を信じる者が多い。インド人の大多数はヒンドゥー教徒であるが、カダザンやイバンなどにはキリスト教徒も見られる。もし、地元民と非地元民といった二分法を用いるなら、マレー人、カダザン人、イバン人などは地元民、中国人とインド人は非地元民ということになろう。

マレー人の母語のマレー語は、この国唯一の公用語であり、国語ともなっている。言語状況は複雑であり、カダザンとイバンはマレー・ポリネシア語族に属する言葉を話している。他方、中国人は福建語や広東語といった多彩な方言を話しているが、共通語としての北京語を理解する者も多い。もちろん、文章語としての漢字は出身の差にかかわらず、すべてが了解可能である。インド人の主要な言語はタミール語であるが、他の方言も聞かれるという。

イギリスの植民地政策において産業化から疎外されていたマレー人は、独立時の中国人やインド人と比べると、非常に貧しかった。マレー人エリート中心の政府がアファーマチヴ・アクション(積極的優遇政策)を採用したのは、公務員採用、特定業種育成、奨学金給付によってマレー入の成長を助けるためであった。70年代からの新経済政策(NEP)においても優遇政策は変わらず、商工業にも適用されている。

こうして、マレー人は非マレー人と比べると政治的に一段と恵まれるようになった。非マレー人の多くは、第二次大戦後の数十年もたたずして、出身地の新しい土地で市民権を得ていたが、ムスリムに改宗した中国人は「マレー人」とは認定されず、マレー人にともなう特権を得ることができないままだった。

憲法は、「マレー人」について原則的にムスリムであり、日常にマレー語を話し、マレーの慣習に従う者と定めているが、マレーの言葉と習慣に中国本土の気風以上になじんでいる中国人二世や三世が「マレー化」できないという不条理を解決できないでいる。

貧困農民から中間層へ
それでも、独立後のマレーシアはまずまず多民族が共存する平和と安定を享受することに成功したといってよい。その理由としては、50年代初期に、マレー人、中国人、インド人の指導者たちが多民族社会ではエスニシティ(民族性)が大きな力をもつことを認識して、協力しあう必要性を互いに理解した点にある。問題は、各個の民族的忠誠心やアイデンティティをいかに自己制御できるのかという点にあった。かれらは、エスニシティをわざとらしく無視する代わりに、エスニシティを政治プロセスに無理なく包みこむことを選んだといえよう。

たとえば、三つの民族政党間の協力関係が1954年に強められている。それは、統一マレー国民組織(UMNO)、マレー中国人協会(MCA)、マレー・インド人会議(MIC)の「同盟」が、55年の最初の連邦議会選挙で勝利を収めたことである。選挙の勝利は、民族間の穏やかな連帯に正統性と信頼性を与えることになった。重要なのは、三つの政党は、権力を互いに分け合う点こそ多民族社会を運営する効果的方法であることを痛感させたことだろう。現在では「バリサン・ナシオナル」(人民戦線)には14の政党が入っている。その多くは民族間の協調を心がけており、「バリサン」は、前身の「同盟」から数えると、57年の独立以来決裂せずに権力を維持することに成功している。

この連立のリアルな意味は、すべての民族集団に対して、どれほど小さくても権力への参加意識を与えたことにあるだろう。UMNOがこのなかの第一人者であるが、行政権力においては内容、性格、実際において多民族性への配慮を忘れていない。

マレーシアの安定には、民主的な行政システムが成立していることも無視できない。57年以来、マレーシアはまずまず議会制民主主義を機能させており、経済もNIESに続くかのように好調であった。ほとんど40年間に及ぶ持続的経済成長は、民族間の利害対立と競争の鋭ざを弱めてきた。政府によるアファーマチヴ・アクションは、貧しかったマレー人農民を中間層に成長させ、商工業に積極的に参加できる集団へと成長させた。

これは、一世代のうちに生じた変容としてはかなり目立つものであった。政府は自由市場のメカニズムを通して私的投資や事業を奨励する一方、既成の企業も政府の大幅投資効果の好影響を受け、ビジネス・チャンスの拡大を大いに利用してきた。

マレーシアの幸運は、地元民と非地元民の必要や願望をいずれもまずまず満足させたことだろう。もし、アファーマチヴ・アクションが一方的に強調され自由市場が破壊されていたなら、非地元民とくに中国人の利益は失われていたはずだ。もし自由市場の力が優先されすぎ、地元民を庇護する政府介入がなければ、マレー人の大多数はすべてを失っていた可能性さえ否定できないのである。

多民族共存から学ぶこと
中東などではイスラーム主義の大義名分の下で〈イスラーム・テロリズム〉が猖獗(しょうけつ)をきわめているが、幸いなことにマレーシアなど東南アジアでは極端な暴力はかげをひそめている。

マレーシアのイスラーム理解研究所長イスマイル博士は、イスラームがマレー人の寛容性と順応性を形づくる上で重要な役割を果たしてきた点をしばしば強調する。イスラームの普遍主義(ユニヴァーサリズム)、すべての人類と生物に対する人道的な関心は、マレーシアの多民族共存を支える触媒になったというのだ。古典イスラームが教理の面では、民族・文化・宗教の違いを超越する救済の使命と正義感の感覚をもっていたことはたしかである。しかし、ともすれば中東では、こうした使命感が異教徒や異文化の排斥につながるイスラーム主義急進派の運動をひきおこしている。

そうしたなかで、イスラームがマレーシア多民族国家の重要な価値体系の一部として、宗教の多様性を認める開かれた態度を示しているのは好ましい。願わくば、正義や公正にかかわるすべての事柄について偏見がないというのであれば、日本や欧米の価値観も積極的に吸収するような意欲的な〈文明の挑戦〉を果たしてもらいたいものだ。

いうまでもなく、どの多民族社会にも固有の歴史と事情がある以上軽々に他と比較することはできないが、マレーシアの経験が民族紛争で苦しむ他の社会に提示できる教訓もあるのではないだろうか。イスマイル博士から受けた教示を私なりに咀嚼してみると、さしあたっては、五つほど浮かび上がってくる。

(1)多民族社会では異なった民族の政党が協力しあい、権力を分有すること。
(2)分離主義などの破壊的な傾向を規制し、エスニック・ナショナリズムを有効に統御するためにも、民族的な自己主張を無視するのではなく、それを議会制度に順応させるような民主的なプロセスをつくること。
(3)経済的再配分を重視し、異なった民族の力量や願望を念頭においた経済成長をバランスよく実現する努力。
(4)各民族の活力源としての文化と宗教の多様性を受け入れる柔軟性。
(5)日常の態度や振る舞いのレベルにおけるバランスと順応性。

これらは、多民族社会マレーシアの経験から引き出した公理であるが、分裂と脱統合に苦しむ中東から中央アジア、ひいてはアフリカにまたがるイスラーム世界の現実を考える際に示唆を与えてくれるのではないだろうか。
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by satotak | 2007-02-27 13:16 | 民族・国家
2007年 02月 23日

民族と歴史家の立場

「網野歴史学に何を見るべきか」(「季刊東北学第1号」 東北芸術工科大学 2004)より(筆者:中村生雄):

「国民的歴史学」の経験
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が新鮮なインパクトとともに盛んに引用された時代はすでに遠くなり、「国民」や「日本人」が近代という時代の想像の所産にすぎないことはいまや常識となった。20年まえのアンダーソンによる衝撃発言は、いまでは、誰もがそれを議論の前提とする共通の土俵となった。言い換えると、国民国家をめぐるもろもろの問題は、それらが、作為され、構築され、想像されたものであることを自明の出発点として論議されねばならないという共通了解が定着したのである。

近代による作為と想像の所産、そう理解されるべきだと言われるものは、日本人・日本語という観念や制度、古典や歴史をめぐる知のありかた、恋愛感情や家族間の愛情という心の作用まで、すこぶる広範囲である。そして、そのことをわきまえずに旧来の通念にもたれかかってそれらのことがらに言及すると、たちどころに「本質主義」のレッテルが貼られることになっている。

皮肉なことだが、現在したり顔をしてこういうレッテル貼りに夢中になっているものの多くが、じつはそれときわめて近似し、かつその原型ともなる議論が50年まえの日本にもあったことを忘れているらしく見える。それは、1950年代前半の歴史学界で中心的なテーマとなった「国民的歴史学」の動きのなかで起こった。とりわけそこでの、「国民」や「民族」をめぐって繰り広げられた学問的/政治的な論争においてである。そのことをここであえてとりあげるのは、それが歴史家・網野善彦の若き日の経験として大きな意味をもっていたからであり、またそれが歴史における時代区分の問題と密接にリンクしてもいるからである。

こんにちの目から見れば、当時の「国民的歴史学」の運動とは、敗戦とそれにつづく占領期の挫折感や焦燥感のなかから姿をあらわした左翼的歴史研究者のナショナルな思想と心情の一表現だったと言える。そして、…その運動を象徴するバイブル的書物としてひろく読まれたのが石母田[正]の『歴史と民族の発見』であった…。
皇国史観の圧制からは解放されたものの、ではその対極にある戦勝国連合や国際共産主義運動に乗り換えるだけが知識人の選ぶべき道でないことが気づかれた1950年代前半は、彼らに先進的な指針を与える役割を負った日本共産党指導部においても、複雑な内部抗争と路線対立がつづいた時代であった。…そして、その混乱と亀裂が歴史学の世界に直接影響するかたちで、「国民的歴史学」の運動が提起され、そこでの焦眉の問題として、「国民」や「民族」をどう理解すべきかが論争の的になったのであった。

そのことを振り返るにあたってもっと注意されていいと思うのは、そこでの争点が現在の国民国家論をめぐるいわゆる構築主義/本質主義の対立構図と大きく異なってはいなかった点である。網野じしんはそのことについて、小熊英二との対談のなかで、そのころアメリカ帝国主義に対置されるべき日本民族の独立性という観点から石母田らの「英雄時代論」が提起された事情にふれつつ、次のように言っている(網野善彦対談集『「日本」をめぐって』)。

〈 この見方…は「民族」は古代・中世まで遡る歴史・文化を背景に形成されるという立場に立っていたのですが、それに対して、「民族」は古く遡るのではなく、近代に入り資本主義が発達し、国内市場が形成される過程で初めて生まれるという立場からの強い反発がありました。むしろこのほうが当時のマルクス主義の公式的な理解だったと思いますが、この二つの見方の間で激論があったのです。これは現在、「国民国家論」に即して議論されている問題と本質は同じで、それが近代の産物なのか、それともその起源は古く遡るのかという議論につながりますが、いわばその「幼稚」な段階・・・・・・ 〉

ちなみに、この時期の「民族派」的立場の急先鋒である藤闇生大は、日本民族の英雄=ヤマトタケルを再評価することを通じて失われた「民族的ほこり」を回復することこそが、歴史学の使命であると学会で力説した。…抑圧的なアメリカ帝国主義に対峙する歴史的・民族的な根拠が、はるか時代をさかのぼって古代や中世のうちに探し求められたのである。
そして、若年の網野も否応なくその「民族派」の末流にみずからを位置づけて、歴史家としてのスタートを切ったのであった。

〈 当時の私は、「民族」は古く遡って考えるべきだという、いわば「民族派」でした。これは当時の日本共産党の分裂とも関係してくるので、民族は近代に形成されると主張したのが「国際派」といわれており、私のいう「民族派」は「所感派」といわれていました。ただ皆さんびっくりなさるかもしれないけれども、この時期のマルクス主義者のうち前近代史の研究者は、ほとんど「民族派」だったのです。 〉

網野はこのときの論争が「幼稚」であったと自嘲的に語ってはいるが、それが歴史認識のレベルにおいては、近年の国民国家論をめぐるそれと共通していたことを明言してもいるのである。そこで網野が自称する「民族派」にたいして、その批判者をかりに「近代派」と呼んでおくなら、50年代の「民族派」vs近代派」がほぼ半世紀ののち、「本質主義」vs「構築主義」として再現したと言ってもそれほど的はずれではないのである。

ただし、かつての対立が結果的には党派的敵対の論理のなかで「除名」や「査問」といった陰惨な方向にすすんでいったのに比べると、近年の対立にはその種の深刻な雰囲気はほとんど感じられず、むしろ学級内のできる子どうしのいさかいを思わせる。「二度目は喜劇として!」という歴史の法則は、遺憾ながらこのケースにも当てはまるのかもしれない。

いずれにせよ、政治主導で提起された「国民的歴史学」の運動はスターリン批判と六全協という政治によって外側からあっけなく幕を降ろされた。それゆえ、その論争が内包していた歴史学上の意義は強引に封印されて、それにかかわった多くの歴史家の心の傷としてだけ残ったと言われる。だとすれば、そのときの経験と知識がその後の歴史研究のための資源として貯えられなかったからこそ、近年の国民国家論をめぐる論争が何かしら底が浅く、口先だけの争いに見えるということでもあろう。

また、網野がしばしば「不勉強」を口実に国民国家論にたいする直接的なコメントを避けていたように思えるのは、50年代の経験をとおして彼じしんがその種の問題の困難さ、深刻さを知悉(ちしつ)していたからだと言えるはずだ。そのとき辛酸をなめた立場からすると、目下の状況はしょせん知的ゲームの域を出ないもので、あらためて口出しする意欲を感じさせなかったということだろう。

時代ヨコ割り分業体制の弊害
すでに見たように、網野善彦の回顧によれば、1950年代の「国民的歴史学」の運動において前近代史の研究者はほとんど「民族派」であったという。国民も民族も、決して近代という時代が唐突につくりあげたものではなく、古代・中世からの久しい時代の流れのなかで徐々に形成されて現在にいたっている、と考えられていたわけだ。そして、そのような理解にたいして、近代史家の犬丸義一や井上清が痛烈な批判を行なった。それらの論争の舞台となった1951年度の歴史学研究会大会前後の状況については、小熊英二のすぐれた解説がある(『〈民主〉と〈愛国〉』)。

ただ、…私見によれば、ここで前近代の研究者の多くが「民族派」となり、近代史研究者がその批判者になったという色分けは示唆的である。

すでに述べたように、この時期に「国民的歴史学」の必要が叫ばれ、その支柱となる概念として「民族」が主題化されていったのは、50年代の日本が占領期以来のアメリカ帝国主義という巨大な力にどう立ち向かっていけるかという政治的情勢に規定されていたからであった。そこでは、階級的な「人民」の視点よりもナショナルな「国民」の視点が優先され、「反米」が同時に「愛国」を意味することに特段の疑問はもたれなかった。そのような認識の裏づけとして重視されたのが当時新たに唱えられたスターリンの民族理論だった…。

強調しておきたいのは、そういう政治的・実践的なレベルとは別の問題、すなわち、そもそも個々の歴史家にとって自分が研究対象として選ぶ時代がどんな意味をもっているかという一般的な問題のほうである。

歴史研究、とりわけ日本史研究を志す者はおしなべて、古代・中世・近世・近代という時代区分に即して目分の専門領域を限定しておくのが学会での基本ルールとなっている。そして、どの時代を自分の研究対象に選ぶかと言えば、当然のことながら、その時代が自分にはもっとも興味深いからだというのが最大の理由であろう。また、その時代がなぜ興味深いのかとさらに問うとすれば、その時代を詳しく知ることが現在の自分にとって必要だからであり、現在の自分と世界をよりよく理解するためのカギが当該の時代のなかに存在しているにちがいないと考えるからだろう。…

要するに、網野の言う50年代の「民族派」の人びとが古代や中世のある時期に国民もしくは民族の起源を見出し、またそれらの画期的な展開過程を見出したのは、彼らの現在の問題を解くカギがそこにもつとも濃密に凝縮していると信じていたことを意味している。古代史家は古代のあることがらが、中世史家は中世のあることがらが、他の時代のどんなことがらよりも重要な意味をもっていると考えるからだ。なぜなら、他の時代にもっと重要な歴史的な意味があると思えるのなら、目分の専門領域をそちらに変更するのが当然だからである。とすれば、その反面で近代史家が「民族派」の主張を受け入れないのはあたりまえだろう。かりに彼らが「民族派」の主張を容認するとすれば、自分たちの近代史研究が歴史学のなかで二流の位置にあることをみとめることになるからだ。

こう言うとまったく身もふたもないのだが、歴史的出来事の評価という学問的ないとなみの奥底には、そのような「我が身尊し」のエゴイズムが厳として存在する。少なくとも私は、そのことを強く感じている。にもかかわらず、それは往々にして学問的な真理や客観性という美名によって粉飾されがちだ。アカデミズムの世界とは、そういう意味の覇権主義から決して自由ではないのである。50年代の「国民的歴史学」の時代も、近年の国民国家論主導の時代も、その点ではあまり違わないと言うべきだろう。
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by satotak | 2007-02-23 16:06 | 民族・国家