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カテゴリ:トルコ( 6 )


2010年 09月 22日

フルマ -トルコ在住ウイグル人からの返信-

S.T.様

お久しぶりです。ご連絡をありがとうございます。

Nさんに預けたのはアラビア語で「フルマ Hurma」と言い、トルコ語でもフルマ、ウイグル語ではホルマといいます。
アラーが人間のために地球上で創って頂いた食べ物の中で、栄養成分が揃っている完璧な栄養です。74種類の栄養があり、水とそれがあれば、健康で一生生きていける。その効果も、お体の栄養の調整を自動的に行い、様々な病気に効くようです。
フルマは中国語で言うと「蜜なつめ」ですが、サウジアラビアの各地で種類が取れる。あなたに送ったのはメディナ産で、水分が少なく、もっとも甘い種類です。サウジのフルマの中で上流。フルマは副作用がありませんので、安心して召し上がってください。赤ちゃんから150歳までOK。

近かったら、もっと送りたかったけど、預けようとしても税関が怖いとか、麻薬が怖いとか言って、持っていってもらえないことがよくあるのですが、Nさんだけにちょっと預けることができました。
これからもチャンスを狙って送ります。

食べ方ですが、そのまま食べるのが一般的ですが、ほかの料理の中に入れて食べても良い。熱い料理などに入れるとお粥みたいに解けてしまい、味も解けるので、ほかの食べ物と口の中で混ぜて食べたほうが良いと思います。そのままでももちろん良いし。

メッカにはザムザム(Zamzam,もしくは Zemzem)というメッカの特別な、ばい菌のない水があり、世界でそこしか取れない。その水も色々な病気に効きます。ほかのところで取れない水、アラーが使者に与えた水で、巡礼に行く人々はお土産にザムザムとフルマを持って世界各地に帰る。

ラマダンも一昨日で終わり、昨日からお祭りに入っております。東トルキスタン人の皆さんの家に訪ねあい、昨日一日中歩き回りました。今日はあなたが知っていらっしゃるゼイティンブルヌに行き、そちらに住んでいる皆さんの訪問をしてまいります。団体で。

お体に気をつけてください。
ご健康とご多幸を心よりお祈りしております。

では、また。

E   2010年9月10日


[補足]
(1) フルマ(hurma):トルコではナツメヤシの木や実をフルマというが、柿の木や実もフルマという。
 ○ hurma
 ○ -フルマ hurma-
 ○ “hurma”の画像検索結果

(2) 蜜なつめ:ナツメヤシ(ヤシ科)とナツメ(クロウメモドキ科)は別種の植物。日本や中国で入手できる「蜜なつめ」はナツメの一種またはその加工品で、フルマとは別物ではないか?
 ○ なつめやしとなつめ 
 ○ 蜜なつめ 
 ○ ”蜜棗”の画像検索結果 

(3) ザムザムの泉:サウジアラビアにある聖地マッカ(メッカ)のマスジド・ハラームにある泉
 ○ ザムザムの泉 
 ○ ザムザムの泉 -イブラヒームの試練-
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by satotak | 2010-09-22 19:52 | トルコ
2006年 12月 31日

サッカーW杯と民族同化 –ドイツの中のトルコ人-

「ドイツ:トルコ系住民 文化統合弾み」(産経新聞 2006.6.25)より:

ドイツ国内にある欧州最大のトルコ人社会でサッカーW杯を機に“異変"が起きている。これまでドイツ社会との接触が少なかった多数のトルコ系住民の間で、ドイツ代表を応援する光景が見られるようになってきたからだ。関係者はトルコ人社会の微妙な変化を関心をもって見つめている。(ベルリン黒沢潤)

トルコの民族音楽が流れ、中東風のたたずまいをみせるベルリンのクロイツベルク地区。大勢のトルコ系住民が住むこの街では、ドイツがゴールを決めるたびに大歓声がわき、ロケット花火が派手に打ち上げられる。
「ドイツの試合日には車で街に繰り出しクラクションを鳴らす」。雑貨屋に勤務するトルコ系2世カバト・ラズガさん(22)はこう話す。

ドイヅ人を驚かせているのは、クロイツベルクだけでなく、少し南方のノイケルン、北部のウエディングなどのトルコ人街全体でも同様の現象が起きていることだ。ベルリンで生まれた2世の輸入業シャヒン・ヤルチンさん(33)は「ドイツ国旗をトルコ人が1日に計10本も応援用に買っていく。こんなことは初めてだ」と驚きを隠さない。

ドイツに住むトルコ系住民は270万人(独国籍取得者80万人)。ドイツの高度経済成長を支える労働者として1960年代に流入してきたのが始まりで、ベルリンには約15万人が住む。クロイツベルクは「小イスタンブール」とも呼ばれる。
ただ、トルコ系住民は独自の文化と宗教を尊重するあまり、独政府の統合(同化)政策が十分に成功してこなかった。

それにもかかわらずトルコ系住民が今回、ドイツ代表に熱心に声援を送るのは、母国トルコがW杯に出場していない事情に加え、前回大会で3位に入賞したトルコを多数のドイツ人が応援したことなどが背景にある。
ベルリンのトルコ人協会の広報担当者、クマリ・カンガル氏(51)は「トルコ系住民は昔、ドイツ社会から隔離されていると感じていた。しかし今では、時代の流れとともにドイツを第2の故郷とみなす人が多くなった。独チームに向ける熱狂的な支持は、異なる言葉や文化的な差異を縮める『橋渡し役』となっている」と指摘する。
著名なドイツ人指導者がトルコのサッカー発展に尽力していることも大きい。独元代表ユップ・デアワル氏は80年代、トルコの名門クラブ、ガラタサライの監督を務めたほか、トルコ代表の指導にもかかわってきた。

ドイツ社会の間ではトルコ系住民に関し、「統合は(サッカーなどではなく)もっと深い次元で行われるもの。住民はドイツの歴史や文化について熟知し、独語も完壁に話すべきだ」(IT関連社員)との厳しい指摘もある。
だが、独西部デュイスブルク・エッセン大学トルコ研究所のファルーク・シェン所長(58)は、「W杯は(統合にとって)重要な岐路になり得る。2世、3世は母国との関係も薄く、独政府が的確な政策を実施するなら、(統合が)いい方向に進むのは間違いない」と話している。
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by satotak | 2006-12-31 07:02 | トルコ
2006年 06月 30日

オスマン帝国末期の悲劇 -アルメニア人虐殺の真実は?

私の読書日記 アルメニア人大虐殺、文化大革命の闇 フランス文学者 鹿島茂」(週刊文春 2006.3.16)より:

×月×日
…フランスにはアルメニア系の人が30万人くらいおり、宝飾業界とか骨董業界などでは強固なアルメニア人脈を築いているのだ。芸能人でいえばシャルル・アズナブール。…

これらアルメニア系移民の多くは、第一次世界大戦中にトルコのアナトリアで起こった大虐殺を逃れて各国に散った難民の子孫だが、この100万人から150万人規模(アナトリアのアルメニア人人口総数200万人)のジェノサイドの詳細については、日本はもちろんのこと、フランスでさえあまり知られることはなかった。

アントニア・アルスラン『ひばり館』(草皆伸子訳 早川書房2500円+税)は、からくも虐殺を逃れてイタリアに辿りついた親族の物語を、アルメニア移民を祖父に持つ孫娘が語るという小説だが、われわれも、これによって初めて生々しいかたちでこの20世紀初頭のジェノサイド事件の真相を知ることができる。

イタリアに移民して医者として成功したイェーワントは、豪華な自家用車に乗って故郷アナトリアの小さな町に錦を飾る日を夢みている。いっぽう、町では、これまた薬剤師として成功し、大きな薬局を経営する弟のセンパッドが兄の帰りを待ち侘びて、「ひばり館」と名付けた別荘の飾りつけに余念がない。センパッドは異母妹のヴェロンとアズニヴ、それに妻シュシャニグとの間にもうけた七人の子供と幸せにくらしていた。

アルメニア人はキリスト教徒である上に、欧米におけるユダヤ人のように金融や商業に長けていたことから、トルコ人民族主義者の反感を買い、19世末にも大量虐殺の被害にあっていた。第一次大戦が始まると、トルコ政府に勢力を築いた《青年トルコ党》の将校団は、これを奇貨として、同盟国ドイツの軍事顧問団の「少なからぬ協力」…のもと、秘密裏にジェノサイドを用意する。まず軍関係からアルメニア人将兵を外して武装解除した上で、1915年4月24日からアルメニア人男子全員の検挙・処刑を開始したのだ。美女アズニヴに恋したトルコ人将校ジェラルの救出努力も空しく、センパッド一家にもついに運命の日はやってくる。

「兵士たちの剣が閃光を放つや、叫び声が上がり、血飛沫が部屋じゅうに飛び散った。シュシャニグのスカートに花のような赤い染みができた。それは切り落とされ、彼女めがけて投げつけられた夫の首だった」

描写は小説だから誇張されているということはないようだ。実際には、ナチのユダヤ人虐殺に負けず劣らぬ酸鼻きわまりない光景がアナトリア全土で繰り広げられたようである。男たちはほぼ全員処刑、女と子供は「強制移住」という名目で食料も水も与えず街道を歩かされて疲労死した。途中で、少数民族のクルド人がトルコ人憲兵の許可を得た上で彼らから金品や馬車を略奪したこともある。

妻のシュシャニグはそれでも一家を引き連れ、ギリシャ人の泣き女やトルコ人の乞食の手助けを受けて義弟のいるアレッポの町に逃げて海路イタリアに脱出する。「民族浄化」という思想は、1990年代の旧ユーゴ紛争に始まったわけではないのである。…



第一次世界大戦とその後
パット・イエール他著「ロンリープラネットの自由旅行ガイド トルコ」(メディアファクトリー 2004)より:

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツとその同盟国に味方するという致命的な失敗を犯してしまう。この頃は、まだ皇帝が権力の座に就いていたものの、帝国は青年トルコ党(統一進歩委員会)の3人の幹部タラート、エンヴェル、ジェマルによって治められていた。彼らの権勢は強大だったが、その圧政と失政のため、すでに絶望的だった国情はさらに悪化していった。…

その頃、長年、相次ぐ戦闘に見舞われていたアルメニアは、ロシア軍の進軍を歓迎し、協力する姿勢を見せ始めていた。1915年4月20日、ヴァンのアルメニア人が反乱を起こし、地域のイスラム教徒を虐殺して要塞を陥落させると、ロシア軍が到着するまでそこを守り抜いた。反乱を起こしてから4日後の4月24日(現在、アルメニアの殉教者記念日)、トルコ政府はアルメニア人の住民の国外追放を始めた。この過程で数十万人のアルメニア人(ほとんどが男性.)が虐殺された。残された女性と子供はシリアまで徒歩での移動を強いられ、幾多の辛酸をなめた。

この出来事については、現在も激しい論争が続いている。アルメニア側は、1915~1923年に120万~150万人のアルメニア人が殺害されたと主張。しかし、トルコ政府は、その人数は誇張されており、実際に死亡したアルメニア人は“わずか”30万~50万人だと主張し、責任はないとしている。

ロシア軍が戦いに勝利すると、アナトリア北東部に、短命のアルメニア共和国が創立された、そして、戦勝国のアルメニアは地域のイスラム教徒に、自分たちがされたのと同様の虐殺という報復行為に出た。ところが、トルコの民族主義者ムスタファ・ケマル率いる軍勢の攻撃で、アンカラ政府はカルスKarsとアルダハンArdahanを奪回したのである。

1920年12月3日、アンカラ政府は、イェレヴァンYerevanのアルメニア(ソビエト)政府と和平協定を締結した。戦争が終結するまでに、アルメニア人の人口は特に都市部で激減し、生存者はわずかだった。

大戦は同盟国側の敗北に終わり、オスマン帝国は崩壊した。イスタンブールとアナトリアの一部はヨーロッパの列強に占領され、皇帝は戦勝国の手に落ちた。……連合国は、…戦勝国の要求を満足させるため、アナトリアの分割を決めた。こうして、よりすぐった土地はキリスト教徒に分け与えられ、イスラム教徒のトルコ人は不毛も同然の内陸の草原へと追いやられてしまった。

アルメニアの悲劇
1915年にトルコ東部で起きた大事件をめぐって、90年近くたっても.論争と非難の応酬が現在も続いている。大事件を生き延びたアルメニア人(と離散したその子孫たち)は、トルコ人の行為をジェノサイド(民族の大虐殺)と呼び、非難している。逆にトルコは、大虐殺に政治的意図はなかったとし、戦時中、多くのアルメニア人が反逆行為を行ったと主張している。また、トルコ側は、多くのアルメニア人が死亡した事実を否定してはいないが、これは組織的殺害のみならず、内戦や病気、困窮によるところが多いとしている。その上、共和政体になったトルコは、親や祖父母の世代で、彼らがオスマン帝国打倒のため戦った点を挙げ、オスマン時代の活動は自分たちとは無関係だとしている。

双方は非難の応酬を繰り返し、犠牲者の数や、犯罪性を立証する歴史的資料の信憑性、相手の動機などについて言い争っている。1970年代には、トルコの外交官たちや、その家族、そして周りにいた人たちが暗殺され、非難と憤懣はさらに深刻の度を増していった。

アルメニアはトルコに対し、悲劇的な事実の認定を訴え、領土の獲得を視野に入れた補償を求めている。トルコ側は、過去に起きた出来事の責任を現在のトルコ人は負えないとし、補償する必要はないと訴えている。事態は泥沼の様相を呈し、今後、何世代にもわたって続きそうな気配だ。

(参考)トルコ人が語るトルコ・イスラム講座」の「国際関係(1)」の後半で、トルコ人旅行ガイドNさんが、アルメニア問題について解説している。
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by satotak | 2006-06-30 05:07 | トルコ
2006年 06月 30日

ヨーロッパのトルコ人労働者 -現代の民族移動-

ドイツ(当時の西ドイツ)、フランス、イギリス等の西ヨーロッパ諸国では、20世紀後半のある時期自国の労働力不足を補うために、積極的に外国人労働者を受け入れた。

例えば、1960~70年代初頭のドイツでは、雇用双務協定に基づき約900万人のトルコ人労働者の受け入れがなされたが、彼らの一部は呼び寄せた家族とともに定住し、その数は現在200万人以上とされる。
この移民労働力に対しては既にEU圏内の労働者からは反発が起こっている。
さらに将来、トルコがEUに加盟した場合トルコ人労働者のEU圏内での就職は自由化されるので、大量の労働者が流入して、経済的・社会的混乱が増大するのではないかと懸念されている。

西ヨーロッパにおける外国人労働者の問題は時折日本のマスコミにも取り上げられる。
しかしこれまでの報道は、外国人労働者を受け入れた西ヨーロッパの視点からのものがほとんどだったように思う。
トルコ人が語るトルコ・イスラム講座]の「国際関係(3)」では、多くの労働者を送り出したトルコから見た、ヨーロッパのトルコ人労働者問題が、自分の体験も含め具体的に語られている。
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by satotak | 2006-06-30 03:02 | トルコ
2006年 06月 30日

トルコの現地ガイドに脱帽! -アタチュルク精神は今も健在 -

昨年(2005年)6月に、行こう行こうと思っていたトルコ旅行にやっと出かけた。ごくありふれたパッケージ・ツアーで。

コース自体は観光地巡りの一般的なものだったが、お世話になった現地ガイドのNさんには感心してしまった。
日本語の達者さはさて置くとして、その博識、愛国心、宗教心...トルコを理解して欲しいというその熱意...

観光案内のほかに、麻薬、宗教、軍隊、結婚、女性、そして民族問題、国際関係と話題は広範多岐にわたった。

彼の熱のこもった肉声はこちら:http://ethnos.takoffc.info/ThemeFrm.html
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by satotak | 2006-06-30 02:04 | トルコ
2006年 06月 30日

突厥帝国と現在のトルコ民族

宮本淳子著「モンゴルの歴史」(刀水書房 2002)より:

552年に柔然を破って漠北のモンゴル高原の支配者となった新しい遊牧騎馬民「突厥」が、現在のトルコという民族名の語源である。しかし、トルコ民族という観念自体は、20世紀はじめに誕生した、たいへん新しいものである。「突厥」という漢字は、もともと「チュルク」という遊牧騎馬民の集団名の音訳だった。このチュルクを現代中国人は「土耳古」(トゥルクー)と音訳し、これを日本人がトルコと写した。だから、チュルクトルコも同じことばなのだが、日本では、現代のトルコと区別するために、古代トルコをチュルクといい分けることもある。

現在のトルコ共和国は、1923年に建国された。その前身のオスマン帝国を建てたオスマン家は、13世紀に今のトルコ共和国のあるアナトリアに駐屯したモンゴル軍の出身である。オスマン帝国は、15世紀にビザンティン帝国を滅ぼしてイスタンブルに都を移し、16世紀には、その支配権はバルカン半島、東地中海、西アジア、北アフリカをおおった。
オスマン帝国の最盛期は約150年続いたのち、1683年にハンガリーを失ったのを境にして、18世紀には西ヨーロッパのほうが優勢になりはじめ、最後に第一次世界大戦に敗れて解体してしまった。

残ったアナトリアのアンカラで、ケマル・アタチュルク[「チュルクの父」という意味]がトルコ共和国を建国した。初代大統領となったケマルは、国家の独立を維持するため、トルコ民族主義をスローガンとして採用したのである。
オスマン帝国時代には、「トルコ人」は「遊牧民」という意味で、地方に住む[田舎者」という蔑称でもあった。宮廷の支配層は、自分たちのことをオスマン人といい、自分たちのことばをオスマン語と呼んでいた。オスマン帝国を構成した人びとは、さまざまな人種から成っていた。

しかし、建国したばかりのトルコ共和国をまとめるためには、国民の団結が必要である。ケマルは、トルコ共和国民は、純粋なトルコ民族である、と主張し、その建国は552年にさかのぼる、と決めた。つまり、突厥帝国がトルコ共和国の祖で、現在のトルコ共和国民はすべて、モンゴル高原と中央アジアからアナトリアに移住した、と主張したのだ。
…人種や言語による区分は、きわめて政治的な動機から生まれたものだし、このように、民族という観念も、人間の創り出したイデオロギーなのである。

そうであれば、現代の「政党」は「民族」の発展(それとも矮小化)した形と言えるかもしれない。
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by satotak | 2006-06-30 01:09 | トルコ