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2009年 05月 08日

北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅-

◆北疆ジュンガリア旅行から帰ってきて、その印象をまとめておこうと思っているうちに、もう半年以上が経ってしまった。



最後の遊牧帝国といわれるジュンガル、その興亡の地に立ってみたいと思って、ジュンガル盆地の縁を一巡りし、イリにも行った。しかし、予想されないことではなかったが、ジュンガル帝国の痕跡を見ることも聞くこともできなかった。無いものを見に行った旅…といったところ。






旅行は15日間のパッケージツアー。参加者は13名で、それに日本人添乗員とウルムチからの現地スルーガイド(漢人)とバスの運転手(撒拉族)の総勢16名。

行程は、9月4日午後に羽田を発って-上海(泊)-ウルムチ-トルファン(泊)-ハミ(泊)-バリコン(泊)-ジムサル(泊)-アルタイ(2泊)-カトンユイ(泊)-カナス湖-カトンユイ(泊)-ウルホ(泊)-精河(泊)-イーニン(泊)-昭蘇-イーニン(泊)-ウルムチ-上海(泊)-そして18日午後に羽田帰着。


こんな旅で印象に残ったことは…


ジュンガル

現地ガイドからは、ジュンガル族あるいはオイラト族について何も話されなかった。まだ若い漢人女性ガイドだったので、やむを得ないとも思ったが、アルタイやイーニンの博物館にも関係する展示はないようだった。ウルムチの博物館なら何かあったのかもしれないが、今回の旅行では安全面で不安があるということで、ウルムチの観光は中止。ウルムチでは飛行機の乗換えと食事だけになってしまった。


広大な町と道路と農地

今度の旅行で一番印象に残ったのは、「広大さ」。といってもジュンガル盆地や砂漠のことではない。盆地の縁を辿っただけのせいか、あるいは他の砂漠を見慣れたためか、これらの広さはそれ程実感できなかった。


広さ、大きさが印象に残ったのは、町と道路と農地。

県庁所在地だけでなくそれ以下の都市でもかなりの規模。それも町の中心部を大通りが貫通する中国風の街づくりになっていた。

また道路も整備されており、主要な都市の中は片側2~3車線、その外側に街路樹、さらに自転車路(?)、緑地、そして広い歩道。イーニン等では朝暗いうちから作業員が出て大きな竹箒で掃除をしていた。主要国道では高速道路化も進んでおり、今度の旅行のバス行程全3,700km中、工事中のところを除けば、ほとんど舗装完備だった。これも西部大開発戦略の成果か。

飛行機から見下ろす赤茶けた土漠の中に現れる、くっきりと直線で区切られた広大な緑の畑、これも印象的!




中国の統治

オリンピックの直後で、ウルムチの観光が中止になるなど、治安・安全面が気になっていたのだが、何事も起こらず、途中不安を覚えるようなこともなかった。

軍隊はおろか、制服姿の警官を見かけることもほとんどなかったように思う。

中国の統治が行き渡っているという感じ。


しかし旅行シーズンの終り間近ということもあるのだろうが、外国人観光客にはほとんど行き会わない。特に日本人は皆無。今年のカナス湖の観光客は、中国人を含めて例年の半分以下だったとか。


新疆生産建設兵団

あちこちで「137団場」のような道路標識を見かけた。新疆生産建設兵団の農場や工場団地があるのだろう。兵団は漢族の新疆進出の拠点として、いろいろ議論の的になってきたようだが、今では巨大なコングロマリットといったところか。

ウルホで泊まったホテルも兵団の系列のようだった。隣接して兵団の地方本部のような建物があり、このホテルはかつて「招待所」などと呼ばれていたものかもしれない。




民族英雄 林則徐

イーニンで予定外の林則徐記念館に寄った。林則徐の名前はアヘン戦争に絡んで高校の世界史にも出てきたように思うが、何故イーニンに? アヘン戦争後に、清朝は英国を慮ってか林則徐を新疆に形だけの流罪にし、彼は無位無官となったが当地の開発にも大いなる貢献をしたのだという。新疆にいたのはわずか3年たらず。


この記念館は、新疆開発というよりは、アヘン戦争の民族英雄を顕彰するのがメインのようだった。林則徐記念館は中国各地に合計6ヵ所あるとか。


撒拉族

15日間、3,700kmの全行程を一人でバスを運転してくれたドライバー氏。最初の日に「彼はムスリムです」とガイドから紹介があった。顔は漢族と見分けが付かないので、「回族か」と聞いてみると、「サラ族」だという。サラ族??


王柯著「多民族国家 中国」によれば、「撒拉(サラール)族 人口:10.45万人 その88%が青海省居住」とあり、他の資料には「西海省、甘粛省、新疆に住む 自称サラール 言語はウイグル語に非常に近いが、文字はなく、漢語を用いる 農業を主とする」とある。


この旅行の期間がちょうどラマダンと重なっていた。


◆さてその次は…

今度の旅行で残念だったのは、昭蘇まで行きながら、バインブルク(ユルドゥズ)草原に行けなかったこと。いつかバインブルクの大自然を堪能するだけでなく、ハズルンドの跡を少しでも追ってみたい。


摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-


そして、ジュンガルを滅ぼし中国の新疆支配を確立した清朝発祥の地、満洲。しかし近代以降の満洲と日本との関わりを思うと、気が重くなるようでもあり…


女真・満洲・満族


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by satotak | 2009-05-08 13:13 | 東トルキスタン
2008年 08月 29日

中国新疆ウイグル自治区の行政区分 -民族区域自治のカタチ-


[拡大図]

■ 新疆ウイグル自治区
 □ アルタイ地区
 □ カラマイ市
 □ ボルタラ・モンゴル自治州
 □ 昌吉回族自治州
 □ イリ・カザフ自治州(直轄区域)
 □ ハミ/クムル地区
 □ バインゴリン・モンゴル自治州
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by satotak | 2008-08-29 22:06 | 東トルキスタン
2008年 06月 24日

天山の民・トルフト族 -現代中国のトルグート-

「NHKシルクロード 絲綢之路(しちゅうのみち) 第5巻 天山南路の旅 トルファンからクチャへ」(NHK出版 1988)より:
翌日、私たちは放牧地の遊牧民を訪ねた。[南疆鉄道]ハルダハト大橋の真下に、9つのパオが張ってある。阿拉溝(あらこう)人民公社の放牧場である。パオに近づくと、馬に乗った人たちが、一列に並んで拍手で迎えてくれた。…
遊牧民はモンゴル系のトルフト族である。中央にひときわ背の高い、気品のある顔立ちの人が見える。満光強(まんこうきょう)さん、49歳。トルフト族の王様の子孫である。おだやかな笑みをたたえた満さんと、握手をかわした。

満さんの手は細くしなやかに感じられる。それもそのはず、満さんは北京芸術学院を卒業した音楽家で、現在、南疆鉄道がこの先天山を越えて最初に出会うオアシス和静(わせい)で、文工隊歌舞団のバイオリンを弾いている。日中共同取材団のために、はるばる天山を越えてきてくれたのだ。
満さんに案内されて、一番大きなパオに入った。直径5メートルほどのパオの中には、山のような御馳走が並べられている。羊の肉の大きな塊、蚊取り線香のような形のパン、そしてヨーグルト。厚いじゅうたんの上にあぐらをかくと、まず乾杯である。…

トルフト族は、もともと天山の北、ジュンガル盆地で遊牧生活を送っていた。しかし、17世紀初頭、天然痘(てんねんとう)、自然災害、部族間の抗争などが原因で、25万人の大部隊で、ロシア領のボルガ河流域まで移動していった。だが、望郷の念断ちがたく、1770年、故郷に帰ることとなった。3万3千余りのテント、その数17万人のトルフト族は東へと向かった。艱難辛苦の末、翌年ふるさとの地に帰り着いた時には、わずか7万人になっていたという。当時、西域の少数民族を支配下におくことに全力を傾けていた清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、トルフト族の帰還を喜び、彼らに5か所の放牧地と8個の立派な銀印を与えた。

 

現在、ウルムチの新疆ウイグル自治区博物館におさめられている銀印には、「忠誠なる旧トルフト部族英勇の王」と刻まれ、トルフト族の苦難に満ちた歴史を物語っている。

現在、トルフト族は鉄道沿線の放牧地で、数千頭の馬や羊を飼い、遊牧生活をおくっている。夏は牧草を求めて3千メートルの高い山々まで登り、馬や羊を育てる。冬はマイナス40度近くまで下がるこのあたりを避けて、海抜2千メートル付近まで下りていく。
「この草原を、私たちはハラゴントン草原と呼んでいます」
万年雪を頂く天山の高峰に三方を囲まれた緑の大地を指差して、満さんが言う。
「ハラゴントンというのは、このあたりに多い小さな花の名前です。あそこに細い川が見えますでしょう。あの川の近くにたくさん咲いています」

牧場の中には、天山の雪解け水が何本もの細い川となって斜面を流れている。その川沿いの石の間にハラゴントンの可憐な姿を見つけた。黄色いつりがね草のような草花だ。
幅2メートルほどの川では、女たちが洗濯していた。雪解け水の濁流がゴーゴーと音をたてて流れる。石の上に花模様の洗面器をおいて、女たちが楽しそうにおしゃべりしながら洗っている赤い小さな服は、子どもたちの民族衣裳だろうか。

緑の山すそに目を移すと、百頭を超える馬が疾走してくるのが見える。投げ縄を手にした男が馬にまたがり、そのうしろから馬の群を追っている。土ぼこりを立てて駆け抜ける馬の姿に驚いて、可愛らしい子馬がおどおどしている。首に大きな鈴がついている。
「あれは、おおかみ除けです。夜になると、おおかみが現われて子馬を襲うのです。一週間ほど前にも一頭やられてしまいました」
馬にまたがった精悍(せいかん)な顔つきの青年が教えてくれた。
「だから、日が沈むと、子どもたちを決して外には出さないようにしています」

「生まれて初めて日本人に会いました」
パオの中で、蒸した羊肉の塊から小さなナイフで上手に肉を切りとりながら、満さんがにこやかに語りかけてきた。北京で学んだ満さんでさえ初めてなのだから、他の人たちも当然初めてであろう。そもそも、この地域に外国人が足を踏み入れたのは、少なくとも解放後は初めてのことである。今世紀前半の探検家ヘディンやスタインも、この一帯には足跡を残していない。
「私たちに似た顔立ちの日本の方たちに、何となく親しみを感じますね」
「それは私たちも同じです。先ほどの歌も、なんとなく日本の民謡に似ているような気もしました」
満さんは王様の子孫ではあるが、人民公社に組織されている現在のトルフト族の社会では、
何の役職にもついていない。

人民公社の書記、毛拉(もうら)さんにたずねてみた。
「鉄道が営業を開始すると、どんな影響がありますか?」
「私たちが毎日飲むたん茶は、今、トルファンから馬やラクダで十日もかけて運んでいます。
汽車が走るようになれば、4、5時間で済むでしょう。また、ここから出荷する毛皮も簡単に運べるようになると思います」
たん茶とは、レンガのように固められたお茶の葉で、ナイフでけずってお湯に入れバターと塩を混ぜて飲む。トルフト族の暮らしには欠かせないものである。沿線の人びとが、暮らしに恵みをもたらす南疆麗鉄道を「幸福鉄道」と呼んでいると聞いたが、なるほど確かに「幸福鉄道」であろう。

話がとぎれて、ふと外を見ると、雨のようだ。朝からはっきりしない天気だったが、とうとう降り出したかと思ってパオの外に出ると、雨ではなく雹(ひょう)である。直径5ミリほどの小さな氷の粒が牧草の上に降りそそぎ、はねかえっている。パオの真上を走るハルダハト大橋は霧にかすんでいる。橋の向こうにくっきりと見えた雪山は、すっかり姿を隠してしまった。6月の天山は気象の変化が激しいという。明日は天山越えの峠をラクダで越える計画である。晴れてほしい。
タ方、かすかに日が射してきた。…
6月10日夜、何気なくNHKのBS2にチャンネルを合わせると、喜太郎の音楽と石坂浩二の語りで綴られるなつかしい番組をやっていた。
   「蔵出し劇場 NHK特集”シルクロード” 第9集:天山を貫く~南疆鉄道~」
初回放送が1980年というから、30年近く前の作品。開業前の南疆鉄道を食堂車付の特別列車でトルファンからコルラまで行くという豪華な取材旅行!

その中に出てきたモンゴル系遊牧民が「トルフト族」?
その歴史を聞くと紛れもなくそれは「トルグート族」のものではないか。
「トルグート」を「トルゴト」という例はあったが、「トルフト」ともいうのだろうか。

気になって、テレビを見た後でググってみたが、「トルグートをトルフトともいう」といった記述は見当たらない。それどころか「トルフト族」という用例はこの作品に関係したものを除いてはほとんどないようだ。これは一体どういうことか。
そんな疑問もあってこの作品をゆっくり見直したいと思い、探してみると、何という幸運! Yahoo!オークションに「新品未開封DVD、1000円から」とあったので、早速入札…無事1000円で落札。そしてその後Amazonで新書版「天山南路の旅」を80円(送料は別)で入手。

何だか不思議な気がする。全くの偶然に見たテレビで現代のトルグート族に出会い、幸運にも格安でそのDVDなどを入手。これはテインラマ(注1)の導きか?私はトルグートと何か深い縁でもあるのだろうか?

私も2001年の初夏にトルファンからカシュガルまで南疆鉄道に乗ったが、当時は南疆鉄道に乗ること自体に興味が向いていた。途中、天山山脈中の景色に見とれていたのは憶えているが、そこに暮らす人々やその人々の歴史にまでは思い至らなかったように思う。
トルグート、バインブルク(ユルドゥズ)草原そして南疆鉄道をキーワードに来年の旅行を考えてみるのも面白そうだ。

[拡大図]

30年前にトルフト族の牧地があったのは、南疆鉄道のハルダハト大橋の下、奎先(けいせん)トンネルの東側のはず。今はどうなっているのか。南疆鉄道は彼らに本当に幸福をもたらしたのだろうか。


(注1) 摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-
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by satotak | 2008-06-24 16:55 | 東トルキスタン
2008年 04月 24日

摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-

ハズルンド著「蒙古の旅」(1942 岩波新書)より(内藤岩雄訳):

[1927年12月]
…二日の後私たちは哈密(ハミ)に到著した。そこで私たちは阿片中毒者の廃物である町の支那人司令官と、支那元帥の制服を着けた四十歳位の新疆東部正面の司令官の前に連行された。元帥が話した数語は蒙古語であり、彼の目は親しみのある好奇のまなざしを示した。…

[拡大図]

[1928年9月]
第三章 『西域の汗(ハン)』に拝謁す
…テイン喇嘛(ラマ)の冬の館邸は、荒涼たる環境に全く不意に現出した純白の町であった。
私たちの小さな騎馬行列は町の東側の外壁に沿うて廣いカーヴを描きつつ、南方の外壁の大きな中央門の前に停止した。城壁は高く、頂上に銃眼を設け、堅固な望楼があった。同行の土爾扈特(トルゴト)(注1)はその難攻不落を誇り、テイン喇嘛の築城したエレゲトの土爾扈特城は全新疆で最も崇高な建築物であると断言した。

この外壁の内に内壁が設けてあるが、この両壁間の約百碼(ヤード)の空間は四つの眞直ぐな通りをなし、方形の防衛地を構成していた。外壁の内側に接して低い兵舎があって、通りには兵や馬が群っていた。兵士は褐色のコザックの軍服、露西亜(ロシア)式の乗馬用長靴および黒や白の高い毛皮帽を着けていた。彼らの或る者は比較的現代式の銃を磨くに忙がしく、他の者は野蛮に古色を帯びてはいるが、ぴかぴかと磨いたコザックの軍刀で騎兵剣技を演じていた。

馬は黒、褐、或いは灰色であった。その日テイン喇嘛を警護していた騎兵中隊はそれらと同色の旗のものであった。どの馬もこの國で有名な喀喇沙爾(カラシャル)産の立派な体格をしていた。同地の馬は哈密(ハミ)の瓜、吐魯番(トルファン)の葡萄、庫車(クチャ)の美人と共に新疆の四つの著名な産物として知られ、嘗ては支那皇帝に献ぜられたこの國の主要な貢物であった。…

摂政と私の最初の会見は、その日の夕刻に行はれた。謁見室には露西亜から輸入した家具を備へ附けてあったが、壁には支那の刺繍と蒙古の格言を誌した赤絹の掛布が懸っていた。
土爾扈特の摂政は哈密で私たちを出迎へ、支那の元帥であると自称した人と同一人であった。

そして彼は直ぐに私の隊長や他の旅行仲間の健康や將來の計画について尋ねた。彼は支那元帥の徽章を着け、露西亜の軍服を着用し、彼の胸の勲章は支那と旧露西亜双方のものであった。露西亜勲章は彼の先祖に授与せられたものだが、相続によって承け継がれ、それらを佩用する権利を持っていると彼は言った。

彼は私の欧州名を訊ね、そして彼がそれを欧州風のノートに露西亜文字で記入するのを私は見た。彼はこの國の習慣に從って巻煙草入れの蓋をあけて私にすすめないで、巻煙草を掌に一本載せて私にすすめた。
洋服は彼に不似合であった。彼は小さく且つ目立たなくなり、そして彼の短く刈った頭は満月のやうでをかしかった。しかし、彼のまなざしは人目を惹く程賢明であった。そして彼の溌剌たるまなざしを長く見れば見るほど、彼の声望の根源には立派な才能があるといふことを益々強く感じさせた。…

第五章  土爾扈特の英傑(ストロング・マン)
…だれもが彼のことを活佛(ゲゲン)或いはテイン喇嘛と呼んだ。どちらも彼の本名ではなく、ただ『活佛』或いは『高貴の喇嘛』を指示するに過ぎない。彼の真実の氏名と血統については彼自身に聞き糺すより外はない。といふのは、蒙古人は彼の父と彼の統治者の名を口に上すことが出来ない、両者は彼には神聖だからである。

本当に彼が實際オビシュ汗の後裔であったか、或いはただ彼の印璽の保持者に過ぎなかっただらうか?
そしてもし彼が往古の土爾扈特王朝の後裔であったとしても、活佛は貧しく賎しい者の中からさへ現はれることが出來るといふ常道が定まっているのに、どうして彼は活佛となり得たであらうか?
そして彼の身体に再来したのは、如何なる亜細亜の神であったらうか?…

テイン喇嘛の兄は、1920年彼の死ぬるまで土爾扈特の汗であった。そして現摂政は活佛として婚姻を禁ぜられていたから、権力は彼の死去に際しては現在(1928年)十五歳で、土爾扈特たちがビチゲン汗(小さな汗(ハン))と呼んでいる、彼の兄の子に移るのである。…

テイン喇嘛は彼の青年時代を宗教研究に過し、壮年時代は佛教の聖地を長い間順礼して暮した。彼の兄が死んだ時、彼の甥はまだほんの幼児であった。それゆゑ主なる土爾扈特の族長たちはこの幼い汗が成長するまで、國民の統率者となるやうテイン喇嘛に懇請するため、亜細亜の大半に急使を派遣した。

テイン喇嘛は國民の懇望を容れた。そして彼が最高の権力を引受けた日から、土爾扈特に自由と幸福とを齎(もたら)すべき多くの変革に着手した。
私の土爾扈特の友人たちは近年のあらゆる進歩発達について誇らしげに述べた。

畜群はその量を増加した。馬の品種は摂政の賢明な発意によって亡命の白系露西亜人から立派な純血種の種馬を買入れたことによって、なほ一層改良せられた。彼は支那人の間に大いに需用されている緩歩馬を産出しようと試みて好結果を得、それは現在土爾扈特の最も有利なる輸出品となっている。彼は脱走のコザック兵から武器や弾薬を購入した。それがため土爾扈特の軍隊は、今では中央亜細亜で最も勇敢である計りでなく、最善の武装をしていると大びらに言ふことが出來た。

テイン喇嘛の統治権受任後起った祝福の中で最大のものは、以前は極めて僅かしか恵まれていなかった子供が、近年目立って多くテントの中で生れだしたといふ明白な事實であった。国民はこれを彼らの指導者の神徳に帰しているが、しかし私の開化せる友人たちはそれをテイン喇嘛の魔法的の力よりも、寧ろ彼の人間的知識に依存したものと思っていた。
土爾扈特領域にやって来た露西亜からの亡命者の中に医者の心得のある一人の韃靼人がいて、テイン喇嘛は彼の忠言に耳を貸した。この医者は現在十二の寝台と澤山の藥剤を備へた病院を管理していて、黴毒(ばいどく)やその他の不妊症を撲滅する猛運動を行っている。

烏魯木齊(ウルムチ)の外国商館の代理店の手を.経てテイン喇嘛は、多数の舶來品を手に入れたが、その中に写真機があった。彼は熱心な写真好きとなり、彼自身で現像や焼付をした。この西洋の発明品に対する彼の興味は、彼の若い土爾扈特の近侍者たちの非常な賛成を得た。…

或る日、私は兵舎を訪問した。
牧民兵士の西洋式の教練や装備、それから彼らの鋭敏な様子は最初から私を感動させた。
土爾扈特の士官は西洋人の優雅さを発揮し、その中の一人は私に露西亜語で話しかけた。対話中彼は自分は1771年の大逃亡の際、ヴォルガ河畔に取残された土爾扈特の後裔の一人であると語った。彼は露西亜の教育を受け聖ペテルスブルグで士官の試験に合格し、世界大戦にはオレンブルグとアストラカン地方で募集せられたカルムック師團に配属せられて露西亜側に從軍した。後に彼は『赤色教義』に抗して帝政のため戦ったが、『白軍』が西比利亜(シベリア)で潰滅した後は、逃亡者の群について南方へのがれ、つひに彼と同種族人に遭ふに至った。彼らの統治者が彼を引取ったので彼はその時から忠勤を励むことになった。
摂政の軍隊に露西亜育ちのこの土爾扈特がいることは、エレゲトに多くの西洋風の現象の存在する所以を明かにしてくれた。

土爾扈特摂政の独立自主の傾向は、外界に対する彼の態度にも亦おのづから現はれた。
彼の兄の宮廷では支那人の勢力が圧倒的であった。ところがテイン喇嘛が統治権を掌握した後は、覚醒した蒙古民族精神は支那當局者に疑惑をもつて観られ、その疑惑は間もなく恐怖となるにいたった。摂政は支那人によって『土爾扈特の英傑(ストロング マン)』と噂された。そして彼らは、彼が中心となって数年にして從順にならされていた遊牧民を挑戦的勇猛果敢な民族に変化させた運動を制圧しようと幾度も企てた。

1924年支那軍が東干(トンガヌ)反乱の首魁、馬仲英を潰滅しようとした時、総督は土爾扈特騎兵および駱駝輸送隊の動員を命じた。しかし、テイン喇嘛は支那人の援助の要求を一も二もなく拒絶した。1925年の初め、摂政は甘粛から威嚇的進軍をしつつあった『クリスチャン』將軍馮玉祥を阻止するため、烏魯木齊に彼の騎兵を派遣するやうに懇請せられた。しかし、再びテイン喇嘛は、彼の兵士は自族の利益のためにのみ血を流すべきで、他所の戦争に彼らの血は流させないと回答した。

昔から、土爾扈特は中央亜細亜における支那の最も信頼すべき援軍であった。そこで督辮楊増新は、若し遊牧民たちが最早強制に屈服しないならば、政略的術策と好意的慇懃をもつて彼らを籠絡しなければならないと考へた。
楊増新は、自分の陰謀を廻らし、互に相猜忌する將軍の一人の指揮下にある支那人の屑よりも、信頼出來る遊牧民族長の指揮下にある土爾扈特兵を親衛兵とするのを好むと申し出た。そして土爾扈特親衛兵に対する彼の阿謟的な懇望は、つひにテイン喇嘛をして彼の騎兵三個中隊を派遣せしむることになった。

後日、支那人顧問の説得に從って、楊はテイン喇嘛を烏魯木齊に招いて友好的會見を行った。この會合の秘密の目的は、摂政から彼の権力を剥奪し、未だ未成年者である小汗(ビチゲン・ハン)に土爾扈特汗職の印璽を譲渡させ、後者を支那人顧問の後見の下において土爾扈特を支配せしめることにするといふのであった。テイン喇嘛は旧の雲水生活を再び始めるやうに、強要させられることになっていた。

しかし、烏魯木齊(ウルムチ)におけるその會合へ、テイン喇嘛は素晴しい豪華と壮大とにとり囲まれ、あたかも征服者の凱旋入城式のやうにいかめしく且つ果敢なる遊牧民戦士の多数の護衛兵を引率して到着した。支那人によってたくらまれた政治的手段は商議さへせられないで、テイン喇嘛は支那元帥兼西部國境防衛総司令官に任命せられた。1927年11月、彼は東部より近づきつつある新しい危険――すなはち、スヴエン・ヘディン探検隊!――を迎へるため、哈密(ハミ)に進軍したのは、後者の資格においてであった。…

第八章  草原の法律
…土爾扈特族の総数は八万乃至十二万という非常に違った数字が挙げられている。その組織について私の知り得たところは左の通りである。
十三の土爾扈特部族の各々は札薩克(ヂャサック、世襲首領)によって統治せられている。しかし喀喇沙爾(カラシャル)部族の首領はすべての土爾扈特の汗であって、他の十二は軍事上およびその他の重要な事項について彼に隷属している。

十二人の隷属首領の中二人は親王(チンワン、第一位の王)、二人は郡王(チュンワン、第二位の王)、三人は貝勒(ベイレ、第三の位)、一人は貝子(ベイセ、第四位の王)、一人は公(クン、第一位の侯)、三人は台吉(タイジ、第一位の貴族)、の称号を帯びている。各ホシュンには、その文官行政官として首領から任命されたトサラクチ(協理)がいる。

軍事上は、各ホシュンはソモン(佐領)に分たれ、その五つがグスデの指揮の下に『旗』を構成している。ソモンの兵員は百乃至二百の天幕から募集せられ、メイレンの指揮下に属している。摂政の支配下にある土爾扈特の総兵力は百五十四ソモンに達し、その中五十四ソモンは喀喇沙爾(カラシャル)部族のみから供給せられている。
その上摂政は、名誉あるバドル(勇士)の名を帯びる千四百人の選り抜きの、完全に武装した戦士の親衛兵を持っている。

各部族は、各々割り当てられた地方で遊牧民生活を営んでいるが、これらの中九つは喀喇沙爾部族の周囲に障壁を構成するやうに配置されている。かく互に接近して住居する十の土爾扈特部族をひっくるめて、ホーチン土爾扈特(旧土爾扈特)とよんでいるが、理論上では遠く離れた額濟納河(エチンゴール)土爾扈特もこれに属している。
阿爾泰山中の二部族は新疆に定住した十種族よりも後にヴォルガから帰還したから、シネ
(新)土爾扈特と呼ばれている。この十二部族の首領と額濟納河(エチンゴール)土爾扈特とはアラベングルベン・タマグータイ・ノイェン(十三の印璽を有する王侯)を構成している。

喀喇沙爾土爾扈特の最も重要な遊牧地はツォルトゥス(注2)河畔にあってこの地域を彼らは三つの和碩特(ホショト)部族と共同に使用している。
他の大なる土爾扈特居住地はジルガラン、チンホー(精河)、ホボク・サイリ、ブルゴン、テケスおよびクンゲス諸河の邊およびエレン・ハビルガ山麓にある。…

セン・チェンはその上ボロトラ谿谷の察哈爾(チャハル)蒙古人――彼らの祖先は十八世紀の中葉に清朝皇帝の軍隊と共に彼らの現在の牧地に來た――と相互援助協定を結んでいた。又貧弱で数の少ない彼らの天幕をテケスおよびカシ両河畔並びにタルバガタイの周囲の草原のあちこちに張って、ばらばらの指導者のない額魯特(エルート)族の群とも同種の協約を結んでいた。…

第十一章  土爾扈特の天幕寺院
…数ヶ所の蒙古寺院は十七世紀後半から傳はつているが、近年建立したものはもっと多数でさへある。といふのは、新しい清朝は戦争好きな遊牧民を平和な牧畜者や敬虔な修道僧に一変させるために、草原の茫漠たる廣野に多数の寺院を建立させたからである。…

蒙古人は固定建築物に先天的に嫌悪の情を持っている。そして蒙古の多くの地方…においてはいまだに永久的の石造建築を建てることを、支那商人をはじめとしてすべての者に禁止している。自由の草原は陰欝な建築物で『固め』られてはならない。そして遊牧民は新しい牧場と新しい水飲み場所へと永久に放浪して家畜の群を追うて行く、彼らの第一義務を決して忘却してはならないのである。
しかし修道院および寺院に対してはこれらの法則は適用せられない。といふのは、それらは神と彼らの下僕たる喇嘛の住居であり、かやうな人間的な事由は問題とならないからである。

1920年までは土爾扈特の間には俗人の建築物はなかったが、最初に建てられたのはツォルトゥス(注2)山中のセン・チェンの夏の離宮であった。活佛の資格において彼は人間の掟を蹂躪することが出來た。土爾扈特たちは摂政の行爲はすべて彼の臣下の者に天恵を齎らすことを知っていたから、彼がエレゲトの町を創設して官吏や從者に冬季中それらの木と石と煉瓦の建物に住むやうに命じた時にも、少しの反封も不安も起らなかった。

土爾扈特はセン・チェンの造った、塔や城壁や宏大な建築物のあるエレゲトを誇ってはいたが、然しそれにも拘らす町の住民は長い冬のあひだ中、首領も牧畜者もすべての人が同様に天幕で暮す夏を夢みるのである。暖い季節になるとエレゲトは見捨てられて鎮された町となる。といふのは、土爾扈特は高地の草原に彼らの畜群を追って行き、城砦の守備隊だけが後に残されてツォルトゥスを夢み又遠く隔てたる雪峰に憧れの凝視をするのである。…

間もなくエレゲトを去ることになった。或る晩、私はセン・チェンについてゲゲン・ニ・オルドに入って見たが彼は別に私を拒まなかった。私たちはいつものやうに罪障世界の現實の問題について議論を今しがた終ったばかりであった。しかし、彼が洋服をぬいで長い黄色の喇嘛の法衣に着替へた時、私の目前に居る人は全く別人のやうに見えた。彼の敏捷で怜悧な眼は内観的な半眼となり、きびきびした顔つきは穏かな受容的なものに変った。

私は彼がマイダリと、彼には高遠な理想と深玄な眞理を象徴するその他の金色の佛像の前に、叩頭して祈願するのを見た。絹の掛布や寺院の幡の白、黄、赤、緑および青の神聖な色彩は、祭壇から薄暗い光の中で色々に違って見え、線香の煙は焔のやうに輝く黄色の法衣に包まれて跪伏せる人のまはりを漂うた。
活佛の東洋風に細い手は、何かを形作る様な動作をして、空中に神聖な象徴を描いた。
それから彼は全智の神の青銅の鏡、ダルバナに聖水の滴をふりかけた――私は彼をおき去りにして天幕を出た。唯ひとり神とさし向かひで、この聖者はダルバナの全智のお告げを判じなければならないからである。

第十五章  寺院天幕内の密教
…私ひとりで聖者と対座したのは、私のエレゲトでの長い滞在中これが初めてであった。彼は活佛の衣をつけていたが、その豪奢な襞襀(ひだ)と燦然たる色彩は、地味な洋風の部屋の調度の中で不釣合に見えた。
その夜セン・チェンは私に彼の心の宝庫をすっかり打ち明けて見せた。彼の夢や希望や人生観は私に活佛は、丁度あたかも春と秋とのやうに異っていて、しかも両者が自然の交替として當り前であるやうに彼のもっている二重人格の両面を明白にしたやうに思はれた。

彼の神聖な職務を深刻に意識しているセン・チェンは、人生の荘厳と彼がそのために再来した世界的使命について語った。しかも、彼は新しい経験に対する彼の憧れを若人のやうな歓喜をもって談じた。そして草原の彼方の大世界についての、彼の好奇心を満足させようとする彼の熱望の程度は、中央亜細亜のやうな孤立した場所にいる彼としては聊か悲愴に思はれた。…

セン・チェンは平然たる忍從をもつて、彼の生命の非業な最後を覚悟していた。といふのは、彼は彼の心霊上の父と同様な運命に遭ふと占僧が豫言していたからである。しかし、それより以前に彼は草原の外にある世界を見たがっていた。今度私が彼の國へ再び戻って來たときにはアフガン國王のやうに、彼の國民に力を與へられる西洋の學問を体得し得るため、廣い世界に彼を連れ出すことになった。…

その後何事が起つたのか
同年の秋、私は再び草原に向って旅立つた。しかし私は土爾扈特の國に到着出來ない運命にあった。…

それから病床での幾年かが続き、その間にも私は屡々セン・チェンや彼の部下からの消息や季節の挨拶を受けた。
1932年の始めに吉報は來なくなった。やがて、ニルギトマ王女から土爾扈特の誇った將來の夢は潰されてしまったとの知せが來た。

新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起つたとき、省主席[金樹仁]は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェンを烏魯木齊に招いた。セン・チェンは彼の有力な首領達に取巻かれて到着したが、何らの相談もなされなかった。といふのは、第一日の饗宴の後、土爾扈特たちが省主席の衙門で坐って茶を呑んでいた時、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。
無能な省政府の短見の結果、多くの有能な罪なき人がこの世から失はれ、高潔で人道的な抱負は無意義な混乱状態に変った。

土爾扈特の指導者セン・チェン、モングロルダ・ノイェン、バルダン・グスデ、ロドンおよびリルップ――今はみんな死んでしまった。かつてはよく訓練され、その勢力と強固な組織とが從來中央亜細亜の多くの異人種間の均衡を維持するに大いに與って力があった國民は、復讐に飢ゑて荒れ狂ふ遊牧民集團に変じた。苦力(クーリー)に変装してこの國から逃亡しなくてはならなくなった謀殺者たちを放逐した後、土爾扈特たちは山間に退却して、今は中央亜細亜の政治の將來には全然無頓着になってしまった。

それ以来私は、新疆に関する情報をその後に帰国した探検隊員から聞くのみとなり、しかもそれらは落胆させるばかりのものである。…

(注1) トルゴトトルグート | Torγud[モンゴル]
モンゴル族のオイラト系支派.オイラトの内紛を契機として,ホー・オルロクに率いられたトルダートは,タルバガタイ付近から西遷し,1632年にヴォルガ川下流域の草原に到達した.ロシアはこれをカルムイクと呼んだ.オルロクは44年にアストラハンで戦死したが,その後ロシアとの同盟関係により,比較的安定した時期が続いた.
70年に曾孫アユーキが政権を取ると,ロシアとの関係を保ちつつも,ダライラマとの親密な関係を背景に権力を集中していった.1724年にアユーキが死ぬと部内は混乱し,ロシアの干渉を招いた.
これを嫌ったアユーキの曾孫ウバシは71年初め,17万人近いトルグードを率いて東に移動を開始し,7ヵ月に及ぶ旅程で10万人を失いながら,清朝支配下のイリに帰還した.
乾隆帝は彼らを厚遇し,首長層に王公の位を授けた.
現在その後裔が新疆ウイグル自治区天山山脈南麓の和静県,北麓の精河県,鳥蘇県,アルタイ山脈南麓のホボクサル・モンゴル自治県などに暮らしている.中国では単独の少数民族には認められておらず,民族分類上モンゴル族の中に一括されている.
一方ヴォルガ川流域に残った者たちの子孫は,現在ロシア連邦内にカルムイク共和国を形成している.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者: 楠木賢道))

(注2) ツォルトゥスユルドゥズ草原 | Yulduz[テュルク] Yultuz[ウイグル]
新疆ウイグル自治区,天山山脈内奥に位置する広大な遊牧地.現在はモンゴル語でバインブラク(バインブルク、豊かな泉)草原と呼ばれる.

ボスタン湖に注ぐユルドゥズ(カイドウ=開都)川の水源地.標高は3000m前後,ほぼ南北50Km,東西200kmに及ぶ大盆地をなす.4000~5000m級の山岳に囲まれて,冬は南北縦断道路が閉ざされ,遊牧民は盆地周縁の山岳内部の小渓谷などに分散するが,夏は天山を東西南北に越える交通連絡網の要にもなる.こうした地勢から,歴史上、中央ユーラシア北方の遊牧勢力が南部オアシス地域を支配する重要な拠点となった.6世紀半ば,突厥(とっけつ)の西面可汗イステミ(室点蜜)は本拠地をここにおいてビザンツ使節を迎えたとされる(西突厥).突厥のあとウイグルをはじめとするテユルク系遊牧民が展開したことは間違いない.
モンゴル帝国期以後,また清朝の新疆支配を経て現在では約1万人の遊牧民の95%をモンゴル族が占め,残りはカザフ族である.1980年代から新疆の市場経済化や天山山麓オアシスの都市化が急速に進み,増大する食肉需要に応える必要から牧畜の私的経営が奨励され,外部機関の牧地も根づいた.その結果,100万頭の家畜による過放牧という危機がせまり,草地の保護が大きな課題となっている.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:梅村 坦))

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by satotak | 2008-04-24 21:15 | 東トルキスタン
2008年 04月 10日

東トルキスタン共和国時代のジュンガリア

王 柯著「東トルキスタン共和国研究」(1995 東大出版会)より:


東トルキスタン共和国支配地域 (1945年9月現在)
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共和国政府の大ウイグル主義的傾向
新疆では、五つのトルコ系イスラム民族があり、それはウイグル人・カザフ人・キルギス人・ウズベク人とタタール人である。東トルキスタン共和国政権には、各トルコ系イスラム民族はみな自分の代表をもっていた。たとえば、政府王席のイリハン・トレはウズベク人であり、副王席アキムベグ・ホジャはウイグル人であり、教育省長官アビッブ・ヨンチはタタール人であり、民族軍の副指揮官イスハクベグはキルギス人であり、遊牧業省長官オブリハイリ・トレはカザフ人であった。たしかにモンゴル人の政府委員もいたが、それはいかなる実際の職にも就かず、結局「民族平等」の飾り物にすぎなかった。このような政府委員会メンバーの民族構成は、東トルキスタン共和国がトルコ系イスラム諸民族を主体とする民族国家であることを示している。

東トルキスタン共和国の指導者たち
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しかし、同じトルコ系イスラム民族同士であるにもかかわらず、ウイグル人、ウズベク人、タタール人らオアシス農耕業・商業など同じ生産様式を有するトルコ系イスラム住民は、草原遊牧業を営むカザフ人に対して、政治的な民族差別が設けられていた。

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東トルキスタン共和国領内の総人口は、70万5148人である。そのうちカザフ人は約52.1%、ウイグル人は約25.3%を占めている(表9-1)。ところが、東トルキスタン共和国指導部の構成は、必ずしもこの民族構成を反映していなかった。1944年11月12日に設立された東トルキスタン共和国の臨時政府委員会の17人の委員のうち、ウイグル人が10人、ロシア人が二人、タタール人が二人、ウズベク人が一人、カザフ人が一人、モンゴル人が一人であった(表5-1を参照)。たんなる人数と職務の面からみても、東トルキスタン共和国政府は、主にウイグル人によって構成されていることがわかる。

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新疆のウズベク人とタタール人の人数は非常に少ない。1944年の新疆民政局の調査によれば、当時の新疆省総人口のうち、ウズベク人はわずか0.62%、タタール人はわずか0.14%を占めているにすぎない。にもかかわらず、東トルキスタン共和国主席はウズベク人であり、また政府の要職についているタタール人の政府委員も二人いた。それに比べ、現地人口の過半数を占めているカザフ人の政府委員は、わずか遊牧業省長官に任命された一人であった。ここから、カザフ人が東トルキスタン共和国の政策決定にほとんど影響力をもたないことが、想像できるであろう。

1944年11月12日以降、九人の新しい政府委員が任命された(表9-2)。監察委員会副委員長に任命されたタタール人のワカシ・ハジ、ソ連から軍を率いてきたロシア人のパリノフとキルギス人のイスハクベグ、和平交渉の代表に任命されたウイグル人のエホメッドジャン・カスミを除き、タルバハタイ区・アルタイ区が相次いで東トルキスタン共和国の勢力範囲に入ってから、五人のカザフ人政府委員が任命された。しかし五人のうち、一人は着任が不可能で、三人は地方の責任者であり、残った一人は東トルキスタン共和国の首都クルジャにいたが、いかなる実際の職務にも任命されなかった。つまりいずれも東トルキスタン共和国の政策決定集団に入れられなかった。東トルキスタン共和国において、ウイグル人・ウズベク人・タタール人の政治的優位性に対し、カザフ人がむしろ被支配民族の立場に立たされた理由は、二つ挙げられる。

まず指摘すべきなのは、カザフ人自身の東トルキスタン民族独立運動に対する情熱が、ウイグル人・ウズベク人・タタール人のそれほど強くなかったことである。歴史的にも、アルタイ区とイリ区とは別々の行政単位であり、ウイグル人が多く住むクルジャは、いかなる時代においてもアルタイ・カザフ人の行政的中心とならなかった。本来、東トルキスタン民族独立運動はウイグル人が主体である運動であり、カザフ人には東トルキスタンという意識はなかった。アルタイ区あるいは新疆北部のカザフ人地域は、むしろ「東トルキ.スタン共和国」の時代にはじめて「東トルキスタン」の領域に含まれるようになった。そのため、東トルキスタン共和国に合流してからも、アルタイ区はイリ区にある共和国政府とは、あまり関係しなかった。

しかし、もっとも重要な理由は、ウイグル人、ウズベク人、タタール人のカザフ人に対する民族差別思想にあった。同じトルコ系イスラム住民といっても、実際はカザフ人とウイグル人・ウズベク人・タタール人とのあいだには、大きな文化的隔たりが存在している。ウイグル人・ウズベク人・タタール人のあいだには、オアシス農耕業・商業など同じ生産様式を共有することによって、民族的文化的違和感が非常に希薄であった。しかし一方でウイグル人・ウズベク人・タタール人は、草原遊牧業を営み、彼らとまったくちがう文化構造と社会構造をもっているカザフ人に対し、むしろ文化・経済の側面で差別をつけている。このような差別主義思想は、共和国の行政にも反映されていた。

1946年4月14日の第262号政府決議は、厳しい口調で次の事項を決定した。「一、財政省計画局によるアルタイ区の32万1360元の予算を批准する、二、その使い道について、アルタイ区官庁としては、厳格に審査し、使用状況を機関の首長と会計人員によって共和国銀行に報告しなければならない、…」。決議の日付から、…1946年度の予算であったとわかる。これをアルタイ区で5000万元の「勝利国債」発行を命じた1945年8月22日の第85号政府決議と考え合わせると、予算の金額はあまりにも小さかったと実感せざるをえない。

アルタイ区財政局長ラティプ・ムスタファが当時クルジャにいたため、この金は後に彼によってアルタイ区に運ばれたかもしれない。しかしここで注目すべきは、ラティプ・ムスタファの「クルジャの旅」がアルタイ・カザフ人分裂の大きな引き金となったことである。ラティプは5月にアルタイに帰ってきてからまもなくオスマン・イスラムのもとへ走り、そこから、オスマン・イスラムがチンギリ県、コクトカイ県、ブルルトカイ県において、本来共和国政府によるはずの徴税を独自に開始し、アルタイの町にあるアルタイ区政府、そしてクルジャにある東トルキスタン共和国政府との対決姿勢をみせはじめた。…

オスマン・イスラムの離反は、たんに民族的な要素によるものとは考えられない。そのもっとも重要な理由はオスマン・イスラムの反ソ感情である。…しかし、ラティプ・ムスタファがクルジャから帰った後ただちにオスマン・イスラム自らが徴税しはじめたことを考えると、ラティプ・ムスタファがクルジャで体験したカザフ人に対する経済的な差別が、オスマン・イスラムを離反に走らせた一つの要因ではなかと言わざるを得ない。

カザフ人 オスマン・イスラム
…ソ連が領内のトルコ系イスラム住民とイスラム教に対して弾圧策を取っていたため、東トルキスタン共和国のトルコ系イスラム住民のあいだには、ソ連に反感をもつ人びとが少なくなかった。旧政権と戦った当初はソ連の支援を受けていた一部の民族指導者にも、民族の解放を達成した後、東トルキスタン共和国におけるソ連の横暴に対して不満が噴き出した。アルタイ・カザフ人指導者オスマン・イスラムの場合はその一例であった。

オスマンは最初からアルタイ・カザフ人の反政府運動を指導してきた人物であり、カザフ人にオスマン・バトル(オスマン英雄)と呼ばれていた。しかし1945年9月にアルタイ区の東トルキスタン共和国政権が樹立された際、アルタイ騎兵連隊長・警察局長・各県長など重職に就いたのは、オスマンの側近ではなく、ソ連からきた人物と親ソのカザフ人であった。10月に中国国民政府との和平交渉がはじまってから、内政干渉という口実を与えないため、ソ連はかつてカザフ人ゲリラ・グループに支援したソ連製武器を強引に回収した。この二つのことはオスマンの強い不満を引き起こし、彼はアルタイ区の知事に任命されてからも、しばらく就任しなかった。

オスマンの反ソ感情は、彼の強い宗教信仰心につながる。30年代にソ連から新疆に亡命してきた一人のカザフ人ウラマーが、オスマンに「ソ連が宗教を滅ぼす」と教えたことが、オスマンに大きな影響を与えたとも言われる。オスマンの反ソ感情は、またカザフ人の反ソ志向にもつながる。オスマン自らの話によれば、ソ連がかつてカザフスタン共和国のカザフ人に対して残酷な鎮圧を行ったため、新疆のカザフ人は本来反ソ的であったという。そのため、アルタイ区が東トルキスタン共和国の一部になると、オスマンの複数の部下は、早くも国民政府に降伏した。

やがて和平交渉がはじまり、政府部門とアルタイ騎兵連隊にいたソ連人は撤退した。その後、1945年11月4日にオスマンはアルタイの町に行き、アルタイ区知事に就任した。そこで、彼はシャリーア法の遵守を要求し、「礼拝しない者に50の鞭打ち、断食を行わない者に100の鞭打ち、酒を飲む者に30の鞭打ちの刑を処するべき」との命令を下した。それまでとはまったく異なる統治策をとったため、オスマンは親ソ的カザフ人と衝突し、1946年3月19日にアルタイの町を去り、コクトカイ県で自ら軍を組織し、さらに5月からアルタイ区東部のチンギリ、コクトカイ、ブルルトカイの数県において独自に徴税を開始した。

1946年5月には、ソ連のタングステン採掘隊が、盛世才と1940年に結んだ協定に基づいてオスマンの根拠地コクトカイ県に入り、採掘しはじめた。オスマンは、「私は我が領土、我が宗教を侵略するあらゆるものに、いかなる道をも開かない」と、それを武力で駆逐するよう強く主張し、親ソ的アルタイ区副知事・アルタイ騎兵連隊長デレリカンはこれに反対した。アルタイ・カザフ人の有力者たちは、オスマンが住むク・ウェ地方に集まって対応を討議したが、結局共通の認識がみつからず、アルタイ・カザフ人はついに親中国国民政府と親ソ連の二つのグループに分裂した。


(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
オスマン | Osman, Ospan[カザフ] | 1899ころ~1951
1940年代に新疆で活動したカザフ人の首領.
盛世才政権は,アルタイのカザフ人に対し遊牧社会の改変を強制し,有力者を圧迫した.1940-41年の反乱は鎮圧されたが,43年のオスマンとダリルカンを指導者とする反乱は44年にかけて勢力を拡大した.
一方,44年8月にイリ地区で勃発したテュルク系ムスリムの反乱は,11月には東トルキスタン共和国の樹立へと進んだ.この反乱で組織きれた〈民族軍〉はアルタイにも進出し,ダリルカンと協力して承化(現アルタイ市)を攻略した.45年,アルタイ地区は反乱勢力の手に帰し,オスマンは地区専員に任ぜられた.46年,イリの反乱者と国民党政府との和平協定により新疆省連合政府が成立した後,オスマンはしだいに国民党に接近した.それにより国民党側はイリ反乱勢力の分断を図った.
49年,国共内戦の最終段階で中国西北部に進攻した人民解放軍は,省政府主席ブルハンの要請に伴い新彊に進駐した.アルプテキンら国民党系のウイグル人活動家がトルコに亡命したのに対し,オスマンは中国領内で抵抗を続け/が,人民解放軍に捕らえられ,処刑された.
政治的傾向は必ずしも明確でないが,アルタイ地域のカザフ人としての領域意識が濃厚であったとする評価もある.   (筆者:新免康)
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by satotak | 2008-04-10 21:39 | 東トルキスタン
2008年 03月 30日

シボ族の西遷 -瀋陽からイリへ-

「NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

旅の終わりに
シボ(錫伯)族(注1)という少数民族が、新疆のカザフスタン国境近くのチャプチャル・シボ族自治県に住んでいます。
草原の道の旅の終わりに、私たちはこのシボ族を訪ねることにしました。彼らは遊牧民ではなく、元々は遊牧民であった古代拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)族の末裔ではありますが、数百年前から遊牧は行わず、半農半猟の生活を送っています。なぜ、最後に遊牧民でないシボ族を訪ねるのか? それは、彼らの存在が、遊牧民の近代国家の中での遇され方を象徴しているように思えたからです。

8月28日、チャプチャル・シボ族自治県では、西遷節というお祭りが行われていました。
西遷節とはその名の通り、シボ族が西へ向かって移動した時のことを記念するお祭りで、シボ族とは18世紀、清朝皇帝の命により故郷である中国・東北地方の瀋陽(しんよう)から苦難に満ちた5000キロの道のりを1年9か月の月日をかけて大移動し、この地に住み着いた人々なのです。

シボ族を大移動させた清朝の目的は、少数民族であるシボ族を用い、騎馬遊牧民ジュンガルの残党による反乱を制圧し、対ロシアの国境線を守ることにありました。シボ族はこの命令に従い、大移動の末チャプチャルに住み着き、戦争の時は銃をとって前線で戦い、平時にも軍備を怠ることなく、辺境の荒れ地を開墾して生きてきました。彼らの存在で、ほぼ現在あるような国境線が確定することになりました。

清朝皇帝の苛酷な命令に従ったシボ族ですが、その「草原の道」を西へたどる1年9か月の旅路の記憶は、シボ族受難の歴史として、今でも歌や絵画など様々な形で次世代に伝えられています。文字を読み書きできない人にも伝わる、文字によらない歴史の継承。私たちは、シボ族の西遷の旅路を、史実に基づき40年にわたって絵に描き続けている画家、何興謙(かこうけん)さんを訪ねました。

何さんは元々学校の絵の先生で、ある時、自分たちの歴史を後世に伝えるため絵を描くことを決意し、現在まで50枚もの西遷の絵を描き続けています。ある時は極寒の洞窟でひと冬を過ごし、またある時は十分な食料もなく乾燥した砂礫の原を強行する長く苦しい旅路でした。そのため逃亡者が続出したのですが、その逃亡者は捕らえられ、皇帝の命に背いたとして処刑されました。自分たちの仲間を自分たちの手で処刑するという、筆舌に尽くしがたい体験を描いた絵を目にすると、ある感慨が私たちをつつみます。

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その感慨とは、次のようなものです。
これまで私たちは、騎馬遊牧民のかすかな歴史をたどってきました。国境にも民族にも囚われることなく、ユーラシアの大地を風のように走り抜けていった遊牧民を、国境線の中に押し込める役割を担ったのがシボ族ですが、彼らもまた時の権力によって暴力的に強制移住させられた民でした。少数民族を制するのに、少数民族の手をもってするという、近代国家の非情さ。そして、その苛酷な運命に従順に処して、それを誇りとしている人々が、今も中国の片隅で生きています。
ごく平凡な日々を生きているシボ族の人々、そのひとりひとりが、こうした近代の歴史を背負っているのだなあ、と思うのです。


(注1) シボ族シベ[人] | sibe[満洲語]
中国東北の嫩江(のんこう)流域を原住地とし,ツングース系言語を話す民族. シボ人とも. 漢語では錫伯と表記する。2000年の中国の人口調査によると, 人口は約18万9000人, そのうち約13万3000人が遼寧省に, 約3万5000人が新疆ウイグル自治区に居住する.

1692年にモンゴル族ホルチン部の支配下から, 清朝の直接支配下に移り, チチハル, ベドゥネ(吉林省松源市), 吉林の駐防兵となり, 99年から1701年にかけて, チチハル, ベドゥネのシベ族は盛京(遼寧省瀋陽市)に, 吉林のシベ族は北京に移駐した. さらに清朝によるジュンガル平定後の1764年に盛京のシベ族の一部が現新疆ウイグル自治区のイリに移されて駐防兵となった.

この集団は1954年にイリ川南岸に成立したチャプチャル・シベ自治県の礎となり, 現在約1万9000人のシベ族が8集落に分かれて居住し. 農耕生活をしている. シベ族はこの集落のことを, 現在も清朝時代の軍事組織, 八旗の基層単位であるニルと呼ぶ.

絶対的多数派民族がいないイリにおいては, 満洲語の一方言であるシベ語口語をはじめ, 自民族の客観的属性の多くを保持しているのに対し, その他の地域では民族の客観的属性のほとんどを失い, 漢化が進んでいる.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:楠木賢道) )

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by satotak | 2008-03-30 19:59 | 東トルキスタン
2008年 03月 21日

イリ帰還後のトルグート

モンゴル国立中央図書館蔵『トルグート王統記』について」(宮脇淳子 2007)より:

ハズルンドが見たトルグート
…20世紀初めに新疆トルグート部を訪ねた、デンマークの有名な探険家ヘンニング・ハズルンド・クリステンセン... 彼は、1927-30年、スウェーデンの大探検家スヴェン・ヘディンが統率した中央アジア科学探検隊の一員になった。1928年から29年にかけて、ハズルンドは、新疆ウルムチの探検隊本隊から分かれて一人で天山山脈中のトルグートの牧地を訪れ、そこで一冊の古文書史料に遭遇したのである。…

…ハズルンド著『蒙古の旅』(内藤岩雄訳)の記述を利用しながら見てみよう。

1928年9月、ハズルンドはモンゴル語のできる二人の支那人従者とともに、支那官憲に気取られないよう、新疆ウルムチを出発した。トルファン盆地から山中に入った三日目、毛皮の帽子とコザックの軍服を着た二人のトルグート人が彼を出迎えた。彼らはウルムチから付いてきていたのである。一行はカラシャール(焉耆)に通ずる大道路を避けて、天山山脈の裾野にわけ入った。山肌を進み、やがてホシュート部の族長の野営地に到着した。おそらく小ユルドゥズ渓谷であると思われるこの一帯で遊牧していたホシュート部は、1771年にヴォルガ河畔からトルグート部とともに帰還した部族であった。まだ若いホシュート部族長の夫人はトルグート部族長の王女で、彼女の弟が、将来トルグート部を継承するはずであった。

この地でホシュート部の従者も加わって騎馬行列のようになった一行は、高い山の窪地で野営し、さらに峠を西に進み、渓谷を降り、渓流が大河となる低地の草原に出た。大ユルドゥズ渓谷と思われる。突然、トルグート部の指導者、テイン・ラマの冬の館邸である純白の町が出現した。これが、エレゲトのトルグート城であった。頂上に銃眼を設けた高い城壁に囲まれ、衛門だけが支那式で、あとはチベット(西蔵)様式の建物であった。…

…ハズルンドは1929年の新年、摂政(テイン・ラマ)の冬の館邸エレゲトから北へ一日行程のシャラ・スム(黄色い寺)廟を訪ねた。シャラ・スムは、広々とした谷間の南斜面に建てられた、九つの寺堂から成る、大建築物であった。一万五千いたラマ僧を、セン・チェン(テイン・ラマ)は摂政になったあと、三分の二以上減らした。仏教の教義に精通したものか美術工芸に堪能な者以外は、遊牧民生活に戻すために送り還したのである。

寺院には立派な図書館が付属していた。書籍の数は莫大であり、ハズルンドの時間は限られていたので、書籍の書名と内容に知悉しているラマたちに質問するだけにとどめなければならなかった。文庫はラマ教の寺院にありふれている西蔵の経書のみから成っているように思われたが、ついに住職との話で、トルグートの歴史家によって幾代にもわたって編纂せられた「トルゴト・ラレルロ(トルグートの起源)」と題される古文書の存在することがわかった。この著述は他の多くのトルグートの写本と同様に、この種族によって殆ど宗教的畏敬を以って見られていて、ただ選ばれた少数の者ばかりがこれを保管した楼閣に出入りすることが出来た。…

テイン・ラマの運命
テイン・ラマは…トイン・ラマ・ルーザン・チェレン・チュムベルと言い、中国側では「多活仏」と記される。彼は1890年、トルグート第五代ハーン、ブヤン・チョクトの第四子として生まれた。ヴォルガ河から帰還した旧トルグート部長ウバシ・ハーンから数えて七代目の直系の子孫であっが、チベットのセン・チェン活仏の化身と認定され、1897年、七歳でチベットに行き、戒を受けて修行し「トイン(沙弥)・ラマ」となった。

一方、トルグート部族長の方は、1891年ブヤン・チョクトが病気で亡くなると、多活仏の兄である長男ブヤン・モンケが第六代ハーンに即位した。辛亥革命後の1917年、ブヤン・モンケが突然死に、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。当時の新疆の実力者、楊増新(新疆都督)は、未亡人のセルジブジドにトルグート事務の処理を命じたが、実権は多活仏の手中にあった。1922年セルジブジドが亡くなると、北洋政府国務院は、多活仏が摂政となってハーンの事務を行うように命じた。…

1932年、新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起こったとき、省主席(金樹仁)は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェン(トイン・ラマ)をウルムチに招いた。セン・チェンは彼の有力な首領たちに取巻かれて到着したが、なんらの相談もなされなかった。というのは、第一日の饗宴の後、トルグートたちが省主席の衛門で座って茶を飲んでいたとき、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。…

イリ帰還後のトルグート部
乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部が、ロシアを離れて自発的に清朝に帰属した(1771年)ことを、ことのほか喜び、自ら、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。…

乾隆帝は詔を発し、トルグート部を新旧二部に分け、それぞれジャサク(旗長)を設けた。1630年ヴォルガ河畔に移住し、今回イリの故郷に戻ったトルグート部は、「ウネンスジュクト(真の信仰を持つ)旧トルグート」と名づけ、十部に分け、ウバシに管轄させた。ウバシはハンとなり、以下の王公は、モンゴル各部と同様、それぞれ、親王、郡王、ベイレ(貝勒)、ベイセ(貝子)、公、一等タイジ(台吉)に封じられた

一方、ジューンガル帝国の構成員であって、1755年に清軍がイリを攻めた時にヴォルガ河畔に逃げ、今回再びイリに帰ってきたトルグートを、乾隆帝は「チンセトキルト(誠の心を持つ)新トルグート」と名付け、首長のシェレンを郡王に、他の一人をベイセに封じた。シェレン率いる新トルグート部は、おそらくジューンガル帝国崩壊後、ロシアに逃げてヴォルガ・トルグート部に合流したとき、そこで「新トルグート」と呼ばれたのであろう。…

さらに乾隆帝は、翌1772年に彼らに牧地を賜った。…彼らに与えられた牧地は、…すべてイリ将軍の統括下にあった。

1783年になって、乾隆帝の詔により、旧トルグートは東西南北の四路に分けられることになり、四人の盟長と三人の副盟長が置かれた。新トルグートは左右二翼に分けられ、正副各一人の盟長が置かれた。…

旧トルグート南路・ハーン旗ジャサク、ジョリクト・ハーンであったマハバザルは、1852年に亡くなり、息子ラトナバザルが後を継いで、1857年にブヤン・オルジェイトと改名した。同年、ブヤン・オルジェイトは、ヤンギサールその他の地方における盗賊を掃討するのに功があったことを清から賞せられ、ウネンスジュクト盟の副盟長の地位を与えられた。しかし、1864年に勃発したムスリムの大反乱(同治の回乱)により、彼はイリの牧地をことごとく失ってウルムチに逃げてきた。京師(北京)に行って皇帝に謁見したいという願いが聞き入れられ、1868年、ブヤン・オルジェイトは北京に赴き、清の同治帝に拝謁することができた。翌年、ウネンスジュクト盟長に賞せられ、さらに1872年には御前走行を命ぜられた。ブヤン・オルジェイトは1876年に病没し、息子のブヤン・チョクトが後を継ぎ、父のハーン号と盟長を引き継いだ。…

ブヤン・チョクト・ハーンは1891年に病没し、長子ブヤン・モンケが跡を継いだが、盟長の事務はその祖母が取った。1896年に今度は、盟長とジャサクの事務をブヤン・モンケの母が取ることになった。1902年、ブヤン・モンケが18歳になったので、ようやく自ら印務を取るようになったとある。夫人が摂政になる伝統があったらしい。

ブヤン・モンケの死後(辛亥革命後の1917年)、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。マンチュクジャブの息子、ハーン・ゴンボ・デジドは、ゴンボ・ダンジンという名前であるが、現代中国の研究書の系図にも名前が掲載されているから、少なくとも戦後まで生きていたことは間違いない。…

現モンゴル国西部のホブド一帯にはかなりの数のトルグート人が住んでおり、もともとアルタイ山中のブルガンにいたという。彼らの言うところでは、毛沢東とスターリンの間で、新疆とモンゴル人民共和国の国境線が一夜にして引かれることになった。このとき、あわててアルタイ山脈を越えてこちら側に来たのが自分たちで、山の向こうに留まった同族が新疆トルグート・モンゴルであるという。…
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by satotak | 2008-03-21 13:12 | 東トルキスタン
2008年 03月 13日

トルグート部の帰還 -ジュンガル滅亡後のジュンガリア-

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国」(講談社 1995)より:

トルグート部とロシアとの同盟関係
1755年のジューンガル征伐の際、清軍は最初は無血でイリに到達したが、ホイト部長アムルサナーの叛逆とハルハのチングンザブの蜂起のあと、各地でジューンガルの残党が清軍を襲撃する事件が起こった。清軍がこれらの残党を掃討し続けている間に、天然痘が大流行し、オイラトの人口は激減した。なかでもジューンガルの人びとはほぼ全滅したという。イリ地方は、ほとんど無人地帯になった。

これを知ったヴォルガ河畔トルグート部長ウバシは、1771(乾隆36)年初め、配下の3万3千家族を引き連れてヴォルガ河畔を出発し、カザフ草原を過ぎてバルハシ湖沙漠を遠回りし、7ヵ月後にイリの故郷に到って、清の乾隆帝の保護を求めた。その年は暖かく、ヴォルガ河が凍結しなかったので、ヴォルガ右岸(西方)のカルムィク(トルグート部とドルベト部とホシュート部など) 1万数千家族は、渡河できずに取り残された。その子孫が、いまのロシア連邦内のカルムィク共和国の人びとである。

ここで、1630年にヴォルガ河畔に移住(注1)したあと1771年にそこを去るまでの、140年にわたるトルグート部とロシアの関係について、簡単に説明しよう。
アジアの奥地からやってきて、ヴォルガ河畔の草原を支配した新しい遊牧民カルムィク(トルグート部を中心とするオイラト)は、モスクワ政府にとって最初歓迎されざる客であった。モスクワ政府がようやく懐柔したヴォルガ左岸(東方)のノガイ・タタルは、カルムィクに駆逐されて、ヴォルガ河を渡ってクリム・タタルに合流したからである。しかし、1654年クリムとオスマン・トルコが同盟すると、モスクワ政府の政策は、カルムィクの軍事力を利用する方向に転換した。

モスクワは、カルムィクにロシアの町での交易の許可を与え、クリムを攻撃する見返りに贈物や報酬を約束したが、カルムィクがクリムの配下に入ったノガイを襲撃するのは、かれら自身の領民や牧地拡大のためだった。カルムィクたちはその後ずっと、報酬を受け取っても、モスクワの希望通りに行動したりはしなかった。

ヴォルガに移住したホー・オルロクの曾孫アユーキは、父プンツクの死後1669年にトルグート部長になった。かれは、1673年にモスクワ政府と同盟を結んだ。ウクライナ領有をめぐる紛争が激化していたので、ロシアはカルムィク騎馬隊の従軍を必要としたのである。モスクワ側から見れば、この同盟でアユーキは臣民として忠誠を誓ったことになったが、アユーキにすれば、ライバルの諸首長に勝って、多数の領民支配をロシアに公認されたことになった。

1677~83年に及ぶロシア・オスマン会戦の間、カルムィクはロシア側に立ったが、オスマンとクリムが多くの贈物を携えた使節をアユーキに派遣し続けたので、1683~96年アユーキは中立を守った。この間、アユーキ自身はモスクワとの独占的関係によって莫大な富を蓄え、他のカルムィク首長とは比較にならない強力な権力を手中にした。1697年、アユーキとロシアのゴリツィン公爵は、対等な権力者間の新たな同盟条約にサインした。…

トルグート部とジューンガルとのライバル関係
…1641年頃生まれたトルグート部長アユーキは、ジューンガル部長バートル・ホンタイジの孫であった。つまり、センゲとガルダンの甥であり、ツェワンラブタンの従兄弟であった。ダライラマ五世の摂政サンギェ・ギャツォは、1694年にジューンガル部長ツェワンラブタンにホンタイジ号を授けたあと、1697年ガルダンがアルタイ山中で死ぬ直前、ダライラマ六世の名のもと、なんとトルグート部長アユーキに、ダイチン・アヨシ・ハーンの称号を授けたのである。

ジューンガルのガルダンは、母方ではあるが、それでもチンギス・ハーンの弟の子孫と見なされたグーシ・ハーンの孫である。トルグート部長アユーキのハーン号には、チンギス統原理からすれば、もはやなんの根拠もない。ジューンガルのガルダン・ボショクト・ハーンの甥というだけだった(注2)。チベットのダライラマ政権すなわち摂政サンギェ・ギャツォは、ヴォルガ河畔で異教徒たちに君臨し、大勢力を築いていたアユーキを、遊牧民の間で信仰されていたチンギス統原理を無視して、全オイラトのハーンと承認した。ゲルク派にとって、ヴォルガ河畔のオイラト人は、最も遠隔地にいる、自派の有力な施主であったからだろう。

一方のアユーキにとって、このダライラマ政権によるハーン号授与は、周りのチンギス・ハーンの子孫のイスラム教徒たちに対して、実に有効な切り札となった。…

ホンタイジ号を有するジューンガル部長と、ハーン号を有するトルグート部長は、その後さらにいっそう、オイラト部族連合の盟主の地位を争うライバルになった。…

1698年、アユーキは、自分の従兄弟のアラブジュルを団長とする大使節団をチベットに派遣した。チベットからハーン号を授かったアユーキは、全オイラト統合の意図を持ったのである。ところが、父と対立していたアユーキの息子の一人サンジブが、自分の領民1万5千家族を連れて、ジューンガルのツェワンラブタンのもとへ走った。…およそ6万人の遊牧民がトルグート部からジューンガル部へ移ったせいで、軍事的にも政治的にもツェワンラブタンの勢力が優勢になり、アユーキは、ジューンガル制圧と全オイラト統合をあきらめざるを得なくなった。

一方、チベットに派遣されたアラブジュルは、ダライラマを訪問して帰国しようとしたところ、ツェワンラブタンとアユーキの間が不和になり、ジューンガルを通過できなくなった。アラブジュル一行は、やむなく清朝皇帝を頼って行き、嘉硲関(かよくかん)外に牧地を与えられた。かれらトルグート部は、1731(雍正9)年にエジネ河畔に牧地を移されて、エジネ・トルグートとよばれるようになった。…

ロシアと清朝のトルグート部への対応
アユーキ・ハーンが1724年に死んだ後、…継承争いのあと、アユーキの長男チャタドルジャブの息子ドンドクダシがトルグート部長となった。

ロシアの干渉のせいで長びいた内乱と、ロシア人の入植による遊牧地の減少の結果、カルムィクのなかでは、家畜を失って貧窮化し、漁師になる者やロシア正教に改宗する者や、子供や自分をロシア人に売る者が出てきた。しかも漁業権と塩はロシア人が握り、カルムィク人をロシアの法律で裁いた。ロシアは、カルムィクの経済力と軍事力が衰退したので、新たな遊牧民カザフとの関係を強化していた。このような中ですでに1747(乾隆12)年、トルグート部長ドンドクダシはロシアを去ろうとしていた。…

1761年、ドンドクダシの息子ウバシが17歳で父の後を継いだ頃、ヴォルガ河沿いにウクライナ人、ロシア人、ドイツ人の入植が進み、カルムィクは水のない荒れ地に追いやられた。現地の事情を知らないイェカテリナ二世は、カルムィクの抗議に耳をかさず、モスクワで地図を見ながら、カルムィクが遊牧する土地はたくさん残っていると断定した。その上、オスマン・トルコとの戦争に、応じるのが無理な数のカルムィク騎馬兵の参加を命じた。

すでに、ジューンガル部滅亡の情報が、ヴォルガ河畔にも届いていた。イリのオイラト人口が激減したことを知ったトルグート部は、今度こそ絶望的な状況のヴォルガ草原を脱出して、父祖の土地イリに向かった。ロシア配下のコサックやバシキル人や、カザフやキルギズなどの追跡と攻撃を受け、7ヵ月に及ぶ困難な逃避行で10万人を失った末、ウバシ率いる7万人のトルグートは、1771(乾隆36)年にイリ地方に帰還したのである。

乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部がロシアを離れて自発的に清朝に帰属したことを、ことのほか喜んだ。乾隆帝はみずから、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。そのなかの、頭韻を踏んだ四行詩を、満洲語原文から翻訳して紹介しよう。

〈このトルグート部というもの、
これらの先のハンはアユキであった、
ここに至ってウバシはオロス(ロシア)に背いて、
エジル(ヴォルガ)の地から降って来た。

懐柔したのでもないのに皇帝の徳化を慕ってきたのである、
手厚く恩を及ぼしあまねく慈しむべきである、…〉

清朝は、1636年、満洲人、モンゴル人、漢人の三種族から推戴された共通の皇帝が、チンギス・ハーンの孫のフビライ.ハーンが建てた元朝から統治の正統を受け継いで誕生した国家であった。ジューンガル征伐ののち、思いもかけずロシアからトルグート部が帰ってきたことは、清の徳を天下に知らしめる慶事であった。乾隆帝は、尊敬する祖父康煕帝も果たせなかった、全モンゴルの帰順という偉業を成し遂げたことに、心から満足したのである。

一方、カルムィクに脱走されたロシアの方だが、当時イェカテリナ二世が進めていた拡張主義政策に、カルムィクだけでなくロシア南方のさまざまな集団が不安を感じていた。ヴォルガ・カルムィクの大集団が、ロシア人に妨害されずに逃亡したことで、ロシアの辺境守備隊の無能ぶりと人力の不足が暴露された。カルムィクの背反に勇気づけられたクバン人やカバルダ人は、もはやカルムィクの援助のない草原の小規模のロシア守備隊を盛んに襲撃し、ロシアの町に対するカザフの掠奪も増加した。バシキル人は反抗的になり、伝統的な自由が脅かされていると感じたけれどもカルムィクと違って行く先のないヤイク・コサックは、ロシア政府に対して武装蜂起した。カルムィクが脱走した2年後、南ロシアすべてが、プガチョフの乱(プーシキンの小説「大尉の娘』の題材となった)として有名な大暴動の炎の中にあった。

(注1) トルグート部のヴォルガ河畔への移住
後世ヴォルガ河畔で書かれた年代記『カルムィク・ハーン略史』は、1630年のトルグート部の移住の背景をこのように伝える。

四オイラトで乱となった時、トルグートのタイシであったホー・オルロクという者が、「そのように互いに殺し合ってアルバト(属民)たちが尽きるよりは、遠い土地に行って異姓のウルスの近くに住んで、かれらと戦い、戦利品を取って暮らす方がましになろうぞ」と考えて、1618年にカスピ海の方に心利いた人を遣わして、その土地は主がないと確かに知って、1628年に自分のアルバト(属民)のトルグート、及びホシュートとドルベト5万家族を連れて、6人の息子を従えて、もとの牧地を捨てて、日の沈む方向に出発した。ジャイ(ウラル)河に到らないうちにエンバ河の傍らに牧地を持つ一群のタタルを打ち負かし、ジャイ(ウラル河)を渡ってノガイ、キタイ、キプチャク、ジテシェンというタタル人たちを征服して、1630年にイジル(ヴォルガ河)に到った。

(注2) オイラト部族連合系図
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by satotak | 2008-03-13 12:00 | 東トルキスタン
2008年 02月 05日

草原の道 風の民 -「歴史」の痕跡-

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「 NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

…東はモンゴル草原から西は黒海北岸の南ロシア草原まで、7500キロにおよんでユーラシア大陸に横たわる草原地帯があり…、それらの草原を「草原の道(ステップ・ロード)」と総称します。
これは、東西交易路であるシルクロードのひとつで、砂漠のオアシスをつなげるオアシス・ロードより歴史的に古くから確認されていて、紀元前5世紀に記されたギリシャのヘロドトスの歴史書に、すでにその存在が記述されています。しかも水や草があるため馬の移動に適していて、ラクダに乗るよりはるかに速く旅することが可能でした。

この「草原の道」の存在が、あまたの騎馬遊牧国家――スキタイ、匈奴、突厥、モンゴル、ジュンガル――がユーラシアの広い地域を支配することを可能にし、時に広大な世界帝国を出現させる要因となって、ユーラシアの歴史そのものを動かしてきました。特に、ユーラシア大陸に横たわる「草原の道」の中でも、中国の天山山脈はそのほぼ中央に位置し、ヨーロッパ世界と中華世界を結ぶ上で重要な場所でした。
この天山山脈北麓の草原地帯(天山北路)をたどりながら、その土地土地に残っている騎馬遊牧民の歴史の痕跡を撮影していこうというのが、私たちの取材の眼目なのです。…

[拡大図]

遊牧民~近代国家
ユーラシア内陸部が清朝とロシア帝国に割拠されていった時代は、また国というものが近代国家としての条件を整えていく時代でもあったようです。
国民からすべからく徴収する税金と兵役を近代国家システムの大きな要素と考えるなら、それは、国民があるひとつの住所に定住し、国が国民をひとりひとり把握しうることを暗黙の前提としています。ところが遊牧民というのは、決まった住所というものを持たず、その年その年によって、またその季節によって、気温や天候に左右されながら草を求めて移動していきます。

その移動は全く自由に行われているわけではなく、ある季節にある部族が使える牧草地は代々決まっているそうなのですが、それでも例えば大規模な雪害などがあると、遊牧民は国境すら越えた大移動を行ったりもしてきました。こうした遊牧民の流動性というものは、国民全員から徴税と徴兵を行うことを基礎とする近代国家の成り立ちにそぐわないともいえます。特に清朝の時代は、ロシア帝国と清朝の間で国境線を巡って緊張が続いていたのですから、そんな時期に遊牧民に自分の都合で国境線を行ったり来たりされては、国としても困るのです。

この遊牧民の「まつろわぬ民」としての側面が、近代国家のシステムから遊牧民を阻害する要因となったとしても不思議ではありません。清朝以降、遊牧民というものが政治・社会の表舞台から次第に追いやられてしまったかのような印象を受けるのは、この近代国家と遊牧民の本質的矛盾によると考えられるのではないでしょうか。

現在、世界の中で、昔ながらの生活様式を残している騎馬遊牧民は限られています。モンゴル国と中国の内モンゴルとこの新疆が、世界で最後に残された騎馬遊牧民の大地です。誤解を恐れずに言うなら、往々にして彼らはその国で文化的に遅れた人々と誤解されることが少なくなく(実際に、教育と医療という面から見て、非常にハンディキャップを負うことになります)、自文化と伝統を大切にしている点は認められつつも、その存在そのものが前時代の遺物と見られがちです。

しかし、いま世界の先端では、近代国家を覆っていた堅い殻が様々な動因によって溶け始めていて、人も物も全て国境を越えて流動するのが当たり前になっていますが、そうした世界の中で遊牧民の定住しない流動性を考えてみると、これまでの見方とは全く違った、遊牧に新しい価値観を見出す視点が意味を持ち始めています。

一方、私たちが直接会う遊牧民は、そうした外部からの価値付けとは全く別の所で生きているのも事実で、彼らの中には遊牧より定住生活の物質的豊かさを望む人々も少なくないし、当然彼らも贅沢な都市生活に憧れ、お金が欲しいと切に願っていたりもするのです。そういう遊牧民たちに、あなたたちの遊牧生活は、実はとても先端的な生活スタイルなのですよといったところで、その言葉は彼らには届きそうにありません。結局、彼らがどのような生活スタイルをとるかということは、彼ら自身が決めていくことなのでしょう。その結果として、遊牧という生活スタイルが滅んでしまうなら、それはそれで仕方のないことだという気がします。…

民族~歴史
60日間、1万キロにおよぶこの撮影の旅で、私たちは一体何を探していたことになるのだろうと、自問してみたくなりました。

いくつもの遺跡を訪ね、おそらくは数百年もの間、姿を変えていないだろうと思われる広大な風景の前に立ち、時には遊牧民に先祖から代々伝わってきた歌に耳を傾け、時には民族大移動の記憶を描いた絵画を目にしてきました。
そのひとつひとつの向こう側に私たちが探していたのは、文字で記録されることなく、大文字の「歴史」の中に生きた痕跡を何ら残さずに、普通に生き、普通に死んでいった無数の遊牧民の、確かにそこに生きていたという、かすかな痕跡だったのではないでしょうか。
そして、その無数の人々の生きた痕跡をたどりながら、私たちは二つの問いを常に反芻していたように思います。
民族とは何か?
そして、そうした民族が背負っている「歴史とは何か?

私たちが取材で現地の人を紹介される時、この遊牧民はカザフ族です、この遊牧民はモンゴル族です、この人々はウイグル族です、といったように、全てが中国56民族(漢民族と55少数民族)にカテゴライズされ、目の前に現れることになります。しかしよくよく調べてみると、民族とはそれほど単純なものではなく、特にユーラシア内陸部では民族が複雑に交錯し、融合し、重なり合っているため、今の民族の区分は、中華人民共和国成立を契機に分類された、とても新しい概念であることがわかります。

民族の意識が隆起してくると、決まって民族の記憶としての「歴史」が声高に語られ始め、その「歴史」が語られることで民族意識はさらに高揚するという事態が、90年代以降、世界各地で見られるのはご存知の通りです。でも、民族紛争を生起させるほど、民族の違いというのは、決定的なものなのでしょうか? そして、そんな民族意識を高揚させるために語られる「歴史」に何の意味があるのでしょうか? そういう問いが、取材している間、何度となく私たちにやってきました。

私たちが、撮影の合間によく立ち寄った拌面(ばんめん、ウイグル語で「ラグメン」)屋がありました。新疆の西の端、カザフスタン国境に近い街道沿いの店です。
そこに17歳の少女が働いていて、何のことはない、その女の子がかわいいのでどうしても私たちの足がその店にむいてしまうだけなのですが、彼女は回族でした。店は父、母、姉とその少女の4人でやっている小さな拌面屋です。
その店のある村は、とても小さな何もない村で、少女は生まれてからその故郷の村を離れたことがほとんどなく、遠いウルムチや北京といった都会に憧れながら、それでも毎日母を手伝って拌面を作っています。

最近、中国でもインターネット・カフェが流行っていて、田舎の町にもあったりするのですが、17歳の少女は一時間かけて歩いて隣町に行き、インターネット・カフェでチャットをしたりする楽しみを見つけ、でも親に知れるととても怒られるのだと話していました。
そういう話を聞くと、この21世紀初頭に生きる17歳の少女のリアルが、日本に住む私たちとも地続きのように思えて、そういうことと彼女が回族であることにはあまり関係がないと思えてきます。

ウルムチに滞在中の私たちに何度となくウイグル族の踊りを披露してくれた19歳の女の子は、パートタイムのダンサーで、私たちも取材で訪れたチャプチャル出身の、ウイグル族シボ族のハーフでした。
彼女は、大学でドイツ語を勉強したいと希望しながら、家に大学に行くだけのお金がないので、幼稚園の子供たちにダンスを教えて進学資金を貯めています。北京オリンピックの応援団の一員として、チームダンスを今から練習しているといい、昼間は朝9時から幼稚園で働き、夜も毎日ダンスの練習に明け暮れています。
彼女は、普段いつも微笑んでいるのですが、時々その笑顔が少し哀しく見えることがあって、それはおそらく彼女の家が経済的にとても困っていることに起因していると思われるのですが、でも、そういうことを彼女が私たちに向かって口にすることはないのでした。
ただ、彼女が日本のMr.Childrenの歌がとても好きだと言っていたのを思い出します。そういう、今の中国に生きている19歳の女の子のリアルと、彼女がウイグル族とシボ族の血を受け継いでいることに、何の関係もないように思うのです。

もしかしたら、回族であったり、ウイグル族とシボ族のハーフであったりすることが、つまり少数民族であるということが、経済的に不利な境遇を作る原因になっているのかもしれません。でも、彼女たちの今の生活は、そういう民族にカテゴライズされるような巾には収まりきっていないように思えるのです。…
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by satotak | 2008-02-05 12:49 | 東トルキスタン
2008年 01月 12日

西暦1700年前後のタリム盆地とジューンガル、チベット

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ガルダン、タリム盆地を支配する
ジューンガル部長ガルダン・ホンタイジがホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜とし、オイラトの指導権を握ってまもない1678年冬、ダライラマの使者がやってきて、ガルダン・ホンタイジに、持教受命王(じきょうじゅめいおう、テンジン・ボショクト・ハーン)の称号を授けた。…「持教」は…オイラト最初のハーン、ホシュート部のグーシ・ハーンの称号と同じである。ダライラマ五世は、ガルダンを、グーシ・ハーンと同様、[チベット仏教]ゲルク派の擁護者としての全オイラトのハーンと認定したのである。…

ホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜としたガルダンは、本家の青海ホシュート部を併合しようと、1678年青海に進軍したが、途中で軍を還して、甘州近辺のサリ・ウイグル(シラ・ヨグル)部族から貢納を徴収するだけにした。ダライラマからハーン号を授かったのはその冬であるから、青海侵入をダライラマ五世に止められたのかもしれない。

ガルダンは、1679年にハミとトルファンを征服し、翌1680年にはアルティ・シャフル(六城(ろくじょう)地方、タリム盆地西部の六都市のこと)に遠征して、カシュガル、ヤルカンド、ホタンなどの都市を服属させた。この地方は、チンギス・ハーンの第二子チャガタイの子孫である東チャガタイ・ハーン家(モグリスタン・ハーン家)の領土であったが、この頃、オアシス都市に住むイスラム教徒の指導権を握っていたのは、マホメットの子孫と自称するホージャ家の一族で、これが白山党(はくざんとう)と黒山党(こくざんとう)の二派にわかれて激しい闘争をくりかえしていた。

当時この地方に君臨していたチャガタイ家のイスマイル・ハーンは、熱心な黒山党の支持者で、白山党の首領アパク・ホージャをアルティ・シャフルから追放した。アパク・ホージャはカシミールを経てチベットに逃げこみ、ダライラマ五世に援助を求めた。ダライラマ五世は、アパク・ホージャに手紙を持たせてガルダンのもとに送り、白山党を援助するようにガルダンに要請したのである。

この要請にこたえて、1680年、ガルダンはアルティ・シャフルを征服し、チャガタイ・ハーン家の一族と黒山党のホージャをイリに幽閉した。ガルダンは、白山党のアパク・ホージャを代官としてヤルカンドにすえて、アルティ・シャフルを支配させる代償に、莫大な貢納(アルバン)を取り立てた。こうして、タリム盆地のトルコ系イスラム教徒は、異教徒の、ジューンガル部率いるオイラト民族の属民となった。ジューンガル部は、このあと1755年に滅ぶまで、天山山脈を越えた北のジュンガル盆地を本拠地としながら、南のタリム盆地のオアシス諸都市を支配した。
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by satotak | 2008-01-12 13:27 | 東トルキスタン