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カテゴリ:テュルク( 28 )


2008年 09月 29日

昭蘇石人 -西突厥の痕跡-

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「NHKスペシャル 新シルクロード2 草原の道-風の民 タクラマカン-西域のモナリザ」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一・内藤みどり):
…このイリ河は、天山山脈の万年雪から流れ出た雪解け水を集め、一年を通して豊富な水の恵みを周辺の草原地帯にもたらしています。…そこが単に草原地帯であるだけでなく、多様な植生にも恵まれた土地であることがわかります。天山山脈のイリ河流域は、古来遊牧民にとって豊かな草原地帯であったのと同時に、農耕民にとっても肥沃な土地でした。

このことは、突厥などに代表される騎馬遊牧民が、イリ河流域を根拠地にして強大な帝国を作ることになった大きな要因であったようです。

もともと遊牧というのは生産性が低く、それだけでは大きな経済力になり得ないのですが、古代遊牧民は略奪によって獲得した定住農耕民に農業をさせ、その収穫を帝国の経済力の基礎にしてきたといわれています。古代遊牧国家にとって天山山脈がひとつの重要拠点となっていたのは、その天山山脈を流れるイリ河によって豊かな農産物がもたらされたからなのです。

この古代騎馬遊牧民と定住農耕民の関係を示唆する遺物が、ナラティからイリ河をたどって下流に下った昭蘇(しょうそ)(注1)というところにあります。

その遺物というのは小洪納海(コナカイ)石人というもので、石人とは遊牧民をかたどって草原に置かれた石像なのですが、新疆の草原地帯には200体もの石人があちこちに点在していて、その多くは、突厥時代に作られたものと考えられています。この小洪納海石人には、他の石人とは大きく異なる特徴があります。それは、この石人の下半身の部分に、ソグド文字(元々シルクロードの交易の民として知られるソグド人の文字で、後に突厥もこの文字を使用するようになります)が刻まれているのです。

その文字は摩耗が激しく、また読める研究者も極めて限られている特殊な文字なので、久しく読解が困難とされてきました。しかし近年の研究で、その文字の一部がようやく読めるようになったのです。

石人に刻まれた文字には、六世紀末に突厥を治めた泥利可汗(ニリ・カガン)の名前が見て取れるといいます。その石人は、泥利可汗の業績を讃えるために作られたものらしいのです。中国の史書「隋書・西突厥伝」によれば、泥利可汗の后は漢人の女性でした。突厥によって略奪された女性だったと考えられています。当時は、突厥によって多くの漢人が略奪され、突厥領内に連行されていました。そして、その漢人は主に農耕民だったと考えられますが、突厥はその農耕民に、自分の領内で農業に当たらせていたらしいのです。…

こうして古代騎馬遊牧国家は、広大な領土を維持する経済力を東西貿易からだけでなく、定住農耕民を使った農業によって得ていたと考えられています。突厥は、遊牧民のみならず、農耕民や交易の民、異なる部族、異なる民族を飲み込んでその支配下に置きました。その意味で、突厥はいわば世界帝国の先駆けともいうべき遊牧国家だったのです。

◎ 昭蘇県の石人と達頭可汗(タルドゥ・カガン)の行方
…ソグド語・ソグド文字の突厥碑文がある。それは中国・新疆ウイグル自治区の伊犁(イリ)地区昭蘇(しょうそ)県にある石人の腰に書かれた縦書き約20行のソグド文で、これが突厥史の不明部分を明らかにすることになった。そこには第三代「木杆可汗(ムハン・カガン)」が「21年間国を保持した」こと、「26年後に木杆可汗の孫、神なる泥利可汗(ニリ・カガン)……」と見え、木杆可汗とその孫である泥利可汗の関係が記されているのである。この碑は泥利可汗のため、その子泥橛處羅可汗(でいけつしょら・カガン)599年頃に建てたと考えられている。

実際、現地資料ほど研究に役立つものはない。この豊かな地域を根拠としていた泥利可汗(ニリ・カガン)の父は、木杆可汗(ムハン・カガン)の子で阿波可汗(アバ・カガン)の弟にあたり、泥利は阿波の甥であることがわかった(注2)。阿波可汗は第四代他鉢可汗(タトバル・カガン)の死に際して本国モンゴリアでの可汗継承戦に敗れると、最強の西面可汗である達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとに逃げ、援軍を得て第六代の大可汗沙鉢略可汗(イシュンバラ・カガン)と国を挙げての大戦乱となるが、阿波は沙鉢略に捕らえられる。これは、中国を統一した隋の、突厥分離策だったのである。達頭可汗が、隋軍を攻撃する沙鉢略可汗戦線から分離した時点(583年)を、東・西突厥の分裂とする見方もある。

ところで不思議なのは、これ以後しばらく達頭可汗(タルドゥ・カガン)の消息が途絶えたことである。代わって泥利可汗(ニリ・カガン)とその系統が、中部天山の北麓、豊富な雪解け水に穀物も実るという豊かな地にいたことが、昭蘇石人とその銘によって証明された。

頭に三つの円環をもつ王冠帯をつけ、後ろに長く弁髪を垂らしている昭蘇石人は、泥利可汗(ニリ・カガン)その人の姿を思わせる。かつては、溝に囲まれていた約30メートル四方の方形土台上の南東部に、東面して立っていたというが、筆者が訪問した2000年には、草が繁茂して方形台趾を確認するのが困難で、おまけに多くの新しい道もつけられ、十ほどの石人がその周囲に集められて石人公園となっていた。石人は是非もとの場所から動かさないでほしい。その置かれた状況自身が歴史を語るのであるから。

泥利可汗(ニリ・カガン)が亡くなった頃、達頭可汗(タルドゥ・カガン)はモンゴリアに現れ、大可汗都藍可汗(とらん・カガン)と提携して突利可汗(とつり・カガン)を南に追い、都藍可汗が部下に殺されると、ついに大可汗の地位に立った。かつて西面可汗であった達頭可汗は、東ローマのマウリキオス帝に手紙を送り、この時叛乱を平定して全土を統一したことを誇っているが、今はふれる余裕がない。しかし、西面可汗達頭が大可汗位を簒奪したこと自体、突厥がまだ東西に分裂していなかったことを示すと考えられる。

その後、達頭(タルドゥ)は国内の大反乱に加え隋の討伐を受けて、603年に吐谷渾に走入した。隋末、中国北辺の群雄はみな突厥の力を借りてしのぎを削り、その中で唐朝が成立したことは有名である。しかし一旦全国統一した唐には勝てず、630年、突厥(第一)可汗国は滅亡した。

この後約50年の唐の支配を受けたのち、モンゴリアで第二可汗国を立ち上げたのは、阿史那氏の骨咄禄可汗(クトゥルク・カガン)であった。…

◎ 西突厥・統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)時代の繁栄
七世紀の初め、ほぼ唐朝の統一と並行して繁栄した独立可汗国西突厥は、達頭可汗(タルドゥ・カガン)の孫、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)の大発展によって築かれた。かつての西面可汗国を受け継ぎ、ジュンガリアから、天山山脈の草原を西に黒海付近まで最大勢力範囲を回復し、その統治機能を充実させていた統葉護可汗が、牙庭を東部天山の北から西方の「砕葉(スイアブ)」(現キルギスタン共和国トクマク付近)に移したのは、ササン朝ペルシアとの対立も激しく、黒海に至る西方草原で活躍していた多くの部族の統制に力を注いだ結果でもあると思われる。一方、南はソグディアナからヒンドゥクシュ山脈にいたる地域を確保して、アム河の南、エフタルの根拠地であったクンドゥズを副牙とし、パミールを東に越えて西域南道と北道の諸国に通じる状況にあった。長安からインドに行くため、玄奘が西部天山の北麓砕葉に統葉護可汗を訪れた理由は、その保護なしに中央アジアを行くことができなかったからである。

統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会った玄奘は、その牙庭の状況に驚いた。「可汗は長い髪を緑色の錦帯で巻いて後ろに垂らし、その前にはしとねを敷いた上に宮廷官たちが二列に座り、その後ろには護衛兵が武器を持って立ち並んでいた。彼らは錦織の華美な衣服をつけて輝いており、草原の君とは、このように華美であるものか」と詠嘆している。

一方、達頭可汗(タルドゥ・カガン)も統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)も、ソグディアナの中心サマルカンド王に娘を与えたことに注目したい。また、統葉護可汗は、「西域諸国すべての王に、(部族長に与える)イルテベルの称号を与え、トドンを派遣して監視させ税を取り立てた」。オアシス民の城郭都市の規模は小さく、彼らは、東西に繋がる道―シルクロード―を利用する中継貿易で利益をあげ、繁栄してきた。それに対して、オアシス民の生産する穀物や日用品、そこに集合する多くの商品は遊牧民にとっても重要で、貿易や税の対象とされた。それゆえ、彼らはオアシスとその商業活動を保護し、花とミツバチの関係にも似て、共栄を図ったのである。

西域諸国にはトドンとして、あるいは護衛兵として突厥人が派遣されて、その安全を守り、利益を確保していたのであった。

中心を阿史那氏一族で固めた西突厥であったが、外部的発展に内部の組織が追いつかず、叛乱によって可汗自身も倒れ(628年頃)、混乱の中で西突厥自身の勢力が分裂し縮小していった。これはまさに唐朝の統一と安定に反比例している。この結果、唐朝に近い突厥第一可汗国の滅亡(630年)に次いで、唐朝の三回にわたる西突厥討伐戦により、西突厥は滅亡した(657年)。

6-7世紀 草原の道とシルクロード
[拡大図]  [全体図]

(注1) 実際は、昭蘇はイリ河本流から約50km南の一山越えたところにあり、その真中をイリ河支流のトクス河が西から東に流れている。

(注2) 突厥可汗系図

(参考) 突厥
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by satotak | 2008-09-29 20:49 | テュルク
2008年 07月 30日

清朝治下ジュンガリアのカザフ -アブライ以後-

Linda Benson、Ingvar Svanberg著「China's Last Nomads: The History and Culture of China's Kazaks(中国の最後の遊牧民:中国カザフの歴史と文化)」(M.E. Sharpe 1998)より:

…アブライが1781年に70歳で死んだ時、カザフの独立の時代は終わろうとしていた。彼の後継者達は彼と同じ権力や威信を享受できず、中国とロシアの両国はカザフからそれぞれの支持者を引き抜き続けた結果、カザフは分裂し、中央アジアの領域で両国の支配力が強化された。例えばナイマンは彼ら自身のハーン、アブル・ガジーを選出したが、彼は中国の支持のもとに統治した。中ジュズの部族のより重要な分裂が、アブライの後継者であるワリーが自分の息子を1794年から95年に中国に派遣した時に起った。これはステップに対するロシアの影響に対抗するために、中国にカザフの臣従を示すものであった。不幸にもこの動きに対し、一族の一部はロシアに保護を求めた。これによって彼の勢力は弱められ、ワリーは最終的には中国の領域に保護を求め、1806年に清の領域に移動した。ロシアは彼の後継者にブケイ・ハーンを任命した。1817年ワリーが死に、続いて1818年にブケイ・ハーンも死んだ。

このような変化も、ロシアとアブライの後継者との関係を改善することはなかった。彼の息子サルジャンはステップに対するロシア勢力の拡張に積極的に対抗した。サルジャンが1836年に死ぬと、彼の兄弟ケネサル・カスムが武力による敵対を引継いだ。1838年にケネサルはハーン位の復活を要求した。彼は約20,000人を率いて攻め、ロシアの交易を8百万ルーブル程度にまで崩壊させた。ケネサルは多くの面でアブライの立派な後継者であった。彼はカザフの法律を整備し、裁判官を任命し、彼の領土を旅する隊商に課税した。しかし彼が大きな犠牲を払ってもたらしたロシアの交易の崩壊は、大規模なロシアの反撃を招き、その結果としてケネサルは1844年に恩赦を受入れざるを得なかった。彼と彼の追随者はその後キルギズに加わり、コーカンド・ハーン国から独立しようとする彼らの企てを援助した。彼は1847年戦闘の中で死んだ。

中国の領域内では、18-19世紀の短い期間カザフのハーンや王公が個々に清の臣下になり、当局に要求されるままに貢物を納めた。カザフはまたジュンガリアと西部ステップの間を行き来し、イリや東トルキスタン-清のいわゆる西域の他の中心地で清と交易をした。中国とロシア帝国間の正確な国境は不明確なままであったが、両国はついに1864年10月7日にタルバガタイ協定に同意した。この協定に基づき、国境が確定し、イリ総督の管轄下にある清の領域内に居住するカザフは今や清の臣下となった。

清の西部領域は北京の支配者からははるか遠くに離れており、しかもこの領域を維持するために清は膨大な出費を余儀なくされていたにもかかわらず、反逆によってこの領域が清支配から離脱されそうになると、清朝は北西部における自らの地位を保つために必要ならばいくらでも資金-そして人命をつぎ込むことを決意した。かくして「異教徒」である中国の手からカシュガルを解放し、イスラム教徒にイスラムの支配をもたらすべく、1864年にカシュガルに到着したコーカンドのヤクブ・ベグの反乱に対して、清は長征を開始し、1877年にヤクブ・ベクが死に、清の支配が再建された。そして清朝はこの全領域を帝国の一行政単位にすることを決意し、1884年にそこが新疆省であると宣言した。

ヤクブ・ベグの反乱の間に、以前からこの地域での機会を窺っていたロシアが、そこで働いている自国民の保護を表向きの理由にして、イリ川渓谷全体を占領した。清の当時の外交は全般に拙劣なものであったが、清はイリ渓谷からロシアを撤退させ、この土地に対する彼らの権利を再び主張することに成功した。

19世紀の終りになる頃、中国とロシアの両国が非常に長くなったお互いの国境の安定を維持する事に関心を持ったことは明らかである。しかしこの時期を通して、ロシア側のカザフ人は東トルキスタンに侵入し続けた。例えば1878年に9,000人を下回らないカザフ人がロシアの領域を去り中国に向かった。彼らの多くははるか奇台(チータイ)の町まで行こうと試みた。ロシアの探検家プルジェヴァリスキーが、カザフ人の群衆がジュンガル沙漠を移動する間に渇きに屈服して残した多くの腐敗した死骸を見ている。

カザフ人をこのような危険な企てに駆り立てたのには様々な理由がある。1861年にロシアで農奴制度が廃止された後で、ロシアの農民は東方に移動し、中央ユーラシアに定住し、耕作を始めた。500の村が19世紀の末までにステップに設けられたが、これは、それまで主にカザフ人の遊牧地であった土地に新しく永住した者に資金を与えるという1895年の帝国政府指令に後押しされたものだった。カザフ平原におけるロシア人とウクライナ人の増加が東トルキスタンへのカザフ人の絶え間ない移住の重要な要因であった。

しかしロシア人の入植と定住がカザフ人の中国領域への移動の唯一の原因ではなかった。政治的な動揺と中国の領土に対するロシアの要求もまたカザフ人を国境に直に接している地域から押し出した。ロシアと中国間の第二次タルバガタイ条約が調印された1883年に、カザフ人が東ジュンガリアのバルコル地域に移動し始めた。最初のグループである90家族ほどが、中露間の国境にあるアルタイとタルバガタイ山脈の牧地の先行き不安に見切りを付け、バルコルの比較的安全な土地に向かった。彼らに続いて、1895年に別の200のカザフ人家族がアルタイを離れた。

20世紀の初めに、中国内のカザフは主に新設された新疆省の北西端地域に集中していた。彼らは満州政府が定めた階級体系に基づいて統治されたが、この階級の一つがロシアに隣接する各地域に責任を持つアンバンであった。このような官吏が清の権威の下に支配したが、カザフの領域の統制はなお伝統的なカザフ人エリートの手中にあった。しかし彼らの称号は北京にいる満州人支配者によって承認されるようになった。満州人は重要な指導者に対して、ハーンという称号ではなく、ワン(王子)という称号を与えた。また彼らは一般的なものとしてタイジ(族長)という称号を授与した。タイジの下にはミンバシ(千戸長)、その下にジュズバシ(百戸長)があった。このような称号や10家族単位の考え方は、中国で村落レベルの支配のために補助的な行政組織として長い間用いられていた保甲制(Bao-jia)のシステムと同様のものである。その目的とするところは、遊牧民の集団を管理可能な単位に分割し、政治的な力を別々の同族グループに分散させることであった。それ故にタイジは部族の指導者と清の官吏という二重の役割を持っていた。この結果は、様々な同族グループに広範囲な自治を与える比較的安定した行政システムとなり、しかもそれは清にとっても好都合なものだった。

他の伝統的な称号も使われ続けた。例えば、バツール:戦場でのみ得られる世襲されない称号、トレ:高貴の生まれであり、アブライのようなカザフの偉大なハーンの家系に属す者、またハーキム(裁判官)、ホージャ(教師)、イマーム(宗教上の教師)、ムッラ-(宗教上の指導者)のようなイスラムの称号も使われた。清朝から授与された称号はそれを受け者たちに大いなる権威を与えた。1911年の革命によって満州人によってもたらされた称号と褒賞のシステムは突然に消滅したが、1949年までこれらの称号を使い続けた一族もあった。

19世紀末に至るまで、清王朝は中国の帝政期を終らせることになる多くの挑戦に悩まされ続けた。満州人は1644年に継承した領土を二倍以上に拡大し、帝国内の人口は150万人からほぼ400万人に増加した。防衛し統治しなければならない領土の拡大と膨大な人口増加が体制崩壊の原因となった。中国社会にとって1912年の共和革命は大変重要なものであったが、しかし遠く離れた北西部の統治は過去の中国の慣行に深く依拠したままであった。…
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by satotak | 2008-07-30 22:05 | テュルク
2008年 07月 14日

18-19世紀のカザフ草原と露清関係

宇山智彦編「講座 スラブ・ユーラシア学 第2巻 地域認識論――多民族空間の構造と表象」(講談社 2008)より(筆者:野田仁):

はじめに
モンゴル帝国の一部としてキプチャク草原を中心に展開したジョチ・ウルスは、いくつかの後継政権に分かれたが、その一つに15世紀後半に「成立」したカザフ・ハン(ハーン)国がある。チンギス・カンの後裔を戴くこの遊牧政権下の集団は、現代カザフ民族の祖となり、キプチャク草原の東半はカザフ草原と呼ばれるようになった。

カザフ・ハン国は、17世紀後半から1740年代にかけてジュンガル(オイラト)の侵略に苦しんだ。18世紀までには三つの「ジュズ」と呼ばれる部族連合体が成立し、複数のハンが並び立つようになっていた。西部の小ジュズは、ジュンガルのほか、トルグートやバシキールに囲まれており、その苦境を解決するためにロシアに使者を送って保護を求めたのは1730年のことである。のちに、ジュンガルの政権が崩壊し、東方の中国(清朝)と接するようになると、清朝に対して朝貢を行う者もいた。こうして、両国の影響を受けながらも独自の政権を保持していたカザフ人であったが、19世紀になるとロシアの影響力は強まり、最終的にカザフの多くはロシア帝国に併合された。ただし、一部は清朝領内にとどまり、いまなお中国新疆ウイグル自治区の主要民族の一つとなっている。このような分断の状況は、まさにロシア帝国と清朝という二大帝国のはざまにあって、両者との関係に翻弄された結果であるともいえる。

翻って研究史上では、カザフとロシアの関係をあつかう論著は数多くあるが、露清関係をも視野に入れながらカザフと清朝のかかわりを検討するものは稀であった。…
独立後のカザフスタンにおいては、より自立したカザフの動向を描こうとする傾向が強くなった。最新の『カザフスタン史』は、カザフと清朝との関係を、遊牧地の獲得と貿易の問題の二点に集約している。近年では、19世紀に貿易によって露清両国を結んだカザフの役割に着目する研究が目立つが、…

[拡大図]

■大清帝国の「藩属」として
清朝への帰順
1757(乾隆22)年、清朝のジュンガル追討の軍勢には抗しがたく、中ジュズのアブライら、さらに翌年には大ジュズのアビリス・ハンらが使者を送り、降伏状を差し出した。これにより、カザフと清朝との公式な関係がはじまった。トド文字オイラト語によるアブライの降伏状には、…ロシアヘの宣誓におけるようなイスラームに関連する要素を見出すことはできない。降伏状の内容を伝える上奏文(満洲語)によれば、アブライは「我が子弟、カザフのすべてとともに、あなた様の臣(albatu)となりました」と述べ、清朝が考える君臣関係に沿う文言となっていた。乾隆帝はアブライの使者を謁見し、この降伏を受け容れて爵位を与える旨を伝え、両者の関係が開始されたのである。

片岡一忠によれば、清の支配体制は、「ハーン-宗室・八旗-外藩王公」というハーン体制と「皇帝-中央-地方-朝貢国」の中華王朝体制の二層構造として理解できる。この中で外藩とは、本来、朝覲(ちょうきん、正月の皇帝への拝謁)を義務づけられ、代わりに爵位などの恩典を受けたモンゴル王公やハミ・トゥルファン王を意味していた。佐口透が整理したように、カザフのハン一族も子弟を朝貢使節として定期的に派遣し、草原の支配者として承徳に在る清朝皇帝に拝謁し、爵位を授けられた。具体的には、カザフのハン位に擬した「汗(han)」をはじめとして、王(wang)、公(gong)、台吉(taiji)の各位があった。カザフにとってのこれらの爵位の意味は、清朝による権威づけにあり、また爵位を受けたスルタンを中心にして、新疆において貿易を行う権利を得ていたのである。このことから、カザフをモンゴルや新疆の王公に次ぐ「外藩の外縁」とみなすものだったという見方もあるが、いずれにしてもカザフが、外藩の周縁に位置し、清朝の意図する国際秩序に緩やかに組み込まれた「藩属」として朝貢をゆるされ、文字通り清朝の「藩屏(はんぺい)」として緩衝的な役割を担わされたことは聞違いない。

それでも、コーカンドやクルグズなど他の勢力と同様に、カザフの清朝に対する臣従も名目的なものに過ぎなかったことも明らかであった。それゆえに、アブライとその子ワリーの時代のカザフは、露清両国への「二方面外交」を行うことができたのである。

カザフの管理
ジュンガル滅亡後、その旧領を自らの故地とみなしていたカザフは、タルバガタイ・イリ周辺の清朝領へも侵入を繰り返した。これに対して清はカルン(卡倫)と呼ばれる哨所を設け、各カルンを結んだ線はロシアのシベリア要塞線のごとく、異民族の牧地との境界となっていた。清が想定する自領の境界はカルン線の外側にあったため、「国境線」とカルン線の間の土地について、毎年秋に部隊を派遣し、「巡辺」(巡査辺界)と呼ばれる哨戒を行っていた。ただし、冬季のみはカザフにカルン線内の遊牧を許しており、その代償としてカザフからアルム税(租馬)をあつめる必要があったが、まさにこの巡辺のときに徴収を行ったのである。さらに、カザフが新疆に派遣する隊商の身元確認もカルンで行い、カルンはカザフを含む異民族との関係の窓口であった。カザフを管掌していたのは、イリ・タルバガタイ・コブドの各将軍・参賛大臣およびその指揮下にあった各カルンであり、清朝はこれらを通じてカザフを管理していたと言える。

ロシアがカザフ草原に管区制度を展開し影響力を強めるにしたがって、上述の巡辺部隊がカザフの遊牧地においてロシアの家作やロシア人の部隊を目撃することもあった。こうして露清間にカザフ草原をめぐる問題が発生し、両国の政府間交渉にまで発展する事例が見られるようになる。…

■ 露清関係におけるカザフ草原
両国政府間での交渉
カザフが清に公式に使者を派遣するよりも早く、1756年から、ジュンガルの処置をめぐって露清間で文書の往復があった。ジュンガルの長を自称したアムルサナーがカザフの牧地に身を隠したため、カザフの牧地の帰属が両国間で初めて問題となったのである。ロシアがこの中で、小ジュズのハンが宣誓を行うのみならず人質を送りさえしていることを根拠として、カザフ全体のロシアヘの帰属を主張していることは興味深い(1758年)。一方の清朝は、カザフが清の臣となったことはたしかだが、その関係は人質や徴税によるものではなく、「爵位を与え、慈悲をもって賞する」ものであることを、同じ58年にロシアに伝えていた。カザフとロシアの関係についても、「カザフには二心あり」と自覚的でありながら、積極的に阻害しようとはしなかったのである。結局、カザフは両国に帰属をもつという曖昧な状況のままであった。清朝がジュンガル旧領のアヤグズ川・バルハシ湖までを自領とみなしていたことはロシアも把握していたが、そこにはカザフの遊牧地も含まれており、事態をなお複雑にしていた。

ここまでに整理したように、西のロシア側では管区制度を展開し、東の清朝側では巡辺を通じて国境地帯の管理を行っていた。この二つが接近することで当然ながら問題が発生し、両国間で交渉が行われた。まず1820年代の…事例から見てみよう。

○カザフ遊牧地内のロシア人
1825年、バルハシ水系カラタル川流域のカザフ(大ジュズ)の牧地にロシア人が建てた家屋について、カザフのスルタンが清朝の巡辺部隊に報告した。すぐに清朝政府は討議を行い、…カラタル地方とカザフとを切り離し、カラタルは清朝領であることをロシアに対して主張する方針を定めた。この内容は清朝の外務省と言うべき理藩院からロシア元老院へ送られ、両国政府間の交渉に発展したのである。
ロシアは、翌26年5月10日付で返書を送った。露清関係の基礎であるキャフタ条約(1725年)に規定がなかったために、「カザフは独立している」との認識を示し、清の主張を否定した。さらに、あくまで「カザフの大ジュズの請願にしたがって」ロシア.軍がカザフの地に派遣されたことを述べ、自らの責任を回避することで、清との関係が悪化しないよう配慮していた。

両者の主張を比較してみると、清側が土地の帰属を問題にしていたのに対し、ロシア側ではカザフ[族]の帰属がより重要であった。…
清との関係維持をはかるロシアは自ら家屋を撤去し、この件は不問に付されたが、カザフ草原における境界についてはじめて争われたこの事例は、のちの問題発生時に規範とされたのである。…

スルタンたちの動向
1822年の規約以来、管区導入を請願するスルタンが相次いだ一方で、ロシアの統治拡大に公然と反対する者もいた。なかでもアブライ・ハンの子カスムらの管区反対文書がよく知られている。その子サルジャン、ケネサル兄弟はのちにロシア統治に対して抵抗し、とくにケネサルはカザフ草原最大の反乱の指導者となった。…

また、ロシアに従わない道を選び清朝領に移る者もいた。前述のジャンブベクについては、「アヤグズ管区開設の際にロシア皇帝への忠誠を誓わず、清朝宮廷から王の位を得て……書簡とともに自分の子をタルバガタイの大臣のもとへ派遣し、ロシアからの保護を求めた」と報告されている。さらに、その弟スパングルは、アガ=スルタンの地位をめぐってサルトに敗れ1833年に清朝領へ移動した。のちにロシアに反旗を翻すも、1839年に失敗に終わり捕えられる結果となっている。

逆に、清朝領内に牧地を持つにもかかわらずロシアの保護を求める請願も見られた。1847年のドランバイ・スルタンの請願にかんする報告によると、ドランバイが率いる「[中ジュズの]バイジギト部族のカザフは長年清の臣民であり、貢納を行い」、清のカルン線内でも遊牧をしていた。ドランバイは、皇帝の庇護によってロシアに属するカザフとの諍いを収めるためにオムスクを来訪したのである。前後して、やはり清朝領内を遊牧するクゼイ部族のブテケ・スルタンもオムスクに赴きロシアの臣民となることを願った。ただし、清朝領内にとどまりながらもロシア皇帝の恩恵にあずかろうとする彼らの請願は認められなかった。上のことからは、少なくともロシアにおいては、ロシアに帰属するカザフと、清に帰属するカザフを次第に区別するようになったことがうかがえるのである。…

最後の事例として、大ジュズのテゼク・スルタンの動向と露清の交渉を取り上げる。
この交渉は、1848(道光28)年に、清朝に属するモンゴルからカザフが馬を盗んだ事件を契機としていた。この地を担当する伊犂(イリ)将軍の薩迎阿(サインガ)は、翌49年10月の上奏文において、馬を捜索した巡辺の状況を伝えている。清の部隊はカラタル方面で、ロシアの大ジュズ監督官ヴランゲリ男爵(巴蘭)と遭遇した。ヴランゲリは、カザフが盗んだ馬を探しに来たと告げる清の官員に対して、「カザフは我々[ロシア]が税を徴収する対象である」と主張し、道を開けず再三の説得にも応じなかった。続けてこの奏文は、ロシア元老院に彼らの引き揚げを求めることを提議し、12月に元老院へ文書が送られている。…

そこで、イリの官員は、カザフの台吉(タイジ)である「鉄色克(テゼク)」を派遣して様子を探らせた。イリに戻ったテゼクは、「ロシア人は西に遠ざかり、カザフの遊牧地は平穏である」と差しさわりのない報告を行った。このときテゼクは、清の爵位を受け、アルムを納め、貿易にも携わっていたが、同時にロシアとの関係も持っていたことに注意しなければなるまい。翌50年5月、テゼクは清の官員から、ヴランゲリが返還に応じなかった家畜の捜索を命じられたが、その指示書をテゼク自らがロシア側にもたらした。家畜をイリに届けたテゼクは、その後ロシアのコパル要塞に赴き、清朝側が家畜送還を喜んだことを報告しさえしている。

その後51年2月に、ようやくロシア元老院からの回答が清に到着した。ヴランゲリが「この地のカザフはもともとロシアの所属であるので、ロシアの官員が調査を行う」と回答したことを確認し、つづけて「ロシア所属のカザフのスルタン一名を派遣し、イリに[家畜を]送り届けさせる」との報告が中央にもたらされたことを伝えるだけだった。このカザフのスルタンとは上のテゼクにほかならず、ここで清はようやく大ジュズのカザフとロシアの浅からぬ関係を知るのであった。また、コパルに要塞を建設したのは、カザフが再三ロシアに営地を設けることを求めてきたためであると、ロシアは従来と同様の釈明をしている。

これを知った清は、次の伊犂将軍奕山(イシャン)らへ、近年カザフが清にアルムを納めているのかどうか、ヴランゲリは現在どこにいるのか等を調べさせた。この結果、奕山らは、テゼクはアルム税を支払い清朝との関係が失われていないことを確認し、かつヴランゲリは清の境界からは離れた場所にいるとの情報を得たため、これ以上の問題には発展しなかったようである。

この問題と並行して、1850年になると、イリタルバガタイにおける露清貿易について本格的に交渉が行われることになった。カシュガルを含め三ヵ所での取引を望むロシアに対し、清側は二ヵ所を主張し譲らなかった。その理由の一つとして、51年4月30日の奕山の上奏文は次のように述べている。

異国ロシアはカザフ地方で、以前より租税を集め、苦役を用いている。いまカシュガル貿易を請うとすれば、かならずやイリ西南のカザフに続いてクルグズからも苦役を徴発し、かつ租税を集めるであろう。

通商条約そのものは1851年7月に締結されるが、上の奏文からも、カザフの遊牧地にロシアが影響力を強める様を、清の現地官員が目の当たりにしていたことが理解されるだろう。事実、…大ジュズをロシアの影響下におくことは、新疆との貿易、とりわけカシュガルにおける取引のためでもあった。

ここにみた交渉は、大ジュズにまでロシアの影響力が広がっていったことと連動している。47年のコパル要塞に続き、54年にはヴェールノエ要塞が建設された。1867-68年の臨時規程の制定により、コーカンド領内のカザフを残して、ロシアのカザフ草原併合はほぼ完了したと言える。

おわりに
ロシアは当初よりカザフを臣民としてみなし、たしかな支配下におくための段階を踏んでいった。一方の清朝にとって、カザフはあくまでも「駕馭(がぎょ)[=統制]」すべき異民族に他ならなかった。ロシアの進山を受けても、カザフの土地を護るというよりは、実質上の国境となりつつあったカルン線内の確保に努めていた。清朝はチュー・タラス川までを自領(界内)とみなしながらも、1813年の上諭に見えるように新疆におけるカルン線外の地には干渉しないという方針を取るようになり、1830年代には、カルン線の内外は明確に区別されるようになっていった。このため、1831年に[ロシアの]シベリア・アジア両委員会がロシアの積極的な方針を決議すると、カザフ草原における清朝の影響力は除かれていったのである。

このような露清の方針の違いに対して、カザフ自身がどれほど自覚的であったかを把握することは、史料の制約もあり困難である。それでも、より有利な状況を求めて帰属を選択しようとする動きがカザフのスルタンにあったことはたしかであり、境界を越えての移動も行われたのであった。…

1864年のタルバガタイ国境画定条約以降も、カザフ草原における露清国境地帯はなお動的であり、新疆のムスリム反乱の影響を受け、越境は日常的なものであった。たとえば、前述のブテケ・スルタンは1865年、清朝領からロシア領へ移動を求めたが、のちに再び清朝領へ移り、子孫はそこで辛亥革命を迎えている。…
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by satotak | 2008-07-14 17:57 | テュルク
2008年 06月 04日

カザフ・ハン国 -ジュンガル・清国とロシアのはざまで-

宇山智彦編著「中央アジアを知るための60章」(2003 明石書房)より(筆者:野田 仁):

ブハラ、ヒヴァ、コーカンドは中央アジアの三ハン国として知られるが、中央アジアにはそれ以外にもハン国と呼びうる政権が存在していた。現在カザフスタン共和国が占める位置に15世紀から19世紀まで続いたカザフ・ハン国も、その一つと言える。その興国のきっかけは、15世紀後半にジャニベクとギレイの二人が、ウズベクのシャイバーン朝の宗祖たるアブール・ハイルに圧迫されて東方へ移動したことにあった。彼らはチンギス・カンの長子、ジョチの後裔であり、カザフ・ハン国は、モンゴル帝国の流れをくむテュルク系遊牧政権の一つであった。


チュー川流域(バルハシ湖の南)に興ったハン国は、やがて西方のキプチャク草原へと広がっていくが、その過程でモグール遊牧民やノガイ族の一部を編入していった。彼らは現代のカザフ民族の祖となった。こうした複雑な部族編成が一因となって、後のハン国には、三つのジュズと呼ばれる部族連合体が存在することとなる。これは東から順に大(ウル)、中(オルタ)、小(キシ)ジュズと呼ばれ、18世紀になるとそれぞれのハンを戴き、独自の行動が見られるようになった。

ハン国は南方にも展開した。当初より争いの絶えなかった隣人ウズベク族に対しては、16世紀末にはブハラの王朝交代時の混乱に乗じて要都タシュケントを押さえる勢いとなった。

17-18世紀には、モンゴル系の遊牧民ジュンガル(カルマク)の来襲に苦しんだ。とくに大規模だった1723年の侵入はカザフ人にとって大いなる厄災であり、「裸足での逃走」を意味する「アクタバン・シュブルンドゥ」の言葉をもって語り継がれている。こうした外敵の侵略による動揺はカザフのハンたちを動かし、1730年には小ジュズのハンであったアブルハイルが、ロシア皇帝に対して、臣籍を受け入れその保護を求める請願を行った。この動きは他地域にも広がり、1740年には後に名君として知られる王子(スルタン)アブライが、中ジュズのハンらとともにロシアに宣誓を行っている。

一方、ジュンガルの勢力は次第に衰え、長年ジュンガルに悩まされてきた中国(当時は清朝)は、その内紛を利用し討伐を行った。その最中に清朝軍はカザフ(清朝資料上では哈薩克)の遊牧地にも侵入し、ここにカザフ・ハン国と清朝とは接触を持つようになった。形ばかりとは言え、すでにロシアの臣となっていたはずのカザフのハンたちだったが、東の大国、清朝に対しても同様にその「臣属」となることを請願するのであった(1757年)。ここで大きな役割を果たしたのがアブライであり、彼は清朝から汗(ハン)として認められ、ロシアからも中ジュズのハンとみなされるようになった(1771-1781)。このように清朝の臣となることは、カザフが皇帝のもとへ入貢する代わりに、清朝が爵位を授け、中国西北における交易を保証することにつながった。カザフはイリやタルバガタイにおいて、自らの家畜を中国内地産の絹、綿などの織物へ換えることができたのである。また一部のカザフは滅亡したジュンガルに代わって新疆北部へ移動し、領域は東へ広がった。

清朝は積極的にカザフに介入しなかったが、アブライの死後、ロシアのカザフ草原への進出はとどまる所を知らなかった。1822年にロシア政府が導入した規定(「シベリア・キルギズに関する法規』)によって、中ジュズのカザフは西シベリア総督府の管轄下に入り、ハン位は廃止され、権限を縮小されたアガ・スルタン(上席スルタン)制にとって替わられた。小ジュズについても1824年に類似の規定が設けられた。ハン一族(トレ、もしくはスルタンと呼ばれた)の権限はこの後も段階的に奪われ、ハン国の解体は進んだ。

それでも東部においては、1820年代になっても依然として清朝への使者の派遣は続いていた。これは清朝からの爵位に関して、代替わりの際に皇帝から承認を得ることで、権威を獲得しようとするものが多かった。ここに露清という東西の二大帝国のはざまにおいて、外交上のバランスを保ち自分たちの独立を維持しようとしたカザフのハン一族の姿を見ることができる。無論これは裏返せば、ハン一族が一体となって困難を乗り切ることができなかったことを示してもいるだろう。

ロシア支配の拡大、南からのコーカンド・ハン国の脅威はいっそうの混乱をもたらした。コーカンドは1809年にタシュケントを奪ったことを皮切りに、大ジュズの遊牧地であるカザフ草原南部へと侵入していたのである。30年代後半には争乱が相つぎ、アブライの孫にあたるケネサルは各地を転戦しながら対ロシア反乱を行った(1837-47)。ロシア帝国への併合がおくれた大ジュズ地域も1860年代までに併合され、以後この地はロシアの植民地統治に組み込まれることになる。

一方で、清朝領内に遊牧地を持っていたカザフについては、ハン家の一族が各部族の統率者の地位を保持していた。1871年のロシア軍によるイリ占領に代表されるような露清間の国境画定を巡る争いを経て、20世紀の中華民国期に至るまで彼らは役割を持ち続けた。このことはあまり知られていないが、これも一族のたどった多様な運命を表していると言えるだろうか。

こうして長きにわたり独自の政権として存続していたカザフ・ハン国は、現代カザフスタンのカザフ人新疆のカザフ族にとっても、自らの民族を顧みる際に欠かせない存在となっている。アブライ・ハンはカザフスタンの紙幣となって、今もなお人々の中に生き続けているのである。
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by satotak | 2008-06-04 11:33 | テュルク
2006年 12月 31日

バイバルス -カイロに行ったテュルク系マムルーク

佐藤次高著「マムルーク -異教の世界からきたイスラムの支配者たち」(東大出版会 1991)より:

マムルークとは、「奴隷」を意味するアラビア語である。「奴隷」というと、私たちはまずアメリカ社会の黒人奴隷を思いうかべる。人格を否定され、足に重い鎖をひきずりながら過酷な農業労働に従事する者たち、というのが一般的なイメージであろう。しかし、イスラム社会の奴隷について考える場合には、このような奴隷観をいったんとり払っておかなければならない。むろんイスラム社会の奴隷も主人の所有物であり、戦争捕虜や略奪による奴隷も数多く存在したが、彼らのなかには軍人として社会的な成功を収める者もあれば、商人の代理として遠隔地での取引に活躍する者も少なくなかった。また、歌舞音曲にすぐれた才能を発揮するばかりでなく、法学や神学などのイスラム諸学を身にづけた女奴隷も珍しくはなかった。このような奴隷のあり方を正しく理解するためには、奴隷についての新しいものさしを用意しておくことが必要だと思うからである。…

10世紀前後の奴隷購入ルート [拡大図]

後述するように、イランやイラクの一部地域では農業労働にしたがう奴隷も、わずかではあるが存在した。しかしイスラム社会でのきわだった特徴は、家内奴隷と軍事奴隷が中心的な役割を演じてきたことである。とりわけ奴隷軍人のマムルークは、9世紀以降、カリフやアミール(軍司令官)の私兵としてしだいにその勢力を伸長し、やがてカリフの改廃をも自由におこなうようになった。しかもマムルーク軍人の台頭はイラクやエジプトの地域だけに限られていたのではなく、北インド、トルコ、アンダルス(イベリア半島南部)などイスラム世界のほぼ全域にわたっていた。…

このように奴隷、あるいは奴隷出身のマムルーク軍人は、9世紀から19世紀にいたるまで約1000年の長期間にわたってイスラム諸王朝(注1)の軍隊の中核をなし、アラブ人やイラン人をはじめとするムスリム大衆の支配者として君臨しつづけた。しかもその活躍の範囲は、モンゴル時代のイランなどのように例外はあるにせよ、イスラム世界のほとんど全域にわたっていた。もともとマムルークとは、奴隷商人によってもたらされた異民族出身の奴隷兵を意味している。いったいどのようにして彼らは国家の軍事力を掌握し、イスラム共同体(ウンマ)の防衛者となることができたのであろうか。…

つぎは、マムルークから身を起こしてスルタン位を手中にした人物の例である。

◇バイバルス・アルブンドクダーリー(1277年没)
バイバルスは黒海北方のキプチャク草原に住むトルコ系クマン族の出身であった。1242年、モンゴルのアナス・ハーンがクマン族を襲ってバイバルスらを捕虜とし、アナトリアのシヴァスで奴隷商人に売り渡した。バイバルス 14歳のころのことであった。その後この商人はシリアのハマーにバイバルスをもたらし、ここの君主であったマリク・アルマンスールに売却したが、肌が褐色であるとの理由で返却されてしまった。ついでバイバルスはダマスクスへ連れていかれ、800ディルハム(約40ディーナール)で買い手がついたものの、今度は片目に白そこひの斑点があるとの理由でふたたび返却されることになった。もう一度ハマーに戻ったバイバルスは、そこに滞在していたアイユーブ朝のアミール・アイダキーン・アルブンドクダーリーにようやくひきとられ、彼の手によって奴隷身分から解放されたのである。

1246年、バイバルスは新しい主人にしたがってカイロに入ったが、スルタン・サーリフは突如アイダキーンの財産を没収し、バイバルスをもみずからの所有としてしまった。これ以後、バイバルスはスルタンに直属するバフリー・マムルーク軍の一員としてしだいに頭角をあらわしてゆくことになる。彼が最初に就いた職はスルタンの衣装係(ジャムダール)であったが、1249年にルイ九世がダミエッタを占領したときには、バフリー・マムルーク軍の長アクターイが不在であったために、一時的にこの軍の指揮をとることを命じられた。また翌年のマンスーラの戦いでは、バフリー・マムルーク軍を率いて十字軍を破り、ルイ九世を捕虜とすることに成功した。しかしこのような輝かしい戦果のゆえに、マムルーク朝の第二代スルタンとなったアイバクはバフリー・マムルーク軍の勢力伸長を恐れ、1254年にはその長であるアクターイを殺害する挙に出た。身の危険を感じたバイバルスは、仲間とともにカイロを脱出し、ダマスクスのマリク・アンナースィルのもとへ落ちのびていった。

あしかけ7年にわたるシリアでの放浪生活は、バイバルスの苦難の時代であった。ナースィルとの不和が生じると、今度はカラクのムギースのもとに身を寄せたが、エジプト軍との敗戦によってムギースからも疎んじられるようになった。しかし『バイバルス伝』を著したイブン・アブド・アッザーヒル(1292年没)は、「バイバルスは7年間異郷にあったが、少なきにたえ、けっして仲間(フシュダーシーヤ)を見捨てることはなかった。これこそ彼の男らしさ(ムルッワ〉の証明である」と述べている。バイバルスの巻き返しを可能にしたのは、彼の軍人としてのすぐれた資質ばかりでなく、このような人間性にもよるところが大きかったにちがいない。

東方からのモンゴル軍の脅威によって、バイバルスの不遇の時代にはようやく終止符がうたれた。1259年、エジプトのスルタン・クトズと和解したバイバルスは対モンゴル軍の司令官に任命され、翌年のアイン・ジャールートの戦い(注2)では、キトブガー配下のモンゴル軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いに先立ってクトズはアレッポの総督職をバイバルスに約束していたが、戦後この約束をまもらないことを理由にクトズを殺害したバイバルスは、みずからマムルーク朝の第五代スルタンに就任した。この時、バイバルスはおよそ33歳であった。

即位後のバイバルスは、アッバース朝カリフの擁立やバリード(駅伝)網の整備によって国内体制を整えると、1265年から対十字軍戦争にのりだし、シリアの海岸地帯にあるカイサーリーヤ、ハイファー、サファド、ヤーファー、アンターキヤ(アンティォキア)などの諸都市をつぎつぎと奪回した。この間にモンゴル軍とも戦い、1275年には、アルメニアに遠征してシースやアヤースなどの諸都市を征服した。17年の治世のあいだに38回のシリア遠征をおこない、そのうちモンゴル軍との戦いが9回、十字軍との戦いは12回におよんだという。カイロとダマスクスのあいだでさえ750キロメートルあまりの距離があることを考えれば、右の数字はバイバルスが人並外れた気力と体力の持主であったことをしめしていよう。このような輝かしい戦歴のゆえに、バイバルスはいまでもアラブの偉大な英雄として民間に語り継がれている。

バイバルスはカラコルムまで商人をつかわして男女のトルコ人奴隷を買い求め、彼が所有するマムルークの数だけでも4000に達したと伝えられる。その家族についていえば、シリアに来住したフワーリズミーヤ(ホラズム軍)の長ベルケ・ハーンの娘、モンゴル人のアミール・ノカーイの娘、おなじくモンゴル人のアミール・カラーイの娘、クルドのシャフラズーリーヤ族の娘を妻にもち、女奴隷の子供をふくめて五男七女をもうけた。バイバルスはまた、イスラム信仰の擁護と文化の発展にも力を注ぎ、カイロではザーヒリーヤ学院の建設、アーフィーヤ・モスクの建設、アズハル・モスクの修築、ダマスクスではウマイヤ・モスクの修築、ザイン・アルアービディーン廟墓の改築などはば広い建設事業を手掛けた。

1277年7月、アナトリアでモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍を破ったパイバルスは、ダマスクスに帰還して恒例の馬乳酒(クミズ)による祝杯を上げたが、急に腹痛を発し、まもなくこの地で没した。まだ50歳に満たない若さであった。遺体は現在のザーヒリーヤ図書館のある墓地に葬られたが、死因はクミズの飲み過ぎであったとも、毒殺であったともいわれる。…

(注1) イスラム諸王朝:「イスラム国家・王朝年代図」参照
(注2) アイン・ジャールートの戦い:「イル・ハン朝(フレグ・ウルス)」参照
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by satotak | 2006-12-31 11:04 | テュルク
2006年 06月 30日

オスマン帝国を生んだ世界

林佳世子著「世界史リブレット⑲ オスマン帝国の時代」(山川出版社 1997)より

オスマン帝国史の課題
オスマン帝国は巨象のような国家であった。しかも、とても長命の。日本史でいえば、鎌倉時代に産声をあげたオスマン帝国が史上から姿を消したのは大正時代、第一次世界大戦のあとである。どの時点をとっても、バルカンから西アジア、北アフリカに広がる東地中海世界には、オスマン帝国の強烈な存在があった。

しかし、このオスマン帝国の実像は、あまりにその存在が.長期にわたったために、なかなかはっきりとはみえにくい。これまでの歴史記述では、短い特定の期間のオスマン帝国像をつないでいくことで全体が語られてきた。とくに、ヨーロッパにとってオスマン帝国が脅威であった十六世紀と、オスマン帝国の遺産をめぐる争いがヨーロッパ列強の政治問題となる十九世紀に関心が集中していた。そこにヨーロッパの視点が色濃く反映していたことは間違いない。

オスマン帝国史が、その重要性にもかかわらず十分に明らかにされてこなかったもう一つの理由は、その広大さと、その後に生まれた多くの「国民国家」のおかれてきた複雑な立場にある。オスマン帝国のかつての領土から生まれた現在の国家は、30力国をこえる。近代から現在にいたるまで、さまざまな政治状況におかれ、今日まさに紛争の絶えない中東・バルカン・黒海沿岸の国々である。

これらすべての国々の「国史」において、「オスマン帝国史」は近世から近代にかけての重要な一部をなすはずである。しかし、それぞれの「国民国家」が誕生した経緯がオスマン帝国からの独立史にほかならないという事情に影響され、近代以後の歴史学の発展のなかで、オスマン帝国史はあたかも「トルコ」という国の歴史のようにあつかわれてきた。…トルコ以外を対象とする歴史研究において、「オスマン帝国支配時代」はあたかも暗黒時代のようにあっかわれてきた。一方、トルコ史研究の側では、イスタンブルとアナトリア以外の土地への意識・目配りが希薄なままオスマン帝国史を語ってきた傾向が強い。こうした事情から生じた欠落がオスマン帝国の全体像をみえにくくしているといえよう。
このような欠陥の克服には、まだまだ時間がかかると思われる。…

…じつは、オスマン帝国は「16世紀を頂点とし、その後体制は変化せず、国力は衰退を続けた」わけではなく、16、17、18世紀をつうじて、国家体制のうえでも経済構造のうえでも、独自の変容をたどっているのである。16世紀興隆期の勇姿と19世紀の「東方の病人」イメージだけでオスマン帝国を語ることは克服される必要がある。

オスマン国家の誕生
14世紀に異常な早さでバルカン半島に拡大した新国家(のちのオスマン帝国)の勃興を、宗教心に突き動かされたイスラム勢力の台頭、あるいはトルコ人の侵略、とみる見方は依然根強い。イスラム教徒対キリスト教徒、トルコ(オスマン)対ヨーロッパ(ビザンツ)というあいいれない二つの勢力の対立の構図は、現在のわれわれだけでなく、当時間近で観察していたヨーロッパの人びとにもわかりやすいものであった。なぜなら、宗教戦争に明け暮れ、続いて絶対王政間の紛争に血を流し続けた同時代のヨーロッパの人びとにとって、人間は宗教と民族で識別され、それに従うならばオスマン帝国はトルコ人によるイスラムの国と考えるのが自然だったからである。それゆえ、彼らは「恐ろしい敵」はトルコ人であるとし、彼らの国をトルコ帝国と呼んだ。

しかし、近年の研究が明らかにしているオスマン帝国の姿はこうしたイメージとは大きく異なる。そこでは多宗教が共存し、多民族から支配層へ人材が供給された。「何々民族の国」という考え方も実態ももたない国家がオスマン帝国であった。たしかにイスラムは支配者の宗教でありその絶対的優越性は守られていたが、キリスト教徒やユダヤ教徒の存在は自明のことであった。

このような特徴は、オスマン帝国理解の常識になりつつある。しかし、こうした多宗教・多民族国家がどこから生まれ、だれによってつくられたのかという「起源」にかんしては、依然として誤解が残っているようだ。

のちのオスマン帝国は多宗教・多民族国家となるにしても、スタート地点において国をつくり出したのは、アナトリアの辺境の地に生き、キリスト教世界ヘの聖戦に燃えたトルコ人の騎士たちであるという説は、「キョプリュリュ=ヴィテック説」として永らく支持されてきた。トルコ系遊牧民出身のオスマンのもとにガーズィーと呼ばれた騎士や神秘主義教団の戦士などが参集し、ビザンツ領への侵入を繰り返し新国家を建設したというものである。

しかし、じつは、「キリスト教世界への聖戦」などという単純な構図は存在せず、事態はより混沌としたものであったことが近年強調されてきている。オスマン帝国を生んだ世界は、イスラム世界とキリスト教世界、トルコ世界とビザンツ世界、あるいは遊牧民の世界と定住民の世界、異端的信仰と正統派の信仰、忠誠と離反が複雑にまじり合う世界であった。支配的な価値観のない流動的な辺境の世界では、宗教も民族も排他的ではありえず、人びとはたがいの境界をこえて日常的に接触を繰り返していたと考えられるのである。

ビザンツ世界とトルコ・イスラム世界のはざまから
アナトリアの変容は11世紀に遡る。1071年のマラズギルトの戦いの勝利に端を発するトルコ系遊牧民のアナトリアヘの流入は、大規模な人口変容を引きおこし、ビザンツ帝国の旧領のうえにイスラム世界の最前線をつくりだした。12世紀中葉~13世紀前半にはイラン的な伝統を引くルーム・セルジューク朝がアナトリア高原のコンヤやシヴァスを中心に繁栄したが、1243年のモンゴルの侵入をへて、中央アナトリアはイル・ハン朝の宗主権下におかれた。13世紀後半には、…ベイリキ(侯国)と呼ばれる小国家が周辺部に自立し始める。政治的なカオスはとくに西部地域において顕著であったが、経済的にはむしろ活発な時代であったとみられる。

この時期にかんする客観的な史料は極めて乏しいが、混乱期のアナトリアに起きたできごとを題材とし、後代にまとめられた…英雄叙事詩や聖者伝説の類は、当時のアナトリアのさまざまな勢力の結びつきやカオスに生きた人びとのメンタリティを微かに浮かびあがらせている。これらの「物語」の主人公たちは、いともたやすく、トルコ・イスラム世界とビザンツ・キリスト教世界の境界を乗りこえて活躍する。主人公はガーズィーと呼ばれ、イスラムのための戦い(聖戦=ガザー)は物語の基調にあるが、決して異教徒を「異教徒であるが故に」殺したり改宗を強要することはない。トルコ人の騎士はキリスト教徒の勢力と同盟し、固い約束を交わし、しばしばその娘と恋に落ちる。あるいは、キリスト教徒の騎士が、宗教を守ったまま(あるいはいとも簡単に改宗し)イスラム教徒とともに戦う。イスラム勢力間の戦いも当然のモチーフである。

これらの物語に反映している「聖戦」のイメージは、イスラム教徒対キリスト教徒という対立の構図ではなく、騎士の名誉と戦利品の富を賭けての日常的な戦いであったと理解される。…

このような状況で台頭した勢力の一つがトルコ系遊牧部族出身のオスマンに率いられた一グループであった。彼らは13世紀後半以来北西アナトリアの一角に根拠地をおく遊牧部族であったとみられ、周辺のキリスト教徒の領主たちと良好な関係のなかに生きていた。

しかしオスマンのグループは1290年代から戦士集団として頭角をあらわしはじめる。いくつかの小都市を獲得、1301年ころに対ビザンツ戦ではじめての勝利をえて、多くの騎士や神秘主義教団員などがそのもとに集まるようになったとみられる。このころ以後、オスマン侯国と呼ばれるようになるが、小侯国にすぎなかった。やがて西アナトリアの都市ブルサの征服に成功する(1326年)。イスラム世界の最前線にうまれたオスマン、そして次代のオルハンの軍には、多数のキリスト教徒騎士が参加している。…

このように、宗教・民族の別が、彼我を分ける複数の差異の一つにすぎない社会のなかからオスマン帝国が生まれでたことは注目に値する。差異を乗りこえることは容易であり、むしろ評価された。だからこそ、のちのオスマン帝国はイェニチェリ軍という改宗者軍団を軍事力の中核にすえたのである。オスマン帝国の本質は、すでにその芽のなかにうめ込まれていたといえるだろう。
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by satotak | 2006-06-30 06:01 | テュルク
2006年 06月 30日

新しいテュルク民族 -ウズベク、カザーフ、キルギズ、新ウイグル-

間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史⑧」(講談社現代新書 1977)より:

…16世紀初頭のティムール朝の崩壊に前後して、…中央アジアには新しい民族の民族形成が見られ、それにともなって、各民族の言語を中核とする、それぞれの民族社会が成立していった。ここにいう新しい民族とは、カザーフ、キルギズ、ウズベク、新ウイグルなどのトルコ系の諸民族であり、彼らがその後およそ500年を経た今日においても、中央アジアの主要民族として存在しつづけていることは、この時期が持った中央アジア史上における重要性をよく物語るものといえよう。

ウズベク民族の行動
…北方の草原地帯から進出してティムール朝を滅ぼしたウズベク人が、…キプチャク・ハーン国領域下のキプチャク草原に居住して、支配者のモンゴル人をトルコ化していった遊牧トルコ人たちの後裔であることは確実であり、14世紀前半の一キプチャク・ハーンの名にちなむウズベクという民族名も、すでに14世紀の末までには彼らによって使用されはじめていたらしい。

彼らは、15世紀中葉のアブル・ハイル・ハーン(在位1428~68)の時代に国家形成をなしとげ、南下してティムール朝からシル川下流域の一帯を奪うと、この地域を根拠に、しばしばティムール朝領内に侵入した。1451年、ティムール朝の王子アブー・サーイードが、サマルカンドの支配者の位につくことができたのも、アブル・ハイルのひきいるウズベク軍の援助の結果であった。

ところが、このアブル・ハイルの統治時代、彼の統治に不満をいだく一部のウズベク人たちは、…天山西部に移動し、モグーリスターンのエセン・ブガ・ハーン(在位1432~62)によって、チュー河畔に牧地を与えられた。そして、1468年、アブル・ハイルが没してウズベクの国が混乱におちいると、さらに多数のウズベク人が、ウズベクの本隊を離れてこの一団に加わった。ここに成立したウズベク人の一分派の集団は、やがてウズベク・カザクとか、単にカザク(「冒険者」の意)と呼ばれるようになる。これが現在のカザーフ人の直接の祖先であり、したがってその民族形成の時期を15世紀の中葉におくことができる。

このカザーフ人の集団は、16世紀初頭のカースィム・ハーンの時代には、30万とも100万ともいわれる多数の遊牧民を支配下におく強力な遊牧国家に成長し、バルハシ湖にそそぐ
カラタル河畔の本拠地を中心に、チュー・タラス地方にまでその勢力をのばした。

一方、カザーフの分離によって一時弱体化したウズベク人の国家は、15世紀の末、アブル・ハイルの孫のシャイバーニー・ハーン(1451~1510)によって再統一され、1500年には、ティムール朝のサマルカンド政権を、ついで1507年にはヘラート政権を滅ぼして、ティムール朝にかわってマー・ワラー・アンナフルの支配者となった。…かくしてこの時以後、ウズベク人はパミール以西のオアシス地帯に移住して、徐々に定住民化の道をたどったが、彼らこそ現在のウズベク人の直接の祖先であった。

キルギズとオイラート
ウズベク人が、ティムール朝を滅ぼして定住地帯の住民となっていった16世紀の初頭、カザーフ人の隣人として、セミレチエ方面にキルギズ人の集団が明確にその姿をあらわす。この当時のキルギズ人は、なお弱小の集団であり、モグーリスターン・ハーンの支配下に入ったり、カザーフ人の支配を受けたりしていたが、彼らが現在のキルギズ人の直接の先祖であることは疑いない。

中央アジアの草原地帯で、ウズベク、カザーフ、キルギズといったトルコ系遊牧民の活発な活動が見られた時代、その東方の西モンゴリアには、オイラートと呼ばれる西モンゴル人の遊牧国家が建設され、15世紀中葉におけるエセンの統治時代(在位1439ごろ~54)以降、しばしば天山からセミレチエにかけての一帯に侵入した。…
これらのオイラート人は、やがて17世紀の初頭、チョラス部族を中核にジュンガル王国と呼ばれる新しい遊牧国家に再編成されると、ますますその勢力を西方にのばし、…

モグーリスターン・ハーン国の盛衰
このような草原地帯における新たな遊牧勢力の拡大は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、遊牧民の伝統を保持しつつ、天山よりセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきたモグーリスターン・ハーン国にも大きな影響を及ぼした。14世紀の中葉、モグーリスターンには16万人にのぼるモグールたちが遊牧していたという。ところが、16世紀の中葉になると、モグールの数はわずかに3万人に減少し、その居住地も、もはや従来の遊牧地帯ではなく、カーシュガル、トゥルファンを中心とするタリム盆地の定住地帯であった。このモグールの間におけるいちじるしい人口の減少と、その居住地域の変化は、草原地帯におけるウズベク、カザーフ、キルギズ、オイラートなどの新たな遊牧勢力の勃興の結果ひきおこされたものであった。

すなわち、草原地帯にこれらの新しい遊牧勢力が勃興すると、モグーリスターン.ハーンの支配下にあった多くのモグール遊牧民は、ハーンのもとを離れ、これらの新勢力に合流した。…これが、モグールのいちじるしい人口減少の最大の理由であった。…

かくして、モグーリスターン・ハーン、ユーヌスの次子アフマド(在位1486~1503)は、タリム盆地東部のトゥルファン…に支配権を確立し、一方、アフマドの次男サーイード(在位1514~33)は、カーシュガルに進出して、この地にカーシュガル・ハーン国を設立した(1514)。そして、このカーシュガル・ハーン国のハーンの一族は、少なくとも17世紀の初頭までには、トゥルファン・ハーン国をも併合して、タリム盆地のオアシス都市は、すべて彼らの直接的な支配下に置かれることになる。

ところで、モグーリスターンには、すでに14世紀の中葉以来、…イスラム神秘主義者たちが進出して、…16世紀の末、…神秘主義者がカーシュガルに到着し、…ホージャと呼ばれる彼らの教団の指導者たちは、ヤルカンドとカーシュガルを本拠にハーンの寄進を受けて経済的にも強力になり、17~18世紀、彼らの権威は、タリム盆地のオアシス地帯で、ハーンの権威と並ぶほどであったといわれる。

このように、定住化したモグールのハーンと、イスラム神秘主義教団の首長を支配階級の最上部にいただいたタリム盆地のオアシス定住社会は、16世紀以降、徐々に新ウイグル語と呼ばれる共通のトルコ語を成熟させ、現代に連なる新ウイグル民族社会を形成していった。(注1)

各民族間での抗争
一方、パミール以西の定住地帯に進出したウズベク人たちも、この地域の先住トルコ人たちと混血しつつ、今日にまで連なる、定住ウズベク民族社会を形成していった。16世紀の初頭、シャイバーニー・ハーンによってこの地に建設されたシャイバーニー朝は、サマルカンドあるいはブハーラーを首都としておよそ一世紀間つづいたが、1599年、ジャーン朝(アストラハン朝)にとって代られた。…
ジャーン朝は1785年まで、200年近くブハーラーを中心に存続しつづけるが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギット族出身の武将ムハンマド・ラヒームによって実質的には滅ぼされ、以後マンギット朝が1920年までつづく。このシャイバーニー、ジャーン、マンギットの三王朝は、主としてブハーラーを首都としたので、これらを普通ブハーラー・ハーン国と呼ぶ。

またアム川下流域のホラズム地方には、シャイバーニーの没後、その一族のイルバルスが、1512年に独立してヒヴァ・ハーン国を建てた。彼の一族は、この地域を約300年間にわたって支配したが、1804年には同じウズベク人のコングラト部出身の一武将が、その支配者の地位につき、その一族が1920年までこの地域を支配した。このコングラト部族の王朝もまたヒヴァ・ハーン国と呼ばれる。

さらに18世紀の初頭には、フェルガーナのホーカンドを中心に、ウズベク人のミン氏族出身のシャー・ルフ(1721没)によってホーカンド・ハーン国が建設され、1876年まで存続した。この結果、18世紀の初頭には、パミール以西にブハーラー、ヒヴァ、ホーカンドというウズベク人の三つの国家が存在することになった。しかし、これらの国家の間には領地をめぐっての紛争が絶えず、…この地域に政治的な安定をのぞむことは不可能であった。…

このように、ティムール朝崩壊後の中央アジアは、今日にまで連なる各トルコ系民族のそれぞれの民族社会を形成させたという意味において、歴史的に重要な一時代を現出させたが、その反面、その社会に見られた停滞性は、やがてこの地域を、清朝ロシヤという二つの先進国の掌中におとし入れることになる。

(注1) ウイグルはその後... - 学会の通説とウイグル人の主張 - 」参照
(参考)(テュルク&モンゴル / 年表・系図) チンギス裔の系図
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by satotak | 2006-06-30 05:06 | テュルク
2006年 06月 30日

蘇ったティムール -20世紀初頭のウズベキスタンで-

小松久男著「革命の中央アジア あるジャディードの肖像」(東京大学出版会 1996)より:

トルキスタンの自治

…1917年7月から10月にかけて、フィトラト(注1)は「祖国嘆傷」と題する一連の韻文作品を『フッリヤット』にのせた。それは、トルキスタンを意味する古来の雅称「トゥラン」を多用しながら、愛国の情とトルコ主義の立場を鮮明にしているところに特徴がある。彼は書く。

おお、偉大なるトゥラン、獅子のくによ! お前に何が起こったのだ? (中略) おお、チンギス、ティムール、オグズの一族の栄えある故地よ! お前の気高き座はどこへいったのか? 奴隷の身に堕ちたのはなにゆえか? (1917年7月28日)

おお、わが神聖なるトゥランの夢よ、行くな、離れるな。わがそばに、目前に、わが心、わが良心の中に残れ、行くな。わがくに、わがトゥランよ、お前と離れることは、わが死。お前のために死ぬことこそ、わが生なり。(中略) おお、トルコ人の聖なる祖地よ! 汝の死を欲するものに死を、汝を葬り去らんとするものに憎悪あれ。(1917年8月18日)

さらに、十月革命の直後に発表された作品は、消耗しきったトルコ人が、ティムールの墓前を訪ね、トゥランの地を異国の支配者の手に委ねた自らの責任を悔悟しながら、英雄の聖廟の前で覚悟を新たにするという劇的な場面を描いている。その最後で彼はいう。

墓前に参りましたのは、ただ血の涙を墓前に流すためではありません。みずからの罪を認めんがために参ったのです。見捨てたもうな! ただ罪を認めるために参ったのではありません、トゥランに与えた害をつぐなうために参ったのです、わがハーカーン(君主の称号)よ。われを厭うことなかれ。
おお、獅子の中の獅子よ! わが罪を赦したまえ、われを助け、われを信じ、神聖なる祝福を与えたまえ! 汝の無限の力にかけて誓わん、トゥランのかつての栄光と偉大をとりもどすまで、歩みは止めないことを。
(1917年10月31日)(…)

隷属状態のトゥランに心を傷める作者の意図は、いまだに植民地の遺制から解放されてはいないトルキスタンの現状を告発するところにあったのであろう。このような作品をみると、『争論』では熱烈なブハラ・ナショナリストであったフィトラトが、1917年には明らかなトルキスタン・ナショナリストあるいはトルコ主義者として立ち現れていることがわかる。しかも、これ以降フィトラトはその著作のほとんどをペルシア語ではなく、中央アジアのトルコ語で書くことになる。…

…さて、トルキスタンの自治が宣言されると、12月5目フィトラトはこれを熱烈に祝福する文章を書いている。その要旨は次のとおりである。

トルキスタンの自治……ティムール大王の正しき子孫、トルキスタンのトルコ人の中にあって、これ以上に慶ばしく神聖な言葉はあるまい。われわれは50年来ロシアに隷属し、帝政の抑圧に苛まれた。しかし、ロシアの民主主義は正当な権利に基づいた革命を起こし、あらゆる民族にその権利を回復させた。ロシアは「連邦制の人民共和国」と宣言され、この宣言に基づいてウクライナ人やタタール人の自治が承認された。今度はトルキスタンの番である。それは11月27目の夜半、トルキスタンの歴史的な首都の中では第二に位するコーカンドのクルルタイ(大会)で宣言された。しかし、民族の自治はただ一度の大会宣言で成るものではない。自治を維持するためにはあらゆるものが必要である。ムスリムはこれに備えなければならない。(…)

フィトラトがこの時点でウクライナ人やタタール人の自治の実際をどこまで理解していたかは定かではない。しかし、この論旨からみて、彼が11月に新生のソビエト政府が発した「ロシア諸民族の権利の宣言」や、レーニンとスターリンとが連名で出した有名なアピール、「ロシアと東方の全ムスリム勤労者へ」を読んでいたことはほぼ疑いない。ここでのフィトラトは先輩のベフブーディーと同じく、トルキスタンの自治については、たぶんに楽観的な見通しをもっていた(…)。彼が自治の将来に一抹の不安を感じ、これを記すのは…

チャガタイ談話会
…この中でも「チャガタイ談話会」の精神をもっともよく表しているのは、『ティムールの廟』であろう。 1917年の作品「祖国嘆傷」のモチーフに呼応するこの戯曲には、現代に蘇ったティムールの次のような言葉があったという。

われは汝らに多くのものを遺した。しかし、いったいどうしたことなのだ。かつて栄光と勇気にあふれた民が、いまや異民族の圧政のもとにひれ伏しているとは。わがバーグ(庭園)から鳥を追ったのは何者か? 祖先の遺産はどこへいったのか? 汝らに求める、起て! 汝らに命ずる、起て、くにを立て直せ、わが民の自由を確保せよ! わが命に従わぬならば、くには巨大な墓場と化すであろう。(…)

『ティムールの廟』は、上演のたびに観客の感涙をさそったと伝えられる(…).、しかし、その脚本はついに出版されることはなかった。ティムールのメッセージは、ムスリムの観客には容易に理解することができたにしても、ソビエト当局にとっては明らかに容認しえない内容を備えていたからである。さらに、この時期のフィトラトの作品に流れる悲愴な響きは、後のソビエト文学批評家からは「十月革命に敵対するペシミズム」、あるいは「過去の理想化」の現れとして批判されることになった(…)。…


(注1):フィトラト[Abdurauf Fitrat 1886-1938]:中央アジアの改革思想家,革命家,文学者.
生地ブハラのミーリ・アラブ・マドラサでイスラーム諸学を修め,巡礼の後1910年イスタンブルに留学し,オスマン帝国における変革の実際を観察しながら,中央アジアのジャディード文学の代表作として名高い《争論》(1911),《インド人旅行記》(1912)などの啓蒙的な作品を書いた. ロシア革命後は青年ブハラ人運動を率いてブハラ・アミール国の改革をめぎしたが,18年の軍事クーデタの失敗後はソビエト・トルキスタンで文学活動に従事した.
初期の作品はペルシア語(タジク語)だったが,革命後はほとんどウズベク語を用い,18年末にはタシュケントに文学結社〈チャガタイ談話会〉を組織した. 多数の詩のほか,《ティムールの廟》《インドの革命家》などの愛国的な戯曲,反宗教的な伝奇作品《最後の審判》,中央アジアのテュルク語文学の精華を集めた《ウズベク文学精選》(1928)などが知られている.
しかし,チョルパンらととも20年代後半から〈汎テュルク主義者〉としてプロレタリア文学派の激しい批判にさらされ,38年スターリン大粛清の中〈人民の敵〉として銃殺された. ペレストロイカ期に名誉を回復され,独立後のウズベキスタンでは高い評価を受けている.
[「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男)]
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by satotak | 2006-06-30 05:05 | テュルク
2006年 06月 30日

英雄叙事詩 - テュルク民族の記憶

「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)より(筆者:間野英二):

…前近代の中央アジアの遊牧民の中には文字を使用した人々もあった。突厥文字を使用した7~9世紀の突厥やウイグルがその一例である。しかし,これはいわば例外で,概していえば草原の遊牧民は文字を持たない人々であった。それでは,文字を持たない彼らは自らの歴史観や世界観,さらに自らの喜びや悲しみをどのようにして後世に伝えたのであろうか。実は彼らには,文字を持つ定着民とは異なって,彼らの問で発達した独自の文化伝達の手段があった。彼らはそれを書き物という形ではなく,口伝えによって伝えたのである。

こうして文字を持たない彼らの問に口承文学というジャンルが発達した。彼らの歴史,彼らの世界観,彼らの喜びや悲しみは,弦楽器の調べに乗せて語り手が語る英雄叙事詩などの口承文学を通じて時代から時代へと語り継がれ,聞く人々に末永く記憶されていったのである。口承文学にはしばしば韻文が使われた。リズム感を伴う韻文が散文より記憶に相応しいことはいうまでもないであろう。

口承文学の中で最もよく知られているのは英雄叙事詩である。しかし,口承文学の中には,子守歌や求婚の歌,死者を悼む挽歌,新年の祝い歌,昔話,伝承,系譜,格言,それになぞなぞなども含まれる。ここでは英雄叙事詩を取り上げて説明したい。

英雄叙事詩は,おおむね夜,聴衆に取り囲まれた一人の語り手によって,コブズ(注1)などの弦楽器を演奏しつつ語られた。語り手は一種の吟遊詩人であり,聴衆の要望によって物語を選び,聴衆の反応を見つつ物語の長短や内容を自在に決めた。したがって,物語は一つの同じ物語であっても,その時々の語り手によって多くのヴァリエーションを持つことになる。

…英雄叙事詩には,遊牧民が何を好み,何を嫌い,何を楽しみ,何を悲しんだかという,遊牧民の感性を知るために必要な多くの情報が組み込まれている。そのため英雄叙事詩は遊牧民についての貴重な情報源ともいえるのである。

f0046672_1257269.jpg…『デデ・コルクトの書』について説明しよう。
この作品は10~11世紀ごろの中央アジアのテユルク系遊牧民オグズ族の間に伝えられた物語をベースに作られている。このころ,オグズ族はシル川北方の草原地帯で遊牧生活を送っていた。しかし,オグズ族は11世紀に中央アジアから西アジアへと移動した。そしてその移動に伴って,中央アジア時代の元の物語にさまざまな西方的要素が付け加えられた。そして最終的には15世紀ごろ(14世紀説,16世紀説もある)の東部アナトリアで,現在のような形に編纂されたと考えられている。編纂者の名は知られていない。物語の舞台は元々の版では中央アジアの草原地帯であったはずである。しかし,現在に伝えられた版では,編纂時のオグズの住地を反映して,舞台がアナトリアとアゼルバイジャンなどに変更されている。

全体は序文と12の物語から構成され…主要な登場人物は,ほとんど全てオグズの遊牧貴族とその夫人達であり,女性達も自ら馬を操り弓を引くなど,きわめて活動的である。彼らは皆イスラーム教徒でありキリスト教徒などの異教徒を敵としている。…英雄叙事詩がそのほとんどを占める。
12の物語全体を通じて,デデ・コルクト(コルクトじいさん)と呼ばれる賢明な老人,宗教的指導者,吟遊詩人が登場し,物語全体に大きな枠組みを与えているため,この書は全体として『デデ・コルクトの書』と呼ばれている。

この書に含まれる物語は特定の歴史的事件とは無関係で,ほとんどがフィクションである。しかし,オグズ諸部族間の戦闘やオグズの価値観習慣など,オグズの生活をよく反映しているため,オグズの社会史,文化史の資料として有用である。例えば第12話「内オグズに外オグズが敵対し,ベイレクが死去した話をお話しします」に登場する「略奪の宴」とも呼ぶべきオグズの慣習は興味深い。この物語によるとオグズの大ハーンの女婿で,オグズの軍事的な指導者であったサルル・カザンは,3年に一度,内外オグズの貴族達を自らの大テントに招いて大宴会を催した。贅を尽くした宴が終わるとカザンはテントからまず家族を外に出し,次いで貴族達にこのテントを好きなだけ略奪させ,テント内にある物は何であれ持ち帰らせたという。…
…口承文学の中に見られるこのような慣習から,遊牧民のリーダーの主要な任務の一つが遊牧貴族をはじめとする配下の遊牧民達を経済的にも満足させることであったことがよく分かる。また,ここには,遊牧社会で略奪という行為について,とくに違和感が持たれていなかったことも示唆されている。…

次に,12の物語の中から,「ディルセ・ハーンの息子ブガチ・ハーンの物語をお話しします。おお,わがハーンよ!」という文言で始まる第1話を例に,この「デデ・コルクトの書』の内容の一端を紹介しよう。…
さてこの物語は,オグズの貴族ディルセ・ハーン夫妻とその子息ブガチ・ハーンを主人公とする物語である。部下達による讒言の故に父が子に対して抱いた嫌疑,そしてこの嫌疑に関連して企画された父による子殺しの企て,さらに母の子に対するあふれるばかりの愛情と勇敢な母による子の救出,そして最後に父に対する旧怨を越えた子による父の救出などが物語られる。
…またディルセ・ハーンの妻ハトゥンは,夫に適切な助言をすると同時に,自ら馬を駆って遥か遠方まで息子の救出に赴いている。このハトゥンに代表される女性の智慧と活動性はこの物語の骨格の一つを形成し,遊牧社会で女性が占めた位置の重要性を垣間見せてくれる。…
物語の中には美しい韻文がちりばめられ,例えば若いブガチ・ハーンの母であるハトゥンは夫のディルセ・ハーンに対して,次のように呼びかける。ローマ字転写で示したように,この韻文は脚韻のみでなく,場所によっては頭韻をも踏んでいる。

おいで下さい。              Berügelgil
わが頭の幸,               başüm bahtı
わが家の玉座よ。            Ivüm tahtı
わが父ハーンの女婿よ。        Han babamung güyegüsi
わが母カドゥンの愛しき人よ。     Qadın anamung sevügüsi
わが父わが母が私を与えたお方よ。 Atam anam virdügi
私がわが目を見開いて見たお方よ。 Göz açuban gördügüm
私がわが心を与え,愛したお方よ。   Köngül virüp sevdügüm
おお,ディルセ・ハーンよ。        A Dirse Han

…妻から夫への実に美しい呼びかけではなかろうか。
また,夜明けの情景は,次のように描写される。…

いと冷たき夜明けの風が吹くとき,
ひげ面の灰色のひばりが歌うとき,
ベドウィンの馬どもが主人を見て嘶くとき,
長きひげ持つペルシア人がアザーン(注2)を唱えるとき,
白(明)と黒(闇)とが分かたれるとき,
気高きオグズの嫁や娘が装うとき,
太陽が麗しき胸持つ高き山々に触れるとき
ベグや若党らが集いはじめるとき

このような美しい韻文の使用は物語に詩的な香りと音楽的なリズムを与え,聴く者を文学的な陶酔境へと誘ったのである。
この興味深い『デデ・コルクトの書』について最近日本でも邦訳(注3)が出版された。日本の読者もこの邦訳を通じていつか作品の全貌に触れていただきたい。…

(注1) コブズ:2弦の擦弦楽器
(注2) アザーン:祈りへの呼びかけ
(注3) 菅原睦・太田かおり訳 「デデ・コルクトの書 アナトリアの英雄物語集」 東洋文庫 平凡社 2003年

(参考) 中央ユーラシア・テュルクの叙事詩
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by satotak | 2006-06-30 04:07 | テュルク
2006年 06月 30日

モンゴル帝国の頭脳集団:ウイグル

杉山正明著「遊牧民から見た世界史」(日本経済新聞社 1997)より:

...モンゴルの拡大と支配に、欠かせぬ人びとがいた。ウイグルである。かれらは、モンゴル出現当時、ふつうには「天山ウイグル王国」もしくは「西ウイグル国」と呼びならわしている牧農複合型の通商国家を形成していた。いうまでもなく、9世紀なかばに解体したウイグル遊牧国家の系譜をひき、東部天山の南麓のトゥルファン盆地と北麓のビシュ・バリク(テュルク語で「五つの町」)の両地域にまたがって立国した小国家であった。

国家としての身代は、まことにささやかではあったものの、そこに蓄えられた知識・情報・経験・文化程度にはただならないものがあった。王族・貴族層は、遊牧国家の伝統をもちながらも、民衆はかつて麹氏高昌国がオアシス通商文化国家の花を咲かせた土壌のうえに立っていた。

支配層はテュルク系であったが、領内には先住のインド・アーリアン系漢族系、さらにはおそらくソグド系の血をとどめる者もいた。また、ティベット系のものもいたはずである。言語も、ウイグル語という名のテュルク語のほか、漢語、ソグド語、ティベット語、ペルシア語、アラビア語、さらにはサンスクリットやパーリ語なども錯綜した。

人種・言語・文化、いずれの面においても、ハイブリッドな性格は際立っている。しかも、それぞれの要素が併存しつつも混淆した。一人で多言語・多文化に通じ、多人種の血が体内に流れるものも、かなりいたと見なければならない。人びとの生業も、遊牧・牧畜・農耕・商工業・国際通商と、多岐にわたったと見られる。

まさに中央ユーラシアの諸要素が、この小国家に凝縮して存在した。とうぜん近縁・遠方の人びとが往来し、諸国の情報も集中したにちがいない。小国ながら、まことに怖るべき情報立国といっていい。
モンゴル時代、ユーラシアの東西で活躍する「ウイグル人」には、人並みはずれて異能の人が目につくのももっともとおもわれる。ペルシア語で、当時、「ウイグリスタン」(ウイグルの地)と呼ばれたこの国は、人材供給の宝庫であった。

すでに1209年、ウイグル王イディクト(イディクトは、漢字では「亦都護(いとご)」と写す。個人の名ではなく、王号。その意味は、テュルク語で「幸いの主」とも「神聖なる吉祥」とも解釈されている)のバルジュク・アルト・テギンは、大臣ビルゲ・ブカの進言をいれて、出現したばかりの「大モンゴル国」に好みを通じていた。金朝進攻作戦に先だつ2年まえのことであるから、国を挙げてのこの選択は、賭けにも似ていたはずであった。

しかし、この「先物買い」は、ものの見事に的中した。ウイグル王は、チンギス家のむすめをもらって「鮒馬(ふば)」(むすめむこ。テュルク語でキュレゲン、モンゴル語ではグルデン)となり、モンゴル体制下で別格の「準王家」の地位を不動のものにした。いっぽう、「ウイグル人」の名のもとで総称される臣僚・住民たちは、それぞれの家柄と才覚に応じて、モンゴル帝国の各地において、うえはチンギス王家の師傅(しふ)(もり役、家庭教師、個人ブレイン)から、参謀、行政官、財務官、軍人、企業家などまで、じつに多方面で活動する。

ウイグルは、「モンゴル統治の教師」といわれたほど、モンゴルと一体化した。いやむしろ、ウイグルは、モンゴルを誘導し、一面では乗っ取ったとさえいえるかもしれない。この点、あくまで軍事色の濃厚なキタイ族にくらべ、活動の多面性・広域性において、ウイグルのほうが上回った。極論すれば、キタイは体で勝負し、ウイグルは頭で勝負したといえようか。もちろん、ユーラシア西方の膨大なテュルク系諸族のとりこみに、おなじテュルク系で、同種の言葉をはなすウイグルのほうが、もともとキタイよりも有利な立場にいたことは見逃せないが。

ウイグルは、「準モンゴル」というよりも、むしろ「ウイグルという名のモンゴル」になったといったほうが、現実にちかいだろう。ラシード・アッディーン『集史』の冒頭の「部族志」において、ウイグルもモンゴル諸部族と並べて説明されるのはその一証となる。

モンゴル時代に「ウイグル」と呼ばれる人びとは、ほとんど仏教徒(ないしはマニ教の要素を多分にとり入れた仏教徒)であった。この点、「ウイグル」というとムスリムを連想しがちだが、誤解である(もちろん、わずかではあるが、ムスリムとなった「ウイグル人」もいることはいた)。ちなみに、「ウイグル」とならぶモンゴルの教師役であるキタイ族も、その大半が仏教徒であったのは興味深い。...
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by satotak | 2006-06-30 04:03 | テュルク