テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ

<   2006年 06月 ( 59 )   > この月の画像一覧


2006年 06月 30日

「民族自決」は普遍的正義か -マルキストの見方-

丸山敬一著「民族自決権の意義と限界」(有信堂高文社 2003)より:

レーニン民族自決権論の意義
…数あるマルクス主義者の中で、レーニンが民族自決権の最も強力な主張者であることをみた。後にみるようにスターリンが途中でプロレタリアートの自決権の方にくらがえしてしまったのに対し、レーニンは生涯にわたってこの権利を要求し続けた。それでは、彼のいう民族自決権とは一体どのような性格の権利だったのであろうか。

レーニンは、民族自決権を諸民族が自由に分離して独立した国家を形成しうる権利として定義し、抑圧民族のマルクス主義者は、被抑圧民族に対してこの権利を無条件に承認しなければならない、と主張した。すると、我々はここで二つの疑問につきあたることになる。第一の疑問は、もしレーニンの民族自決権が文字どおり十全に実現されるとすれば、ロシア帝国は百数十の小さな民族国家に分裂してしまうはずであるが、レーニンは本当にそうなることを望んでいたのであろうかという点である。第二は、レーニンは、それではナショナリストだったのか、という点である。マルクス主義の本質はナショナリズムではなく、インターナショナリズムのはずである。彼がもし百パーセントの民族自決権を認めるとすれば、ナショナリストとどこが違うのであろうか。…

レーニンは、諸民族が真に民主主義的な基盤の上で結合していくためには、どうしても民族自決権の承認が不可欠であると考えた。彼によれば、この権利は離婚の権利と同じものであった。離婚の権利を認めるのは、離婚を義務づけるためでもなければ、うまく行っている夫婦に離婚を説いて勧めるためでもない。それは、両性の真に対等で民主主義的な結婚を保障するためのものである。離婚の権利が認められてはじめて両性は真に民主主義的な基盤の上で結婚生活を送ることができるのである。…

…いつでも離婚することができるにもかかわらず、あえて離婚を望まず、みずから進んでその結婚生活を続けるというところに自由意志に基づく真の結婚生活がありうるのであり、その方がかえって夫婦の結びつきは強まるのである。それとちょうど同じようにいつでも分離することができるにもかかわらず、分離せずにあえて大国家の中にとどまるというところに真に民主主義的でより強固な民族関係がありうるのである。つまり、分離の権利の保障が自発的な結合を促進するのである。そうレーニンは考えた。だから、彼は民族自決権の承認は、帝国を解体させるものではなく、逆に諸民族の結合を強化するものであると考えたのであった。それゆえ、レーニンの主観的意図の中では、私が上にあげたような二つの疑問ははじめから存在しなかったのである。彼は、民族自決権の承認こそが、中央集権的巨大国家の形成を保障し、諸民族の結束を強めてインターナショナリズムの精神に合致するものだ、と考えていたのである。…

民族自決権の限界
上述のように、レーニンは中央集権的巨大国家を維持するために、またプロレタリア・インターナショナリズムの精神に沿って民族問題を解決するために民族自決権を認めたのであった。彼には積極的に諸民族の分離独立を奨.励する気などさらさらなかったのである。だからこそ、彼は民族自決権の承認と、その実際の行使とを厳しく区別したのであった。

ところが、今日ソ連やユーゴスラビアなどで多くの民族は、レーニンがあまり望まなかったような方向で、つまり自由に分離独立するという方向で民族自決権を行使しようとしている。すでにみたように、民族自決権が、文言上は、自由に分離独立する権利を意味し、諸民族は無条件にこの権利を承認されているというのであるから、レーンの意図がどこにあったにせよ、こうした運動を上から押えることは決してできないであろう。

それでは、分離を希望するすべての民族を自由に独立させた場合に民族問題は完全に解決するのであろうか。民族自決権は民族問題を解決する万能薬であろうか。

まず、第一の問題点は、民族自決権は属地主義原則に立脚しているという点である。ある民族がある国家から分離独立するという以上、一定の領域を必要とする。各民族がそれぞれ一定の地域に純粋にまとまって住んでいれば、その地域のみを独立させることは比較的容易である。しかし、地球上には、いくつかの民族が混住している地域の方が圧倒的に多い。特に大都市はさまざまな民族の混住地である。そのような場合には、地域的な分離独立の原則を適用することができない。この点で民族自決権の実現は明白な限界を持っているといわなければならない。ここからオーストロ・マルクス主義者の属人的(=非属地的)民族自治論が出てきたのであった。彼らは属地主義を原則としながらも、民族混住地域の住民に対しては属人主義の原理でこれを補おうとした。すなわち、成人に達した市民は、みずからどの民族に所属するかを自由に申告し、この申告に基づいて民族台帳を作成し、居住地域にかかわりのない純粋に人的な結合体として民族団体を構成するというものである。そして、この民族団体が言語問題や教育問題など民族問題を独自に解決していくことになる。民族混住地域では、こうした解決策の方がより現実性を持っているのではあるまいか。

第二に問題となるのは、さまざまな民族の混住している所では、民族問題が重層的に存在しているという事実である。たとえば、グルジア共和国ではグルジア民族がロシア民族に対して強力に独立を要求している。もしグルジア共和国の独立が認められれば、グルジア民族にとっては問題は解決するかもしれない。しかし、グルジア共和国にはグルジア人だけが住んでいるわけではない。そこには、八十以上の少数民族が住んでいて、とりわけ、最近ではアブハジア人とオセチア人がグルジア人に対して独立を要求している。グルジア共和国の独立を認めただけでは、問題は何ら解決しないのである。…

…それゆえ、連邦構成共和国だけに民族自決権を認めても問題は何ら解決しないのである。だが、もし民族自決権の適用範囲を広げて、それらの共和国内に住むすべての民族に自決権を認めることになれば、ソ連邦は百数十の小さな民族国家群に解体してしまうことになろう。これは、バルカン化といわれる状況をソ連の中に作り出すことになる。

第三に、それではこのようなバルカン化は何をもたらすであろうか。そのような小さな独立国家は、まず経済的に自立できるであろうかという問題がある。ソ連邦の中で経済的に最も豊かであるといわれているバルト三国ですら、なかなか経済的に自立していくことは困難だと伝えられている。経済的自立の困難な小国家の分立は、ローザ・ルクセンブルクの恐れたように中世的小国家時代への逆もどりであり、全体としての経済の発展を著しく阻害することになるであろう。

次に政治的な不安定化があげられる。そのような小国は相互に争い、結局のところふたたび近隣の大国の支配下に陥ってしまうことになるであろう。これは、前述したように、オーストリア=ハンガリー帝国についてオットー・バウアーの危惧していたところである。

以上三点にわたってみたように、民族自決権の文字どおりの実現は決して好ましい結果をもたらすものではない。我々はやはりレーニンが望んだように大国家(=広域経済圏)の中に諸民族が相並んで平和のうちに共存していく道を追求しなければならない。それなくしては、民族問題の真の解決はありえないように思われる。

むすび
カウツキーやレーニンは、民族というものは、資本主義の発展とともにやがて接近し融合していくものであると考えた。社会主義はこの傾向をさらに一層押し進めるであろう。ソ連における百数十におよぶ民族もやがては融合して一つのソ連民族になっていくであろうというわけである。そこで、ソ連ではさかんに民族の移住や民族間の結婚が奨励された。だが、このことは必ずしも民族の融合を押し進めることにはならなかった。というのは日々ロシア人の数の増大を目にし、街にロシア語出版物のはんらんするのを目にした少数民族は、“これは大変だ、この国はいまにロシア人に乗っ取られてしまうぞ、このままでは自分たちの言語や文化は消失してしまうのではないか"という危機感をいだくようになり、それに対抗して自分たちの言語や文化を守っていこうとする文化的ナショナリズムを呼びさまされるからである。言語や文化は民族のアイデンティティの中核ともいうべきものであって、これを保持し、後世に伝えていきたいという欲求はどのような少数民族にもきわめて根強いものである。むしろ数的に劣勢に追い込まれれば追い込まれるほど、こうした願望はますます強く燃え上がるあとみてよい。…

このような現実をみれば、我々は、民族がそう簡単に接近し融合すると期待することはできない。民族という人間集団は今後も長期にわたって存続するものとみなければならない。社会主義になれば、民族は接近し融合して、やがて世界が一つの民族になるであろうというようなカウツキー=レーニン流の見方は、あまりに性急なものといえるであろう。

しかし、だからといって民族の間の差異を強調し、彼らの間に政治的ナショナリズムを高揚させていくことは、決してよい結果をもたらすものではない。ソ連やユーゴスラビアのような多民族国家で政治的ナショナリズムを高揚させれば、それは必ず民族間の不和、対立、やがては武力衝突を結果することになって、さまざまな悲劇を生み出すことになる。政治的ナショナリズムは、何とかして眠り込ませなければならない。そして、そのためには、諸民族の文化的ナショナリズムを十分に満たしてやることが必要なのである。かつてレーニンは、文化的ナショナリズムを認めることが政治的ナショナリズムをよび起し、強化することになるとして、オーストロ・マルクス主義者のレンナーやバウアーの民族自治論を激しく批判した。だが、レーニンの主張に反して、文化的ナショナリズムを押えることが、かえって政治的ナショナリズムを強めるのである。諸民族が文化的ナショナリズムを十分に充足する機会を与えられながら、大国家の中で相並んで平和のうちに共存していく道を追求することこそが、民族政策論の今後の課題であろう。…
[PR]

by satotak | 2006-06-30 06:05 | 民族・国家
2006年 06月 30日

少女プージェー - 遊牧民の今 -

「文化/映画 モンゴルの少女、覚えてますか?」(産経新聞 2006.6.6)より:

f0046672_20513897.jpg探検家の関野吉晴が人類の足跡を逆にたどった「グレートジャー二―」(平成14年までフジテレビ系で放送)の途上で出会ったモンゴルの少女、プージェーを覚えていますか? 彼女を主人公に「人と人との出会い」「自然も人間も変わる」ということの“重さ"を記録した映画「puujee」(山田和也監督、写真)が東京・ポレポレ東中野で公開されている。

関野が、モンゴルの大草原で自在に馬を操るプージェーと出会ったのは平成12年秋。当時、まだ6歳でありながら、遊牧民としてのプライドや誇りを強く持った彼女に魅せられた関野は以来、5年間にわたって再訪を重ね、プージェー一家と家族同然の仲になる。

だが、この間にモンゴルの近代化は急速に進み、一家も馬の盗難、家畜の餓死、最愛の母の死など、押し寄せる時代の波の影響を次々受ける。一方、プージェーは関野との交流を通して日本に興味を抱くようになり、「将来は日本語の通訳になりたい」と目を輝かせていたのだが…。

プロデューサーの大島新は「モンゴルの少女が自立して“格好よく”生きられる社会が失われつつあるという現実は、われわれが経験した社会の変化と根が同じだと思う。人間を取り巻く環境の一端を、より多くの人に伝えることができれば」と話している。  (安藤明子)

f0046672_20521355.jpg

(参考) [プージェー puujee Official Site]参照
[PR]

by satotak | 2006-06-30 06:04 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルと日本と海

ザンバ・.バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

遥か700年前に来日した初めてのモンゴル使節
…モンゴル人はいつ初めてこの地[日本]に渡来したのでしょうか。モンゴルという名の部族集団は13世紀に明らかになったので、それ以前にはモンゴル人の祖先が別な名前で日本に来ていたのかもしれません。…
しかし、モンゴルという名前で日本列島に渡来した資料の存在は、後の13世紀に下ります。鎌倉にモンゴル人の碑があると聞いていましたが、行ったことはありませんでした。…

神奈川県藤沢市の常立寺(注1)という小さなお寺にその立派な石碑は建っていました。フビライ・ハーンが遣わしたトーシジン(杜世忠)、ケウェネヌゥ(何文著)、ソ・チャン(徐賛)など5名の使者の記念碑で、彼らが斬首される前の辞世の詩も刻まれています。大きな記念碑の前にある小さな五つの石碑の中央にあるのが使節団長であったモンゴル人の碑であろうと推測できます。30歳を過ぎたばかりのモンゴル人、高麗人、漢人、ウイグル系の人で構成された使節団であり、団長のトーシジンは34歳の教養の高い勇敢な若者であったと研究者は記しています。使節団は、出発時には4人でしたが、1275年3月(注2)に高麗に到着すると、そこで日本語をよく解するソ・チャンが加わり、4月に長門の国の室津(山口県豊浦町)に到着しました。彼らが行き先を変更して室津に来たことに日本側は疑いを強め、3か月間の監視の後、8月に鎌倉に移送しました。そして北条時宗の命により、1275年9月7日、竜ノロで首を刎ねられたのです。

「モンゴルなどという国は聞いたことがない」
彼らはフビライ・ハーンが遣わした初めての使節ではありませんでした。フビライ・ハーンは、初めての全権使節を1266年11月に日本に送っています.しかし彼らは対馬の近くのコジェ(巨済)島で嵐に遭い、年が変わるまで待機していましたが、嵐がやまないので1267年1月にカンファ(江華)に戻りました.

日本の地に初めて足を踏み入れたのは二度目の使節で、1267年11月に対馬に到達し、守護代宗助国の案内で1268年7月に太宰府に着きました、彼らは1266年8月付のフビライ・ハーンから日本の天皇に宛てられた国書を携えていましたが、返書を得ることはできませんでした。日本側は友好関係締結を提案する背後に威嚇とも思える内容を含んでいるとし、国書も贈物も認めなかったのです。
フビライ・ハーンの国書は奈良の東大寺に保管されており、2000年2月にモンゴルのトムルオチル国会議長(当時)訪日の際、その写しが公式に手渡されました。

フビライ・ハーンの3回目の使節は1268年に遣わされました。当初8名で出立しましたが、高麗で4名が加わり、さらに十数名の従者を含めたこの使節団は1268年12月に高麗を出発し、翌年初めに対馬に着きました。この使節団の目的は日本の軍事力の偵察であったことを日本側は気づいたようで、さらなる移動を制限し、受け入れを拒否しました。彼らは対馬の塔二郎、弥二郎という二人の住民を連れて帰りました。当時の都であったハーンバルガス(現在の北京)で2人を迎えたフビライ・ハーンは「日本人とは化け物と聞いていたが、貴方たちは私たちと変わらない顔の、赤い皮膚をした人間ではないか」と述べたと言われています。その後、2人はハーンバルガスの街並みや宮殿を案内されました。思うに偉大なる皇帝であったフビライ・ハーンは、自分たちと変わらない顔つきの日本人を見て親近感を感じたのではなかったでしょうか。

この二人の日本人を含めた第四次使節団は1269年7月に高麗のカンファに来ました。その年の9月に対馬付近の小島に到着し、対馬の守護職がフビライ・ハーンの国書を鎌倉幕府に届けました。興味深いのは京都の朝廷がフビライ・ハーンの国書に返書を起草していたことです。返書には「我が国は天照皇大神から今上天皇まで神に護られ、国が造られてから外国の支配に屈したことはない(中略)。武器を持って闘うことを望まない。貴国はよく考慮されたし」と記され、また「かつて我が国は中国と友好関係にあったが、モンゴルの名前は聞いたことがない」と、一方で説得を試みながら、他方で一瞥もくれないような内容で起草されましたが、鎌倉幕府はこの返書を使節団に送ることを拒否しました。注意深かったのか、必要無いと思ったのかはわかりません。…

しかし、フビライ・ハーンはすでに侵攻を決めていたので、1271年12月に偵察のための第五次使節を遣わしました。この使節は女真族の官吏であったヂャオ・リャンビ(趙良弼)を団長として、以前に捕らえられた2人の日本人が通訳として加わっていました。この頃、日本国内は混乱しており、京都の朝廷は単独での問題解決能力をほぼ失い、鎌倉幕府の支配が一層強まっていました。幕府では全ての権力を、20歳を過ぎたばかりの若き執権、北条時宗が握っていました。著名で影響力の強かった僧侶日蓮が捕らえられたのもこの時期です。日蓮が捕らえられた理由は、モンゴルの襲来を予言したからでしたが、モンゴルと柔軟な政策で交流することを提言したことが怒りを買ったという人もいます。この度の使節も返書を受け取ることはできませんでしたが12名の日本人に案内をさせて帰途につきました。帰国した後に彼らは日本の使節団であると語ったそうです。使節団長ヂャオ・リャンビは、1273年5月にハーンバルガスでフビライ・ハーンに謁見し、「日本の領土は美しく、山には木や水が多くあり、土地は肥えており、人々は勤勉、食べ物は豊富」と報告しました。…

海上での戦闘の準備は、モンゴル人自身がしたわけではないだろうという理解が広くされています。しかし、戦争のための船の建造や、戦闘に参加するモンゴル兵の拠点づくり、その場所の選択などに、朝鮮の歴史ではフートン(忽敦)として有名なホタクト将軍が指揮していました。ホタクト将軍は、開かれたプサンではなく、有利な点が多い閉ざされたマサン(合浦)を選び、そこで3万人以上を働かせて、3か月の間に9百隻の船を造らせました。

海を持たない海洋民
…フビライ・ハーンは遊牧騎馬民族のモンゴルが手中に収めていた陸の道海の道に繋いで、広大な帝国全土に陸海の交通網を張り巡らせ、経済活動を活発にするという壮大な構想を抱いていました。モンゴル時代の史実を記した明代の歴史書『元史』には、国が交易のために船と資本を商人に貸し与えたとあります。これは、南宗までの歴代の中国王朝には無かった、まったく新しい発想でした、

フビライ・ハーンは遊牧農耕航海という、人類の活動の三つの大きな流れを総合しようとしましたが、これを象徴するのが大都の建設です。大都は、海まで150キロメートル近くもある内陸に建設された都市でありながら、市街の真ん中に港を持っていました。人工的に造られた運河と自然の川を組み合わせて水運を可能にしたのです。運河の開通によって、遠くアフリカ、中近東、インドなどから多くの物資が大都に運ばれました。

こうして内陸の遊牧民族モンゴルの皇帝フビライ・ハーンが、古代文明の中心のひとつであるアジアの中国を水路によって他の大陸と結ぶ道を開き、後にモンゴル遊牧民の子ボローが、ピョートル大帝の治世に勢力を強めたヨーロッパの大国ロシアの首都を内陸および外部世界と水で結ぶ道を開いたということは、たいへん興味深い史実ではないでしょうか。

モンゴル帝国は海軍を強化し、1292年から1293年には太平洋諸国、ジャワ・スマトラにまで到達しました。同時に海上交通・貿易を促進し、東アジアとインド洋の東半分、スリランカに至るまでの広大な地域の国々と友好関係を結びました。モンゴル帝国の庇護の下にアジアの大陸と海を含む巨大なシステム化された交易圏が作られたのです、

歴史家によれば、モンゴルはフビライ・ハーンの治世の後半から、はっきりと「海上帝国」の性格を持ちます。この大帝国の二段階にわたる成長は世界史上の驚異であり、今もその意義は色褪せていません。

ですから今日のモンゴルは海に出口がないと嘆くのではなく、頭を使い、賢明な政策で国際海洋条約その他の国際法規に基づいて海に進出し、海上輸送や海洋資源の利用のチャンスを活かすべきなのです

(注1) 「常立寺の伝元使塚」参照

(注2) 1275年は、元寇と言われる「文永の役」(1274)の翌年に当たり、二度目の元寇「弘安の役」は1281年であった。
[PR]

by satotak | 2006-06-30 06:03 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴルの人口

ザンバ・バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

人口の変動
…1990年代初頭、モンゴル自然環境省や大臣宛に自然保護に関する手紙が外国から、主にアメリカからよく届きました。その中には「モンゴル政府はユキヒョウの狩猟を外国人ハンターに許可しているが、世界的に稀少なこの美しい動物の狩猟は許されない、強く抗議する」という内容の手紙がたくさんありました。…

研究者によれば13世紀のモンゴル大帝国時代にモンゴル民族の人口は約200万人であったとされています。それ以降800年が経過した今日のモンゴルの領土に居住する人口は、200万を大きく超えることがありません。その間に世界の人口は数倍に増えているにもかかわらずです。国境を接する二つの超大国は大きく人口を増大させ、ロシアはモンゴルの約60倍、中国は約530倍の人口を養っています。日本の人口もモンゴルの53倍です。…

1920年代の史料によると、当時のモンゴルの地に生活していた人はたったの60万人、そのうち約10万人は妻を娶ることが許されない僧侶で、結婚していない成人女性が9万人以上いたそうです。そのため、20世紀初頭には、モンゴル人は絶滅への道にかなり近づきました。17~18世紀に強大な勢力を持ち漢民族やモンゴル・チベットを支配し、後に消え去ってしまった満洲民族の後を追う悲壮な運命が迫っていたのです。

このような時期にモンゴル民族の滅亡について、ユキヒョウと同じように心配してくれた人がいたでしょうか? 外国人はともかく、モンゴル人自身がこのことにどれだけ敏感であり、竈(かまど)の火と民族の未来を絶やさないためにどれほど闘ってきたでしょうか?

モンゴル人の歴史を、史実や社会現象の面からだけでなく、地理的な存立条件、環境・気候変動に関連づけて研究したロシアの研究者であるレフ・グミリョフは、国家や民族を人間と同様な寿命(生まれ、育ち、死ぬ)を持つとして、モンゴル人にはすでに500年の寿命しか残っていないという興味深い仮説を1980年代に発表しました。…

モンゴル民族をふり返れば
かつてモンゴルの地に居住していた人々は、原始共産制として数千年間を経た後、紀元前1000年代の末頃に階級制社会に移行し部族集団が形成されました。その社会生活は互いに同様ではなく、森の狩猟民、川の漁民、草原の遊牧民などでした。彼等がそれぞれの発展段階を経て13世紀を迎えます。1206六年にモンゴル統一国家が建てられたことにより、モンゴル人たちの間で戦争の危機が収まり、ばらばらであった状況が一転し、民族としての発展の道に入る可能性が開かれました。そのとき以降、ひとつの祖国とひとつの言語、共通の生活習慣を持つモンゴル民族となって確立していったとされます。しかし、その後、東西南北に分断し、その一部は遠くボルガ河(今日のロシア領)、青海(今日の中国領)付近を領土としました。独特の言語方言・生活習慣・知的文化を持つ多くの部族となり、それら全てをモンゴル系諸族と呼ぶようになります。

現在のモンゴル民族
現在のモンゴル国には20以上の部族を含むモンゴル民族が約240万人います。中国に400万人、ロシアに50万人、アフガニスタンに3万人、アメリカに2千人、フランスに千人など、世界中の国々に居住しているモンゴル民族の人口を合計しても650万人を超えません。
それでも、現在のモンゴル国の人口は、1920年代と比較すると4倍に増加し、今後も増加する傾向にあるので、モンゴル民族の寿命が500年で終わることはないと思われます。このことは天の神様に委ねることではなく、私たちモンゴル人自身に関わる問題です。「当人が努力すれば、運命も努力する」とモンゴルのことわざに言われるのは根拠のないことではありません。…

チンギス征西時には
...[チンギス・ハーンは]1218年には450名からなる大通商団をホラズムに派遣し、ムハンマド・シャーに「和議を結び、通商を拡大する」内容の申し入れをしました。しかし国境の町オトラルの長はムハンマド・シャーの命令により通商団の商品を没収し、通商団員を惨殺しました。450名のうちひとりだけが帰国してその事実をチンギス・ハーンに報告したため、チンギス・ハーンは怒りに震えましたが、殺害された団員を悼み、詳しい理由を知るために再びムハンマド・シャーにひとりのイスラム教信者と二人のモンゴル人からなる使節を派遣しました。ところがムハンマド・シャーは使節団長のイスラム教信者を殺害し、二人のモンゴル人の髪を剃って追い返したのです。…

1219年、チンギス・ハーンは大クリルタイを開きホラズム攻略を協議し、大軍を自身が率いることが適当であるとの決定を出しました。当時のモンゴルではひとりの考えによって全てが決定されていたのではなく、国家政策や精緻な行動体系が備わっていたことがわかります。人口200万に満たないモンゴル2千万の人口と40万の軍隊を持つホラズムを攻撃するとは、どんなに勇敢かつ知恵を必要としたことであったでしょう。この戦争に参加したモンゴル精鋭軍は8万、兵站任務にあたるなどの他民族の軍が6万、合計14万人でした。モンゴル軍はオトラルを廃墟にし、ブハラを占領し、職人以外の人々を殺害して寺院を破壊しました。さらにサマルカンドを征服し、多くの鍛冶職人を捕虜にしました。
これはその後の大遠征の序章でした。こうして人類史に「モンゴル時代」と名づけられる歴史のページが開かれ、戦争と抵抗、和平と破壊の時期が代わる代わる訪れることになります.この時代について書かれた本や芸術作品は無数にあります。…

仏教と人口
…元国の時代にフビライ・ハーンが国教と定め、16世紀にはモンゴルの中心的宗教になっていたチベット仏教は、モンゴルの運命にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。この問いにモンゴル人はさまざまな回答を与えています。

仏教の教えは、モンゴル人に激しさや荒々しさでなく(もともとそうであったわけではないでしょうが)、平安・寂静・忍辱(にんにく)など慈悲深い思想を備えさせるのに重要な役割を果たしました。もともと人口が少なく、生けるものが生存していくことが容易ではない厳しい自然や気候の中で生活している人々にとって真に適した哲学です。
しかし、貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴などの堪え忍ぶべき煩悩の中に、この世の成立する最も根源的原理である子孫を残す法則、男女の行為をも含めて、僧侶の妻帯を禁じたことは、モンゴルにとって良い結果をもたらしませんでした。

1921年の革命が始まった時期の外モンゴルの人口はわずか60万人で、そのうち10十万人が僧侶、9万人は成人独身女性であったというデータがあります。このような状況が長く続いていたなら、今日、モンゴルはいわんやモンゴル民族なるものが残っていたかどうか定かではなく、あるいは満洲族と同様の運命を辿っていたかもしれません。

いずれにしろ、私がモンゴル国を代表して日本に赴任し、読者諸氏と言葉を交わすような素晴らしい機会が得られたかどうかは疑問です。その意味で、「宗教はアヘンである」と言ったマルクスの言葉に従っただけでなく、モンゴル人へ及ぼした欠点も考慮して、1921年の革命後にモンゴルの党と政府は宗教に対して相当厳しい対応をしたのかもしれません。

しかし、反革命の温床として多くの僧侶を殺し700以上の寺院を破壊したことは、数百年間にわたるモンゴル民族の物質・精神文化の遺産を根こそぎ消し去りました。外国からの影響があったとはいえ、モンゴルの寺院はモンゴルの気候に適したモンゴルの資材を利用し、モンゴルの職人の知恵が詰まったモンゴル芸術建築でした。.寺院ではお経を読んで祈りを捧げるのみならず、写経・翻訳・出版、さらに文字の学習、薬の処方も行なわれていました。寺院は今日における学校・病院・コミュニティセンターの役割を果たし、人々が知的充電を行ない、心を清浄化する場所であったことは間違いありません。…
[PR]

by satotak | 2006-06-30 06:02 | モンゴル
2006年 06月 30日

オスマン帝国を生んだ世界

林佳世子著「世界史リブレット⑲ オスマン帝国の時代」(山川出版社 1997)より

オスマン帝国史の課題
オスマン帝国は巨象のような国家であった。しかも、とても長命の。日本史でいえば、鎌倉時代に産声をあげたオスマン帝国が史上から姿を消したのは大正時代、第一次世界大戦のあとである。どの時点をとっても、バルカンから西アジア、北アフリカに広がる東地中海世界には、オスマン帝国の強烈な存在があった。

しかし、このオスマン帝国の実像は、あまりにその存在が.長期にわたったために、なかなかはっきりとはみえにくい。これまでの歴史記述では、短い特定の期間のオスマン帝国像をつないでいくことで全体が語られてきた。とくに、ヨーロッパにとってオスマン帝国が脅威であった十六世紀と、オスマン帝国の遺産をめぐる争いがヨーロッパ列強の政治問題となる十九世紀に関心が集中していた。そこにヨーロッパの視点が色濃く反映していたことは間違いない。

オスマン帝国史が、その重要性にもかかわらず十分に明らかにされてこなかったもう一つの理由は、その広大さと、その後に生まれた多くの「国民国家」のおかれてきた複雑な立場にある。オスマン帝国のかつての領土から生まれた現在の国家は、30力国をこえる。近代から現在にいたるまで、さまざまな政治状況におかれ、今日まさに紛争の絶えない中東・バルカン・黒海沿岸の国々である。

これらすべての国々の「国史」において、「オスマン帝国史」は近世から近代にかけての重要な一部をなすはずである。しかし、それぞれの「国民国家」が誕生した経緯がオスマン帝国からの独立史にほかならないという事情に影響され、近代以後の歴史学の発展のなかで、オスマン帝国史はあたかも「トルコ」という国の歴史のようにあつかわれてきた。…トルコ以外を対象とする歴史研究において、「オスマン帝国支配時代」はあたかも暗黒時代のようにあっかわれてきた。一方、トルコ史研究の側では、イスタンブルとアナトリア以外の土地への意識・目配りが希薄なままオスマン帝国史を語ってきた傾向が強い。こうした事情から生じた欠落がオスマン帝国の全体像をみえにくくしているといえよう。
このような欠陥の克服には、まだまだ時間がかかると思われる。…

…じつは、オスマン帝国は「16世紀を頂点とし、その後体制は変化せず、国力は衰退を続けた」わけではなく、16、17、18世紀をつうじて、国家体制のうえでも経済構造のうえでも、独自の変容をたどっているのである。16世紀興隆期の勇姿と19世紀の「東方の病人」イメージだけでオスマン帝国を語ることは克服される必要がある。

オスマン国家の誕生
14世紀に異常な早さでバルカン半島に拡大した新国家(のちのオスマン帝国)の勃興を、宗教心に突き動かされたイスラム勢力の台頭、あるいはトルコ人の侵略、とみる見方は依然根強い。イスラム教徒対キリスト教徒、トルコ(オスマン)対ヨーロッパ(ビザンツ)というあいいれない二つの勢力の対立の構図は、現在のわれわれだけでなく、当時間近で観察していたヨーロッパの人びとにもわかりやすいものであった。なぜなら、宗教戦争に明け暮れ、続いて絶対王政間の紛争に血を流し続けた同時代のヨーロッパの人びとにとって、人間は宗教と民族で識別され、それに従うならばオスマン帝国はトルコ人によるイスラムの国と考えるのが自然だったからである。それゆえ、彼らは「恐ろしい敵」はトルコ人であるとし、彼らの国をトルコ帝国と呼んだ。

しかし、近年の研究が明らかにしているオスマン帝国の姿はこうしたイメージとは大きく異なる。そこでは多宗教が共存し、多民族から支配層へ人材が供給された。「何々民族の国」という考え方も実態ももたない国家がオスマン帝国であった。たしかにイスラムは支配者の宗教でありその絶対的優越性は守られていたが、キリスト教徒やユダヤ教徒の存在は自明のことであった。

このような特徴は、オスマン帝国理解の常識になりつつある。しかし、こうした多宗教・多民族国家がどこから生まれ、だれによってつくられたのかという「起源」にかんしては、依然として誤解が残っているようだ。

のちのオスマン帝国は多宗教・多民族国家となるにしても、スタート地点において国をつくり出したのは、アナトリアの辺境の地に生き、キリスト教世界ヘの聖戦に燃えたトルコ人の騎士たちであるという説は、「キョプリュリュ=ヴィテック説」として永らく支持されてきた。トルコ系遊牧民出身のオスマンのもとにガーズィーと呼ばれた騎士や神秘主義教団の戦士などが参集し、ビザンツ領への侵入を繰り返し新国家を建設したというものである。

しかし、じつは、「キリスト教世界への聖戦」などという単純な構図は存在せず、事態はより混沌としたものであったことが近年強調されてきている。オスマン帝国を生んだ世界は、イスラム世界とキリスト教世界、トルコ世界とビザンツ世界、あるいは遊牧民の世界と定住民の世界、異端的信仰と正統派の信仰、忠誠と離反が複雑にまじり合う世界であった。支配的な価値観のない流動的な辺境の世界では、宗教も民族も排他的ではありえず、人びとはたがいの境界をこえて日常的に接触を繰り返していたと考えられるのである。

ビザンツ世界とトルコ・イスラム世界のはざまから
アナトリアの変容は11世紀に遡る。1071年のマラズギルトの戦いの勝利に端を発するトルコ系遊牧民のアナトリアヘの流入は、大規模な人口変容を引きおこし、ビザンツ帝国の旧領のうえにイスラム世界の最前線をつくりだした。12世紀中葉~13世紀前半にはイラン的な伝統を引くルーム・セルジューク朝がアナトリア高原のコンヤやシヴァスを中心に繁栄したが、1243年のモンゴルの侵入をへて、中央アナトリアはイル・ハン朝の宗主権下におかれた。13世紀後半には、…ベイリキ(侯国)と呼ばれる小国家が周辺部に自立し始める。政治的なカオスはとくに西部地域において顕著であったが、経済的にはむしろ活発な時代であったとみられる。

この時期にかんする客観的な史料は極めて乏しいが、混乱期のアナトリアに起きたできごとを題材とし、後代にまとめられた…英雄叙事詩や聖者伝説の類は、当時のアナトリアのさまざまな勢力の結びつきやカオスに生きた人びとのメンタリティを微かに浮かびあがらせている。これらの「物語」の主人公たちは、いともたやすく、トルコ・イスラム世界とビザンツ・キリスト教世界の境界を乗りこえて活躍する。主人公はガーズィーと呼ばれ、イスラムのための戦い(聖戦=ガザー)は物語の基調にあるが、決して異教徒を「異教徒であるが故に」殺したり改宗を強要することはない。トルコ人の騎士はキリスト教徒の勢力と同盟し、固い約束を交わし、しばしばその娘と恋に落ちる。あるいは、キリスト教徒の騎士が、宗教を守ったまま(あるいはいとも簡単に改宗し)イスラム教徒とともに戦う。イスラム勢力間の戦いも当然のモチーフである。

これらの物語に反映している「聖戦」のイメージは、イスラム教徒対キリスト教徒という対立の構図ではなく、騎士の名誉と戦利品の富を賭けての日常的な戦いであったと理解される。…

このような状況で台頭した勢力の一つがトルコ系遊牧部族出身のオスマンに率いられた一グループであった。彼らは13世紀後半以来北西アナトリアの一角に根拠地をおく遊牧部族であったとみられ、周辺のキリスト教徒の領主たちと良好な関係のなかに生きていた。

しかしオスマンのグループは1290年代から戦士集団として頭角をあらわしはじめる。いくつかの小都市を獲得、1301年ころに対ビザンツ戦ではじめての勝利をえて、多くの騎士や神秘主義教団員などがそのもとに集まるようになったとみられる。このころ以後、オスマン侯国と呼ばれるようになるが、小侯国にすぎなかった。やがて西アナトリアの都市ブルサの征服に成功する(1326年)。イスラム世界の最前線にうまれたオスマン、そして次代のオルハンの軍には、多数のキリスト教徒騎士が参加している。…

このように、宗教・民族の別が、彼我を分ける複数の差異の一つにすぎない社会のなかからオスマン帝国が生まれでたことは注目に値する。差異を乗りこえることは容易であり、むしろ評価された。だからこそ、のちのオスマン帝国はイェニチェリ軍という改宗者軍団を軍事力の中核にすえたのである。オスマン帝国の本質は、すでにその芽のなかにうめ込まれていたといえるだろう。
[PR]

by satotak | 2006-06-30 06:01 | テュルク
2006年 06月 30日

オスマン帝国末期の悲劇 -アルメニア人虐殺の真実は?

私の読書日記 アルメニア人大虐殺、文化大革命の闇 フランス文学者 鹿島茂」(週刊文春 2006.3.16)より:

×月×日
…フランスにはアルメニア系の人が30万人くらいおり、宝飾業界とか骨董業界などでは強固なアルメニア人脈を築いているのだ。芸能人でいえばシャルル・アズナブール。…

これらアルメニア系移民の多くは、第一次世界大戦中にトルコのアナトリアで起こった大虐殺を逃れて各国に散った難民の子孫だが、この100万人から150万人規模(アナトリアのアルメニア人人口総数200万人)のジェノサイドの詳細については、日本はもちろんのこと、フランスでさえあまり知られることはなかった。

アントニア・アルスラン『ひばり館』(草皆伸子訳 早川書房2500円+税)は、からくも虐殺を逃れてイタリアに辿りついた親族の物語を、アルメニア移民を祖父に持つ孫娘が語るという小説だが、われわれも、これによって初めて生々しいかたちでこの20世紀初頭のジェノサイド事件の真相を知ることができる。

イタリアに移民して医者として成功したイェーワントは、豪華な自家用車に乗って故郷アナトリアの小さな町に錦を飾る日を夢みている。いっぽう、町では、これまた薬剤師として成功し、大きな薬局を経営する弟のセンパッドが兄の帰りを待ち侘びて、「ひばり館」と名付けた別荘の飾りつけに余念がない。センパッドは異母妹のヴェロンとアズニヴ、それに妻シュシャニグとの間にもうけた七人の子供と幸せにくらしていた。

アルメニア人はキリスト教徒である上に、欧米におけるユダヤ人のように金融や商業に長けていたことから、トルコ人民族主義者の反感を買い、19世末にも大量虐殺の被害にあっていた。第一次大戦が始まると、トルコ政府に勢力を築いた《青年トルコ党》の将校団は、これを奇貨として、同盟国ドイツの軍事顧問団の「少なからぬ協力」…のもと、秘密裏にジェノサイドを用意する。まず軍関係からアルメニア人将兵を外して武装解除した上で、1915年4月24日からアルメニア人男子全員の検挙・処刑を開始したのだ。美女アズニヴに恋したトルコ人将校ジェラルの救出努力も空しく、センパッド一家にもついに運命の日はやってくる。

「兵士たちの剣が閃光を放つや、叫び声が上がり、血飛沫が部屋じゅうに飛び散った。シュシャニグのスカートに花のような赤い染みができた。それは切り落とされ、彼女めがけて投げつけられた夫の首だった」

描写は小説だから誇張されているということはないようだ。実際には、ナチのユダヤ人虐殺に負けず劣らぬ酸鼻きわまりない光景がアナトリア全土で繰り広げられたようである。男たちはほぼ全員処刑、女と子供は「強制移住」という名目で食料も水も与えず街道を歩かされて疲労死した。途中で、少数民族のクルド人がトルコ人憲兵の許可を得た上で彼らから金品や馬車を略奪したこともある。

妻のシュシャニグはそれでも一家を引き連れ、ギリシャ人の泣き女やトルコ人の乞食の手助けを受けて義弟のいるアレッポの町に逃げて海路イタリアに脱出する。「民族浄化」という思想は、1990年代の旧ユーゴ紛争に始まったわけではないのである。…



第一次世界大戦とその後
パット・イエール他著「ロンリープラネットの自由旅行ガイド トルコ」(メディアファクトリー 2004)より:

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツとその同盟国に味方するという致命的な失敗を犯してしまう。この頃は、まだ皇帝が権力の座に就いていたものの、帝国は青年トルコ党(統一進歩委員会)の3人の幹部タラート、エンヴェル、ジェマルによって治められていた。彼らの権勢は強大だったが、その圧政と失政のため、すでに絶望的だった国情はさらに悪化していった。…

その頃、長年、相次ぐ戦闘に見舞われていたアルメニアは、ロシア軍の進軍を歓迎し、協力する姿勢を見せ始めていた。1915年4月20日、ヴァンのアルメニア人が反乱を起こし、地域のイスラム教徒を虐殺して要塞を陥落させると、ロシア軍が到着するまでそこを守り抜いた。反乱を起こしてから4日後の4月24日(現在、アルメニアの殉教者記念日)、トルコ政府はアルメニア人の住民の国外追放を始めた。この過程で数十万人のアルメニア人(ほとんどが男性.)が虐殺された。残された女性と子供はシリアまで徒歩での移動を強いられ、幾多の辛酸をなめた。

この出来事については、現在も激しい論争が続いている。アルメニア側は、1915~1923年に120万~150万人のアルメニア人が殺害されたと主張。しかし、トルコ政府は、その人数は誇張されており、実際に死亡したアルメニア人は“わずか”30万~50万人だと主張し、責任はないとしている。

ロシア軍が戦いに勝利すると、アナトリア北東部に、短命のアルメニア共和国が創立された、そして、戦勝国のアルメニアは地域のイスラム教徒に、自分たちがされたのと同様の虐殺という報復行為に出た。ところが、トルコの民族主義者ムスタファ・ケマル率いる軍勢の攻撃で、アンカラ政府はカルスKarsとアルダハンArdahanを奪回したのである。

1920年12月3日、アンカラ政府は、イェレヴァンYerevanのアルメニア(ソビエト)政府と和平協定を締結した。戦争が終結するまでに、アルメニア人の人口は特に都市部で激減し、生存者はわずかだった。

大戦は同盟国側の敗北に終わり、オスマン帝国は崩壊した。イスタンブールとアナトリアの一部はヨーロッパの列強に占領され、皇帝は戦勝国の手に落ちた。……連合国は、…戦勝国の要求を満足させるため、アナトリアの分割を決めた。こうして、よりすぐった土地はキリスト教徒に分け与えられ、イスラム教徒のトルコ人は不毛も同然の内陸の草原へと追いやられてしまった。

アルメニアの悲劇
1915年にトルコ東部で起きた大事件をめぐって、90年近くたっても.論争と非難の応酬が現在も続いている。大事件を生き延びたアルメニア人(と離散したその子孫たち)は、トルコ人の行為をジェノサイド(民族の大虐殺)と呼び、非難している。逆にトルコは、大虐殺に政治的意図はなかったとし、戦時中、多くのアルメニア人が反逆行為を行ったと主張している。また、トルコ側は、多くのアルメニア人が死亡した事実を否定してはいないが、これは組織的殺害のみならず、内戦や病気、困窮によるところが多いとしている。その上、共和政体になったトルコは、親や祖父母の世代で、彼らがオスマン帝国打倒のため戦った点を挙げ、オスマン時代の活動は自分たちとは無関係だとしている。

双方は非難の応酬を繰り返し、犠牲者の数や、犯罪性を立証する歴史的資料の信憑性、相手の動機などについて言い争っている。1970年代には、トルコの外交官たちや、その家族、そして周りにいた人たちが暗殺され、非難と憤懣はさらに深刻の度を増していった。

アルメニアはトルコに対し、悲劇的な事実の認定を訴え、領土の獲得を視野に入れた補償を求めている。トルコ側は、過去に起きた出来事の責任を現在のトルコ人は負えないとし、補償する必要はないと訴えている。事態は泥沼の様相を呈し、今後、何世代にもわたって続きそうな気配だ。

(参考)トルコ人が語るトルコ・イスラム講座」の「国際関係(1)」の後半で、トルコ人旅行ガイドNさんが、アルメニア問題について解説している。
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:07 | トルコ
2006年 06月 30日

新しいテュルク民族 -ウズベク、カザーフ、キルギズ、新ウイグル-

間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史⑧」(講談社現代新書 1977)より:

…16世紀初頭のティムール朝の崩壊に前後して、…中央アジアには新しい民族の民族形成が見られ、それにともなって、各民族の言語を中核とする、それぞれの民族社会が成立していった。ここにいう新しい民族とは、カザーフ、キルギズ、ウズベク、新ウイグルなどのトルコ系の諸民族であり、彼らがその後およそ500年を経た今日においても、中央アジアの主要民族として存在しつづけていることは、この時期が持った中央アジア史上における重要性をよく物語るものといえよう。

ウズベク民族の行動
…北方の草原地帯から進出してティムール朝を滅ぼしたウズベク人が、…キプチャク・ハーン国領域下のキプチャク草原に居住して、支配者のモンゴル人をトルコ化していった遊牧トルコ人たちの後裔であることは確実であり、14世紀前半の一キプチャク・ハーンの名にちなむウズベクという民族名も、すでに14世紀の末までには彼らによって使用されはじめていたらしい。

彼らは、15世紀中葉のアブル・ハイル・ハーン(在位1428~68)の時代に国家形成をなしとげ、南下してティムール朝からシル川下流域の一帯を奪うと、この地域を根拠に、しばしばティムール朝領内に侵入した。1451年、ティムール朝の王子アブー・サーイードが、サマルカンドの支配者の位につくことができたのも、アブル・ハイルのひきいるウズベク軍の援助の結果であった。

ところが、このアブル・ハイルの統治時代、彼の統治に不満をいだく一部のウズベク人たちは、…天山西部に移動し、モグーリスターンのエセン・ブガ・ハーン(在位1432~62)によって、チュー河畔に牧地を与えられた。そして、1468年、アブル・ハイルが没してウズベクの国が混乱におちいると、さらに多数のウズベク人が、ウズベクの本隊を離れてこの一団に加わった。ここに成立したウズベク人の一分派の集団は、やがてウズベク・カザクとか、単にカザク(「冒険者」の意)と呼ばれるようになる。これが現在のカザーフ人の直接の祖先であり、したがってその民族形成の時期を15世紀の中葉におくことができる。

このカザーフ人の集団は、16世紀初頭のカースィム・ハーンの時代には、30万とも100万ともいわれる多数の遊牧民を支配下におく強力な遊牧国家に成長し、バルハシ湖にそそぐ
カラタル河畔の本拠地を中心に、チュー・タラス地方にまでその勢力をのばした。

一方、カザーフの分離によって一時弱体化したウズベク人の国家は、15世紀の末、アブル・ハイルの孫のシャイバーニー・ハーン(1451~1510)によって再統一され、1500年には、ティムール朝のサマルカンド政権を、ついで1507年にはヘラート政権を滅ぼして、ティムール朝にかわってマー・ワラー・アンナフルの支配者となった。…かくしてこの時以後、ウズベク人はパミール以西のオアシス地帯に移住して、徐々に定住民化の道をたどったが、彼らこそ現在のウズベク人の直接の祖先であった。

キルギズとオイラート
ウズベク人が、ティムール朝を滅ぼして定住地帯の住民となっていった16世紀の初頭、カザーフ人の隣人として、セミレチエ方面にキルギズ人の集団が明確にその姿をあらわす。この当時のキルギズ人は、なお弱小の集団であり、モグーリスターン・ハーンの支配下に入ったり、カザーフ人の支配を受けたりしていたが、彼らが現在のキルギズ人の直接の先祖であることは疑いない。

中央アジアの草原地帯で、ウズベク、カザーフ、キルギズといったトルコ系遊牧民の活発な活動が見られた時代、その東方の西モンゴリアには、オイラートと呼ばれる西モンゴル人の遊牧国家が建設され、15世紀中葉におけるエセンの統治時代(在位1439ごろ~54)以降、しばしば天山からセミレチエにかけての一帯に侵入した。…
これらのオイラート人は、やがて17世紀の初頭、チョラス部族を中核にジュンガル王国と呼ばれる新しい遊牧国家に再編成されると、ますますその勢力を西方にのばし、…

モグーリスターン・ハーン国の盛衰
このような草原地帯における新たな遊牧勢力の拡大は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、遊牧民の伝統を保持しつつ、天山よりセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきたモグーリスターン・ハーン国にも大きな影響を及ぼした。14世紀の中葉、モグーリスターンには16万人にのぼるモグールたちが遊牧していたという。ところが、16世紀の中葉になると、モグールの数はわずかに3万人に減少し、その居住地も、もはや従来の遊牧地帯ではなく、カーシュガル、トゥルファンを中心とするタリム盆地の定住地帯であった。このモグールの間におけるいちじるしい人口の減少と、その居住地域の変化は、草原地帯におけるウズベク、カザーフ、キルギズ、オイラートなどの新たな遊牧勢力の勃興の結果ひきおこされたものであった。

すなわち、草原地帯にこれらの新しい遊牧勢力が勃興すると、モグーリスターン.ハーンの支配下にあった多くのモグール遊牧民は、ハーンのもとを離れ、これらの新勢力に合流した。…これが、モグールのいちじるしい人口減少の最大の理由であった。…

かくして、モグーリスターン・ハーン、ユーヌスの次子アフマド(在位1486~1503)は、タリム盆地東部のトゥルファン…に支配権を確立し、一方、アフマドの次男サーイード(在位1514~33)は、カーシュガルに進出して、この地にカーシュガル・ハーン国を設立した(1514)。そして、このカーシュガル・ハーン国のハーンの一族は、少なくとも17世紀の初頭までには、トゥルファン・ハーン国をも併合して、タリム盆地のオアシス都市は、すべて彼らの直接的な支配下に置かれることになる。

ところで、モグーリスターンには、すでに14世紀の中葉以来、…イスラム神秘主義者たちが進出して、…16世紀の末、…神秘主義者がカーシュガルに到着し、…ホージャと呼ばれる彼らの教団の指導者たちは、ヤルカンドとカーシュガルを本拠にハーンの寄進を受けて経済的にも強力になり、17~18世紀、彼らの権威は、タリム盆地のオアシス地帯で、ハーンの権威と並ぶほどであったといわれる。

このように、定住化したモグールのハーンと、イスラム神秘主義教団の首長を支配階級の最上部にいただいたタリム盆地のオアシス定住社会は、16世紀以降、徐々に新ウイグル語と呼ばれる共通のトルコ語を成熟させ、現代に連なる新ウイグル民族社会を形成していった。(注1)

各民族間での抗争
一方、パミール以西の定住地帯に進出したウズベク人たちも、この地域の先住トルコ人たちと混血しつつ、今日にまで連なる、定住ウズベク民族社会を形成していった。16世紀の初頭、シャイバーニー・ハーンによってこの地に建設されたシャイバーニー朝は、サマルカンドあるいはブハーラーを首都としておよそ一世紀間つづいたが、1599年、ジャーン朝(アストラハン朝)にとって代られた。…
ジャーン朝は1785年まで、200年近くブハーラーを中心に存続しつづけるが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギット族出身の武将ムハンマド・ラヒームによって実質的には滅ぼされ、以後マンギット朝が1920年までつづく。このシャイバーニー、ジャーン、マンギットの三王朝は、主としてブハーラーを首都としたので、これらを普通ブハーラー・ハーン国と呼ぶ。

またアム川下流域のホラズム地方には、シャイバーニーの没後、その一族のイルバルスが、1512年に独立してヒヴァ・ハーン国を建てた。彼の一族は、この地域を約300年間にわたって支配したが、1804年には同じウズベク人のコングラト部出身の一武将が、その支配者の地位につき、その一族が1920年までこの地域を支配した。このコングラト部族の王朝もまたヒヴァ・ハーン国と呼ばれる。

さらに18世紀の初頭には、フェルガーナのホーカンドを中心に、ウズベク人のミン氏族出身のシャー・ルフ(1721没)によってホーカンド・ハーン国が建設され、1876年まで存続した。この結果、18世紀の初頭には、パミール以西にブハーラー、ヒヴァ、ホーカンドというウズベク人の三つの国家が存在することになった。しかし、これらの国家の間には領地をめぐっての紛争が絶えず、…この地域に政治的な安定をのぞむことは不可能であった。…

このように、ティムール朝崩壊後の中央アジアは、今日にまで連なる各トルコ系民族のそれぞれの民族社会を形成させたという意味において、歴史的に重要な一時代を現出させたが、その反面、その社会に見られた停滞性は、やがてこの地域を、清朝ロシヤという二つの先進国の掌中におとし入れることになる。

(注1) ウイグルはその後... - 学会の通説とウイグル人の主張 - 」参照
(参考)(テュルク&モンゴル / 年表・系図) チンギス裔の系図
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:06 | テュルク
2006年 06月 30日

蘇ったティムール -20世紀初頭のウズベキスタンで-

小松久男著「革命の中央アジア あるジャディードの肖像」(東京大学出版会 1996)より:

トルキスタンの自治

…1917年7月から10月にかけて、フィトラト(注1)は「祖国嘆傷」と題する一連の韻文作品を『フッリヤット』にのせた。それは、トルキスタンを意味する古来の雅称「トゥラン」を多用しながら、愛国の情とトルコ主義の立場を鮮明にしているところに特徴がある。彼は書く。

おお、偉大なるトゥラン、獅子のくによ! お前に何が起こったのだ? (中略) おお、チンギス、ティムール、オグズの一族の栄えある故地よ! お前の気高き座はどこへいったのか? 奴隷の身に堕ちたのはなにゆえか? (1917年7月28日)

おお、わが神聖なるトゥランの夢よ、行くな、離れるな。わがそばに、目前に、わが心、わが良心の中に残れ、行くな。わがくに、わがトゥランよ、お前と離れることは、わが死。お前のために死ぬことこそ、わが生なり。(中略) おお、トルコ人の聖なる祖地よ! 汝の死を欲するものに死を、汝を葬り去らんとするものに憎悪あれ。(1917年8月18日)

さらに、十月革命の直後に発表された作品は、消耗しきったトルコ人が、ティムールの墓前を訪ね、トゥランの地を異国の支配者の手に委ねた自らの責任を悔悟しながら、英雄の聖廟の前で覚悟を新たにするという劇的な場面を描いている。その最後で彼はいう。

墓前に参りましたのは、ただ血の涙を墓前に流すためではありません。みずからの罪を認めんがために参ったのです。見捨てたもうな! ただ罪を認めるために参ったのではありません、トゥランに与えた害をつぐなうために参ったのです、わがハーカーン(君主の称号)よ。われを厭うことなかれ。
おお、獅子の中の獅子よ! わが罪を赦したまえ、われを助け、われを信じ、神聖なる祝福を与えたまえ! 汝の無限の力にかけて誓わん、トゥランのかつての栄光と偉大をとりもどすまで、歩みは止めないことを。
(1917年10月31日)(…)

隷属状態のトゥランに心を傷める作者の意図は、いまだに植民地の遺制から解放されてはいないトルキスタンの現状を告発するところにあったのであろう。このような作品をみると、『争論』では熱烈なブハラ・ナショナリストであったフィトラトが、1917年には明らかなトルキスタン・ナショナリストあるいはトルコ主義者として立ち現れていることがわかる。しかも、これ以降フィトラトはその著作のほとんどをペルシア語ではなく、中央アジアのトルコ語で書くことになる。…

…さて、トルキスタンの自治が宣言されると、12月5目フィトラトはこれを熱烈に祝福する文章を書いている。その要旨は次のとおりである。

トルキスタンの自治……ティムール大王の正しき子孫、トルキスタンのトルコ人の中にあって、これ以上に慶ばしく神聖な言葉はあるまい。われわれは50年来ロシアに隷属し、帝政の抑圧に苛まれた。しかし、ロシアの民主主義は正当な権利に基づいた革命を起こし、あらゆる民族にその権利を回復させた。ロシアは「連邦制の人民共和国」と宣言され、この宣言に基づいてウクライナ人やタタール人の自治が承認された。今度はトルキスタンの番である。それは11月27目の夜半、トルキスタンの歴史的な首都の中では第二に位するコーカンドのクルルタイ(大会)で宣言された。しかし、民族の自治はただ一度の大会宣言で成るものではない。自治を維持するためにはあらゆるものが必要である。ムスリムはこれに備えなければならない。(…)

フィトラトがこの時点でウクライナ人やタタール人の自治の実際をどこまで理解していたかは定かではない。しかし、この論旨からみて、彼が11月に新生のソビエト政府が発した「ロシア諸民族の権利の宣言」や、レーニンとスターリンとが連名で出した有名なアピール、「ロシアと東方の全ムスリム勤労者へ」を読んでいたことはほぼ疑いない。ここでのフィトラトは先輩のベフブーディーと同じく、トルキスタンの自治については、たぶんに楽観的な見通しをもっていた(…)。彼が自治の将来に一抹の不安を感じ、これを記すのは…

チャガタイ談話会
…この中でも「チャガタイ談話会」の精神をもっともよく表しているのは、『ティムールの廟』であろう。 1917年の作品「祖国嘆傷」のモチーフに呼応するこの戯曲には、現代に蘇ったティムールの次のような言葉があったという。

われは汝らに多くのものを遺した。しかし、いったいどうしたことなのだ。かつて栄光と勇気にあふれた民が、いまや異民族の圧政のもとにひれ伏しているとは。わがバーグ(庭園)から鳥を追ったのは何者か? 祖先の遺産はどこへいったのか? 汝らに求める、起て! 汝らに命ずる、起て、くにを立て直せ、わが民の自由を確保せよ! わが命に従わぬならば、くには巨大な墓場と化すであろう。(…)

『ティムールの廟』は、上演のたびに観客の感涙をさそったと伝えられる(…).、しかし、その脚本はついに出版されることはなかった。ティムールのメッセージは、ムスリムの観客には容易に理解することができたにしても、ソビエト当局にとっては明らかに容認しえない内容を備えていたからである。さらに、この時期のフィトラトの作品に流れる悲愴な響きは、後のソビエト文学批評家からは「十月革命に敵対するペシミズム」、あるいは「過去の理想化」の現れとして批判されることになった(…)。…


(注1):フィトラト[Abdurauf Fitrat 1886-1938]:中央アジアの改革思想家,革命家,文学者.
生地ブハラのミーリ・アラブ・マドラサでイスラーム諸学を修め,巡礼の後1910年イスタンブルに留学し,オスマン帝国における変革の実際を観察しながら,中央アジアのジャディード文学の代表作として名高い《争論》(1911),《インド人旅行記》(1912)などの啓蒙的な作品を書いた. ロシア革命後は青年ブハラ人運動を率いてブハラ・アミール国の改革をめぎしたが,18年の軍事クーデタの失敗後はソビエト・トルキスタンで文学活動に従事した.
初期の作品はペルシア語(タジク語)だったが,革命後はほとんどウズベク語を用い,18年末にはタシュケントに文学結社〈チャガタイ談話会〉を組織した. 多数の詩のほか,《ティムールの廟》《インドの革命家》などの愛国的な戯曲,反宗教的な伝奇作品《最後の審判》,中央アジアのテュルク語文学の精華を集めた《ウズベク文学精選》(1928)などが知られている.
しかし,チョルパンらととも20年代後半から〈汎テュルク主義者〉としてプロレタリア文学派の激しい批判にさらされ,38年スターリン大粛清の中〈人民の敵〉として銃殺された. ペレストロイカ期に名誉を回復され,独立後のウズベキスタンでは高い評価を受けている.
[「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男)]
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:05 | テュルク
2006年 06月 30日

ティムール -ウズベキスタンの象徴-

間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史⑧」(講談社現代新書 1977)より:

ティムールの出現
14世紀後半におけるティムールの出現と、彼による大帝国の建設は、中央アジア史上にかつて例を見ず、またその後にも例を持たぬ、文字通り稀有の出来事であった。中央アジアのオアシス地帯の住民は、ティムールの出現によって、そのながく苦しかった被支配民族としての立場から脱却して、広大な領域を持つティムール帝国の支配民族としての立場を獲得する。そして広大な帝国の中心地となったマー・ワラー・アンナフルには、世界の富と文化が集中し、そこにはモンゴルの侵入によってもたらされた怖るべき荒廃にかわる、未曾有の繁栄が見られた。…

ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュの近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の5代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガタイ・ハーンの輔佐役として、ハーン家内部の諸間題を取り扱った有力者であった。しかし、カラチャルの子のイジェル・ノヤンという者が、チャガタイ・ハーン国の領域を去ってイランのイル・ハーン国の領域に移住したりしたこともあって、この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。

ティムールが生まれた頃…ティムールの父タラガイも、わずかに三、四人の従者をもつのみの小身であり、その結果ティムールもはじめは手元に四、五人の従者しか持たぬ貧しい遊牧民であった。そのためティムールは、その青年時代を、もっぱら羊とか馬の略奪を事とする盗賊として過ごしていたが、その間に、もって生まれた指導者としての才能を発揮して、自分につき従う盗賊団の仲間の数を徐々に増やしていった。こうして、300人とか500人といわれる盗賊団の首領として、各地を略奪してまわっていた頃、モグーリスターンから、トゥグルク・ティムール・ハーンが軍をひきいてマー・ワラー・アンナフルに侵入し、分裂していたチャガタイ・ハーン国の一時的な統一に成功した。

ティムールはこの機会をとらえ、1360年(または61年)、トゥグルク・ティムールに帰順して、彼の属するバルラース部の領地であったケシュとその周辺地帯の支配権を獲得した。これがティムールの政治的活動への第一歩であった。しかし、それ以降、1370年にいたる
およそ10年間は、ティムールにとってもっとも苦しい時代であった。すなわちこの10年間には、いったん帰順したモグールと袂を分って、モグールに対する抵抗運動に従事する一方、バルフを本拠とした有力者アミール・フサインと、時に同盟し、時に敵対するなど、変転きわまりない日々を送った。そして1363年ごろには、イラン東部のシースターンで右腕と右脚に終世の傷を受けるなど、苦難の日々を体験せねばならなかった。

しかし、この苦難の日々にも盗賊時代以来の彼の部下たちは、彼につき従い、彼を見捨てることがなかった。そして、これらの仲間を中核とする彼の軍隊は、ついに1370年、バルフにアミール・フサインの軍隊を打破り、フサインを殺害して、ティムールをマー・ワラー・アンナフル唯一最高の実力者として承認した。
ただしティムールは、自らがチンギス・ハーン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミシュというチンギス・ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス・ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス・ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終世ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、あるいはアミール・サーヒブ・キラーンと呼ばれる…。

ティムール帝国の建設
1370年、マー・ワラー・アンナフルの統一に成功したティムールは、以後彼が死没する1405年までの35年間、絶え問のない遠征を敢行して、日の出の勢いのオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ、東は中国の辺境から西は小アジアまで、南はインド北部から北は南ロシアの草原地帯に至る広大な世界帝国を建設する。このあいつぐ遠征によって成立したティムールの国家の領域の概要は、直轄地としてのマー・ワラー・アンナフルを中心に、彼の一族が分封されて直接支配に当ったフェルガーナ、アフガニスターン、ホラーサーン(…)、アゼルバイジャーン(…)の四大直接支配地と、小アジア、エジプト、シリア、南ロシヤ、アルメニア、ジョルジア、シールワーン、北インド、モグーリスターンなどの広大な間接支配地域(ティムールの宗主権を認める地域)より成り立っていた。
f0046672_13215494.jpg

ティムールの遠征は、モンゴルの遠征に勝るとも劣らぬ破壊活動の連続であり、バグダードにおける9~10万人の虐殺、…諸例が示すように、ティムールに対する抵抗は、あくことを知らぬ残虐さをもって報いられた。…

もっとも、ティムールの遠征を、ただ破壊活動の連続とのみ見なすことは、ゆきすぎである。なぜなら、ティムールは抵抗を示さぬ都市に対しては、その市民たちから生命保証金(マーリ・アマーニー)をとりたてることによって満足し、それらの都市を破壊・略奪することはしなかった。…アフガニスタンのカーブル付近における灌漑設備の整備など、その遠征地においても少なからざる建設事業を行なっている。

しかし、ティムールがもっとも力をそそいだのは、首都サマルカンドを中心とするマー・ワラー・アンナフルの充実であった。彼はサマルカンドに、モンゴルの侵入以来失われていた堅固な城壁を築く一方、征服地から連行した当代一流の職人、芸術家たちを駆使して、各地に大規模な建造物を建設させた。征服地からは、また当時のイスラム文化の精華ともいうべき、すぐれた学者たちをサマルカンドに移住させ、サマルカンドを文化的にもイスラム世界の中心地とすることに努力をかたむけた。…

ティムールは、…イスラム世界が生んだ最大の思想家イブン・ハルドゥーンの目にも、彼は「すこぶる知的で、すこぶる明敏な」人物に見えた。…そして何人も、その「稀有の気性と深み」の底にあるものにふれることはできなかったといわれる。

なぜ世界帝国をつくりえたか
…ティムールの驚異的な成功は、遊牧民の軍事力と、定住民の経済力という、二つの基盤の上にきずかれたと見ることができる。しかもティムールの時代、この二つの基盤は、北方の草原地帯と南方の定住地帯という、隔絶した二つの地域からではなく、マー・ワラー・アンナフルという一つの地域の中から調達することができた。つまり、トルコ化・イスラム化しつつも、なお遊牧民としての特性を失ってはいなかったチャガタイ人が、マー・ワラー・アンナフルの定住トルコ人、イラン人と交錯して存在していたという、その時代のもった特異性が、ティムールの成功をみちびきだした最大の原因であった。
その意味において、ティムールは、中央アジア史上に常に見られた遊牧社会と定住社会の相互依存関係を最大限に利用して、その関係の中から最大のエネルギーをみちびきだすことができた人物であったといえよう。すなわちわれわれは、ティムールの成功の中に、中央アジアの遊牧文化とオアシス文化の類まれなる結合を見る。...

象徴としてのティムール 
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男))

ティムール朝の滅亡後も,英雄ティムールの記憶は中央アジアの年代記や民衆文学の中に鮮明にとどめられた.20世紀に入ってムスリム知識人の間に民族的な覚醒が始まると,ティムールはナショナリズムの象徴として現れるようになった.ロシア革命期にトルキスタン・ナショナリズムを鼓舞したフィトラトは,その作品でティムールのイメージを効果的に用いたが,こうした作品は1920年代末から〈過去の理想化〉や〈汎テュルク主義〉の実例としてプロレタリア文学派からの激しい批判にさらされた…..ソ連史学では,〈侵略者〉や〈人民の抑圧者〉とされ,〈偉大な学者〉ウルグ・ベクや〈ウズベク古典文学の父〉ナヴァーイーとは対照的に否定的な評価を受けたが,ソ連からの独立後ウズベク人の民族的な英雄となった.独立2周年にあたる93年9月,タシュケント中央の公園にはそれまでのマルクス像に代わってティムールの勇壮な騎馬像が建てられた.〈独立国家理念〉の普及を図る政府にとって,かつてウズベキスタンの地を基盤に強大な国家を建設したティムールは,この上ない象徴なのである。
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:04 | モンゴル
2006年 06月 30日

モンゴル建国800年 -今、モンゴル人の意識は?-

モンゴル高原を統一したテムジンが、1206年春、オノン河の水源地に部下とモンゴル高原の遊牧部族・氏族の代表者を召集して大会議(クリルタイ)を開催し、その席上、全員の支持を受けて最高指導者つまりハーンに選出された。そしてテムジンの義弟にあたる大シャマンが、「勇猛な」という意味の古いテュルク語「チンギズ」から借用して、チンギス・ハーンという称号を授けたという。

f0046672_8512646.jpg今年は、そのチンギス・ハーン即位からちょうど800年モンゴル国ではそのためのWebサイトも立ち上げ、様々な行事が行われている(左はそのロゴマーク)。
はじめは観光客を呼び込むためのキャンペーンかと思ったが、それだけではないらしい。行事予定を見ると、いろいろなイベントが目白押しである。

しかし、現在のモンゴル人にとって、チンギス・カーンとはどんな存在なのであろうか。そしてモンゴルの歴史をどのように理解し、感じているのだろうか。また学校教育の中ではどんな歴史が教えられているのか。
岡田・宮脇両氏の対談「モンゴルとは何か」では、一党独裁体制から抜け出したものの、「歴史を失った」とでもいうようなモンゴルの混沌とした状況が語られていたが、あれから3年。モンゴル人の意識に何か変化があったのだろうか。

駐日モンゴル大使館Webサイトの冒頭、「ご挨拶」の中でザンバ・バトジャルガル大使が、「遊牧民族であるモンゴル人は世界の文明の発展を二度にわたって大きく押し進めました」と述べ、「チンギス・ハーンが建設したモンゴル統一国家」のほかに、「モンゴル人の祖先である匈奴(きょうど)」を挙げているのが興味深い。

ところで、今から44年前の1962年は「チンギス・ハーン生誕800年」であった。そして当時のモンゴル人民共和国では…

モスクワと北京との間で (Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より)
…1962年1月に開催されたモンゴル人民革命党中央委員会第二回総会で、チョイバルサンに加えられたと同様の新たな非難がツェデンバル政権に突きつけられたことは明白である。1959年、ツェデンバルを含む党指導者たちを「新しい条件下で古い労働のやり方」で進めていると激しく批判した党の新星D・トゥムルオチルは、ツェデンバルの最大の敵と考えられていた。ツェデンバルはトゥムルオチルを引きずり降ろす好機を待っていた。

チンギス・ハーン生誕800年記念祝賀をめぐる論争がモンゴルの党内抗争に火をつけた。当時政治局員であったトゥムルオチルの積極的な参画で、この記念祭は1962年5月から6月にかけて全国的に慶賀するよう準備が進められた。記念碑が建てられ、記念切手が発行され、また学者たちの祝祭会議が行われた。しかし、ソビエト政府はある種の民族主義の危険な復活を懸念し、出来る限り祝賀を抑圧した。

ツェデンバルはこの状況を利用し、トゥムルオチルが「民族主義的」行動をとっていると非難した。トゥムルオチルは暗に中国寄りとされることで1962年9月に追放された。その当時、ツェデンバルはますます疑い深くなり、忠誠心の疑わしい人たちを相次いで追放した。…チョイバルサンとは異なり、ツェデンバルは彼らを迫害せずに辺境へ終身追放した。…
[PR]

by satotak | 2006-06-30 05:03 | モンゴル