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2006年 12月 31日

東トルキスタン独立運動の原点とその精神的系譜

王 柯著「東トルキスタン共和国研究 中国のイスラムと民族問題」(東大出版会 1995)より:

「近代ウイグル文化啓蒙運動」
「近代ウイグル文化啓蒙運動」は、19世紀の末からウイグル社会の外国との交流を拡大するために、「自己のアイデンティティに対する深刻な危機感」をもつようになった「新しい知識層」と「一部のウラマー」が、新式学校教育 -イスラム教育のほかに歴史・地理・数学・化学など近代科学知識も教える- の普及を中心にしてはじまったものであり、第一次世界大戦末期の世界各地の民族意識の覚醒に伴い、1910年代後半に高揚期を迎えた。

我々の関心を引くのは、近代ウイグル文化啓蒙運動の際、ウイグル人の「外国留学」と「外国人教師の招聘」が盛んに行われたことである。注目すべきなのは、ここでの「外国」はほとんどオスマン・トルコと帝政ロシアに限られていることである。たとえば、アルトシュウの大商人バウドン・ムサバヨフ兄弟は数人のトルコ人教師を招聘し、50人以上のウイグル人青年をトルコとロシアへ留学させた。
実は「国」という表現もここでは不適切といえ、大きな誤解を引き起こしてきた。つまり、ロシアへ留学したウイグル人はすべて、ロシアのカザン地区に集中し、ロシアから招聘された教師はみなタタール人であったからである。
山内昌之によると、「学校教育の改革は、19-20世紀初頭のタタール社会で死活の性格を帯びていた」。この改革を通じてカザンは、「1905年革命後になるとロシア・ムスリムの政治・文化の中心地としてイスラム世界のなかでもイスタンブル、カイロ、ベイルートと優劣をつけがたい役割を演じることになった」。近代世界において、ウイグル社会が特にタタール社会と交流を深めたのは、「抑圧された民族」として活路を求める接点を二つの社会が共有し、しかも成功したタタール社会がウイグル社会ヘモデルを提供し、また活力を与ええたからであろう。

一方、近代ウイグル文化啓蒙運動においてトルコ人が果たした役割も確認できる。新疆南部の新式学校に多くのトルコ人教師がいたことは、複数のウイグル人によって証言されている。トルコに留学したウイグル人も啓蒙運動のなかで活躍した。第一次世界大戦後にトルコからカシュガルへ戻ってきたアブドゥカディルは、後にカシュガルの啓蒙運動の精神的指導者の役割も演じた。これらに照らしてみれば、近代ウイグル文化啓蒙運動の精神的系譜が、オスマン・トルコとカザン・タタール社会にまで遡れることはほぼまちがいない。

「タタール・トルコはオスマン・トルコとともに近代トルコ民族主義の発祥地であった」。この近代トルコ民族主義はすなわち「汎トルコ主義」である。ウイグル人はまさにこの二つの地域との交流を通じて、汎トルコ主義の影響を受けたといえよう。トルコに留学したイリのマスウード・サブリは新式学校で、「我が祖先はトルコである」と小学生に教えたとも言われている。特にタタール社会で誕生した「汎トルコ主義」の場合は、「抑圧された」トルコ系民族として、他のトルコ系民族と密接な関係をもち、近代世界において民族として存続することを目的としていた。それは民族抑圧を受け、深刻な民族危機感を抱いているウイグル人に歓迎されたことは想像に難くない。

1933年に第一次東トルキスタン民族独立運動が発生した当時、トルコ留学の経験をもつアルトシュウの新式学校の教師が学生を動員して運動を支持した事実から、トルコに留学したウイグル知識人と近代ウイグル文化啓蒙運動との、そして東トルキスタン民族独立運動との緊密な関係がうかがわれる。特に、近代ウイグル文化啓蒙運動の主要メンバーが、後にほとんど東トルキスタン民族独立運動の指導者になったことから、二つの運動の直接的な関連は明らかである。

民族独立運動の思想的原点
第一次東トルキスタン民族独立運動の幕を開けたのは、1931年3月の「ハミ蜂起」であった。ハミ蜂起の引き金は、当時の新疆省政府主席金樹仁が権力増大を狙った「改土帰流」であった。「改土帰流」とは、かつて清朝によって任命されたウイグル人の王を廃止し、王府に属する農民を一般官吏による管理システムへ移すことであり、ウイグル農民がハミ王制を廃止するために2回も蜂起したことから考えると、この行動はウイグル農民の要求にしたがったものともいえる。しかし同時に、王府関係者には政治的な特権の喪失をもたらし、ウイグル農民にも駐屯軍による圧迫や漢民族入植者の増加などの生活環境の不安をもたらしたこともあって、二つの次元でウイグル人の不満を引き起こした。

蜂起参加者が漢民族入植者を全員殺害したことから、蜂起は最初から「反漢」の性格をもっていたといえよう。しかし若干の回想文から、蜂起指導部の構成員はみな旧王府関係者であったことがわかる。おのおの異なる動機をもつ二つの階層の人間が、漢民族に対する闘いにおいて連帯した事実は、ウイグル人にとって、地域社会における民族抗争は、民族内部における階級対立以上の意義をもっていたことを物語る。

実際のところ、1930年代のウイグル民族運動はハミ蜂起を経て新疆南部まで発展してから、「東トルキスタン」という言葉を使いはじめたのである。ハミ地域がときとして「東トルキスタン」という概念から除外されることにはすでに言及したが、この地域は中国内地と新疆南部のウイグル人地域との中間に当たる地域である。その地理的位置のため中国内地との交流が盛んで、この地域に移住した中国人の人数も疑いなく他の地域より多かった。このような歴史と住民比率をあわせもつハミ地域のウイグル人が、当時「東トルキスタン」意識をどの程度抱いていたかは、実に疑問である。

ハミ地域に比べ、新疆南部はまた完全なウイグル民族社会を保持している。「トルキスタンはトルコ系の人びとの故郷であるので、当然トルコ系の人びとの地域となる」や、「我々の土地を長い年月にわたって汚している」漢民族を「彼らの故郷へ追い返す」といった東トルキスタン民族独立運動中の発言をみると、東トルキスタン民族独立運動の発生は、ウイグル人の強い領土意識とつながることがわかる。つまり、東トルキスタン民族独立運動の思想の原点は、ウイグル人の「民族の土地の解放」・「中国の支配の打倒」という民族独立にあり、よって、東トルキスタン民族独立運動発生のもっとも重要な特徴は、階級を問わず全民族が結束して中国と戦うことであった。

運動の組織的特徴
ここでは、「ハミ蜂起」から1933年11月の「東トルキスタン・イスラム共和国」が成立するまでの、第一次東トルキスタン民族独立運動の経緯を詳しく説明する余裕はないが、第一次東トルキスタン民族独立運動の失敗の原因は、敵の攻撃よりも指導部内の対立にあったと筆者は考えている。1934年5月、「東トルキスタン・イスラム共和国」の大統領のホジャ・ニヤズが新彊省政府と妥協し、総理のサウド・ダームッラと司法部長を拘禁して省政府に引き渡し、「東トルキスタン・イスラム共和国」を事実上つぶしたのは、省政府軍がまだカシュガルへ到着していない時期のことであった。この意味で、ホジャ・ニヤズは第一次東トルキスタン民族独立運動を葬り去った人物である。

ホジャ・ニヤズ(中央)とサウド・ダームッラ(その右)

注目すべきは、ホジャ・ニヤズとサウド・ダームッラとは同じ「東トルキスタン・イスラム共和国」の行政府の首脳であったとはいえ、事実上別々のグループを指導していたことである。ホジャ・ニヤズは新疆東部地域からしだいに西へ敗退してきた戦闘集団を指揮し、サウド・ダームッラはタリム盆地の南側のホタン地区から北側のカシュガル地区まで展開してきた民族独立政権の樹立を目指すグループを指導していた。したがって、主に東トルキスタン民族独立運動を担ったのは、サウド・ダームッラのグループであったと言わざるをえない。

二つのグループのうちに、ともにトルファンの出身者およびウラマーが活動していたことから、地域別あるいは宗教意識の概念で、グループの性格を規定することはできない。サウド・ダームッラはカシュガル地区のアルトシュウの出身で、ウラマーでありながらトルコなど外国へ留学し、「近代教育と政治的洗礼を受けた」知識人であり、彼に追随する者も「外国へ留学した青年たち」であったと言われている。したがって、サウド・ダームッラのグループは近代教育を受けたウイグル知識人のグループといえよう。運動の担い手がウイグル知識人であることは、運動の「近代ウイグル文化啓蒙運動」との深いつながりを示し、東トルキスタン民族独立運動発生の一つの重要な組織的特徴といえる。

「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国の父とも言われるサウド・ダームッラはインドのイスラム青年組織への手紙のなかにおいて、率直に近代世界から大きく遅れたウイグル社会の現状を認めた。「東トルキスタン・イスラム共和国」は宗教と政治の分離を行わなかったが、ウイグル社会の政治形態を「共和制」に、政府の運営方式を「合議制」にするなどの主張が「建国綱領」に盛り込まれている。さらにまた、「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国綱領には、「政府を担当する者は、コーランと現代科学を熟知する者である」と明記されている。ここからは、東トルキスタン民族独立運動の政治理想は、漢民族独裁者による民族抑圧を滅ぼすことだけではなく、同時にウイグル社会の近代化も目指していたことがわかる。

ところが、ハミ蜂起の煽りを受けて新疆南部の各地で次々と起こった蜂起においては、イスラム精神の鼓舞あるいはウラマーの働きかけがみられる。トルファン蜂起の際に指導部から一般参加者にまでイスラム的情熱が満ちていたことは、指導部にあった者の回想からうかがえる。一方、ホタン蜂起に先立ち、サウド・ダームッラがイスラム聖戦の理論でホタン地域のウイグル人を動員・結集していたことも伝えられていた。「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国綱領にも、コーランを謹んで遵守する」ことが明記されている。たとえ一時的なものであったにせよ、各地の蜂起グループが「共和国」に統合されていたことは否定できない。

このような統合様式は、蜂起参加者の多様性によるものと思われる。抑圧する民族に対する恨みにおいて各階級は一致したが、その動機と目標には差がある。特に各地域が個別に自給自足的なオアシス農業自然経済を営んだことによって、ウイグル人のあいだには地域意識と地域間対立が濃厚に存在した。また、蜂起にはソ連・アフガニスタンから入ってきたウズベグ人の姿もみられる。このさまざまな蜂起参加者を政治的に統合するうえで、「ムスリムの大義」こそが共通の受け皿となりえたというのが、ウイグル社会の実状であった。つまり、イスラムを通じて民族の政治的統合を図ることは、東トルキスタン民族独立運動発生のもう一つの重要な組織的特徴である。
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by satotak | 2006-12-31 12:03 | 東トルキスタン
2006年 12月 31日

カシュガル 1933年 -ある大英帝国外交官の印象-

今谷明著「中国の火薬庫-新疆ウイグル自治区の近代史」(集英社 2000)より:

…今回の動乱は新彊のハミ(哈密)から起こった。1930年、ハミの回王シャー=マクスド(沙木胡索特)の死後、[新疆省主席・]金樹仁がシャーの領地を没収し、ハミを分割し、哈密・宜禾(ぎか)・伊吾の3県を設置し、徴税に当たって回民を差別して漢人を優遇したのみか、甘粛から流れてきた漢人難民に肥沃の地を与え、欠所された回民には沙漠に近いやせ地を宛行(あてが)ったのである。
ハミの人々は憤激したが、東干(トンガン)(注1)でない彼らはさほど好戦的ではない。この土地問題が直接の引き金となったのではなかった。騒動の発端は「金樹仁の同郷者であり、…張」なる男がハミの徴税吏に就任し、あまつさえ「回教徒の少女に手をつけた」事件が原因であった。
回教社会では教外者との通婚は厳禁されており、通婚を阻止し得なかった回教僧阿訇(アフン)らは、責任上、蜂起に立ち上がらざるを得なかったのである。1931年3月のことであった。…
ハミ国王の重臣であった和卓(ホージャ)ニヤズとヨルバルス汗は国民の窮状を見かねて、甘粛東干の英雄、馬仲英に救援を要請したのである。馬仲英…はこの時、20歳を出たばかりの若さであった。

…六城(アルティシャフル)地方の状況に触れておく必要がある。これについては、たびたび引用した呉藹宸(ごあいしん)の『新疆紀遊』と、タイクマンの『トルキスタンの旅』が簡潔に伝えており、それらによって以下略述する。

1935年11月、タイクマンはカシュガルを訪れて次のように述懐している。
「喀什噶爾(カシュガル)は、過去5ヶ年間、嵐の時代を通過して来た。その物語はアラビヤン・ナイトのトルキスタン話のやうであり、もしくは土耳其斯坦(トルキスタン)の悪夢のやうである。」
しかし、呉藹宸の記述はやや異なっており、1933年の早春までは「道台馬紹武(東干人)の有能かつ正しい支配の下にあった。彼は自分の本分を守って、偏頗(へんぱ)に陥ることがなく、いかなる外部勢力にもはなはだしく影響されることがなかった」と、小康状態を保っていたことが述べられている。

反乱は1933年初め、ホータン(干闐)西郊のピシャン(皮山)で起こり、同時に馬占倉なる東干(トンガン)がカラシャールからクチャへ進撃し、ここでチムールを擁立し、ベク(拝城)・アクス(阿克蘇)も占拠した。金樹仁から勦匪(そうひ)後方司令に任じられた馬紹武は鎮圧に忙殺され、ついに窮して慓悍(ひょうかん)なキルギスの援を仰ぐこととした。
しかし、キルギス首領のウスマン(鳥斯曼)は、チムールと款を通じて寝返り、カシュガル回城(疏附)を襲撃して「財産のある者は一人残らず略奪をうけ、漢人はたいがい見つかり次第に虐殺された」(『新疆紀遊』)。
こうして一時はウイグル、東干、キルギス、タジクの諸民族の連携が成ったが、キルギスの凶暴に手を焼いた人々はチムール以下団結してウスマン一派をカシュガル一帯から追い払い、回城(疏附)では1933年9月、東トルキスタン[・イスラム]共和国の独立宣言が行なわれた。首長にはホータンのサビト=ダ=ムラーが擁立された。

一方、漢城(疏勒)では省政府に忠実な馬紹武が馬占倉によって軟禁されていたが、東干兵がチムールを暗殺したことからウイグルと東干は決定的に対立し、さきの諸民族連携はここに雲散霧消した。
結局、馬占倉と馬紹武らが籠る漢城(疏勒)は1年近くウイグル軍の包囲攻撃をしのぎ、1934年春、馬仲英(注3)の一軍が到着してようやく囲みが解かれ、ウイグルは駆逐され、漢城(疏勒)に東干政府が樹立された。この騒乱で英国領事館が被害を受け、2名の死者を出した。

さて独立を宣言した疏附(回城)の共和国であるが、サビトの使節がインドを訪れたためソ連が硬化し、タス通信は新国家は英国の傀儡(かいらい)と宣伝した。困惑した英国政府は、新共和国にはいっさい関知しない旨を表し、「新疆は支那の一部」である故に、新共和国の人々に、南京政府に忠誠を尽くすよう申し入れた。結局、ヤンギサール(英吉沙)に籠城していたサビトは、馬仲英軍に追われてホータンに逃走した。
敗走を重ねてきた馬仲英は、すでにカリスマ性を失っており、カシュガルのソ連領事の勧誘もあって、亡命客としてソ連領内に逃げ去った。回教徒大反乱はここで終幕したが、なおホータン・チェルチェン(且末)など西域南道は、馬仲英の遠縁に当たる馬虎三が依然叛徒として支配していた。…

永い内乱の収拾後の新疆の新体制はどう変わったのであろうか。1935年秋、英国公使タイクマンがウルムチ(烏魯木斉)を訪れたとき、省主席はバリクル(巴里坤)生まれの漢人李溶、副主席が例の和卓(ホージャ)ニヤズ(1932年ハミ反乱の首謀者)で辺防督弁が盛世才であった。名目上、督弁は主席の下位であるが、最高権力者は督弁である。タイクマンはカシュガルの体制にも言及し、「三頭政治」と表現している。
三頭政治とは、共に満州出身の支那人の将軍と道台、それに纏頭(ウイグル)部隊を指揮する纏頭の将軍とこの三人であって、一応表面的には、三人は互ひに友好関係を持していた。だが、烏魯木斉(ウルムチ)からの厳重な統制下に置かれてゐる。」
その陣容は、満州人将軍が東北軍出身の劉彬(りゅうひん)、道台が北京の大学教授あがりの徐廉、纏頭将軍がトルファンの商人出身のマームードであった。このように新疆の行政は中央地方とも、三頭の一角に回教徒が参加する、民族融和を看板とするかたちにはなったのである。

ところで、血なまぐさい内乱の総決算であるが、ハミの蜂起に始まった戦争も、後半は馬仲英の独り舞台といってよい状況で、新疆各都市はかつてみない荒廃に陥った。戦争の主力は、北は白系ロシア人、南は東干(トンガン)兵で、とくに東干の凶暴さと無統制の掠奪には、さすがに援助を仰いだ側のウイグル側が根をあげてしまった。その事情はいち早く省政府側に寝返った和卓(ホージャ)ニヤズの行動によく現れているし、呉、ヘディン、タイクマンらもくり返し言及している。

この大争乱の評価は容易ではないが、30余年も中国に滞在し、国際状勢も知悉(ちしつ)しているタイクマンの総括が最も説得的であるように思われる。彼はまずウイグル人について、
「支那人がかくも何世紀にもわたって、この遠い地域に在る異民族を、これまで支配し続けて来たし、今なほ支配してゐるとは、奇妙なことだ!土耳其斯坦(トルキスタン)は、支那と民族的にも文化的にも相通ずるところのある蒙古(モンゴル)や西蔵(チベット)とは異なり、中国とは少しも連関を持たないやうに見える。」
と、一見、中国の支配下に入っていることの不思議さに驚いてみせる。しかし続けて、
「だが、纏頭(ウイグル)は、他民族の支配を受くべき運命にある、辛棒強い満足せる従順な民衆なのである。(中略) これに反し、古代匈奴の後裔たるカザフ人やキルギス人は、もっと勇敢で、好戦的な態度を持して居り、これを統治することが容易ではないことは疑ひない。しかし、支那領中央アジアの政治において主要な役割を果しつつある三民族の中では、支那人は生れながらの支配者であり、一人前の抜目ない優秀分子であり、東干族は闘士であり、纏頭は神によって、被支配者と定められているのだ。」
と運命論的な裁断を下す。タイクマンの見方は現代からみれば問題もあり、当時の英国的立場からするものであるけれども、なお一面の真理も含まれていることは否めない。かくして大馬逃亡に終わる大反乱のタイクマンによる総括は、次の文章で結ばれる。
「纏頭(ウイグル)が支那人の支配を歓迎したのは興味あることである。支那人の施政の方法は、われわれのそれとは非常に異なってゐる。新疆における支那人の統治法は、他の習慣を見慣れてゐる、土耳其斯坦(トルキスタン)の外人旅行者からは、盛んに非難されてゐる。だが、全体として見れば、支那の官人(マンダリン)は植民地行政に独特の天才を持ってゐる。纏頭の農民は、恐らく、同胞の回教徒の支配を受けるよりは、支那人の治下にある方が暮しよいであらう。」

(注1) 東干(トンガン):漢族のイスラム教徒(回族)
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by satotak | 2006-12-31 12:02 | 東トルキスタン
2006年 12月 31日

カシュガル 2005年 -中華人民共和国の中で-

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「新シルクロード<5> カシュガル・西安」(NHK出版 2005)より(筆者:国分 拓):

【長老、アブリズバックム (77歳)】
…今回はそれがイヤだったので、申請書には「典型的な老城で暮らす人びとの生活。例えば、商人、雑貨屋、アクサカル、アホン、小学生、職人など」みたいに書いておいた。それはそれで相当アバウトには違いないが、事前取材ができなかったので、個人名を書き込むことはできない。
だから、彼らが用意する「普通の家族」を紹介されることはなかったのだが、現場で「正規ルートから再度申請せよ」と言われる羽目になったのだ。…

そうして出会ったのが、アブリズバックムだった。
アブリズバックムは町内一の高齢者だった。カシュガル生まれのカシュガル育ち。
今年で77歳になる。会うなり、友達は皆死んでしまったと言って笑った。…

「60歳を超えた頃から、近所の人にアクサカルと呼ばれるようになった。思えば、働き盛りの三、四十代に、よくみんなの悩みを聞いたものだった。忙しいには忙しい頃だったが、人びとの問題を解決するために面倒を厭(いと)わなかった。アクサカルと呼ばれたいから、そんなことをしたのではない。コーランに書いてある通りのことをしただけだ」
アブリズバックムは、いくつかの職業を転々としたが、今は雑貨屋を営んでいるという。…

アブリズバックムは店に腰を掛けて、私たちの質問に丁寧に答えた。子どもの話、便利な世の中にした政府への称賛、カシュガルの果物の美味しさ。しかし、最後のひと言は、絞り出された一欠片(ひとかけら)の本音のように感じた。改革開放を謳歌(おうか)する現代、民族の分け隔てなく、人びとには商売の自由が保証されている。
若ければ、もっと儲けられたはずだ……。

もっとアブリズバックムの話が聞きたかった。日を改めてもう一度インタビューをさせてほしいと頼むと、彼は快諾した。
日取りは彼の方から連絡してくれることになった。
しかし、待てども待てども返事は来ない。痺(しび)れを切らして外事職員に電話をかけてもらうと、その職員は電話口で渋い顔をしている。何かあったのか? と聞いてもなにも答えない。ただ、アブリズバックムの家に行って来ると言って、その場を立ち去った。
結局、最後のインタビューはNGとなった。外事職員はその理由を語ろうとしなかった。ただ、すまないと何度も言った。何度聞いても私たちには口を割らなかった。

帰国する直前になって、私たちのコーディネーターと飲み明かした職員はチラつと本当の事を語った。
「漢民族とウイグル族が理解しあうのは難しい……」
私たちが取材をした翌日から、大勢の人がひっきりなしにアブリズバックムの家に押しかけ、文句を言ったのだという。
「なぜ、漢民族と仲良くするのか」
異口同音にそう抗議したらしい。彼らには私たちが外国人であるという意識はない。説明はしたのだが、意に介さないか、興味がないようだった。彼らから見れば、私たちは漢民族か、その取り巻きにしか見えないようだった。私たちと仲良くするのは民族の恥だというのである。

おそらく、抗議に来た人たちと、私たちは現場で何度も出会っている。コンニチワ程度の会話も交わしているはずだし、彼らの子どもたちとも遊んでいる。その時、母親たちは、目が合うと親切そうな微笑を私たちに向けたものだった。とても、そこに怨嗟(えんさ)があるとは思えなかった。あるいは、島国日本、しかも飽食日本で何不自由なく育った世代である私たちに観察眼がなかっただけなのかもしれない。しかし、私たちには、彼らのわだかまりを少しも感じることはできなかった……。
あのたばこ売りのロザアジムが義母を重病にしてまで取材を嫌がったのも同じ理由だという。漢民族(実は私たち)と親しくしていることを近所の人たちに咎(とが)められたのだ……。

…カシュガルの街を歩いていると、とても数年前に暴動が起きたとは思えない。分離独立運動の存在など少しも感じることができない。のどかでゆっくりと時間が流れているだけだ。
あるいは、巨大な中国の力の前に、人びとは諦(あきら)めているのかもしれない。いや、経済発展の著しい中国と一緒にいた方が得だと思う人が増えているのかもしれない。
または、複雑な気持ちを歴史が厚くした皮膚に隠して、日々を懸命に生きているだけなのかも知れない。
たかだか1ヵ月そこにいただけの私たちには、民族の表層をなぞるだけで、その深層を見ることはできない。もちろん、アブリズバックムの心の中も……。

【踊り子、マフブーベ (14歳)】
その少女もひと言では語れない複雑さを持っていたに違いない。
マフブーベ、14歳。チャサーで一、二を争う美人一家の次女。その自宅は、観光客に常時公開されている。彼女は「公開ハウス」の看板娘だった。…

そこに、着飾ったマフブーベが登場する。民族衣装に民族帽。その出で立ちには、少女だけが持つ無敵の可憐さがある。人びとの視線はマフブーベに集まる。ツーショットの写真を撮る者。隣に座りなさいと招き入れる者。ウイグル語での会話を試みようとする者。
マフブーベはほぼ完璧(かんぺき)な中国語を話す。学校の特別クラスで学んだのだ。流暢な中国語に皆が驚く。しばらくして、マフブーベはラジカセを持ち出し、民族音楽をかけると、優雅に踊りだす。カメラのフラッシュが途切れることなく光る……。

観光客は30分近くいたのだろうか。ほぼ全員がマフブーベと写真を撮り終え、退出の時間となる。マフブーベは退屈そうに欠伸を一つする。
別れ際、数人がマフブーベに近付き礼を言う。そして、紙幣を手に握らせる。額は最低で10元、多い人で20元だった。マフブーベは100元近い紙幣を母親に渡す。お金というより、新聞でも渡すように何気なく、そして、無造作に。
わずか30分で、マフブーベは、アクサカル・アブリズバックムの5週間分の収入を手にした。
―― 1日にどれくらい観光客が来るの?
「多い時で200人ぐらい」
―― お金もずいぶんもらうんでしょ?
「時々は」
(p.78)
―― 大変だね?
「ちっとも。中国語の勉強になっていいわ」
―― 将来、何になりたいの?
「学校の先生。ウイグル族の子どもたちに中国語を教える」
―― じゃあ、10年後は何をしているかな?
マフブーベは少し考えて、しかし、真剣に、その問いに答えた。
「分からない……」

学校の先生になる。マフブーベはしっかりとした目標を持っている。彼女の語学力や家庭の経済力を考えれば、実現はさほど難しくないように思える。
しかし、彼女はこう言った。
「十年後は何をしているか分からない:…」
どういうわけか、私には、「なぜ?」とは聞けなかった。


番組の取材が終わりに近付いていた。私たちは、そのラストシーンを何にするか、連日深夜まで議論を続けていた。当初目論んでいた新郎新婦へのインタビューは断られた。アクサカルの語りで全編を包む構成も不可能になった。
誰かが、例の少女にもう一回話を聞こうと言った。…

9月21日。マフブーベもその母親も取材のお願いを快諾してくれた。思えば、老城の人たちに快諾されるのは久しぶりのことだった。
それにしても、どうして彼女だけが度重なる取材を受けてくれたのだろう。周囲の人たちに何か言われないか、私たちは心配もした。でも、そのことは彼女には聞かない。ただ、真剣にインタビューをするだけだ。

―― カシュガルは好き?
「大好き」
―― なぜ?
「果物は美味しいし、街は綺麗(きれい)だし、すべてが好き」
―― 昔ながらのカシュガルと変わりつつあるカシュガル、どっちが好き?
「両方好き」
―― カシュガルにずっと住みたい?
「一生住みたい」
―― なぜ?
「私たちのふるさとだから。私たちはずっとここで生きてきたから」

あるいは、昔ながらの街が好きなのは「民族の誇り」からなのかもしれない。変貌する街も好きなのは、それが「豊かさの象徴」だからなのかもしれない。
しかし、14歳の少女は、そのどちらも好きだときっぱり答え、なぜなら、ここは「私たち」のふるさとだから、と言ったのだ。

文明の十字路と称され、今、「中国化」という激動のなかにあるカシュガル。
少女の言葉には、ここで生き抜こうと覚悟を決めた、凛(りん)とした響きがあった。
そう、彼らはそうして生きてきたのだ。今までも、そして、これからも。
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by satotak | 2006-12-31 12:01 | 東トルキスタン
2006年 12月 31日

「民族」と「エスニック」は違う!?

青柳まちこ編・監訳「『エスニック』とは何か」(新泉社 1996)より:

「民族」のルーツ
民族という語は、中国語に里帰りした日本生まれの言葉である。しかしエスニシティはそうではない。明らかに外国生まれ、強いていえば、アメリカ生まれの用語である。民族という語は、日常の新聞やテレビのニュースでお馴染みの言葉であるから、何となくわかったような気分になるが、エスニシティやエスニック集団はそうではない。

民族の英訳を、辞書で引くとpeople, ethnic group, ethnicity, nationと出てくる。しかしpeopleは私たちの感覚では、もっとごくごく一般的な「人びと」という感じであるし、nationではUnitedNations(国際連合)のような使い道からいって、「国家」あるいは「国民」という印象が強い。ethnic group, ethnicityでは、民族とエスニック集団とは同じだということになってしまう。フランス語もほぼ英語に近い用法らしい。ドイツ語のVolkは日本語の民族にやや近いのであろうか。英語以外の言語に関してはよくわからないので、ひとまずおくとして、少なくとも英語に関していえば、日本語の「民族」に相当する語彙がないようである.

では、そもそも明治時代に、民族という用語はどのような内容を意味するものとして用いられたのであろうか。
安田浩によれば、今日の民族という概念に合致する用語の使用契機を作ったのは、!882年に発刊された雑誌『日本人』と新聞『日本』であるという。この『日本人』は国粋主義の立場から、明治政府の欧化主義を批判するものであった。『日本人』創刊号には、「這般の所謂国粋なる者は……大和民族の間に千古万古より遺伝し来たり化醇し来たり、終に当代に到るまで保存しつづけるもの」とある。つまり日本という国家の主体を担うものとして、古来の歴史、伝統、文化を実体化した「大和民族」という人間の集団を設定しようとしたものらしい。また加藤弘之は1887年、ドイツの民族国家論を「族民的の建国並びに族民主義」として翻訳した際に、族民、民種、種族、国民などとさまざまな用語を使いつつ、それらが国家を形成する主体であることを強調しようとしたという(尹健次「民族幻想の蹉跌」『思想』1993.12)。

なお川田によれば、これより早く福沢諭吉『文明論之概略』(1875)が「国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り……」として、種族を使用していたという(川田順造r民族」r世界民族問題事典』平凡社、1995)。

こうして日本語では、国家を担うものとしての、統一体である人間集団を指す初期のさまざまな用語の中から、「民族」と「国民」が生き延びたといってもよいであろう。ただ誕生時の民族の意味あいは、現在では国民という用語の方がふさわしいように思われる。明治から約100年を経て、国家と結びついた人間集団である国民から、民族は語義の上で袂を分かち、いまだにあいまいな部分を残してはいるものの、ほぼ定着した使用法ができたといえよう。

その定着してきた「民族」の使用法はどんなものであろうか。私たちがもっとも基礎的な知識を獲得する学校教育の場での使用法をみてみよう。

「民族とは、同じ宗教、生活様式、社会制度などを有し、同じ文化を共有するという帰属意識を持つ人類の集団である」(『高校生の世界 地理A』帝国書院)
「衣食住だけでなく、言語、宗教、生活習慣は文化の重要な要素である。文化を同じくする人びとは、互いに仲間であると感じやすい。このように文化を共有するという意識(共属意識)を持つ人類の集団は、民族とよばれる」(『新しい社会 地理』東京書籍)
「いっぱんに同じ言語を話し、同じ生活慣習や価値観・考え方を持つ人のグループを民族とよんでいる。世界の国々には、いくつかの民族が集まってひとつの国を作っているものが多い」(『中学校社会 地理』学校図書)

民族とエスニック集団の違い
ここで改めてエスニック集団と民族は同じものであろうかという疑問に立ち返らなければならない。
もし同じであるとするなら、何をいまさらエスニシティとかエスニック集団とか、新しい言葉を振りかざして議論する必要があるのかということにもなる。違うとするならば、どのような点が違うのかを明瞭にしなければならない。本書では、エスニック集団を民族集団、エスニシティを民族性と置き換えることはしなかった。それはエスニック集団と民族を異なる概念としてとらえた方が、より便利であると考えたからである。民族とエスニック集団は構成上似たようなものであるとしても、その差異は以下の点にあるだろう。

1. まず第一に、エスニック集団は他の類似集団とともに、それを包括する上位の社会に含まれているという点である。ここでいう上位の社会とは、近代国家である場合もあれば、近代以前の王国、都市国家、首長国あるいは植民地政府のような場合もあるであろう。本書に含まれた論文の大部分が、包括的社会の存在を概念規定に加えている。包括的社会の存在に触れていないものも、アメリカ合衆国の国内問題や、アフリカの都市状況をあつかうなかで、それを当然のことと考えている節がある。

一方、民族は、その上に包括的社会があることを必ずしも条件としていない。中学で学習した「ゲルマン民族の大移動」などという言葉は、今でも耳に残っているが、このような使用法に際しては、上位の社会はまったく関係がない。明治以来しだいに定着して使われるようになってきた民族という用語は、このような場面にそのまま残しておく方が、混乱がないのではないか。

2. エスニック集団と民族の属性についての差異は、すべて上記の点に由来するといえよう。単独で存在することも可能な民族(それは実際にはほとんどあり得ないかもしれないが)に比して、包括的社会の一分子であることを運命づけられているエスニック集団は、必然的に他者とのひんぱんな相互作用を持つようになる。本書には「みずからも同定し、他者からも同定される」というような説明がしばしば登場しているが、この同定作業は、相互に密接な関係がある他者との比較があって、はじめて問題となることである。

3. エスニック集団は原初的なものか、操作的なものかといったような議論もしばしば行なわれている。ごく大ざっぱないい方をするならば、民族という概念では成員性がより原初的であり、エスニック集団という概念では成員性の操作性はより高いと考えられるのではないか。エスニック集団であっても、まったく自由に自己の帰属を操作的に選択することは難しいであろう。しかし、ある範囲内で、他者との利害得失のなかで、自己の帰属集団を選択することは十分に考えられるからである。

4. エスニック理論のなかでもっとも注目を集めたバルトの境界論も、密接な相互作用があってはじめて生じる現象にかかわっている。担い手である人間が流動しても、なお境界は存続するという考え方は、静的な民族論からはなかなか出てこない。換言すれば、エスニック集団の方が民族より流動性が高いといえよう。エスニックを集団ではなく、範疇としてとらえようとする傾向も、その流動性にあると考えられる。

上述のような観点をもう一度整理してみよう。
国民:国家を構成する個々人、あるいはその全体を指す(『平凡社大百科事典』)。国民は国家があってはじめて成立する概念である。明治期の日本に国民(前述のように、当時は民族、国民、族民、民種、種族などさまざまな用語が模索されたようであるが)意識が叫ばれるようになったことは、この意味でうなずける。現代世界は地球上のあらゆる人間を国家に組み込んでしまったようにみえる。本来国家の枠内に入る意志のない人びと、あるいは国家やその政府が何であるかを知らない人びとさえも、国家の線引のなかに取り込まれてしまった。

民族:上述の中学・高校の教科書にみられた定義で十分であろう。民族は国家の枠組みとは別に広がっている。したがって国家すなわち国民を超えて民族が拡大している場合もあれば、一国家が一民族で構成されている場合もあるであろうし、一つの国家内に複数の民族が含まれる場合もあるであろう。最後の事例の場合が、ここで取り上げるエスニック集団である。換言すれば、民族はある条件のもとでエスニック集団となる。

エスニック集団:その内容については本書に収められた諸論文が、それぞれ述べているのでここでは触れない。ただし前二者との関係を明らかにするために、国家のような上位の社会のなかに複数の民族が共存する場合、その一つ一つはエスニック集団であるとのみ記しておこう。


[アニヤ・P・ロイス著「キリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく」(1982)より(森雅文訳)]
定義の本質
定義に問題のある概念は数多い。「エスニック・アイデンティティ」「エスニック集団」「エスニシティ」もそうであろう。私たちは整然とした輪郭を持つ完璧な定義を創り出し、隣接する概念との混乱を回避したいという誘惑に駆られている。…

むろん、曖昧な概念を定義することを、断念すべきであるといっているのではない。定義づけようとするものに近似した、融通性のあるおおまかな定義で、私たちは満足しなければならない。また、例外や矛盾を調整しようとして、自らの無力さにうろたえる必要もない。「エスニック・アイデンティティ」「エスニック集団」「エスニシティ」は、人間行動上のやりとりや、行為を方向づけること、それにもとづいて行動させられるということから、その形式と内容が作り上げられている概念である。そこには、人間行動に関してもみられるように、連続性や変化が存在する。

こうした観点から、次のような定義を示しておく。「エスニック集団」とは、――たんなる想定であるにせよ―― 顕在的な特徴と価値観にもとづいた共通の歴史様式を共有し、他者との相互行為の過程を通じて、この様式を共有していると自らを同定する人びとが引き合いに出す準拠集団である。「エスニック・アイデンティティ」とは、自らを他とは区別される一つの集団として同定する集団の、価値観、象徴、共通の歴史に関連した、その成員の感情の総和である。「エスニシティ」とは単純に、エスニックにもとづいた行為であるとする。これらの定義は、私たちが「エスニック」と呼ぶような範疇を区分するのに有効であり、それらが変化することをも射程に入れる柔軟性を備えている。エスニック・アイデンティティやそれに関連する現象についての従来の見解には、このような柔軟性に欠けるものもあった。従来の観点がもたらす、本章の表題に掲げたような「エスニック」の定義は、定義論争の吟味にあたり格好の出発点になるであろう。…
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by satotak | 2006-12-31 11:05 | 民族・国家
2006年 12月 31日

バイバルス -カイロに行ったテュルク系マムルーク

佐藤次高著「マムルーク -異教の世界からきたイスラムの支配者たち」(東大出版会 1991)より:

マムルークとは、「奴隷」を意味するアラビア語である。「奴隷」というと、私たちはまずアメリカ社会の黒人奴隷を思いうかべる。人格を否定され、足に重い鎖をひきずりながら過酷な農業労働に従事する者たち、というのが一般的なイメージであろう。しかし、イスラム社会の奴隷について考える場合には、このような奴隷観をいったんとり払っておかなければならない。むろんイスラム社会の奴隷も主人の所有物であり、戦争捕虜や略奪による奴隷も数多く存在したが、彼らのなかには軍人として社会的な成功を収める者もあれば、商人の代理として遠隔地での取引に活躍する者も少なくなかった。また、歌舞音曲にすぐれた才能を発揮するばかりでなく、法学や神学などのイスラム諸学を身にづけた女奴隷も珍しくはなかった。このような奴隷のあり方を正しく理解するためには、奴隷についての新しいものさしを用意しておくことが必要だと思うからである。…

10世紀前後の奴隷購入ルート [拡大図]

後述するように、イランやイラクの一部地域では農業労働にしたがう奴隷も、わずかではあるが存在した。しかしイスラム社会でのきわだった特徴は、家内奴隷と軍事奴隷が中心的な役割を演じてきたことである。とりわけ奴隷軍人のマムルークは、9世紀以降、カリフやアミール(軍司令官)の私兵としてしだいにその勢力を伸長し、やがてカリフの改廃をも自由におこなうようになった。しかもマムルーク軍人の台頭はイラクやエジプトの地域だけに限られていたのではなく、北インド、トルコ、アンダルス(イベリア半島南部)などイスラム世界のほぼ全域にわたっていた。…

このように奴隷、あるいは奴隷出身のマムルーク軍人は、9世紀から19世紀にいたるまで約1000年の長期間にわたってイスラム諸王朝(注1)の軍隊の中核をなし、アラブ人やイラン人をはじめとするムスリム大衆の支配者として君臨しつづけた。しかもその活躍の範囲は、モンゴル時代のイランなどのように例外はあるにせよ、イスラム世界のほとんど全域にわたっていた。もともとマムルークとは、奴隷商人によってもたらされた異民族出身の奴隷兵を意味している。いったいどのようにして彼らは国家の軍事力を掌握し、イスラム共同体(ウンマ)の防衛者となることができたのであろうか。…

つぎは、マムルークから身を起こしてスルタン位を手中にした人物の例である。

◇バイバルス・アルブンドクダーリー(1277年没)
バイバルスは黒海北方のキプチャク草原に住むトルコ系クマン族の出身であった。1242年、モンゴルのアナス・ハーンがクマン族を襲ってバイバルスらを捕虜とし、アナトリアのシヴァスで奴隷商人に売り渡した。バイバルス 14歳のころのことであった。その後この商人はシリアのハマーにバイバルスをもたらし、ここの君主であったマリク・アルマンスールに売却したが、肌が褐色であるとの理由で返却されてしまった。ついでバイバルスはダマスクスへ連れていかれ、800ディルハム(約40ディーナール)で買い手がついたものの、今度は片目に白そこひの斑点があるとの理由でふたたび返却されることになった。もう一度ハマーに戻ったバイバルスは、そこに滞在していたアイユーブ朝のアミール・アイダキーン・アルブンドクダーリーにようやくひきとられ、彼の手によって奴隷身分から解放されたのである。

1246年、バイバルスは新しい主人にしたがってカイロに入ったが、スルタン・サーリフは突如アイダキーンの財産を没収し、バイバルスをもみずからの所有としてしまった。これ以後、バイバルスはスルタンに直属するバフリー・マムルーク軍の一員としてしだいに頭角をあらわしてゆくことになる。彼が最初に就いた職はスルタンの衣装係(ジャムダール)であったが、1249年にルイ九世がダミエッタを占領したときには、バフリー・マムルーク軍の長アクターイが不在であったために、一時的にこの軍の指揮をとることを命じられた。また翌年のマンスーラの戦いでは、バフリー・マムルーク軍を率いて十字軍を破り、ルイ九世を捕虜とすることに成功した。しかしこのような輝かしい戦果のゆえに、マムルーク朝の第二代スルタンとなったアイバクはバフリー・マムルーク軍の勢力伸長を恐れ、1254年にはその長であるアクターイを殺害する挙に出た。身の危険を感じたバイバルスは、仲間とともにカイロを脱出し、ダマスクスのマリク・アンナースィルのもとへ落ちのびていった。

あしかけ7年にわたるシリアでの放浪生活は、バイバルスの苦難の時代であった。ナースィルとの不和が生じると、今度はカラクのムギースのもとに身を寄せたが、エジプト軍との敗戦によってムギースからも疎んじられるようになった。しかし『バイバルス伝』を著したイブン・アブド・アッザーヒル(1292年没)は、「バイバルスは7年間異郷にあったが、少なきにたえ、けっして仲間(フシュダーシーヤ)を見捨てることはなかった。これこそ彼の男らしさ(ムルッワ〉の証明である」と述べている。バイバルスの巻き返しを可能にしたのは、彼の軍人としてのすぐれた資質ばかりでなく、このような人間性にもよるところが大きかったにちがいない。

東方からのモンゴル軍の脅威によって、バイバルスの不遇の時代にはようやく終止符がうたれた。1259年、エジプトのスルタン・クトズと和解したバイバルスは対モンゴル軍の司令官に任命され、翌年のアイン・ジャールートの戦い(注2)では、キトブガー配下のモンゴル軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いに先立ってクトズはアレッポの総督職をバイバルスに約束していたが、戦後この約束をまもらないことを理由にクトズを殺害したバイバルスは、みずからマムルーク朝の第五代スルタンに就任した。この時、バイバルスはおよそ33歳であった。

即位後のバイバルスは、アッバース朝カリフの擁立やバリード(駅伝)網の整備によって国内体制を整えると、1265年から対十字軍戦争にのりだし、シリアの海岸地帯にあるカイサーリーヤ、ハイファー、サファド、ヤーファー、アンターキヤ(アンティォキア)などの諸都市をつぎつぎと奪回した。この間にモンゴル軍とも戦い、1275年には、アルメニアに遠征してシースやアヤースなどの諸都市を征服した。17年の治世のあいだに38回のシリア遠征をおこない、そのうちモンゴル軍との戦いが9回、十字軍との戦いは12回におよんだという。カイロとダマスクスのあいだでさえ750キロメートルあまりの距離があることを考えれば、右の数字はバイバルスが人並外れた気力と体力の持主であったことをしめしていよう。このような輝かしい戦歴のゆえに、バイバルスはいまでもアラブの偉大な英雄として民間に語り継がれている。

バイバルスはカラコルムまで商人をつかわして男女のトルコ人奴隷を買い求め、彼が所有するマムルークの数だけでも4000に達したと伝えられる。その家族についていえば、シリアに来住したフワーリズミーヤ(ホラズム軍)の長ベルケ・ハーンの娘、モンゴル人のアミール・ノカーイの娘、おなじくモンゴル人のアミール・カラーイの娘、クルドのシャフラズーリーヤ族の娘を妻にもち、女奴隷の子供をふくめて五男七女をもうけた。バイバルスはまた、イスラム信仰の擁護と文化の発展にも力を注ぎ、カイロではザーヒリーヤ学院の建設、アーフィーヤ・モスクの建設、アズハル・モスクの修築、ダマスクスではウマイヤ・モスクの修築、ザイン・アルアービディーン廟墓の改築などはば広い建設事業を手掛けた。

1277年7月、アナトリアでモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍を破ったパイバルスは、ダマスクスに帰還して恒例の馬乳酒(クミズ)による祝杯を上げたが、急に腹痛を発し、まもなくこの地で没した。まだ50歳に満たない若さであった。遺体は現在のザーヒリーヤ図書館のある墓地に葬られたが、死因はクミズの飲み過ぎであったとも、毒殺であったともいわれる。…

(注1) イスラム諸王朝:「イスラム国家・王朝年代図」参照
(注2) アイン・ジャールートの戦い:「イル・ハン朝(フレグ・ウルス)」参照
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by satotak | 2006-12-31 11:04 | テュルク
2006年 12月 31日

英雄叙事詩 –コーカサスの口承文芸-

「コーカサスを知るための60章」(明石書店 2006)より(筆者:坂井弘紀):

コーカサスの諸民族は様々なジャンルの口承文芸を代々伝えてきた。それらには共通する点が多いものの、この地域の多様な民族構成のあり方が反映されている。一説によると、コーカサスの口承文芸には、2500~3000年前からその伝統があるといわれるほど、長い歴史がある。口承文芸には彼らの古来の記憶が織り込まれている。コーカサスの口承文芸の特徴の一つは、多くのすぐれた詩人を輩出したことであり、彼らがこの地域の現代文学の礎を築いたといえるであろう。
コーカサスの諸民族の口承文芸の主なジャンルとして、民謡、昔話、伝説、叙事詩、ことわざ、なぞなぞなどが挙げられる。…

コーカサスの口承文芸の中心的なジャンルは英雄叙事詩である。英雄叙事詩は、「民族」の運命や英雄たちとのかかわりをテーマとした英雄物語で、そこには彼らの歴史的な記憶が投影されている。英雄叙事詩はその「民族的」な性格から民族叙事詩と呼ばれることもある。長く口承で語り継がれてきたが、19世紀以来、採録されるようになり、多くのテキストが出版されてきた。ではここで代表的な叙事詩の例をいくつか取り上げよう。

ナルト』(注1)はコーカサスの英雄叙事詩を代表する作品である。この作品は、オセットやアディゲ、イングーシ、アブハズ、チェチェン、カラチャイ・バルカル、クムクなどほとんどのコーカサス諸民族に広がる。『ナルト』では、ソスラン(オセット)、もしくはソズリュコ(チェルケス)と呼ばれる勇士を中心にナルトの英雄たちの活躍が描かれる。部族社会の神話と古代の歴史的出来事を叙述するモチーフとが結び付いており、そこにはコーカサスを舞台に活躍したスキタイやアランのフォークロアの痕跡が見られるともいわれる。『ナルト』には、インド・ヨーロッパ系神話に見られる「神聖・戦闘・生産」の三機能的な思考が反映されていることが指摘されている。このほか、古代ギリシアの口承文芸やイギリスの『アーサー王伝説』、日本神話など世界各地の神話や伝説、口承文芸との関連がしばしば指摘され、研究者の関心を惹いている。

サスンのダヴィト』はアルメニアを代表する英雄叙事詩である。アルメニアの歴史に関する伝説や英雄物語を取り入れながら、民間の語り手たちによって何代にもわたって語り伝えられてきた。この作品は、『サナサルとバグダサル兄弟』、ダヴィトの父を描く『大ムヘル』、『サスンのダヴィト』、『小ムヘル』の四つの部からなる。サスンの地を敵から守るアルメニアの人々の戦いをテーマにしたこの叙事詩は、851年に起きたアラブの徴税官に対する農民の蜂起に基づいているといわれる。ダヴィトの像はヴァリアントによって多様であるものの、勇敢さ、慈悲深さ、高貴さや純真さ、そして力強さという性格を兼ねそなえた英雄とされている。この叙事詩は、1873年に初めて書き取られ、その後ホヴハンネス・トゥマニヤンなど多くのアルメニア詩人が、この作品に霊感を得て作品を生み出した。現在でもアルメニア文化の象徴的存在となっている。

またグルジアには英雄叙事詩『アミラン』などの作品が伝わる。キリスト教が伝来する以前のグルジアの世界観を伝える『アミラン』は、主人公アミランと神との戦いを描いている。アミランは「太陽の子」とされ、人々に火をもたらしたために神により罰せられ、コーカサスの巌につながれた。このようなアミランの姿は、ギリシア神話のプロメテウスを彷彿とさせる。この作品をプロメテウス伝説に由来すると考える意見もあり、グルジア文化の奥深さを考えるうえで興味深いものである。

アゼルバイジャンには、『キタブ・デデ・ゴルグッド』や『キョログル』などの有名な叙事詩(ダスタン)がある。『キタブ・デデ・ゴルグッド』は伝説的な賢者ゴルグドについて歌った作品で、彼らの祖先に当たるオグズ族の伝統を色濃く残し、アゼルバイジャンの民族文化の象徴ともなっている。また『キョログル』は、16世紀末の農民反乱を題材とした作品といわれ、主人公キョログルは民衆の側に立ち、権力者と戦う義賊として描かれている。なお、これらの作品は、アゼルバイジャンのみならず、トルコやトルクメン、ウズベクやカザフなど中央ユーラシアのテュルク系諸民族にも広がっている。

ノガイやクムク、カラチャイ・バルカルなど北コーカサスのテュルク系民族にも多くの英雄叙事詩が伝わる。『エディゲ』(注2)、『カラサイとカズ』、『ショラ・バトゥル』(注3)、『アディル・スルタン』、『コプランル・バトゥル』などが彼らの代表的な作品として知られている。これらの作品は、キプチャク草原の遊牧政権ノガイ・オルダ(15~17世紀)の歴史を伝承している。この一連の叙事詩は「ノガイ大系」ともいわれ、中央アジアやヴォルガ・ウラル地域のテュルク系諸民族(カザフ、カラカルパク、ウズベク、タタール、バシュコルトなど)にも広く伝えられている。北コーカサスのテュルク系民族の叙事詩には16~18世紀に中央ユーラシアを猛攻したカルマク(モンゴル系遊牧国家ジュンガル)やサファヴー朝の軍事的中核であったテュルク系シーア派の騎馬軍団「クズルバス(キズィルバーシュ)」などとの戦いが描かれる。

ソ連崩壊後のコーカサスでは、以上に挙げたような叙事詩を始めとする口承芸が改めて強く脚光を浴びるようになり、「新しい時代」に生きるコーカサスの人びとの文化的アイデンティティとなっている。

(注1) 「ナルト叙事詩」参照
(注2) 「エディゲ」参照
(注3) 「チョラ・バトゥル -タタール人の記憶-」参照
(参考) 「中央ユーラシア・テュルクの叙事詩」参照
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by satotak | 2006-12-31 11:03 | カフカス
2006年 12月 31日

草原の民と山岳の民が織りなす歴史 -北コーカサス-

「コーカサスを知るための60章」(明石書店 2006)より(筆者:赤坂恒明):

コーカサス山脈の北方に広がる草原地帯は、西はハンガリー盆地から東は満洲平原にまで至る、中央ユーラシアを東西に貫く大草原の一部を成しており、古来より騎馬遊牧民族の活動の場であった。

有史以来、長らく北コーカサスの草原地帯にて活躍していたのは、キンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人、アラン人など、インド・ヨーロッパ語族に属する東イラン系の言語を話す人々であった。しかし、4世紀以降、内陸アジアの草原地帯から、フン、アヴァル(ダゲスタンの現代アヴァル人とは別集団)など、アルタイ系の言語を話していたと考えられるモンゴロイド形質の遊牧民族が西進、6世紀には突厥(とっけつ)〈古代トルコ帝国〉の勢力がこの地域にまで及んだ。次いで、7世紀には、トルコ系のブルガル人が、黒海北岸から北コーカサスに至る草原地帯に「大ブルガリア」を建国し、ブルガル人と近縁関係にあったハザル人が、ヴォルガ川下流域からダゲスタン方面にハザル可汗(カガン)国を樹立した。ハザル可汗国は、アラブの北進を阻止し、王家がユダヤ教を信奉したことで有名である。さらに、9世紀より、ブルガル人やハザル人のとは別系統のトルコ系言語を話す遊牧民族が東方から移住してきた。その代表がキプチャク人(クマン人、ポロヴェツ人)である。

このように、北コーカサスの草原地帯には、もともと東イラン系の遊牧民族が居住していたのであるが、東方からトルコ系の遊牧諸集団が波状に西進し、この地域の民族構成を著しく変えた。もっとも、東イラン系のアラン人(アス人)は、勢力は縮小しながらも、なおも一定程度の勢力を保っていた。こうして、北コーカサスの草原地帯には、13世紀の初めまでに、キプチャク人やアス人の小王国が成立した。

13世紀、チンギス・ハンの孫バトゥを総帥とするモンゴル帝国の騎馬軍団が、北コーカサスをも席巻した。モンゴル帝国の西北部を構成する政権 -中央アジア北部から北コーカサス、黒海北岸方面を支配した- は、しばしば「キプチャク・ハン国」「金帳汗国」の名のもとに呼ばれる。キプチャク人やアス人の多くはモンゴルの支配下に入り、彼らの一部は、遠く元朝のもとで皇帝(ハーン)の親衛隊となり、元朝後期の政局や、元朝解体後のモンゴル高原の歴史に、大きな足跡を残している。なお、モンゴルのために国を失ったアス人は、西遷してハンガリー盆地に移住した人々(ヤス人。言語的にハンガリー化)もいたが、コーカサスの山岳地帯に逃避する人々も多かった。今日のオセット人は彼らの子孫であると考えられている。

ところで、コーカサス山脈の北斜面から北麓には、北西コーカサス系の言語や北東コーカサス系の言語を話す、コーカソイド(ユーロペオイド)形質の人々が居住していた。前者は、広義のチェルケス人(アディゲ人、カバルダ人ほかを含む)で、後者は、現在のチェチェンダゲスタンの山岳地帯に住む人々の祖先である。彼らも、基本的にはモンゴル政権の支配下に入ったようであるが、その実態については、今日なお不明の点が多い。

なお、キプチャク・ハン国のモンゴル人は、人口のうえで多数を占めるキプチャク人の影響によって、言語・文化的にキプチャク・トルコ化したが、北西コーカサスとダゲスタンの住民の一部も、言語的にキプチャク・トルコ化している。すなわち、現代のダゲスタン中部平野部のクムク人、北西コーカサスのカラチャイ人バルカル人の祖先がそれである(なお、クムク人のトルコ語は、文章語としてアラビア文字によって書き記され、近世、ダゲスタンにおける世俗的な共通語として機能した)。

キプチャク・ハン国の時代、キプチャク人やチェルケス人は、奴隷として黒海・地中海交易の商品として盛んに輸出され、彼らのなかにはマムルーク(奴隷軍人)として、エジプトやシリアで活躍する人々も現れた。また、それまで北コーカサスには東方正教を中心とするキリスト教が広まっていたが、モンゴル支配期よりイスラーム化が進み始めるようになった。

キプチャク・ハン国の解体に伴い、北コーカサスの東部はアストラハン・ハン国、西部はクリミア・ハン国の支配下に入った。アストラハン・ハン国は16世紀中葉にロシアに滅ぼされ、16世紀後半にはテレク・コサックが成立し、ロシア人勢力が扶植された。

17世紀、チベット仏教を信奉するオイラト(西モンゴル)系のトルゴート人(カルムイク人)が西進し、主に今日のカザフスタンの西部に遊牧生活を送っていたノガイ人(キプチャク・トルコ系)を撃破、ヴォルガ川を渡って北コーカサスに進入した。カルムイク人の進撃はカバルダ人によって阻止されたが、ヴォルガ川西岸からドン川方面の草原地帯はカルムイク人によって占拠された。壊滅したノガイ人は四散して、今日のダゲスタンの北部の草原地帯からコーカサス山脈北麓の各地に移住し、彼らの一部はクリミア・ハン国の支配下に入った。

クリミア・ハン国は、16世紀後半、オスマン朝の保護国となった。クリミアのハンは、北西コーカサスの(広義の)チェルケス人のもとに皇子を送り、チェルケス人貴族はクリミア皇子と婚姻関係を結び、ハンに服属した。オスマン朝の君主は、チェルケス人に対するクリミア・ハンの宗主権を認めてはいたが、チェルケス人支配者に対して、直接、命令を送り、称号を与えていた。なお、チェルケス人の間にイスラーム教が広まったのは、クリミア・ハン国の支配期においてであった。

さて、近代化を推し進めたロシアは、1768年、オスマン朝およびその属国クリミア・ハン国と戦い、これらを撃破した。かくて締結された1744年のキュチュク・カイナルジャ条約でクリミア・ハン国がオスマン朝から「独立」したのに伴い、チェルケス人の一部を構成するカバルダ人は、ロシアの支配下に入った。オスマン朝は、ロシアの侵略を防ぐために、黒海沿岸に要塞を建設または再建し、クリミアに代わってチェルケス人を直接統治しようと試みた。また、クリミア・ハン国の滅亡(1783年)後、チェルケス人とオスマン朝の協力によって、クリミア・ハンの一族を戴いたクバン・ハン国が建てられている。しかし、1787~92年の露土戦争で、オスマン朝の主要拠点であるアナバ要塞が陥落し、18世紀末には、黒海コサック(後のクバン・コサック)が成立し、ロシア人による植民、農業開発が進められた。そして、1829年のアドリアノーブル条約で、オスマン朝はチェルケス人に対する権利を放棄した。その後、ロシアは1864年、北西コーカサスを制・併合した。ロシアの弾圧等により、北西コーカサスのムスリム住民の大多数はオスマン朝の領内に移住し、北西コーカサスの民族構成は大きく変容することとなった。

一方、北東コーカサスのダゲスタンの中部から南部においては、15~16世紀、三つの封建領主の政権、すなわち、カーズィー・クムク(今日のラク人)のシャームハール政権、カイタクのウースミー政権、タバルサラン(タバサラン)のマァスーム政権が鼎立していたが、16世紀以降、イラン(サファヴィー朝)とオスマン朝、さらにロシアの三大勢力による争奪の場となった。住民の多くがスンナ派のムスリムであったダゲスタンは、オスマン朝の影響力が大きかったが、キュチュク・カイナルジャ条約の締結後、ロシアの進出が顕著となり、それに抗するイスラーム神秘主義教団、ナクシュバンディー教団の指導者たちによって率られた活動がチェチェンとダゲスタンを中心に活発化し(北西コーカサスにも波及)、シャイフ・マンスールの蜂起、さらにイスラーム国家の建設へと至るのである。
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by satotak | 2006-12-31 11:02 | カフカス
2006年 12月 31日

チョラ・バトゥル -タタール人の記憶-

山内昌之著「ラディカル・ヒストリー」(中公新書 1991)より:

タタールの叙事詩『チョラ・バトゥル』
『チョラ・バトゥル』は、ロシア帝国の前身たるモスクワ大公国がカザンを征服する直前に、クリミアとカザンの二大汗国で起きた事件とその背景となる社会条件をタタール語で記録した作品である。…
しかし、『チョラ・バトゥル』は、モスクワ=カザン関係やロシア人の征服について記述した歴史書でもなければ、最初から特定の個人が書いた年代記でもない。それは、16世紀の征服直後から数世代をかけて、今日の形に整えられながら口伝えで後世に伝承された文学的作品であり、トルコ文学史ではダスタンと呼ばれるジャンルに入る。ダスタンは言うなれば〈口誦化された歴史叙述〉である。この作品群は、中央ユーラシアに君臨したモンゴル帝国の各ハーンが統べた国家(ウルス)、キプチャク汗国やチャガタイ汗国の末裔として活躍したトルコ=モンゴル系のハーンを戴く国家の歴史的記憶を今日に伝えている。…

『チョラ・バトゥル』は、タタール人の歴史や文学の伝統の一部であるとともに、民族の偉業と悲劇を偲ばせる叙事詩の性格をも帯びている。それは、どのトルコ系民族の文章史料よりも早く「ロシア人」(ルース)を名指しの敵として言及した歴史の記録としても知られている。
ここで重要なのは、『チョラ・バトゥル』が文学作品だったにもかかわらず、ロシア人の支配の正統性に挑戦する大きな脅威になったことである。その証拠に、『チョラ・バトゥル』は文学作品としての価値はもとより、存在さえ幾度も抹殺されようとした。
ロシア帝国からグラスノスチ以前の時代を通して、公権力が変わらずにこのダスタンを嫌ったのは、ロシア人を敵として描いていたからだけではない。『チョラ・バトゥル』は、ソビエト体制やその中枢にいたロシア人に好都合と目された歴史叙述の試みに対する深い挑戦となっているからである。タタール人がこの作品を通して見た歴史は、ソ連の公式歴史学がこれまで主張してきた〈諸民族の歴史的友好〉、ロシア人やロシア国家との〈自発的な結合〉といったソ連の国家理念をあからさまに否定しかねない内容をもっている。…

しかし、ダスタンの目的は単に歴史的事件を描くことだけにあるのではない。それは、「正史」の果たす役割とは違った衝撃を後世に残す。ダスタンは、民族ぐるみの思い出を後世の人びとの感情のなかに沈殿させて、歴史的記憶を残すための理想的な世界を人びとの前にパノラマとして呈示するからである。
『チョラ・バトゥル』が今日のようなテキストをもつことになったのは、他のダスタンと同じく19世紀に入ってからである。しかし、それは特定の個人によってテキスト化されたのではない。いろいろな場所に住むさまざまな人びとが口誦伝承から文章に移し換えたのである。…

『チョラ・バトゥル』のあらすじ
クリミア汗国のハーンに仕える近習にナリク(ナレング)という勤勉な若者がいた。かれは、誰からも信頼される人間として知られており、勇敢で名誉を重んじる男でもあった。かれは、出仕していたハーンの宮廷でもひときわ目立つ存在であった。汗国を行き来する商人たちも、かれの目許すずしげな様子に殊の他ひかれるようになり、嗇(お)しまずに贈り物をするほどであった。この有様を見て、人心がナリクになびくのをおそれたハーンは、これはと思う花嫁を見つけることを名目に汗国各地を歩き回るように命じた。それでも、君寵から出たこの振舞いは、宮廷内部にナリクヘの嫉妬を燃え上がらせずにはおかなかった。

ナリクは、イディル(ヴォルガ)川とヤイク(ウラル川)の間に広がるハーンの領地を跋渉して、トゥルガイとヤイクに挟まれた土地の、とある村にたどりついた。そこで見るともなく休息していると、ひとりの婦人が火をおこしている風情に視線がいった。彼女は、慣習の教えに従って灰を踏みつけないように奥床しく動作に気遣っていた。その立居振舞に感心したナリクは、婦人に娘がいないかどうかを尋ねた。はたして妙齢の女子がいることを知ったナククは、それこそ、わが伴侶たるべしと思いを定めた。新妻の名は、メンリ・アルク・スル(ミングレ・スル)といった。

婚礼は、貴庶を問わずすべての人が参加して豪奢をきわめた。しかし、ハーンの嗣子は自制心を失ってメンリ・アルクの美貌の擒(とりこ)になった。彼女をわがものにせんと一計を案じて、王子はナリクを使者としてモスクワに送ろうとした。王子の奸計を悟った妻は、夫にモスクワへ出かけないように切々と訴えた。ナリクは怒って、妻の言い分に耳を傾けようとしなかった。それでも、ナリクは出発したように見せかけて、気取られずに家に戻ろうと密かに覚悟を決めていた。

その夜、果然、王子は主人の留守する家を訪れた。やむなくハーンの嗣子を家に招じ入れたメンリ・アルクは、ある逸話を語って聞かせた。
「わたしの父はイディル川のほとりに住む裕福な人物でした。かれはたくさんの馬を飼っていましたが、なかでも美しい子馬が気にいっていました。ある日、この子馬がふと寝込んでしまい、仲間の群れからはぐれてしまいました。そのとき、飢えた狼が子.馬に襲いかかり、後ろ足に噛みついたのです。折も折、狼を追跡してきた猟人がそこに姿をあらわしました。狼は森のなかに逃げ去りましたが、子馬は体が不自由なので動けずにそのままじっとしていました。ややときがあって、ライオンがこの獲物に襲いかかろうとしました。しかし、子馬の足に狼の歯の痕跡を見つけて、こう述べたと伝えられております。『余は百獣の王である。いかで他の者の食い残しにありつこうか』」
これを聞いた王子は気も動転しながら、若年にも似合わずどこでその物言いを学んだのかとメンリ・アルクに尋ねた。

物陰からことの顛末を見守っていたナリクは、立ち去ろうとした王子を襲って殺してしまった。王子の姿が見当らないことをいぶかしく思ったハーンは、側近の者たちに事情を問いただした。
すると、ナリクが進み出て一部始終を包み隠さずに申し立てた。ハーンはこれを一応諒としたが、君臣の関係をこれ以上保つことはできないとして、長年の忠勤を嘉しながら多くの金銀をあたえて、国土を立ち去るように永の暇をだした。
ナリクは妻とともに連袂(れんぺい)退去した。

夫が浪々中のある日、メンリ・アルクは夢を見た。
「燃えるような炎がわたしの足のあいだからほとばしり出ました。その尖端が天空までたどりついたのです。人びとが懸命に努力しても、その火を消し去ることはできませんでした。すると、暗雲が空をおおいつくしました。この雲間からは沛然とふりそそぐ雨が火を消しとめてくれました」
そして、彼女は夢見をこう意味づけている。
「わたしは力強いバトゥルを生むことになるでしょう」と。

ときは過ぎ去りゆく。ふたりのあいだに生まれたチョラ(チュラ)は、他の若者たちと一緒に牛の番をしている。そこに托鉢をなりわいとする年老いた旅のデルヴィーシュ(修道者)が飄然と姿をあらわした。ほかの子供たちがこの老人を気持悪がるのを尻目に、チョラだけは食べ物を供して尊敬を表すことを忘れなかった。村を立ち去る前に、デルヴィーシュは一頭の子馬を選び出して、その首筋に輪をつけてタスマル・ケルと命名した。こうしておいてから、かれはおもむろにチョラに向かって、チョラがそのうちに勇敢なバトゥルになること、子馬がそれにふさわしい優駿に育つことを預言した。

月日がたって、ハーンの徴税官アリー(ガリ)・ベイが年貢の取立てにやってきた。ナリクはじめ村人は、下にも置かぬもてなしでかれを迎えた。かれは、饗応をうけている間にもひとりの少年が視線をそらさずに自分を見つめているのに気がついた。それは、アリーの勢威を畏怖して視線を合わそうとしない大人たちと好対照だった。チョラには物を恐れるという風情がまったくなかった。徴税官は、村が十二分に自分をもてなしてくれたことに謝意を表して、税をとりたてずに辞去した。
ハーンは、アリーほどのもののふが税をとらずに帰還したことをいぶかしく感じた。しかし、剛胆な少年の話を聞くと興味をそそられて、チョラに会おうと言いだした。謁見が始まると、驚いたのはハーンのほうであった。

「そちはまだ豎子(じゅし)である。バトゥルではありえない。アリーを見よ。かれは長髯(ちょうぜん)を首筋のしりえで結ぶこともできる。その足音は7千もの兵士の足音に匹敵する。その力は千人のバトゥルに及ぶ。そちは、いったい何人力なのか」
チョラの答えは簡明であった。
「わたしは、わたしめにふさわしい者ひとりにあたります」
こう言い捨てるとすぐにハーンの前を辞去して、馬に乗って故郷の村に向かった。ハーンは40人ほどの家臣に後を追うことを命じた。チョラは追手がかかったのを知り、ひとまず下馬して身支度を整え迎え撃つ態勢をとった。かれは須臾(しゅゆ)のうちに敵をうちまかして、「爾余の旅人にも迷惑千万なれば犬ども鎖にてひとつなぎにし申し候」と書き添えてハーンのもとに送り届けた。
ハーンは満面に朱を注いで怒り、アリーに命じてチョラの村を劫掠(ごうりゃく)してかれの愛馬を鹵獲(ろかく)するように命じた。チョラは不在だった。アリーはナリクに侮辱を加えて馬を捕らえ、意気揚々と宮廷に戻った。ナリクはチョラを捜し求めて、ことの次第を委細切々と詩文に託して説明に及んだ。
チョラはまたしても馬を駆ってハーンの軍勢と干戈(かんか)を交え、再び勝利を収めて愛馬を奪い返した。しかし、もはや故郷に留まれぬと悟ったチョラは、一路新天地のカザンを目指して駒を走らせた。

途中、空高くまいあがるアックという鳥を見つけて、矢で射落とした。その鳥はカザンの大地に落ちて体を横たえた。カザンの住人たちは、腕に覚えのあるバトゥルを含めて、アックに突き刺さっている矢を見つけると驚きを隠さなかった。というのも、並みの技をもってしては、空を自由に飛翔するこの鳥を射ることはおぼつかなかったからだ。しかも、その矢を改めてみると覚えのないものだった。カザンの住人が用いる弓では到底使いこなせないほど長い矢であった。剛勇無双を自負してきたカザンのバトゥルたちはいたく自尊心を傷つけられた。
よくよく調べてみると、くだんの矢はちょうどカザンに着いたばかりのチョラ・バトゥルの持ち物だと知れた。すぐさまチョラに弓矢の技を競い合うべく、挑戦状が敲(たた)き付けられた。チョラ・バトゥルは弓矢を借り受けたが、その剛力をもちこたえられる弓はなかった。弦をひくたびごとに、弓はこわれた。そこで、チョラは愛馬にくくりつけてある愛用の弓を求めた。ひとりのバトゥルが出かけて弓を持参しようとしたが、重すぎて運べなかった。ふたり目のバトゥルが助け舟を出してようやく弓を持ってくることができた。こうして、弩弓を手にしたチョラは労せずして勝利をわがものにした。
面目を失ったカザンのバトゥル一同は、チョラを陥れようとして謀りごとをめぐらした。その度ごとにチョラは智略を縦横に発揮して危機をくぐりぬけた。

ある日、カザンのシャー・アリー・ハーン(シャー・ガリ)の息女サル・ハヌム(サル・カニ)は、32人のバトゥルにそれぞれ褒美を下賜した。ある者には名馬、別の者には刺繍のついた衣服、そして刀剣。他ならぬチョラはまだ中身のない金入れを賜った。この思いがけない仕打ちに困惑したチョラは、下賜品を堆肥の上に捨ててしまった。

そうこうするうちに、ロシアの兵力がカザンを襲っているという報がチョラのもとに届いた。32人のバトゥルたちがモスクワ人たちを押し戻さんと7日7晩も奮戦にあい努めたが、その甲斐もなくカザンの運命は風前のともしびであった。ハーンは側近たちに下問した。
「どうしてモスクワ人どもを撃退できぬのか。チョラ・バトゥルはいずこに在るのか」
君命をおびたカザンの長老たちがチョラをたずねて、弓矢をとりてロシア人とたたかうように愁訴した。チョラは答えなかった。不首尾を知ったハーンは自ら、鹵簿(ろぼ)を進めて、チョラの出陣を求めた。それでもチョラは動かなかった。こうしてようやく、サル・ハヌムが出駕する。王女はえりぬきの侍女たちを側に控えさせながら、涙ながらにチョラ・バトゥルに事態の急を告げて、出廬(しゅつろ)を懇請した。ようやくに応えたチョラは、それでも皮肉まじりに次のように糺すのを忘れなかった。
「王女さまは32人のバトゥルたちには貴重な賜り物をくだしおかれたのに、それがしには空の金入れを下賜されました。32人のバトゥルはたがわずにモスクワ人どもを追い返すことでしょう。どうして、それがし如きがこの部屋を立ち去る必要がありましょうか」
王女はたずねる。
「金入れはいまどこにあるの?」
チョラは答えて、いう。
「堆肥の上でございます」

サル・ハヌムと美人ぞろいの侍女たちは、息せききって堆肥のもとにかけより、そのなかに入り込むようにして目当ての品をさがした。侍女たちは、ようやくにして金入れを捜し出して、主人に献じた。サル・ハヌムはそれを開いて、八度も抱擁した剣を中にそっとしまった。チョラは狂喜した。この名刀『ギョク・チュブク』を振りかざして、チョラはカザンを包囲するロシア人たちのなかに突進していった。チョラはロシア人たちを撃退して、カザンの囲みを解くことに成功した。
チョラの勇武の前に一敗地にまみれたロシアの将官は、二度と師(いくさ)をおこさないこと、剣を佩びないことを誓約した。チョラは勝利の勲功によって、めでたくカザン汗国のハーンの「バシュ・バトゥル」つまり大将軍の位に陞(のぼ)つたのである。

敗北にうちひしがれたロシア人たちは、カザン再攻略を懲りずに企てていた。なかんずくチョラの力を削ぐにはどうしたものかと占星術師に相談をもちかけた。
占星術師は不気味な預言をした。やがてひとりのロシア人の少女がチョラ・バトゥルの子をみごもり、その男の子は長じるに及んで、実の父を殺すのだ、と。
ロシア人たちは、見目麗しい少女に秘命を授けてカザンにおくった。彼女は、チョラを見つけて同衾し、子を宿せばすぐロシアの地に戻るように命じられた。はたして、チョラはこの美女の擒(とりこ)になり、生活を共にするようになった。ややあって懐妊したロシア娘は故郷に戻った。

時が過ぎる……。
チョラがロシア娘に生ませた男子は、すくすくと成長した。
かれはまもなく、カザンに向かうロシアの軍勢の先鋒として指揮をとる。
カザン攻防をめぐる最後のたたかいのなかで、チョラ・バトゥルは実の子の手にかかって非業の最期をとげることになる。...
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by satotak | 2006-12-31 11:01 | タタール
2006年 12月 31日

北カフカスの人びと

植田 樹著「チェチェン大戦争の真実」(日新報道 2004)より:

…北カフカス地方は西側では黒海に注ぎこむクバン川流域の平地が広がり、東側ではカスピ海に注ぎこむテレク川流域の平地が広がる。南北の往来は、古くから山脈の両端の黒海とカスピ海沿いのそれぞれの狭い沿岸ルートに限られていた。それ以外は、地元の山岳民族だけが分け入ることのできた標高数千㍍の峠を越える渓谷沿いの険しい山道しかなかった。
…そこに住む多様な民族は古くからメソポタミア、スキタイ、サルマト、アラン、古代ローマ、アラブ、ペルシャ、トルコ、モンゴル、ロシア人など様々な周辺の大民族の侵略と戦いながら民族の独自性を保ってきた。カフカスの歴史は異民族との戦いの連続だっただけに、どの民族も極めて誇り高い。

この地域には古くから50以上の中小の民族が住んでいる。このうち、ロシア人との戦いで中心的役割をになう北カフカスのチェチェン人とイングーシ人は、インド・ヨーロッパ語族から分かれた北カフカス語系のナフ語を話す。今から6千年前にほぼ現在の土地に定住するようになった。チェチェン人とイングーシ人は古くは一体の民族だったが、中世になって地域別に分れただけの兄弟民族である。
また、その東側のカスピ海沿岸部のダゲスタン共和国に住むダゲスタン人はさらに小さなアヴァール、ダルギン、レズギン人など凡そ30の小民族に分かれている。

チェチェン人の生活と心
チェチェン人自身は自分達の民族名を「ノフチー(Nokhchee)」あるいは兄弟民族イングーシ人を含めて「ヴァイナフ(Vainaikh)」と呼んでいる。古代のチェチェン人はカフカス山脈の北麓だけでなく、ずっと北方の草原地帯に住んでいた。チェチェンの平地部では8世紀から12世紀ごろ、様々な民族からなるアラン王国が形成された。山岳部とダゲスタンでは国家の前形態のサリルという集団が形成された。
この二つの集団は統一の生活圏をなしていたが、モンゴル・タタール軍の侵入(1222、38、40年)で崩壊し、テレク川流域のチェチェンの平地はモンゴル・タタール人のキプチャク汗国に組み込まれた。14世紀には、その支流のガユル汗が作ったシムシム汗国に組み込まれた。16-17世紀に入ると、チェチェンを含むカフカス地方全体がトルコ、ペルシャ、ロシアなどの周辺大国が覇権を争う舞台になった。
それでも山岳の奥深くまでは異民族の征服者は侵入しなかったので、山岳部の住民は伝統的な自由で比較的平等な社会の伝統を長く維持することができた。平地では穀物などの農耕が主で、山麓では牧畜が営まれてきた。

氏族の結びつき
平地の集落は川や道にそって数千戸からなる場合もあったが、山岳部の集落は数十戸からなるものも多かった。山岳部では、石造りの家とともに生活と防衛のための高い石積みの塔も築かれた。
彼らは、同じ祖先から出た血縁と信じる「テイプ(Taip)」と呼ばれる氏族ごとに強い結びつきを今も維持している。チェチェンには125以上のテイプがあるが、これらのテイプは9つの部族「トゥクム(Tukm)」に統合されている。これは「太古、ノフチー(チェチェン人)は9人の兄弟から始まった」という伝説に基づいている。これに基づいて、独立派のチェチェン=イチケリヤの国旗には9つの星が描かれた。

チェチェン人は氏族と部族関係を今日に至るまで継承し、戦争や宗教、政治で、一致団結するだけでなく、住宅建設、道路補修、農作業などでも互いに助け合ってきた。
チェチェンでは東方のダゲスタンなどとは異なり、古来、国家組織がなく、支配階級としての封建領主や貴族もいない、かなり平等な自由な農民の集まりだった。集落の共有地での放牧や農耕、木々の伐採、周辺の他部族への出撃、仲間内の争いの仲裁など集落内の公けの決め事は、各戸の家父長が出席する集会で決められてきた。それだけに家族の中では家父長の権威は強く、長幼の序列は固く守られねばならない。

血の復讐
氏族社会の中では一族の名誉が何よりも重んじられる。家族の一員が殺されたり辱められたりしたら、家族全員に対する挑戦と見なされ、これに復讐しなければ家族やテイプ(氏族)全体の恥辱とされた。血の復讐の風習は、今日のチェチェン戦争の中でも生きている。つまり、チェチェン人の男達の多くは独立の大義や信仰によるだけでなく、身内の誰かがロシア人兵士に殺されたためにロシア軍を相手に戦うのだと言われるほどだ。戦死者が出れば必ず、復讐を誓う新たな戦士の志願者が名乗りをあげる。こうして血の復讐の伝統はチェチェン戦争を一層、終りない泥沼の闘いにしている。

高い女性の地位
女性は男性よりも社会的には低い序列に置かれていたが、それでも男性は女性に最大限の敬意と礼儀をもって接することが義務とされていた。西欧とは違い「レディ・ファースト」ではなく、男性は常に女性の前を歩かねばならない。これは、厳しい環境の中で真っ先に敵や困難に男性が立ち向かうためにそうすべきなのだと説明されている。
特に、母親としての女性の地位や権威は高かった。他のイスラム社会と違って、チェチェン人の女性は既婚者でも未婚の娘でも男性の前で顔を隠さなかった。…

民俗宗教
チェチェン人は太古には山や岩、森、木などを信仰する自然崇拝や呪術を信仰した。イスラム教は7世紀に侵入したアラブ人によって初めてカフカスの地にもたらされたが、定着はしなかった。8世紀には、グルジアを経由してキリスト教が一部に伝えられた。チェチェン人の信仰は、古来の土俗の宗教にこれら外来の世界宗教が入り混じった独特のものになった、13世紀頃からイスラム教がモンゴル・タタール人によって再び伝わり、18世紀までに広く浸透するようになった。しかし、その後も自然崇拝や呪術などの土俗宗教は消滅せず、その後のイスラム教スーフィズムと融合して独自の信仰として痕跡を残すことになる。

奴隷制
カフカスの古代国家の多くは奴隷を軍事力や農耕に用いた。古来、戦いで勝った側は相手の戦士だけでなく非戦闘員の婦女子を戦利品として連行するのが慣行だった。捕虜や人質獲得を主たる目的にした戦争も少なくなかった。奴隷の獲得や使役は、周辺地域でも古代から中世にかけて慣行となっていた。しかし、他の地域では時代とともに自然に廃れたが、カフカスでは彼らの好戦性とともにいつまでも残った。
戦争捕虜や人質の婦女子はその家族から身代金が支払われた場合には解放されたが、身代金が支払われなければ、奴隷として使役されたり、仲間内や奴隷市場で売られたりした。域外での奴隷の買い手は主としてトルコ人だった。6歳から12歳の男子の需要が特に多かったのは、買い主が徴兵義務を免れるために自分の身代わりに奴隷を兵隊に仕立てるために買い入れるからだといわれた。若い美しい娘は金持ちのハーレムに送り込まれた。

ダゲスタン
チェチェンの東隣のダゲスタンも、ロシア人との戦いの主要な舞台となってきた。カスピ海西岸に面し、北でロシア、南でグルジア、アゼルバイジャンと接し、西側ではチェチェンに接している。カフカス山脈を迂回して海岸沿いにロシアからグルジア、アゼルバイジャンに通じるルートとして昔も今も戦略的に重要な地になっている。

3世紀にダゲスタンは南部のデルベントまでがササン朝ペルシャに征服され、4世紀に北部はフン族に占領された。7世紀にアラブ人が侵入し、住民に重い税を課し、イスラム教を広めたが、10世紀にはアラブ人の支配者は追放された。この頃から、ダゲスタンは北方のルーシ(ロシア人などの東スラヴ人)と関わりを持つようになった。11世紀半ばには、トルコがアゼルバイジャンとダゲスタンの大部分を征服した。
12世紀末頃からダゲスタンにアヴァール藩王国、カジクムフ・シャムハル藩王国、カイタグ(ウツミ)公国などの封建国家や地方領主が地域ごとに支配権を握るようになったが、彼らは互いに争い、統一国家は生まれなかった。

生活や文化は隣のチェチェン人と多くの点で共通しているが、藩王や地方領主が農民を支配する封建社会だった点が自由で平等なチェチェン人社会とは違っていた。しかし、周辺の山岳部では凡そ40の“自由民の集落”が隣のチェチェン人と同じような自由で平等な暮しを続けてきた。

チェルケス(アドゥイゲ)人とアブハズ人
カフカス北西部=黒海北東沿岸に住むチェルケス人はアドゥイゲ人と自称する。チェルケス(アドゥイゲ)人は個別の民族名として用いられる他に、カバルダ人など近種の北西カフカス民族を総称する民族グループ名として用いられることもある。
チェルケス人は現在、ロシア領アドゥイゲ共和国、カバルヂノ・バルカル共和国、カラチャエヴォ・チェルケス共和国に住んでいる。古代アドゥイゲ人の民族集団は、紀元前10世紀頃から1世紀頃にかけて黒海東岸に形成された。

黒海東岸のアブハズ人はチェルケス人と土地をめぐって争ったが、ロシア人による侵略に対抗するために同盟した。チェルケス人はクバン川南部でさらに地域ごとにナトゥハイ人、シャプスグ人、アバゼフ人、ウブイフ人などと18の小さな部族に細分化されて呼ばれることもある。それぞれの部族は集落の長老によって支配され自立していた。

黒海沿岸のチェルケス人は6世紀、ビザンチン帝国の支配下に入り、この時以来、東方キリスト教を受け入れた。また、アブハズ人は黒海のクリミア半島などに進出して交易を行なっていたイタリアのジェノアの商人達の影響を受け、カトリックのキリスト教を受け入れた。中部では土俗宗教とイスラム、南部ではグルジアの影響でギリシャ正教を信仰していた。彼らは同時にあらゆる山や川、森などをそれぞれの守護神として信仰し、様々な迷信、魔術を信じていた。

イタリアのヴェネツィヤ(ヴェニス)人やジェノア人の商人達が、1175年頃から黒海東岸やクリミア半島を訪れて交易するようになった。…彼らは北カフカスの陸地を経由してカスピ海北岸に達し、中央アジアや中国、ペルシャとも交易した。…沿岸部では彼らが広めたキリスト教が13世紀ごろまで残った。1475年にトルコが黒海北岸のクリミア汗国を征服して属国にしたことにより、ジェノア人の活動は終わり、一帯に…イスラム教が広まった。

チェルケス人は武勇を誇った。彼らはエジプトに渡って歴代王の傭兵や親衛隊として仕えながらエジプトの国政を左右し、チェルケス人(奴隷)王朝を築いた。
チェルケスはトルコとクリミアからの脅威を和らげるために1481年、トルコに使節を派遣して進んで保護国になることを申し出た。しかし、その後もクリミアによる襲撃はやまなかったので、チェルケス人の中のキリスト教徒達は北のキリスト教徒のロシアに頼ろうとするようになった。
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by satotak | 2006-12-31 10:04 | カフカス
2006年 12月 31日

グルジアとロシア

植田 樹著「チェチェン大戦争の真実」(日新報道 2004)より:

ロシア、カフカス南部へ進出
ロシア人はキエフ・ルーシ時代の988年頃、キリスト教を受け入れたが、南のグルジア人とアルメニア人はそれより600年以上も前の4世紀にキリスト教を国教として受容していた。いずれのキリスト教も、ビザンチンの東方キリスト教を源流として民族ごとの正教に分かれた。東スラヴ人の古代国家キエフ・ルーシから覇権を奪ったウラジーミル・スーズダリ大公国のアンドレイ大公は息子ゲオルギーをグルジアに送った。ゲオルギーは1185年、そこでグルジアの伝説的な女王タマーラと結婚した。

16世紀から18世紀にかけてカフカス南部の支配をめぐり、イスラム救国のペルシャとトルコが覇権を争った。17世紀初頭にはペルシャがグルジア中央部と東部を侵略し、10万人を殺して20万人を捕虜や奴隷として連れ去った。トルコもグルジア西部を征服し、多くの住民を奴隷として連れ去った。グルジア人はイスラム教徒の圧迫から逃れるため、北方のキリスト教徒であるロシア人の庇護を求めた。

グルジアの南に位置するアルメニアも、16世紀からヒ18世紀にかけてトルコとペルシャの争奪の舞台になった。1639年、トルコとペルシャは頭越しに収り決めて、アルメニアの.西部はトルコに、東部はペルシャに分割した。
19世紀にはアルメニア全域がロシアに併合された。

7世紀半ば、現在のアゼルバイジャンの地にアラブ人が侵入し、イスラム教を広めた。さらにモンゴル・タタール軍の侵略後はトルコとペルシャが覇権を争った。
ピョートル大帝の治世の1723年、ロシア.軍が初めてバクーに上陸し、カスピ海沿岸部を支配した。…
1826-28年の再度の対ペルシャ戦争後、南部のナヒチとオルドゥバド藩王国もペルシャからロシアに割譲された。

ロシアは新たに獲得したカフカス山脈南部の土地と住民を統治するため、チフリス(現在のグルジアの首都トビリシ)にカフカス総督府を設けた。この総督府は1844-82年まで存続した。総督はカフカスに駐留するロシア軍の総司令官を兼務して皇帝の名代として軍事、行政全般にわたり無制限の絶大な権力を振るった。1845年には、カフカスにロシア本土並みの行政制度が導入された。

こうしてカフカス山脈以南のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン三国の領土は、19世紀前半までにトルコやペルシャからロシアの支配下に組み替えられた。しかし、ロシア本土と併合された領土の中間に位置するカフカス山脈北麓(北カフカス)にはロシアの支配は依然として及んでいなかった。…

グルジアの併合
18世紀後半、グルジアのイラクリ二世は東部諸公をまとめ、カルトリ・カヘチ統一王国を作った。グルジアはペルシャやトルコのイスラム教徒から度々侵略され、以前から何度も北のキリスト教国ロシアに保護や軍事支援を求めていた。しかし、ロシアはグルジアを助けることによってイスラム諸国との戦争に巻き込まれるのを避けようとして長い間、手を差し伸べることをためらっていた。

エカテリーナ二世の治下の1783年、ロシアとカルトリ・カヘチ王国はゲオルギエフスク条約に調印し、グルジア東部がロシアの保護国に入った。グルジアはそれに伴ってペルシャとトルコヘの従属関係を絶ちきった。
ロシアはグルジアを保護国とした後、グルジア防衛の決意を示す象徴として首都チフリス(トビリシ)に2個の歩兵大隊を駐留させた。
1787年、第二次露土戦争が始まると、ロシアはわずかな兵力ではグルジアを防衛しきれないと判断し、チフリスから駐留部隊を引き揚げ、保護の約束を事実上、撤回した。グルジア国王イラクリ二世はその後もロシアに、駐留部隊の復帰を要請したが、援軍は得られなかった。1795年9月、ペルシャは制裁のためグルジアに侵入した。首都チフリスを占領して家々を略奪し、町を破壊し尽くした。グルジアはペルシャの制裁によって荒廃し、その後、何年も立ち直ることができなかった。ロシアはこれに報復するため、翌年、3万5千の軍をカスピ海沿岸に派遣しペルシャの属領になっていたデルベント、クバ、ガンヂャ(エリザヴェトポリ)を征服した。

パーヴェル帝(1796-1801年)の治下、ロシアとグルジアの関係は新たな段階に向けて動き出した。グルジアのイラクリ二世の死後、王位を継承した新国王ゲオルギ十二世は重い病気にかかっていた。彼は1799年9月、ペテルブルグに派遣していた使節に自分の死後のグルジアの運命を遺言として次のように指.示していた。
「グルジア王国とその統治をキリスト教の真理に従いロシア帝国の皇帝の庇護下に置け。王国をロシア皇帝の完全なる権力と監督に委ね、グルジア王国がロシア帝国内においてロシア諸州と同じ処遇を受けられることをめざせ。…グルジア王室の一族の運命については、わが一族からグルジア王の権威を奪うことなく、先祖の時代と同様、その権威が一族の子孫に代々継承されることをパーヴェル帝が文書によって約束されるよう.願い出よ」

グルジアがロシア帝国の一部に組み込んでもらいたいと希望したのは、以前の保護条約ではグルジアは外国として扱われ、危急の際に外敵の侵略から国を守ってもらえなかったからだった。
弱小国のグルジアが自力ではペルシャやトルコから国土と国民を守りきれないことは、骨身にしみていた。独立と主権を犠牲にしてでも、国土と国民の安泰をめざそうとする国王の悲壮な決意だった。キリストの真理という言葉を用いているのは、イスラム教徒の支配に屈するよりも信仰の兄弟であるロシア正教徒の支配に入る方がまだましだという、せめてもの思いがあったからである。
パーヴェル帝は1800年10月18日、ゲオルギ国王.の要請を受け入れ、次のような詔勅を出した。
「私はグルジア王国をわがロシア帝国に永久に併合するにあたって、グルジア王国とその従属諸州の新たな臣民が私の庇護下でロシア古来の臣民と同様の権利と自由、利益、特典を享受することになることを約束する」

パーヴェル帝は、病気で死に瀕しているゲオルギ国王の後継者にダヴィド王子がつくことに同意を与えた。ロシア政府としてはグルジアをロシアに併合した後もグルジア王国という国名を残し国王も名目的に存続させるが、ロシア帝国の他の諸州と同様に扱い、国王を実質的には総督として扱うという暗黙の了解ができあがっていた。

やがて、グルジアのゲオルギ王が死んだ。一方のロシアでもパーヴェル帝が宮廷クーデターで殺され、その子アレクサンドル一世が即位した。…

王族のモスクワ移送

グルジアが併合されると、故ゲオルギ国王に対する王政維持の約束は反古にされ、王政は廃止された。
翌1802年、ロシアに帰化したグルジア人の子孫であるパーヴェル・ドミトリエヴィッチ・ツィツィアノフ公爵が、グルジアの行政長官とグルジアに駐留するカフカス軍総司令官を兼ねる総督に任命された。
ロシア政府はグルジアの王族達がグルジア民族主義の旗印に担ぎ出されることを警戒し、王族全員をグルジアから引き離してロシアに移す方針を打ち出した。王族の多くは生まれ育った土地や民族から引き離されるのを嫌がり、中には頑として抵抗する者もいた。故ゲオルギ国王の二番目の后マリアもその一人だった。

マリア王妃は当時、30歳を少し過ぎ、病弱だった。彼女は病気を理由に移住を拒み続けていた。グルジア駐留ロシア軍のラザレフ将軍は、狙撃兵の大隊で王妃のたてこもる宮殿を包囲した上で、彼女に決断を促すために宮殿に赴いた。王妃は王女や女官達に囲まれ、毛布に包まってソファーに座っていた。彼女はラザレフに「私は病気でこんなに高い熱があるのに、お前はそれでも私を引き立てようとするのか」と言って、自分の体温をわからせるように毛布の中から左手を将軍に差し出した。将軍がその手を取ろうとして近づいた瞬間、王妃は毛布を跳ね上げ、隠し持っていた短剣で将軍を刺した。
傍にいた王女が、長剣を振り下ろして将軍に止めを刺そうとした。しかし、将軍が最初の一撃でよろめいたため、王女の長剣は脇にいた自分の母親である王妃の肩を深く切り裂いた。王妃も血に染まって絶命した。将軍もその場で死んだ。生き残った王女の一人は、馬車に乗せられて護送の途中でも隠し持った護身用の小さな懐刀で護送の兵士に切りかかろうとした。カフカスではどの民族も気性が激しく戦闘的だった。それは男も女も同じだった。

王政の廃止と王国の名の消滅はグルジア人にとっては予想外のことだった。王族達の国外移送はさらに怒りに拍車をかけた。ロシア人の支配に敵対する急先鋒に立ったのは、故ゲオルギ国王の弟アレクサンドレ王子だった。彼は兄ゲオルギ国王の存命中に王位争いによって兄王と対立し、ダゲスタン山中に逃れていた。彼はその後、ペルシャと同盟し、ロシア軍に抵抗を続ける。
グルジアのカルトリ・カヘチ王国は1801年、併合によって消滅し、残りのグルジア西部のメグレル、グリ公国、イメレチア王国もロシアに併合された。グルジア王に服属していたアゼルバイジャンのチャンヂャ藩国も1804年、武力でロシアに併合された。
ロシアによるグルジア併合とその後に進駐したロシア人の統治のやり方は、グルジア人の反発を買っただけではなかった。周辺の山岳民達も、遠くから事の一部始終を注意深く見守っていた。誰もが、あすは我が身に振りかかる運命だということを理解していた。ロシアとカフカス民族の間の対決は、さらに抜き差しならないものになっていく。
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by satotak | 2006-12-31 10:03 | カフカス