テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 12月 ( 1 )   > この月の画像一覧


2007年 12月 10日

最後の遊牧帝国 ジューンガル

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ジューンガルの時代
ジューンガル部族は、17世紀末に突然歴史の表舞台に登場し、中央アジアに一大遊牧帝国を築いた(注1)。しかし18世紀中葉には、古くからの遊牧帝国と同様、相続争いによる内部崩壊を起こし、この機を利用した清朝に討伐されて滅んだ。ジューンガルの人びとは、清軍のもたらした天然痘の大流行と虐殺によって、ほとんど絶えたといわれる。しかし、ジューンガル部族と同盟関係にあって、これとともにオイラトと総称されたドルベト部族やトルグート部族やホシュート部族の人びとは、いまもモンゴル国西部、中国の新疆ウイグル自治区北部、ロシアなどに分かれて暮らしている。

かれらの活躍した地域は、いまのモンゴル国から、ロシア連邦のシベリア地方、ブリヤート共和国、トゥワ共和国、ゴルノ・アルタイ共和国、カルムィク共和国、CIS中央アジア諸国のカザフスタン共和国、キルギズスタン共和国、ウズベキスタン共和国、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、青海省、チベット自治区、内モンゴル自治区にまたがっている。その時代は、これらの地域がまだ、清朝にもロシアにも支配されていなかった時代で、しかし、すでに清朝とロシアの影響が及び始めていた頃である。
いまのモンゴル国民の中心であるハルハ部の人びとは、17世紀末にジューンガル部族長ガルダン・ハーンの侵攻を受けて、同族のモンゴル人のいる南に逃げ、その結果として清朝の支配下に入った。

これより前の17世紀中ごろ、ジューンガルと同じオイラト民族で、ジューンガルとライバル関係にあったホシュート部族が、故郷の中央アジアから青海チベットに侵攻し、この地を制覇してそのまま住みついていた。18世紀初めになって、ジューンガル軍は、ホシュート部族の支配下にあったチベットのラサに侵攻した。ホシュート部族長に助けを求められた清朝は、軍隊をチベットに派遣し、この結果、チベットが清朝の保護下に置かれることになった。
また、いまの中国新疆ウイグル自治区も、17世紀後半にジューンガルの支配下に入り、1755年にジューンガルが滅びた後、清朝がその支配を引き継いだのである。

カザフスタンの人びとは、18世紀にジューンガルの圧迫を受け、これから逃れるためにロシアの臣民になった。ブリヤートの人びとは、もともとオイラト部族連合つまりオイラト民族の一部であり、トゥワやゴルノ・アルタイの人びとも、一度はジューンガルの支配下にあった人びとである。キルギズスタンの人びとが、シベリアの故郷からいまの地に移り住んだのも、ジューンガルの時代であった。ジューンガルは、最盛期には、ウズベキスタンのオアシス諸都市のほとんどすべてを支配した。いま中央ユーラシア草原の最西端に住むモンゴル系の、ヴォルガ西岸のカルムィク共和国の人びとも、ジューンガルと同じオイラト民族である。(ソ連の建国者レーニンには、実はこのカルムィク人の血が流れていた。)

これらの地域が、現在中国とロシアの支配下にある遠因を創ったのが、ジューンガルであったと言っても過言ではない。…

[拡大図]

オイラト遊牧部族連合
17、18世紀に中央ユーラシア草原を席巻した最後の遊牧帝国ジューンガルの実体は、ジューンガル部長を盟主とするオイラト遊牧部族連合であった。古くは 匈奴以来、鮮卑や柔然や突厥やウイグルやモンゴルなど、北アジアや中央アジアで消長を繰り返したいわゆる遊牧帝国も、ジューンガルと同じような遊牧部族連合だったに違いない。広い草原に家畜を放牧するため、人口が少なく分散して生活する遊牧民を構成員とする国家は、このような仕組みを取る以外に存立し得なかったのである。

…遊牧国家の指導者は、一族の成員である遊牧民を養うことを要求された。遊牧君主は、略奪戦争の指揮がうまく、遠隔地交易など手段は問わないが、一族に分配できる富をつねに蓄える必要があった。遊牧君主は、一般に考えられているほど野蛮残虐な専制君主ではなかったのである。だから、ジューンガルの君主のように、豊かな中央アジアのオアシス都市から毎年定まった貢納を徴収できるとか、トメト・モンゴルのアルタン・ハーンやヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーンのように、明やロシアから毎年贈物や報酬を得、交易を独占できた君主は、他の遊牧領主とは比較にならないほどの強大な権力を持った。遊牧帝国すなわち遊牧部族連合は、有能な盟主でなければ維持できない運命だったのである。

17世紀のオイラト部族連合の盟主は、1671年にガルダンがジューンガル部長になるまでは、ドルベト部長やホシュート部長だった。ガルダンのあとのジューンガル部長はハーン号を持っていないので、ジューンガル・ハーン国と呼べるような国家は存在しなかった。しかし、ジューンガルを盟主とするオイラト部族連合の勢力は、かれらの周りのさまざまな民族を震撼させ、その君主は、清朝やロシアなど超大国の君主とも対等な政治力を持ったから、国際関係上、ジューンガルを十分に帝国とよべると思う。ゆるやかな部族連合という仕組みであったおかげで、かえってチベットからヴォルガ河畔にいたるような広大な地域を、同族で支配することができたともいえる。

ジューンガルの崩壊の原因も、また古来の遊牧帝国と全く同じだった。たとえ前君主の嫡男でも、能力のない君主にはだれも従わない。兄弟間の相続争いが、遊牧民の宿命である。オイラト部族連合のもう一つの弱点は、どの部族長もチンギス・ハーンの男系子孫でない点であった。部族長同士のライバル関係が、その政治に最後までひびいたのは、見たとおりである。しかし、かれらのなかにもしチンギス・ハーンの男系子孫がいたとしても、チャガタイ家の末路やモンゴル民族の歴史を見てわかるように、結果は同じだったともいえる。チンギス統原理は、遊牧民社会にも、かれらなりの論理があるという説明には有効だが、同時に、遊牧社会は血筋だけでは生き延びることができない世界だったからである。

1755年にジューンガルが滅亡したあと、中央ユーラシア草原に、かつてのような遊牧帝国は二度と誕生しなかった。それは、清朝とロシアという二大国家が領土の観念をこの地域に持ち込み、遊牧民の自由な移動を制限したことと、すでに騎馬の軍事力よりも火器の力が上回るようになっていたこと、さらに…コストの安い海洋貿易に圧されて、遊牧君主の経済の基盤であった内陸貿易が衰退したこと、人口が増加した農耕地帯から農民が草原に進出してきたことなどの理由による。

この直前17世紀後半は、世界史上の大転換期であった。この頃にわれわれ人類の生活様式は大きな変化を遂げ、これ以前のことが想像できなくなっていったと思われる。ジューンガル帝国は、古い英雄時代の最後の華であったといえる。そのジューンガル帝国を創ったガルダンは、遊牧民に生まれてチベット仏教の修業をした、文武兼ね備えた新しいタイプの英雄だった。そして、かれと同時代に生きた、清の康煕帝、チベットのダライラマ五世、ハルハのジェブツンダンバ・ホトクト一世、ヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーン、ロシアのピョートル大帝もまた、自分の育った世界に新しい文化を持ち込んだ英雄だった。

(注1) 部族か、民族か、国家か、帝国か
これから遊牧王権の歴史を叙述していくのに際して、まず、部族や民族や国家や帝国ということばを、ここで私なりに定義をしておぎたいと思う。
中国史料では、たとえば唐代のカルルクのある集団について、族とも部とも姓とも記す。また、漢文では、部族も部落も意味に大差はない。
遊牧集団を表す各時代のさまざまな名称の、どちらが総称で、どちらが下位の集団かなど、これまで東洋史学界ではよく問題にされてきた。しかし、遊牧集団は固定したものではなくつねに変化するので、実体が明らかでないのは当然のことである。私はつぎのように考えている。

一人の族長に率いられた、ある名称を持つ遊牧集団は、次の代には族長の子供たちによって分割相続され、あるいはかれらの妻が婚資として持参した他集団と結合するので、集団の構成員は各代ごとに変化する。そのため、名称は残っても規模や内容は変わる。前代の部族名が、新しい集団内で他集団と区別するために姓や氏族名として扱われたり、新しい集団名が生まれたりするのがつねである。
しかし同時に、遊牧民にとって父系の系譜は非常に重要で、誰が誰の後裔であるかについては、必ず伝承がある。そこで、規模や構成員は変化しても、遊牧集団の間になんらかの系統関係が存在する場合には、後身(こうしん)という表現を使うことにする。

氏族は、同じ祖先を持つ人びとの集団と考えられるわけだが、構成員すべてが血縁関係にあるかどうかは、史料がないために保証の限りではない。本書では、部族の下位集団という意味で使う。種族は、中国史料に登場した用語をそのまま引用しただけで、人種の意味は含まない。
特定の首長に率いられて、他の遊牧集団とはっきり区別できる集団を、本書では部族とする。規模や内部事情は考慮しない。

本書で使用する民族は、遊牧部族の連合である。20世紀の現代に生きる日本人のわれわれが考える民族の概念とは異なる。日本人がよく使う民族ということばは、われわれ日本民族を反映して、ふつう英語のネイションnationとレイスraceの両方あわせた意味に用いられる。しかし、ネイションは国民または国家であり、レイスは人種である。われわれが考える民族の意味にぴったりする外国語は、実は存在しない。本書では、モンゴル民族やオイラト民族ということばを使うが、これには人種の意味はなく、どちらかというと、英語のネイションに近い。ただし、本書で使用する民族ということばに、領土の観念を持つ20世紀的な国家を当てはめて想像しないように、注意が必要である。

最後の帝国の定義であるが、エンパイアempireはもともと最高の統治権または統治のことである。
部族連合からなる遊牧民族と、かれらが征服した定住農耕地帯の諸民族で構成された多民族国家を、ここでは遊牧帝国とよぶことにする。遊牧民には、最初から領土支配の観念はない。したがって、遊牧国家も遊牧帝国も、支配したのは領民、国民であって、20世紀のわれわれが考えるような領域国家ではなかった。
[PR]

by satotak | 2007-12-10 13:12 | モンゴル