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2008年 08月 29日

中国新疆ウイグル自治区の行政区分 -民族区域自治のカタチ-


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■ 新疆ウイグル自治区
 □ アルタイ地区
 □ カラマイ市
 □ ボルタラ・モンゴル自治州
 □ 昌吉回族自治州
 □ イリ・カザフ自治州(直轄区域)
 □ ハミ/クムル地区
 □ バインゴリン・モンゴル自治州
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by satotak | 2008-08-29 22:06 | 東トルキスタン
2008年 08月 02日

オイラト民族 -新モンゴル民族に対峙する部族連合体-

護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版社 1990)より(筆者:宮脇淳子):

モンゴルとオイラトの抗争
…この時代の前半はオイラトの勢力が元朝の後裔であるモンゴルにまさった。オイラトトゴンは1430年代に実権を握り、モンゴル人をも支配下にいれて北アジアの事実上の独裁者になった。トゴンの後をついだその子エセン太師(たいし)は、1452年にモンゴルのハーン、トクトア・ブハを殺し、翌年自ら大元天聖大ハーンの位に登った。この時代オイラトは東方では中国東北地方の女真人を服従させ、西方では東チャガタイ・ハーン国を制圧し、西トルキスタンにまで出兵した。また明の北境にも進攻し、1449年には明軍を土木堡で破って皇帝を捕虜にした。

このようにめざましい活躍をしたエセンであったがその治世は短く、即位の翌年1454年に部下の反乱で殺された。オイラト帝国はたちまち崩壊したが、この時期はモンゴル史のうえでは一大変革期であった。エセンはモンゴルのハーンを殺したあと元朝の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母とする者のみが助命されたという。真偽のほどは明らかではないが、エセンの時代にモンゴル社会は大混乱におちいり、文書や系譜の類も多く失われたことはまちがいない。なぜなら、モンゴル年代記にはこれ以前の時代について記すことが非常に少なく、現存の系譜はどの部族でもすべてエセンの同時代人が実際上の始祖になっているからである。

エセン・ハーンが殺された後、オイラトはモンゴルに対する影響力を失って、本拠地である漠北のモンゴル高原中部から西北方に後退した。混乱のなかにあったモンゴル各部を統一したのは、チンギス・ハーンの子孫で、かつエセン・ハーンの娘が生んだボルフ・ジノンの子バト・モンケ・ダヤン・ハーンであった。ダヤンというのは「大元」のモンゴル訛りで、これはつまり大元皇帝という意味の称号である。後世内外モンゴルにおいてチンギス・ハーンの後裔と称した人びとは、その全員がこのダヤン・ハーンの子孫である。ダヤン・ハーンが混乱の時代を生き延びた唯一人のチンギス・ハーンの子孫であったわけだが、彼が何家の出身なのかは明らかではない。それどころかその生没年にかんしても史料の異同が激しく.わが国において1960年代から東京と京都に別れてダヤン・ハーン論争がおこったくらいである。

それほど明らかでない人物であるが、ダヤン・ハーンこそ今日のモンゴル民族の中興の祖である。ダヤン・ハーンは15世紀末に即位し、その後38年にわたる治世中にモンゴル各部を再統一してこれを左右翼3万戸(トメン)ずつに再編成した。このときに編成されたモンゴル各部はそれぞれダヤン・ハーンの子孫を首長に戴き、相続による細分化やハーン位継承をめぐる同族争いはあったが、モンゴル民族としてのまとまりは17世紀清朝に服属するまで続いた。清朝治下においても、牧地の境界は厳しく設置されたが、ダヤン・ハーンの数多くの末裔はこれまでどおり支配階級としての地位を安堵され、清朝官僚としての特権を享受した。

ダヤン・ハーンの孫で右翼万戸の一つトメト部の長であったアルタンは、嫡流ではなかったが実力でハーン位を獲得し、明に侵攻する一方で旧敵のオイラトをおおいに攻撃した。これが16世紀中葉のことで、これ以後モンゴルは何度もオイラトを討ち、16世紀末にはモンゴル高原からオイラト各部を追いだしてしまった。現在のモンゴル人民共和国中央部に新たなモンゴル民族が住むようになったのは、この時代からである。…

オイラト民族
以上のモンゴル民族に対して、彼らから異族(ハリ)と呼ばれ、また各種のモンゴル年代記において「四十(ドチン)モンゴルと四(ドルベン)オイラト」と対比されるオイラト民族は、モンゴルとどこが違うのか、その起源は何かをつぎにみてみたい。

オイラトという名の部族が歴史に登場するのは、…13世紀初めのことである。ラシード『集史』によると、当時オイラトはイェニセイ川上流のケム川を構成する八河地方に住み、数部族に分かれていたという。オイラト王クトカ・ベキは1208年チンギス・ハーンに降り、そのナイマンとメルキト征討を助けたので所領を安堵されて、四千戸の将としてチンギス・ハーンに臣事した。オイラト王家はその後チンギス・ハーンの子孫のジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家すべてと婚姻関係を結んだ。これはその住地が、それぞれの領土の接点に位置するという戦略上の要衝だったからである。モンゴル帝国分裂の機縁となった1260-64年のフビライとアリク・ブガの抗争のさいに、オイラトはアリク・ブガの側に立ってフビライ軍と戦った。戦争の運命を決した1261年のシムルタイ湖の戦で、フビライ軍に粉砕されたアリク・ブガ軍は多数のオイラト兵から成っていたという。オイラトのその後の動向は明らかではなく、『元史』にわずかに残された記録では、ハイドの乱の最中にオイラト兵がやはり元軍と戦ったことが知られるだけである。彼らの住地は元の都から遙かに遠く、その威光はおよばなかったと想像されるのである。

元朝が滅びると、オイラトはモンゴル高原に退却したフビライ家のハーンを殺し、アリク・ブガ家のイェスデルをハーンに擁立した。しかし、モンゴル年代記によるとその後まもなくモンゴルとオイラトの対立が起こり、モンゴルのハーンはオイラトに暗殺されたという。このころの1403年の明の記録によると、オイラトには馬哈木(マハムード)、太平(タイピン)、把禿孛羅(バト・ボロト)の三人の首領がいた。その後マハムードの子トゴンがオイラトを統一する。つまり、元朝が滅びた後新たに登場したオイラトは、かつてのオイラト部族に他部族をくわえた連合体に変わっていたのである。

この新たなオイラト連合体を構成した諸集団にかんしては、彼ら自身の手になるオイラト年代記やその他の史料によっておおよその出自が解明できる。オイラトにおける年代記の成立は、…モンゴル年代記にくらべて一世紀近く新しくなるが、これはオイラト社会が異民族の圧迫を受け、その支配下で変貌をとげる時期がモンゴルにくらべて一世紀遅れたからに他ならない。オイラト民族の最後の独立政権ジューン・ガルが清朝に滅されたのは1757年のことで、オイラト諸部のなかで最も西方に住地をひろげたトルグート部を中心とするヴォルガ・カルムィクがロシア政府の統制下に組みこまれていったのも18世紀中葉であった。

カルムィクの語源はトルコ語のカルマックで、15世紀に彼らの侵略を受けた中央アジアの人びとがオイラトをさしてこう呼んだのがはじまりである。意味は明らかではない。その後ロシア人がこの名称を使用してひろまったが、彼らの自称はオイラトである。

オイラト民族の一部であるヴォルガ・カルムィクは、18世紀中葉から急速に進みはじめたロシア人農民の遊牧地への入植によって圧迫を受け、その過半数は、清朝のジューン・ガル遠征によってほとんど無人の地と化した故郷のイリ河畔に帰還した。1771年のことである。このとぎヴォルガ河畔に残ったオイラト民族の子孫が、今のソ連邦カルムィク自治共和国に住む人びとであるが、現在われわれが利用できるオイラト年代記はここに伝えられたものである。

代表的なオイラトの年代記は二つあり、両方とも『四オイラト史』という題である。一つはトルグート部のエムチ・ガワンシャラブが1737年に書いたもので、もう一つはホシュート部のバートル・ウバシ・トメンが1819年に書いたものである。これらと、その他1776年出版のパラス『モンゴル民族史料集』や『蒙古源流』などのモンゴル年代記によって、四オイラト連合体の起源をつぎのように明らかにすることができた。…

16-7世紀に、同時代史料であるモンゴル年代記やロシア古文書に登場するオイラト民族は、少なくとも8集団によって構成されていたのであるが、彼らは自身を四(ドルベン)オイラトと称した。この四という数字には実は根拠があり、それはモンゴル帝国時代にさかのぼるのである。オイラト諸集団はつぎのように分類できる。


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(1) 旧オイラト系ホイトバートト
モンゴル年代記に「ホイトの首領たちはイナルチ・トロルチの後裔である」とある。これはオイラト王クトカ・ベキの二人の息子の名である。また、バートトはその勇猛を中国人が称えてホイトにあたえた尊称であるとパラスがいう。

(2) バルグト系バルグブリヤート
…バルグトはバイカル湖の東西にいた部族の総称で、バルグはその一部でもあった。この地方が現在ブリヤートと呼ばれるところである。

(3) ナイマン系ドルベトジューン・ガル
オイラト年代記に「ドルベトとジューン・ガルの一族は天から出た。管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったのでその子孫をチョロースという」とある。この始祖説話は天山ウイグル王国のものと酷似している。ウイグル帝国の分支はいくつかあるが、住地から考慮してアルタイ山脈の東西にひろがっていたナイマンがドルベトとジューン・ガルの前身であろう。ドルベトとジューン・ガルの首長たちは、系譜によるとトゴン、エセン父子の後裔である。

(4) ケレイト系トルグート
オイラト、モンゴル年代記ともに、トルグートはケレイトのオン・ハーンの後裔であると記す。

以上の、モンゴル高原西北部を住地とした四大部族、オイラト、バルグト、ナイマン、ケレイトが、元朝崩壊後その遺民であるモンゴルに対抗して連合したのが新たなオイラト民族の起源で、このゆえに四オイラトと称したのである。

実はオイラト民族にはこの他にホシュート部がふくまれる。オイラト年代記の系譜によると、その首領の家系はチンギス・ハーンの同母弟ハサルを始祖とする。ただし、本家である当のモンゴルのホルチン部の系譜には、これについて何の記述もない。ホシュート部の王族の姓はオジエトであるから、彼らは実際は前述のモンゴル民族の構成集団…で述べた三衛系の分かれであろう。つまりホシュートはモンゴルの出身なのであるが、トゴンとエセンがモンゴル高原を支配した時代にオイラトの傘下に入り、その後もオイラトに残留したのである。
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by satotak | 2008-08-02 12:55 | モンゴル
2008年 08月 01日

オイラトとモンゴル

「オイラト族はオイラト族である。みなさんモンゴルの一部と誤解しないようにご注意して頂きたいです。」
(「最後の遊牧帝国 ジューンガル」(200.12.10)へのコメントより)

「オイラト族は自分の文化、習慣などをもっている一つ民族です。
モンゴルの一部ではないしモンゴル系でもないです、ということを伝えたいです。正確なことを日本のみなさんに。
…オイラトについての誤解される情報が結構流れているからです。」

(「オイラト人の留学生」氏からのメール(2007.7.31)より)


「オイラト」に対するアイデンティティあるいはこだわりが、現在もこのようにあるとは知らなかった。
私自身は、「ジュンガル」、「トルグート」あるいは「ホシュート」といった部(民)族には直接的な関心を持っていたが、「オイラト」はそれらの歴史的総称ぐらいの認識しかなく、現在に生きている名称とは思っていなかった。。


中央ユーラシアを知る事典」(2005 平凡社)を見ても、「オイラト」という独立した項目はなく、「カルマク」、「ジュンガル」、「モンゴル」などの項目の中で言及されているだけである。
これらの中で、オイラトはどのように述べられているか…

モンゴル
…元朝が崩壊し、モンゴル高原に戻った集団、いわゆる北元を明朝が〈蒙古〉と呼ばず〈韃靼(だったん)〉(タタル)と呼んだのは、元朝の後継として了解されるような〈蒙古〉を用いるわけにはいかなかったからである。…統一以後のモンゴル族が自身の民族名としてタタルを用いることはなく、他称である。
一方、アルタイ西部に割拠したモンゴル系諸集団は〈オイラト(オイロト)〉と総称された。元朝の後裔であるモンゴル(=韃靼)と、そうでないオイラトとの間の対立は強く、その後のモンゴル史を決定づけ、今日でも民族内対立は潜在している。…

ジュンガル
17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族の部族連合。オイラト遊牧民は14世紀の半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれたが、…

カルマク
中央アジアのテュルク諸語において、モンゴル系のオイラトをさす言葉。オイラトは、中央ユーラシアにおいて大きな勢力を持った遊牧集団の一つで、15~18世紀にかけて中央アジア各地を幾度にもわたって攻撃し、その住民に甚大な被害を与えたり、部族の構成や分布に大きな変化をもたらしたりした。…


ウィキペディアによれば

オイラト
オイラト(Oirad, Oyirad)は、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。しかし、本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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by satotak | 2008-08-01 21:11 | モンゴル