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2009年 06月 25日

言語の変遷に見る中国東北部の民族

三上次男・神田信夫編「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:池上二良):

小興安嶺、嫩(のん)江地方、大興安嶺、呼倫貝爾(ホロンバイル)地方にはエウェンキー(エヴェンキ)語が分布し、またそれに親縁関係の近いソロン語があり、東の松花江およびウスリ川の下流沿岸、両川間のアムール川沿岸の地方にはナーナイ語が分布していて、言語の分布上それぞれ北の東シベリア、アムール川下流地域からのつづきといえる。しかし、中国東北部には、ほかにダグール語などのモンゴル語があり、満洲語がおこなわれ、さらに古くは女真語がおこなわれた。中国東北部は、言語分布上この点が、上の二地方と大きく異なる。
なおキルギズ語の話し手である柯爾克孜(キルギズ)人は乾隆年間に新疆方面から移動させられたものという。

ホロンバイルの諸言語に関しては、清の『世宗実録』の雍正10年(1732)の条に、索倫(ソロン)・打虎児(ダグール)・巴爾虎(バラグ)・鄂倫春(オロチョン)の兵3000を選び、呼倫貝爾(ホロン湖・バイル湖)付近の済拉嘛泰(ジラマタイ)河口の地に遷移し、彼らを編成して八旗となし、左翼は自ら城処を修めてロシアの交界に至る地で遊牧し、右翼は喀爾喀(ハルハ)河に在って遊牧するものとすることが記されている。ホロンバイル南部における今日の索倫、達斡爾(ダグール)、陳巴爾虎蒙古の諸族の分布、したがってまたその言語の分布は、この東方からの移動がおこなわれたこのころ以降のこととみられている。その後、新巴爾虎蒙古族が外蒙古桑貝子一帯から、布利亜特(ブリャト)蒙古族、通古斯(ツングース)族はさらにのちソ連領から十月革命当時にホロンバイルに移動したものという。

これよりさき、17世紀中ごろ、清はロシア人の寇奪から避難させるため、索倫・達呼爾の部族を北の黒龍江上流地方から嫩江地方へ移している。17世紀においてもそれ以前は、…ダウル人はアムール川上流、ゼーヤ川下流にいた。またビラル[バラグ]人は当時北のゼーヤ川の支流セレムジャ川の上流やウダ川の上流にいた。マネギル人は北のゼーヤ川支流のギリュイ川などの地方にいたようである。その後ビラル人やマネギル人も、ダウル人の移動のあと分布を南へ拡大したとみられる。
また達斡爾・索倫族からは、その後新疆の伊犁地方へ兵士が派遣され、家族とともに移住した。
この地方の民族・言語の分布は複雑な移動の歴史をもち、その結果によるものである。

満洲語については、少くとも満洲語口語は、もと明末清初の建州女直が話していた言語であったものとみるのが自然であろう。なおまた『満洲実録』巻二に満洲国への葉赫(イエヘ)国からの使者のことばとして「一つことばを話す国に烏拉(ウラ)、恰達(ハダ)、葉赫、輝発(ホイファ)、満洲の五人の汗もが生きる道理ありや」と記されている。…この記述からみて、海西女直の呼倫(フルン)国の烏拉、輝発、恰達、葉赫も、満洲語と同じ言語か、ないしそれと方言的違いしかないような言語を使っていたろうと思われる。ただし、同書巻一によれば、葉赫部の始祖は蒙古国の人であったという。すると、葉赫部はもと使っていたモンゴル語をとりかえたのであろう。なお、満洲の汗ヌルハチの根拠地の興京老城は蘇子河岸であり、この地方は松花江との分水界の南側に位置するが、鳥拉は松花江上流、輝発はさらにその上流支流揮発河地方を占めていたとみられる。さらに古く元明時代には、『遼東志』によれば、建州は松花江上流沿岸に位置した。したがって、満洲語は北の地方から南へ分布をひろげたとみられる。

さらに、『満文老档(まんぶんろうとう)』天命四年(1619)の条に「漢人の国から東へ、日あがる方の海の水に至るまで、朝鮮国から北へ、蒙古国から南へ、女真ことばの国を討ち従え、その年終わった。」とある。これは、建州・海西の女直ばかりでなく、この地域の野人女直(少なくともその主な諸部族)に、女真ことばとして一つによべるような言語が広くおこなわれていたことを示しているといえよう。上に建州女直の言語を満洲語とよび、海西女直の言語も満洲語としたが、満洲語もここにいう女真ことばに入るものである。この女真の言語は全体としては地方地方の方言的差異をふくむであろうが、満洲語の言語名を広義につかってその総体をまた満洲語とよぶことも許されよう。なお『満洲実録』巻六の相当箇所には「東海から西へ大明国の遼東の辺界に至るまで、北は蒙古国の科爾沁(コルチン)の住んでいたはての嫩江から南の朝鮮国の辺界に接するまで、一つの満洲ことばの国をみな討ち従わしめ、統一し終わった」とある。『満洲実録』では上掲の「女真ことば」のかわりに「一つの満洲ことば」の表現を使って記している。また、時代的に先行する後述の女真語もこの女真ことばにつながるものであろう。

また、上にみたように、17世紀中ごろ、少なくともアムール川の小興安嶺断崖部から川下のおそらくサラプリスコエ村あたりまでのアムール川沿岸、松花江下流・ウスリ川沿岸には、デュチェル人が分布していた。このデュチェル人とはなにか。阿南惟敬は、…デュチェル人は居住地域が清初の野人女直の一つの東海虎爾恰部と一致するとしながらも、その部族が女直であったか、ゴルディ(ナーナイ)であったか、問題であるとし、実はゴルディではなかったかという考えを捨てきれないと述べている。しかし、ステパーノフらロシア人が1656年その地に再来したとき、デュチェル人はおらず、彼らは、デュチェル人が清の皇帝の命によりすでにここを避難退去して虎爾吟(フルハ)河(牡丹江)地方へ移動したことを、その土地に残っていたわずかな人びとからきいている。一方、1709年にこの地方を踏査したイエズス会士の見聞にもとづくアルドの『中国誌』(1735)は、清の皇帝からフルハ川・松花江沿いの寧古塔(ニングタ)付近の土地をあたえられてそこに住む農耕民のイラン・ハラ(三つの氏族の意)とよばばれる住民についてふれているが、これは移動後のデュチェル人ではないか、ないしはこれをふくむものではないかと思われる。同書に、これは以前は魚皮韃子(ユビタズ)と混住していたが、真の満洲人であるとあり、この点が注目される。デュチェル人は、おそらく野人女直の一派といえるものではなかったろうか。そしてその言語は、広義の満洲語の一方言ではなかったろうか。なお、魚皮韃子は、デュチェル人がいた地域に混住していた、またはその隣接地に居住していたナーナイ人のことであろう。今日のこの地方のナーナイ人の少くとも一部はその子孫であり、また、彼らのナーナイ語方言は魚皮韃子のナーナイ語に由来するものであろう。

満洲人は、17世紀以後着々と勢力を拡大し、清を建国し、中国本土に進出した。これに応じて、満洲語の話し手が北京はじめ広く中国の諸都市など各地に居住するようになり、満洲語の分布は拡大した。しかし、満洲人は漢人にくらべれば人口もきわめて少なく、文化的に漢人に化し、言語も中国語を話すようになって満洲語をしだいに使わなくなった。満洲語は、清代中葉の隆盛期にすでに衰微のきざしをみせていた。
今日では、満洲語は、東北地方では西部の少数の村、愛琿県大五家子満族自治郷や富裕県三家子屯などでしか使われていない。なおそこの満洲人は、康煕年間に大五家子のほうは寧古塔から、三家子屯のほうは吉林長白山麓地方から、当時辺要の地であったそれらの地方へ移住したものであるという。

ただし、満洲語を話す錫伯(シボ)族の兵が、乾隆中期に遠く西方の伊犁(イリ)地方の国境警備のために派遣され、乾隆29年(1764)家族とともに盛京(瀋陽)をたち、翌年に同地に到着、移駐した。家族をふくめての総数は、公式には約4300、実際にはふえて5000であった。
この錫伯族は、今日新疆ウイグル自治区察布査爾(チャプチャル)錫伯(シベ)自治県、そのほか伊寧、霍城、鞏留、塔城、烏魯木斉(ウルムチ)などに居住し、いまもなお満洲語を口頭語として使っている。これを錫伯語ともよぶ。新疆の錫伯人の人口は1982年に約2万7000であるが、錫伯語の話し手の数はそれより少ない。しかし、ツングース・満洲諸語のなかではおそらくエウェンキー語とならんで話し手が一番多い有力な言語であろう。なお東北地方に残る錫伯族はすでに満洲語を話さない。
錫伯族が本来どんな民族で、どんな言語を話していたかは、なお問題である。モンゴル人の一派か、もしくは満洲族とは別のツングース族の一つであった可能性もなお否定できないとみられ、自分の固有の言語を満洲語にとりかえたこともありえよう。嘉慶八年(1803)の年記のある瀋陽の太平寺の錫伯碑には錫伯が元来ハイラルの東南の河川の流域に住んでいたと記されていることも指摘されている。

さらに時代をさかのぼると、女真(女直)族の女真語が中国東北部の地域におこなわれていた。女真語は、碑文や文献に残るが、ツングース・満洲語の一つで、なかでも満洲語に非常に近い親縁関係にある言語である。女真族が12世紀に金を建国し、中国本土北部に進出したのにともない、女真語の分布も拡大した。しかし、13世紀には金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代までおこなわれた。その後、女真語は衰滅したともみられようが、女真語は、満洲語と姉妹語関係にあったというより、むしろ方言的関係にあって、上述したその後の広義の満洲語の方言としてそのなかに没したものであろう。

以上にみたように、東シベリアの地域におけるエウェンキー語・エゥェン語の分布拡大、アムール川下流地域におけるナーナイ語・オルチャ語・ウイルタ語の進出とともに、また中国東北部の地域から女真語が南の中国本土北部に、さらに満洲語が中国版図に広く分布を拡大した。その後は消滅したが、ただし、上述のように、はるか中国西辺には今日も錫伯語が残存している。これらの分布拡張が、今日のツングース・満洲語の分布を生じ、ひいてはさらに今日の東北アジアの言語分布を生じた大きな要因となっているといえよう。なおさらに、つぎにみるように、高句麗や濊(わい)などの言語がツングース・満洲語に属するものならば、ツングース・満洲語はもっと古くには朝鮮半島北部へも分布を拡大したことになる。

古代の言語分布
近隣地方を広くふくめて上述の地方のさらに古い時代の言語の分布を知るためには、中国正史の東夷伝・北狄伝に当時のアジア東北部・北部の諸民族について記述があり、その言語についてもごく大略的ではあるが、ふれられていて貴重である。ここでは、朝鮮半島西北部などもふくめて上述の地方の諸民族の言語についてみる。

晋の陳寿(297年没)撰の『三国志』の「魏書」には…
南朝宋の范曄(はんよう)(445年没)の『後漢書』には…
言語の異同についてこれらの記事によってみると、少なくとも三世紀の三国時代における同地方の言語はつぎの三類に大別されよう。
Ⅰ 鮮卑、烏桓(鳥丸)の言語
Ⅱ 夫餘、高句麗、濊、東沃沮の言語
Ⅲ 挹婁の言語
今日の東北アジアの言語とその分布から推すと、Ⅰの言語はモンゴル語の一派かと思われるが、チュルク語とみる見方もある。…Ⅱの言語はツングース・満洲語の一派か、またはそれに近い言語とも思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しくしらべてみなければならない。Ⅲの言語は、近隣の言語と非常に異なる言語で、今日ならば古アジア語に一括されるような言語であったとみるのが一番自然ではないだろうか。なお今日この地方にもっとも近く分布する古アジア語はニヴフ語であり、それはこれがさかのぼるような言語であったかもしれないが、あるいはほかに今日すでに絶滅してしまった古アジア語も過去にあったかもしれない。

それより時代がくだると、北斉の魏収の『魏書』には、… 同様に唐の李延寿の『北史』にも、…
これらの記事によれば、五、六世紀の南北朝時代のこの地方の上記の言語はつぎの二群に分かれよう。なお、当時の高句麗については、これらの史書のその条にその言語に関する記事が見出されない。
Ⅰ 室韋(失韋、しつい)、庫莫奚、契丹、豆莫婁(豆婁)の言語
Ⅱ 勿吉(もつきつ)の言語
Ⅰの契丹の言語はモンゴル語の一つとみられている。Ⅰの他の言語もモンゴル語に属するものであろう。Ⅱの勿吉の言語についての上掲記述は、勿吉の少なくともある主な部族の言語が、近隣のツングース語系やモンゴル語系の言語にくらべて異なることを述べているのではないだろうか。なお、のちの『新唐書』は黒水靺鞨(まつかつ)について「黒水靺鞨は粛慎の地におり、また挹婁ともいい、元魏の時には勿吉ともいう」とあり、あるいは勿吉のその言語は挹婁の言語にさかのぼるものかもしれない。
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by satotak | 2009-06-25 14:30 | 女真・満州・内蒙古