人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2007年 04月 22日

キルギズの起源

護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版 1990)(筆者:加藤九祚)より:

…キルギズの起源については、一般にイェニセイ・キルギズと天山キルギズの二つに分け、その相互関係について諸説がある。イェニセイ・キルギズに関する資料は、漢代に匈奴の北にいたという堅昆(けんこん)、鬲昆(かくこん)にはじまり、南北朝時代の結骨(けっこつ)、契骨(けっこつ)、唐代の黠戞斯(キルギス)、紇斯(キルギズ)、古代トルコ語碑文のqyrqyzとしてあらわれている。『新唐書』では農耕民として登場している。『史記』匈奴伝の堅昆は、ソ連の考古学者L・キズラソフによれば初期テュルク(トルコ系)のタシュティク文化の担い手であるとしている。そして本来のイェニセイ・キルギズ(彼はハカスと称している)の文化は6世紀以降とし、ソ連の考古学では南シベリアのトゥーヴァとミヌシンスク盆地の6-12世紀の考古学的遺物を「イェニセイ・キルギズの文化」として総括している.

つぎに「天山キルギズ」であるが、これは現在天山、パミール・アライ方面に居住しているキルギズ人、つまりソ連のキルギズ共和国のキルギズ人のことである(注1)。この天山キルギズと歴史上のイェニセイ・キルギズとの関係はどのようなものであろうか。民族学者S・アブラムゾンはこの問題について三つの仮説があることを指摘している。

第一は天山地方を調査した考古学者A・ベルンツュタムの仮説とそれを発展させたものである。ベルンシュタムは、天山地方には前3-前1世紀までサカ、烏孫など東イラン語系の人びとが住んでいたが、前1世紀ごろから紀元4-5世紀ごろまで匈奴を主力とするトルコ語系の人びとが進入した。「この地域の東イラン系諸族はしだいにその立場を失い、トルコ語系の人びとがそれにとってかわった。キルギズもその一つである。」 ベルンシュタムは、キルギズがはじめて天山地方に現われた時期を、前49-前47年 匈奴が郅支(しっし)単于に率いられて天山地方に入り、一部はタラス川流域に住みついたときと考えている。彼の調査したケンコール古墳は匈奴の残したものとされている。ベルンシュタムの説はその後一部修正され、イェニセイ・キルギズは匈奴以後千三百-千四百年の長期間、幾波にもわたってイェニセイ川上流域から天山方面に移住したとの説になっている。

第二の説。キルギズは遠い古代から天山およびパミール・アライの山地に変わることなく居住したとするものである。この見解はN・ビチューリン、Ch・ワリハノフ、N・アリストーフらの研究者たちがこれに属し、近年はカザーフ共和国の学者A・マルグランによって発展させられた。彼は9-10世紀におけるキルギズの政治的連合の中心はウルムチおよびトルファン北部地域にあったとの結論に達した。キルギズはここからいくつもの方向へ移動したが、天山方面へ移動したグループの一部がこの地域に残って、キルギズという名称をえたというものである。

第三の説。これはK・ペトロフの見解で、後代にキルギズというエトノス(民族を構成する要素)を形成した人びとは、イェニセイ川とイルティシュ川の河岸地帯からのキマク(キプチャク)・キルギズ、さらにはキマクに近い東部キプチャク諸部族であるとするものである。彼らははじめ(13世紀中ごろ)イリ川とイルティシュ川の河間を占め、ついで天山中央部に進出した。天山方面への移動は、はじめいくつもの小グループによっておこなわれ、他のモンゴル・トルコ系住民と混じりあった。しかしティムール時代以後(15世紀)になると大移動となり、キルギズ民族形成過程のはじまりと時を同じくするにいたった。

アブラムゾン自身の見解はおよそつぎのとおりである。キルギズの物質文化、伝承、部族名などはアルタイ、イルティシュ川上流部、モンゴル、東トルキスタン、チベット周辺の諸民族に近い。こうした事実からして、現代のキルギズの形成過程は主として天山東部およびそれに隣接する地域において、トルコ系譜部族を基盤にしてなされた。これら諸部族の大部分は、おそらく6-10世紀の突厥国家時代の諸部族にさかのぼると考えられる。いくらか時代が下がると、キルギズの民族形成にモンゴル起源の部族もくわわった。キルギズの中央アジア移動はモンゴル時代以後と考えられるが、このころになると、キルギズは、一面ではカザーフ・ノガイ的要素、他面ではウズベクおよび部分的にはタジクに代表される現地の中央アジア的要素によって補充されるにいたった。要するに、アブラムゾンは、イェニセイ・キルギズと天山キルギズの間には、間接的関係はありうるけれども、直接的関係はみられないとの見解に立っている。この点、ベルンシュタムのイェニセイ・キルギズ移住説とは根本的にちがっている。

イェニセイ・キルギズは、17世紀にロシア人がシベリアに進出した当時、四つの小部族連合に分かれて狩猟と牧畜に従事していた。農耕はなかった。18世紀初頭、キルギズの2500家族がカルムィク人によって南シベリアから連れ去られた。これ以後シベリア諸民族のなかでキルギズの名は消滅した。しかし一部のキルギズはその住地に残り、自称、言語、生活様式などの特徴を失い、ハカス、トゥーヴァなどの民族に溶けこんだことは確かであると考えられている。

(注1) クルグズ[人]:中央アジアの天山山脈西部・パミール高原地方に居住する民族。 キルギスともいう。
テュルク系諸民族の一員で、クルグズスタンでは最大人口を占める。同国には約333万人(2003年クルグズ共和国統計)が、その他中国・新疆ウイグル自治区に十数万人(中国語名は柯爾克孜)、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン等に分かれて数十万人が暮らすと推定される。テュルク諸語キプチャク語群に属すクルグズ語を話し、大多数はスンナ派イスラームを信仰している。
〈クルグズ〉は自称で、いくつかの起源伝説がある。おもなものに①〈ハンの娘の40人の侍女〉=〈40 kirk〉+〈娘kiz〉の子孫、②〈40の部族〉=〈40 kirk〉+〈部族uruu〉の子孫、③〈連峰kir〉に住む人々=〈クルクルラルkirkirlar〉または〈クルキスレルkirkisler〉の子孫といった伝説が挙げられる。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)

# by satotak | 2007-04-22 20:41 | キルギス
2007年 04月 13日

マナス第一部

若松 寛訳「マナス 少年篇/青年篇/壮年篇」(東洋文庫 2001-05)より:

《少年篇》
第1章 不思議な夢
老人の嘆き〉老妻の見た夢〉ジャクィプの見た夢〉若妻の見た夢〉失踪した少年の捜索〉夢判断〉

第2章 勇士誕生
ジャクィプの兄弟たち〉チュウィルディの懐妊〉難産〉ジャクィプ外出〉男子誕生〉“スユンチ(吉報)”〉盛大な祝宴〉マナスと命名〉

第3章 オシュプル老のもとでマナスを鍛錬
放牧見習い〉四十チルテンの出現〉カルマクの老人とけんか〉サラマトの四人の子とけんか〉オシュプル音を上げる〉

第4章 カルマクの乱暴者どもを制裁
帰途でのできごと〉気丈な母〉ジャクィプ、救援にのりだす〉母と子、無事家に帰る〉

第5章 アルタイのカルマク勢を撃退
カルマク人の内輪もめ〉アルタイのカルマク勢を撃退〉凱旋〉

第6章 エセン・ハーンの密偵団を制裁
皇宮取りゲーム〉エセン・ハーンのたくらみ〉隊商とマナスのけんか〉

第7章 ネズカラ討伐
バイと二人の息子〉バイの受難〉バイ、ジャクィプと邂逅〉ネズカラ、ジャイサンバイを攻撃〉キルギス軍迎撃〉マングル人、キルギス人に服属〉

第8章 十一人の密偵団に仕置き
ジャクィプ、虎口を逃れる〉鳩首凝議〉怪物退治〉密偵どもに鉄拳制裁〉

第9章 オルクン川の戦い
若者グループのかしらに選ばれる〉オルクン川の岸辺に到達〉エセン・ハーンの調査隊〉クィタイ軍撃破〉

第10章 ハーンに推戴
ジャクィプの提案〉

《青年篇》
第1章 テケス・ハーンの魔人部隊撃滅
長老会議〉出陣〉テケス・ハーンの驚き〉魔法使いクヤス、魔兵を配置〉バカイ、魔兵を看破〉魔兵部隊の全滅〉テケスの後継者選出〉テイイシュの祝賀会〉マナス、一騎打ちに出場〉祝賀会は続く〉更なる進軍〉

第2章 オルゴ・ハーン軍との決戦
オルゴ・ハーンの驚き〉オルゴ・ハーン、迎撃体制を固める〉巨漢アタンの惨死〉合戦始まる〉激戦のあと〉オルゴ・ハーン妃、命乞いに行く〉

第3章 アクンベシム征伐
長老会議〉部隊を分けて行軍〉アクンベシム、防戦準備に大わらわ〉マナス、バカイ二手に分かれる〉魔法使いボーン現る〉バカイ隊の行動〉魔法使いボーンの最後〉マナス軍進軍〉シャムィン・シャー注進〉アクンベシム、防戦体制を取る〉合戦の火蓋切らる〉アクンベシムの最期〉

第4章 父祖の故地へ移動開始
長老会議〉移動中のできごと〉

第5章 アローケ・ハーンに向けて進撃
マナス、狩りに興じる〉アローケ・ハーン登場〉アローケの使者来る〉アローケ出陣の知らせ〉マナス出陣〉アローケの王宮〉マナス王宮に突入〉マナス、猛獣の群の中に入る〉アローケ降伏〉

第6章 ショールク・ハーンとの抗争
ショールク・ハーン出陣〉美女アクィライの諌め〉合戦の火蓋切らる〉ショールク、和睦を懇願〉美女たちの婿選び〉アローケの後日談〉

第7章 アルマムベトとの出会い
マナスの見た夢〉マナス、狩りに出る〉アルマムベトの悲哀〉アルマムベトを発見〉アルマムベト、マナスの営地に来る〉アルマムベト、マナスにまみえる〉歓迎の競馬〉

第8章 マナスとアルマムベトの盟約
義兄弟の契り〉マナス、自分の結婚を決意〉

第9章 マナスのために嫁探し
嫁の条件〉ジャクィプ嫁探しの旅に出る〉ジャクィプ、娘をのぞき見る〉ジャクィプ、王宮に乗り込む〉アテミル、難題を案出〉婚約成る〉

第10章 マナスの求婚
マナスとアルマムベトの見た夢〉ジャクィプの帰郷談〉マナス、ケイイプへ行く〉アテミルのマナス迎接〉マナスとサニラビイガのいさかい〉怒りのマナス、軍勢をアテミルに向ける〉冷遇にマナス怒る〉マナス、アテミル膺懲の戦を決意〉サニラビイガ、マナスに嫁ぐことを決意〉

第11章 マナス、アルマムベト、四十勇士の結婚
花嫁達のテント〉婿選びの競馬〉婿と嫁の二度のテスト〉アルーケ翻心〉華燭の典〉

《壮年篇》
第1章 六ハーンの謀反(上)
六ハーンの謀議〉マナスに遣使〉使者を威圧〉祝宴を開く〉使者帰還〉

第2章 六ハーンの謀反(下)
トュシトュク叱咤激励〉六ハーン進発〉マナス、四十勇士を招集〉六ハーン到着〉マナス、六ハーンに接見〉

第3章 大遠征の準備
バカイを遠征軍の総司令官に任命〉アルマムベトを全軍の先導役に任命〉従軍を望まぬ者に帰郷を許す〉

第4章 大遠征の途につく
マナス、部隊を視察〉部隊進発〉アルマムベトの提案〉カヌィケイからの選別〉カヌィケイの嘆き〉マナスと四十勇士、部隊に戻る〉アルマムベト、軍紀に不満〉アルマムベトを総司令官に選ぶ〉

第5章 ベージンへ向けて進発
全軍の点呼をとる〉アルマムベト、全軍に訓示〉強行軍にクィルグィル老怒る〉クィルグィル、マナスに抗議〉クィルグィル老、十人隊に戻る〉宿営の令下る〉アルマムベト、オルクン川を渡って偵察〉アルマムベト、天気を変える〉全軍オルクン川を渡る〉エリメで越冬〉全軍の点呼と取る〉アルマムベトとスィルガクを斥候に選ぶ〉

第6章 アルマムベトとチュバクのいさかい
チュバクの怒り〉チュバク、アルマムベトの懲らしめを決意〉バカイ、チュバクの説得に行く〉マナス、チュバク説得に加わる〉マナスとチュバク、アルマムベトと合う〉チュバクとアルマムベトの和解〉

第7章 一つ目の巨人マケル退治
サヤス山からベージン観察〉一つ目の巨人マケル出現〉チュバク、アルマムベト、一つ目の巨人マケルと闘う〉マケルの首を持ち帰る〉

第8章 クィタイから馬群奪取
ベージンへ偵察に行く〉クィタイ陣営鳩首擬議〉都督チャバラ討たれる〉馬飼い頭カラグル、馬群を移す〉クィタイ陣営、防戦準備に乗り出す〉変装したアルマムベトとスィルガク、クィタイに潜入〉アルマムベト、故郷を見て懐旧にふける〉アルマムベト、馬飼い頭カラグルをだます〉二勇士、馬群を連れ出す〉カラグル、盗まれた馬群を追跡〉両勇士、背後から迫るクィタイ軍と戦う〉コングルバイ、アルマムベトに傷を負わさる〉

第9章 キルギス軍奮戦
マナス、熟睡から目覚める〉スィルガク、バカイに救援を求めに走る。三勇士奮戦〉バカイ、大軍を率いて出動〉キョル・ケチュー渡河点でコングルバイ、マナスを襲う〉

第10章 凱旋
キルギス全軍突撃〉コングルバイ、マナスによって負傷〉キルギス軍、カスパンを包囲〉重傷のコングルバイ抗戦の非を説く〉コングルバイ、終戦をエセン・ハーンに嘆願〉和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉

〈和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉
クィタイ人からコングルバイ、クィルムス・シャーの〔子〕ムラディル、〔帽子に〕朱房をつけたネズカラ、カルマク人のウシャン、奴らが命と引き替えに財物を出すことを合意した。カンガイ人からオロングもその場にいたな。軍司令官コングルバイが奴ら全員をそばに集めた。黒いたてがみボローンチュ、カトカランの〔娘〕サイカル、いちいち名前を挙げるんですかい。ソローンのアローケ、猪のような気性の勇士ジョロイ、トクシュケルの〔子〕ボズケルティク、九十二歳の長寿を保つ、ソロボの〔子〕ソーロンドュク、奴らが自分の命を心配して、偶像の前に額ずぎ、財物を奉納することを誓った。

奴らは九千頭の黒いひとこぶ駱駝を用意して、ひとこぶ駱駝の背に金貨を積んだ。また、
九千頭の赤いひとこぶ駱駝を用意して、赤いひとこぶ駱駝に高価な金細工を積んだ。駱駝に高々と積まれた荷の中には金塊もある。これらのすべての荷の上には絹のロープが掛けられた。さらに白銀を積んだ三万頭の駱駝が引き出された。白銀を積んだ駱駝を引いて行ったときのその光景を見てくだされ。エメラルド・ダイヤ・ルビーが二千頭の駱駝に積まれた。贈り物として進呈するために、今いるすべての馬の中から、互いによく似た黒馬九千頭が選り抜かれて、それらを達人どもが調教した。さらに九千頭の赤毛馬と九千頭の栗毛馬を用意した。どいつも姿が優雅で、走れば駿足だ。さらにまたすらりとして美しい大型の鹿毛馬九千頭も用意して、そいつらが土埃を山のように巻き上げた。ほかにも九千頭の葦毛馬も用意した。各村落から集めさせた贈り物用の馬群は十万頭に達した。

奴らは各自の町から娘たちを探し出させた。その黒髪は川獺(かわうそ)のよう、鏡の前で髪を櫛けずらせて、真珠のような歯、反った眉、鴨のような首、小さい上品な頭、丈は中背、歳は十五、細くて柔らかい指、太いお下げ、黒い干し葡萄や食べ物を口にすると、白い喉を通してそれらが透けて見える。そういう美しい娘を九千人引き連れ、工匠の中でも抜きん出た名人たちも連れて、贈り物を届けに、アンディジャンから逃げたアローケ老人をはじめ、みんなが来た。

昔からこういうことばがある、「槍を刺すなら折れるほどに刺せ。敵であろうとひとたび倒れたら、辱しめるな、心を安んじさせてやれ」と。まさにその通りに、バカイ翁とクィルグィル老(チャル)が〔マナス・〕バートゥルのもとへ行って、バカイ翁が言った。
「贈り物を受け取ってやれ、勇者マナスよ。異教徒であろうと、ハーンを戴く人民じゃ。昔から物をたんと持っておる人民じゃよ。クィタイ人であろうと、膨大な人民じゃ。握力の強い我が猛者よ、わしの言うことを聞き入れよ。奴らはついに恐れ入った。今はもう放っといてやれ、バートゥルよ」
賢いバカイがことばを継いだ。
「娘たちを贈り物に差し出したからには、〔クィタイ人を〕虐殺したらよろしくない。〔キルギス人の〕六ハーンを集めて、彼らと協議したらどうじゃな。相談しようぞ。あのクィタイ人どもを苦しませぬよう返事をしてやろうぞ」

獅子マナス・バートゥルはバカイの言った助言を受け入れた。腕の立つ匠をもらう者、望んで娘をもらう者、ひとこぶ駱駝をもらう老、人それぞれであった。食うや食わずだった者は金銀をもらい、〔みなが〕数えきれぬ家畜をもらった。クィタイ人とキルギス人が和睦したのち、アローケらはそれぞれの故郷へ散って行った。
カカンでは七十の城門を備える都市を七つ破壊して占領したという。クィタイ人の地へ来て、キルギス人が殺戮をやったという。十二か月が経って、一年と一月になったとき、彼らが撤退したという。短かからぬ、長い道のりを通って、ベージンから出たおびただしい〔キルギス人の〕軍勢が郷里へ帰ったという。

# by satotak | 2007-04-13 17:40 | キルギス
2007年 04月 05日

マナス概観 –八部の叙事詩-

若松 寛訳「マナス 少年篇 –キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫694 2001)より:

今日、中央アジアのキルギス共和国と中国とに分かれて住むキルギス民族に伝わる長篇英雄叙事詩『マナス』は、内陸アジア民族文学のあまたの星の中でひときわ光り輝く巨星である。中国では、チベット・モンゴル民族の『ケサル(ゲセル)』、モンゴル民族の「ジャンガル』とともに、三大史詩とたたえられる。

『マナス』は全部で八部、約20万詩行から成る。(注1)
第一部『マナス』は、八部の叙事詩の中で最も長く、5万余行あり、全叙事詩の4分の1の篇幅を占める(語り師ごとにその語る第一部『マナス』の長短は異なる。ここで指しているのは現代中国の大語り師ジュースフ・ママーイの語り本の行数である)。ここには、主人公マナスが誕生、成長し、そしてキルギス・ハーンとなり、自民族とその周囲の諸民族を結集して国を建て、外敵の侵略に抵抗する英雄的事跡が述べられている。それらの叙述を通じて、最も集中的に、かつ鮮明に歌い上げられているのは、クィタイ人(中国人)とカルマク人(西モンゴル族オイラト人)の侵略に対する反抗精神である。この部は他の七部に比べて最も早く発生し、最も古くから流伝してきた上、芸術的にも最も成熟度が高いことから、八部叙事詩中の核心部分とみなされている。
こうした理由から、他の七部にも個別の題名が付されているものの、八部全体が『マナス』と称されるのである。…

第二部『セメテイ』は、マナスの死後発生した内乱を述べる。マナスの遺児セメテイは母に連れられて異郷に避難する。彼は11歳の時故郷に帰り、のち政敵を滅ぼして、内乱を平定する。この部は芸術上独特な風格を備えており、とくにセメテイと仙女アイチュリョクとの愛情物語を描写する章は、現実と神話が入り交じり、人間と仙女が共同で暮らして、すこぶる浪漫的色彩に富む。

第三部『セイテク』は、セメテイとアイチュリョクの遺児セイテクが苦難の中で成長し、のちに父謀殺の犯人一味を討って、国を再建するいきさつを述べる。セイテクは外敵の侵犯もたびたび撃退する。この部も神話的・伝奇的色彩に満ちている。

第四部『カイ二二ム』の主人公カイニニムは、セイテクと仙女クヤルの子であり、天下無双の英雄である。彼は齢八千の蛇頭石身の妖怪を退治し、また民衆を苦しめる7人の巨人を討つ。

第五部『セイイト』の主人公セイイトは、幼い時から父カイ二二ムに従って南征北戦し、9歳で単独出征する。彼は凶悪な巨人カラドを打ち破ったのち、巨人に囚われていた民衆を解放する。「赤い沙漠の戦い」は叙事詩中の名場面である。

第六部『アスルバチャとベクバチャ』の主人公アスルバチャとベクバチャは、セイイトの双子の遺児である。兄アスルバチャは25歳の時沙漠で戦死したが、弟ベクバチャは兄の業を承け、勇士部隊を率いて外敵の侵入を撃退した。彼の足跡はチベット、モンゴル高原、中央アジア、アフガニスタンなどの地にも及んだ。

第七部『ソムビリョク』の主人公はベクバチャの子ソムビリョクで、幼い時に父母を失い、母方の叔父に育てられて成人する。彼は15歳で故郷に帰り、東征西戦して、侵入の敵を追い払い、勝利をかちとる。だが彼は敵に奇襲されて、24歳の盛りで陣没する。

第八部『チクテイ』の主人公はソムビリョクの遺児チクテイである。彼はカザフ人と共同して侵入のマングト人、クィタイ人を撃退するが、戦場で重傷を負ったのちに死去する。時に年21歳。彼は妻を娶らなかったので嗣子がなく、ここにマナス家は第八代子孫をもっ
て断絶する。

この八部の叙事詩には長短がある。ジュースフ・ママーイの語り本に拠れば、3万行を超えるものは四部あって、それらは第一部『マナス』(5万行)、第二部『セメテイ』(3.2万行)、第四部『カイニニム』(3.5万行)、第六部『アスルバチャとベクバチャ』(4.5万行)である。第五部「セイイト』、第七部『ソムビリョク』、第八部『チクテイ』、この三部叙事詩の主人公はいずれも20数歳で世を去り、事跡がわりと少ないため、各部1万行余りあるにすぎない。第三部『セイテク』は長からず短からず、中くらいの篇幅である(2.4万行)。

(注1) 英雄叙事詩「マナス」は勇士マナスの生涯をうたった作品であるが、彼の息子セメテイと孫セイテクについてうたった作品を含めた三つの作品を一括した「マナス大系」を「マナス」と呼ぶのが一般的となっている。
「マナス大系」のほとんどのヴァリアントはこの三部作からなるが、中国・新疆ウイグル自治区に住むクルグズの語り手ジュスプ=ママイは、マナス・セメテイ・セイテク・ケネニム・セイィティム・アスルバチャとベクバチャ・ソムビレク・チギテイと、マナス以後七代の子々孫々までを歌う。「マナス」は、類似するモチーフやエピソードが近隣の中央アジア諸民族に見られるものの、もっぱらクルグズにのみ伝わる民族叙事詩として知られている。
「マナス」の語り手はマナスチュといい、彼らによって「マナス」は語り伝えられてきた。とくに有名なマナスチュは、サグムバイ=オロズバコフとサヤクバイ=カララエフである。サグムバイは約18万行、サヤクバイは約8万行にもわたる「マナス」を語っている。先に触れたジュスプに至っては、20万行以上もの「マナス」を語るなど、その規模の大きさが「マナス」の特徴のひとつとなっている。
(「英雄叙事詩と「国家」-「アルパミシュ」と「マナス」を例に-」より)

# by satotak | 2007-04-05 21:49 | キルギス
2007年 03月 27日

マナス -クルグズ共和国の英雄叙事詩-

英雄叙事詩と「国家」-「アルパミシュ」と「マナス」を例に- 」(坂井弘紀 2003)より:

1. はじめに
ソ連崩壊後、新国家が独立した中央アジアでは、「民族文化」の「復興」が様々な分野で顕著になった。そのような「民族文化」の代表に英雄叙事詩がある。英雄叙事詩の主人公は「民族英雄」になり、叙事詩を讃える国家行事が行われた。それは、新国家建設の途上にあるこれらの国々における国威発揚や国民団結を目的としている。…もとより、集団の団結を歌う英雄叙事詩は、国家・民族・部族などのシンボルとなりやすく、それら集団のあり方を映し出す特徴を持っているのである。

…中央アジアの代表的英雄叙事詩である「アルパミシュ」と「マナス」の二つの作品を取り上げて見ていくことにする。現在、「アルパミシュ」はウズベキスタンの、また「マナス」はクルグズスタンの「国民(民族)文化」とされており、…

2. 英雄叙事詩の特徴
2.1. 口頭伝承の特徴
2.2. 英雄叙事詩の内容とテーマ


2.3. 英雄叙事詩「アルパミシュ」と「マナス」
…英雄叙事詩「マナス」は勇士マナスの生涯をうたった作品であるが、彼の息子セメテイと孫セイテクについてうたった作品を含めた三つの作品を一括した「マナス大系」を「マナス」と呼ぶのが一般的となっている。…「マナス」は、類似するモチーフやエピソードが近隣の中央アジア諸民族に見られるものの、もっぱらクルグズにのみ伝わる民族叙事詩として知られている。「マナス」の語り手はマナスチュといい、彼らによって「マナス」は語り伝えられてきた。とくに有名なマナスチュは、サグムバイ=オロズバコフとサヤクバイ=カララエフである。サグムバイは約18万行、サヤクバイは約8万行にもわたる「マナス」を語っている。先に触れた[中国・新疆ウイグル自治区に住むクルグズの語り手]ジュスプに至っては、20万行以上もの「マナス」を語るなど、その規模の大きさが「マナス」の特徴のひとつとなっている。

 「マナス」が生まれたのはいつかという問題についても諸説ある。古代ウイグルの時代と深いつながりがあるとする説や9-11世紀、契丹(キタイ)と戦った時代と関係があるという説、古い様々な情報を含みつつも、15-18世紀の出来事を表しているとする説など様々である。いずれにせよ、現在のクルグズの原型となる集団が形成されていた18世紀ころには、「マナス」はすでに存在しており、クルグズの形成と意識の強化に寄与したと考えられている。

 クルグズ民族の英雄マナスは、クルグズスタンの象徴としてすっかり浸透している。クルグズスタンの首都ビシュケクの国際空港の名称はマナス国際空港であり、国立コンサートホールの前にはマナスの像がそびえている。

3. 帝政ロシア・ソビエト時代の英雄叙事詩
3.1. トルキスタン・ナショナリズムと叙事詩
3.2. ソビエト政策と叙事詩
3.3. 叙事詩の「復権」と新たな局面


4. 新独立国家と英雄叙事詩
4.1. 新国家に「復活」した英雄叙事詩
ソ連崩壊にともなって誕生した新独立国家では、新しい国づくりのために英雄叙事詩が取り上げられ、新たに形成された国民の文化的象徴となった。中央アジアでは、ソ連時代、共産主義のイデオロギーがこの地域の「統合原理」として機能していたが、新国家独立後、新た「統合原理」の一つとして「民族文化」の役割が大きくなった。そして、とくに民族文化の中心的存在である英雄叙事詩が注目されるようになったのである。…

…クルグズスタンのアカエフ大統領は、すべてのクルグズ国民に「マナスの7つの教訓」なるクルグズ国民のなすべき原則を発表している。先行研究から以下に引用しよう。

 《この「マナスの7つの基本方針」は人々を驚かせた。なぜなら、誰もそのような方針を聞いたことがなかったからである。やがて、それは大統領自身が創作したものであることが分かった。大統領によれば、「7つの方針」は、国家の統一、寛容・寛大な人道主義、国内における友情と協力、自然との調和、愛国主義、勤労と教育、クルグズの国家体制の増強と防衛である。
これらの方針は、現在クルグズの学校教育で教えられている。それらは、若者が叙事詩から学ばなければならない課題を気付かせる公式ガイドとなっている。実際、アカエフ大統領はこの叙事詩を再生した国家のための精神的指導の中心的な拠り所にしたのであった。
クルグズ共和国政府はマナスを社会的・文化的象徴として形付けるために、イデオロギー的部分(これはソビエト時代からある位置である)の特徴を利用しているのである》(Prior 2000: 37)。

 叙事詩そのものには見られない「教訓」が現職大統領によって「捏造」されたということは、「マナス」が叙事詩の本来のあり方の枠を越え、いまや完全に政治的に利用されていることを示すのである。…

4.2. 英雄叙事詩と国家的記念祭典
 1995年8月、クルグズスタンで「英雄叙事詩『マナス』千年記念祭」が開催された。この記念祭には、中央アジア各国やロシアなど旧ソ連諸国をはじめ、トルコ、アメリカ、日本など各地から研究者たちが招待された。「マナス」や口承文芸に関する学術シンポジウムや騎馬アトラクション、競馬など様々な行事が行われた。アカエフ大統領も積極的に関連行事に参加する盛大な国家行事となった。…

…アカエフ大統領は、今年(2003年)を「クルグズ国家2200年記念年」として記念すると発表した。「2200年」の根拠は、紀元前3世紀にクルグズの国家があったとする中国史料に求められているようだが、それには懐疑的な意見も多く、「マナス千年祭」に見られたような強引な年代設定が行われているようである。…

4.3. 教科書に現れる英雄叙事詩

5. おわりに
…叙事詩にたいする国家の姿勢は、政治的利用と学術活動の間に大きな温度差が存在するのである。その一方で、学術研究が政策の補完的役割を果たそうとする例も現れている。たとえば、クルグズスタンで目下進行中の「クルグズ2200年記念」にたいしては、懐疑的な見解を持つクルグズの研究者もいるものの、「「2200年記念祭」は歴史的に裏付けある結果である。そこに疑問の余地はない。(クルグズ国家が2200年前からあったことは)古代中国の史料にも記されている。」…と国策に追従しようとする研究者も存在する。現在の中央アジアにおいて、「民族の歴史」や「民族文化」に関連する研究は、政治と密接な関係をもっている。今後もこの地域の国家と「民族文化」・「歴史」を巡る動きに目が離せない。…

# by satotak | 2007-03-27 09:02 | キルギス
2007年 03月 20日

ソ連解体後のクルグズスタン

旧ソ連イスラーム諸国における体制移行とイスラーム」(中村友一 2006)より:

はじめに
本論は、…「旧ソ連イスラーム諸国」における権威主義体制の成立過程とそれに対抗する反対派、特にイスラーム主義運動の動態を分析することを通じて、ソ連解体後の各国における秩序や規範の創出過程への理解を深め、…「新たな紛争管理論の展開」に貢献しようとする試みである。…

本論で分析の対象とするのは、旧ソ連イスラーム諸国における様々な体制移行のかたちである。ここで言う「旧ソ連イスラーム諸国」とは、かつてのソ連の連邦構成共和国のうち、イスラーム教徒(ムスリム)が国民の多数を構成する国、具体的にはカザフスタン、クルグズスタン(注1)、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジア5ヵ国にアゼルバイジャンを加えた6ヵ国を指す。これらの国々はソ連解体の後、現在までに大統領が強大な権力を持つ一見類似した政治体制に移行した。
しかし、その移行が行われた時期、及び大統領への権力集中の程度は、国ごとに相当の違いがある。一部の国では独立初期に急速に権力が強化される傾向が観察されたのに対して、他の国では一定水準の民主化が進む兆しも見られた。…

[拡大図]

第2章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の特徴
(1)権威主義体制
従来、旧ソ連諸国の多くの体制移行は、「権威主義体制」への移行として語られることが多かった。本来、権威主義体制はスペインの政治学者J.リンスがフランコ体制を分析する際に用いた概念であり、ファシズム体制やスターリン体制に代表される全体主義体制でも、あるいは民主主義でもない体制を指したものである。リンスによれば、権威主義体制の最大の特徴は「限定された多元主義」だといえる。現在、旧ソ連諸国の多くでは、現政権に反対する集団の政治システムへの参入がしばしば制限され、時にはその活動には圧力が加えられる。これらの国々では、多元主義を特徴づける複数政党間の政権交代や利益集団の影響力が十分確保されているとはいえない。また、権威主義体制では、イデオロギーに代わり、伝統的な規範に由来する規律・秩序などのメンタリティーが重要な意味を持つ。旧ソ連諸国では、独立直後に生じた社会的混乱の影響もあって、変化よりも安定を志向する意識がしばしば相対的に安定していたソ連時代へのノスタルジーをもたらし、権威主義体制の安定の基盤となっている。

旧ソ連のうち、イスラーム諸国の政治体制は、権威主義体制モデルへの類似性をとりわけ多く有している。各国のうち、アゼルバイジャンを除く中央アジア諸国では、独立はソ連解体という情勢の変化にともない、いわば受け身で獲得されたものであった。そうしたなか、クルグズスタン、タジキスタンを除く旧ソ連イスラーム諸国では、ソ連時代の共和国共産党第一書記が、いわば横滑りのかたちで大統領に就任した。これらの国では、従来の政治的エリートの多くが政治的権力に引き続き参画し、従来のような統治スタイルを維持する道が開かれた。…

また、旧ソ連イスラーム諸国において、大統領や政府が発表する政策プログラムは、ソ連時代とは異なり、体系的なイデオロギーによるものではない。各国の指導者は、イデオロギー的には共産主義から徐々に離れ、従来、共産主義が果たしていた統合機能を補うために、新たにナショナリズムに基づいた統合を図ろうとした。ソ連末期に共産党中央による地方党組織への統制がゆるむ中で、各国政府は名称民族の言語を国家語とし、スターリン時代に追害された知識人の名誉回復を掲げて自己の地位補強を図った。その際、独立国家の正統性を確保するため、たとえばウズベキスタンはティムール帝国を自民族の歴史の中に位置づけ、クルグズスタンは英雄叙事詩「マナス」を民族統一のシンボルとした。さらに、それぞれの民族的シンボルをデザインした国旗を採用したり、主権宣言や独立宣言の日を祝日に定めたりすることで、各国の政治エリートは支配の正統性を維持・強化しようとした。

以上のような特徴に対し、旧ソ連イスラーム諸国の政治体制には、権威主義体制の理念型から逸脱する側面も存在する。各国において、確かに官僚機構は一定の強さを保っているが、政治を動かすのはむしろ大統領の親族や同郷人・友人などによって構成される非公式のネットワークである。ソ連時代から、これらの国々においては、政治エリートが個別の利益を実現するために、地縁・血縁・人脈を基盤とした非公式のネットワークに基づくパトロン=クライアント関係を築き上げ、公の人事も、しばしばこうしたネットワークによって動かされてきた。…

第3章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の諸相
(1)独立時、国内の反対派が弱体だった諸国
旧ソ連イスラーム諸国のうち、独立した時点で国内の反対派が、体制に対して比較的穏健な姿勢を示していた国、あるいは弱体であったカザフスタンとクルグズスタンにおいては、当初、言論や出版の自由がある程度容認されるなど、反対派の活動に一定の自由が認められた9。しかし、これらの国々でも、経済政策においてロシアの改革に近い急進的ショック療法を基本的に採用し、90年代前半で国内総生産が半減するなど急激に経済活動水準が低下する現象が起こり、社会の不満を反映して大統領や政府に対して反対する動きが次第に強まってきたことに対応して、90年代後半以降、急速に権威主義化が進行した。…

●クルグズスタン
クルグズスタンでは、90年6月の「オシュ事件」への対処で当時のマサリエフ共和国党第一書記が失脚し、同年10月に学者出身のアスカル・アカエフが大統領に選出された。アカエフは反対派にも寛容で、当時のクルグズスタンでは「民主主義の島」にもたとえられるほど自由な政党活動が行われた13。カザフスタンと同様、クルグズスタンにおいても反対派への寛容が一定期間保たれた背景には、政府に対して深刻な脅威をもたらしかねない強力な野党や野党リーダーが不在だったことが挙げられる。


しかし、95年12月の大統領選挙では対立候補に圧力が加えられ、アカエフが再選されると、96年2月の憲法改正によって大統領の権限が大幅に強化され、反体制的な新聞や反対派政党のリーダーがそれぞれ有罪判決を下されるなど、反対派への圧力が強まっていった。
その後、2000年2月の議会選挙では、1年前までに政党として登録していなければ選挙に参加できないという選挙法が導入され、合計3つの党が参加を阻まれた。続いて、同年10月の大統領選挙でも、議会選挙中に横領などの容疑で逮捕されていた有力候補のクロフ元副大統領が立候補できず、他の立候補者の一部をクルグズ語の試験でふり落とすなどした結果、アカエフは大差で再選された。

クルグズスタンでも、政府による抑圧や政治家自身の汚職などの影響で、複数政党制の発展は足止め状態にある。95年2月に行われた議会選挙では、12の政党から1000人以上の立候補者が出たが、2000年の議会選挙での立候補者数は大幅に減少した。しかし、依然としてクルグズスタンでは比較的強い野党勢力が存在している事実は、野党の反政府運動でアカエフ政権が崩壊した2005年3月の事件を見ても明らかである。(注2)

クルグズスタンの政治では、北部と南部の地域対立が重要な意味を持ってきた。ソ連時代から、北部の工業地域と南部の農業地域は、予算やポストの配分などをめぐって対立をくり返してきた。北部のチュイ州出身のアカエフが就任後に北部出身者を重用したことによって、南部地域の不満はさらに高まっていった。例えば、2002年3月には、南部のジャララバード州で、アカエフ辞任を求めるデモ隊と警察が衝突し5人の死者が出る事件が発生した。

アカエフヘの反対は、政党だけではなく、クルグズスタンのさまざまな民族グループからも起こった。独立後、高い技術力をもつロシア人住民の出国が相次いだためは、アカエフはスラブ大学を設立し、99年にはロシア語にクルグズ語と同じ地位を与えた。しかし、ロシア人に対するこのような譲歩は、クルグズ人側からの反発を招いた。他方、クルグズスタン南部では、ウズベク人とクルグズ人の間の対立が続いている。

第4章 権威主義体制とイスラーム
前章で具体的に示したように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての国は、各国ごとに移行時期に違いが見られるとはいえ、現在までに権威主義へと政治体制を転換させ、大統領への権力集中、官僚制や非公式のパトロン=クライアント・ネットワークの強化、新しいナショナリズムの高揚などを推し進めてきた。これに対し、各国の反対派は、政党組織や民主化運動、地域主義的な動き、ナショナリズム運動やイスラーム主義運動のかたちで対抗していった。本章では、旧ソ連イスラーム諸国における反対運動のもう一つの形態であるイスラーム主義運動の実態を明らかにし、各国がそれにどのように対応しているのかを検討してゆく。

(1)イスラーム主義運動の現状
…独立後の旧ソ連イスラーム諸国では、民族文化の見直しにおいてイスラームは最も重要な対象のひとつとされ、各国政権も基本的にそれらを黙認、公認、あるいは利用してきた。しかし、そのような公認のイスラームと並行して、「純粋なイスラーム」の時代への回帰を志向するイスラーム主義運動が、ウズベキスタンやタジキスタンを中心に政権への反対を強めていった。このようないわば「非公認のイスラーム」が急成長した背景には、独立後期待していた民主化・政治的自由化の停滞・後退、貧困の拡大、失業などのフラストレーションなどの要因が存在している。そうしたイスラーム主義の潮流は、90年代末に至って、アフガニスタンの混乱、タジキスタン内戦やチェチェン紛争などの直接、間接の影響を受けて過激化、暴力化し、旧ソ連イスラーム諸国の各政府に大きな脅威を与えるようになった。

現在、特に中央アジアにおいて活発に活動している代表的なイスラーム主義組織としては、ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)と解放党(ヒズブッタフリール)が挙げられる。IMUは、タヒル・ヨルダシュとジュマ・ナマンガニーの両名を指導者として、96年に結成された組織である。この運動は、フェルガナ盆地に統一イスラーム国家を樹立するという目標を掲げて、ウズベキスタンのカリモフ政権に対してジハード(聖戦)を宣言した。ヨルダシュは、99年2月にタシュケントでカリモフを狙ったと思われるテロの首謀者とされ、ナマンガニーは同年ルグズスタン南部で起こった日本人4人を含む人質事件に関与した。アフガニスタン空爆のなか2001年11月にナマンガニーが戦死したことが伝えられ、その後のターリバーン政権崩壊によってIMUの動向は不明となっている。

おわりに
以上の分析で、旧ソ連イスラーム諸国は独立後にすべて権威主義体制へと移行していったこと、そして各国の移行の時期や過程にはそれぞれ相違が確認できることが明らかになった。このような相違が生じた背景として、先に述べたように各国における反対派の強さと政権交代の有無が考えられる。…

次に、各国における反対派の構成については、この地域の権威主義体制がもつ3つの特徴、すなわち大統領への権力集中、パトロン=クライアント・ネットワークの強化、ナショナリズムの高揚のそれぞれに対して、対抗する動きが見られた。このうち、大統領への権力集中に対抗する政党活動や民主化運動が伸び悩んでいること、後二者にそれぞれ対抗する地域主義やエスニック・マイノリティのナショナリズム運動が各国を分裂に導きかねない可能性を持っていることが明らかになった。

また、ナショナリズムの高揚に関連して、独立後の旧ソ連イスラーム諸国ではイスラーム主義運動が活発になっている。これに対して、各国政府は、それぞれ公認のイスラームと非公認のイスラームの間に線を引き、前者をナショナリズムの一部として組み込んで、国内統合をはかる手段としてきた。また、後者に対しては、いまだ政権に対抗するだけの力を有していないにもかかわらず、徹底的に弾圧し、その活動を制限する政策をとった。
これは、各国の政権がイスラーム主義の潜在的な可能性に対して、しばしば過剰な脅威を感じていることを示している。

このように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての政権が、ひとしく権威主義的な傾向を示しているのは事実である。最近、アゼルバイジャンとクルグズスタンで政権交代が行われたが、選挙を通じての移行か反政府運動の高揚によるものかという相違こそあれ、依然として権威主義体制を志向する傾向については変化が生じていない。しかしながら、各国の政治的安定を脅かす地域主義やナショナリズム、イスラーム主義などの動きも依然根強く残っているのも確かである。例えば、クルグズスタンの政変やウズベキスタンの反政府暴動などには、国内の地域間対立が色濃く反映していると考えられる。そのような不安定要素が今後、各国の権威主義体制にどのような影響を与えるかについては、今回言及できなかった国際的な要因も含めて、今後の研究課題としてゆきたいと考える。

(注1) クルグズスタン中央アジア南東部の国。正称はクルグズ共和国だが、〈共和国〉を省く場合はクルグズスタンと呼ぶ。日本ではキルギスないしはキルギスタンともいう。

(注2) アカエフ政権崩壊後
:2005年2月末の議会選挙をきっかけとして、野党勢力により南部で開始された混乱が首都に及ぶと、3月にアカエフ政権は崩壊(チューリップ革命)、野党勢力指導者のバキエフ元首相が首相兼大統領代行に選出され、7月の大統領選挙で当選し、8月に就任を果たした。
バキエフ政権の下、政治・経済改革は遅々として進まず、政情は不安定。特に2006年11月、憲法改正(特に大統領権限の縮小)を巡る大統領と議会野党勢力との対立が激化し、野党側による反政府集会が大統領支持派と衝突する危機が生じたが、双方間で妥協が成立し、大統領権限を縮小する(首相の実質的選任権を議会が得る等)新憲法の採択により一応の収束を見せた。しかし、その後、大統領側と議会側のかけ引きを経て、大統領権限を再度拡大する憲法修正案が採択され、1月15日に大統領が署名。

# by satotak | 2007-03-20 13:10 | キルギス